獄中口占 汪兆銘(精衛)
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/13 00:19 投稿番号: [75 / 735]
獄中口占
汪兆銘(精衛)(1883〜1944)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/photo/jiumeng02.htm
慷慨歌燕市 慷慨(こうがい)して 燕市に歌い
從容作楚囚 從容(しょうよう)として 楚囚と作(な)る
引刀成一快 刀を引き 一たび快を成せば
不負少年頭 負(そむ)かず 少年の頭に
燕の市で歌っていた荊軻のように 意気高らかに歌い
かの楚の囚人のように うろたえず悠々として囚われの身となろう
刀を引き寄せて すばやく引き抜けば
若い時代に心に誓った「壮遊」の精神に悖(もと)ることはない
★楚囚
晉侯(景公)が、たまたま楚の捕虜・鐘儀を見かけ、縄を解かせ、音楽の演奏をさせると
南方の楽を演奏した。それから「汝の国君はどんな方か」と質問すると、
「小人(わたくし)などの存じ上げることではありません」と答えた。
再三問い詰めると
「大子〔ママ〕であられた頃には、師傳の教え通りに、朝には嬰斉(令尹子重)のもとへ、
夕には側(司馬子反)のもとへ訪問にお出かけでした。その他のことは存じません」と答えた。
公がこの話を范文子にすると、文子は言った。
「楚の俘虜は君子ですね。答えに祖先の職務を挙げたのは、自己の出自を大切にするもの。
自国の楽を奏したのは、以前のことを忘れぬもの。大子時代のことを語ったのは、
(国君にへつらう)私心なき証拠。(嬰斉・側と)二人の卿を名でよんだのは、晉君を尊ぶ礼に合するもの。
出自を大切にするのは仁、以前のことを忘れぬのは信、私心なきは忠(忠実)、
(他国の)君を尊ぶのは敏(配慮)。仁によって事に対処し、信によって守り、忠実さで成就し、
配慮しつつ実行して行けば、たとえいかなる大事でも、必ず成功するものです。
どうか楚の俘虜の帰国を許し、晉・楚の和議をとりまとめさせていただきたい」
公はこれに従い、鐘儀に厚く礼を加え、帰国して和議に努力させた。
★小倉芳彦訳『春秋左氏伝』中「成公九年(582.B.C.)岩波文庫より。
だいたい原文通りですが、一部要約してあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
タイトル不明 汪兆銘(精衛)(1883〜1944)
梅花有素心 梅花 素心有り
雪月同一色 雪と月と同じく一色
照徹長夜中 照らし徹(とお)す長夜の中(うち)
遂令天下白 遂に天下をして白からしむ
梅花には汚れなき心がある 雪と月光と 同じ色
夜に咲き開けば 世界がまっ白になる
★坂田新『東海漢詩紀行』より
http://www2u.biglobe.ne.jp/~shinithi/ume/yuuki.html
====================================
★日本と中国のあいだに横たわっている大海・東支那海。
王精衛も、女<女圭>(じょあ)の化身であるという伝説の鳥・精衛のように、
木石や小石もてせいいっぱい、この海を埋めてしまおうと
努力したのかもしれません。
あざなは本名に関連づけてつけるというけれど、
なぜ彼のあざなが精衛なのか・・・
彼は名古屋で亡くなりましたが、遺体は南京郊外の梅花山に葬られました。
中国には古代より、伍子胥の故事にみられるように鞭屍文化があります。
妻は墓を暴かれることをおそれ、頑丈なコンクリートで墓を覆いましたが、
蒋介石によりダイナマイトで爆破され、死体は火葬され骨は打ち棄てられて
しまいました。
当時の支那人の考え方としては、あの世はこの世の地続きにあり、
あの世もまたこの世と同じような世界で、死体がなければ
あの世での生活はできませんから、あの世にいくことすら許さない、
完全抹殺という究極の憎悪の念があったと思われます。
.
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/photo/jiumeng02.htm
慷慨歌燕市 慷慨(こうがい)して 燕市に歌い
從容作楚囚 從容(しょうよう)として 楚囚と作(な)る
引刀成一快 刀を引き 一たび快を成せば
不負少年頭 負(そむ)かず 少年の頭に
燕の市で歌っていた荊軻のように 意気高らかに歌い
かの楚の囚人のように うろたえず悠々として囚われの身となろう
刀を引き寄せて すばやく引き抜けば
若い時代に心に誓った「壮遊」の精神に悖(もと)ることはない
★楚囚
晉侯(景公)が、たまたま楚の捕虜・鐘儀を見かけ、縄を解かせ、音楽の演奏をさせると
南方の楽を演奏した。それから「汝の国君はどんな方か」と質問すると、
「小人(わたくし)などの存じ上げることではありません」と答えた。
再三問い詰めると
「大子〔ママ〕であられた頃には、師傳の教え通りに、朝には嬰斉(令尹子重)のもとへ、
夕には側(司馬子反)のもとへ訪問にお出かけでした。その他のことは存じません」と答えた。
公がこの話を范文子にすると、文子は言った。
「楚の俘虜は君子ですね。答えに祖先の職務を挙げたのは、自己の出自を大切にするもの。
自国の楽を奏したのは、以前のことを忘れぬもの。大子時代のことを語ったのは、
(国君にへつらう)私心なき証拠。(嬰斉・側と)二人の卿を名でよんだのは、晉君を尊ぶ礼に合するもの。
出自を大切にするのは仁、以前のことを忘れぬのは信、私心なきは忠(忠実)、
(他国の)君を尊ぶのは敏(配慮)。仁によって事に対処し、信によって守り、忠実さで成就し、
配慮しつつ実行して行けば、たとえいかなる大事でも、必ず成功するものです。
どうか楚の俘虜の帰国を許し、晉・楚の和議をとりまとめさせていただきたい」
公はこれに従い、鐘儀に厚く礼を加え、帰国して和議に努力させた。
★小倉芳彦訳『春秋左氏伝』中「成公九年(582.B.C.)岩波文庫より。
だいたい原文通りですが、一部要約してあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
タイトル不明 汪兆銘(精衛)(1883〜1944)
梅花有素心 梅花 素心有り
雪月同一色 雪と月と同じく一色
照徹長夜中 照らし徹(とお)す長夜の中(うち)
遂令天下白 遂に天下をして白からしむ
梅花には汚れなき心がある 雪と月光と 同じ色
夜に咲き開けば 世界がまっ白になる
★坂田新『東海漢詩紀行』より
http://www2u.biglobe.ne.jp/~shinithi/ume/yuuki.html
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★日本と中国のあいだに横たわっている大海・東支那海。
王精衛も、女<女圭>(じょあ)の化身であるという伝説の鳥・精衛のように、
木石や小石もてせいいっぱい、この海を埋めてしまおうと
努力したのかもしれません。
あざなは本名に関連づけてつけるというけれど、
なぜ彼のあざなが精衛なのか・・・
彼は名古屋で亡くなりましたが、遺体は南京郊外の梅花山に葬られました。
中国には古代より、伍子胥の故事にみられるように鞭屍文化があります。
妻は墓を暴かれることをおそれ、頑丈なコンクリートで墓を覆いましたが、
蒋介石によりダイナマイトで爆破され、死体は火葬され骨は打ち棄てられて
しまいました。
当時の支那人の考え方としては、あの世はこの世の地続きにあり、
あの世もまたこの世と同じような世界で、死体がなければ
あの世での生活はできませんから、あの世にいくことすら許さない、
完全抹殺という究極の憎悪の念があったと思われます。
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これは メッセージ 73 (ajisai110701 さん)への返信です.
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