紫陽花亭日乗
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Re: 佛説阿彌陀經
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/15 14:25 投稿番号: [315 / 735]
又舍利弗、極楽國土、有七寶池。八功紱水、充滿其中。池底純以金沙布地。
四邊階道、金銀瑠璃玻瓈合成。上有樓閣。
亦以金銀瑠璃玻瓈硨磲赤珠碼碯、
而嚴飾之。池中蓮華大如車輪。逭色逭光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光、
微妙香潔。舎利弗、極樂國土、成就如是
功紱莊嚴。
又舍利弗よ、極楽國土に七寶(しっぽう)の池有り。
八功紱の水、其の中に充滿す。
池の底には純(もっぱ)ら金沙(こんしゃ)を以て地に布(し)けり。
四邊の階道は、金(こん)銀(ごん)瑠璃(るり)玻瓈(はり)して
合成(ごうじょう)す。
上に樓閣有り。亦た金・銀・瑠璃・玻瓈・硨磲(しゃこ)
赤珠(しゃくしゅ)碼碯(めのう)を以て、これを嚴飾(ごんじき)す。
池中の蓮華、大なること車輪の如し。
逭色には逭光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、
微妙(みみょう)香潔なり。
舎利弗よ、極樂國土には、是(かく)の如きの功紱(くどく)の
莊嚴(しょうごん)を成就(じょうじゅ)せり。
また舍利弗よ。
極楽には七つのピカピカした宝物でできた池がある。
その中にさまざまな功紱をもった水、すなわち清らかで美しい、
そのままがぶがぶ飲むことができる、体を清潔にできる、
そのような澄みきった綺麗な水をまんまんと湛えた池がある。
しかもその池の底にはもっぱら砂金が張ってある。
池に下りてくる、池のまわりの東西南北の四方の階段は、
金・銀・瑠璃・玻瓈(はり)といった美しい宝石、金属で造られている。
しかもその階段のさらに上には楼閣(たかどの)がある。
その楼閣もまた金・銀・瑠璃・玻瓈・硨磲(しゃこ)・
赤真珠・碼碯(めのう)できれいに飾られている。
池の中には蓮華の花が咲いている。
その蓮華の花は車輪ほどの大きさがある。
逭い色をした蓮の花には逭い光、黄色い蓮の花には黄色い光、
赤い色の蓮の花には赤い光、白い色をした蓮の花には白光が、
それぞれ射していて非常に感じよく、清潔感漂う香り高い花が咲いている。
舎利弗よ。
極樂國土は、このような立派な功紱のある美しさを成し遂げているのだ。
★清らかな水をたたえ求める心は、日本人の比ではないでしょう。
つづく
2121
★宇治平等院、金閣、銀閣などは、極楽の建築物を模したものです。
これは メッセージ 314 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 佛説阿彌陀經
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/15 14:16 投稿番号: [314 / 735]
爾時、佛告長老舎利弗、從是西方、過十萬億佛土、有世界、名曰極樂。
其土有佛、號阿彌陀。今現在説法。舎利弗、彼土何故名爲極樂。
其國衆生、無有衆苦、但受諸樂。故名極樂。
爾時(そのとき)、佛(ぶつ)、長老舎利弗に告げたもう、是れ從り西方、
十萬億の佛土を過ぎて、世界有り、名づけて極樂と曰う。
其の土(ど)に佛有りて阿彌陀と號す。今、現に説法するに在り。
舎利弗よ、彼の土を何が故に名づけて極樂と爲すや。
其の國の衆生、衆々(もろもろ)の苦しみ有ることなく、
但(ただ)諸々(もろもろ)の樂しみを受く。故に極樂と名づく。
そのとき、お釈迦さまは長老舎利弗に向かってこのように告げられた。
「ここから西の彼方に次々と続いて十萬億の佛土がある。
そこを過ぎると、また世界が有る。
名づけて極樂(きわめて楽しい所)という。
その土地にはひとりの佛がおられてその名を阿彌陀と申され、
今、現に説法をしておられる。
舎利弗よ、かの西方浄土をどういうわけで極楽と名づけたのか、
その國に生きている一般の人々は、ありとあらゆる苦しみが何もなく、
ただただ楽しみだけを受けて生きている。
だから楽しみをきわめた世界だというのだ。
★説法は、しばしば特定の個人に語りかけられる方法をとります。
又舎利弗、極樂國土、七重欄循、七重羅網、七重行樹、
皆是四寶周帀囲繞。是故、彼國名曰極樂。
又、舎利弗よ、極樂國土には、七重の欄循(らんじゅん)、
七重の羅網(らもう)、七重の行樹(ごうじゅ)ありて、皆是れ四寶をもって
周帀(しゅうそう)囲繞(いにょう)せり。
是(こ)の故に、彼の國を名づけて極樂と曰う。
また、舎利弗よ。
極樂國土には、七重の欄循(らんじゅん)、七重の羅網(らもう)、並木が
七重に植えてあって、それらの建築物はすべて、金・銀・青鋼玉、
玻璃等の四寶でまわりを取り囲まれている。
だから、かの國を名づけて極樂というのである。
つづく
2120
これは メッセージ 313 (ajisai110701 さん)への返信です.
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佛説阿彌陀經
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/15 14:12 投稿番号: [313 / 735]
★佛説阿彌陀經は、極楽とはどういうところかを紹介して、
極楽に往生するための称名念仏を勧めているお経です。
佛説阿彌陀經
姚秦三藏法師鳩摩羅什奉詔譯
如是我聞。一時佛在舎衛國祇樹給孤獨園、與大比丘衆千二百五十人倶。
皆是大阿羅漢、衆所知識。長老舎利弗、摩訶目<牛建>連、摩訶迦葉、
摩訶迦旃延、摩訶倶<糸希>羅、離婆多、
周利槃陀伽、難陀、阿難陀、
羅<目候>羅、<忄喬>梵波提、賓頭盧頗羅堕、迦留陀夷、摩訶劫賓那、
薄拘羅、阿<少免>楼駄、如是等諸大弟子、并諸菩薩摩訶薩、
文殊師利法王子、阿逸多菩薩、乾陀訶提菩薩、常精進菩薩、
與如是等諸大菩薩、及釈提桓因等無量諸天大衆倶。
是(かく)の如く我聞く。
一時、佛、舎衛國祇樹給孤獨園に在て、大比丘衆千二百五十人と倶なり。
皆是れ大阿羅漢にして衆に知識せらる。長老、舎利弗、摩訶目<牛建>連、
摩訶迦葉、摩訶迦旃延、摩訶倶<糸希>羅、離婆多、周利槃陀伽、難陀、
阿難陀、羅<目候>羅、<忄喬>梵波提、賓頭盧頗羅堕、迦留陀夷、
摩訶劫賓那、薄拘羅、阿<少免>楼駄、是(かく)の如き等の諸々(もろもろ)の
大弟子、并に諸菩薩摩訶薩、文殊師利法王子、阿逸多菩薩、乾陀訶提菩薩、
常精進菩薩、是の如き等諸大菩薩と、及び釈提桓因(しゃくだいかんいん)等
無量の諸天・大衆(だいじゅ)と倶なりき。
このように私は聞きました。
あるときお釈迦様が舎衛國の祇樹給孤獨園(祇園精舎)という所においでに
なられたたとき、優れた出家修行者たち一千二百五十人とご一緒でした。
その修行者たちはすべて大阿羅漢であり、人々に知られた人物ばかりでした。
その人たちは、お釈迦様の弟子たちの中でも知恵第一といわれた長老の
舎利弗、摩訶目<牛建>連(まかもくけんれん)、摩訶迦葉(かしょう)、
摩訶迦旃延(かせんねん)、外道だった摩訶倶<糸希>羅(くちら)、
離婆多(りはた)、周利槃陀伽(しゅりはんだか)、難陀、阿難陀、
羅<目候>羅(らごら)、<忄喬>梵波提(きょうぼんはだい)、
賓頭盧頗羅堕(びんずるはらだ)尊者、迦留陀夷(かるだい)、
摩訶劫賓那(まかこうひんな)、薄拘羅(はつくら)、阿<少免>楼駄(あぬるだ)、
このような諸々(もろもろ)の大弟子、ならびに諸々の菩薩、
摩訶薩(まかさつ)、文殊師利法王子、阿逸多(あいった)菩薩、
乾陀訶提(けんだかだい)菩薩、常精進(じょうしょうじん)のような
諸大菩薩と、及び釈提桓因等の数え切れないほどの諸天と
多くの大衆とともにお集まりになられました。
★語句や人名の説明は省略します。
やりだすときりがないので。もし疑問がありましたら、
レスをいただければ、わかる範囲でお答えします。
★UP されない漢字もそのままにしておきます。
不明な字は検索しておたしかめください。
つづく
2119
これは メッセージ 121 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 【孫文の志 未だ成らず】辛亥革命100
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/15 00:47 投稿番号: [312 / 735]
金門島の北東部に、伝統的な様式の18棟の住居を保存した
「金門民俗文化村」がある。
金門島から神戸に渡って貿易商として成功した華僑、王敬祥氏
(1872〜1923年)が故郷に錦を飾るために建てた住居だ。
この王敬祥という人物について金門県の李沃士(よくし)県長(51)は
「辛亥革命100年の今年、改めて深く感動し光栄に思っている」と
目を輝かせた。孫文の革命に大きく貢献した「地元の名士」だからだという。
李県長の説明によれば、王氏は神戸を拠点にした貿易で財を成し、
辛亥革命以前から孫文を資金面で支援してきた。
孫文が神戸を訪れる際は必ず彼の家に宿泊したという。
中華民国成立後、総統の座を譲った袁世凱に追われて
日本に亡命したときにも、孫文は彼を頼った。
金門島の海岸からは海を隔てて中国福建省アモイ市や泉州市の建物まで
肉眼で見える。李県長によれば「親類や知人も多い一つの生活圏」だが、
この地は華僑の故郷でもある。数百年も前から大海に乗り出していった漢
民族にとって、良好な港湾があり、船舶が多数寄港したこの地が出発点の
一つになった。この地域の方言である★南(びんなん)語がいまも、インド
ネシアなど東南アジアの華僑や台湾本島でも話されていることがその証拠だ。
華僑のネットワークが資金のみならず、武器調達や情報収集、
日米欧などとの交渉でも孫文らを支えたことはよく知られる。
「華僑の故郷」を自任する金門人にとっても辛亥革命と孫文は、満州人が
支配した清朝を倒した漢民族としての誇りの象徴なのだろう。
□
□
その金門島が台湾の「辺境」から、両岸(中台)を結ぶ交通の要衝と
して変わり始めたのは2001年1月のことだ。
中台当局間の合意に基づき、金門島とアモイ間を結ぶフェリーが解禁された。
それまで中台間を行き来するには香港かマカオ、あるいは日本など
第三国を経由する必要があったが、経済交流の拡大で台湾側は大陸との
直接の人的往来を認めざるを得ない情勢に追い込まれていた。
金門県によれば、このフェリーを使った出入境者数は01年の
2万1377人から、昨年は137万9604人まで激増。
台湾のビジネスマンが金門島経由で中国に渡るケースが急増している。
7月29日には、中国福建省の住民に対し、金門島への個人旅行が解禁され、
「今後は大陸から数十万人の観光客が金門に来る」(李県長)とソロバンをはじいている。
それだけではない。金門県ではいま、中台が対峙(たいじ)した時代の
軍事施設跡を世界遺産として国連教育科学文化機関(ユネスコ)に
申請する計画を練っている。
李県長は「かつて敵対したアモイ市や泉州市とともに中台共同で登録を
めざすよう働きかけており、実現すれば意義が大きい」と明かした。
台湾がユネスコに加盟していないという事情もあるが、中台がそこまで
「統一行動」をとりうる時代に入ったことをも意味する。
中国人民解放軍が金門島への砲撃を始めた1958年8月23日にちなみ、
金門県では今月23日に、「中華民国建国100年記念」として「平和の鐘」
を設置するイベントを開く。「軍事対立の最前線から中台和平の最前線になる」
と李県長は意気込んだ。「同じ祖先をもつ住民同士。中国との統一を恐れない」
と話す金門人も増えているという。
100年にわたり「中華民国」であり続けた小さな島が、辛亥革命100年
を経て、中台の将来を変える次なる“革命”を生みだす舞台になるかもしれない。
(金門島
河崎真澄)
.
これは メッセージ 311 (ajisai110701 さん)への返信です.
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【孫文の志 未だ成らず】辛亥革命100年
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/15 00:47 投稿番号: [311 / 735]
【孫文の志
未だ成らず
辛亥革命100年】
(1)中国で売られる「三民主義」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110718/chn11071817080001-n1.htm(2)戦場特派員「姿三四郎」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110725/chn11072508000001-n1.htm(3)辛亥革命100年
台湾の国父像
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835412&tid=bbgmdb2vdbffcbeh&sid=1835412&mid=267【孫文の志
未だ成らず
辛亥革命100年】
(4)中台最前線・金門島
2011.8.14 15:35 (1/3ページ)
産経ニュース
辛亥革命に資金提供した王敬祥氏(後列右から3人目)ら支援者が神戸で
孫文(前列中央)と撮った写真(撮影日不詳、金門民俗文化村提供)
正真正銘の「中華民国」
「いわばこの島こそが正真正銘の中華民国だよ」
中国福建省アモイ市からフェリーで30分。
台湾支配下の金門島で出会った黄振良氏(62)はこう言った。
中国大陸と台湾が最短距離で2キロほどに近接し、東西冷戦時代には
1958年から79年にかけて一時、砲撃戦が繰り広げられるなど
軍事的緊張が20年以上も続いた地だ。この島が台湾の支配下にあった
からこそ、台湾海峡の制海権と制空権が中国の手に落ちずにすんだ。
だが、東西ドイツを隔てたベルリンの壁や、朝鮮半島の板門店と並んで
分断の象徴とされたその島が、なぜ「正真正銘の中華民国」なのか。
11年の辛亥革命成功で12年1月1日に孫文を臨時大総統とする
中華民国が中国大陸に成立し、金門島も版図に含まれた。
しかし、現在、「中華民国」と称する台湾はこのとき、日清戦争
(1894〜95年)の結果、日本に割譲されていた。
つまり台湾は、1945年の日本敗戦後、蒋介石率いる国民政府が
大陸から逃れて来るまでは、中華民国とは縁がなかったのだ。
一方で、中国大陸では中国国民党との内戦に勝利した、毛沢東率いる
中国共産党が49年10月に中華人民共和国を成立させ、大陸から
中華民国は消え去ることに。しかし金門島は、軍事上の要衝として
国民政府側が米国などの支援を得て冷戦時代を通じて死守し、
「中華民国」領の地位を保った。
「辛亥革命からこの100年間、一度も国の名前が変わっていない土地、
という意味ですよ」と金門生まれ金門育ちの黄氏は笑顔をみせた。
確かに中国大陸側も台湾も為政者が変わったが、
黄氏ら金門人は祖父母の代からずっと一つの国名だ。
金門島と同じように台湾支配下の軍事要塞として戦後も「中華民国」領
であり続けた離島に、金門県の管轄下にある烏●嶼(うきゅうしょ)と、
福建省福州市に近い馬祖列島がある。それでも、いわば100年続いた
「中華民国」領の面積は合わせても183平方キロ。
伊豆大島(91平方キロ)2つ分で、実際に暮らす人口は5万人ほどだ。
□
□
つづく
これは メッセージ 267 (ajisai110701 さん)への返信です.
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讀秦紀 陳恭尹
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/15 00:28 投稿番号: [310 / 735]
讀秦紀
陳恭尹(清・1631〜1700)
謗声易弭怨難除
謗声
弭(や)ましむるは易く
怨み除くは難し
秦法雖厳亦甚疎
秦法
厳なりと雖も亦甚だ疎なり
夜半橋辺呼孺子
夜半の橋辺
孺子を呼ぶ
人間猶有未焼書
人間(じんかん)
猶お未だ焼かざる書有り
批判の声を圧殺することはできても恨みをなくすことはできぬ
秦の暴政もそこまでは力及ばない
夜中、橋のほとりで、老人は張良に「孺子」と呼びかけて
『太公望兵法』を授けた
いかに厳しくとりしまろうとも、世の中に焼かれぬ書物は残っているのだ
★「秦始皇本紀」を読んだ感想の形を借りて、
清朝の支配に屈せぬ心意気をうたった詩
★張良
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%89%AF下邳時代の逸話 [編集]
ある日、張良が橋の袂を通りかかると、汚い服を着た老人が自分の靴を
橋の下に放り投げ、張良に向かって「小僧、取って来い」と言いつけた。
張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して
靴を取って来た。すると老人は足を突き出して「履かせろ」と言う。張良は
「この爺さんに最後まで付き合おう」と考え、跪いて老人に靴を履かせた。
老人は笑って去って行ったが、その後で戻ってきて
「お前に教えることがある。5日後の朝にここに来い」と言った。
5日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。
老人は「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ」と言い
「また5日後に来い」と言い残して去った。
5日後、張良は日の出の前に家を出たが、既に老人は来ていた。
老人は再び「5日後に来い」と言い残して去って行った。
次の5日後、張良は夜中から約束の場所で待った。
しばらくして老人がやって来た。
老人は満足気に「おう、わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。
その謙虚さこそが大切なのだ」と言い、張良に太公望の兵法書を渡して
「これを読めば王者の師となれる。
13年後にお前は山の麓で黄色い石を見るだろう。それがわしである」
と言い残して消え去ったという。
後年、張良はこの予言通り黄石に出会い、これを持ち帰って家宝とし、
張良の死後には一緒に墓に入れられたという。
この「黄石公」との話は伝説であろうが、張良が誰か師匠に就いて兵法を
学んだということは考えられる。
また、太公望の兵法書というものを『六韜』だと考える向きもあるが、
現存する『六韜』の成立年代は魏晋代と考えられているので、少なくとも
張良が読んだ書物は、現存する『六韜』ではないと見られる。
.
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結客少年場行 李白
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/14 01:34 投稿番号: [309 / 735]
結客少年場行
李白(盛唐・701〜762)
客(かく)を少年場(しょうねんじょう)に結ぶ行(うた)
紫燕黄金瞳
紫燕
黄金の瞳(とう)
啾啾揺緑●
啾啾(しゅうしゅう)として緑●(りょくそう)を揺(うご)かす
平明相馳逐
平明
相馳逐(ちちく)し
結客洛門東
結客(けつかく)す洛門の東
●「たてがみ」という字です。
若者が乗ったる紫燕の駒は黄金の瞳で
ちりんちりんと鈴を鳴らし、緑の鬣を揺(うご)かしつつ
朝早くから馳せて往ったり来たり
洛門の東で侠客と仲間を組んで遊び廻る
少年學劔術
少年は劔術を學び
凌轢白猿公
凌轢(りょうれき)す白猿公
珠袍曳錦帶
珠袍(しゅほう)錦帶を曳き
匕首挿呉鴻
匕首(ひしゅ)呉鴻を挿しはさむ
若者は劔術を學び
白猿公を凌ぐ腕前
珠を飾った上着に錦の帯を長く垂れ
呉鴻の匕首(あいくち)を挿(はさ)んでいる
由来萬夫勇
由来萬夫の勇
挟此英雄風
此の英雄の風(ふう)を挟(さしはさ)む
託交從劇孟
交(まじわり)を託して劇孟(げきもう)に從い
買醉入新豐
醉(よい)を買うて新豐に入る
笑盡一杯酒
笑って盡くす一杯の酒
殺人都市中
人を殺す都市の中(うち)
もともと萬夫に當る勇気が有るところに
此の英雄の風采で押出して
劇孟の如き名高い侠客に交りを求め
新豐に入って美酒を買い
笑いつつ一杯ひっかけて
市中(まちなか)で相手を殺す
羞道易水寒
道(い)うを羞づ
易水寒きを
從令日貫虹
日をして虹に貫かしむるに從(まか)す
燕丹事不立
燕丹の事
立たず
虚没秦帝宮
虚しく秦帝の宮に没す
武陽死灰人
武陽は死灰の人
安可與成功
安(いず)くんぞ與(とも)に功を成す可けんや
「易水寒し」の歌を口にするを羞じる
日をして勝手に虹に貫かれしめよ
燕太子丹の計画は成立しないで
刺客荊軻は虚しく秦の始皇帝の宮殿で没した
同行者の秦武陽は顔色を死灰の如く變えた臆病者
どうして一緒に功を成せるものか
★この青年は、秦王暗殺に失敗した荊軻を羞ずべきものとし、
臆病者の秦舞陽みたいなやつとはつきあえない、と軽蔑しています。
★詩中、意味不明な言葉があると思いますが省略。
ご質問があればできるかぎりの範囲内でお答えいたします。
★青木正兒『李白』集英社, 漢詩大系 8
============================
=
以上をもちまして「荊軻伝」を終了いたします。
拙文をロムしてくださった方に感謝いたします。有難うございました。
790
これは メッセージ 308 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 結の段 5
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/14 01:31 投稿番号: [308 / 735]
これは メッセージ 307 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 結の段
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/14 01:15 投稿番号: [307 / 735]
これは メッセージ 306 (ajisai110701 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835412/bbgmdb2vdbffcbeh_1/307.html
刺客列傳 第五話 「荊軻」 結の段 4
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/14 00:58 投稿番号: [306 / 735]
魯句踐已聞荊軻之刺秦王、私曰。
嗟乎、惜哉。其不講於刺劔之術也。
甚矣。吾不知人也。曩者吾叱之。彼乃以我爲非人也。
魯句踐すでに荊軻の秦王を刺すを聞き、私(ひそか)に曰く、
「嗟乎(ああ)、惜しいかな。刺劔の術を講ぜざりしや。
甚しいかな。吾れ人を知らざるなり。曩者(むかし)吾れこれを叱す。
彼すなわち我を以て人に非ずと爲さん」と。
魯句踐は、荊軻が秦王を刺殺しようとしたことを聞いて、ひそかに言った。
「やれやれ、惜しいことをしたなあ。
あいつは刺剣の術(人を刺殺するための剣術)を学んだことが
なかったのだろうか。
ひどいもんだ、俺には人を見る目がなかったのだ。
むかし、俺は荊軻をどやしつけたことがあったなあ。
あいつはおそらく、俺のことを人非人だと思ったことだろうな」と。
つづく
780
これは メッセージ 305 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 結の段 3
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/14 00:50 投稿番号: [305 / 735]
聞於秦始皇。秦始皇召見。人有識者、乃曰。高漸離也。秦皇帝惜其善撃筑。
重赦之。乃<目霍>其目、使撃筑。未嘗不稱善。稍﨟近之。高漸離乃以鉛置筑中。
復進得近、舉筑朴秦皇帝。不中。於是遂誅高漸離、終身不復近諸侯之人。
秦始皇に聞こゆ。秦始皇召して見る。人、識る者有り。
すなわち曰く、「高漸離なり」
秦皇帝その善く筑を撃つを惜しむ。これを赦(ゆる)すこと重(かた)し。
すなわちその目を<目霍>(つぶ)し、筑を撃たしむ。
未だ嘗て善しと稱えざるなし。
稍(やや)﨟(ますます)これに近づく。高漸離すなわち鉛を以て筑中に置く。
また進みて近づくを得て、筑を舉げて秦皇帝を朴す。中(あた)らず。
ここにおいて遂に高漸離を誅し、終に身また諸侯の人を近づけず。
高漸離の噂が秦の始皇帝の耳に入った。
始皇帝は高漸離を召して引見した。
高漸離を知っている者がいて、「これは高漸離です」と言った。
秦皇帝は高漸離の筑の上手を愛惜した。
そこで高漸離を赦(ゆる)し厚遇した。
ただ、その目をつぶしておいて筑を撃たせた。
高漸離が筑を撃てば、始皇帝が「うまい」と褒めないことはなかった。
そのうちだんだんに始皇帝の身辺に近づくことができた。
すると高漸離は筑の中に鉛をしかけておいた。
次に御前に進んで詩皇帝に近づくことができたとき、
筑をふりあげて秦皇帝に殴りかかったが、あたらなかった。
ことここに及んで遂に始皇帝は高漸離を誅殺し、以後は自分の身辺に
諸侯の人(もとの、秦以外の国から来た人)を近づけなかった。
つづく
774
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Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 結の段
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/14 00:45 投稿番号: [304 / 735]
★「彼庸乃知音」の「知音」
①音楽を知る
②(①から転じて)自分の心をよく理解してくれる真の友人
己の価値を知る、認知のひとつのバリエーション。
主人、一坐の客、宋子の人々・・・高漸離を認知
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★知音の友・・・、『列子 湯問篇十二話
伯牙(はくが)は琴の琴の名人、
鍾子期(しょうしき)はよい聞き手だった。
伯牙が高い山にのぼる気持を琴にのせれば、
鍾子期は「ああすばらしい。そびえたつ泰山(たいざん)のようだ」という。
流れる水を琴に託すと、
「ああすばらしい。洋々たる大河のようだ」という。
伯牙の思っていることを、鍾子期はかならずいいあてた。
ある日、二人は泰山の北に旅行した。
突然、暴風雨にあって岩かげに腰をおろした。
伯牙は悲しい気持を琴によせた。
はじめ「霖雨の曲」、つづいて「崩山の曲」をひいた。
一曲ごとに鐘子期はぴたりその気持をいいあてた。
伯牙は琴から手をはなし感嘆していった。
「ああ、よくきいてくれた。
あなたの胸にうかぶことは、わたしの心とすっかり同じだ。
琴をひいたら、わたしの気持はかくせない」
★弦を断つ
『呂氏春秋』には鐘子期が死んでから、伯牙はもうきいてくれる人が
いないと、弦を断ったとある。
★奥平卓+大村益夫訳『老子・列子』徳間書店
この話から「知音(ちいん)」の語が出た。
自分の音楽を知ってくれる人=親友、の意に用いる。
「知己(ちき)(己(おのれ)を知ってくれる人)」に近い語である。
.
これは メッセージ 303 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 結の段 2
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/14 00:24 投稿番号: [303 / 735]
其明年、秦并天下、立號爲皇帝。於是秦逐太子丹荊軻之客。皆亡。
高漸離變名姓、爲人庸保、匿作於宋子。久之作苦。
聞其家堂上客撃筑、傍●不能去。
毎出言曰。彼有善有不善。從者以告其主曰。彼庸乃知音、竊言是非。
家丈人召使前撃筑。一坐稱善賜酒。而高漸離念久隠、畏約無窮時。
乃退出其装匣中筑、與其善衣、更容貌而前。
舉坐客皆驚、下與抗禮、以爲上客、使撃筑而歌。客無不流涕而去者。
宋子傳客之。
●「ニンベン」+「皇」
コウ
その明年、秦、天下を并せ、立ちて號して皇帝となす。
ここにおいて秦、太子丹・荊軻の客を逐(お)う。皆亡(に)ぐる。
高漸離、名姓を變え、人の庸保となり、匿(ひそ)みて宋子(河北)に作す。
これを久しうして作苦たり。その家の堂上に客の筑を撃つを聞き、
傍●(ぼうこう)して去るあたわず。毎(つね)に言を出だして曰く、
「彼、善有るも不善有り」
從者、以て其の主に告げて曰く、
「彼の庸、すなわち音を知る、竊(ひそ)かに是非を言う」
家の丈人、召して前(すす)みて筑を撃たせしむ。
一坐、善しと稱え酒を賜う。
而して高漸離、久しく隠れ、約を畏れ窮なる時の無からんを念(おも)う。
すなわち退出しその匣中(こうちゅう)の筑とその善衣とを装い、
容貌を更(あらた)めて前(すす)む。
坐を舉げて客皆驚き、下りて與に禮を抗し、以て上客となし、
筑を撃ちて歌わしむ。
客、流涕せざりて去る者なし。宋子傳えこれを客とす。
その翌年、秦は天下を併合し、秦王は天下の王となり皇帝と号した。
そしてまだ秦は、太子丹と荊軻の客を追っていた。客は皆逃げ去った。
高漸離は名も姓も変え、人の雇い人となり、こっそりと宋子(河北)で
働いた。しばらく働いていたが労働が苦痛になりだした。
そのころ、その家の奥座敷で客が筑を撃っているのを聞き、
行きつ戻りつしてその場から立ち去ることができなかった。そしてずっと
「あの人は、上手なところもあるが下手なところがある」などと批評した。
その家の召使いが、そのことを主人に告げて言った。
「あの雇い人は、どうやら音楽がわかるようです。
こっそりと筑の批評をしています」
それでその家の主人が高漸離を前に呼んで筑を撃たせた。
その場に居合わせた客たちはみな「うまい ! 」
と褒めて高漸離に酒をふるまった。
それで高漸離は、これまで姿を隠し取締りを畏(おそ)れていたが、
このままではいつまで経っても貧窮から抜け出せないということを思った。
そこでその場を退出し、その行李の中にしまってあった筑と、筑を撃つとき
の衣裳を出し身につけて、容貌(かたち)をあらためて再び一座に出て行った。
一坐の客たちは舉げて皆驚嘆し、自分の席から下ってお互いに同等の礼を
かわし、高漸離を上客として筑を撃たせて歌わせた。
客は皆涙を流してその場から立ち去る者はいなかった。
宋子のまちの人々は次々とその評判を伝え高漸離を客として招いた。
つづく
771,772
これは メッセージ 302 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 結の段 1
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/14 00:17 投稿番号: [302 / 735]
於是秦王大怒、﨟發兵詣趙、詔王翦軍以伐燕。十月而抜薊城。
燕王喜太子丹等、盡率其精兵、東保於遼東。秦將李信追撃燕王急。
代王嘉乃遣燕王喜書曰。秦所以尤追燕急者、以太子丹故也。
今王誠殺丹獻之秦王、秦王必解、而社稷幸得血食。其後李信追丹。
丹匿衍水中。燕王乃使使斬太子丹欲獻之秦。秦復進兵攻之。
後五年秦卒滅燕、虜燕王喜。
是に於て秦王大いに怒り、﨟々兵を發して趙に詣(いた)り、
王翦の軍に詔して以て燕を伐たしむ。
十月にして薊城を抜く。燕王喜・太子丹等、盡く其の精兵を率いて、
東のかた遼東を保つ(orまもる)。秦將・李信追撃し燕王急なり。
代王嘉乃ち燕王喜に書を遣りて曰く、
「秦の燕を尤(とが)め追うに急なることの所以(ゆえん)は、
以て太子丹の故(ゆえ)なり。今王誠(も)し丹を殺しこれを秦王に獻ずれば、
秦王必ず解(ゆる)し、而して社稷幸いに血食を得。
其の後李信、丹を追う。丹、衍水の中(うち)に匿る。
燕王乃ち使いをして太子丹を斬らしめ、これを秦に獻ぜんと欲す。
秦復た兵を進めこれを攻む。
後五年、秦卒(つい)に燕を滅し、燕王喜を虜にす。
この荊軻の事件で、秦王は大変に怒り、続々と軍隊を送り出し趙まで
行かせ、王翦の軍に詔(みことのり)して燕を攻撃させた。
王翦の軍は十ケ月で燕の都・薊城(河北省)を木っ端微塵に撃ち破った。
燕王喜や太子丹等は燕の精兵を率い全軍をあげて、
東方面の遼東にたてこもった。
秦將の李信が燕軍を追撃し、燕王は危急存亡のときに直面した。
そのとき代王嘉が燕王喜に手紙をおくってこう云った。
「秦が燕を咎め急追するその理由は、太子丹にある。
今、王がもし丹を殺し、丹の首を秦王に献上すれば、秦王は必ず追っ手の
軍を解き、燕の社稷(国家)は幸いにも血食を得ることができるでしょう」
と。
その後、秦將・李信は丹を追った。
そのころ丹は衍水(えんすい)の中洲にかくれていた。
代王嘉の手紙を見た燕王は使者を派遣して太子丹を斬らせ、
丹の首を秦に献上しようとしていた。
しかし秦はまた進軍し燕を攻撃した。
五年経って後、秦はついに燕を滅ぼし、燕王喜を捕虜にした。
★社稷(しゃしょく)
「社」は「土地神」、「稷」は「穀物神」。
国家はこの二神を必ず祀ることから、転じて国家の意味となります。
★血食
先祖のみたまやに生贄を捧げ祀ることから、先祖の霊が血の滴る生贄を
食べること。転じて祖先が子孫の祀りを受けること。
すなわち、ここでは国家の存続をいっています。
つづく
769
これは メッセージ 297 (ajisai110701 さん)への返信です.
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鬼太郎や大阪萌え大使も台北漫画博覧会
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/13 02:13 投稿番号: [301 / 735]
日本から鬼太郎や大阪萌え大使も
台北で「漫画博覧会」
2011.8.12 13:50
産経ニュース
漫画博覧会場で人気を集めた鬼太郎と大阪萌え大使ら
=11日、台北市内(吉村剛史撮影)
【台北=吉村剛史】
漫画やアニメなどのポップカルチャーを発信する出版社などが一堂に
会するコミック博覧会「第12回漫画博覧会」が11日、台北市の
世界貿易センターで始まり、初日は9万人以上のファンらでにぎわった。
16日まで開催される。
今年は「動漫(アニメ)大冒険」をテーマに、台湾国際角川書店など8
社が共催。ブースごとに舞台イベントなどで盛り上がり、
日本の人気漫画やアニメ作品などに長い行列ができた。
会場には、大阪・日本橋のポップカルチャーをPRする3代目
“大阪萌え大使”のYUAさん、YUIさんをはじめ、漫画家、
水木しげる氏の代表作「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクターも登場し、
台湾のアニメファンらの記念撮影に応じていた。
日本の漫画やアニメファンが多い台湾では、日本を代表する漫画家の
故手塚治虫氏の人気も高く、台北市内では特別展「手塚治虫の世界」
も開催されている。
.
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靖国騒擾 台湾人高金素梅 書類送検
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/12 01:52 投稿番号: [300 / 735]
靖国でデモ・神職けが、台湾の立法委員書類送検
.
靖国神社(東京都千代田区)で元日本兵の台湾人が合祀(ごうし)されている
ことに対する抗議活動を行った際、制止した神職らにけがを負わせたなどと
して、警視庁公安部は11日、台湾の高金素梅(こうきんそばい)・立法委員
(国会議員に相当)(45)を威力業務妨害や礼拝所不敬、傷害などの容疑で
東京地検に書類送検した。
発表によると、高金委員は2009年8月11日、靖国神社で約50人と
抗議デモを行った際、境内に入るのを制止しようとした神職ら計6人を
突き飛ばすなどし、うち1人の右手に軽傷を負わせるなどした疑い。
旧日本軍人らが昨年5月、同庁に刑事告発していた。
高金委員は海外在住のため刑事責任を問うのは難しいとみられる。
高金委員は台湾の女性タレント出身で、01年に立法委員に初当選。
02年以降、5回にわたって、靖国神社を訪れ、
台湾人の合祀に反対する抗議活動をしていた。
(2011年8月11日11時46分 読売新聞)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★親日の国台湾では、めずらしいタイプのかたです。
.
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「死友」の故事
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/12 01:47 投稿番号: [299 / 735]
こういう物語もあります。
列士傳。羊角哀、左伯桃相與爲死友。欲仕於楚。遇雨雪不得行。饑寒無計。
度不倶生。乃并衣糧與角哀。伯桃入樹中而死。
楚平王愛角哀之賢。嘉伯桃之義。以公卿禮葬之。
列士傳。羊角哀、左伯桃、相與に死友となる。楚に仕えんと欲す。
雨雪に遇いて行くを得ず。饑寒するに計るなし。
度(はか)るに倶(とも)に生きず。
すなわち衣糧をあわせ角哀に與(あた)う。
伯桃、樹中に手入りて死せり。
楚の平王、角哀の賢を愛す。
伯桃の義を嘉(よみ)す。公卿の禮を以てこれを葬す。
羊角哀、左伯桃のふたりは戦国時代末期の燕の人。
ふたりは楚王が賢君であると聞き、
仕官したいと思い、連れだって楚へ行く。
途中雨雪に遭遇。このままでは共倒れになることは必定。
左伯桃は自分より学才があるとして羊角哀に自分の服を与え、
みずから樹林の中に姿を消して死んだ。
羊角哀は九死に一生を得、楚王に仕えることができた。
楚王は羊角哀の賢を愛し、羊角哀は栄達した。
楚王は羊角哀のために、左伯桃を公卿の礼をもって手厚く葬った。
これが「死友」の故事である。
★『関中流寓志』に後日譚がある。
あるとき、羊角哀が左伯桃の夢枕に立って云う。
自分の墓は荊軻の墓の近くにある。
だから、なんとか燕の亡国の恨みをはらしたいけれど、
荊軻には高漸離という仲間がいてかなわぬ、と。
その夢を見た羊角哀は自害した。
その夜、激しい雷鳴をともなった嵐となった。
明け方になって見ると、荊軻の墓があばかれて白骨が散乱していた。
★燕の亡国の恨み
荊軻が秦始皇帝暗殺にドジを踏んだために、燕の亡国が早まった、
という恨みです。
768
これは メッセージ 298 (ajisai110701 さん)への返信です.
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宮崎市定『史記を語る』
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/12 01:26 投稿番号: [298 / 735]
宮崎市定『史記を語る』
荊軻が秦王を追いかける段も、いかにも迫真のように見えて、
実は演劇の立ち廻りに近い。
匕首の白刃を背に感じながら、長剣を肩ごしに引き抜くなどは、
真剣勝負の実況とは思われない。
さればといってこれらの場面は、演出の見せ所であるから、
総て取り去ってしまっては興行価値がなくなってしまう。
『史記』の原文には、荊軻が秦王を追いかける叙述の中に、
時惶急、卒惶急、卒惶急、という三句が挿まれている。
私の考えではこれは、がんばれーというような合いの手であって、
観衆の方が唱和して叫んだ掛け声に違いないと思う。
.
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Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 転の段
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/12 01:23 投稿番号: [297 / 735]
これは メッセージ 296 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 転の段 4
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/12 01:07 投稿番号: [296 / 735]
是時侍醫夏無且、以其所奉藥嚢提荊軻也。秦王方環柱走。
卒惶急、不知所爲。左右乃曰。王負劔。負劔、遂抜以撃荊軻、斷其左股。
荊軻廢。乃引其匕首、以●秦王。不中。中桐柱。秦王復撃軻。軻被八創。
軻自知事不就、倚柱而笑、箕踞以罵曰。事所以不成者、以欲生劫之、
必得約契、以報太子也。於是左右既前殺軻。秦王不怡者良久。
已而論功賞羣臣、及當坐者各有差。而賜夏無且黄金二百溢。
曰。無且愛我、乃以藥嚢提荊軻也。
●「テヘン」+「適」
是の時、侍醫・夏無且(かむしょorかぶしょ)、其の奉ずる所の
藥嚢(やくのう)を以て荊軻に提(なげう)つ。
秦王、方に柱を環(めぐ)りて走る。卒(にわか)に惶急し、爲す所を知らず。
左右乃ち曰く、「王、劔を負え」。
劔を負い、遂に抜きて以て荊軻を撃ち、其の左股を斷つ。
荊軻廢(たお)る。乃ち其の匕首を引き、以て秦王に●(なげう)つ。
中(あた)らず。
桐柱に中(あた)る。秦王復た軻を撃つ。軻、八創を被(こうむ)る。
軻自ら事の就(な)らざるを知り、柱に倚りて笑い、
箕踞(ききょ)して以て罵しりて曰く、
「事の成らざる所以(ゆえん)は、以て生きながらこれを劫(おびやか)し、
必ず約契を得て、以て太子に報ぜんと欲したればなり」
是に於て左右既に前(すす)みて軻を殺す。秦王怡(よろこ)ばざること
良(やや)久し。
已にして功を論じ羣臣を賞し、及び坐に當れる者各々差有り。
而して夏無且に黄金二百溢を賜ふ。
曰く、「無且、我を愛し、乃ち藥嚢(やくのう)を以て荊軻に提(なげう)てり」
この時、秦王の侍医をしている夏無且(かむしょorかぶしょ)が、
捧げ持っていた藥嚢(やくのう)を荊軻めがけて投げつけた。
秦王は銅柱のまわりをかけ廻って逃げているところだ。
まさしくこの危急存亡のときにうろたえ慌てて、
どうしたらいいかわからなかった。
やっとのことで左右の侍臣が声をかける。「王、剣を背負いたまえ」
剣を背中に負い、やっとのことで剣をひき抜き荊軻に斬りかかる。
荊軻の左股を斬り落とす。荊軻くずれおちる。
そこで例の匕首を引き寄せ、秦王めがけて投げつける。
あたらない。桐柱にあたる。
秦王はまた荊軻に斬りつける。荊軻は身に刀傷八創を受けた。
荊軻は謀(はかりごと)の失敗を悟り、柱によりかかって笑い、
尻を床につけ足を投げ出して罵って言った。
「事が成就しなかった所以(ゆえん)は、秦王を生かしたまま脅迫し、
必ず約束を取りつけ、それを持って太子丹に報告したいと思ったからだ」
ここにきてやっと左右の侍臣が進み出て荊軻を殺した。
秦王はしばらく不機嫌であった。それから論功行賞があり、
群臣を賞し、罪に当たる者を罰した。それぞれに差が有った。
夏無且には黄金二百溢(いつ)が下賜された。
「無且は、わたしを大切に思い、そこで藥嚢(やくのう)を
荊軻に投げつけたのだ」ということだった。
つづく
761
これは メッセージ 295 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 転の段
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/11 00:58 投稿番号: [295 / 735]
秦王が荊軻に言った。「舞陽が持っている地図をこれへもて」
荊軻はそこで地図を手に取って献じた。秦王が地図をひらいた。
地図が最後までひらかれると匕首が出てきた。
荊軻はすかさず左手に秦王の袖を掴み、
そして右手に匕首を持って秦王を刺した。
だが身体に届かない。秦王は驚き、身を引いて起ち上がった。
袖がちぎれた。
剣を抜こうとした。剣が長くて抜けない。剣の鞘(さや)を弄した。
この時秦王はうろたえ慌てていた。
剣はしっかりと鞘におさまっていてすぐには抜けない。
荊軻が秦王を追いかける。秦王は柱のまわりを廻って逃げる。
居並ぶ家来は皆驚いた。
突然の不慮の事態の勃発に、ことごとく冷静さを失っていた。
そして秦の法律では、群臣で殿上に侍する者は、
寸鉄を帯びることも許されていなかった。
宮中の警護官はみな武器を持って、殿下に並んでいたが、
お召しの詔(みことのり)がなければ殿中に上がることはできない。
事態は緊急の相を呈しており、下に居並ぶ警護の兵を呼んでいるひまがない。
その故に荊軻はずっと秦王を追い続ける。事態は緊急を要している。
殿上にいる臣は荊軻を攻撃する武器を持っていない。
そこで素手でみなで荊軻に殴りかかった。
★後半のクライマックスの場面です。
ここは是非是非、原文を眺め、書き下し文も読んでみてください。
主語が省略されており、言葉の繰り返しがあり、そのひとつひとつの言葉が
短い、まさに実況中継講談調ではありませんか。
是非、原文を読む醍醐味を味わってください。
つづく
757
これは メッセージ 294 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 転の段 3
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/11 00:55 投稿番号: [294 / 735]
秦王謂軻曰。取舞陽所持地圖。軻既取圖奏之。秦王發圖。圖窮而匕首見。
因左手把秦王之袖、而右手持匕首●之。未至身。秦王驚、自引而起。袖絶。
抜劔。劔長。操其室。時惶急。劔堅。故不可立抜。荊軻逐秦王。秦王環柱而走。
羣臣皆愕。卒起不意、盡失其度。而秦法、羣臣侍殿上者、不得持尺寸之兵。
裵郎中執兵、皆陳殿下、非有詔召不得上。方急時、不及召下兵。
以故荊軻乃逐秦王。而卒惶急、無以撃軻、而以手共搏之。
●「テヘン」+「甚」
つきさす
チン
秦王、軻に謂いて曰く、「舞陽が持つ所の地圖を取れ」と。
軻既に圖を取りてこれを奏す。
秦王、圖を發(ひら)く。圖窮(きわ)まりて匕首(ひしゅ)見(あら)わる。
因って左手に秦王の袖を把り、而して右手に匕首を持してこれを●(つきさ)す。
未だ身に至らず。秦王驚き、自ら引きて起(た)つ。袖絶つ。劔を抜く。劔長し。
其の室(さや)を操る。時に惶急(こうきゅう)す。劔堅し。
故に立(ただち)に抜く可からず。
荊軻秦王を逐(お)う。秦王、柱を環(めぐ)りて走(に)ぐ。
羣臣皆愕(おどろ)く。卒(にはか)に意(おも)わざること起こりしに、
盡く其の度を失う。
而して秦の法、羣臣の殿上に侍する者は、尺寸(せきすん)の兵を持するを得ず。
裵(もろもろ)の郎中、兵を執り、皆殿下に陳(なら)ぶも、
詔召有るに非ざれば上るを得ず。
急なる時に方(あた)りて、下兵を召すに及ばず。
故を以て荊軻乃ち秦王を逐(お)う。
而して卒(にはか)に惶急して、以て軻を撃つ無し、
而して手を以て共にこれを搏(う)つ。
つづく
756
これは メッセージ 293 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 転の段 2
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/11 00:50 投稿番号: [293 / 735]
秦王聞之、大喜、乃朝服設九賓、見燕使者咸陽宮。
荊軻奉樊於期頭函、而秦舞陽奉地圖匣。以次進至陛。秦舞陽色變振恐。
羣臣怪之。荊軻顧笑舞陽、前謝曰。
北蕃蠻夷之鄙人、未嘗見天子。故振慴。願大王少假借之、使得畢使於前。
秦王これを聞き大いに喜び、乃ち朝服して九賓を設け、
燕の使者を咸陽宮に見る。
荊軻、樊於期の頭函を奉じ、而して秦舞陽、地圖の匣(はこ)を奉じ、
次を以て進み陛に至る。
秦舞陽、色變じて振恐す。羣臣これを怪しむ。
荊軻顧みて舞陽を笑い、前(すす)みて謝して曰く、
「北蕃蠻夷の鄙人なり、未だ嘗て天子を見ず。故に振慴(しんしょう)す。
願はくは大王少しくこれを假借して、使いを前に畢(お)うるを得しめよ」と。
秦王はこれを聞いてたいへん喜び、そういうことであればと礼装して
九賓の接客の礼の席を設け、燕の使者を咸陽宮に於いて接見した。
荊軻は樊於期の頭函を捧げ持ち、
そして秦舞陽は地圖の匣(はこ)を捧げ持ち、
順番に進んで宮殿の陛(きざはし)までやってきた。
すると秦舞陽は、顔色が変わって恐れおののいた。
居並ぶ群臣がこれを怪しむと、荊軻は顧みて舞陽を笑って、
前に進み謝罪して言った。
「北方の野蛮な田舎者です。
未だ嘗て天子のような最高位の方と接見したことなどありません。
その故に震え畏れおののいているのです。
どうか大王におかれましては、少しばかり寛容におなりいただいて、
使者を御前に出だし、使者としての使命を果させてください」
★九賓・・・天子が賓客としてもてなす九種の人々。
①公・侯・伯・子・男・孤・卿・大夫・士
②九卿(九人の大臣)に同じ。
一説に「九人の接待役」という。
★「荊軻顧笑舞陽」「荊軻顧みて舞陽を笑い」の「笑」は、
どんな笑いなのでしょうか。
荊軻の心理状態を忖度してみてください。
つづく
754
これは メッセージ 292 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 転の段 1
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/11 00:47 投稿番号: [292 / 735]
遂至秦、持千金之資幣物、厚遺秦王寵臣中庶子蒙嘉。嘉爲先言於秦王曰。
燕王誠振怖大王之威、不敢擧兵以逆軍吏、願舉國爲内臣、比諸侯之列、
給貢職如郡縣、而得奉守先王之宗廟。恐懼不敢自陳。謹斬樊於期之頭、
及獻燕督亢之地圖、函封。燕王拝送于庭、使使以聞大王。唯大王命之。
遂に秦に至り、千金の資幣物を持して、厚く秦王の寵臣、
中庶子・蒙嘉に遺(おく)る。
嘉、爲(ため)に先ず秦王に言いて曰く、「燕王、誠に大王の威に振怖し、
敢えて兵を擧げ以て軍吏に逆せず。
國を舉げて内臣となりて、諸侯の列に比し、貢職を給すること郡縣の如くに
して、先王の宗廟を奉守するを得んことを願へども、恐懼して敢て自ら陳せず。
謹んで樊於期の頭を斬り、及び燕の督亢の地圖の函封したるを獻ず。
燕王、庭に拝送し、使ひをして以て大王に聞かしむ。
唯(ただ)大王これを命ぜよ」
荊軻はいよいよ秦に到着した。
千金の価値のある品々を持参して、厚く秦王の寵臣である中庶子の蒙嘉に
贈った。蒙嘉は、そのために、先ず秦王にこのように言った。
「燕王は誠に大王の威に恐れ慄き、軍を起こしてわが秦の軍吏に逆らおうと
する勇気はありません。
国を舉げて大王の内臣となって、諸侯の列に並び、我が秦国の郡県のように
貢物を献上したいとし、燕の先祖の王の宗廟を奉守し続けることができる
よう願っておりますが、恐懼して敢えてみずから陳べることができません。
そこで謹んで樊於期の首を斬り、それに加えて燕の督亢(とくこう)の地図を
函(はこ)に入れて封印したものを献上してきております。
燕王が王宮の庭にて拝送し、使者を派遣して大王に言上したいとの
ことでございます。
ただ大王の命をお待ち申し上げております」
★中庶子・・・官職名。皇室、諸官吏の戸籍係。
★結果として、荊軻は秦王暗殺に失敗するわけですが、すると
この蒙嘉という人はどうなるのでしょう。まあ、命はないのでしょうね。
つづく
752
これは メッセージ 291 (ajisai110701 さん)への返信です.
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易水送別 駱賓王
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/11 00:42 投稿番号: [291 / 735]
易水送別
駱賓王(初唐・640?〜684)
此地別燕丹
此の地
燕丹に別る
壯士髪衝冠
壯士
髪
冠を衝く
昔時人已没
昔時(せきじ)
人
已に没し
今日水猶寒
今日
水
猶(なお)寒し
この地こそはその昔、荊軻が燕の太子丹と別れたところ
壮士の髪は逆立って冠を突き上げんばかりであった
そうした昔の人は姿を消してもういないが
易水の水は何百年後の今日なおさむざむと流れている
★松枝茂夫『中国名詩選』中, 岩波文庫
★「易水に
ねぷか流るる
寒さかな」
与謝蕪村(l716〜1783)
★易水送別は前半のクライマックスの場面でした。
次回からは転の段になります。
荊軻、秦王暗殺の名場面、
息づまる展開を司馬遷の名文でお楽しみいただけます。
.
これは メッセージ 290 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/11 00:25 投稿番号: [290 / 735]
これは メッセージ 289 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/11 00:17 投稿番号: [289 / 735]
>★「川の流れ」は戻って来ない。自分も十中八九戻れない。
この場面は不可逆的時間の象徴でもあります。<
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★「子在河上曰逝者如斯夫不舎晝夜」『論語』「子罕第九」
子、河の上(ほとり)に在(あ)りて曰く、逝く者は斯くの如きか。
晝夜(ちゅうや)を舎(お)かず。
水の流れに、
いっときの休みもなく過去から現在、未来へと移ろう時の流れ、
人生の無常をみた感慨のようにとれます。
★鴨長明『方丈記』
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」
★水(川)には不思議な力があります。
漢詩の世界では、高所(たとえば楼)に登れば、どんなにドンチャン騒ぎを
して飲んだくれていても、詩作はしみじみとした望郷の思いをうたうこと。
同じように、水(川)の流れを見たときの詩は、時の流れと人生に
懐(おもい)を馳せた詩をつくることが、多くお約束ごとでした。
(もちろん、そうでない場合もありますが)
★「川の流れのように」秋元康作詞・見岳章作曲
知らず知らず
歩いてきた
細く長い
この道
振り返れば
遥か遠く
故郷(ふるさと)が見える
でこぼこ道や
曲がりくねった道
地図さえない
それもまた人生
ああ
川の流れのように
ゆるやかに
いくつも
時代は過ぎて
ああ
川の流れのように
とめどなく
空が黄昏(たそがれ)に
染まるだけ
生きることは
旅すること
終わりのない
この道
愛する人
そばに連れて
夢
探しながら
雨に降られて
ぬかるんだ道でも
いつかは
また
晴れる日が来るから
ああ
川の流れのように
おだやかに
この身を
まかせていたい
ああ
川の流れのように
移り行く
季節
雪どけを待ちながら
ああ
川の流れのように
おだやかに
この身を
まかせていたい
ああ
川の流れのように
いつまでも
青いせせらぎを
聞きながら
つづく
574
これは メッセージ 288 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/10 00:41 投稿番号: [288 / 735]
★壮士・・・意気さかんな勇士
★「變徴」「羽」・・・中国の音楽の音階。
「變徴」は「ファ」の音、「羽」は「ラ」の音。
「易水の歌」を高い調子でうたって哀切感を盛り上げたということのようです。
★「川の流れ」は戻って来ない。自分も十中八九戻れない。
この場面は不可逆的時間の象徴でもあります。
★この「易水の歌」は楚歌です。楚歌の特徴として
「兮」の字の挿入、メロディーのもの悲しさがあげられます。
なぜ北の燕の国にいる荊軻が南方の楚歌を歌ったのか。
歴史的な事実として荊軻が歌ったのではなく、物語を形成していく過程で
肝心なところで歌を歌わせるということです。
易水の場面は、前半最後のクライマックスの場面です。
物語の形式として決まっているわけではないが、その場にマッチした
哀切を極めた歌であれば、楚歌であっていっこうにかまわないのです。
この「哀切」は荊軻の暗殺失敗が前提になっており、
物語を支える要素になっています。すなわち、
ここは歴史的事実ではなく、講談であるとみなす根拠になります。
======================================
=
宮崎市定『史記を語る』
★ところで、そんなら司馬遷の書いた荊軻伝は悉く確実な拠り所があって、
総てを実録と信じてよいか、という段になると話は違う。
私はやはり全体が一種の語り物、それも身ぶり、手ぶりを雜(まじ)えた
演出の筋書に外ならぬと考える。
易水の別離において、太子以下が白装束であっては、
匿そうとしても大いに目立つではないか。
そこらに秦のスパイがうろうろしているに違いないから、
すぐに情報が飛んで大事を誤るのは必定である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★たとえば、こういう場面から、『史記』は語られた文章の再構成では
ないか、という可能性が出てくるわけです。
このことは後半のクライマックス、
秦王暗殺の場面の臨場感、リズムなどからも推察されます。
「説書・せっしょ」という講談語りの存在は宋代には確認されていますが、
もっと遡って漢代にもいたかもしれない、司馬遷が『史記』を書くに
あたって材料とした素材の中に説書があった可能性もうかがえます。
つづく
745, 746
これは メッセージ 287 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 8
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/10 00:30 投稿番号: [287 / 735]
太子及賓客知其事者、皆白衣冠以送之、至易水之上。既祖取道。
高漸離撃筑、荊軻和而歌、爲變徴之聲。涕泣。又前而爲歌曰。
風蕭蕭兮易水寒。壯士一去兮不復還。復爲羽聲●慨。皆瞋目、髪盡上指冠。
於是荊軻就車而去,。終已不顧。
●「リッシンベン」+「亢」
コウ
太子及び賓客、其の事を知る者、皆白衣冠して以てこれを送り、
易水の上(ほとり)に至る。
既に祖して道を取る。高漸離筑を撃ち、荊軻和して歌ひ、變徴の聲を爲す。
涕泣す。又前(すす)みて歌を爲(つく)りて曰く、
風蕭蕭兮易水寒
風は蕭蕭として易水寒し
壯士一去兮不復還
壯士一たび去って復た還らず
また羽聲●慨をなす。
皆、目を瞋(いか)らし、髪、盡く上(のぼ)りて冠を指(つ)く。
ここにおいて荊軻、車に就(つ)きて去る。終(つい)に已に顧りみず。
太子や賓客、そしてこの事を知る者は、皆白衣(喪服)に身を固め、
荊軻を見送りに易水のほとりまできた。
そして道祖神に祈願してから道についた。
高漸離が筑を撃ち、荊軻はその筑に和して歌い、變徴(へんち)の音階で歌った。
皆涙を流して泣いた。それから前にすすみ歌を作って歌った。
風蕭蕭兮易水寒
風は蕭蕭として易水寒し
壯士一去兮不復還
壯士一たび去って復た還らず
今度は羽調で歌い悲憤●慨した。皆、目を瞋(いか)らし、
髪はことごとく逆立って冠を突き上げるほどだった。
かくして荊軻は車に乗って去った。
最後までうしろを振り返ることをしなかった。
つづく
744
これは メッセージ 286 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/10 00:25 投稿番号: [286 / 735]
★ここの場面は、実はとてもむつかしいところです。
★「何太子之遣」「何ぞ太子、これを遣る」
「何」について、<Who> <Why> のふたつの意味が考えられます。
<Who>であれば、
「太子は誰を使いにやるのか、あんなやつを行かせれば・・・」
<Why>であれば、「どうして太子はこんな派遣のしかたをなさるのか」
となります。
しかし、謂わんとしていることは、「秦舞陽なんか行かせてもだめだ」
ということで共通していますから、まあ、どちらでも問題はないでしょう。
★ところが次の
「往而不返者豎子也」「往きて返らざらん者は豎子(じゅし)なり」
はやっかいです。
まず、「豎子・じゅし」(小僧っ子の意味)は誰を指すのか。
①秦武陽
②荊軻自身
③子供のふるまい
①行ったきりで使命を成し遂げて帰ることができないのは秦舞陽。
②ひとたび秦に行けば、帰らぬのは拙者(荊軻自身)でござるぞ。
③行って使命を果たして戻ってこないようなのは、小僧っ子のやることだ。
ここでは、『史記注譯』注に従い、③にしました。
すると、荊軻は、即秦王暗殺ではなく、第一話「曹沫」のように、できれば
秦王を脅迫して要求を呑ませたいと考えていることになります。
①なら、秦舞陽では使命をはたせず必ず失敗する。
②なら、即秦王暗殺、自分も必ず死ぬ決死の覚悟。
ということになります。個人的には、②を押しますが。
ちなみに『史記會注考證』には、この大切なところで注釈がありません。
★ここは「未發」で始まり、「遂發」で終わっています。
そしてまた「疑」の字が出ています。
こういう箇所にもご注目ください。原文を読む醍醐味です。
★ここで荊軻は、秦舞陽を「不認知」だということがわかりました。
つづく
737
これは メッセージ 285 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 7
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/10 00:20 投稿番号: [285 / 735]
頃之未發。太子遲之、疑其改悔。乃復請曰。日已盡矣。荊卿豈有意哉。
丹請得先遣秦舞陽。荊軻怒叱太子曰。何太子之遣。往而不返者豎子也。
且提一匕首、入不測之彊秦。僕所以留者、待吾客與倶。
今太子遲之請辭決矣。遂發。
これを頃(しばらく)するも未だ發せず。
太子これを遲しとし、その改悔を疑ふ。
乃ち復た請ひて曰く、日已に盡きたり。荊卿、豈に意有らんや。
丹請ふ先ず秦舞陽を遣るを得ん、と。
荊軻怒り太子を叱して曰く、
何ぞ太子、これを遣る。往きて返らざらん者は豎子(じゅし)なり。
且つ一匕首を提(ひっさ)げて、不測の彊秦に入る。
僕の留まる所以は、吾が客を待ちて與に倶にせんとすればなり。
今太子これを遲しとする。請ふ辭決せん。遂に發す。
このことがあってしばらく経ったが荊軻はまだ出発しようとしなかった。
太子丹は、荊軻の出発が遅いので、荊軻が変心したのではないかと疑った。
そこでまた荊軻に請うて言った。
「日はもう限界です。荊卿、何かお考えがあるのでしょうか。
わたしは、先に秦舞陽を遣ってはどうかと思うのですが」と。
それを聞いて荊軻は怒り、太子をどなりつけてこう言った。
「太子はあんな奴を使いに遣ると云われるのか。
ひとたび行って使命を果し戻ってくることを思わないようなのは、
小僧っ子のやることですぞ。
それに一匕首を提(ひっさ)げて、心も知れぬ、何があるかわからない
強暴の秦国に入るのだ。
わたしが留まってまだ出立しないわけは、わたしの客を待って、
その者と同行したいと思っているからこそなのです。
今、太子は、わたしの出発を遅いと云われる。
それではこれでおいとまいたしましょう」
こうしてついに荊軻は出立した。
つづく
736
これは メッセージ 284 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/10 00:15 投稿番号: [284 / 735]
★匕首(ひしゅ)・・・短剣。
「匕」は食物をすくう杓子で、剣の柄頭(つかがしら)が
これに似ているので「匕首」というそうです。
★「乃遂盛樊於期首函封之」
「乃ち遂に樊於期の首を盛り函にこれを封ず」
または「函に盛りこれを封ず」
すなわち、箱の形によります。
ケーキを入れるようなフタのほうが深い箱なら前者になります。
「盛」は、ちょっとサロメを想起させます。
誰が樊於期の首を納めたか、書いてありませんね。
★<火卒>(にら)ぐ
やいた刀剣の刃を水に入れて質を硬くします。
俗に、ヤキを入れる、といいます。
と同時に毒薬を染めつけたわけです。
★忤視(ごし)
逆らって見返すことができず、目を伏せる。正面から見ない。
ガンつける、なんてとんでもないわけです。
★治行(ちこう)・・・旅行の支度。準備。
★ここにきて、秦始皇帝暗殺成功のための二つの要因が揃いました。
すなわち、督亢(とくこう)の地図と、樊於期の首と。
★ところが、ここでまた一つ、秦舞陽という阻害要因が出てきました。
太子丹には人を見る目がない。無理もないことではありますが。
★さて、荊軻は自分に同行してくれる人を待っていたわけですが、
それは一体誰だったのでしょうか。
司馬遷は最後までその人が誰か明かしていません。
ただ推測することはできます。
その推測ですが、
①司馬遷は荊軻の待ち人が誰だったか知っていて敢えて書かなかった。
(いたずら心かなんかで)
②司馬遷も知らなかった。
③見当はついているのだが、確定的ではないので書かずにおいた。
どうでしょうか。よかったら一度考えてみてください。
ちなみに、わたしは①或いは③です。
つづく
734
これは メッセージ 283 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 6
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/09 02:26 投稿番号: [283 / 735]
太子聞之、馳往伏屍而哭、極哀。既已不可奈何。乃遂盛樊於期首函封之。
於是太子豫求天下利匕首、得趙人徐夫人匕首。
取之百金、使工以藥<火卒>之、以試人、血濡縷、人無不立死者。
乃装爲荊卿。燕國有勇士秦舞陽。年十三殺人。人不敢忤視。
乃令秦舞陽爲副。荊軻有所待、欲與倶。其人居遠未來。而爲治行。
太子これを聞き、馳せ往きて屍に伏して哭す。哀を極む。
既に已にいかんともすべからざれば、乃ち遂に樊於期の首を盛り
函にこれを封ず。(or函に盛りこれを封ず)
是に於て太子、豫(あらかじ)め天下の利匕首(りひしゅ)を求め、
趙の人、徐夫人の匕首を得たり。
これを百金にて取り、工をして藥を以てこれに<火卒>(や)かしめ、
以て人に試みるに、血濡るること縷(いとすじ)にして、
人立ちどころにして死せざる者なし。
乃ち装を爲(おさ)めて荊卿を遣る。
燕國に勇士秦舞陽有り。年十三にして人を殺す。
人、敢えて忤視(ごし)せず。乃ち秦舞陽をして副たらしむ。
荊軻、待つ所有り。與(とも)に倶(とも)にせんと欲す。
其の人、遠くに居りて未だ來たらず。而るに治行(ちこう)爲(な)れり。
太子は樊於期の自刎したことを聞いて、
急遽駆けつけ屍に伏して声をあげて泣いた。
その泣き方は哀切きわまりないものであった。
ここにいたっては最早いかんともしがたいことであり、
やむなく樊於期の首を函(はこ)に納めて封をした。
このとき太子は、あらかじめ天下の鋭利な匕首(りひしゅ)を捜し求め、
趙の人である徐夫人(男性)の匕首を見つけていた。
これを百金で買い取り、刀工に、毒薬をこの匕首に<火卒>(にら)がせ、
それを人に試してみると、血がひとすじ滲んだくらいで、
即死しない者はいなかった。
そして旅支度を整えて荊卿を出立させようとした。
燕の国に勇士・秦舞陽(しんぶよう)という者がいた。
十三歳のときにもう人を殺した。
世間の人で、逆らって正面から秦舞陽を見ることのできる人はいなかった。
そこでこの秦舞陽を介添役として遣(や)ることにした。
荊軻は、人を待っていた。
その人とともに秦に行きたいと考えていたのである。
その人物は遠方に居てまだ到着しないうちに旅の準備が整ってしまった。
つづく
733
これは メッセージ 282 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/09 02:19 投稿番号: [282 / 735]
★偏袒<テヘン+﨟><テヘン+宛>(へんだんやくわん)
「偏袒・へんだん」は、かたはだを脱ぐ。
「やくわん」は、腕をつかんでさすりながら意気込む。
興奮や怒りを示す動作。
★「臣左手把其袖、右手<テヘン+甚>其匈」
「臣、左手に其の袖を把(つか)み、右手に其の匈(むね)をつきささん」
わざわざ「左右」を指定しています。
ただ単に、型を示しただけでなく、
何か「左」「右」が表す特別な意味があるような気がします。
わたし、何かちょっと考えたのですが、忘れてしまって。
どなたかご教示ください。
★さて、田光先生が自刎したのは、
太子丹の「疑」に、身の証をたてるため、
今ひとつには、「あなただけを死なせはしない」
と荊軻を奮起させるためでした。
そしてここにきて、荊軻の目的を達成させるため、
樊於期もまた自刎して果てました。
荊軻の一挙には、太子丹ばかりでなく、
こうした長者・豪傑の怒りと怨念がかかっていたのです。
★樊於期は、荊軻を認知しています。
★この樊於期のような行動、すなわち、仇を討つために自分は死んで、
自分に代わってあだ討ちをしてくれる第三者に事(首も)を託す、
という話は他にもあります。
魯迅の『眉間尺』、後に『鋳剣』と改題した作品を例にあげておきます。
もとの物語は『越絶書』『呉越春秋』『列異伝』などにみられます。
http://www.k2.dion.ne.jp/~kondo-n/eturan4.htmつづく
731
これは メッセージ 281 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 5
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/08 00:53 投稿番号: [281 / 735]
荊軻知太子不忍、乃遂私見樊於期曰。秦之遇將軍、可謂深矣。
父母宗族、皆爲戮没。今聞購將軍首金千斤、邑萬家。將奈何。
於期仰天太息流涕曰。於毎念之、常痛於骨髄。顧計不知所出耳。
荊軻曰。今有一言可以解燕國之患、報將軍之仇者。何如。
於期乃前曰。爲之奈何。荊軻曰。願得將軍之首以獻秦王。秦王必喜而見臣。
臣左手把其袖、右手①其匈。然則將軍之仇報、而燕見陵之愧除矣。將軍豈有意乎。
樊於期偏袒②③而進曰。此臣之日夜切歯腐心也。乃今得聞繁。遂自剄。
①「テヘン」+「甚」
つきさす
チン
②「テヘン」+「﨟」
ヤク
③「テヘン」+「宛」
ワン
荊軻、太子の忍びざるを知るや、
乃ち遂に私(ひそか)に樊於期に見(まみ)えて曰く、
「秦の將軍を遇するは深しと謂うべし。
父母宗族、皆戮没(りくぼつ)せらる。
今聞く、將軍の首を金千斤、邑萬家に購(あがな)うと。
將(まさ)に奈何(いかん)せん」
於期、天を仰ぎて太息し、流涕して曰く、
「これを念(おも)ふ毎に、常に骨髄に痛む。ただ計の出ずる所を知らざるのみ」
荊軻曰く、
「今、一言にして以て燕國の患いを解き、將軍の仇を報いんとすべき者
有らば、何如(いかん)」と。
於期、すなわち前(すす)みて曰く、
「これをなすは奈何(いかん)」と。
荊軻曰く、
「願はくば將軍の首を得て以て秦王に獻ぜん。秦王必ず喜びて臣を見ん。
臣、左手に其の袖を把(つか)み、右手に其の匈(むね)を①(つきさ)さん。
然(しか)せば則ち將軍の仇報いられて、燕、陵(しのが)るるの愧(はじ)
除かん。將軍、豈に意有りや」と。
樊於期、偏袒(へんだん)②③(やくわん)して進みて曰く、
「此れ臣の日夜切歯腐心するところなり。乃ち今繁を聞くを得たり」
遂にみずから剄(くびはね)る。
★いくつか、字が代えてあります。
荊軻は、太子の、樊於期を殺すに忍びない心の内を知ると、
そこでひそかに樊於期に会いに行ってこう言った。
「秦の將軍に対する処遇は、あまりにも酷薄に過ぎます。
ご両親・ご一族の方々は皆罪に落とされ殺戮されました。
今わたしが耳にしたところでは、秦は將軍の首に、金千斤、一万戸の
土地の報奨をかけている、と。さて、なんとなされます」
樊於期は天を仰いで大きく息をつき、涙を流してこう答えた。
「わたしは、このことを深く思い、その度にいつも骨髄にも達する痛みを
感じます。しかしながら自分でもどうしたらいいのかわからないのです」
樊於期の言を受けて、荊軻は言った。
「今、一言で言える、燕国の憂いを解き放ち、將軍の仇を報ずる策略が
有るとするならば、どうなさいますか」と。
すると樊於期は、前に進み出て言った。
「いったい、どのような策なのでしょうか」と。
荊軻が答える。
「將軍の首を手に入れてそれを秦王に献上したいと思うのです。
さすれば秦王は必ず喜んでわたしと会見するでしょう。
わたしは、左手に秦王の袖をつかみ、右手で秦王の其の胸を突き刺すのです。
そうすれば、將軍の仇に報いることができ、燕が秦より受けた陵辱も
除かれるでしょう。將軍、同意するお気持ちはありますか」と。
樊於期はかたはだを脱ぎ、あらわになった腕をさすり、前に出てこう言った。
「この策こそ、わたしが日夜、歯を食いしばり、胸をかきむしる思いで
いたものです。ちょうど今そのご教示を聞くことができました」
そして、そこで、みずから自分の首を刎ねた。
つづく
729, 730
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 4
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/08 00:42 投稿番号: [280 / 735]
荊軻曰。微太子言、臣願謁之。今行而毋信、則秦未可親也。
夫樊將軍、秦王購之金千斤、邑萬家。
誠得樊將軍首、與燕督亢之地圖、奉獻秦王、秦王必説見臣。臣乃得有以報。
太子曰。樊將軍窮困來歸丹。丹不忍、以己之私、而傷長者之意。願足下更慮之。
荊軻曰く、太子の言微(な)くも、臣これを謁(つ)ぐるを願へり。
今行くとも信毋(な)くば、則ち秦、未だ親(ちか)づく可からざらん。
夫(そ)れ樊將軍は、秦王これを金千斤、邑萬家に購(あがな)ふ。
誠(も)し樊將軍の首と、燕の督亢(とくこう)の地圖とを得て、
奉りて秦王に獻ずれば、秦王必ず説(よろこ)びて臣に見(まみ)えん。
臣乃(すなは)ち以て報(むく)ゆる有るを得ん。
太子曰く、樊將軍窮困して來り丹に歸す。
丹、己れの私を以てして、長者の意を傷(そこな)うに忍びず。
願はくは足下、更にこれを慮(おも)んばかれ。
荊軻は言った。
「仮に太子のお言葉がなくとも、わたしからこのことについて
申し上げようと思っていたのです。
今秦に行ったとしても証拠がなければ、秦王に接近することはできないでしょう。
そもそも樊將軍(太子丹が匿っている燕に亡命してきた秦の將軍樊於期)
には、秦王は金千斤、一万戸ある土地を報奨にかけています。
もし樊將軍の首と、燕の督亢(とくこう)の地図とを手にすることができて、
奉つり秦王に献上すれば、秦王は必ず喜んでわたしを引見することでしょう。
そうすれば、わたくしめはそこでご恩返しができます」
太子が言った。
「樊將軍は身の置きどころがなくせっぱつまってこの燕にやって来て
この丹に頼ったのです。
丹は、自分自身の非常に私的なことのために、尊敬する樊將軍の心を
傷つけることはできません。
どうか荊卿、もう一度よくご検討いただけないものでしょうか」
★地図を献上するということは、
その地図に描いてある土地を献上するということです。
幕末に有名なシーボルト事件というのがありました。
当時の日本では、国外に日本地図を持ち出すことは禁止されていました
が、その根底には地図に対するこういった思想があったものと思われます。
『日本書紀』にも、はるばる種子島から地図と土地の産物を持って
朝貢にやってきたという記事が出ています。
つづく
720
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Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/08 00:28 投稿番号: [279 / 735]
★駑下(どか)・・・才能不足、凡庸なことをいいます。
★上卿・・・もと、王のもてなし役。周代において卿の最上位。
「卿」は、高位・高官者、貴人、側近などをいいます。
★太牢(たいろう)・・・牛・羊・豚の三種類の肉の揃った最高の料理。
「太牢具」ともいいます。
★荊軻はここで最高の待遇を受けているわけですが、
大昔の南米のどこかで、翌年の神への生贄を決めて、生贄になった人は
一年間を王侯貴族のような暮しができた、ということを思い出しました。
それと、「喜び組」というようなものは、
どうもいつの時代にもどの国にも存在したようですね。
★絶対に生きて帰れない暗殺者となることを荊軻が引き受けてくれたので、
太子丹はかなり下手に出ていますが、荊軻がなかなか出立しようとしない
ので不安にかられイライラしてきます。
ここでも太子丹の心中に「疑」がわきおこっています。
荊軻を全面的に信頼していないようです。すなわち、
燕太子丹・・・荊軻を不認知、ということになります。
★足下・・・あなたの足元にひれ伏す。甚だしい尊敬の言い方です。
閣下・殿下・陛下とだんだん上位になります。
陛下の陛はきざはし、すなわち階段の下ですが、貴人に対し下位のものは
自分から話しかけることはできず、またご下問があってお答えするのも
間に人を介さなければなりませんでした。
「直答を許す」というのは、そこらあたりの事情からできたセリフです。
陛下に(殿下・閣下なども)何か申し上げる際に、直接申し上げることは
できず、貴人のおはします建物の階段の下に侍っている人を通じて
申し上げたのでした。
あなたの足もとにいるわたし
→
階段の下の侍者
→
貴人そのもの
をいう、という変化をとげたものと思われます。
つづく
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 3
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/07 02:25 投稿番号: [278 / 735]
久之、荊軻曰。此國之大事也。臣駑下、恐不足任使。
太子前頓首、固請毋譲、然後許諾。
於是尊荊卿爲上卿、舎上舎。太子日造門下、供太牢、具異物、
輭進車騎美女、恣荊軻所欲、以順適其意。
久之、荊軻未有行意。
秦將王翦破趙虜趙王、盡収入其地、進兵北略地、至燕南界。
太子丹恐懼、乃請荊軻曰。秦兵旦暮渡易水、則雖欲長侍足下、豈可得哉。
これを久しうして、荊軻曰く、此の國の大事なり。
臣駑下(どか)にして、任使するに足らざらんことを恐る。
太子前(すす)みて頓首し、固く請ふ譲る毋(な)かれ、と。然る後許諾す。
是に於いて荊卿を尊んで上卿と爲し、上舎に舎(やど)す。
太子、日々門下に造(いた)り、太牢(たいろう)を供し、異物を具し、
輭(まま)車騎美女を進め、荊軻の欲する所を恣(ほしいまま)にせしめ、
以て其の意に適うに順う。
これを久しうするも、荊軻未だ行く意有らず。
秦の將・王翦、趙を破りて趙王を虜にし、盡く其の地を収め入れ、
兵を進めて北のかた地を略し、燕の南界に至る。
太子丹、恐懼し、乃ち荊軻に請うて曰く、秦の兵、旦暮易水を渡らば、
則ち長(とこしな)へに足下に侍せんと欲すと雖も、豈に得可けんや。
しばしの沈黙の後、荊軻は言った。
「これは國の大事です。
わたしは凡庸で能力に劣り、とてもそのような大役はつとまらないでしょう」
太子は前に進み出て頓首し、
「どうしてもお願いしたい。どうか辞退しないでいただきたい」と言った。
それで荊軻は承諾した。
それからというもの、太子丹は荊卿を尊んで上卿となし、
上等な宿舎に住まわせた。
太子は、連日荊軻のもとにやって来て、太牢(たいろう)を供し、珍しい品物
を備え、ときには車騎、美女を勧め、荊軻のしたいままに好き放題をさせ、
荊軻の気持ちに適(かな)うように従った。
しかししばらく経っても、荊軻はいっかな腰をあげようとしなかった。
その間にも秦の將軍・王翦(おうせん)が趙を破り、趙王を虜(とりこ)にし、
趙の領土をすべて収奪し秦のものとして組み入れ、北方に進軍して
行くさきざきで地を略定し、燕との南の境界まで至った。
太子丹は恐れいらいらして、やむなく荊軻に頼んだ。
「秦軍は、今にも易水を渡ろうとしています。そうなれば、いついつまでも
あなたにお仕えしたいと思っていても、どうしてそれができましょうや」
つづく
715, 716
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「愚妻」って、「愚かな妻」のこと ???
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/07 02:14 投稿番号: [277 / 735]
「愚妻」って、「愚かな妻」のこと ???
中国が自国の地図で「尖閣諸島は日本領土」と記していた
動かぬ証拠、の地図が掲載されているというので、
『週刊ポスト』2010/10/15号を買いました。
尖閣は誰がどういおうと日本の領土てある数々の証拠がありますから、
それはおいといて。
他に、「愚妻」を、This
is
my
stupid
wife.
と訳していた記事がありました。
ちょっと面白いな、と思ったので取り上げてみます。
この筆者は「愚妻」を謙譲語だと言っています、これは正しい。
しかし、「これが私の愚かな妻でして」と書いている、これは間違い。
「愚」に愚かと言う意味は、もちろんあります。
しかし、自分のことを謙遜して言う場合も「愚」といいます。
たとえば、古代、君主が自分のことを「寡」と称しました。
「寡」は「少ない」という意味。何が少ないか、
謙遜して、「徳の少ない私」といっているのです。
同様に、「寡婦」も「徳が少なくて夫を自分より早く死なせた妻」という意味。
同様に、「未亡人」も、「夫が死んだのにまだおめおめ生きている妻」。
「寡婦」とか「未亡人」とか、ちょっと教養のある人なら、
当人の面前で不用意に使用しないと思います。
閑話休題、本論にもどります。
「愚」とは自分自身のことであり、
自分のもちものに冠したときも謙譲語になります。
したがって、「愚妻」は、「妻が愚か」なのではなく、
「愚かである自分の妻」という意味です。
愚見・愚言・愚虜・愚志・愚心・・・みなそうです。
二文字丸ごと自分の謙譲に、「愚兄・愚弟・愚老・愚臣」などがあります。
「愚兄」は相手が年下の場合、「愚弟」は相手が年上の場合の自分をいいます。
これは他に兄弟を謙遜して言う場合もあります。「愚妻」と同じ構造です。
「小生」という言葉がありますが、これは本来、相手が自分より
目下の場合に使う言葉です。ところが、大新聞などでエラそうに
「小生が・・・」なんて書いてある、違和感を持ちます。
「愚臣」は、君主に対して、大臣などが用いる言葉。
なのですが、漢語に「愚妻」という言葉はありません。
実はこれ、日本語だったのですね。
では漢語で「愚妻」をなんというか、「賤内」とか「賤室」とか、
「賤」のところに「拙」とか。
では、「愚妻」について、国語辞典ではどう説明しているでしょうか。
岩波国語辞典 / 私の妻。へりくだった言い方。
電子辞書広辞苑 / 自分の妻の謙称。
岩波はいいですね。広辞苑はなんかぼかしていませんか。
4806
これは メッセージ 276 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 2
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/07 02:08 投稿番号: [276 / 735]
丹之私計、愚以爲誠得天下之勇士使於秦、窺以重利。秦王貪。其勢必得所願矣。
誠得劫秦王、使悉反諸侯侵地、若曹沫之與齊桓公、則大善矣。
則不可、因而刺殺之。彼秦大將擅兵於外、而内有亂、則君臣相疑。
以其輭、諸侯得合從、其破秦必矣。此丹之上願、而不知所委命。唯荊卿留意焉。
丹の私計、愚、以爲(おもへらく)誠(も)し天下の勇士を得ば秦に使わし、
窺(うかが)ふに重利を以てす。秦王貪(むさぼ)り、其の勢ひは必ず願ふ所を得ん。
誠(も)し秦王を劫(おびやか)すを得て、悉く諸侯の侵地を反(かへ)さしめ、
曹沫の齊の桓公に與(お)ける若(ごと)くならずば、則ち大いに善し。
則ち可(き)かずんば、因ってこれを刺殺せん。
彼の秦の大將、兵を外に擅(ほしひまま)にして、内に亂有らば、
則ち君臣相疑わん。
其の輭を以て、諸侯合從するを得ば、其れ秦を破るは必せり。
此れ丹の上なる願ひなり、而るに命を委(ゆだ)ねる所を知らず。
唯(ただ)荊卿、意を留(とど)めよ。
★「窺」は、字が換えてあります。原字は、「門」の中に「規」
★「留」は、原字は本字のほうです。
この丹の私案では、わたしのような愚かな人間が思いますのに、
もし天下の勇士を得て秦に使者として遣(や)り、
多くの利を以て誘引したとします。
秦王は貪欲ですから、
その勢い(流れ)として必ずこちらが期待する方向に運ぶでしょう。
もし秦王を脅迫することができ、その結果、ことごとく諸侯の侵地を
返還させることが、曹沫(そうばつ)が齊の桓公に奪取した領土を
返還させたようにできれば重疊至極。
それで秦王が要求をきかなかった場合には、
そこで秦王を刺殺すればいいのです。
あの秦の大將どもは、兵を国外に出して自分勝手をしておりますから、
内亂が有れば、君臣はお互いに疑念をもつことでしょう。
その隙に乗じて、諸侯が合從することができれば、
秦を破ることができるは必定。
これが丹のこの上ない願いなのですが、
ただその使命を誰に委(ゆだ)ねればいいのかがわからないのです。
唯(ただ)荊卿、どうかこのことにご留意ください」
★愚
太子丹が自分のことを謙遜していっています。「わたし」ということです。
丹は、始め荊軻に自分のことを「孤」といったわけです。
ところがここにきて「愚」といっています。
その心理の動きを推し量るとなかなか面白いと思います。
★丹は、問答無用で即座に秦王暗殺ではなく、
まず脅迫していうことをきかせる、と言っています。
こういった甘さも失敗の要因のひとつです。
つづく
709, 710
これは メッセージ 275 (ajisai110701 さん)への返信です.
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