紫陽花亭日乗

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刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 5 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/08 00:53 投稿番号: [281 / 735]
荊軻知太子不忍、乃遂私見樊於期曰。秦之遇將軍、可謂深矣。
父母宗族、皆爲戮没。今聞購將軍首金千斤、邑萬家。將奈何。
於期仰天太息流涕曰。於毎念之、常痛於骨髄。顧計不知所出耳。
荊軻曰。今有一言可以解燕國之患、報將軍之仇者。何如。
於期乃前曰。爲之奈何。荊軻曰。願得將軍之首以獻秦王。秦王必喜而見臣。
臣左手把其袖、右手①其匈。然則將軍之仇報、而燕見陵之愧除矣。將軍豈有意乎。
樊於期偏袒②③而進曰。此臣之日夜切歯腐心也。乃今得聞繁。遂自剄。

①「テヘン」+「甚」    つきさす    チン
②「テヘン」+「﨟」    ヤク
③「テヘン」+「宛」    ワン


荊軻、太子の忍びざるを知るや、
乃ち遂に私(ひそか)に樊於期に見(まみ)えて曰く、
「秦の將軍を遇するは深しと謂うべし。
父母宗族、皆戮没(りくぼつ)せらる。
今聞く、將軍の首を金千斤、邑萬家に購(あがな)うと。
將(まさ)に奈何(いかん)せん」
於期、天を仰ぎて太息し、流涕して曰く、
「これを念(おも)ふ毎に、常に骨髄に痛む。ただ計の出ずる所を知らざるのみ」
荊軻曰く、
「今、一言にして以て燕國の患いを解き、將軍の仇を報いんとすべき者
有らば、何如(いかん)」と。
於期、すなわち前(すす)みて曰く、
「これをなすは奈何(いかん)」と。
荊軻曰く、
「願はくば將軍の首を得て以て秦王に獻ぜん。秦王必ず喜びて臣を見ん。
臣、左手に其の袖を把(つか)み、右手に其の匈(むね)を①(つきさ)さん。
然(しか)せば則ち將軍の仇報いられて、燕、陵(しのが)るるの愧(はじ)
除かん。將軍、豈に意有りや」と。
樊於期、偏袒(へんだん)②③(やくわん)して進みて曰く、
「此れ臣の日夜切歯腐心するところなり。乃ち今繁を聞くを得たり」
遂にみずから剄(くびはね)る。


★いくつか、字が代えてあります。


荊軻は、太子の、樊於期を殺すに忍びない心の内を知ると、
そこでひそかに樊於期に会いに行ってこう言った。

「秦の將軍に対する処遇は、あまりにも酷薄に過ぎます。
ご両親・ご一族の方々は皆罪に落とされ殺戮されました。
今わたしが耳にしたところでは、秦は將軍の首に、金千斤、一万戸の
土地の報奨をかけている、と。さて、なんとなされます」

樊於期は天を仰いで大きく息をつき、涙を流してこう答えた。

「わたしは、このことを深く思い、その度にいつも骨髄にも達する痛みを
感じます。しかしながら自分でもどうしたらいいのかわからないのです」

樊於期の言を受けて、荊軻は言った。

「今、一言で言える、燕国の憂いを解き放ち、將軍の仇を報ずる策略が
有るとするならば、どうなさいますか」と。

すると樊於期は、前に進み出て言った。

「いったい、どのような策なのでしょうか」と。

荊軻が答える。

「將軍の首を手に入れてそれを秦王に献上したいと思うのです。
さすれば秦王は必ず喜んでわたしと会見するでしょう。
わたしは、左手に秦王の袖をつかみ、右手で秦王の其の胸を突き刺すのです。
そうすれば、將軍の仇に報いることができ、燕が秦より受けた陵辱も
除かれるでしょう。將軍、同意するお気持ちはありますか」と。

樊於期はかたはだを脱ぎ、あらわになった腕をさすり、前に出てこう言った。

「この策こそ、わたしが日夜、歯を食いしばり、胸をかきむしる思いで
いたものです。ちょうど今そのご教示を聞くことができました」

そして、そこで、みずから自分の首を刎ねた。


つづく

729, 730

刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 4 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/08 00:42 投稿番号: [280 / 735]
荊軻曰。微太子言、臣願謁之。今行而毋信、則秦未可親也。
夫樊將軍、秦王購之金千斤、邑萬家。
誠得樊將軍首、與燕督亢之地圖、奉獻秦王、秦王必説見臣。臣乃得有以報。
太子曰。樊將軍窮困來歸丹。丹不忍、以己之私、而傷長者之意。願足下更慮之。

荊軻曰く、太子の言微(な)くも、臣これを謁(つ)ぐるを願へり。
今行くとも信毋(な)くば、則ち秦、未だ親(ちか)づく可からざらん。
夫(そ)れ樊將軍は、秦王これを金千斤、邑萬家に購(あがな)ふ。
誠(も)し樊將軍の首と、燕の督亢(とくこう)の地圖とを得て、
奉りて秦王に獻ずれば、秦王必ず説(よろこ)びて臣に見(まみ)えん。
臣乃(すなは)ち以て報(むく)ゆる有るを得ん。
太子曰く、樊將軍窮困して來り丹に歸す。
丹、己れの私を以てして、長者の意を傷(そこな)うに忍びず。
願はくは足下、更にこれを慮(おも)んばかれ。


荊軻は言った。

「仮に太子のお言葉がなくとも、わたしからこのことについて
申し上げようと思っていたのです。
今秦に行ったとしても証拠がなければ、秦王に接近することはできないでしょう。
そもそも樊將軍(太子丹が匿っている燕に亡命してきた秦の將軍樊於期)
には、秦王は金千斤、一万戸ある土地を報奨にかけています。
もし樊將軍の首と、燕の督亢(とくこう)の地図とを手にすることができて、
奉つり秦王に献上すれば、秦王は必ず喜んでわたしを引見することでしょう。
そうすれば、わたくしめはそこでご恩返しができます」


太子が言った。

「樊將軍は身の置きどころがなくせっぱつまってこの燕にやって来て
この丹に頼ったのです。
丹は、自分自身の非常に私的なことのために、尊敬する樊將軍の心を
傷つけることはできません。
どうか荊卿、もう一度よくご検討いただけないものでしょうか」


★地図を献上するということは、
その地図に描いてある土地を献上するということです。

幕末に有名なシーボルト事件というのがありました。
当時の日本では、国外に日本地図を持ち出すことは禁止されていました
が、その根底には地図に対するこういった思想があったものと思われます。

『日本書紀』にも、はるばる種子島から地図と土地の産物を持って
朝貢にやってきたという記事が出ています。


つづく

720

Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/08 00:28 投稿番号: [279 / 735]
★駑下(どか)・・・才能不足、凡庸なことをいいます。


★上卿・・・もと、王のもてなし役。周代において卿の最上位。
「卿」は、高位・高官者、貴人、側近などをいいます。


★太牢(たいろう)・・・牛・羊・豚の三種類の肉の揃った最高の料理。
「太牢具」ともいいます。


★荊軻はここで最高の待遇を受けているわけですが、
大昔の南米のどこかで、翌年の神への生贄を決めて、生贄になった人は
一年間を王侯貴族のような暮しができた、ということを思い出しました。

それと、「喜び組」というようなものは、
どうもいつの時代にもどの国にも存在したようですね。


★絶対に生きて帰れない暗殺者となることを荊軻が引き受けてくれたので、
太子丹はかなり下手に出ていますが、荊軻がなかなか出立しようとしない
ので不安にかられイライラしてきます。

ここでも太子丹の心中に「疑」がわきおこっています。

荊軻を全面的に信頼していないようです。すなわち、

燕太子丹・・・荊軻を不認知、ということになります。


★足下・・・あなたの足元にひれ伏す。甚だしい尊敬の言い方です。

閣下・殿下・陛下とだんだん上位になります。
陛下の陛はきざはし、すなわち階段の下ですが、貴人に対し下位のものは
自分から話しかけることはできず、またご下問があってお答えするのも
間に人を介さなければなりませんでした。
「直答を許す」というのは、そこらあたりの事情からできたセリフです。

陛下に(殿下・閣下なども)何か申し上げる際に、直接申し上げることは
できず、貴人のおはします建物の階段の下に侍っている人を通じて
申し上げたのでした。

あなたの足もとにいるわたし   →   階段の下の侍者   →   貴人そのもの

をいう、という変化をとげたものと思われます。


つづく

刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 3 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/07 02:25 投稿番号: [278 / 735]
久之、荊軻曰。此國之大事也。臣駑下、恐不足任使。
太子前頓首、固請毋譲、然後許諾。
於是尊荊卿爲上卿、舎上舎。太子日造門下、供太牢、具異物、
輭進車騎美女、恣荊軻所欲、以順適其意。
久之、荊軻未有行意。
秦將王翦破趙虜趙王、盡収入其地、進兵北略地、至燕南界。
太子丹恐懼、乃請荊軻曰。秦兵旦暮渡易水、則雖欲長侍足下、豈可得哉。


これを久しうして、荊軻曰く、此の國の大事なり。
臣駑下(どか)にして、任使するに足らざらんことを恐る。
太子前(すす)みて頓首し、固く請ふ譲る毋(な)かれ、と。然る後許諾す。
是に於いて荊卿を尊んで上卿と爲し、上舎に舎(やど)す。
太子、日々門下に造(いた)り、太牢(たいろう)を供し、異物を具し、
輭(まま)車騎美女を進め、荊軻の欲する所を恣(ほしいまま)にせしめ、
以て其の意に適うに順う。
これを久しうするも、荊軻未だ行く意有らず。
秦の將・王翦、趙を破りて趙王を虜にし、盡く其の地を収め入れ、
兵を進めて北のかた地を略し、燕の南界に至る。
太子丹、恐懼し、乃ち荊軻に請うて曰く、秦の兵、旦暮易水を渡らば、
則ち長(とこしな)へに足下に侍せんと欲すと雖も、豈に得可けんや。


しばしの沈黙の後、荊軻は言った。
「これは國の大事です。
わたしは凡庸で能力に劣り、とてもそのような大役はつとまらないでしょう」

太子は前に進み出て頓首し、
「どうしてもお願いしたい。どうか辞退しないでいただきたい」と言った。

それで荊軻は承諾した。

それからというもの、太子丹は荊卿を尊んで上卿となし、
上等な宿舎に住まわせた。
太子は、連日荊軻のもとにやって来て、太牢(たいろう)を供し、珍しい品物
を備え、ときには車騎、美女を勧め、荊軻のしたいままに好き放題をさせ、
荊軻の気持ちに適(かな)うように従った。

しかししばらく経っても、荊軻はいっかな腰をあげようとしなかった。

その間にも秦の將軍・王翦(おうせん)が趙を破り、趙王を虜(とりこ)にし、
趙の領土をすべて収奪し秦のものとして組み入れ、北方に進軍して
行くさきざきで地を略定し、燕との南の境界まで至った。

太子丹は恐れいらいらして、やむなく荊軻に頼んだ。

「秦軍は、今にも易水を渡ろうとしています。そうなれば、いついつまでも
あなたにお仕えしたいと思っていても、どうしてそれができましょうや」



つづく

715, 716

「愚妻」って、「愚かな妻」のこと ???

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/07 02:14 投稿番号: [277 / 735]
「愚妻」って、「愚かな妻」のこと ???

中国が自国の地図で「尖閣諸島は日本領土」と記していた
動かぬ証拠、の地図が掲載されているというので、
『週刊ポスト』2010/10/15号を買いました。

尖閣は誰がどういおうと日本の領土てある数々の証拠がありますから、
それはおいといて。

他に、「愚妻」を、This   is   my   stupid   wife.
と訳していた記事がありました。
ちょっと面白いな、と思ったので取り上げてみます。

この筆者は「愚妻」を謙譲語だと言っています、これは正しい。
しかし、「これが私の愚かな妻でして」と書いている、これは間違い。

「愚」に愚かと言う意味は、もちろんあります。
しかし、自分のことを謙遜して言う場合も「愚」といいます。

たとえば、古代、君主が自分のことを「寡」と称しました。
「寡」は「少ない」という意味。何が少ないか、
謙遜して、「徳の少ない私」といっているのです。
同様に、「寡婦」も「徳が少なくて夫を自分より早く死なせた妻」という意味。
同様に、「未亡人」も、「夫が死んだのにまだおめおめ生きている妻」。
「寡婦」とか「未亡人」とか、ちょっと教養のある人なら、
当人の面前で不用意に使用しないと思います。

閑話休題、本論にもどります。

「愚」とは自分自身のことであり、
自分のもちものに冠したときも謙譲語になります。

したがって、「愚妻」は、「妻が愚か」なのではなく、
「愚かである自分の妻」という意味です。

愚見・愚言・愚虜・愚志・愚心・・・みなそうです。

二文字丸ごと自分の謙譲に、「愚兄・愚弟・愚老・愚臣」などがあります。
「愚兄」は相手が年下の場合、「愚弟」は相手が年上の場合の自分をいいます。
これは他に兄弟を謙遜して言う場合もあります。「愚妻」と同じ構造です。

「小生」という言葉がありますが、これは本来、相手が自分より
目下の場合に使う言葉です。ところが、大新聞などでエラそうに
「小生が・・・」なんて書いてある、違和感を持ちます。

「愚臣」は、君主に対して、大臣などが用いる言葉。

なのですが、漢語に「愚妻」という言葉はありません。
実はこれ、日本語だったのですね。
では漢語で「愚妻」をなんというか、「賤内」とか「賤室」とか、
「賤」のところに「拙」とか。

では、「愚妻」について、国語辞典ではどう説明しているでしょうか。

岩波国語辞典 / 私の妻。へりくだった言い方。
電子辞書広辞苑 / 自分の妻の謙称。

岩波はいいですね。広辞苑はなんかぼかしていませんか。


4806

刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 2 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/07 02:08 投稿番号: [276 / 735]
丹之私計、愚以爲誠得天下之勇士使於秦、窺以重利。秦王貪。其勢必得所願矣。
誠得劫秦王、使悉反諸侯侵地、若曹沫之與齊桓公、則大善矣。
則不可、因而刺殺之。彼秦大將擅兵於外、而内有亂、則君臣相疑。
以其輭、諸侯得合從、其破秦必矣。此丹之上願、而不知所委命。唯荊卿留意焉。

丹の私計、愚、以爲(おもへらく)誠(も)し天下の勇士を得ば秦に使わし、
窺(うかが)ふに重利を以てす。秦王貪(むさぼ)り、其の勢ひは必ず願ふ所を得ん。
誠(も)し秦王を劫(おびやか)すを得て、悉く諸侯の侵地を反(かへ)さしめ、
曹沫の齊の桓公に與(お)ける若(ごと)くならずば、則ち大いに善し。
則ち可(き)かずんば、因ってこれを刺殺せん。
彼の秦の大將、兵を外に擅(ほしひまま)にして、内に亂有らば、
則ち君臣相疑わん。
其の輭を以て、諸侯合從するを得ば、其れ秦を破るは必せり。
此れ丹の上なる願ひなり、而るに命を委(ゆだ)ねる所を知らず。
唯(ただ)荊卿、意を留(とど)めよ。


★「窺」は、字が換えてあります。原字は、「門」の中に「規」

★「留」は、原字は本字のほうです。


この丹の私案では、わたしのような愚かな人間が思いますのに、
もし天下の勇士を得て秦に使者として遣(や)り、
多くの利を以て誘引したとします。

秦王は貪欲ですから、
その勢い(流れ)として必ずこちらが期待する方向に運ぶでしょう。

もし秦王を脅迫することができ、その結果、ことごとく諸侯の侵地を
返還させることが、曹沫(そうばつ)が齊の桓公に奪取した領土を
返還させたようにできれば重疊至極。

それで秦王が要求をきかなかった場合には、
そこで秦王を刺殺すればいいのです。

あの秦の大將どもは、兵を国外に出して自分勝手をしておりますから、
内亂が有れば、君臣はお互いに疑念をもつことでしょう。

その隙に乗じて、諸侯が合從することができれば、
秦を破ることができるは必定。

これが丹のこの上ない願いなのですが、
ただその使命を誰に委(ゆだ)ねればいいのかがわからないのです。
唯(ただ)荊卿、どうかこのことにご留意ください」


★愚
太子丹が自分のことを謙遜していっています。「わたし」ということです。

丹は、始め荊軻に自分のことを「孤」といったわけです。
ところがここにきて「愚」といっています。

その心理の動きを推し量るとなかなか面白いと思います。


★丹は、問答無用で即座に秦王暗殺ではなく、
まず脅迫していうことをきかせる、と言っています。
こういった甘さも失敗の要因のひとつです。


つづく

709, 710

Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/07 01:58 投稿番号: [275 / 735]
それから荊軻は太子と会見し、田光の死を告げ、光の遺言を伝えた。
太子は再拝して跪き、謹んで膝で進み涙を流した。
そしてしばらくたってこのように言った。

「丹が田先生に『口外しないでください』と誡めた理由は、
大事の謀(はかりごと)を成就させたいと思ったからこそです。
それなのに、田先生は死を以て口外しなかったことを明白にされました。
けれどもこの丹の心づもりは、そんなことではありませんでした」

荊軻が所定の位置に着席した。
太子はへりくだって自分の席を避け頓首して言った。

「田先生は、わたしの不肖を知らず、あなたと会見でき、
あなたに厚かましいお願いができるよう取り計らってくださいました。

このことは、天が燕を哀れみ、わたしを見捨てないという証拠です。

今、秦には利を貪る意図が有って、その欲望には限りがありません。
天下の地をあまねく自分のものとし、この世の王という王者を
すべて臣下とするまでは、その貪欲は満足することはないでしょう。

今や秦はすでに韓王を虜(とりこ)にし、その領土をことごとく秦に
組み入れ、また南方に出兵して楚を伐ち、北進して趙に迫り、
王翦(おうせん)は数十萬の大軍を將(ひき)いてショウ・ギョウを制圧し、
そして李信は太原・雲中に出征しています。

趙が秦の侵攻を支え防ぎきれなくなれば、必ず秦に降って臣従するでしょう。
趙が秦に臣従すれば、当然禍は燕にまで届きます。
燕は弱小国であり、これまでにもしばしば兵禍に苦しみました。

今いろいろ考えてみるに、
全国力を舉げても秦と交戦するだけの力はありません。

諸侯はみな秦に服従して、
敢えて合從して秦にあたろうとするものもおりません。


★頓首・・・頭を床に打ちつけんばかりの丁寧なお辞儀です。


★孤・・・この世にたった一人しかいない人。
従って一般的には君主が自分自身を指す言葉なのですが、この場合
太子丹は自分のことを「孤」と言っています。

このとき丹はまだ太子であって燕王ではありませんが、国政をまかされて
いたということで僭称して「孤」を名乗ったのであろう、
と注釈「索隠」に出ています。

また「孤」とは「父を亡くした子」という意味もありますが、
このとき丹の父である燕王は健在です。

あるいは「孤立した者」と解しても意味は通じます。

宮崎市定『史記を語る』岩波文庫、参照


★「必入臣。入臣、則禍至燕。燕小弱、・・・」
「必ず入りて臣たらん。入りて臣たらば、則ち禍、燕に至らん。
燕は小弱にして・・・」

「入臣。入臣」「燕。燕」にご注目ください。
こういうテクニックを「含尾式・がんびしき」といいます。
非常にリズミカルですね。

戦国時代に諸国を渡り歩き、口先三寸での出世を夢見た
縦横家(しょうおうか)がよく使った説得のテクニックです。


つづく

696

刺客列傳 第五話 「荊軻」 承の段 1 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/07 01:53 投稿番号: [274 / 735]
荊軻遂見太子、言田光已死、致光之言。太子再拝而跪、膝行流涕。
有頃而后言曰。丹所以誡田先生毋言者、欲以成大事之謀也。
今田先生以死明不言。豈丹之心哉。荊軻坐定。太子避席頓首曰。
田先生不知丹之不肖、使得至前敢有所道。此天之所以哀燕而不棄其孤也。
今秦有貪利之心、而欲不可足也。非盡天下之地、臣海内之王者、其意不厭。
今秦已虜韓王、盡納其地、又舉兵南伐楚、北臨趙王翦將數十萬之衆距①②、
而李信出太原・雲中。趙不能支秦、必入臣。入臣、則禍至燕。
燕小弱、數困於兵。今計舉國不足以當秦。諸侯服秦、莫敢合從。

①「サンズイ」+「章」     ショウ     地名
②「業」+「オオザト」     ギョウ     地名


荊軻遂に太子に見(まみ)え、田光の已に死せるを言ひ、光の言を致す。
太子再拝して跪(ひざまづ)き、膝行(しっこう)して流涕す。
頃(しばらく)有りて后(のち)言ひて曰く、

「丹の田先生に言ふ毋(な)かれと誡むる所以(ゆえん)の者は、
以て大事の謀(はかりごと)を成さんと欲すればなり。
今、田先生死を以て言わざるを明らかにするは、豈に丹の心ならんや」

荊軻、坐定む。太子、席を避け頓首して曰く、

「田先生、丹が不肖を知らず、前に至るを得、敢て道(い)ふ所有らしむ。
此れ天の燕を哀れみて其の孤を棄てざる所以(ゆえん)なり。
今、秦に利を貪(むさぼ)るの心有りて、欲、足(みた)す可からざるなり。
天下の地を盡(つ)くし、海内(かいだい)の王者を臣とするに非ざるよりは、
其の意厭かず。
今秦、已に韓王を虜(とりこ)にし、盡(ことごと)く其の地を納(い)れ、
又兵を舉げて南のかた楚を伐ち、北のかた趙を臨み、
王翦、數十萬の衆を將いて①ショウ・②ギョウに距(ふせ)ぎ、
而して李信、太原・雲中に出ず。
趙、秦を支える能(あた)わずんば、必ず入りて臣たらん。
入りて臣たらば、則ち禍、燕に至らん。
燕は小弱にして、數々(しばしば)兵に困(くる)しむ。
今計るに國を舉ぐるも以て秦に當たるに足らず。
諸侯秦に服して、敢て合從(がっしょう)する莫し」


つづく

695

Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 01:32 投稿番号: [273 / 735]
★依頼の関係の反復です。司馬遷のひとつのテクニックでしょう。


9. 願因太傳而得交於田先生。可乎。
願わくは太傳に因(よ)りて田先生に交わるを得ん。可ならんか。
鞠武曰。敬諾。
鞠武曰く、敬(つつし)んで諾す。

9. 道太子願圖國事於先生也。
太子國事を先生に圖るを願うと道う。
田光曰。敬奉教。
田光曰く、敬(つつし)んで教えを奉ず。

10. 太子曰。願因先生得結交於荊卿。可乎。
太子曰く、願わくば先生に因(よ)りて荊卿に交を結ぶを得ん。可ならんか。
田光曰。敬諾。
田光曰く、敬(つつし)んで諾す。

10. 願足下過太子宮
願わくは足下、太子を宮に過(よ)ぎれ。

11. 荊軻曰。謹奉教。
荊軻曰く、謹んで教えを奉ず。


★「長者爲行、不使人疑之」
「長者は行いを爲すに人をしてこれを疑わしめず」
「是太子疑光也。夫爲行而使人疑之」
「是れ太子光を疑うなり。
夫れ行いを爲して人をしてこれを疑わしむるは、節侠に非ざるなり」

「疑」という字が続けて三つも出ています。
「疑」は、人間を辱める行為です。

田光先生のような義に生きる者にとって「疑」がどんなに屈辱的なことか、
自死をもって身の潔白を証明するに価するほどのことでした。
面白いことに「義」も「疑」同音です。


★太子という貴人の身分では、義侠の志というものを理解することができず、
余分なことを口走ってしまいました。もう取り返しがつきません。

太子丹のこういう浅薄さは、荊軻に対してもやがて具現され、
荊軻の始皇帝暗殺失敗の遠因ともなります。


★長者・・・尊敬すべき、徳のある、立派な人


★「起の段」はここまで、次回から「承の段」に入ります。


689

刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 11 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 01:29 投稿番号: [272 / 735]
荊軻曰。謹奉教。田光曰。吾聞之、長者爲行、不使人疑之。今太子告光曰。
所言者國之大事也。願先生勿泄。是太子疑光也。夫爲行而使人疑之、非節侠也。
欲自殺以激荊卿。願足下急過太子、言光已死、明不言也。因遂自刎而死。


荊軻曰く、「謹んで教えを奉ず」
田光曰く、
「吾れこれを聞く、長者は行いを爲すに人をしてこれを疑はしめず。
今 太子 光に告げて曰く、
『言ふ所の者は國の大事なり。願わくは先生泄(も)らす勿かれ』
是れ太子 光を疑うなり。
夫れ行いを爲して人をしてこれを疑はしむるは、節侠に非ざるなり。
自殺して以て荊卿を激まさんと欲す。
願わくは足下急ぎ太子を過(よ)ぎり、
光已に死せるを言い、言わざるを明らかにせよ」と。
因って遂に自(みずか)ら刎(くびはね)て死す。


荊軻が答えた。

「謹んでご指示に従います」

田光はまた言った。

「わたしはこのように聞いています。
人から尊敬される人間というものは、
その行動は人に疑惑を起こさせないものです。

さきほど太子がこの田光に告げて云うには

『今ご相談したことは国の大事です。
どうか先生、口外なさいませんように』と。

すなわち太子はこの田光を疑ったのです。
行動して人に疑惑を抱かせるのは、義侠の男ではありません。
故にわたしは自殺して、
そのことを以てして荊卿に奮起してもらおうと思います。

どうかあなたは急ぎ太子を訪ね、光のすでに死んだことを報告し、
光が誰にも口外しなかったことを明確にしてください」と。

そういうわけで、そこで自刎して死んだ。


つづく

688

飲酒 其七     陶淵明

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 01:22 投稿番号: [271 / 735]
8月2日付   編集手帳

  憂いを忘れる、と書いて「忘憂」は、酒の異称でもある。

中国の詩人、陶淵明が『飲酒詩』のなかで酒を「忘憂の物」と
呼んだことに由来するという

◆つらい出来事、嫌な記憶は早く忘れるに限る――
とばかりに四季を問わず「忘憂」のお世話になっている身には、
少々きまりの悪い写真をヨミウリ・オンラインで見た。
夏の甲子園に2年連続の出場を決めた秋田県代表・能代商の
室内練習場である

◆能代商は昨年の夏、初戦で鹿児島実業(鹿児島)に「0対15」の
惨敗を喫した。
そのイニングスコアが、横断幕のように練習場の壁に貼られている

◆悔しさを雪辱の糧とするためという。
痛恨の出来事を目に焼き付け、胸に刻む。
忘憂ならぬ“刻憂”かも知れない。
思えば、日本人一人ひとりが“刻憂”のなかにいる。
6日の開幕に向けてきのう、49代表が出そろった。
いつもながらの、そして、いつもとはほんの少し何かが違う
夏の甲子園になることだろう

◆小欄も「忘憂」の器をしばし遠ざけて能代商ナインを見習い、
出来の芳しくなかった記事を職場の壁にでも貼ってみようか…。
候補が多くて、ちょっと迷う。

(2011年8月2日01時39分 読売新聞)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

飲酒   其七       陶淵明(東晉・365〜427)


秋菊有佳色       秋菊   佳色有り
①露②其英       露にぬれし其の英(はなぶさ)をとる
汎此忘憂物       此の忘憂の物に汎(う)かべて
遠我遺世情       我が世を遺(わす)るるの情を遠くす
一觴雖獨進       一觴(いっしょう)獨り進むと雖も
杯盡壷自傾       杯盡きて壷自(おのず)から傾く
日入羣動息       日入りて羣動(ぐんどう)息(や)み
歸鳥趨林鳴       歸鳥   林に趨(おもむ)いて鳴く
嘯傲東軒下       嘯傲す   東軒の下(もと)
聊復得此生       聊(いささ)か復た此の生を得たり

①「衣部」の七画「ユウ」の字
②「てへん」+「双」+「双」(双は上下に)


秋の菊がみごとに花開いた
露にぬれたその花びらをつんで
「憂いを忘れる物」といわれるこの酒に浮かべると
世俗から遠く離れたわたしの心がいっそう深まるようだ
独酌でちびりちびりやっているが
やがて酒がなくなって、壷はひとりでにごろんと倒れる
日が暮れて、もろもろの動きもやみ
鳥たちも林の中のねぐらに鳴きながら帰って行く
わたしも東の軒下で心のびやかに口笛を吹く
今日もまずまず無事に過ごせたのだ


★菊の花は不老長寿の薬

★「忘憂」は酒の異名

★松枝茂夫『中国名詩選』中, 岩波文庫

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Re: 【孫文の志 未だ成らず】辛亥革命100

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 00:59 投稿番号: [270 / 735]
孫文は国民党からも中共からも偉大な革命家として尊敬されている。
であるがゆえに孫文についての弱点・欠点については表に出されることはない。

辛亥革命後、財政苦境に喘ぐ革命政府のために、借款を得ようとした。
その手段は中国の主権を損ない、日本の利権拡張に繋がるものであった。

また、孫文の規定した欧米覇道とアジア(中国)王道の対比。
孫文の提唱した大アジア主義という言葉に含まれる侵略主義的側面は
マルクス・レーニン主義の歴史学にはなじまない。
この孫文の国際関係に対する認識の一つの表現についてほとんど論評がなされていない。

孫文の日本人妻の問題。孫文と親交のあった日本人の中国貿易商の娘、当時
14歳だった大月薫に求婚し「まだ子供である」ことを理由に断られている。
その1年後、高等女学校生となった薫に直接求婚。簡単な結婚式をあげた。
3年後、薫は身籠ったが、以後二度と再会することはなく、実際の誕生より
1年半おくれて、しかたなく子供を父の戸籍に入れた。

孫文の日本人妻はこの大月薫のほかに、松本ハヤ(=浅田ハル)がいる。

====================

昨日よりの辛亥革命と孫文についての記述は、
学生時代に受けた講義とそのときの資料によるものです。


908,909

【孫文の志 未だ成らず】辛亥革命100

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 00:54 投稿番号: [269 / 735]
辛亥革命は、爆弾製造中の不注意なアクシデントにより、
予定より早くやらざるをえなかった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

湖北省博物館の隣りに辛亥革命記念館があります。

武漢三鎮とは、漢口・漢陽・武昌のことです。


1911年、10月9日
午前10時。漢口ロシア租界内の共進会総機関部にて、孫武が爆弾を製造中、
劉同がくわえタバコでやって来て、そのタバコの火が火薬のなかに落ちて爆発。
ロシア租界警察が急襲して、革命派20数名を逮捕し、
同時に、名簿・革命軍紙幣・軍旗・宣言文・銃器などが押収された。

午後5時。革命司令部は「今夜0時蜂起する」との決定を下したが、
戒厳令の中で伝達がうまく進まず、逆に司令部(武昌小朝街)が襲われ、
32名が逮捕されるにいたった。


10月10日
早朝、彭楚藩・劉復基・楊宏勝の3名を見せしめのために斬首の刑に処する。
このようななかで、蜂起のやむなきにいたり、工程隊8営の熊秉坤ら
同志のよびかけで午後7時点呼後に蜂起することにした。


1911(明治44)年10月10日午後7時すぎ、
湖北省武昌城内に駐屯している工程隊第8営の夜の点呼が終わる。
この時、後隊第2排排長陶啓勝が突如部下の金兆龍を革命陰謀のかどで
逮捕するよう護衛兵に命じた。

しかし誰もこれに従わず、陶啓勝と金兆龍が揉み合ううちに、
捩じ伏せられた金が、周囲の兵に決起を促した。

これを受けて革命派の程定国が銃床で陶の頭を強打、陶は廊下に逃げる。
逃げる陶を狙って程が発砲、弾丸が陶の腰をかすめる。

この一発の銃声が辛亥革命の狼煙となった。

銃声を聞いて駆けつけた代理管帯阮永発が、陶啓勝を革命派と誤認して
射殺、代理管帯も乱闘の中で射殺される。

工程隊第8営熊秉坤・金兆龍ら40名は、かねての計画通り、
楚望台の軍械庫を目指して進軍、300余の革命派がここに集結するにいたった。
楚望台警備左隊隊官呉兆麟が革命軍の臨時総指揮となる。


11日午前0時。
楚望台の革命軍は、3路に分かれて、8鎮司令部と督署に進撃する。
清朝側3200人を数える。
当時以下のような革命蜂起の状況で、革命側の総数2000人であった。

城外21混成協工程隊・輜重隊も決起。弾圧を命じられた砲隊もこれに合流、
武勝椚の城外へ。

8鎮29標2営蔡済民、30標・41標の一部、湖北陸軍測絵学堂の場内蜂起。
城外8鎮砲隊、馬隊、41標も蜂起して場内へ。

まず総督瑞澂の逃亡、続いて抵抗していた8鎮統制張彪の逃亡、
督署が火に包まれ、清朝軍の敗退。


10月11日未明。
武昌城内は革命軍が制圧、黄鶴楼上に18星旗が掲げられる。
同日中に漢陽・漢口も革命軍の手に落ちる。

武昌の革命は、リーダーなくして始まった。
しかし政治・軍事の最高責任者の逃亡(瑞徴、張彪)と、革命兵士の自己犠牲
にみちた英雄的な闘いによって、武昌における清朝支配権力は打倒された。

孫文・黄興・章炳麟の三人を、辛亥革命の三尊という。

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Re: 【孫文の志 未だ成らず】辛亥革命100

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 00:48 投稿番号: [268 / 735]
  だが計画は日本側の事情で失敗する。
山県有朋から内閣を引き継いだ伊藤博文は欧米列強との協調姿勢で
中国への内政不干渉を徹底。武器供与の約束が反古(ほご)になったのだ。

  海豊での挙兵準備中だった山田は責任を感じ、恵州に赴いて革命軍に
解散を伝達するが、清国軍の追撃を受けて10月下旬、
身分を隠したまま処刑されたという。

  その11年後に辛亥革命に成功した孫文は12年、東京・谷中に、
また19年には弘前の山田家の菩提(ぼだい)寺に石碑を建立。
18年には部下に恵州で山田の遺骨を捜索させたが発見できず、
同地の土を遺族に贈っている。

  谷中・全生庵の碑文で孫文は「君、身を挺して義に赴き遂に戦死す」
「興亜の先覚たり…その志は朽ちず」と山田を悼み、夫人らには
「中国革命のため、外国人として最初の犠牲者となってくださったことに、
全中国国民を代表して感謝申し上げます」と頭を下げた。

  台北市にある「国民革命忠烈祠」の一隅。
山田の位牌(いはい)前に展示された彼の遺影や孫文の碑文に
気づく人は少なく、劉博士すら「知りませんでした」という。



  その辛亥革命から100年。台湾当局の「民国百年」記念事業の一つが
特別展「孫文と米国」だった。7月4日から30日まで国父紀念館で
催されたのだが、開幕日にはわざわざ米国独立記念日が選ばれた。

  馬英九総統は開幕式典で、国父、孫文を米国の初代大統領になぞらえた。

  「“中国のワシントン”を記念する展覧会に、米国が協力することは
大変重要な意義があります」

  会場にはもちろん、同展を共催する米国在台協会台北事務所
(大使館に相当)のウィリアム・スタントン所長の姿があった。

  「孫文の建国理念の一部は米国から影響を受けたものなのです」。
米国留学経験もある馬総統は、米国との関係が深く、
ことさらに台米の歴史的な縁を強調してみせた。

  同展では、革命前夜、清朝政府に追われていた孫文が米国籍を
取得していたことを証明する米公文書が、初めて一般公開された。
また、孫文の軍事顧問だった米国人、ホーマー・リー氏の史料も展示された。

  式典後、それらを熱心に見て回る馬総統を台湾メディアのカメラ多数が
追いかける。人影まばらな「梅屋敷」とはいかにも対照的だ。

  台湾が今、孫文と米国の関係をアピールする背景には、
政治的思惑も見え隠れする。
中国との関係改善を進めつつも、その軍事的台頭を警戒する台湾は現在、
F16C/D型戦闘機などの武器売却を米国に要求、
逆に中国は売却しないよう米側に働きかけているのだ。

  特別展を「孫文」を軸にした外交の舞台とみるならば、台湾を取り巻く
国際政治環境を示すバロメーター、それが「孫文」といえる。

  台湾において今後、どんな「国父」像が示されていくのか。
「興亜の先覚」山田良政が再び脚光を浴びる時代がやってきたとき、
日台米中の関係はどう変化しているのだろう。(台北   吉村剛史)

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【孫文の志 未だ成らず】辛亥革命100年

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 00:47 投稿番号: [267 / 735]
【孫文の志   未だ成らず】
辛亥革命100年(3)   台湾の国父像
2011.8.2 17:29 (1/4ページ)     産経新聞


7月4日、台北市の国父紀念館で開幕した特別展
「孫文と米国」を見学する馬英九総統

“中国のワシントン”演出


  中華民国の青天白日満地紅旗が翻る台湾。今年、「建国100年」を迎えた。
儀仗(ぎじょう)兵が巨大な孫文座像を守る台北市の「国父紀念館」は、
街のシンボル、台北101ビルの目の前に位置し、
1時間ごとの衛兵交代式はカメラを構えた観光客でにぎわっている。

  だが、台北市の中心、台北駅の東隣に位置する
“もう一つの国父紀念館”を訪れる人影はまばらだ。

  瓦屋根に床の間のある座敷、庭園をのぞむ縁側。
「逸仙公園」の緑の中にたたずむ伝統的な日本家屋こそ、台湾を訪れた
孫文が滞在したという旧料亭旅館「吾妻別館」(梅屋敷)である。

  「存在自体知りませんでした」と、散歩中に訪れた地元女子大学院生
(23)は目を丸くする。駅の隣だが目立たない場所だ。

  床の間には孫文の胸像や愛用の机などが飾られ、滞在中に残した「博愛」
の揮毫(きごう)も。広間には孫文の業績を紹介するパネルが並び、
「中華民国臨時大総統誓詞」「三民主義自序」などの複製史料が展示されて
いる。梅屋敷は2007年まで、「国父史蹟(しせき)紀念館」と呼ばれていた。

  中国国民党の党史館の邵銘煌主任や、国父紀念館で研究活動を行う
劉碧蓉博士らによると、孫文は「1900年、13年、18年の計3回
台湾を訪れた」という。
梅林が名物だった梅屋敷での滞在は2度目の13年8月とされている。

「もちろん当時の台湾は大日本帝国領。
記録の多くは日本側の外交史料などによります」と話す劉博士は2度目と
3度目は日本内地行きの際の経由地に過ぎず、「台湾における“孫学研究”
で最も重要なのは最初の滞在」という。
革命を志す若き日の孫文は、1900年9月末から11月上旬の
四十数日間、日本人の支援者らと台湾で過ごした。



  その際の日本人支援者の一人はくしくも戦後、日本が領有権を放棄した
台湾で、中華民国政府が、革命や抗日戦争の戦死者らのために、台湾護国
神社跡地に建立した「国民革命忠烈祠」に唯一の外国人としてまつられている。

  山田良政(1868〜1900)。
青森出身で、地元師範学校を中退後、同郷の言論人、陸羯南を頼って上京。
その影響で清国研究を始め、孫文らの革命を支援するようになった。

  1900年、義和団の乱を機に、孫文は広東省恵州で初の蜂起を企てるが、
武器や資金集めが難航。当時の台湾総督府民政長官、後藤新平が山田と懇意
だった縁で、山田は孫文らと台湾入りし、児玉源太郎総督に支援を要請した。

  総督府は大陸での親日革命政権誕生に期待を寄せ、「挙兵に成功すれば
広東省の陸豊、海豊で2個師団分の武器を援助する」と約束。勢いづく
孫文は台湾を基地に10月初め、同志に命じて恵州挙兵を決行した。


つづく

李登輝氏が在留邦人会で講演

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 00:45 投稿番号: [266 / 735]
李登輝氏が在留邦人会で講演
2011.8.5 17:59     産経新聞

  【台北=吉村剛史】
台湾の李登輝元総統は5日、台北市内で在留邦人に対し
「台湾の直面する危機」と題して講演。

あらためて、馬英九政権が主張する「中台が(定義の違いはあれ)
中国は一つと認めた『92年コンセンサス』の存在」を否定し、
中国との関係改善では最低限の軍事的抑止力の維持や
「和中、親日米」の姿勢の必要性を訴えた。

  台湾日本人会(草野浩一郎理事長)と台北市日本工商会
(岸本恭太理事長)が8月例会として企画。

李氏は、外交機密費の流用があったとして台湾検察当局から6月30日に
起訴されて以来、初めて多数の邦人に向けて講演した。

  対日関係では、東日本大震災に対する台湾からの巨額の義援金について、
台湾の市民の心の中には「いつも日本があり、日本の困難は台湾の困難と
感じている」と説明。
留学や文化交流促進、協力関係強化の必要性などを訴えた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★ご健在でなによりです。

日本の総理大臣に、ヘッドハンティングしてきたいくらいです。

二時間くらいの講演でしたら、普通にすべて日本語を使ってお話されます。

台湾のみなさま。
どうか、台湾民主化をはたされた李登輝さんをおまもりください。

Re: 映画「非情城市」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 00:26 投稿番号: [265 / 735]
こんばんわ。

もう、20年くらい前の映画で、
わたしが見たのは DVD で 2007 年のことでした。

強い衝撃を受けました。
シノロジー専攻でしたので、二二八事件についての多少の知識はありました。

良い映画でした。
時空を越えて、生き続ける名作だと思います。
子々孫々に受け継がれ、見られる不朽の名作だと思っています。

わたしの今回の投稿が、思い出していただける一助になったことを
とても嬉しく思います。

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Re: 刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 00:17 投稿番号: [264 / 735]
★「即起趨出」の「趨」
「こばしり」ですが、太子という貴人の前ですので、
悠然と歩くのは失礼なので、こ走りに出て行ったのです。


★「田光俛而笑曰」「田光俛(ふ)して笑いて曰く」
なぜ、田光先生はうつむいて笑ったのか。これはどういう「笑い」なのか。

「うつむく」というのは、相手に自分の顔を見られないための行為です。
ではなぜ田光は、太子丹に自分の顔を見られたくなかったのか。

①丹に対する疑念が湧いた。
「自分や荊軻の命をあずけるに価する相手だろうか」
②丹に対しての「なんだ、こいつ・・」という冷笑を見せたくなかった。
③丹の田光への「疑」に対し、身のあかしを立てるために死ぬ決心をした。
おまえのようなやつにかかわったせいで俺は死ぬのだという、自嘲的な
複雑な気持ちを持った。自分の浅慮、うかつな行動を侮蔑する笑い。

★「僂行」「背中をまるめて」
田光先生が太子丹に会いに行ったときは、
そんなことは書いてありませんでした。
おそらく、颯爽と会見に臨んだものと思われます。
それにさっきはこ走りに走ったばかりです。
急に年相応の老人に老け込んで背中をまるめよたよたしたのです。
なぜでしょうか。

太子丹が言わずもがなのことを言ったからです。

鞠武は、「燕に田光先生有り。其の人となりは智深くして勇沈(ふか)く、
與(とも)に謀る可し」と言っていました。
田光先生を人物だと見込み信頼したからこその密談でした。

それなのに太子丹は「口外するな」と。一言よけいでした。
すなわち、太子丹は田光先生を本当には認知していなかった、
ということになります。

太子丹にそれほどの意識はなかったでしょうが、
田光先生(士)にとっては生きるか死ぬかの名誉がかかった大問題でした。
すなわち田光先生は、太子丹が自分を「認知していない」と認識したのです。


★太子丹、田光を(無意識のうちに)不認知。
荊軻の秦王暗殺の失敗の遠因は、太子丹にあります。
太子丹の登場する場面は「失敗の予定調和」となっています。


681

刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 10 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 00:13 投稿番号: [263 / 735]
太子曰。願因先生得結交於荊卿。可乎。田光曰。敬諾。即起趨出。
太子送至門、戒曰。丹所報、先生所言者、國之大事也。願先生勿泄也。
田光俛而笑曰。諾。僂行見荊卿曰。光與子相善、燕國莫不知。
今太子聞光壯盛之時。不知吾形已不逮也。幸而教之曰。燕・秦不兩立。
願先生留意也。光竊不自外。言足下於太子也。願足下過太子宮。

太子曰く、願はくば先生に因(よ)りて荊卿に交を結ぶを得ん。可ならんか、と。
田光曰く、敬(つつし)んで諾す、と。即ち起ちて趨(はし)り出づ。
太子送りて門に至り戒めて曰く、
丹の報ずる所、先生の言う所は國の大事なり。
願はくは先生、泄(もら)すなかれ。
田光俛(ふ)して笑いて曰く、諾、と。
僂行して荊卿を見て曰く、光と子(し)と相ひ善きは、燕國知らざるはなし。
今、太子、光が壯盛の時を聞きて、吾が形の已に逮(およ)ばざるを知らず。
幸いにこれを教えて曰く、燕・秦兩立せず。
願はくは先生、意を留(とど)めよ、と。
光竊(ひそか)に自(みずか)ら外にせず。足下を太子に言う。
願はくは足下、太子を宮に過(よ)ぎれ。


太子は言った。「できましたら先生の仲立ちで荊卿と交際したいのですが。
よろしいか」と。

田光は、「たしかに承知いたしました」と答えた。
そして立ち上がりこ走りに出て行った。

太子は門まで送って来て田光先生を戒めて言った。
「わたしが告げたこと、先生がおっしゃったことは国の大事です。
どうか先生、口外なさいませんようお願いいたします」

田光は俯いて笑って言った。「承知しました」

そして背中をまるめて荊軻に会いに行き言った。
「わたしとあなたとの親交は燕の国で知らないものはいません。
太子は、わたしがまだ若く壯盛であった時のことのみを聞いて、
今は已にその当時の自分に及ばないことをご存知ありませんでした。
幸いにこのようなご指示をいただきました。

『燕と秦とは兩立できない。どうか先生、お考えください』と。

あなたはどう思っているか知らないが、
わたしの心の内では、あなたとは疎遠な仲ではありません。
そこであなたを太子に推薦しました。
どうか太子を宮殿に訪ねてもらえないだろうか」


つづく

680, 681

Re: 映画「非情城市」

投稿者: nipponndaisuki003 投稿日時: 2011/08/06 00:11 投稿番号: [262 / 735]
映画の苗写で、その画面を思い出している。当時として、大変な反響の映画でした。解厳、そこそこかな?未解厳なら、228の話はできないはず〜〜

刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 9 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/06 00:02 投稿番号: [261 / 735]
太子曰。願因太傳而得交於田先生。可乎。
鞠武曰。敬諾。出見田先生、道太子願圖國事於先生也。
田光曰。敬奉教。乃造焉。太子逢迎、郤行爲導。跪而蔽席。田光坐定。左右無人。
太子避席而請曰。燕・秦不兩立。願先生留意也。
田光曰。臣聞麒麟盛壯之時、一日而馳千里。至其衰老、駑馬先之。今太子
聞光盛壯之時。不知臣精已消亡矣。雖然光不敢以圖國事。所善荊卿可使也。

★「留」の原文の字は本字です。UP されないので換えてあります。


太子曰く、願はくは太傳に因(よ)りて田先生に交わるを得ん。可ならんか。
鞠武曰く、敬(つつし)んで諾す。
出でて田先生を見、太子國事を先生に圖るを願ふと道(い)ふ。
田光曰く、敬(つつし)んで教えを奉ず。乃ち造(いた)る。
太子逢迎し、郤行(きゃくこう)して導きを爲す。跪きて席を蔽(はら)う。
田光坐を定む。左右に人無し。太子席を避けて請ふて曰く、
燕・秦兩立せず。願はくは先生、意を留(とど)めよ、と。
田光曰く、臣聞く、麒驥盛壯の時は一日千里を馳すれども、其の衰えて
老に至れば、駑馬(どば)すらこれに先だつ。
今、太子、光の盛壯の時を聞きて、臣の精の已に消亡したるを知らず。
然らば光、敢えて以て國事を圖(はか)らずと雖(いえど)も、
善くする所の荊卿使うべきなり。


太子は言った。
「できれば太傳を通じて田先生と交際をしたいと思うのだが。よろしいか」

鞠武が答えた。「たしかに承知いたしました」

それから鞠武は太史丹の所を退出し田先生に会いに行き、
「太子は国事を先生とご相談したいと願っております」と伝えた。
田光は、「つつしんでご命令に従います」と答えた。

それから太子丹のもとへやって来た。
太子は出迎え、あとずさりして案内をした。
膝まづいて田光の席をはらった。田光が着席した。そこには他に誰もいなかった。
太子はへりくだって席を避け、田光先生に頼んだ。
「燕と秦はともに並び立つことはできません。どうか先生、ご留意ください」と。

田光が言った。

「わたくしはこのように聞いています。
駿馬も若く盛んな時は一日千里をも駆けますが、
老いて衰えれば駄馬でさえ駿馬より速く走ります。
今、太子はわたくしの盛壯のころの話をお聞きになられて、
わたくしの精気がすでに消滅しているのをご存知ないのです。
ということでありますので、わたくし自身は敢えて国事についてご相談に
あずかることはいたしませんが、わたくしと親しくしている
荊卿という者がふさわしいでしょう」


★「敬奉教」「敬(つつし)んで教えを奉ず」の「教」
「おしえ」ではなく、君主や部局の長官が発する指令・指示・命令。
現在でも「大統領の一般教書」といいます。

★郤行(きゃくこう)=却行
あとずさりすることですが、
お客にお尻を向けないという非常に丁寧な作法です。
太子ともあろう貴人が、一市井の老人にこのような禮をとっています。

★坐定・・・着席する
このころはまだ床に坐る生活です。
椅子・テーブルの生活の始まりは魏・晉のころから。

★このあたりは完全にフィクションですね。
他に誰もいないのに、誰が密談の様子を見たのか、
ということになります。


つづく

671, 672

刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 8 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/05 23:53 投稿番号: [260 / 735]
鞠武曰。夫行危欲求安、造禍而求福、計淺而怨深、連結一人之後交、
不顧家之大害、此所謂資怨而助禍矣。夫以鴻毛燎於爐炭之上、必無事矣。
且以都鷙之秦、行怨暴之怒、豈足道哉。
燕有田光先生。其爲人智深而勇沈、可與謀。


鞠武曰く、夫れ危うきに行きて安を求めんと欲し、禍に造(いた)りて
福を求めんとし、計淺くして怨み深く、一人の後交に連結し、國家の大害を
顧みざるは、此れ所謂(いわゆる)怨みを資(たす)けて禍を助くるなり。
夫れ鴻毛を以て爐炭の上に燎(や)けば、必ず事無きなり。
且つ都鷙(ちょうし)の秦を以て、怨暴の怒りを行なはしめば、
豈に道(い)うに足らんや。
燕に田光先生有り。其の人となりは智深くして勇沈(ふか)く、
與(とも)に謀る可し。


鞠武が云うには、
(太子丹のおっしゃることは)危険なことをおかしていながら
安全を求めようとし、みずから禍を招くようなことをしていながら
福を求めようとし、計略は浅く怨みは深く、一人(樊於期)との新しい交際を
長く続けるために、国家(燕)への大害を顧みないということは、
相手(秦)の怨みを増大させ、わが国への禍を助長するというものです。

秦がわが燕を攻撃することは、鴻毛を爐炭の上で焼くようなもので、
まったく容易なことなのです。

おまけに鷲や鷹のような猛鳥のごとき秦に、怨みを持たせ、狂暴な憎悪を
もって行動させれば、どんなことになるかその結果は申す必要もありますまい。

この燕に田光先生という賢者がいます。
その人となりは智は深く勇を内に秘めており、
ともに謀るにうってつけの人です。


★田光先生の名が出てきました。


つづく

667

刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 7 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/04 19:48 投稿番号: [258 / 735]
太子曰。太傳之計、曠日彌久、心●然、恐不能須臾。且非獨於此也。
夫樊將軍窮困於天下、歸身於丹。丹終不以迫於彊秦、而棄所哀憐之交、
置之匈奴。是固丹命卒之時也。願太傳更慮之。

●「リッシンベン」+「民」、その下に「日」


太子曰く、太傳(たいふ)の計、日を曠(むな)しうし久しきに彌(わた)り、
心●然(こんぜん)として、須臾すること能はざるを恐る。
且つ獨り此(ここ)に於いてのみに非ざるなり。
夫れ樊將軍、天下に窮困し、身を丹に歸す。
丹、終に彊秦に迫られるを以て、哀憐する所の交わりを棄て、
これを匈奴に置かじ。
是れ丹の命、固より卒(しゅっ)するの時なり。
願はくは太傳、更にこれを慮(おもんばか)れ。


太子は言った。
太傳の謀(はかりごと)は、日を無駄におくり、しかも長期にわたる。
わたしの心は憂いに乱れ、すぐさま解決できないことが心配でならない。

そのうえ問題はただそれだけではない。

樊將軍は、天下広しといえども身を寄せるところに困窮し
その身を丹にあずけたのだ。
わたしには、強力な秦に圧迫されたからといって、哀憐の情を棄て
樊將軍を匈奴に追いやることはどうしてもできない。

それができるのはわたしの命が尽きて死ぬときである。
どうか太傳、もっと何かほかに手立てを考えてくれないだろうか。


★ここで燕太子丹の性格がよくわかります。
何が最重要なことか判断・決断できず、さして重要でないことに固執しています。
でも、リーダーとしては失格でも家庭人としてはやさしい良い人かもしれません。


つづく

666

刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 6 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/04 19:43 投稿番号: [257 / 735]
居有輭、秦將樊於期、得罪於秦王、亡之燕。太子受而舎之。鞠武諌曰。
不可。夫以秦王之暴、而積怒於燕。足爲寒心。又況聞樊將軍之所在乎。
是謂委肉當餓虎之蹊也。禍必不振矣。雖有管・晏不能爲之謀也。
願太子疾遣樊將軍入匈奴滅口。請西約三晉、南連齊・楚、北購於單于、
其後迺可圖也。


居(お)ること輭(しばら)く有りて、秦將樊於期、罪を秦王に得て、
亡(に)げて燕に之(ゆ)く。
太子   受けてこれを舎(やど)さしむ。鞠武諌めて曰く、

「不可なり。夫れ秦王の暴を以て、怒を燕に積む。寒心を爲すに足れり。
又況(いわ)んや樊將軍の所在を聞くをや。
是れ肉を委(お)きて餓虎(がこ)の蹊(みち)に當たると謂う。
禍(わざわい)必ず振(すく)われざらん。
管・晏有りと雖も、これが謀(はかりごと)を爲すこと能わざらん。
願はくは太子、疾(と)く樊將軍を遣り匈奴に入れ口を滅せよ。
請ふ西のかた三晉を約し、南のかた齊・楚を連ね、北のかた單于に購じ、
其の後、迺(すなは)ち圖(はか)る可きなり」


それからしばらくは何事もなく過ぎたが、あるとき秦の將軍樊於期
(はんおき)が、罪を犯し秦王に処罰されそうになり、燕に亡命してきた。
太子は樊於期を受け入れて宿舎をあたえた。鞠武が諌めて言った。

「いけません。ただでさえ暴虐な秦王が、燕への怒りを累積させているのです。
これだけでも恐ろしくて身震いが起こるほどです。
まして樊將軍がこの燕に匿われていると秦王の耳に入ればどんなことになるか。

これを肉を飢えた虎の通り道に置いておくというのです。
この禍(わざわい)から、絶対に逃れることはできないでしょう。
管仲や晏嬰のような謀略に長けた家来がいたとしても、これに対して
対策を立てることはできないでしょう。お願いでございます。太子。
いっときも早く樊將軍を匈奴に遣り、秦に燕を攻める口実をなくしてください。
どうか、西方の三晉(韓・魏・趙)と盟約を結び、南方の齊・楚と連衡し、
北方の單于(ぜんう)と講和し、そうして後、はじめておはかりくださいますよう」


★不可・・・これがなまって「ペケ」という言葉になったそうです。

★管仲や晏嬰

http://www1.ocn.ne.jp/~matsuo3/books/kanchu.htm

http://www8.ocn.ne.jp/~sanngoku/jinbutu-annsi.html

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835412&tid=bbgmdb2vdbffcbeh&sid=1835412&mid=205


★單于(ぜんう)・・・匈奴の王。


★獄中口占       汪兆銘(精衛)
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835412&tid=bbgmdb2vdbffcbeh&sid=1835412&action=m&mid=75
>慷慨歌燕市       慷慨(こうがい)して   燕市に歌い<
>燕の市で歌っていた荊軻のように 意気高らかに歌い<


★春秋戦国マップ
http://homepage3.nifty.com/syunjyu/Map.htm


つづく

659, 660

刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 5 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/04 19:19 投稿番号: [256 / 735]
燕君臣皆恐禍之至。太子丹患之、問其傳鞠武。
武對曰。秦地遍天下、威脅韓・魏・趙氏。北有甘泉・谷口之固。
南有芤・渭之沃、擅巴・漢之饒、右隴・蜀之山、左關・●之險。
民衆而士窅、兵革有餘。意有所出、則長城之南、易水以北、未有所定也。
奈何以見陵之怨、欲批其逆鱗哉。丹曰。然則何由。對曰。請入圖之。

★「遍」の原字は「シンニョウ」が「ギョウニンベン」
★「奈」の原字は、上の部分が「木」

UP されないので代えてあります。

●「肴」+「几」+「又」    コウ


燕の君臣皆禍の至るを恐る。太子丹これをを患い、その傳(ふ)鞠武に問う。
武對(こた)えて曰く、秦の地天下にあまねき、威、韓・魏・趙氏を脅(おびやか)す。
北に甘泉・谷口(こくこう)の固(かため)を有す。南に芤・渭の沃を有し、
巴・漢の饒を擅(ほしいまま)にし、右に隴・蜀の山、左に關・●(こう)の險あり。
民衆(おお)くして士窅(たけだけ)し。兵革餘(あまり)有り。
意の出(いづ)る所有らば、則ち長城の南、易水以北、未だ定むる所有らざるなり。
奈何(いかん)ぞ陵(しのが)るるの怨みを以て、
其の逆鱗(げきりん)を批(う)たんと欲するや。
丹曰く、然らば則ち何に由(よ)らん。
對へて曰く、請ふ入りてこれを圖(はか)らん。


燕では上下を挙げて皆禍の至ることを恐れた。
太子丹もこのことを憂えて、どうしたらよいかを自分の傅り役(教育係)の
鞠武(きくぶ)にたずねた。武が答えて云うには、

「秦の領土は天下に広く行き渡り、秦の威力は、韓・魏・趙を
脅(おびやか)しています。
北に甘泉・谷口(こくこう)の自然の要害があり、南に芤水・渭水の恵みに
よる沃野を有し、巴・漢の豊饒を占有し、右に隴・蜀の山々、左に函谷関・
●(こう)の険しい難所があります。
人口は多く士卒は精鋭で、武器や鎧は有り余っております。
秦に出兵する意思があれば、長城の南、易水以北(燕)などは、
どうなるかわかりません。
忍び難いほどの恨みがあるからといって、どうして秦の逆鱗(げきりん)に
触れようなどと思われるのですか」

丹は言った。「それなら一体どうしたらよいのだ」

鞠武が答えた。「奥へ入って、これについてご相談したいと思うのですが」



★逆鱗・・・龍の逆鱗に触れると龍が怒って人を食い殺すという伝説から、
君主を諫めて君主の怒りをこうむること。『韓非子』「説難・ぜいなん」

http://www23.tok2.com/home/rainy/seigo-gekirin.htm

夫龍之為蟲也、柔可狎而騎也、然其喉下有逆鱗径尺、若人有嬰之者、
則必殺人。人主亦有逆鱗。説者能無嬰人主之逆鱗、則幾矣。


そもそも龍という動物は、おとなしくしている時には、
人が慣らしてその背に乗る事ができる。
しかし喉(のど)もとには一尺ばかり逆さに生えた鱗があり、
もし人がそれに触れると、龍は必ず人を殺してしまう。
人間の君主にもまた、この逆鱗(げきりん)がある。
意見を述べる者は、君主の逆鱗に触れないようにできたならば、
成功を収める事も望めるのだ。


つづく

646, 647

Re: 刺客列傳第五話 「荊軻」起の段 4 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/03 21:14 投稿番号: [255 / 735]
★『史記會注考證』「正義」より

燕丹云、太子丹質於秦、秦王遇之無禮、不得意、欲歸、秦王不聽、謬言曰、
令烏頭白、馬生角、乃可、丹仰天歎焉、即爲之烏頭白、馬生角、王不得巳遣之、
爲機發橋欲陥、丹過之、爲不發、風俗通云、燕太子丹天爲雨粟、烏頭白、
馬生角也、


燕の丹が云ったことである。

太子丹が秦に人質としていたとき、秦王の丹に対する待遇に礼がなかった。
丹は不本意で、帰国したいと思ったが秦王は許さず、
そこでとんでもないことを言った。

すなわち、烏の頭を白くし、馬にツノを生やすことができたら許そう、と。

丹は天を仰いで嘆いた。
すると烏の頭が白くなり、馬にツノが生えた。
秦王はそれでも丹の帰国を快く思わず、
途中の橋にしかけをして丹を落とそうとしたが、丹は無事に通過した。

『風俗通義』に云う。(燕太子丹を憐れんで)天が穀物を降らせ、
烏の頭を白くし、馬にツノを生やしたのである、と。

.

刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 4 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/03 21:11 投稿番号: [254 / 735]
居頃之、會燕太子丹質秦。亡歸燕。燕太子丹者故嘗質於趙。
而秦王政生趙。其少時與丹驩。及政立爲秦王、而丹質於秦。
秦王之遇燕太子丹不善。故丹怨而亡歸。歸而求爲報秦王者、國小力不能。
其後秦日出兵山東、以伐齏・楚・三晋、稍蠶食諸侯、且至於燕。

居(お)ることこれを頃(しばらく)して、
會々(たまたま)燕太子丹、秦に質(ち)たり。
亡(に)げて燕に歸す。燕太子丹は故(も)と嘗て趙に質(ち)たり。
而して秦王政、趙に生ず。其の少(わか)き時、丹と驩(よろこ)ぶ。
政、立ちて秦王と爲るに及んで、丹、秦に質(ち)となる。
秦王の燕太子丹を遇すること不善なり。故に丹怨みて亡(に)げて歸る。
歸りて秦王に報を爲す者を求むれども、國小にして力能(あたは)ず。
其の後、秦   日々兵を山東に出だし、以て齏・楚・三晋を伐ち、
稍(ようや)く諸侯を蠶食(さんしょく)し、且つ燕に至る。


荊軻が燕に滞在ししばらく経ったころ、ちょうど、
燕太子丹が秦に人質として行っていたのが、燕に逃げ帰ってきた。

燕太子丹はもともと、始めは趙に人質として行っていた。
そのとき秦王政(後の始皇帝)が趙で生まれた。
その秦王政は幼少年時代に丹と仲良しであった。

政が帰国して秦王となってから、丹は今度は秦の人質となった。
秦王は燕太子丹を冷遇した。

それで丹はそのことを怨みに思って逃亡して燕に帰国した。
帰国した後、秦王に報復してくれる人物を探したけれども、
燕は小国であり不可能だった。

その後、秦は連日のように平原に出兵し、斉・楚・三晋を伐ち、
だんだんと諸侯の国を蚕食し、今にも燕に達する勢いとなっていた。


★三晉
もと晉国であったが三人の家老に国を乗っ取られ、
韓・魏・趙の三国に分裂した。
このときをもって「春秋戦国」の「戦国時代」に突入する。

★ここにきて荊軻が主人公として表舞台に登場するための二つの
「危機の提出」がなされています。

一つは「燕太子丹の秦への怨念」、今一つは「燕の危機」。


つづく

643

詠史 六     左太沖(左思)

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/03 21:06 投稿番号: [253 / 735]
詠史   六         左太沖(左思)(西晋・250?〜305?)

荊軻飮燕市       荊軻は燕市に飲み
酒酣氣益震       酒酣(たけなわ)にして氣は益々震う
哀歌和漸離       哀歌して漸離に和し
謂若傍無人       謂(おも)うに傍(かたわら)に人無きが若し
雖無壯士節       壯士の節無しと雖(いえど)も
與世亦殊倫       世とまた倫を殊(こと)にす
高眄●四海       高眄(こうべん)して四海に●(ばく)たり
豪右何足陳       豪右(ごうゆう)何ぞ陳(の)ぶるに足らん
貴者雖自貴       貴者は自(みずか)ら貴ぶと雖(いえど)も
視之若埃塵       これを視(み)ること埃塵(あいじん)の若し
賤者雖自賤       賤者は自(みずか)ら賤(いや)しむと雖(いえど)も
重之若千鈞       これを重んずること千鈞(せんきん)の若し

●「しんにょう」+「貌」     バク

荊軻は   燕の盛り場で   酒をあおり
酔いのまわるにつれ   気勢をあげた
悲愴な歌を   漸離の琴にあわせて   うたい
まわりの人に   何のきがねも   しなかった
壮士としての   節は貫けなかったが
世人とは   かけはなれた事を   しとげた
まなざしは   四海はるかに   見とおし
豪族どもも   足もとに   寄りつけなかった
貴人は   おのれを貴(たか)しとするが
まるで塵か   あくたの如くに   見なし
賤者は   おのれを賤(いや)しとするが
まるで   千鈞(せんきん)の重石(おもし)の如く   重んじた


★「壮士としての   節は貫けなかった」というのは
「匹夫の勇者」であったということです。

★荊軻は貴人を塵芥のようにみなし、また狗屠のような卑賤の者を
重視した、といっています。

★千鈞(せんきん)・・・「鈞」は重さの単位。
「一鈞」は「三十斤」。当時の一斤は二百五十グラム。

★書き下し文
内田泉之助・網祐次『文選・詩篇』上, 明治書院, 新釈漢文大系 14
一部かなづかい等、変えてあります。

★解釈
伊藤正文・一海知義編訳『漢・魏・六朝詩集』平凡社, 中国古典文学大系 16


★左思のエピソード
洛陽の紙価を高む
晋の左思(さし)が『三都賦(さんとのふ)』をつくったところ、
傑作で大評判となり、洛陽の人々が争って書写したため紙の需要増え、
洛陽の紙が不足して、値が高くなったという故事から。
「洛陽為之紙貴」の略。「洛陽の紙価高し」のように用いられ、
著書が好評で盛んに売れることを、この成語で表現します。

古代支那には、好きな男に女性が果物を投げるという習慣があり、
『詩経』にも有名な詩があります。
友人の潘岳が美男で女性にモテモテだったのにひきかえ、
左思が醜男で女性から石や瓦を投げられた、というエピソードもあります。


★三都・・・魏・呉・蜀、三国の都


641

刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 3 

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/03 20:49 投稿番号: [252 / 735]
荊軻既至燕。愛燕之狗屠及善撃筑者高漸離。荊軻嗜酒日與狗屠及高漸離
飲於燕市。酒酣以往高漸離撃筑荊軻和而歌於市中相樂也。已而相泣旁若無人者。
荊軻雖游於酒人乎然其爲人沈深好書。其所游諸侯、盡與其賢豪長者相結。
其之燕、燕之處士田光先生亦善待之。知其非庸人也。


荊軻既に燕に至る。燕の狗屠及び善く筑を撃つ者高漸離を愛す。
荊軻酒を嗜み、日々狗屠及び高漸離と與(とも)に燕市に飲む。
酒酣(たけなわ)にして以て往き、高漸離筑を撃ち、荊軻和して
市中に歌ひ相樂しむなり。
已にして相泣き、旁(かたはら)に人無きが若(ごと)し。
荊軻、酒人と游ぶと雖も、然るに其の爲人(ひととなり)沈深にして書を好む。
その游する所の諸侯、盡くその賢豪長者と相結ぶ。
それ燕に之(ゆ)くに、燕の處士田光先生また善くこれを待す。
その庸に非ざる人を知ればなり。

それから荊軻は燕に行った。
燕の犬殺しや筑の名手である高漸離と親交を深めた。

荊軻は酒を好み、連日犬殺しや高漸離とともに燕の繁華街で飲んだ。
酒を飲み佳境に入ると、高漸離が筑をうち、荊軻がそれに和して
市中で歌うというふうに二人しておおいに楽しんだ。

それからまた二人して泣き、傍に人がいても意に介さず、
まるでそこに人がいないかのようであった。

荊軻は酒飲みたちと交遊はしていたが、
その人となりは沈着で深慮に富み読書を好んだ。

荊軻が歴遊した諸侯の国のどこに行っても
その土地の賢人・豪傑・有徳の人たちと交際を結んだ。

荊軻が燕に行ったとき、燕の處士・田光先生もまた荊軻を厚遇した。
荊軻の凡庸でない人となりを知っていたからである。


★處士
仕官せず民間にあって学識に長け、有徳であり、人々の尊敬を集めている人

★「已而相泣旁若無人者」
「旁若無人」の語源ですが、
現在この語に含まれているような悪い意味はありません。

★犬殺し・高漸離・田光先生・・・荊軻を認知

★2.と3.で荊軻に対する「認知」「不認知」を対比させています。


つづく

640

刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 2

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/03 20:40 投稿番号: [251 / 735]
荊軻嘗游過楡次、與葢聶論劔。葢聶怒而目之。荊軻出。人或言復召荊軻。
葢聶曰。曩者吾與論劔、有不稱者。吾目之。試往。是宜去、不敢留。
使使往之主人。荊軻則已駕而去楡次矣。使者還報。葢聶曰。固去也。
吾曩者目攝之。荊軻游於邯鄲、魯句踐與荊軻博争道。魯句踐怒而叱之。
荊軻黙而逃去。遂不復會。


荊軻かつて游びて楡次(ゆじ)を過(よ)ぎり、
葢聶(がいじょうorこうじょう)と劔を論ず。
葢聶怒してこれを目す。荊軻出づ。人言うあり、また荊軻を召せ、と。

葢聶曰く、
「曩者(どうじゃ)吾れともに劔を論じ稱(かな)わざる有り。吾これを目す。
試みに往け。これ宜(よろ)しく去るべし、敢へて留せず」

使いをしてこの主人に往かしむ。荊軻すなわち已に駕して楡次を去る。
使者還(かえ)りて報ず。葢聶曰く、
「もとより去るなり。吾れ曩者(どうじゃ)目してこれを攝(おびやか)す」

荊軻、邯鄲に游び、魯句踐(ろこうせん)と荊軻と博をして道に争う。
魯句踐怒りてこれを叱す。荊軻黙して逃げ去る。遂にまた會わず。


★一部、UP されない字を代えてあります。


荊軻は嘗て漫遊しているときに楡次(ゆじ)という町に立ち寄り、
葢聶と剣術について論争をした。
葢聶は怒って荊軻を睨みつけた。荊軻はその場を立ち去った。

ある人が、葢聶にもう一度荊軻を呼ぶようにとすすめた。すると葢聶は、

「先だって俺はあいつと剣について議論をして面白くないことがあったのだ。
俺はあいつを睨みつけてやったよ。ためしに行ってみろ。
きっととっくに立ち去ってしまって居りはせんよ」

と答えた。そこで使いを荊軻の宿の主人のところに出した。

果たして荊軻はすでに車に乗って楡次から立ち去っていた。
使いの者がかえってきてそのことを報告した。葢聶は言った。

「逃げたに決まっている。
俺はこのあいだ、やつを睨みつけて脅してやったのだからな」

それから荊軻は邯鄲(かんたん)に旅行して、
そこで魯句踐とバクチをしたときにそのやり方について口論となった。
魯句踐は怒って荊軻をどなりつけた。

荊軻は何も言わず逃げ去った。そして二度と会うことはなかった。


★葢聶(こうじょうorがいじょう)・・・荊軻を不認知

★魯句踐(ろこうせん)・・・荊軻を不認知。
しかしこの記述は、最後に魯句踐が荊軻に対し認知に転ずる場面の
伏線となっている。


つづく

632
633

Re: 刺客列傳第五話 「荊軻」 起の段 1

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/03 20:15 投稿番号: [250 / 735]
★衛の元君は、荊軻を不認知でした。
このころ衛は魏の属国のような立場でしたから、魏が秦に滅ぼされると
衛も「親ガメこけたら子ガメもこける」わけです。

>秦、魏を伐ちて東郡を置き、衞・元君の支屬を野王に徒(うつ)す。<

「支屬」となっていますが、元君本人という説もあります。

結局、司馬遷は、元君に人を見る目がないから、・・・
といいたかったのではないでしょうか。


★先回ちょっと書いたのですが、
衞人(えいひと)・齋人(せいひと)・燕人(えんびと)
についてもう少し丁寧に説明します。

これは、「〜ひと」と読むのが決まりです。
聖書の記述で「〜ひと」とあるのもこれを踏襲しています。

「燕人(えんびと)」だけ、「〜ひと」ではなく「〜びと」です。
これは日本語の読みぐせで、前の言葉の発音が「ん」で終わっている
場合は、続く言葉は半濁音か濁音になります。

「漢書・かんじょ」「探訪・たんぼう」「三宝」「三法」・・・さんぽう
「真山民・しんざんみん」など。


★衛人も燕人も荊軻を「荊卿」と尊称しています。
すなわち「認知」ですね。

荊軻が秦王暗殺に命をかける決心をするのに、大きく影響していると思います。


つづく

631

刺客列傳 第五話 「荊軻」 起の段 1

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/03 20:05 投稿番号: [249 / 735]
第五話「荊軻」(けいか)前三世紀

★原文は、瀧川資言『史記會注考證』です。

★宮崎市定先生は『史記を語る』中において、
「荊軻の事蹟はやはり戯曲的な構成をもち、
起・承・転・結四段のリズムに乗っている」
と述べておられます。
よって、段の変わり目には、
この「起・承・転・結を挿入していきたいと思っています。


起の段

荊軻者衞人也。其先乃齋人、徒於衞。衞人謂之慶卿。
而之燕。燕人謂之荊卿。
荊卿好讀書撃劔。以述説衞元君。衞元君不用。
其後秦伐魏置東郡、徒衞元君之支屬於野王。


荊軻なる者は衞人(えいひと)なり。その先、すなわち齋人(せいひと)なり。
衞に徒す。衞人これを慶卿と謂う。
而(しこう)して燕にゆく。燕人(えんびと)これを荊卿と謂う。
荊卿、讀書撃劔を好む。術を以て衞・元君に説く。衞・元君用いず。
その後、秦、魏を伐ちて東郡を置き、衞・元君の支屬を野王に徒(うつ)す。


荊軻は衛の人である。荊軻の先祖は斉の人であった。
それから衛に移住した。衛の人々は荊軻のことを慶卿と呼んだ。

それからまた燕に行った。燕の人々は荊軻のことを荊卿と呼んだ。

荊卿は読書と剣術を好んだ。
その学んだ書や剣術について衛の元君に説いたが、
衛の元君は用いなかった。

その後、秦は魏を討伐し東郡を置き、
衛の元君の支族を野王(河南)に移住させた。


★衛の元君・・・荊軻を不認知

★衞人(えいひと)・齋人(せいひと)・燕人(えんびと)

日本語の読みぐせとして、「ん」のあとに続く言葉の音は
おおむね濁音か半濁音になります。



つづく

630

Re: 詠荊軻     陶淵明

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/03 19:51 投稿番号: [248 / 735]
漸離撃悲筑       漸離(ぜんり)は悲筑(ひちく)を撃ち
宋意唱高聲       宋意は高聲を唱ふ
蕭蕭哀風逝       蕭蕭として哀風逝き
淡淡寒波生       淡淡として寒波生ず
商音更流涕       商音(しょういん)に更々(こもごも)涕(なみだ)を流し
羽奏壯士驚       羽奏に壯士驚く

高漸離が筑の筝の悲痛な調べを撃てば
宋意は高い声で歌うのであった
さびしい音を立てて哀しい風が過ぎ
淡く澄んだ易水の面にさむざむと波が生ずる
商調の澄み通った悲しい音曲に交わるがわる皆涙を流し
羽調の奏楽の音にますら男も胸さわぐ思いであった


心知去不歸       心に去って歸らざるを知る
且有後世名       且(まさ)に後世の名有らんとす
登車何時顧       車に登れば何(いづれ)の時か顧みん
飛蓋入秦庭       蓋を飛ばして秦庭に入る
凌窅越萬里       凌窅(りょうれい)として萬里を越え
逶●過千城       逶●(いい)として千城を過ぐ

●「しんにょう」+「施」の右「ツクリ部分」

彼は心の中では一たび去っては生きて帰れないことを知っていたが
それによって後の世に残る名があるにちがいないと思った
いよいよ車に上っては、いかなる時にあとふり返ることがあろう
ただまっしぐらに車の絹蓋が飛ぶように見える勢いで
秦の朝廷へと進んで行くのであった
勢いするどく踏み凌ぎ、万里の山河を乗り越え
うねうねと遠く続く道をたどって、千の都城を打ち過ぎて行くのであった


圖窮事自至       圖(ず)窮(きは)まりて事自(おのづ)から至り
豪主正○營       豪主も正に○營(せいえい)たり
惜哉劔術疎       惜しい哉(かな)   劔術疎にして
奇功遂不成       奇功   遂に成らず
其人雖已没       其の人   已に没すと雖(いへど)も
千載有餘情       千載に餘情有り

○「リッシンベン」+「正」

やがて秦王に目通りし、王にささげる領土の地図の巻物をひろげて
終わりに来たとき、事は自然と起こったのである
地図の中に隠し持った一刀を持ってやにわに王に立ち向かったのであるが、
さすがの豪勇の君主、後の始皇帝もまったくおそれまどったのであった
しかし残念なことに荊軻は劔術が不得手だったのでその場で討たれ
世にもすぐれた手柄は成しとげられなかった
荊軻その人はもう死んでしまったが
千年の後にまでつきない感動を残しているのである



★星川清孝『古詩源』下, 集英社, 漢詩大系 5

624

詠荊軻     陶淵明

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/03 19:48 投稿番号: [247 / 735]
詠荊軻          陶淵明((六朝東晋・365〜427))
荊軻を詠む


燕丹善養士       燕丹は善(よ)く士を養う
志在報強●       志は強●(きょうえい)に報ずるに在り
招集百夫良       百夫の良を招集して
歳暮得荊軻       歳暮に荊軻を得たり
君子死知己       君子は知己に死す
提劔出燕京       劔を提(ひっさげ)て燕京(えんけい)を出づ

●上に「亡」、下に「月女凡」、   秦始皇帝の姓

燕の国の太子丹は人物を養うことが上手であった
その志は強国秦の王●政(えいせい)に仕返しをするにあった
百人にすぐれた士を招き集めたのであるが
遅くなってから荊卿を手に入れることができた
徳のすぐれた人物は、
自分を心からよく知ってくれる人のために死ぬといわれる
荊軻もまた太子丹の恩に感じて、秦王を殺そうと、
生命を捨てても剣をひっさげて燕のみやこを出発した


素驥鳴廣陌       素驥(そき)は廣陌(こうはく)に鳴き
慷慨送我行       慷慨(こうがい)我が行(こう)を送る
雄髪指危冠       雄髪は危冠を指し
猛氣衝長纓       猛氣は長纓(ちょうえい)を衝く
飲餞易水上       易水の上(ほとり)に飲餞するに
四座列羣英       四座に羣英(ぐんえい)を列(つら)ぬ

死出の旅を送るように、白い馬は広い大通りに鳴き
人々はこの旅立ちを心たかぶりなげいて見送るのであった
荊軻の雄々しい髪の毛は逆立って高くそびえる冠を指し
はげしい元気は長い冠のひもを衝きあげるほどであった
易水のほとりではなむけの酒盛りをしようと
四方に座をしめて、多くの英雄たちが並んでいた


つづく

623


★>君子死知己       君子は知己に死す<
>徳のすぐれた人物は、
自分を心からよく知ってくれる人のために死ぬといわれる<

.

起承転結

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/03 19:41 投稿番号: [246 / 735]
起承転結は漢詩の絶句の技法です。

次の俗謡は、頼山陽が「起承転結」の説明に使用したといわれるものです。


起     京の五条の糸屋の娘

承     姉は十七妹は十五

転     諸国諸大名は弓矢で殺す

結     糸屋の娘は眼で殺す


また、東京都高等学校漢文教育研究会編『漢文提要』では、
以下のようになっています。


起     京で一番糸屋の娘

承     姉は二十一妹は二十

転     諸国諸大名は弓矢で殺す

結     娘二人は目もとで殺す


ほかにも、いくつか別バ―ジョンがあるようです。

.

武田泰淳『―史記の世界―』

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/02 22:31 投稿番号: [245 / 735]
武田泰淳『―史記の世界―』


「刺客」とは何か ? 突如として現れ、忽焉として没する者である。
彼等が歴史に接するのは、武器を手にして権力者に近づく、
その一瞬時である。

曹沫が匕首を執って斉の桓公を劫(おびやか)した時、
専裵が魚腹中より匕首をとり出して王僚を刺した時、
その時だけが歴史的瞬間である。

彼等はその瞬間のため英雄豪傑となり得た。
その瞬間によって歴史に参加した。
祖先を誇り、子孫を栄えさせもしない。財を積み、功を重ねもしない。
閃いて消えるのである。それ故彼等は無数である。

堂々たる政治家として「本紀」や「世家」の長々しい頁を借りるまでもない。
一撃一閃によって「刺客列伝」の末席を汚して満足するのである。

どす黒い智慧も、縦横の策もない。その行動は単純にして只一筋である。

しかも予譲が自殺した日、趙国の志士は、皆ために涕泣したという。
彼等の行為はかぎりなく烈しい。

聶政が侠累を刺殺した時、彼は自ら顔の皮をはぎ、眼をえぐり、
腸を出して死んだ。
刺殺を依頼せる人物を探り出されることをおそれたからである。

力の強大さばかりでなく、精神的の美しさがともなうため、
後の世の人々が語りつたえるのである。

彼等英雄豪傑によって、刺され殺される相手がまた、英雄豪傑であるため、
暗殺は常に、劇的なもの、悲壮なもの、歴史的なものとなるのである。

私達は『史記』に於て、豪傑が英雄を殺す場面を、幾度となく眺めて来た。
争うこと、殺すことの多様さに、今はなれ切っている。

しかもなお刺客荊軻の、壮士一度去ってまた還らざる行為に、
胸とどろくのをおぼえる。


622

Re: 蒲松齢 『聊斎志異』 「聶政」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/02 22:27 投稿番号: [244 / 735]
懐慶(河南省)の●王(ろおう)は不道徳な人だった。
ときどき民間に出かけては、美しい女性を物色し、そして奪ってしまう。

王生の妻が、王に目をつけられてしまった。
●王は輿と馬を遣(や)ってまっすぐに王生の家に踏み込ませた。

王生の妻は号泣して言うことをきかなかったので、
無理やり担ぎ上げて家を出た。

王生はその場から逃げ去り、聶政の墓の陰に隠れていた。
妻が通るときに、遠くからでも一目見て別れを告げたいと願ったからである。

ほどなく一行がやって来た。
妻は遠くから夫を見て、大声をあげて泣き、地面に身を投げだした。
王は胸もはりさけんばかりになって、思わず声をあげてしまった。
従人たちは、そこに王生がいることを知って、
王生を捕らえて鞭打とうとした。

するとやにわに墓の中から一人の丈夫が現れた。
手に白刃を握り、その姿形は威厳があり猛(たけだけ)しかった。
その丈夫は声を荒げて言った。

「わたしは聶政である。
良家の子女を無理やり強奪するようなことをどうしてさせておけようか。
しかしまあ、わたしが思うに、お前たちの自由にもならないのだろう。
おまえたち、ここのところは許してつかわすから、
無道の王にこのように伝えよ。

『もし行い改めないようであれば、日をおかず、そのそっ首、
抉(えぐ)り取ってくれようぞ』とな」

皆は大いに驚き車を棄てて逃げ去った。
丈夫はまた墓の中に入り消えてしまった。

王夫婦は墓に叩頭して家に歸ったが、それでもまた王の命令で、
再び拉致にやって来るのではないかと恐れていた。

十余日が過ぎたが、とうとうやって来なかったので、
始めて安心したのだった。

このことがあってから王の淫乱の不行跡も消滅したのだということだ。



★書き下し文、解釈ともにトピ主です。
誤りがありましたらご指摘、ご教授ください。


618

.

蒲松齢 『聊斎志異』 「聶政」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/02 22:23 投稿番号: [243 / 735]
清代の怪奇小説『聊斎志異』のなかに「聶政」という話があります。
短いお話ですので、ついでにご紹介しておきましょう。
簡体字で古典ではあるはずのない記号が使用してあるのがいやだなあ、
と思います。
いろいろなことがまだよく認識できなかったときに買った本に
簡体字使用のものがあります。今だったら絶対に買いませんが。


蒲松齢『聊斎志異』「聶政」
テキストは人民文学出版社『聊斎志異』中、です。


懐慶●王, 有昏紱。時行民間, 窺有好女子, 輒奪之。
有王生妻, 爲王所睹, 遣輿馬直入其家。女子号泣不伏, 強異而出。
王亡去, 隠身聶政之墓, 冀妻経過, 得一遥訣。無何, 至, 望見夫, 大哭投地。
王惻動心懐, 不覚失声。従人知其王生, 之, 將加○掠。
忽墓中一丈夫出, 手握白刃, 気象威猛, 励声曰 :
“我聶政也 ! 良家子豈可強占 ! 念汝輩不能自由, 姑且宥恕。
寄語無道王 : 若不改行, 不日將抉其首 ! ”
衆大駭, 棄車而走。丈夫亦入墓中而没。夫妻叩墓歸, 猶惧王命復臨。
過十余日, 竟無消息, 心始安。王自是淫威亦少殺云。

●「さんずい」+「路」
○「てへん」+「旁」


懐慶の●王(ろおう)、紱に昏(くら)きところ宥り。時に民間に行きて、
好女子の有るを窺い、輒(すなわ)ちこれを奪う。

王生に妻有り。王の睹(み)る所と爲る。
輿馬を遣(や)りて直ちに其の家に入る。
女子号泣し伏せず。 強いて異にして出づ。

王亡(に)げ去り、身を聶政の墓に隠し、
妻の経過するに、一(いつ)に遥かに訣(わか)れを得んことを冀(こいねが)う。

無何(ほどなく)至り、望みて夫を見、大いに哭して地に投ず。
王惻して心懐動き、覚えず声を失す。

従人、其の王生を知りて、これを執(とら)え將に○掠(ぼうりょう)を
加えんとす。

忽(たちま)ち墓中の一丈夫出づ。
手に白刃を握り、気象(きしょう)威にして猛(たけだけ)し。
声を励まして曰く、

「我れは聶政なり ! 良家の子、豈に強いて占むべけんや !
念(おも)うに汝輩、自由能(あた)わざらん。
姑(しばら)く且つ宥恕(ゆうじょ)し、語を無道の王に寄せん。
『若(も)し行い改めざれば、日に將(まさ)に其の首を抉(えぐ)らんとす』と。

衆大いに駭(おどろ)き、車を棄てて走(に)ぐ。丈夫亦た墓中に入りて没す。

夫妻、墓を叩きて歸すも、猶お王命の復(また)臨するを惧(おそ)る。
十余日を過ぐ。竟(つい)に消息無し。心始めて安らかなり。
王自ら是れ淫威亦た少殺せりと云へり。

つづく

617

刺客列伝 第四話 「聶政」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/02 22:15 投稿番号: [242 / 735]
第四話「聶政」(じょうせい)前五世紀

聶政は人を殺したため、その仇を避けて母・姉とともに斉に行き
屠殺業に身を落とし生活をしていた。

嚴仲子という人が諸国を游しながら、敵である侠累(きょうるい)を
殺してくれる人物を探していた。

聶政の噂を聞き手厚く贈り物をし交際を始めた。
しかし聶政は母を養うために、嚴仲子よりの侠累暗殺の依頼を断る。
断られても嚴仲子の態度は変わらなかった。

やがて聶政の母が死んだ。
そこではじめて聶政は嚴仲子の暗殺依頼を引き受ける。

諸侯の卿相である嚴仲子が、屠殺を生業(なりわい)としている
こんなわたしに親しみ信用してくれたのだ。
わたしを深く知ってくれればこそなのだ。

聶政は単独で侠累暗殺に成功するが、みずから顔の皮をはぎ、
眼球をえぐりだし、誰だかわからないようにして、
腹かき切って腸をつかみ出して死んだ。

だがやがて聶政の姉が、それが弟であることを明らかにし死ぬ。
弟聶政の名を惜しんだからだった。

その後二百二十四年を経て、秦に荊軻の事件があった。


★因自皮而面決眼自屠出腸遂以死。
因(よ)りて自(みずか)ら面を皮(かわは)ぎ、眼を決(えぐ)り、
自(みずか)ら屠り腸を出(いだ)して遂に以て死す。

中国は文明の鏡であり、日本では、どうもこのあたりを勘違いして、
切腹は立派な男の死に方であると誤解したのではないでしょうか。
しかし・・日本のサムライとは身分の格が違うんですよね。


★自分が誰だかわかると、暗殺依頼者が誰であるかも知れる。
それでは、自分を見込んで認知してくれた人の恩に報いることができない。
姉も無事にはすまないだろう、ということですね。

あまりにも壮絶です。
刺客列伝の中でも一番壮絶な最後を遂げた暗殺者の話ではないかと
思います。


616

刺客列伝 第三話 「豫譲」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/02 20:54 投稿番号: [241 / 735]
第三話「豫譲」(よじょう)前五世紀

豫譲はもと晉の卿である范氏と中行氏に仕えていたが、認められなかった
ので同じ晉の卿である智伯に仕えた。智伯は豫譲を尊敬し厚遇した。

智伯はやがて趙襄子・韓氏・魏氏に滅ぼされ子孫も絶滅せられ領土もなくした。

智伯の頭蓋骨は漆塗りの飲器にされた。
豫譲は山中に隠れた。ここに豫譲のセリフがある。

「嗟乎、士爲知己者死、女爲説己者容」
(ああ、士は己を知る者のために死し、
女は己をよろこぶ者のためにかたちづくる)

豫譲は姓名を変え刑罰を受けた人になりすまし、
趙襄子の屋敷の厠の壁塗りになった。

匕首(ひしゅ)を隠し持ちそこで趙襄子を刺そうというのだ。
趙襄子は厠に行き「心動」(胸騒ぎ)を覚えた。
そこで壁塗りを詰問するとそれは豫譲だった。
趙襄子は豫譲を義人として許し放した。

しばらくして豫譲は褚病患者を装い、炭を飲んで声をつぶし
誰だかわからないようにして乞食となった。
妻も見てそれと気づかなかった。

趙襄子の外出にあたり、豫譲は沿道の橋の下にひそんだ。
趙襄子がその橋までくると馬が驚きそれと気づいた。
趙襄子ももはや豫譲を許すことができなかった。

豫譲は趙襄子に請うてその衣服をもらい、剣を抜いて三たびこれを斬り
主君・智伯の仇討ちの代わりとし、その後、剣の上にわれとわが身を
伏して死んだ。

その後四十餘年を経て、聶政(じょうせい)の事件があった。


★匕首・・・短剣。「匕」は食物をすくう杓子で、
剣の柄頭(つかがしら)がこれに似ているので「匕首」というそうです。

日本では「あいくち」にこの字をあてますが、それと同じものかどうかは、
どちらも実物を見たことがないのでわかりません。


★「飲器」については、二つの意味があります。「酒器」と「便器」と。
この場合、「酒器」でいいと思います。

織田信長と明智光秀の頭蓋骨の故事を彷彿とさせます。
織田信長は、もしかしたら、この故事にならったのでしょうか。

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