紫陽花亭日乗

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武田泰淳『―史記の世界―』

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/02 22:31 投稿番号: [245 / 735]
武田泰淳『―史記の世界―』


「刺客」とは何か ? 突如として現れ、忽焉として没する者である。
彼等が歴史に接するのは、武器を手にして権力者に近づく、
その一瞬時である。

曹沫が匕首を執って斉の桓公を劫(おびやか)した時、
専裵が魚腹中より匕首をとり出して王僚を刺した時、
その時だけが歴史的瞬間である。

彼等はその瞬間のため英雄豪傑となり得た。
その瞬間によって歴史に参加した。
祖先を誇り、子孫を栄えさせもしない。財を積み、功を重ねもしない。
閃いて消えるのである。それ故彼等は無数である。

堂々たる政治家として「本紀」や「世家」の長々しい頁を借りるまでもない。
一撃一閃によって「刺客列伝」の末席を汚して満足するのである。

どす黒い智慧も、縦横の策もない。その行動は単純にして只一筋である。

しかも予譲が自殺した日、趙国の志士は、皆ために涕泣したという。
彼等の行為はかぎりなく烈しい。

聶政が侠累を刺殺した時、彼は自ら顔の皮をはぎ、眼をえぐり、
腸を出して死んだ。
刺殺を依頼せる人物を探り出されることをおそれたからである。

力の強大さばかりでなく、精神的の美しさがともなうため、
後の世の人々が語りつたえるのである。

彼等英雄豪傑によって、刺され殺される相手がまた、英雄豪傑であるため、
暗殺は常に、劇的なもの、悲壮なもの、歴史的なものとなるのである。

私達は『史記』に於て、豪傑が英雄を殺す場面を、幾度となく眺めて来た。
争うこと、殺すことの多様さに、今はなれ切っている。

しかもなお刺客荊軻の、壮士一度去ってまた還らざる行為に、
胸とどろくのをおぼえる。


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