紫陽花亭日乗
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刺客列伝 第二話 「専裵」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/02 20:49 投稿番号: [240 / 735]
第二話「専裵」(せんしょ)前六世紀
楚から呉に亡命してきた伍子胥(ごししょ)は、
王位を狙う公子光に専裵を推薦した。
公子光は専裵に頓首して呉王僚の暗殺を依頼した。
酒宴の席で、専裵は料理の焼き魚の腹に秘しておいた匕首(ひしゅ)を
もって王を刺殺し、専裵も王の近衛兵によってたちどころに殺された。
公子光が王となった。王は専裵の子を封じて上卿とした。
その後七十餘年を経て、晉に豫譲(よじょう)の事件があった。
★「頓首」「稽首」ともに重々しいお辞儀の仕方です。
「ときに額から血が出るほど地面に激しく頭を打ちつけることもあります。
★死ぬとわかっていて主君のために命を投げ出す、そのみかえりに、
主君は死んだ者の子孫をひきたてます。約束です。
以下の奇談も、死刑囚が命を投げ出すのとひきかえに、子孫は厚遇されます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E3%83%AC%E3%82%A4>越の謀臣<
>范蠡はこれに対して奇計を持って迎えた。
その奇計と言うのは決死隊(『左伝』では罪人。こちらが正確か)
を集めて敵の目の前まで行かせてそこで自ら首をはねさせると言う物で、
呉軍が仰天している隙を付いて越軍は呉軍を撃破した。<
608
これは メッセージ 239 (ajisai110701 さん)への返信です.
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刺客列伝 第一話 「曹沫」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/02 20:17 投稿番号: [239 / 735]
これは メッセージ 238 (ajisai110701 さん)への返信です.
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『史記』刺客列伝第二十六
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/02 19:53 投稿番号: [238 / 735]
以前に UP したものと重なるものもあります。
テキストは、瀧川資言『史記會注考證』です。
『史記』刺客列伝第二十六
「刺客列伝」には五つの話が入っていますが、
その五つのエピソードは本質的にみな同じ話です。
その五つのエピソードのすべてを貫くテーマは「認知」「不認知」であり、
それは司馬遷の「報任少卿書」(任少卿に報ずるの書)の冒頭第一段落にある
「何則士爲知己者用、女爲説己者容。」
「なんすれぞ即ち、士は己を知る者のために用を爲し、
女は己を説(よろこ)ぶ者のために容(かたち)をつくる」
に収斂されます。
己を知るもののために自ら命を投げ出した刺客五人の話をお楽しみください。
なお、先の四人については要約のみとし、
最後の荊軻の話のみ、原文・書き下し文・解釈をつけます。
第三話「豫譲」、第四話「聶政」については、
村山孚・竹内良雄訳『史記6 』徳間文庫、に原文・書き下し文・解釈が
出ております。
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Re: 映画「台湾人生」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/02 19:40 投稿番号: [237 / 735]
こんばんわ。
動画のご紹介、ありがとうございます。
「台湾人生」はDVD で見ました。
そのDVD は、台湾の友人に送ってあげて喜ばれました。
蕭錦文さんは、その友人のお友だちです。
この映画の舞台挨拶のため来日されたとき、お電話をいただきました。
舞台挨拶ではなく、講演もされましたのでそちらにうかがいました。
飛行機に乗るときにいつも少しいやな気がするので、
もう外国旅行はいいや、という気持ちでしたが、
ご紹介いただいた動画を見て、あらためてまた行ってみたくなりました。
中国ではほとんど「これはおいしい」という料理におめにかからない
のですが、台湾では何でもおいしいですね。
なぜ大陸の中華料理がだめになったのか、陸文夫が小説に書いていた
ような記憶がありますが・・・。
通販で毎年五月に、台湾茘枝の玉荷包を注文し、六月に食べます。
最高においしいですね。
.
これは メッセージ 236 (sennin_194012 さん)への返信です.
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Re: 映画「台湾人生」
投稿者: sennin_194012 投稿日時: 2011/08/01 20:00 投稿番号: [236 / 735]
これは メッセージ 227 (ajisai110701 さん)への返信です.
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二二八紀念碑碑文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/01 19:56 投稿番号: [235 / 735]
二二八紀念碑碑文
一九四五年。日本は敗戦、投降した。
そのニュースが伝わるや万民は喜びに沸き立ち、
不当不正義の殖民統治よりの脱離を慶祝した。
しかるに台湾省行政長官陳儀は、接収和合の重責を双肩に担いながらも、
民情に暗く、施政偏頗にして、台民を差別排除し、加うるに官紀の腐敗を
以って、産銷は均衡を失い、物価は暴騰、失業は深刻となり、
民衆の不満嫌気は沸点にまで達した。
一九四七年二月二十七日。
専売局役人が台北市延平北路におけるヤミ煙草の取締りに際し、
女性の売り子を殴打負傷させ、たまたま居合わせた民衆の一人を誤殺、
民衆の憤激を惹起するに至った。
翌日、台北の群衆はデモ行進を行い、専売局長官公署に凶暴役人の懲罰を
求めたが、予想外の銃撃に遭遇、死傷者数人を出した。
かくして火に油を注ぐ結果となり怒りの炎燃え滾る全面抗争となった。
争端の解決及び積怨の解消をはかり、各地の士紳は事件処理委員会を結成、
協議の調停、並びに政治改革に対する要求を提出する。
しかるに陳儀は、暗愚頑迷にして、一方では協議をなすも、また一方にては
士紳を以って不忠謀反の輩となし、ただちに南京に対し兵を請う。
国民政府主席蒋中正は一報を聞くや、ただちに兵を台湾に派遣した。
三月八日、二十一師団は師団長劉雨卿が指揮の下基隆に上陸した。
十日、台湾全土に戒厳令が発令され、警備総司令部参謀長柯遠芬、
基隆要塞司令史宏熹、高雄要塞司令彭孟緝及び憲兵団長張慕陶らは
農村を攻撃、鎮圧するに際し、無辜の民を巻き添えとなし、
数月の間に、死傷者、行方不明者の数は万を以って数え、中でも基隆、
台北、嘉義、高雄が最も悲惨であり、世にこれを二二八事件と称した。
その後半世紀になんなんとするも、台湾は長期にわたり戒厳令下にあり、
政府民間ともに口を噤むこと寒蝉のごとく、
敢えてこの一の禁忌に触及することはなかった。
然るに冤憤の鬱積するは、結局のところあまねく洩れ伝わるところとなり、
外省内省の籍の猜疑と統一独立の議論が行なわれ、属をとがめ憂を隠した。
一九八七年、戒厳令解除後も各界の深々たる重病感は和らぐことなく、
安寧和合の困難な時期が続いた。
そこで二二八事件の調査研究を行なうこととなり、国家元首の歉意を表明、
受難者とその家属への補償、さらには記念碑建立へと及ぶ。
社会の巨創の療治は、全国民ともに心力を尽くすのいかんにかかる。
石碑の鐫刻碑文は、亡者にそのことあるを告知慰撫し天の霊たらしめ、
受難者及びその家属の悲憤の情を鎮撫し、併せて国人に警示し、
引いて殷鑑と為さしむを旨とする。
今より後、彼我を分かつことなく一体となり、互いに協力するに愛を
以ってし、ともに恃むに誠を以ってし、仇恨を形無きものと化し、
和平を永遠恒久にはからんとするものである。
天佑の宝島(フォルモサ)は、万古長青なり。
財団法人二二八事件紀念基金会
謹立
中華民国八十六年二月二十八日
1252
.
これは メッセージ 234 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 映画「非情城市」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/01 19:46 投稿番号: [234 / 735]
精神疾患が治癒した三男・文良も逮捕されますが、
一家をとりしきる長男・文雄の東奔西走のおかげで釈放されます。
文雄と敵対していたやくざに大金を積んで頭を下げ、
裏から手をまわしてもらったのでした。
しかし、この時以来、拷問で身も心もぼろぼろとなった文良は
本格的に精神を病み廃人となります。
文清も逮捕され留置されます。
毎日、同房の幾人かが呼び出され、直後に銃声が響きます。
幸いに聾唖であったために文清は出獄できます。
出獄した文清は、銃殺された同房の青年たちの遺族に遺品を渡すために、
あちらこちらと旅をします。
そうしているうちに偶然、ある山中で、逃れ隠れていた呉寛榮と再会します。
呉寛榮は文清に、妹・寛美との結婚を強く勧めるのでした。
長男・文雄の生活も荒れます。
やくざの賭博場にいた文雄は、抗争にまきこまれ銃弾を浴びて死にます。
土着色の強い葬式の場面。
僧侶の叩く鉦の音が響き、死者の侍女として焼かれる、どぎつい配色の
絹張り(紙か?)人形が、さむざむと吹きわたる風にふるふるとふるえ、
いっそうの人の世の無常を感じさせます。
文清は寛美と結婚。お互いに慕いあい、見つめあい、気遣う毎日が始まります。
食事のとき、なにげなくおかずを自分の箸で取り、
文清のお椀にのせてやる寛美。
やがて二人の間に可愛い男の子が生まれます。
つかまりだちをし、いっときもじっとしていない、
その男の子が着ている衣服は日本式の着物でした。
ささやかな幸せは長続きしません。
文清と寛美夫婦のもとに、兄の呉寛榮が銃殺されたとの報せが届きます。
悲しみにくれ絶望する夫婦。
しかし、がんぜない子の口に食べ物を入れてやることをやめるわけには
いきません。
危険を感じた二人は、荷物をまとめ逃げようと駅のホームに立ちます。
しかし、いったいどこに逃げたらいいのでしょうか。
二人は結局、自宅の写真館に戻るよりほかありませんでした。
とうとう文清も逮捕されます。今度こそ戻ってはきません。
今や、さしもの隆盛を誇った林家も、
四人兄弟のうち残ったのは廃人になった文良のみでした。
これほどの大嵐に見舞われながらも、林家の兄弟の父親である老人は、
何事もなかったかのように、孫娘の給仕で食事をします。
生離祖國
生きて祖国を離れ
死歸祖國
死して祖国に帰す
死生天命
死生は天命
無想無念
想うところ無く念ずるところ無し
これは、国民党政府に銃殺されたある青年の辞世です。
――
了 ――
1251
★「歸」とは、「本来いるべきところにかえる」という意味です。
女性が嫁ぐときも多く「歸」と書かれており「とつぐ」と読みます。
女性にとって本当の家は、自分が生まれた家ではなく、婚家先である
という考え方です。
.
これは メッセージ 233 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 映画「非情城市」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/01 19:18 投稿番号: [233 / 735]
文清の写真館で、青年たちが会食をし、のびのびと会話をしています。
文清の家は、畳敷きで床の間に掛け軸がかかっている日本家屋です。
終戦で日の丸が不用になり、今度は青天白日旗を掲げることになります。
http://www.sarago.co.jp/nfhtm/tw.html「日の丸は上下がなかったから気楽だったけど、今度の青天白日旗は
太陽が隅のほうにあるから、どちらを上にするか下にするかわからない。
台湾の女性はつつましいから、いらなくなった日の丸は捨てないで
子どものパンツに作りかえた。子どもの尻は真っ赤っかだ」
となごやかに会話ははずみ大笑いします。
「終戦で台湾はよくなったか」
「祖国の懐(ふところ)に抱かれて安らかだ」
「いや。陳儀が来てからよくない」
陳儀というのは、台湾行政長官兼警備総司令です。
奥さんが日本人だったようで、のちに中国共産党に寝がえり、
1950年6月18日、蒋介石によって銃殺刑に処せられました。
「陳儀が台湾に来てからというもの、一年で米の値段は52倍にもなり、
砂糖なども手にはいらなくなった。
日本は戦時中でもちゃんと米を配給してくれた。
大陸から人が来て仕事がなくなった。台湾人からクビになる」
「日本の植民地支配から脱した、祖国のふところに抱かれて安らかだ」
と喜んでいたのもつかの間、あっというまに暗雲がたれこめ、
台湾は暗黒の時代へと突入していきます。
やがて、二・二八事件が勃発。
台湾本省人がいたるところで結束して立ち上がりました。
集団で棍棒などの武器を持って外省人狩りを行います。
文清も汽車の中で外省人狩りに遭遇し、耳が聞こえず口もきけないために、
外省人と間違われ、あわや殺されそうになります。
台湾語、あるいは日本語が話せることが本省人の証となるのでした。
そういった事態を受けて、国民党政府は戒厳令を敷き、
本省人に対する大弾圧を行います。
何もしていなくとも知識人・教養人というだけで逮捕され銃殺されました。
中共の文革時の知識人大弾圧を彷彿とさせる現象です。
この時以来40年間、李登輝大統領の出現があるまで、
台湾人民はこのことをおおっぴらに語ることさえできませんでした。
つづく
1250
これは メッセージ 232 (ajisai110701 さん)への返信です.
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映画「非情城市」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/01 19:11 投稿番号: [232 / 735]
映画「非情城市」
冒頭。1945年、昭和天皇の無条件降伏の玉音放送から始まる。
舞台は台湾北端の港湾都市、基隆(キールン)。
手広く回漕問屋を経営している林家では、
一家をとりしきる長男・文雄の妾に子が生まれた。
停電中であったが、誕生の瞬間電灯がともる。これにより、
子どもは光明と命名された。
この名まえは、日本の植民地から解放された新しい台湾誕生への期待を
象徴している。
林家の兄弟たち
長男・文雄・・・回漕問屋のほか、「上海酒家」も開店。
近隣の実力者でもあるが、新興やくざの存在に悩まされている。
次男・文森・・・日本軍に徴用され行方不明。
三男・文良・・・日本軍通訳として働いていたが、精神錯乱となって帰宅。
治療を受けている。
四男・文清・・・8歳のとき、木から落ちたのがもとで聾唖者となった。
会話は筆談で行う。
独立して小さな写真館を経営している。この映画の主役である。
香港の人気俳優・トニー・レオンが演じている。
この文清の写真館に、友人の呉寛榮が下宿しており、
前途有為な青年たちの交遊の場となっている。
呉寛榮の妹・寛美(ヒロミと発音されている)と文清は恋人同士である。
寛美は病院で看護婦をしている。
呉寛榮は同僚教師の日本人、静子に淡い恋心を抱いていた。
しかし静子は寛美に美しい桜の花模様の着物を残し、日本に引き揚げていく。
呉寛榮、端整で知的。きれいな男優でした。
呉寛榮、文清、寛美、他登場人物のファッションが洗練されていて
美しいのに目を見張ります。
このころ、すでに台湾は文化国家として開けていたのです。
また、いたるところに、日本語のセリフが登場します。
こんなセリフがありました。
「日本人は桜の花を愛でる。花開き、一番美しいときに枝を離れ、
地に落ちるからだ。人生とはそうあるべきだと思うのだ」
その後の青年たちの理不尽な死を暗示しているともとれます。
つづく
1249
これは メッセージ 231 (ajisai110701 さん)への返信です.
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二・二八事件
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/31 21:10 投稿番号: [231 / 735]
二・二八事件
1947年2月27日。台湾。台北でのできごと。
日本の敗戦で、日本は植民地台湾を手放し、
台湾は代わりに大陸・中国国民党の支配下に入った。
日本の施政下では厳格な規律があったが、国民党政治はめちゃくちゃだった。
税金取り放題。賄賂取り放題。砂糖・米などはどんどん大陸に送られ、
台湾人にはまわってこなくなり、食べ物にも不自由した。
大陸からきた中国人に仕事を与えるため、台湾本省人は失業し、
たつきの手立てを失った。
この段階で多くの本省人が、国民党政府による政治に絶望した。
本省人の言を借りて表現すれば、
「犬(日本人)のかわりに、豚(中国人)が来た」のである。
犬はうるさく吼えるが役に立つ。
しかし、豚はむさぼるばかり、というのである。
国民党は大陸における共産党との戦闘費用を贖うため、
酒・砂糖などのほかタバコも専売品とした。
そんななか、一人の闇タバコ売りの寡婦が警官に咎められ、
持っていたタバコをすべて没収された。
それならせめてタバコの代金くらい払ってほしい、と追いすがる女性に、
警官はさんざんに暴力をふるった。
女性には、タバコを売るほかに生活の手段がなかった。だから必死だった。
そこに集まってきた群衆に、不穏な空気を感じとり、おびえた警察官が
発砲。
その弾丸は、運悪く、何の関係もない通行人に命中、その通行人は死亡した。
この事件がきっかけになり、翌日から台湾本省人の国民党政府に対する
大規模な抵抗運動が野火の如く、台湾全土に広がった。
国民党政府はこれに対し、容赦なく大弾圧を加える。
何の関係もない人間でも、知識人であるという理由だけで殺戮された。
密告を奨励した。気に入らない人間、恨みのある人間なら、無実であっても
密告しさえすれば片づけることができる、そういう世相になった。
これが、二・二八事件であり、台湾大虐殺とも呼称される。
その後、40年の間、戒厳令下にあり、人々はこの事件について
おおっぴらに口にすることすら許されなかった。
1248
これは メッセージ 228 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 映画「台湾人生」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/31 21:04 投稿番号: [230 / 735]
先生より立派な先生になろうと思い、一所懸命に教えるんです。
(その後、宋さんは学校の先生になった)
先生の一挙一動が、こう自分に・・・
先生に負けてはおりません、というそんな感じです。
しかし、宋さんはある借金の保証人となり教職を断念せざるをえない
状況となりました。
あるホテルのマネージャーになった宋さん。
日本からの客には必ず「あなた方、どこから来たんですか」とたずねた。
そうこうしているうちに、日本からの観光客で千葉から来た人に出会った。
その客は、小松原先生が暮らす千葉県の教育関係者だったために、
すぐに先生の消息がわかりました。
宗さんは同級生に声をかけ、先生を台湾に招きました。
三十なん年ぶりだよ。(会ったときは)なんにも言えない。なんにも。
なんともいえない。
・・・ところが二年、二年半前だったか、先生は病気にかかった。
わたしはずっと二週間、先生が脈を閉じるまで病院に看病に行った。
「宋くん、もういいよ、もういいよ」
宋さんは毎年、日本にある先生の墓参りをしています。
わたしは今でも日本精神たっぷりの古い男です。
台湾人のね、悔しさと懐かしさと、それからなんといいますか、
もうホントにね、解けない数学なんですよ。絶対解けない、
死ぬまでわたし、これ解けません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★「悔しい、懐かしい、」
というのが、往時を知る台湾の高齢者の気持ちです。
このかたたちは、今の日本人なんか比較にならないほどの、
高潔な日本人の精神を持っておられます。
この方たちに対して、わたしは一人の日本人として現在の日本の状況を
恥ずかしく苦しく悲しく思います。
日本人はこの台湾のかたたちに対してどう顔向けができるでしょうか。
今の若者は、このような歴史があったことさえ知らないでしょう。
ひとつ思うことは、この台湾の方々の現在の豊かさ・高潔な精神のもとは、
日本が行った教育にあるということです。
日本人は戦後、日教組や全教などの自虐教育ですっかりだめになって
しまいました。
自分の国を愛することも知らない、
やすやすと国民固有の権利を反日外国人に譲渡しようとしている。
それが友愛とか共生とか思い込んでいる、いい子でいようときどっている。
自分はいい人だと思っている。このうすっぺらな偽善が日本を滅ぼします。
そういう人は、
この立派な台湾人の爪の垢でも煎じて飲めばいいと思います !
最後に、
戦後30年経過してインドネシアのモロタイ島から帰国した李光輝さん
(日本名・中村輝夫さん)に、日本人はどのように感謝の念をあらわしましたか。
日本人、日本政府、恥ずかしくないですか。
わたしは一人の日本人としてとても恥ずかしい。
中国や韓国に莫大な日本のお金を脅し取られ、差し出して、
台湾には何をしてあげましたか。
中国の言うがまま国交さえ断絶したではありませんか。
たとえば個人的に募金をして、とかはダメなんです。
国家として、償いをしなければ。
今の日本人を、恥ずかしいと思います。
http://www8.plala.or.jp/say-hoo/koramu9.htm3981
これは メッセージ 229 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 映画「台湾人生」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/31 20:47 投稿番号: [229 / 735]
昔、日本には修身という科目があった。
正座・障子の開け方かた、お茶の淹れかた、教えられた。
これは、日本人が台湾に残した遺産、日本のたまものだ。
女学校に行く人は、みな成績上位。だからバカにされることはなかった。
日本人よりよくできた、二番だった。でも賞をもらうのは日本人。
味方になってくれた日本人の先生もいて自分を押してくれたが、
差別した先生もいてだめだった。
でも平気。わたしは日本人よりよくできたんだから。
今の日本人の人よりも、わたし、日本人ですよ。
「作文を書け」といわれて書けないから「天皇陛下万歳 ! 」と書いて
机の中に入れておいた。
見つかって「これはおまえが書いたのか、あとで校長室に来い ! 」と。
校長先生の前で、「これはホントの日本人の精神を・・・」(褒められた)
月月火水木金金で・・・・・
日本人の校長はとても厳しい校長で、
わたしが「早くラー」と言って校長に知られたんです。
(★語尾に台湾語のラーをくっつけたらしい★)
「おい、ちょっと来い、今なんて言った ? 」「なにがラーか ! 」
とこうひねって・・・(頬を強くひねりあげる)(でも厳しいばかりではなく)
わたしの家の状況をよく知って、助けてもらいました。
宋(定国)さんは家が貧しく勉強を続けることを何度も諦めましたが、
小松原先生はそんな宋さんを励まし続けました。
無事小学校を卒業した宋さんは、働きながら学ぶことができる
夜間中学に進みました。
あとでですね、勉強を続けようと思ったら続けられないの。
そんとき学校をやめようと思った。で先生のところへ行った。
そしたら語っているうちに、先生なにも言わないで、ポケットに五円札、
当時の五円札は大金だった、大きいカネだった。
僕は涙を出しながら、
「先生、わたし必ず成功します、どんなことがあっても成功してみせます」
小松原先生の後押しを受けて、宋さんは夜間中学を卒業。
すぐに●○海軍工廠に行き、日本で敗戦を迎えました。
(●○は、名称を忘れました、江ノ島のあたりらしい)
日本から帰って先生のところへ行った。芋を五・六個持って。
先生の生活も苦しいんだよ、子どもが三・四人もおる。
(そのあと、よく聞き取れなかったが、先生からいろいろせびりとって
世話になった、と言っているらしい)
あとから、先生のいろんな状況がわかった。
つづく
3970
これは メッセージ 228 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 映画「台湾人生」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/31 20:44 投稿番号: [228 / 735]
宋定国さん
小学校を卒業してから、技術も学べるし給料ももらえるからと徴用に応じた。
戦闘機雷電の整備に従事、働きながら夜間中学を卒業する。
当時「三浦」と、日本名を名乗った。
「いざゆかん、決戦の花形 航空機 増産へ ! 」
今朝教えてもらったことは、午後試験がある。
パスしないとケツを上げろと、ケツを上げるとパンパン !
(叩かれたか、或は蹴られた)
でも、入って悪かったという気持ちはしなかった、
それから入ってすぐ兵隊へ(行った)。
中国籍になったことは、何より悲しくて、泣いた。
日本政府を恨んだ。
今まで差別されたから、(シナが)祖国から来ると嬉しくて泣いたよ。
歓迎したよ。
あれ、軍隊じゃないよ。蒋介石がどっかで拾ってきたゴロツキよ。
自分の名まえも書けないものが役職に就いた。
二・二八事件勃発
蕭錦文さん
日本の旗を押し立てて抵抗のデモをした。
国民党は大陸に援軍を要請、かたっぱしから台湾人を逮捕して処刑した。
トラックに積まれて最期だと思った。
これで死ぬなら、戦争ではなばなしく死んだほうがよかったと思った。
裁判をやらずに処刑してはいけないと通達が出て、自分は助かった。
28,000人が犠牲になった。
白色テロ。戒厳令下で拷問・処刑が行われ無実の人が死んだ。
蕭さんの弟は銃殺された、26歳。錦文さんはそのとき27歳だった。
日本人に棄てられて、蒋介石にこんなめにあわされて、悲しい ! 悔しい !
僕たちは今でも、自分がシナ人であるという観念はない。
日本人だと思っている。
日本から「皆さん、ご苦労さんでした」というひとことがほしい !
日本人に可愛がられいたわられ、感謝しています。
だけど、日本政府には言いたい、了解できません。
「♪モーモタロさんモモタロさん、おこしにつけたキビ団子・・・♪ 」
正邪をはっきり教えている、
おいしいキビ団子あげるよ、だけど、タダであげるんじゃない、
これから鬼退治に行くからついてくるならあげるという・・・
「♪柴刈り、縄ない、ワラジを作り・・・♪ 」
つづく
3968
これは メッセージ 227 (ajisai110701 さん)への返信です.
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映画「台湾人生」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/31 20:05 投稿番号: [227 / 735]
◆映画「台湾人生」
オープニングは、原住民の女性たちの茶摘みと、台湾語の歌。
人生の年輪が刻まれたその表情は、優しく暖かく人なつっこい。
この茶畑は、日本統治時代はコーヒー園だったという。
新高の
山のふもとの民草の
茂りまさると聞くぞ嬉しき
〔明治天皇〕
(現在日本で最も高い山は富士山だが、当時は台湾の新高山だった。)
陳清香さん、蕭錦文さん、宋定国さんとその友人・知人他の代わる代わるの
独白で映画は綴られる。全員日本語が上手だ。
みな広い立派な家に住み、裕福で、子や孫に囲まれしあわせそうだ。
原住民パイワン族から国会議員にまでのぼりつめた陳さんとそのお孫さん
(女性)。
陳さんは今80歳、肝臓癌の末期というが矍鑠たるものである。
いつも動物の尻尾のついた帽子を愛用している。
陳さんは基隆(キールン)に住んでいた。
陳さんはうたう。
「雨も降れ
風も吹け
やまなす怒涛をなにか怖れん
♪ 」
「男なら、特攻隊行きますよ、行ってますよ、
天皇陛下バンザイと言って死んでました」
「負けたんだけれど、まだ勝つという気持ちは消えてなかった」
戦争が終って基隆に帰ってみれば、家は爆弾でやられ、家族は病気、
自分は徴用でとられ、カネもなく何もなかった。
日本はなんで我々を棄てたのか、少しでも守ってくれないのか、
大陸が何が怖いのか、靖国もっと参拝してください。
国家のために死んだ人、なんで拝んでいけないの ?
シナ人の(言ってること)、国家のためにけしからんこと・・・
蕭錦文さんは、二・二八紀念館と総統府のボランティア解説員をしている。
日本の歌が大好きで、日本の歌をうたいながら涙をふく。
日本に棄てられて、シナ人に押しこめられ、
いやな国に籍を置くようになってしまった。
学校の入学には日本人と差別があり、日本人のほうがずっと点数が甘かった。
軍隊には差別がないと思って志願したが、「チャンコロ」と言われた。
国を守る心は日本人以上だったのに。
つづく
3963
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芙蓉楼送辛漸 王昌齢
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/31 20:00 投稿番号: [226 / 735]
海江田経産相 “号泣”進退答弁
7月29日 17時43分 犬あっちいけニュース
海江田経済産業大臣は、29日の衆議院・経済産業委員会で、みずからの
進退について「いつ責任を取るかは自分で決める」という考えを改めて
強調しましたが、感極まった様子で、声を詰まらせながら答弁する場面も
ありました。
29日に開かれた衆議院経済産業委員会で、自民党の赤澤亮正議員は、
海江田経済産業大臣の出処進退について「政治家にかぎらず、自分の出処
進退を口にしたら、辞めなければ価値を落とすことになる」などと質問しました。
これに対し、海江田大臣は
「いつ責任を取るかは、自分で決めさせていただきたい」と述べました。
このやり取りの中では、海江田大臣が
「私は自分の価値はどうでもいいですよ」
と感極まった様子で、声を詰まらせながら答弁する場面もありました。
海江田大臣は、今月7日の参議院予算委員会で、九州電力玄海原子力発電所
の運転再開を巡り地元自治体が混乱していることについて、
「いずれ時期がきたら、責任を取りたい」と述べていました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110729/t10014555431000.htmlhttp://sankei.jp.msn.com/politics/news/110730/stt11073011470000-n1.htm>
「一片の氷心玉壺(ひょうしんぎょっこ)にあり」
海江田氏は最近、澄み切った心境を表した漢詩を周囲に紹介している。
気持ちの整理はついたのか…。<
http://ameblo.jp/heartsupple2011/entry-10969236290.html★「一片氷心」
日本の政治家の好む一句です。
嘗て、谷垣自民党総裁も色紙に「一片氷心」と書いておられました。
*********************
芙蓉楼送辛漸
王昌齢(唐・698〜755)
寒雨連江夜入呉
寒雨
江に連なりて
夜
呉に入る
平明送客楚山孤
平明
客(かく)を送れば
楚山
孤なり
洛陽親友如相問
洛陽の親友
如(もし)相問はば
一片氷心在玉壷
一片の氷心
玉壷(ぎょくこ)に在りと
(くもり無き心は今も変わらぬと伝えておくれ)
寒々とした氷雨が長江に降り注ぐなかをわたしたちは夜になってこの呉の国に入ってきた
明け方、君を見送り、振り仰ぐと、平らな楚の山がぽつんと見える
君が洛陽につき、洛陽の 親友に「わたしはどうしている」とたずねられたなら
「王昌齢は玉の壷の中の氷のような心境であるよ」と、こう答えてくれたまえ
★王昌齢は李白と並び称される七言絶句の名手です。
江寧の役人だったことから、王江寧とも呼ばれています。
★「芙蓉楼」とは、唐代の江蘇省鎮江(潤州)にあった旅籠。(長江の船旅の宿場)
★冷たい晩秋の雨あがり、靄のはれゆくなかにぼつんと見える山は、
友を見送る王昌齢の姿そのもの。
当時左遷の身であった王昌齢のやりきれなさと孤独感が
「氷心在玉壷」の名句でいっそうきわだつ。
.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/30 21:30 投稿番号: [225 / 735]
◆晏嬰のエピソード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8F%E5%AC%B0①
>社稷のために [編集]
次代の荘公の時の紀元前551年、晋の卿(大臣格の貴族)の欒盈(らんえい)が
士●(范●)との権力争いに敗れて、斉へ亡命してきた。
●・・・ツツミガマエ
のなかに
「亡」
荘公はこれを歓迎して復讐に手を貸そうとし、
晏嬰はこれに大反対するが、受け入れられなかった。
荘公は度々の晏嬰の諫言を疎ましく思うようになり、それを感じとった
晏嬰は職を辞して農民となり、畑を耕すようになった。
荘公は宰相・崔杼の妻と密通していた。
この事に怒った崔杼は紀元前548年5月、自分の家に荘公をおびき寄せ、
兵をもって殺した。
これを聞いた晏嬰は急いで駆けつけた。
もし荘公を悼む様子を見せれば崔杼によって殺され、
崔杼におもねれば不忠の臣としての悪名を受けることになる。
これに対して晏嬰は「君主が社稷のために死んだのならば私も死のう。
君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。
しかし君主の私事のためならば近臣(直臣)以外はお供する理由はない。」
と言って、型通りの哭礼だけを行って帰っていった。
崔杼の家臣が晏嬰を殺そうとしたが、崔杼はこれを止めた。<
★「君主が社稷のために死んだのならば私も死のう。
君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。
しかし君主の私事のためならば近臣(直臣)以外はお供する理由はない。」
と言って、型通りの哭礼だけを行って帰っていった。
これこそが、真の官僚といえる、官僚としてのあるべき態度。
当時の臣下の常識と比較して新鮮。
たぶん、ここで官僚という新しい概念ができたものと思われます。
それまでは、「主君のために働く」というのが当然の考え、
ところが晏子は「社稷のため」に働くと宣言しています。
★社稷・・・「社」は土地の神。「稷」は穀物の神。
天子・諸侯は必ずこの二神を祀ったところから、
転じて「国家」のことを「社稷」という。
==========================================================
=
◆ついでに「官吏」という言葉の説明を・・・・・。
「官」とは、原則として科挙に及第することを要し、その後は勤務成績
しだいで昇進して宰相の地位にのぼることも可能。
「官」に転任があり、その官庁の実務には疎いことが少なくない。
「吏」とは、昇進がなく生涯その職場で終る。
多くはその土地のもの。
地位は世襲であり、株を譲渡することもできる。
実務をとるのは「吏」。
3007
========================================
「紫陽花亭日乗」No.185 再掲
梁甫吟
無名氏
歩出斉城門
歩して斉の城門を出で
遥望蕩陰里
遥に望む
蕩陰(とういん)の里
里中有三墳
里中に三墳有り
塁塁正相似
塁塁として正に相い似たり
問是誰家墓
問う是れ誰が家の墓ぞ
田疆古冶子
田疆古冶子(でんきょうこやし)
力能排南山
力能く南山を排し
文能絶地紀
文能く地紀を絶つ
一朝被讒言
一朝 讒言を被り
二桃殺三士
二桃 三士を殺す
誰能為此謀
誰か能く此の謀(はかりごと)を為せる
国相斉晏子
国相斉の晏子なり
二桃三士
奇策によって人を自滅させること。
春秋時代、斉(せい)の景公の宰相・晏子(あんし)が用いた奇策で、
三人の粗暴な勇士(公孫接・田開疆(かいきょう)・古冶子(やし))に
二つの桃を贈って、最も功績のあった者が食べるようにしむけて三人に
争わせたところ、ついには三人とも自殺してしまったという故事に基づく。
己れの勲功を述べ立てて、いち早く桃を取った公孫接と田開疆は、
古冶子の反論にあって恥じ入って自害した。
残った古冶子は一人生きるのは不義であるとして果てた。
『晏子春秋・諫下』に見える。
★諸葛孔明はこの詩を好んで口ずさんでいたそうです。
★墳墓の主として、詩のなかに公孫接の名がないのが、少し気になります。
.
これは メッセージ 224 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/30 21:04 投稿番号: [224 / 735]
★越石父の段における最後のところ、「晏子於是延入爲上客」、
僕御の段における最後のところ、「晏子薦以爲大夫」をみると、
「上客」が「大夫」であるだけで、まったく同じ構造、結論です。
つまり、越石父に関するエピソードと、御者に関するエピソードは
同じことを言っているのです。
すなわち、ここで司馬遷がいいたいことは、やはり「認知」。
その人間の価値を知って、それにふさわしい地位に就けた晏子を賞賛しています。
司馬遷は、顕さなくてもいい正義感を発揮して、特に親しい間柄でも
なかった李陵をかばって腐刑という屈辱を受けた。
このとき、誰ひとりとして彼の真価を認め彼を庇護してくれる人はいなかった。
主君である武帝も彼の価値をなんら認めなかった。
司馬遷は認知されていなかった。
誰ひとりとして、人を見る目を持った晏子のような人物はいなかった、
という、司馬遷一流のあてこすりなのです。
これは『史記』のなかにしばしばあらわされています。
つづく
3006
これは メッセージ 223 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/30 21:01 投稿番号: [223 / 735]
〔原文〕
晏子爲齊相。出。其御之妻、從門輭而●其夫。
其夫爲相御、擁大蓋、策駟馬、意氣揚揚、甚自得也。既而歸。其妻請去。
夫問其故。妻曰。晏子長不滿六尺。身相齊國、名顯諸侯。今者妾觀其出、
志念深矣。常有以自下者。今子長八尺、乃爲人僕御。然子之意自以爲足。
妾是以求去也。其后夫自抑損。晏子怪而問之。御以實對。晏子薦以爲大夫。
●・・・モンガマエ
のなかに
「規」
うかがう
〔訓読〕
晏子、齊の相(ショウ)爲(た)り。出づ。
其の御(ギョ)の妻、門の輭(すきま)從(より)して其の夫を●(うかが)う。
其の夫、相の御と爲りて、大蓋を擁し、駟馬(シバ)に策(むちう)ち、
意氣揚揚、甚だ自得なり。既にして歸る。
其の妻去るを請う。夫其の故を問う。
妻曰く、晏子長六尺に滿たず。身は齊國に相、名は諸侯に顯(あらわ)る。
今者(いま)妾其の出づるを觀るに、志念深し。常に自ら下るを以て有り。
今、子長八尺なるに、乃ち人の僕御(ボクギョ)爲(た)り。
然るに子の意自ら以て足れりと爲す。妾是れを以て去るを求むるものなり。
其の后(のち)夫自ら抑損す。
晏子怪しみてこれを問う。御實を以て對(こた)う。
晏子薦(すす)めて以て大夫と爲す。
〔解釈〕
晏子はが斉の宰相となってからのころ、あるとき外出した。
そのとき晏子の御者の妻が、門のすきまから自分の夫の様子を覗き見ていた。
夫は、宰相晏子の御者であったから、車の大きな幌の下にいて、
四頭立ての馬に鞭をくれて、意氣揚揚として得意満面であった。
そういうことがあって、その御者である夫が帰宅すると、妻は離縁を申し出た。
夫がその理由をたずねた。
そこで妻が答えて言うには、
「晏子さまは、背丈が六尺(およそ140cmくらい)にも足りません。
がその身は斉の国の宰相で、その名は諸侯のあいだに知られています。
今、わたしが晏子さまのお出かけになるところを観ておりましたら、
深いお考えのあるかたのように思われます。
きっと常に謙虚を自ら心がけておられるのでしょう。
ところが今、あなたは背丈が八尺(およそ180cm強)もある大丈夫だというのに、
人の車を扱う御者をしています。
それなのにあなたのお心はそれで満足しておられるご様子。
わたしは、だから、あなたに離縁をお願いしているのです、と。
そのことがあってから後、夫は自制して謙虚にしていた。
晏子はそれを不思議に思ってわけをたずねてみた。
すると御者はありのままをお話しした。
晏子は、その御者を推薦して大夫にした。
つづく
3005
これは メッセージ 222 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/30 20:59 投稿番号: [222 / 735]
〔原文〕
越石父賢、在縲紲中。晏子出遭之塗、解左驂贖之、載歸。弗謝、入閨。
久之越石父請絶。晏子懼然。攝衣冠謝曰。
嬰雖不仁、免子於●。何子求絶之速也。
石父曰。不然。吾聞君子<言出>於不知己、而信於知己者。
方吾在縲紲中、彼不知我也。
夫子既已感寤而贖我。是知己。知己而無禮、固不如在縲紲之中。
晏子於是延入爲上客。
●「戸」のなかに「乙」
ヤク
くびき
〔訓読〕
越石父(エツセキホ)賢にして、縲紲(ルイセツ)の中に在り。
晏子出でてこれに塗(みち)に遭う。
左驂(ササン)を解きてこれを贖(あがな)い、載せ歸る。
謝せず。閨に入る。
これを久しうして越石父絶を請う。
晏子懼然(カクゼン)たり。
衣冠を攝(おさ)め謝して曰く、
嬰、不仁と雖も、子を①に免(まぬか)れしむ。
何ぞ子、絶を求むるの速(すみやか)なるや。
石父曰く、
然(しか)らず。吾れ聞く、君子は己を知らざるものに<言出>(クツ)して、
己を知る者に信(の)ぶ。
方(まさ)に吾れ縲紲(ルイセツ)の中に在るに、彼れ我れを知らず。
夫子(フウシ)既に已に感寤(カンゴ)して我れを贖(あがな)えり。
是れ己を知るなり。
己を知るものにして禮無くば、固(もと)より縲紲の中(うち)に在るに如(し)かず。
晏子是(ここ)に於いて延(ひ)き入れて上客と爲す。
〔解釈〕
越石父(エツセキホ)は賢人であったが、囚人として繋がれていた。
晏子は外出途中に、越石父に遭遇した。
晏子は左の副え馬をはずして身の代として越石父を贖(あがな)い、
自分の車に同乗させて帰宅した。
ところが晏子は越石父に挨拶もせず、奥に入ってしまった。
するとほどなく越石父が絶交を申し出た。
晏子は驚いた。そこで服装を整えあらためて挨拶をしてこう言った。
「嬰は、仁徳に欠けているかも知れませんが、
あなたを災厄からお救いしてさしあげたではありませんか。
どうしてあなたは、性急に絶交を求められるのですか」と。
すると越石父が答えて言うのに、
「そうではありません。わたくしはこのように聞いております。
君子は、自分を認知しないものに対しては目立たないようにして、
自分を認めてくれる者に対しては能力を発揮すると。
わたしは罪人としてくびきに繋がれておりましたが、わたしを捕えた者は
わたしという者を知らなかったからそれでいいのです。
あなたは、あのときわたしに何かをお感じになられ、
わたしを買い求めて自由の身にしてくださったのです。
これはわたしを認知してくださったということです。
ところがわたしを認めてくださっておきながら礼をないがしろにされては、
もとより囚人として牢獄にったほうがずっとましです」と。
それを聞いて晏子は、越石父をひき入れて上客として待遇した。
★認知・・・その人間の価値、真価を知る。
「知」という字が何度もくりかえし出ています。
君子<言出>於不知己、而信於知己者。
方吾在縲紲中、彼不知我也。
夫子既已感寤而贖我。是知己。知己而無禮、
つづく
3004
これは メッセージ 221 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/30 20:43 投稿番号: [221 / 735]
◆ここから、あとまわしにした『史記』晏子についての記述です。
〔原文〕
晏平仲嬰者、●之夷維人也。事齊靈公・莊公・景公、以節儉力行重於齊。
既相齊。食不重肉、妾不衣帛。其在朝、君語及之、即危言。語不及之、即危行。
國有道即順命、無道即衡命。以此三世顯名於諸侯。
●・・・クサカンムリ
+
「來」
ライ
〔訓読〕
晏平仲嬰は、●(ライ)の夷維の人なり。
齊の靈公・莊公・景公に事(つか)え、節儉力行を以て齊に重んぜらる。
既に齊に相(ショウ)たり。
食に肉を重ねず、妾に帛を衣(き)せず。
其の朝(チョウ)に在るや、君の語これに及べば、即ち危言す。
語これに及ばざれば、即ち危行す。
國に道有らば即ち命に順い、道無ければ即ち命を衡(はか)る。
此(ここ)を以て三世、名、諸侯に顯(あらわ)る。
〔解釈〕
晏平仲嬰は、●(ライ)(山東省)の夷維の人である。
斉の霊公・荘公・景公に仕え、節倹力行の人として斉の国で重んぜられていた。
やがて斉国の宰相となった。
宰相の地位に上って以後も、食事に肉料理は二皿を供せず、
腰元に絹ものを着せなかった。
朝廷に出仕しているときは、主君からお声がかかれば、ただちに言葉をただして答え、
お言葉がなければ行いを正しくしていた。
国政に道理があればただちに君命にしたがい、
道理がなければそこで君命を衡量し慎重に行動した。
このようにして霊公・荘公・景公の三代の主君に仕え、
晏平仲嬰の名は、諸侯のあいだに有名であった。
★晏平仲嬰・・・名は嬰、平は諡、仲は字。
★節儉力行・・・節儉は節約、倹約。力行は努力して実行すること。
★危言危行・・・言葉を正しくし、行いを正しくすること。
つづく
3002
これは メッセージ 219 (ajisai110701 さん)への返信です.
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高岡蒼甫が韓流批判で事務所をクビ
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/30 20:38 投稿番号: [220 / 735]
日星高岡蒼甫批電視台韓劇熱 稱該有自身榮譽感北京新浪網
(2011-07-26 12:36)
新浪娛樂訊 北京時間7月26日消息,據日本媒體報導,
人氣女星宮崎葵的丈夫、演員高岡蒼甫日前在推特發言,
批評日本國內電視台總播出韓劇,
這個言論在網絡引起了網友的熱議。
高岡蒼甫從以前就非常熱衷于推特,有時一天會發布數十次留言,
而且他的發言並不像其他藝人,他經常發表批評政府政策等方面的看法。
7月23日,高岡蒼甫在推特寫道,雖然以前常常受8頻道照顧,
但現在基本不看了,因為感覺那好像是個韓國的電視台,既然都是日本人,
希望能多播出一些傳統節目。
在日本關東地區這個8頻道指的就是富士台,
每天大概會播出三小時的韓劇。
此後高岡蒼甫又在推特發言稱:“這裡是日本,所以希望能播出日本節目,
還有歌曲也是,好好想想這裡是什麼國家!太惡心了!”
高岡蒼甫的發言在網上引起熱議,多數人都同意他的觀點,
表示不希望總是看到韓劇,當然也有韓流粉絲表示反對,
稱觀眾有需要電視台應該提供。
也有網友認為高岡蒼甫把韓國藝人當成了勁敵。
其實高岡蒼甫批評的並不是韓流,而是太過推崇韓流的電視台,
他認為日本人也應該有自己的榮譽感,尤其在東日本大地震後人們都意志
消沉的時候,更不應該只宣傳外國的文化,
而且妻子宮崎葵跟他的看法一樣。
不過高岡蒼甫也沒想到會引起這麼大轟動,事後他道歉說:
“傷害了很多人我表示歉意,我只是想讓日本變得更好,僅此而已,
賣國絕對不行,雖然說法有點過激,
但這就是我說話的方式。”(布布)
http://news.sina.com.tw/article/20110726/4590474.html.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/29 21:36 投稿番号: [219 / 735]
「晏子」に入る前に、
孔子の管仲に対する評価をもうひとつ追加しておきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◆『論語』「「巻第七
憲問第十四」
〔原文〕
子貢曰、管仲非仁者與、桓公殺公子糾、不能死、又相之、
子曰、管仲相桓公覇諸侯、一匡天下、民到于今受其賜、微管仲、
吾其被髪左衽矣、豈若匹夫匹婦之爲諒也、自經於溝●而莫之知也、
●・・・「讀」のゴンベンがサンズイの字
〔訓読〕
子貢が曰わく、
管仲は仁者に非ざるか。
桓公、公子糾(キュウ)を殺して、死すること能(あた)わず、又たこれを相(たす)く。
子の曰わく、管仲、桓公を相(たす)けて諸侯に覇たり、天下を一匡(イッキョウ)す。
民、今に到るまで其の賜(シ)を受く。
管仲微(な)かりせば、吾れ其れ髪(ハツ)を被(こうむ)り衽(ジン)を左にせん。
豈に匹夫匹婦の諒(まこと)を為し、自ら溝●(コウトク)に經(くび)れて
知らるること莫きが若(ごと)くならんや。
〔解釈〕
子貢がいった、
「管仲は仁の人ではないでしょうね。桓公が公子の糾(キュウ)を殺したときに、
殉死もできないで、さらに(仇の)桓公を補佐しました。」
先生はいわれた、
「管仲は桓公を補佐して諸侯の旗がしらにならせ、天下をととのえ正した。
人民は今日までもそのおかげをこうむっている。
管仲がいなければ、わたしたちは散ばら髪で襟を左まえにし
(た野蛮な風俗になっ)ていたろう。
とるにたりない男女が義理だてをして首つり自殺でみぞに捨てられ、
だれにも気づかれないで終わるというのと、
(管仲ほどの人が)どうして同じにできようか。」
★吾其被髪左衽矣・・・
実際にたとえば、時代がくだって清のときには異民族支配になって、
髪形は辮髪を強要され衣服のデザインも変化した、
旗袍(チーパオ・チャイナドレス)も、もとは清(満州族)の服。
★2500年前に孔子は、管仲のおかげで異民族の脅威にさらされずにすんだ、
といっています。
★溝●(コウトク)・・・ドブ。みぞ。
★最後のところ、とるにたりない男女の義のための死をたとえにして、
召忽(ショウコツ)の殉死は小義、
管仲が天下国家のためになしたことは大義、であるといっています。
つづく
3676
これは メッセージ 217 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/29 21:19 投稿番号: [218 / 735]
◆孔子の人となりと評価について
★人の資質を見抜く目、力量を持っている。
★状況証拠の積み重ねわする。
★思い込み、感情で判断しない。
★多面的、多岐的なものの見かたをしている。
★孔子は、なかなか人を仁者だと評価しない。
パーフェクトな人間はいないから。
★仁にも大小高低があると見ているのではないか。
◆孔子は管仲について、功績は大だが人格は小である、
と評価したように思われる。
◆孔子は、切り口を変えて評価している。
★孔子は実利的、合理的。
◆『論語』「巻第五
子罕第九」
〔原文〕
子罕言利與命與仁、
〔訓読〕
子、罕(まれ)に利と命と仁とを言う。
〔解釈〕
先生は、まれに、利益と運命と仁のお話をされた。
〔訓読〕
子、罕(まれ)に利を言う、命と仁と。〔金谷治、貝塚茂樹の解釈〕
〔解釈〕
先生は利益と運命と仁とのことは殆んど語られなかった。
〔訓読〕
子、罕(まれ)に利を言う、命と與(とも)にし仁と與(とも)にす。
〔解釈〕
先生はたまに利益についてお話になる。
そのときには、利が天命にかなっているか、仁の道にかなっているか、
必ずそれをお話になる。
★孔子は、仁についてどう思っているか。仁とは何か。
◆孔子が仁者として最も評価していたのは顔淵(顔回)
『論語』「巻第三
雍也第六」
〔原文〕
子曰、回也、其心三月不違仁、其餘則日月至焉而已矣、
〔訓読〕
子の曰わく、回也其の心三月仁に違(たが)わず。
其の餘は則ち日(ひび)月(つきづき)に至るのみ。
〔解釈〕
先生がいわれた。「回は三月も心を仁の紱から離さない。
その他の者では一日か一月のあいだゆきつけるだけのことだ。
つづく
以上、引用した『論語』は、金谷治, 岩波文庫からです。
★次回から、あとまわしにした晏子(アンシ)についての記述に入ります。
つづく
2999
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/29 21:10 投稿番号: [217 / 735]
◆『論語』「巻第七
憲問第十四」
〔原文〕
子路曰、桓公殺公子糾、召忽死之、管仲不死、曰、未仁乎、
子曰、桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也、如其仁、如其仁、
〔訓読〕
子路が曰わく、桓公、公子糾(キュウ)を殺す。
召忽(ショウコツ)これに死し、管仲は死せず。
曰わく、未だ仁ならざるか。
子の曰わく、桓公、諸侯を九合して、兵車を以てせざるは、管仲の力なり。
其の仁に如(し)かんや、其の仁に如(し)かんや。
〔解釈〕
子路がいった。
「桓公が公子の糾(キュウ)を殺したとき、召忽(ショウコツ)は殉死しましたが
管仲は死にませんで(仇の桓公に仕えま)した。」「仁ではないでしょうね。」
というと、先生はいわれた、
「桓公が諸侯を会合したとき武力を用いなかったのは、管仲のおかげだ。
(殉死をしなかったことは小さいことで)だれがその仁に及ぼうか。
だれがその仁に及ぼうか。
★公子糾(キュウ)は桓公の兄。
糾は魯に、桓公(小白)は衞に、ともに亡命していて齊の後継争いをしたが
桓公に敗れ死んだ。
管仲も召忽(ショウコツ)も公子糾(キュウ)に傅役として仕えていたが、
召忽は殉死し、管仲は桓公にのりかえた。
★会合・・・会盟。
覇者として諸侯を集め、周天子を中心とする中国の秩序を守った。
九合は糾合に同じ。
★如其仁、如其仁、・・・「ジョキジン」ポイントの三文字。
①其の仁に如(し)かんや、其の仁に如(し)かんや。
「其の」とは何か。諸説あります。
孔安国『論語集解』
誰か管仲の仁に如かんや。其・・・管仲
孔子は上記で、管仲は仁者に決まっている、と言っています。
朱子
管仲の仁は完璧な仁ではないが、管仲のすばらしい仁に及ぶものはいない。
召忽の仁は小さい仁であり、管仲の仁は大きな仁である。
②「其」を、「召忽」であるとする説。召忽の仁とは違う。
③「如」を「奈何」に同じとする、
或いは「何如」(何が欠けている)として、
「いかんぞ其れ仁ならん」または「其の仁をいかん」と読んで、
管仲の仁を許さなかった、という説もある。
日尾荊山(ニチオケイザン)の説。
「どうして仁といえようか、そんなものは仁ではない」
つづく
3659
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/29 21:04 投稿番号: [216 / 735]
〔原文〕
語曰。將順其美、匡救其惡。故上下能相親也豈管仲之謂乎。
方晏子伏莊公尸、哭之成禮、然後去、豈所謂見義不爲無勇者邪。
至其諫説犯君之顔、此所謂進思盡忠、退思補過者哉。
假令晏子而在、余雖爲之執鞭、所忻慕焉。
〔訓読〕
語に曰く、
其の美に將順し、其の惡を匡救す。故に上下能く相親しむ、とは、豈に管仲を之れ謂うか。
方(なら)びに晏子莊公の尸に伏し、之に哭し禮を成し、然る後に去るは、
豈に義を見て爲さざるは勇無しと謂う所の者か。
其の諫説して君の顔を犯すに、此れ進みて忠を盡くすを思い、
退きて過ちを補うを思うと謂う所の者か。
假(も)し晏子をして在らしめば、余之が爲に鞭を執ると雖も、忻慕(キンボ)する所なり。
〔解釈〕
語に曰く、
「君主の美点をますます立派になるよう助力し伸ばし、君主の欠点を矯正する。
その故に上下(君臣)がよく相親しむのだ」とあるのは、
なんとまさに管仲のことをいったのであろうか。
それに比較して、晏子が莊公の死体に伏し、これに哭礼して後に立ち去った
ということは、まさに「義を見て爲さざるは勇無し」ということであろうか。
君主に諫言するときには、君主の顔色をうかがわなかった。それは
「進んでは忠を盡くすことを思い、退いては過ちを補うことを思う」
ということであろうか。
もし晏子が今生存しているのであれば、わたくし、この司馬遷は
晏子の御者となってもかまわないと思うほど喜び慕うものである。
★語曰・・・古語曰。『孝経』ではこういっている。
==================================================================
◆『論語』にみる孔子の管仲評価
管仲は孔子より 170〜180 年前の人物です。
管仲は仁者か仁者でないか、孔子の視点をみます。
『論語』はすべて、金谷治訳注『論語』岩波文庫より引用しています。
◆『論語』「巻第二
八イツ巻三」・・・この部分は再掲です。
〔原文〕
子曰、管仲之器小哉、或曰、管仲儉乎、曰、管氏有三歸、官事不攝、
焉得儉乎、然則管仲知禮乎、曰、邦君樹塞門、管氏亦樹塞門、
邦君爲兩君之好、有反<土占>、管氏亦有反<土占>、管氏而知禮、孰不知禮、
〔訓読〕
子(シ)の曰(のたま)わく、管仲の器は小なるかな。
或るひとの曰(い)わく、管仲は倹なるか。
曰(のたま)わく、管氏に三帰あり、官の事は摂(か)ねず、焉(いずく)んぞ倹なるを得ん。
然らば則ち管仲は礼を知るか。
曰(のたま)わく、邦君、樹して門を塞ぐ、管氏も亦た樹して門を塞ぐ。
邦君、両君の好(よしみ)を爲すに反<土占>(はんてん)あり。管氏も亦た反<土占>あり。
管氏にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん。
〔解釈〕
先生(孔子)がいわれた。「管仲の人物は小さいね。」
ある人が「管仲は倹約だったのですか。」というと、
「管氏には三つの邸宅があり、家臣の事務もかけもちなしで
(それぞれ専任をおいて)させていた。どうして倹約といえようか。」
「それでは管仲は礼をわきまえていたのですか。」
「国君は目かくしの塀を立てて門をふさぐが、
管氏も(陪臣の身でありながら)やはり塀を立てて門の目かくしにした。
国君が二人で修好するときは、盃をもどす台を設けるが、
管氏にもやはり盃をもどす台があった。
管氏でも礼をわきまえているなら、礼をわきまえないものなどだれもなかろう。」
★孔子は、管仲は贅沢好みで礼儀知らず、だといっている。
つづく
3659
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/29 20:59 投稿番号: [215 / 735]
〔原文〕
太史公曰。
吾讀管氏牧民、山高、乘馬、輕重、九府、及晏子春秋。詳哉其言之也。
既見其著書、欲觀其行事。故次其傳。至其書世多有之。是以不論。論其軼事。
管仲世所謂賢臣。然孔子小之。豈以爲周道衰微、
桓公既賢、而不勉之至王、乃稱霸哉。
〔訓読〕
太史公曰く、
吾管氏の牧民、山高、乘馬、輕重、九府、及び晏子春秋を讀む。
詳(つまび)らかなるかな其の之を言ふや。
既に其の著書を見、其の行事(コウジ)を觀(み)んと欲す。
故に其の傳を次(つ)いず。
其の書に至りては世に多く之れ有り。
是の以(ゆえ)に論ぜず。
其の軼事(イツジ)を論ず。
管仲世に所謂(いわゆる)賢臣なり。
然るに孔子は之を小とす。
豈に周道衰微し、桓公既に賢なるに、而(しか)も之を勉(はげ)まして
王に至らしめず、乃ち霸を稱せしめたるを以爲(おもへ)るか。
〔解釈〕
太史公曰く、
「わたしは管氏の著した牧民、山高、乘馬、輕重、九府、及び晏子春秋を読んだ。
その言いかたは非常に詳細な記述がしてある。
その著書を読んで、わたしは管仲と晏子の行った事がらを観察したみたく思った。
そこで彼らの伝を列記した。
彼らの書というのは世間に多く流布されている。
だからそれについてはわざわざ論じない。その軼事(イツジ)を論じた。
管仲は世にいう賢臣である。しかるに孔子は
「管仲之器小哉。(管仲の器は小なるかな。管仲の人物は小さいね)」
と言った。
それは、周道が衰微した時代に、桓公はすでに賢人であったというのに、
主君である桓公を而(しか)もこれを勉(はげ)まして王にまで至らしめず、
霸者と称させたにとどまったことに不満であったのだろうか。
★軼事(イツジ)・・・=逸事。
埋もれてしまって世に知られていない事実や事柄。
つづく
3658
これは メッセージ 214 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/29 20:56 投稿番号: [214 / 735]
〔原文〕
管仲卒。齊国遵其政、常彊於諸侯。後百餘年而有晏子焉。
〔訓読〕
管仲卒(シュツ)す。齊国其の政に遵(したが)い、常に諸侯より彊(つよ)し。
後百餘年にして晏子有り。
〔解釈〕
管仲が死んだ。
が彼の死後も齊の国では、管仲の政治のやりかたを遵守して、
常にほかの諸侯より強大であった。
その後百年あまりして晏子が出現したのである。
★以下、晏子(やはり管仲と同じく齊の宰相)についての記述は
あとまわしにして、論賛「太史公曰」に飛びます。
このあとまわしにしたところに、晏子のことを「節儉力行」と
評価している記述があります。
「節儉」は「物事をほどほどにしてしまりがある」
「無駄な費用をつつしむ」、
「力行」は「つとめて行う」「努力して実行する」という意味です。
管仲の奢侈と対照的な記述です。
★『春秋左氏傳』の二人のヒーロー、あるいは「春秋の五覇」に必ず
数え上げられるのが、「齊桓晉文」といって、齊の桓公と晉の文公(重耳)
のふたりです。
齊の国では管仲が死に、桓公もだんだん年をとって耄碌して判断力が
にぶってくると、かつての覇者たる勢いにかげりが出てきます。
やがて桓公が亡くなると、跡目を狙って五人の有力な公子たちが
一斉に立ち、お家騒動が起こります。
それを武力で鎮圧し、かねて桓公より後見をたのまれていた公子を
即位させたのが、宋の襄公で、この人が次の覇者となります。
その長期間、桓公の屍は誰からもかえりみられず放置され、
やっと納棺にいたったときには、遺骸からわいた蛆が部屋の外まで
這い出てきたそうです。
つづく
3657
これは メッセージ 213 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/29 20:40 投稿番号: [213 / 735]
〔原文〕
管仲富擬於公室、有三歸反<土占>。齊人不以爲侈。
〔訓読〕
管仲の富公室に擬し、三歸反<土占>(ハンテン)有るも、
齊人以て侈(シ)と爲さず。
〔解釈〕
管仲の富は、主君の富に匹敵し、邸宅は三つもあり(妻が三人いた)
反<土占>(ハンテン)もあったが、齊の人々は、
それを以て奢侈だとはみなさなかった。
★反<土占>(ハンテン)
諸侯が觴を酌み交わした後、その觴を反して置く場所。
広間の柱と柱の中間にあった。
反<土占>を作ることは諸侯のみに認められていた。管仲は諸侯ではなく
臣下であるから、本当は非難されるべき僭越行為である。
================================================
『論語』「巻第二
八●()イツ巻三」
●・・・「イツ」
にんべん
+
「八」、その下に「月」
http://kanbun.info/keibu/rongo00.html「目次」の一行目右端をご覧下さい。
〔原文〕
子曰、管仲之器小哉、或曰、管仲儉乎、曰、管氏有三歸、官事不攝、
焉得儉乎、然則管仲知禮乎、曰、邦君樹塞門、管氏亦樹塞門、
邦君爲兩君之好、有反<土占>、管氏亦有反<土占>、管氏而知禮、孰不知禮、
〔訓読〕
子(シ)の曰(のたま)わく、管仲の器は小なるかな。
或るひとの曰(い)わく、管仲は倹なるか。
曰(のたま)わく、管氏に三帰あり、官の事は摂(か)ねず、焉(いずく)んぞ倹なるを得ん。
然らば則ち管仲は礼を知るか。
曰(のたま)わく、邦君、樹して門を塞ぐ、管氏も亦た樹して門を塞ぐ。
邦君、両君の好(よしみ)を爲すに反<土占>(はんてん)あり。
管氏も亦た反<土占>あり。
管氏にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん。
〔解釈〕
先生(孔子)がいわれた。「管仲の人物は小さいね。」
ある人が「管仲は倹約だったのですか。」というと、
「管氏には三つの邸宅があり、家臣の事務もかけもちなしで
(それぞれ専任をおいて)させていた。どうして倹約といえようか。」
「それでは管仲は礼をわきまえていたのですか。」
「国君は目かくしの塀を立てて門をふさぐが、管氏も(陪臣の身でありながら)
やはり塀を立てて門の目かくしにした。国君が二人で修好するときは、
盃をもどす台を設けるが、管氏にもやはり盃をもどす台があった。
管氏でも礼をわきまえているなら、礼をわきまえないものなどだれもなかろう。」
★金谷治訳注『論語』岩波文庫より
★管仲は孔子より 170〜180 年前の人物です。
つづく
3654
3655
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/29 20:24 投稿番号: [212 / 735]
★齊の国が楚の国を攻撃する二つの大義(理由・口実)。
大義なくしてやたら他国へ攻め込んではいけないのです。
①楚が周室に包茅(ホウボウ)を贈らなくなった。周室を軽んじている。
②350年前に周の昭王が楚の討伐に赴き行方不明になった事件も責めている。
これはまさしくインネンをつけているというほかありません。
ただ中国は日本と違って、長いスパンでものを考える国でもあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)>周を中心とした中原諸国からは蛮族として蔑まれたが、
(この時代の尊王攘夷の夷とは楚を指していた)
独自の高い文明を持っており、周の建国から少し経った頃に周の史書に
現れ始め、熊繹が成王から子爵に封じられたといわれる。
周の昭王の討伐を受けるが、これを撃退し、昭王を戦死させたとされる。<
行方不明になって、ついに周に還ることができなかったのです。
★桓公實怒少姫・・・
桓公實は少姫を怒り、
http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=17789&if=gbこのページの最終行です。
〔原文〕
「齊侯與蔡姫乘舟于囿,蕩公,公懼,變色,禁之不可,公怒,歸之,
未絶之也,蔡人嫁之。」
〔訓読〕
齊侯、蔡姫と舟に囿に乘る。公を蕩(うご)かす。
公懼れて色を變ず。之(これ)を禁ずれども不可(きかず)。
公怒りて之を歸し、未だ之を絶たざるに、蔡人之を嫁す。
〔解釈・解説〕
齊の桓公は、蔡国から娶った少姫と、
宮殿内の庭園にある池で舟遊びをしていた。
舟が揺れて桓公がうろたえたのを見た少姫は面白がって、
桓公が「やめろ ! 」と制止するのもきかず、わざと何度も舟を揺らした。
桓公は水が苦手で恐怖のあまり顔色が変わるほどだった。
桓公は怒って少姫を蔡にかえした。
が少姫にまだ多少の未練があって、時期をみて再び召し寄せるつもりで
正式に離婚していなかった。
にもかかわらず、蔡では、「あっ、そう ! 」ということで、
さっさと少姫をよそに嫁がせた。
それで桓公は怒って蔡を攻撃したのである。
★包茅(ホウボウ)
植物の茅(ちがや)を束ねたもの。祭りのとき酒を注いで供える。
そこから転じて、貢ぎ物のことをいう。
あるいは、上質の酒を造るために、茅を重ねたもので酒をこす。
★桓公實北征山戎。而管仲因而令燕修召公之政。
桓公實は北のかた山戎を征つ、而るに管仲因りて燕をして召公の政を修せしむ。
桓公が、燕が山戎の侵入に困っているのを支援して北征した。そして
燕に対し、昔の召公のときのように周王室に忠実に仕えるようにさせた。
★於柯之會、桓公欲背曹沫之約。管仲因而信之。
柯(カ)の會に於て、桓公曹沫(ソウバツorソウカイ)の約に背かんと欲す。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『史記』「刺客列傳」第一話「曹沫」(そうばつ)
前七世紀
曹沫は魯の壯公に仕え將軍となり、斉と三戦し三たび敗北した。
公はそれでも曹沫を將軍のままにおいた。
斉の桓公(かんこう)と魯の壯公が会盟をした。
ふたりが堂上で和睦の会盟をしている席に、曹沫がつかつかと階段を上り
桓公(かんこう)に匕首(ひしゅ)をつきつけて脅し、
斉が侵略した魯の土地を返すよう迫った。
かくして曹沫が三戦して失った魯の土地はことごとく返還された。
★君主が堂上で和睦の会盟をしている席に、
許可なく臣下があがってはいけません。
武器の携帯はもちろん不可ですし、犯せば死刑です。
これについては、会盟ではないですけど、同じく「刺客列傳」
荊軻の始皇帝暗殺の場面をお読みいただくとよくわかります。
★たとえば、「毛遂自薦」のところを読んでみてください。
「嚢中之錐」という言葉が有名です。
http://www.geocities.jp/sei_taikou/heigennkunngukei.htmlhttp://oak.zero.ad.jp/teru/gakusyu/18/noutyu/yaku.htmlなんと、「曹沫」の話と似ているではありませんか。
★「刺客列傳」の荊軻の話はまたのちほどUPします。
つづく
3653
607
これは メッセージ 211 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/28 22:48 投稿番号: [211 / 735]
〔原文〕
桓公實怒少姫、南襲蔡。管仲因而伐楚、責包茅不入貢於周室。
桓公實北征山戎、而管仲因而令燕修召公之政。
於柯之會、桓公欲背曹沫之約。
管仲因而信之。諸侯由是歸齊。故曰。知與之爲取、政之寶也。
〔訓読〕
桓公實は少姫を怒り、南のかた蔡を襲う。
管仲因りて楚を伐つに、包茅(ホウボウ)の周室に入貢せざるを責む。
桓公實は北のかた山戎を征つ、
而るに管仲因りて燕をして召公の政を修せしむ。
柯(カ)の會に於て、桓公曹沫(ソウバツorソウカイ)の約に背かんと欲す。
管仲因りて之を信(まこと)にす。諸侯是に由りて齊に歸す。
故に曰く、與(あた)うるの取ると爲るを知るは、政の寶(たから)なり」と。
〔解釈〕
桓公が蔡から娶った少姫にはらをたてたことは事実であり、
蔡を襲撃しようと南進した。
管仲はそれに乗じて楚を伐つ口実として、
楚の国が周室に貢ぎ物を出さなくなっていることを非難した。
桓公が北方の山戎を征伐したことは事実であったが、管仲はそれに乗じて、
燕に燕の国の始祖である召公の善政を再び行わせるようにした。
柯(カ)の地での魯国との会盟に於いて、桓公は曹沫(ソウバツorソウカイ)の
約束を反故にしようとした。
が管仲は、桓公に諫言してそのまま信義を守らせた。
諸侯は、これらのことを見聞きし知ってそのために齊に帰服した。
その故に『管子』では、
「まず他に与えるということが、やがては自分が得ることになるのである。
このことを知ることは、政治を行ううえでの真髄である。」
というのである。
★この段の記述のいくつかの詳細については、次回で UP します。
つづく
3645
これは メッセージ 210 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/28 22:43 投稿番号: [210 / 735]
〔原文〕
管仲既任政相齊。以區區之齊在海浜、通貨積財、富國彊兵、與俗同好惡。
故其稱曰。倉廩實而知禮節、衣食足而知榮辱。上服度則六親固。
四維不張、國乃滅亡。下令如流水之原。令順民心。故論卑而易行。
俗之所欲、因而予之、俗之所否、因而去之。
其爲政也善因禍而爲福、轉敗而爲功。貴輕重、愼權衡。
〔訓読〕
管仲 既に政に任じ齊の相たり。
區區(クク)の齊の海浜に在るを以て、貸を通じ財を積み、
國を富ましめ兵を彊(つよ)くし、俗と好惡を同じくす。
故に其れ稱して曰く、
倉廩(ソウリン)實ちて禮節を知り、衣食足りて榮辱を知る。
上の服度あれば則ち六親固し。四維張らざれば、國乃ち滅亡す。
令を下すこと流水の原(みなもと)よりするが如し。令民心に順ふと。
故に論卑(ひく)くして行ひ易し。
俗の欲する所は、因りて之を予(あた)へ、
俗の否(いな)む所は、因りて之を去る。
其の政たるや善く禍に因りて福に爲(な)し、敗を轉じて功と爲(な)す。
輕重を貴び、權衡を愼む。
〔解釈〕
そして管仲は政治を任され齊の宰相となった。
齊の國は小国で海に面していたが、手広く貿易を行い財を貯え、国を富ませ
軍隊を強力にし、人民の好むところ悪むところをよく汲み取った政治を行った。
これを『管子』に以下のようにいう。
「米蔵に食物がいっぱいになるとはじめて、人は礼節をわきまえるようになる。
衣食が充足してはじめて、人は栄誉と恥辱を知るようになる。
指導的地位にある者の行いに節度があれば、
一族(父母兄弟妻子)の結束は固くなる。
四つの大綱、礼・義・廉・恥が張りめぐらされていなければ、
国は滅亡する。
命令を発するときには、水が水源より発してやがて低きに流れすみずみに
までいきわたるが如くにしてはじめて、その命令は民心に叶う。」と。
故に管仲の理論は卑近で実行が容易であった。
大衆の望むところは与え、大衆の拒否するところは取り除いた。
管仲の政治は、禍があっても上手に福に転化し、
失敗をしてもそれを成功に転化することに長けていた。
ものごとの軽重をよく見極め、つりあいを取ることが慎重であった。
★下令如流水之原・・・
ちょっと、以下
↓
を思い出します。
『老子』第七十八章
「天下莫柔弱、莫過於水。」
「天下の柔弱なるは水に過ぐるは莫し。」
★權衡・・・
「權」は「はかりのおもり」、
「衡」は「はかりのさお」、
で「ものの標準になるもの」です。
つづく
3642
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/28 22:29 投稿番号: [209 / 735]
★「知」という字に注目してください。
知我貧也。
知時有利不利也。
知我不遭時也。
知我有老母也。
知我不羞小節、而恥功名不顯于天下也。生我者父母、
知我者鮑子也。
次の段落
天下不多管仲之賢、而多鮑叔能知人也。
「認知」ということについて。
このトピの、No.157 , No.158 を参考にご覧下さい。
>「何則士爲知己者用、女爲説己者容。」
なんすれぞ即ち、士は己を知る者のために用を爲し、
女は己を説(よろこ)ぶ者のために容(かたち)をつくる」<
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〔原文〕
鮑叔既進管仲以身下之。子孫世祿於齊、有封邑者十餘世。常爲名大夫。
天下不多管仲之賢、而多鮑叔能知人也。
〔訓読〕
鮑叔 既に管仲を進め身を以て之に下る。
子孫世々に齊に祿せられ、封邑を有(たも)つ者十餘世。常に名大夫たり。
天下 管仲の賢を多とせずして、鮑叔の能く人を知るを多とす。
〔解釈〕
鮑叔はやがて管仲を主君・桓公に推薦し、
自身は管仲より下の役職となった。
管仲の子孫は代々齊の祿を食み、封ぜられた領地を保つ者は十世代を越え、
その間常に名大夫であった。
天下の人々は、管仲の賢明を重く評価せずに、
鮑叔のよく人を見る目のあることを評価したのである。
★この天下の人々の評価も「認知」ですね。
つづく
3641
これは メッセージ 207 (ajisai110701 さん)への返信です.
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列異・散同
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/28 22:19 投稿番号: [208 / 735]
たとえば、「楊柳」という言葉ですが・・・
「柳」は送別の詩に多く登場します。
送別のとき、送る人は柳の枝を折りとり、まるく輪にして
出立する人に贈ります。輪は再会の象徴です。
人を送るときは、土地と土地を隔てる河まで見送ることが慣習です。
そして河の土手には柳がはえています。
中国では、柳も楊もおおざっぱにいうなら同じ。
漢詩をつくるとき、平仄の関係でどちらの字を使うか決めます。
「楊柳」の二字で単なる「やなぎ」のこと。
平仄の関係で一字ずつ使い分けすることもあります。
また厳密なことを言えば、「楊」は枝が上向きになっているやなぎ、
ねこやなぎを連想。
「柳」は枝が下向きになっているやなぎのことです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
◆「列異」「散同」の説明です。
「列異」というのは、同じような意味を持つ字を二字ならべた言葉で、
そのふたつの文字はそれぞれ異なる意味を持っている。
それを厳密に区別する。
なんのことやらよくわかりませんが、たとえば、
「倉庫」・・・「倉」も「庫」も同じ、物を収納しておくクラですが、
「倉」は、穀物を入れるクラ。「庫」は、武器を入れるクラ。
「泣涕」・・・「泣」も「涕」も涙を流すことですが、
「泣」は、目から出る涙。「涕」は、鼻から出る涙。
★「散同」・・・一字のみ使用する場合は包括的意味。
たとえば、上記の字で、
「倉」一字なら、一般的なクラ。特になかみに言及しない。
「泣」一字なら、一般的にただナミダをいう。
★「楊柳」の場合はたぶん、どちらの字一字でも「散同」、
「楊柳」と二字そろって「列異」なんだろうと思います。
2900
これは メッセージ 207 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/28 22:11 投稿番号: [207 / 735]
★「管晏列傳」の「管」とは「管子」「管仲」、
「晏」とは「晏子」「晏嬰」のことです。
ともに齊の国の宰相でした。
『史記』「管晏列傳」には、まず管仲についての記述があり、
次に晏子についての記事があります。
★「賈」とは、店を構えて商売すること、「商」とは、行商すること。
古代、殷(商)が滅亡後、殷人の多くが行商に出たのを「商人」といいました。
「殷」でウィキを検索、ずっと下の方、
「滅亡後」というところをご覧下さい。
>商人という言葉は、商(殷)人が国の滅亡した後の生業として、
各地を渡り歩き、物を売っていたことに由来する。
店舗を持たず、各地を渡り歩いて物を売っていた人間を、人々が
「あれは商の人間だ」と言っていたことから「商人」という言葉が生まれた。
そのため、商とは本来「行商」のことであり、漢語では、店舗・露店を
構えて物を売ることを「鬻(ひさ)ぐ」といって区別している<
★「商賈」という言葉は、「列異」だと思います。
「列異・散同」の説明は次頁にて。
〔原文〕
管仲曰。
吾始困時、嘗與鮑叔賈。分財利多自與。鮑叔不以我爲貪。知我貧也。
吾嘗爲鮑叔謀事而更窮困。鮑叔不以我爲愚。知時有利不利也。
吾嘗三仕三見逐於君。鮑叔不以我爲不肖。知我不遭時也。
吾嘗三戰三走。鮑叔不以我爲怯。知我有老母也。
公子糾敗、召忽死之。吾幽囚受辱。鮑叔不以我爲無恥。
知我不羞小節、而恥功名不顯于天下也。生我者父母、知我者鮑子也。
〔訓読〕
管仲曰く、
吾始め困(くる)しみし時、嘗て鮑叔と賈(コ)す。
財利を分かつに多く自ら與う。
叔 我を以て貪(タン)と爲さず。我が貧なるを知ればなり。
吾嘗て鮑叔の爲に事を謀るも更に窮困す。鮑叔我を以て愚と爲さず。
時に利不利有るを知ればなり。
吾嘗て三たび仕え三たび君に逐わる。鮑叔我を以て不肖と爲さず。
我が時に遭わざるを知ればなり。
吾嘗て三たび戰い三たび走る。鮑叔我を以て怯と爲さず。
我に老母有るを知ればなり。
公子糾敗れ、召忽(ショウコツ)之に死す。吾幽囚せられ辱めを受く。
鮑叔 我を以て無恥と爲さず。
我に小節に羞ぢずして、功名の天下に顯(あら)われざるを恥づるを知ればなり。
我を生みし者は父母なるも、我を知る者は鮑子なり、と。
〔解釈〕
管仲は言う。
「わたしがもと困窮していたとき、嘗て鮑叔と組んで商いをした。
そこで得た利益を分配するのに、わたしの取り分を多くした。
しかし鮑叔は、わたしのことを貪欲だとはみなさなかった。
わたしが貧乏であることを知っていたからである。
わたしは嘗て鮑叔のためにある事をはかったが、う
まくいかず状況は更に苦境に陥った。
しかし鮑叔は、わたしのことを愚劣だとはみなさなかった。
時に利と不利とのあることを知っていたからである。
わたしは嘗て三度仕官したが、その三度とも主君から放逐された。
しかし鮑叔は、わたしのことを不肖とはみなさなかった。
わたしが時流に合わなかったことを知っていたからである。
わたしは嘗て三度戦争をして三度とも敗走した。
しかし鮑叔は、わたしのことを臆病者であるとはみなさなかった。
わたしには年老いた母親がいることを知っていたからである。
公子の糾が敗れ、召忽(ショウコツ)は殉死したが、
わたしは生きて入牢させられるという辱めを受けた。
しかし鮑叔は、わたしのことを恥知らずであるとはみなさなかった。
わたしが小さな節義に背くことを恥とはこだわらず、
功名が天下にあらわれないことを恥だとしていることを知っていたからである。
わたしを生んだ者は父母であるが、
わたしを真に知っている者は鮑子である。」と。
★「三仕三見」「三戰三走」
「三」という数字に注目してください。
支那における「三」の意味は、本当に三回かどうかわかりません。
「たくさん」「何度も」かもしれません。
つづく
3635
これは メッセージ 206 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/28 21:46 投稿番号: [206 / 735]
〔原文〕
已而鮑叔事齊公子小白、管仲事公子糾。
及小白立爲桓公、公子糾死、管仲囚焉。
鮑叔遂進管仲。管仲既用、任政於齊。齊桓公以覇。
九合諸侯、一匡天下、管仲之謀也。
〔訓読〕
已にして鮑叔 齊の公子小白に事え、管仲 公子糾に事う。
小白立ちて桓公と爲り、公子糾死するに及び、管仲囚えらる。
鮑叔遂に管仲を進む。管仲既に用いられ、政に齊に任ず。
齊の桓公以て覇たり。
諸侯を九合し、天下に一匡(イッキョウ)したるは、
管仲の謀(はかりごと)なり。
〔解釈〕
そのころ鮑叔は齊の公子である小白に仕え、
管仲は同じく齊の公子である糾に仕えていた。
小白が齊の国君に立てられ桓公となり、
公子糾が死んだことにより、管仲は捕えられた。
鮑叔がそのとき管仲を登用するよう進言した。
管仲はそこで任用され、齊の政治にあずかることとなった。
その後、齊の桓公が覇者となり、諸侯を九合して天下を統一し
秩序づけることができたのは、管仲の謀(はかりごと)によるものである。
★九合
糾合に同じ。音通。一説に「九度、集める」という意味もある。
★一匡(イッキョウ)・・・天下を統一し秩序づける。
つづく
3634
これは メッセージ 205 (ajisai110701 さん)への返信です.
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『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/28 21:42 投稿番号: [205 / 735]
『史記』「管晏列傳第二」
〔原文〕
管仲夷吾者、潁上人也。少時常與鮑叔牙游。鮑叔知其賢。
管仲貧困、常欺鮑叔。鮑叔終善遇之、不以爲言。
〔訓読〕
管仲夷吾は、潁上の人なり。少かりし時常に鮑叔牙と游ぶ。
鮑叔其の賢なるを知る。
管仲貧困、常に鮑叔を欺くも、鮑叔終に善く之を遇し、以て言を爲さず。
〔解釈〕
管仲夷吾は潁上(エイジョウ)の人である。
若いころ常に鮑叔牙と行動をともにしていた。
鮑叔は管仲が賢者であることを知っていた。
管仲は貧困で、いつも鮑叔を欺いたが、鮑叔は常に態度をかえることなく
管仲に接遇し、何も言わなかった。
★『十八史略』の記事
[仲]字[夷吾]。嘗与[鮑叔]賈。分利多自与。鮑叔不以為貪。知[仲]貧也。
嘗謀事窮困。鮑叔不以為愚。知時有[利不利]也。嘗三戦三走。鮑叔不以為怯。
知[仲]有老母也。仲曰、「[生我者]父母。[知我者]鮑子也。」
桓公[九合]諸侯、[一匡]天下、皆[仲]之謀。一則[仲父]、二則[仲父]。
『十八史略』では「仲、字(あざな)は夷吾」となっていますが、
『史記會注考證』では「夷吾が名で、字は仲」となっています。
鮑叔牙も「牙」が名まえで「叔」が字と思われます。
ただ兄弟の長幼も、伯・仲・叔・季で表現されます。
あざなにしろ名まえにしろ、仲や叔であれば、
確実に長男ではないと思います。
★常欺鮑叔・・・『十八史略』の記述によると、
「嘗てふたりが一緒に商売をしたとき、その利益を配分するのに、
管仲は鮑叔の目をごまかして多く自分のふところに入れたが、
鮑叔は管仲を貪欲とはみなさなかった」とあります。
つづく
3631
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~^
★「星落秋風五丈原」
>管仲去りて九百年<
.
これは メッセージ 187 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 台湾民進党女性議員の武勇伝
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/28 21:16 投稿番号: [204 / 735]
■日本の政界に蔓延する愚かな「ダチョウ心理」とは
蕭美琴さんはこの一件に関し、自身のブログでコメントを載せている。
「この外交官は訓練も施されていないし、
基本的な国際儀礼と言うものも知らなかった。
彼は台湾の国際空間に圧力を掛けたが、私は嬉しかった。
なぜならこうした失態を見せる者と同じ国の人間でないからだ」
武樹民の傍若無人の態度は、中国政府の台湾問題における台湾、
そして国際社会への態度そのものだと言えるだろう。
これに怒りを抱けるかどうか、批判を加えることができるかどうかを
問わなければならないのが、あの国に尻尾を振り続けている
日本の政治家たちではないだろうか。
「中国の善意を信じるのはダチョウだ。
あの国の微笑みの裏には刀が隠されていて、
時にはそれを惜しげもなく抜き、脅迫するのだ」
馬英九総統の「外交休兵」(中国と国際空間を巡る争いはしない)の
政策を批判しているのだが、この「ダチョウ」とは
「オーストリッチ・コンプレックス」、
つまり危険なものが迫ってくるのを見ると、顔を地面に突っ込んで
それが通り過ぎるのを待つダチョウの習性のごとき愚かな心理状態を指す。
中国の前でダチョウに変身するのは、何も馬英九だけでない。
日本の政界も愚かなダチョウばかりなのだ。
■偽りの権威を引き剥がせば手も足も出ない中国
「毎回武樹民のような人間と会うたび、中国が嫌いになって行く。
彼は私の心中の台独の火種にガソリンをふりかけ、台湾の民主と独立を
防衛する決意をさらに強烈なものにした」
自国に脅威を与える中国の前で立ち上がれるかどうかで、議員に国家の
独立を守る意思があるか、それとも属国になることも厭わないかが
わかるのである。
日本の政治家も地面に顔を突っ込んでいる場合ではないのだ。
「あの種の人間の振る舞いは、中国の平和的擡頭と言うものが
虚像であることを国際社会に知らせるものだ」
中国の言う「友好」「平和」が虚構であるのは、
あの国の日ごろの行動を見ればすぐにわかる。
国際社会はそれを批判しない限り、この横暴国家に対する抑止力は生まれない。
蕭美琴さんが武樹民の横暴を指摘したことで、
各国の人々はこの中国人を相手にしなくなった。
そして中国側はいたたまれなくなり、謝罪を行った。
つまり蕭美琴さんは宴会席上、
台湾への嫌がらせ行為に大きな抑止力を発揮したのだ。
多分この日、武樹民は他の中国外交官の例に漏れず、
自ら権威をつけるために悠然と構えていたことだろう。
だが野卑な本性が暴かれて、見せ掛けの権威が引き剥がされれば、
周囲に手も足も出なくなるものだ。
「交流」を訴えても実は侵略主義者の武樹民総領事
かつて民進党政権は国連加盟申請を巡る国民投票を実施することになり、
中国はそれを阻止するために恫喝を行って緊張を高め、
これを見た福田康夫首相は
「緊張を高める」との理由で国民投票政策を批判するとの台湾への
内政干渉を行ったが、実際に緊張を高めている中国のミサイル配備には
コメント一つ見せなかった。
中国の怒りを恐れたダチョウのように現実を見てみぬふりをしたわけだが、
台湾を窮地に追いやることが自らの首を絞めることに気付かないところが
ダチョウの愚かさだ。
他国人の支持をも取り付けながら中国に正論をぶつけて「勝利」した
蕭美琴さん。
彼女に学ぶ価値ありと言う理由はこの一点である。
なお蕭美琴さんは先ごろ、民進党の蔡英文主席に随行して来日した際、
日本ウイグル協会のイリハム・マハムティ氏と会見し、ウイグル人支援の
意向を示したと言うから立派だ。
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-994.html.
これは メッセージ 203 (ajisai110701 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835412/bbgmdb2vdbffcbeh_1/204.html
台湾民進党女性議員の武勇伝
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/28 21:11 投稿番号: [203 / 735]
★2009年12月ころのできごとです。
◆福岡市で無礼な中国総領事をやっつけた台湾女性議員に学べ
■台湾人を見て罵った無礼な中国の駐福岡総領事
台湾の民進党籍の若い女性立法委員(国会議員)である蕭美琴さんの
日本を舞台にした「武勇談」は、日本の政治家にとっても学ぶべきところが
大につき、ここで紹介したい。
今年五月二十九日のことだ。
福岡での国際会議に参加した蕭美琴さんは、九州国立博物館で参加者の
ために設けられた宴席に参加したのだが、そこには予想外のトラブルが
待っていた。
蕭美琴立法委員
自由席だと聞かされ、何気なく座ったテーブルには、米国総領事館の職員や
タイ、モンゴルの人々以外に、中国の駐福岡領事がいたのである。
総領事の名は武樹民。
名刺交換で蕭美琴さんが台湾人であり、しかも民進党員であることを
知るや同席する他国の代表たちなどに目もくれず、次のように中国語で
捲くし立て始めた。
―――お前たちの陳菊(民進党の高雄市長)は大陸を訪問したな。
見ていろよ。彼女の台独の立場は変わって行くぞ。
■国際交流の場で平然と「ミサイル恫喝」を行う野卑
これを受け蕭美琴さんはその場でのマナーを守り、礼儀正しくこう返した。
―――陳菊は訪問したことで台独の立場を全く変えていません。
もしあなた方がミサイルを撤去していただけるなら、
私も訪問してみたいと思います。
すると武樹民はますます高慢となり、「ふん!」と応じた。
―――ミサイル撤去だと?あんなものは北京に引っ込めたって発射できるんだ。
何たって短距離ミサイルだけじゃない。
中距離ミサイルだってたくさんあるんだぞ!
そのとき武樹民は、隣の日本人が話を聞き取れないでいるのに気づき、
「私たちにも中距離ミサイルがあるのです」と説明した
(しかしあいかわらず中国語だったので、通じたかどうか・・・)。
■脅迫の暴言を通訳されて自らの面子を潰す
そして再び蕭美琴さんの方を振り返り、こう言い放った。
恥をかかせる気なのだ。
―――お前らは八年間やったが(民進党は八年間政権を運営したが)、
陳水扁は今は牢獄じゃないか?
何が国際空間だ!馬英九は“一つの中国の原則”を受け入れたから、
我々は彼に国際空間を与えてやったが、お前ら民進党の台独など、
死路一条(絶望の一本道)だ!
―――ここは国際学術会議なんだぞ。
お前は学術界の人間ではないようだが、ここへ何をしに来たんだ?
民進党など前途のない党だ。
“一つの中国の原則”を受け入れない限りはな!。
だが、これで恥をかくのは武樹民自身だった。
なぜなら蕭美琴さんが強烈な反撃に出たためだ。
ただし中国語で武樹民に反論するのではなく、英語を使って同席する
人々に、この中国の総領事の横暴な話を翻訳、披露したのである。
中国のミサイルをどのように誇示したかや、
「死路一条」と脅迫して来たことなどを・・・。
そこに居合わせた人々は武樹民の非礼な振る舞いを聞き知り、
もちろんいい顔をしなかった。
そしてその後の会話は英語が用いられ、
この総領事はみなからあまり相手にされなくなり、面子を潰されてしまった。
その後も大勢の人々が蕭美琴さんに同情したため、
中国人学者が頻りに謝罪していたそうだ。
横暴な総領事退治の痛快な武勇伝は台湾メディアでも大きく報じられた
つづく
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835412/bbgmdb2vdbffcbeh_1/203.html
Re: 台湾の知識人が語る中国人定住者
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/27 21:09 投稿番号: [202 / 735]
■本国のコントロールを受ける在日中国人
民主党が選挙権付与の対象とする中国人の一般永住者の数は増加の一方だ。
法務省入国管理局のデータによれば、〇六年は十一万七千人で〇七年は十二万九千人。
そして〇八年には十四万二千人へと急増している。
もっとも入国管理局の媚中姿勢のため、「中国人」の数値には
「台湾人」の数値も含まれている。
〇八年五月に同局へ問い合わせたところ、外国人登録を行っている台湾人は
四万八百六十三人との非公開数値を示された。従って留学生、その他を除くと、
台湾人の一般永住者は三万人に満たないとも見られる。
そしてその数は減少傾向にあるとも言われるため、データに示される
「中国人」の成長率は、ほぼ「本物の中国人」のものとも言えそうだ。
中国人永住者の増加の背景には、中国人留学生の増加がある。
多くの留学生が卒業後、日本で就職して永住権を取得するのである。
〇九年の留学生数は十三万二千七百二十人(前年比で七・二%増)で過去最高。
十年前の二・四倍である。そしてその六割を占めるのが中国人(七万九千八十二人)だ。
この背景には福田元首相が〇八年に提唱した「留学生三十万人計画」がある。
現在の鳩山首相も留学生受け入れ拡大には積極的だ。
そしてこうした日本側の「隙」を衝いて、中国は留学生やOBをコントロールし、
日本の政治に影響を及ぼそうとするのである。
■中国「パワー」の一環―中国人は日本に忠誠を尽くさない
★★★日本で諜報活動などに従事するのも、
こうした永住者や永住者候補の中国人であると見られている。★★★
★★★そして彼らに、より大きな影響力を行使させるには、
日本での選挙権を持たせることだろう。
しかしこの人々が本国よりも日本に忠誠を尽くすとは考えられない。★★★
たとえ大使館の指示はなくても、大中華意識から来る「優越感」から、
中国の「パワー」の一環として動くことは必然である。
★★★従って中国人への参政権への付与は、日本にも「福をもたらさない」。
それどころか国家の危機だけをもたらすのだ。
つまり「日本解放」の危機をである。★★★
台湾の国民党の外省人勢力(世界最大の華僑集団)は、中国の国力増大を
目の当たりにし、あの国に対して屈従政策を進めるに至った。
中国人花嫁の増加もそうした状況と無関係ではないとされる。
つまり中国人である彼らは、台湾で繁栄を享受しながらも、
いざとなれば台湾人を裏切り、祖国に靡くのだ。
★★★一方日本の民主党は中国人でもないのに、
自ら進んで中国の対日弱体戦略に呼応するのだろうか。★★★
在日中国人に「優越感」が抱かれるわけである。
3706
これは メッセージ 201 (ajisai110701 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835412/bbgmdb2vdbffcbeh_1/202.html
台湾の知識人が語る中国人定住者
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/27 21:07 投稿番号: [201 / 735]
■台湾の知識人が語る中国人定住者の危険性
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-1028.html民主党が提出を企図する外国人地方参政権付与法案が可決されれば、
国家安全保障にいかなる悪影響を及ぼすのだろうか。
それについてここでは、在日中国人に選挙権を与えればどうなるかについて
考えてみようと思うが、すでに本ブログでも伝えたように、台湾では中国人
花嫁の急増とそ彼女たちへの選挙権付与が安保上の問題になっている。
偽装結婚に工作員―流入中国人「参政権」問題での台湾の苦悩と危機を見よ
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-1026.htmlこうした事態を受けて著名な評論家、敏洪奎(ペンネームは孤影)氏は
一月二十一日の自由時報に「中国人配偶者は台湾を解放するか」
の一文を寄せ、「人権、人道などの理由で、中国人配偶者の定住を
軽々しく許してはならない」と訴えている。
そしてその理由の一つとして、次のようなものを挙げている。
―――中国人配偶者には優越感があり、台湾をあくまでも異郷と看做して
新たな帰属意識を持つことを好まず、国の中にもう一つの国を形成しつつある。
―――そしてこの二十七万人は、かつて中国各地に居住していた
日本人と似ている。
彼らは身はそこにおいても心は祖国にあった。
このように中国人配偶者は絶対に台湾に福をもたらさない。
中国人の台湾人に対する「優越感」は、最近急増する台湾への中国人観光客
の傲慢な態度を見るだけでも明らかだが、その「優越感」は実に大きく、
そして屈折したものだ。
そもそもあの国の人間は、台湾人を「同胞」とは呼んでも、
その大中華意識から、台湾のような「辺境」の小島の人々を見下している。
そしてだからこそ、
その豊かさを妬み、憎み、さらに「優越感」を強めさるのだ。
■「優越感」に満ちた在日中国人の参政要求
だから、「台湾に福をもたらさない」と敏洪奎は強調するのである。
翻って日本を見れば、日本に定住する華僑が社会で比較的に大人しくして
きたのは、その基本には先進的で繁栄した日本に対し、優越感を抱けないで
いたからだろう。
彼らはむしろ生活の安定と豊さだけを希求し、政治には深く関与すること
なく、日本人と協調しながら商いに精を出して来た。
だが近年増加する新たな在日中国人たちはどうだろうか。
民主党政権の発足に合わせ、日本の政治への参与を求める動きを見せつつ
あるが、そうしたグループから「中国の国力の増強と在外華人の増加に
従い、海外華人の参政気運が盛り上がっている。
在外華人社会は不断に成熟し、華人は重要な国際政治のパワーとなりつつある」
「在日華人の参政もまた、歴史の必然となっている」との声が上がっている
と人民網(中共機関紙人民日報のニュースサイト)は報じている。
まさに祖国の国力増大に伴って高まる、
日本への「優越感」に満ちた「声」である。
しかも中国の「パワー」の一部として、
日本の政治に参与しようとはっきりと言っている。
そしてそうした「声」を人民日報が伝えると言うことは、
それが中共の対日戦略に符合しているからに違いない。
3705
.
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