【孫文の志 未だ成らず】辛亥革命100年
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 00:47 投稿番号: [267 / 735]
【孫文の志
未だ成らず】
辛亥革命100年(3) 台湾の国父像
2011.8.2 17:29 (1/4ページ) 産経新聞
7月4日、台北市の国父紀念館で開幕した特別展
「孫文と米国」を見学する馬英九総統
“中国のワシントン”演出
中華民国の青天白日満地紅旗が翻る台湾。今年、「建国100年」を迎えた。
儀仗(ぎじょう)兵が巨大な孫文座像を守る台北市の「国父紀念館」は、
街のシンボル、台北101ビルの目の前に位置し、
1時間ごとの衛兵交代式はカメラを構えた観光客でにぎわっている。
だが、台北市の中心、台北駅の東隣に位置する
“もう一つの国父紀念館”を訪れる人影はまばらだ。
瓦屋根に床の間のある座敷、庭園をのぞむ縁側。
「逸仙公園」の緑の中にたたずむ伝統的な日本家屋こそ、台湾を訪れた
孫文が滞在したという旧料亭旅館「吾妻別館」(梅屋敷)である。
「存在自体知りませんでした」と、散歩中に訪れた地元女子大学院生
(23)は目を丸くする。駅の隣だが目立たない場所だ。
床の間には孫文の胸像や愛用の机などが飾られ、滞在中に残した「博愛」
の揮毫(きごう)も。広間には孫文の業績を紹介するパネルが並び、
「中華民国臨時大総統誓詞」「三民主義自序」などの複製史料が展示されて
いる。梅屋敷は2007年まで、「国父史蹟(しせき)紀念館」と呼ばれていた。
中国国民党の党史館の邵銘煌主任や、国父紀念館で研究活動を行う
劉碧蓉博士らによると、孫文は「1900年、13年、18年の計3回
台湾を訪れた」という。
梅林が名物だった梅屋敷での滞在は2度目の13年8月とされている。
「もちろん当時の台湾は大日本帝国領。
記録の多くは日本側の外交史料などによります」と話す劉博士は2度目と
3度目は日本内地行きの際の経由地に過ぎず、「台湾における“孫学研究”
で最も重要なのは最初の滞在」という。
革命を志す若き日の孫文は、1900年9月末から11月上旬の
四十数日間、日本人の支援者らと台湾で過ごした。
◇
その際の日本人支援者の一人はくしくも戦後、日本が領有権を放棄した
台湾で、中華民国政府が、革命や抗日戦争の戦死者らのために、台湾護国
神社跡地に建立した「国民革命忠烈祠」に唯一の外国人としてまつられている。
山田良政(1868〜1900)。
青森出身で、地元師範学校を中退後、同郷の言論人、陸羯南を頼って上京。
その影響で清国研究を始め、孫文らの革命を支援するようになった。
1900年、義和団の乱を機に、孫文は広東省恵州で初の蜂起を企てるが、
武器や資金集めが難航。当時の台湾総督府民政長官、後藤新平が山田と懇意
だった縁で、山田は孫文らと台湾入りし、児玉源太郎総督に支援を要請した。
総督府は大陸での親日革命政権誕生に期待を寄せ、「挙兵に成功すれば
広東省の陸豊、海豊で2個師団分の武器を援助する」と約束。勢いづく
孫文は台湾を基地に10月初め、同志に命じて恵州挙兵を決行した。
つづく
辛亥革命100年(3) 台湾の国父像
2011.8.2 17:29 (1/4ページ) 産経新聞
7月4日、台北市の国父紀念館で開幕した特別展
「孫文と米国」を見学する馬英九総統
“中国のワシントン”演出
中華民国の青天白日満地紅旗が翻る台湾。今年、「建国100年」を迎えた。
儀仗(ぎじょう)兵が巨大な孫文座像を守る台北市の「国父紀念館」は、
街のシンボル、台北101ビルの目の前に位置し、
1時間ごとの衛兵交代式はカメラを構えた観光客でにぎわっている。
だが、台北市の中心、台北駅の東隣に位置する
“もう一つの国父紀念館”を訪れる人影はまばらだ。
瓦屋根に床の間のある座敷、庭園をのぞむ縁側。
「逸仙公園」の緑の中にたたずむ伝統的な日本家屋こそ、台湾を訪れた
孫文が滞在したという旧料亭旅館「吾妻別館」(梅屋敷)である。
「存在自体知りませんでした」と、散歩中に訪れた地元女子大学院生
(23)は目を丸くする。駅の隣だが目立たない場所だ。
床の間には孫文の胸像や愛用の机などが飾られ、滞在中に残した「博愛」
の揮毫(きごう)も。広間には孫文の業績を紹介するパネルが並び、
「中華民国臨時大総統誓詞」「三民主義自序」などの複製史料が展示されて
いる。梅屋敷は2007年まで、「国父史蹟(しせき)紀念館」と呼ばれていた。
中国国民党の党史館の邵銘煌主任や、国父紀念館で研究活動を行う
劉碧蓉博士らによると、孫文は「1900年、13年、18年の計3回
台湾を訪れた」という。
梅林が名物だった梅屋敷での滞在は2度目の13年8月とされている。
「もちろん当時の台湾は大日本帝国領。
記録の多くは日本側の外交史料などによります」と話す劉博士は2度目と
3度目は日本内地行きの際の経由地に過ぎず、「台湾における“孫学研究”
で最も重要なのは最初の滞在」という。
革命を志す若き日の孫文は、1900年9月末から11月上旬の
四十数日間、日本人の支援者らと台湾で過ごした。
◇
その際の日本人支援者の一人はくしくも戦後、日本が領有権を放棄した
台湾で、中華民国政府が、革命や抗日戦争の戦死者らのために、台湾護国
神社跡地に建立した「国民革命忠烈祠」に唯一の外国人としてまつられている。
山田良政(1868〜1900)。
青森出身で、地元師範学校を中退後、同郷の言論人、陸羯南を頼って上京。
その影響で清国研究を始め、孫文らの革命を支援するようになった。
1900年、義和団の乱を機に、孫文は広東省恵州で初の蜂起を企てるが、
武器や資金集めが難航。当時の台湾総督府民政長官、後藤新平が山田と懇意
だった縁で、山田は孫文らと台湾入りし、児玉源太郎総督に支援を要請した。
総督府は大陸での親日革命政権誕生に期待を寄せ、「挙兵に成功すれば
広東省の陸豊、海豊で2個師団分の武器を援助する」と約束。勢いづく
孫文は台湾を基地に10月初め、同志に命じて恵州挙兵を決行した。
つづく
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