入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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1938年1月14日 ベイツの報告

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/24 18:54 投稿番号: [2200 / 2250]
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   展転社 164p


《 南京アメリカ大使館員のアリソン宛に、ベイツから一月十四日付で出された手紙がある。


〈 昨夜四人の日本人が金陵大学付属中学校の教室へ入ってきました。

彼らの行動の詳細は十分には分かりません。

というのはしかるべき目撃者が脅えきっているためです。

とにかく彼らは一人の少女を連れ去りました。

それらの日本人たちは憲兵で、少なくともその一部は、

中学校の門に配備された衛兵たちでした。



彼らは中国人の布靴を履き、一部に中国服を着ていました。

(中略)



  この手紙の執筆は、漢口路一九号のアメリカ人の家から

(家にはアメリカ国旗が掲げられ、アメリカ側と日本側の布告文が門に貼ってあります)

憲兵   (特務機関から支給された憲兵の腕章をしている兵隊)   を

追い出すために三〇分間中断されました。

その憲兵は塀を越えて入り、大学教師と大学病院のブラディ   (Brady)   博士の

個人的財産を略奪しようと、一時間にわたって物色しまわっていたのです。



その家は、上記の   (引用者註・小粉橋三二号)   日本軍の地区事務所から

およそ二五〇ヤード   (約二二九メートルのところにあります。)〉

(①155〜156頁)



一連の事件を支那人が起こしているとの噂に対して   「馬鹿か狂人」   と

表現した外国人グループのリーダー格だったベイツは、

ここに書かれている犯人達の服装を、

支那人に変装した日本兵のものと断定してはばからない。》



注:   ①は青木書店刊『南京事件資料集』のアメリカ関係資料編



*   中国人の布靴を履き、中国服を着ているのを目撃しながら、

   ベイツは、飽くまでも、犯人を日本軍にしなければ、気が済まないようです。

   尤も、彼も、後に真相に気づくようになりますが。



167p

《 三月二十一日、ベイツからティンパレーに出した手紙の中に次のような一節がある。

資料名   「E八八 − 一〇〇」   についての注意である。


〈もし、その資料を使う場合は、小粉橋三八号の贋憲兵の話に注意してください。

彼らは、たびたび私たちを困らせました。

アリソンやリッグズに平手打ちを食わせたのも贋憲兵の仕業です。・・・〉》

1939年9月 汪政権以外に道を探る日本人

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/23 18:57 投稿番号: [2199 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
228〜230p


《 参謀本部にはいぜんとして汪兆銘政府の樹立を支持する声が主流を形成していたが、

陸軍省には、汪不信の意見が強まってきた。

とりわけて、 「対第三国戦備」   に関心をもつ参謀本部が中南支は汪政府にまかせ、

陸軍部隊は黄河以北に撤収すべきだ、と主張すると、

新任の陸軍次官阿南惟幾中将は、汪兆銘に時局収拾能力はない、と反撥した。


・・・・


また、汪兆銘政府を樹立するという方針が決定されているかたわらで、

蒋介石との直接交渉をこころみる者もいた。

たとえば、臨時政府主席王克敏と親しい興亜院華北連絡部長官喜多誠一中将は、

王克敏に接近してきた燕京大学学長J・スチュワートを通ずる

「蒋工作」   を推進しようとした。



学長スチュワートは、既述したように、かつてドイツ大使O・トラウトマンの

和平仲介のさいにも動いたが、喜多中将によれば、主席王克敏にたいして、

国民政府は国防最高会議秘書長張群を派遣して

和平交渉をする用意がある、との 「蒋介石の伝言」 をつたえた。



さらに九月中旬には、米大使館の書類を持参して、

「米英が日中和平のために蒋介石に圧力をかける」   と語った。

喜多中将は、このスチュワートの言葉を基礎にして対重慶和平工作を主張したのだが、

参謀本部第二部長樋口少将は、首を横にふった。

「スチュワートのごときはうそつきの常習犯なり」



学長スチュワートが   「うそつき」   かどうかは、不明である。

しかし、最初に主席王克敏と会談したとき、紹介者として同行した中国人は

  「ホウ悌」   と名のったそうだが、 「ホウ悌」   は、

前年の長沙放火事件の責任をとわれて処刑された同市警備司令と同名である。

同名異人か、それとも死者の名前を利用したのか……。



また、九月中旬の   「米大使館の書類」   なるものも、 「怪しげ」   であった。

北京の米大使館参事官F・ロックハートによれば、

学長スチュワートは九月十二日、電文案を持参した。

国務長官H・ハルから行政院長孔祥熙に打電する形のもので、

米国が日中和平仲介にのりだそうとする印象をあたえるように、

「明確な進展あり……」   などの文言があった。



参事官ロックハートは、即座に国務長官への取り次ぎを拒絶し、

連絡をうけた長官ハルも、干与するなと参事官に指示した。

学長スチュワートの   「米大使館の書類」   はこの電文案らしく、

その言動には、善意からか、あるいは王克敏の反汪兆銘感情を利用してかは

わからないが、あちらこちらに小細工を弄する気配がみうけられる……。》

1938年1月14日 ラーベの日記2 返書

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/23 18:43 投稿番号: [2198 / 2250]
《ラーベの返書   一九三八年一月十四日   於南京

  W・マイアー社長の一九三八年一月三日付の書状に関して


ドイツ大使館を通じてお手紙いただきました。

昨年、漢口へ行くようにとのご連絡をいただきましたが間にあいませんでした。

電報が届いたとき、ドイツ人たちはすでにクトゥー号で発ったあとだったのです。

また韓さん一家をはじめ、中国人従業員はみなオフィスに避難しておりましたので、

彼らを見捨てることはできないと考えておりました。



あのときお返事しましたように、

私は安全区を設置するために当地で発足した国際委員会の代表を引き受けました。

現在ここは二十万人もの中国人非戦闘員の最後の避難場所になっています。

これを組織するのは必ずしも容易な仕事ではありませんでした。

しかも日本から全面的には承認を得られず、

中国軍上層部が、ぎりぎりまで、

つまり南京から逃げ出すまで部下と共にここに駐留していたために、

いっそう困難になりました。



今まで、給食所や食糧の配給所などを設置して、

安全区にひしめいている二十万人の市民をどうにか養ってこられました。

ところが今度、

「難民の保護は新しく設立された自治委員会が引き継ぐ。よって米販売所を閉鎖すべし」

との命令が日本軍から出されたのです。

市内に秩序が回復し、南京を出る許可が下りましたらそちらに参ります。

今までのところ、申請はすべて却下されています。



安全区委員会の解散まで私が当地にとどまることをお許し下さいますよう、

遅ればせながらお願い申し上げます。

というのも、わずかとはいえ、我々外国人の存在が大ぜいの人々の禍福を左右するからです。

十二月十二日以来、私の家と庭だけでも六百人以上の極貧の難民たちがおります。

たいていは庭の藁小屋に住んでおり、毎日支給される米を食べて生きています。

  ナチ式敬礼をもって                 ジョン・ラーベ 》



*   ラーベに会社から、南京から引き揚げて来いという指令が来たようですね。

   彼は、会社の命令で南京に赴任していた事を忘れているようです。

1939年9月7日 ノモンハン50 配置転換され

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/22 18:45 投稿番号: [2197 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
272p


《 九月七日の夜、この事件の責を問われて、

ついに植田軍司令官、磯谷軍参謀長は参謀本部付となり、やがて待命となった。

矢野参謀副長、寺田高級参謀は参謀本部付に、また服部参謀は歩兵学校付に、

そして著者は中支漢口の第十一軍司令部付に、それぞれ転補の命令を受けた。



関東軍としては、新たに梅津美治郎中将が軍司令官に、

飯村穣   (じょう)   中将が軍参謀長に任命された。

うつつに夢にしばしも頭から離れ得ないあの戦場と山河、

あの爆音、あの血の色、そしてあの忠勇な尊い犠牲。



孤影悄然   (しょうぜん)、漢口に赴任する途中、

南京の宿舎で図らずも耳にしたラジオのニュースは、

モスクワでモロトフ外相がノモンハンの停戦を申し込んだことを伝えていた。


それは大陸の戦線に、新しい死場所を与えられて、

ただ一人送られて行く悲しい葬送曲でもあった。



戦争は敗けたと感じたものが、敗けたのである。》

1938年1月14日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/22 18:38 投稿番号: [2196 / 2250]
《 一九三八年一月十四日、南京にて (次の手紙を) 受け取る。



  ジーメンス中国本社からの手紙一九三八年一月三日   於上海

   ラーベ様!


まずは新年おめでとう。

激動の日々を過ごされ、大変な経験をなさったようですね。

お元気だとよいのですが。

そちらにもっと残るおつもりかどうか、あのとき連絡していただきたかったと思います。



先日カルロヴィッツ社のバウアー氏とお話ししたのですが、

氏も、これ以上南京にいてももう意味がないのでは、というご意見でした。

ですからこちらとしては、ラーベさんが時機を逸することなく、

つまり陥落の前に南京を去って漢口へ行き、

大使館と連絡をとるとばかり考えていたのです。

それで三回も電報を打ったのですよ。



プロープスト氏は目下、香港です。

ラーベさんを香港に配属したらどうかと思い、問い合わせました。

返事がありしだいお知らせします。

お宅の家具調度がどういう状況かは知りませんが、

荷物の梱包を早いうちに済ませてあればいいと思っています。



もしまだでしたら、大使館に置かせてもらうことはできないでしょうか。

上海へくる件については、そう簡単ではないにしても、

いずれ打つ手はあるでしょう。

できることならすぐにお返事をいただきたいと思います。     敬具

                           W・マイアー》



つづく

1939年9月 ノモンハン49 山縣大佐自刃す

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/21 18:56 投稿番号: [2195 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
270〜272p


《 九月七日朝、第六軍司令官から次の電報が来た。


軍司令官宛                    第六軍司令官

一、関作令甲第一七八号受領す。

二、軍は幾多の英霊に対し、

   敵に一大鉄槌を加え、之をハルハ河左岸に撃攘するに非ずんば

   黙視し得ざる状態にあり。

   事件処理を外交交渉に委すべきも、

   断じて敵をしてハルハ河右岸に停止せしむべからず。



三、荏苒(じんぜん)、日時を経過するに於ては、敵陣地は益々堅固となり、

   寒李に入るを以て外交の末枝に堕して攻勢の好機を逸するが如きは、

   厳に戒心を要するものと信ず。



右の電報に対して直ちに返電が発せられた。



  第六軍司令官宛                軍司令官

  御心中を深く察す。本職もまた断腸の思いを以て、謹んで大命を拝受せり。

  この際、特に自重せられ、

  別命あるまで万一に応ずる作戦準備は依然継続せられつつ、

  第一線兵団をして軽挙を戒め、而も志気を阻喪せしめざる如く特に意を用いられ度。



九月五日の朝、次の悲電を受領した。


  軍司令官宛                  第二十三師団長

一、歩兵第七十一連隊長代理東宗治中佐は、八月三十日夜敵の重囲に陥り

   ホルステン河右岸に於て、旗手雪吉少尉と共に軍旗を焼却したる後、

   敵中に突入、壮烈なる戦死を遂ぐ。

二、歩兵第六十四連隊長山縣武光大佐は八月二十九日夜敵の重囲に陥り、

   ホルステン右岸地区に於て自ら軍旗を焼却、自刃す。



ノモンハンの悲劇は、かくしてその幕を閉じた。

かえりみて微力、統帥の補佐を誤り、名将の武徳を傷つけ、

数千将兵の屍を砂漠に空しく曝した罪を思うとき、断腸切々。

悔恨の涙は、惜しからぬ残生   (ざんせい)   をなげうって、

在天の英霊に心からのお詫びを誓うのである。


思えば挑まれた戦いであり、縛られた戦いであった。


注   :   荏苒    ジンゼン    ダラダラと月日を無為にすごすこと。

1938年1月14日 中国の返答に反発する日本2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/21 18:42 投稿番号: [2194 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   269〜270p


《 広田外相が、おりから首相官邸で開催中の閣議にことの次第を報告すると、

閣僚たちも中国側の口上書を   「遷延策」   とみなし、御前会議決定の

「支那事変処理基本方針」   にもとづく措置をとることに、意見がまとまった。

口上書は、蒋介石政府が   「和ヲ求メ来ラザル」   表意だと判断できるので、

日本は、こんごは蒋政府を   「対手トスル事変解決ニハ期待セズ」   という

声明を発表し、 「新興支那政権」   の育成にはげむ……。



参謀本部は、しかし、軍令部と連絡して、政府だけの決定にせず、

統帥部をまじえた大本営政府連絡会議での討議を要求した。

参謀本部としては、既述したように、 「支那事変」   を   「日中戦争」   に

せずに早く終らせて、本来の主敵であるソ連にそなえたい。

中国との戦いが長期化する場合は、ソ連にたいする配慮もふくめて、

「挙国的決意」、 明確な理念、見通し、方針、計画が必要である。

そのうえでの長期戦突入なら、まだ良い。



ところが、政府は、それらの必須要件をぬきにして、

長期戦を必至にする   「蒋介石との絶縁」   にふみきろうとする。

しかも、その主張は、いわば蒋介石の態度が悪い、 「言い方が怪しからん」

など、いかにも皮相的、粗雑な論拠にもとづいている。

こんなことで国家を長期、大規模な戦争になげこまれてはたまらないし、

政府がその音頭取りをするのもおかしなことである。



「軍人が長期持久戦を心配する以上に、文官が之に関して深思熟考すべきではないか」

第二課長河辺虎四郎大佐が首をひねると、参謀次長多田駿中将も、


「強硬ナルベキ統帥部ガ   反   (かえ)   ッテ弱気ニテ、

弱気ニナルベキ政府ガ   強気ナリ……奇怪ニ感ゼラル……」


これも議会対策のためか。

あるいは中国進出をいそぐ財界にしりをたたかれているおかげか。》



つづく

1939年9月6日 ノモンハン48 冷たい返電

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/20 16:01 投稿番号: [2193 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
268〜269p


《 九月六日朝、冷やかな返電を受領した。

  軍司令官宛                 参謀総長

一、意見具申の企図は、大命の趣旨に鑑み之を採用せず。

二、貴官は従来の企図を一鄭し、

   直に大陸命第三四九号の実行に移らるべきものと確信す。

三、右実行に関し、貴官の処置を速に報告するを要す。



相前後して、板垣陸軍大臣から次の電報が来た。



軍司令官宛                 陸軍大臣


  閣下の御胸中は万々御察しす。

  この際大命を奉行の上、責任を取らるるが臣節を全うせらるる所以と信ず。

本日勅裁を経たり。右不取敢。



  冷酷氷の如き参謀総長の電報と対照し、

  板垣大臣の人間味溢るる電報に、軍司令官以下感極まって落涙した。》

1938年1月14日 中国の返答に反発する日本1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/20 15:54 投稿番号: [2192 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   267〜269p


《 王部長の口上書は、一月十四日午後四時すぎ、

駐日ドイツ大使H・ディルクセンから外相広田弘毅に伝達された。


「一九三七年十一月五日、日本側提案になるいくつかの和平条件が、

貴大使 (註、トラウトマン) の好意によって南京で提示された……」


広田外相は、まずこの口上書の書き出しに眉をひそめた。



和平条件をドイツを通じて提示したのは、たしかに日本側である。

だが、それは、国際紛争を鎮静させ、とくに中国を   「破滅から救おう」

というドイツの意向があり、中国側の和平意思も確認されたからである。

それなのに、口上書の語調は、

いかにも日本側から中国に   「和ヲ請ウ」   たかの印象をあたえる。



読みすすむにつれて、広田外相は眉のひそみを深めていたが、大使ディルクセンに、

「これは明らかに逃げ口上ですな。中国側は、諾否いずれにせよ、

回答するために必要な材料をあたえられたはずです。

だいいち、敗けて和平をもとめるのは中国であって、日本ではない」

大使ディルクセンも、内心では、広田外相の論評に同感であった。



「和平交渉の機会をとらえなかったのは、むしろ中国側であったといえる。

蒋介石がトラウトマンに会おうとしなかったこと、

中国政府が日本側条件についての正式会議をひらかなかったことなどが、

その事情を告げている」


大使ディルクセンは、のちに、そう外相Cノイラートに報告するが、

口上書をうけとったときも、

それが中国側の   「拒否回答」   であることを感得していた。



それでも、大使ディルクセンは、日本側の四条件はともかく、

細目条項は文書では中国側に伝達していない、

書面にして提示してはどうか、と、進言した。》


つづく

1939年9月5日ノモンハン47 参謀総長へ電報

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/19 14:30 投稿番号: [2191 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
266〜268p


《 九月五日朝、次長は飛行機で東京に帰った。

寺田参謀は参謀長より軍司令官の意図として次長に申し出た件を、

さらに明確に中央部に知らせるための処置を研究せよと命ぜられた。

次長は果たして軍の苦衷を伝えるや疑問である。

この上は改めて軍の意あるところを、中央に通ずる処置を取らねばならぬ。

  そこで、次の電報が起案し発電された。



参謀総長宛 軍司令官

  一、大陸命第三四九号謹んで受領す。

  二、軍は第二十三師団が七旬に亘る苦闘により、

   旧戦場には尚数千の屍体を収容し能わざる現状にあるに鑑み、

   第六軍をしてハルハ河右岸の戦場掃除をなし得る限り実施せしめたる後、

   部隊を大陸命による紛争地域外に撤退することを企図しあり。



   右企図に関し認可ありたく意見を具申す。

   万一認可せられざるに於ては、本職が従来隷下に対し、強く要求し来れる道義を、

   本職自ら破壊するのみならず、忠死せる数千の英霊を敵手の凌辱に委するに至り、

   将来到底軍を統帥し得ざるに依り、速に本職を免ぜらるる如く執奏   (しっそう)   を乞う。



   思うに皇軍の伝統は打算を超越し、上下父子の心情を以て統合するにあり。

   本職関東軍の統帥を委ねられてより茲に三年有半、

   皇軍の道義的特色を拡充し、上下一体となり陛下の股肱たらん事を、

   軍統帥の信条となせり。



   大陸命第三四九号の実行に関し、本職は戦場に今尚残置せられある

   第二十三師団将兵数千の尊き屍を収容することを以て、

   大命遵奉の当然の手段となし、次長に諒解を求めたるも

   次長は大命は之をしも認可せられざる如く言明せり。



   本職は臣子として、忠死せる部下の骨を拾うことは、

   大元帥陛下の大御心なりと確信しあり。

   皇軍無二の伝統を永遠に保持し、大元帥陛下の御高徳を

   顕現せらるるよう、篤と深慮せられんことを重ねて具申す。》

1938年1月13日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/19 14:21 投稿番号: [2190 / 2250]
一月十三日


《「安全区国際委員会を国際南京救済委員会に変更する」

という私の提案は委員会で否決された。

せっかくいま、日本から事実上認められているのに、もし自発的に解散したりしたら、

これ幸いと黙殺されるおそれがある、というのだ。

私が多数派の意見に従ったのはもちろんだ。

つねに足並みをそろえて行動しなければ。



イギリス海軍を通して上海の中国本社からの無線電報を受け取った。

一月十日づけで、ここをたたみ、韓をつれてできるだけ早く上海へくるように、とある。

明日   「外国人も中国人もいまは街から出られない」   と返事をしよう。

クレーガーも何度か上海へいく許可をもらおうとしたがだめだった。


(中略)


  十六時

国際赤十字の会議が鼓楼病院で開かれ、ジョン・マギー、マッカラム、

クレーガー、ロウ、それに牧師の沈玉書さんたちが出席した。

赤十字から委託されている入院患者を無料で治療するかどうか、

今後はマッカラムが決めることになった。



いままでマギーが担当していたのだが、

ここのところ無償で治療する患者を受け入れすぎたからだ。

なかには、全くの無一文だと申告していたのに、

ベッドに三百ドル隠していた女の人もいた。

張のかみさんが退院するので、車で迎えに行った。

病院に払うにも、先月の給料の三十ドルしかないというので、残りは私が払った。》



*   「無一文だと申告していたのに、ベッドに三百ドル隠していた」


   これだけ騙されても、まだ、ラーベ達は中国人を信用するのを、やめない。

1939年9月5日 英当局、天津犯人を引き渡す

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/18 18:51 投稿番号: [2189 / 2250]
〔昭和14年9月6日   東京日日〕


〔天津五日発同盟〕

さきに日英東京会談で引き渡しを内定した程錫庚暗殺犯人四人は、

去る三日、英租界工部局より支那側に引き渡しを正式通告しながら、

奇怪にも本国政府より引き渡し中止方命令ありたりとて、

支那側の引き渡しの要求に応ぜず今日まで遷延せしめていたが、



五日午後に至り突如支那側に対し犯人引き渡しを通告し来たったので、

支那側より許高等法院主席、王特高課長が出向き、

わが方よりも大田憲兵隊特高課長、功力副領事立ち会いの上、

午後八時、英租界ヴィクトリア路と二四路交叉点舟艇上において

犯人藍向隆ほか三名の正式引き渡しを完了、同十時、支那側警察局に留置した。



治安撹乱の廉により近く軍律会議に付せられるはず。

1938年1月13日 中国の返答と日本の会議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/18 18:42 投稿番号: [2188 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   266〜267p


《 国際情勢は、必ず反日親中国の味方をもたらす。

戦ってさえいれば、 「日本亦終必帰於失敗也」   蒋介石は、かねての持論をくり返し、

適宜に (日本側に) 対応せよ、と、外交部長王寵恵に指示した。



   −   唖然、あるいは呆然、

という表現があてはまる表情で、駐支ドイツ大使O・トラウトマンは、

外交部長王寵恵を注視した。

王外交部長は、前日、閣議で検討したうえで日本側への回答をつたえる、と述べ、

さっそく一夜あけたこの日、一月十三日、その回答を大使トラウトマンに提示した。



閣議がひらかれた様子もなかったので、大使がその点をたしかめると、

じつは回答は前夜にできていた、と、王部長は、涼しい顔で返答した。

大使トラウトマンは、そう述べたときの外交部長王寵恵の唇のゆがみに、

ふと不審感をさそわれたが、手渡された口上書を一読して仰天した。



口上書は、これまでの大使トラウトマンの日中間の 〝伝書使〟 的業績を

回顧したあと、日本側の   「改変された条件」   は範囲がひろすぎる、と

指摘して、次のように結文していた。

「ゆえに、中国政府は、慎重な検討と明確な決定をおこなうために、

新たに提議された条件の性質と内容を確定されることを望む」

それだけである。



日本側の条件については、全体としても、各個にも、諾否も修正要求も示されていない。

大使トラウトマンは、さんざんに待ち、かつ、催促をかさねて得た回答が、

たったそれだけであったことに驚くとともに、不安を感じた。

「外相閣下、閣下は、日本側がこの回答をいいのがれとみなす懸念があるとは、

お考えになりませんか。私には、この回答は、

(日本側条件を)   理解する意思がない旨の表明と思えます」



大使トラウトマンは、既述したように、戦争がつづけば中国は敗北すると

信じこんでいる。いま日本と講和するのが、

中国と国民政府が生きのびるためのまたとないチャンスであろう。

そのチャンスを逃がすのか − との意をこめての大使トラウトマンの発言であったが、

外交部長王寵恵は、日本側条件の詳細を知るまではなにもいえない、というだけであった。




戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   473〜474p


《 一方、日本では、十三日の閣僚会合で

「いつまでも便々として中国側の回答を待っておるわけにもいかないから、

十五日中に中国側から確答がない場合には、直ちに、

国民政府との交渉に期待をかけず、事態処理の第二手段をとる旨の声明を出すべきである。

これは明十四日の閣議で決定する」   という話し合いが成立した。》

1939年9月5日 欧亜の戦争連結を企む中国

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/17 18:51 投稿番号: [2187 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
221〜223p


《 五日、米国が中立と中立法発動を宣言すると、あわてた。

欧州戦が日本に不利にはたらくことは、容易に推察できる。

綿糸、木材パルプ、機械、鉄鉱石、クズ鉄、鉄鋼、非鉄金属、化学製品、石油など、

国内生産と軍需産業に不可欠の物資のヨーロッパからの供給がとだえ、

日本としては、翌年の一月に通商航海条約の廃棄をひかえながら、

ますます対米依存度を強めざるを得ないからである。



だが、中国は、もっと不利な立場を強制される。

日本は対米依存とはいえ、米国が中立を守る限り必要物資を買えるし、

買う資力もある。

中国は、しかし、前述したように、通貨不安の事情もあって、

極度の   「金詰り」   状態にあった。



駐ソ米大使館参事官S・グラモンも、すでに七月、

ソ連政府は中国の支払い能力は限界に達したとみなし、

「飛行機千機の要求には百機で対応する」   方針をきめた、と報告していた。

このような状況で、英仏がヨーロッパ戦争に専心して中国援助をひかえることになれば、

中国はますます破産への道を急ぐことになるだろう。

いや、政治的破滅も予想される。



英仏両国が、もし欧州戦に全力をあげるために中国でのトラブル回避を考え、

日本との融和を考えたらどうなるか。

法幣は日本側の通貨攻勢のために無価値になるであろうし、

そのうえに、英仏が日本に妥協して汪政権を承認したら……。



蒋介石は、 「独ソ不可侵条約」   発表のさいにすでに危機感を深め、

米大使N・ジョンソンに、大統領F・ルーズベルトに

日英の接近阻止に努力するよう進言してほしい、と要請していた。

さらに駐仏大使顧維鈞も、駐仏米大使W・ブリットに、

蒋介石の米大統領にたいする依頼として、



  ①中国を犠牲にする英仏の対日妥協の防止。

  ②日本にたいする汪政権樹立阻止の働きかけ。

  ③日中戦争解決のための国際会議の招集。

の三点を、申し入れている。



蒋介石はそこで、 「欧戦爆発」   にともない、

さっそく行政院長孔祥熙、外交部長王寵恵、参謀総長兼軍政部長何応欽、

国防最高委員会議秘書長張群を呼集して、首脳会議をひらいた。

情勢判断とこんごの方針を検討した結果は、次の方策に集約された。


「我国   対欧戦政策之唯一主旨、端在参加民主陣線、以為他日媾和時、

必使中日戦争與欧戦問題   同時聯帯解決也」


要するに、 「欧州大戦」   を   「亜州大戦」   に連結させて、

勝利と戦後経営の優位を確保しよう、というのである。》

1938年1月12日 回答期限と中国の対応

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/17 18:42 投稿番号: [2186 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   264〜266p


《 外務次官堀内謙介は、十二日に駐日ドイツ大使館参事官G・シュミーデンに

「十五日期限」   をつたえ、中国側の回答は具体的なものが必要だ、

なお考慮中式のものはだめだ、と付言した。

報告を受けたドイツ外相ノイラートは、

前日にも駐支大使トラウトマンに中国側を督促するよう訓令していたが、

堀内次官の言明を伝達するとともに、かさねて中国側に早期回答を勧告させた。



大使トラウトマンは、蒋介石との会見を申しいれたが、

多忙との理由で会えず、かわりに外交部長王寵恵が応接した。

大使トラウトマンは、日本側はしびれをきらしている、

中国側に回答する気持があるなら早いほうがよい、と力説した。

「まだ遅すぎるとはいえないかもしれません。しかし、いまや十二時五分前です」



王外交部長は、至急に閣議をひらいて返事をすると述べたが、

王部長からことの次第を聞いた蒋介石は、閣議招集の指示もあたえなかった。

蒋介石は、前述したように、すでに和平拒否の方針を確立し、

前日は、陳誠を武漢衛戍総司令に任命するとともに開封に飛び、

第一、第五戦区の団長以上の指揮官をあつめて、

「抗戦検討   與   必勝要訣」   と題して訓示した。



こんごの抗戦の重心を武漢におき、そのためには津浦鉄道と、

新郷で平漢線を横断する道清鉄道の確保が最重要である旨を強調する内容であった。

また、同時に八項目の誓いをとなえ、一同に唱和させた。


「服従命令……厳守紀律……尽忠職守……実行主義……研究学術……

抗戦到底……貫徹始終……恢復   『智信仁勇』   的固有武徳……」


この   『八誓』   をうらがえせば、中国軍の内部には、命令にしたがわず、

軍紀を守らず、職務に不忠実であり、有言不実行、

勉強不足などの傾向があることがうかがわれる。



が、いずれにしても、蒋介石にとっては、戦う以外に   「生存」   の道はない。

王部長は、日本側の回答期限通告を報告するとともに、

日本政府と大本営が連日の会議をくりかえしているとの情報も、蒋介石に報告した。


「倭 今日 始知 対華戦争 非長期 不可乎!」


それじゃ、日本はやっと、中国との戦いが長期戦以外にはあり得ないことに気づいたのか。

蒋介石は、とっさにそう感想を述べ、

もしそうであれば中国はますます有利な地位にたてる、と指摘した。

国際情勢は、必ず反日親中国の味方をもたらす。

戦ってさえいれば、「日本 亦終 必帰 於失敗 也」   蒋介石は、かねての持論をくり返し、

適宜に   (日本側に)   対応せよ、と、外交部長王寵恵に指示した。》



*   蒋介石は

   「日本はやっと、中国との戦いが長期戦以外にはあり得ないことに気づいたのか」

   と言っている。

   これでは、日本がいくら和平案を出しても、ムダだろう。

   中国に和平の意思は無いのだから。

1939年9月4日 日本欧州戦に中立宣言

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/16 18:52 投稿番号: [2185 / 2250]
〔昭和14年9月5日   大阪毎日〕


《 政府は四日の閣議で第二次欧洲大戦勃発の危機に対処すべき根本方針を決定、

阿部首相より右方針ならびに声明について奏上、

ここに声明に関するいっさいの手続きを完了したので、同日午後七時三十五分、

阿部首相談の形式で左のごとく歴史的な帝国政府声明を発表し、

その態度を中外に宣明した。



  (阿部首相談)   今次欧洲戦争勃発に際しては、帝国はこれに介入せず、

   もっぱら支那事変の解決に邁進せんとす。

   自主的態度を明示   第二次欧洲大戦に関する阿部首相声明は、

   帝国がその国運を賭して東亜新秩序建設の聖戦に従事しつつある時、

   欧洲に勃発した国際的動乱に直面してわが毅然たる自主的態度を

   中外に宣明したものとして、重大な政治的意義を有する。》

  (後略)




児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫221p


《 九月一日、ドイツ軍はポーランドに進撃し、

九月三日、英仏両国はドイツに宣戦を布告した。

第二次世界大戦の開幕である。

日本政府は、四日、声明した。

「今次欧州戦争勃発に際しては、帝国は之に介入せず、

専ら支那事変の解決に邁進せんとす」



蒋介石は、この声明を知ると、

「彼不称中立面称不干渉……足見其用心之毒辣夫」

と論評したが、つづいて五日、米国が中立と中立法発動を宣言すると、あわてた。》


つづく

1938年1月11日 決定支那事変処理根本方針

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/16 18:47 投稿番号: [2184 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   470〜471p


《 一月十一日、御前会議が開催された。

この種御前会議は日露戦争以来初めてのことである。

陸海統帥部の両総長、次長、総理、陸、海、外、内、蔵各大臣及び特旨により

平沼枢密院議長が出席、外相が原案を説明、両総長が意見を陳述、

枢院議長が賛意及び希望を述べ、次のように決定し会議を終了した。



    支那事変処理根本方針

帝国不動ノ国是ハ   満洲国 及 支那ト提携シテ   東洋平和ノ枢軸ヲ形成シ

之ヲ核心トシテ 世界ノ平和ニ貢献スルニアリ   右ノ国是ニ基キ

今次ノ支那事変処理ニ関シテハ   日支両国間過去一切ノ相剋ヲ一掃シ

両国国交ヲ大乗的基礎ノ上ニ再建シ   互ニ主権及領土ヲ尊重シツツ

渾然融和ノ実ヲ 挙クルヲ以テ 窮極ノ目途トシ   先ツ事変ノ再起   防遏   (あつ)   ニ

必要ナル保障ヲ   確立スルト共ニ   左記諸項ヲ両国間ニ確約ス。



(一)   日満支三国ハ   相互ノ好誼ヲ 破壊スルカ如キ政策、教育、交易其他

   凡   (あら)   ユル手段ヲ全廃スルト共ニ   右種ノ悪果ヲ

   招来スル虞   (おそれ)   アル行動ヲ禁絶スルコト。

(二)   日満支三国ハ   互ニ相共同シテ   文化ノ提携防共政策ノ 実現ヲ期スルコト

(三)   日満支三国ハ   産業経済等ニ関シ 長短相補有無相通ノ趣旨ニ基キ

   共同互恵ヲ約定スルコト

   右ノ方針ニ基キ   帝国ハ特ニ 政戦両略ノ緊密ナル運用ニ依リ

   左記各項ノ適切ナル実行ヲ期ス



(一)   支那現中央政府ニシテ   此際反省翻意シ 誠意ヲ以テ和ヲ求ムルニ於テハ

   別紙 (甲)   日支媾和交渉条件ニ   準拠シテ交渉ス

     帝国ハ将来 支那側ノ媾和条項   実行ヲ確認スルニ至ラハ

     右条件中ノ保障条項

   別紙 (乙)   ヲ解除スルノミナラス   更ニ進ンテ 支那ノ復興発展ニ

     衷心協力スルモノトス。



(二)   支那現中央政府カ 和ヲ求メ来ラサル場合ニ於テハ   帝国ハ爾後

   之ヲ相手トスル事変解決ニ期待ヲ掛ケス   新興支那政権ノ成立ヲ助長シ

   コレト両国国交ノ調整ヲ協定シ   更正新支那ノ建設ニ協力ス

   支那現中央政府ニ対シテハ   帝国ハ之カ潰滅ヲ図リ

   又ハ新興中央政権ノ傘下ニ   収容セラルル如ク施策ス



(三)   本事変ニ対処シ 国際情勢ノ変転ニ備ヘ   前記方針ノ貫徹ヲ期スル為

   国家総力 就中   (なかんずく)   国防力ノ急速ナル培養整備ヲ促進シ

   第三国トノ友好関係ノ保持改善ヲ   計ルモノトス

(四)   第三国ノ権益ハ   之ヲ尊重シ専ラ自由競争ニヨリ   対支経済発展ニ

   優位ヲ獲得スルコトヲ期ス

(五)   国民ノ間ニ 事変処理根本方針ノ趣旨ヲ   徹底セシムル様 国論ヲ指導ス

   対外啓発ニツキテモ亦同シ



  別紙甲   日支媾和交渉条件細目

   〔十二月二十一日の独大使あて回答文細目に同じ〕

  別紙乙

   〔別紙甲のうちの保障条項、講和に関連して廃棄する約定〕

右会議において参謀総長は、とくに、本事変出兵の目的、事変処理の根本理念、

交渉による早期解決の期待、国防力の充実整備の必要について陳述し、

軍令部総長はこれに同感の意を表したほか、国防力の急速な培養を強調した。

平沼枢府議長は、現中央政府との和議が成立した場合現地新政権をいかにするか、

事変処理根本方針徹底のため世論指導をどのようにするか、

などについて意見を陳述した。》



注   ;   防遏   ボウアツ    防ぎとめること

1939年9月ノモンハン46 問答無用の禁止

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/15 19:00 投稿番号: [2183 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
263〜266p


《 ついで軍参謀長、副長と参謀次長が会見した。

軍参謀長   「去る三十日発令せられた大命と、本日発令せられた大命とが、

   僅かに数日で、戦況に何ら変化がないにもかかわらず、その内容が余り

   にも大きな差異がある。とくに次長の態度が違う事情を説明願いたい」

参謀次長   「これは大命です」



軍参謀長   「軍司令官の進退は、早急に実現するよう取り計らわれたい。

   軍司令官は責任は一人であると言われましたが、統帥の補佐に任じている幕僚は、

   このまま残っても新しい方針の下に行動するのは困難ですから、

   幕僚もまた交代するように、至急取り計らわれたい。

   責任は司令官と私とだけですが、他の幕僚も新しい方針に基づく命令などを、

   部下に伝達することはできませんから、是非交代させられたい」



参謀次長   「幕僚として交代の件は申し上げられません」

軍参謀長   「幕僚長代理として、責任ある意見を述べることは、

   できるではありませんか」

参謀次長   「自分としては考えていますが、申し上げられません」

軍参謀長   「ノモンハンのみならず、全般の問題として本事件は害を少なくして

   整理始末をするため、右の交代はなるべく急ぐのがよい。

   なお、内奏のことは幕僚として、意見を申し上げることができると思う故、

   至急取り計らわれたい」

参謀次長   「御取り次ぎします」



軍参謀副長   「大局上はよいでしょうが、軍としては第二十三師団の屍体を

   収容せずに後退することはできません。これは理屈ではなく、

   軍司令官として職に留まり得られないのは当然です。

   幕僚としてこのままいてもお使いもできません。

   隷下軍との関係上、このままおることは到底できません。

   すっぱり切ってもらいたい。一部の者を残されては、残る者はますます困るから、

   作戦幕僚全部を交代してもらいたい。次の命令を持って行くことはできません」



寺田参謀   「第一課関係者全部をお願いしたい」

参謀次長   「大本営も同様で、私は非常に苦しんでいます。

   軍司令官以下の御気持ちはよくわかります」

寺田参謀   「参謀本部第二課のやり方はひどい。血が通っておらぬ。

   村沢参謀や辻参謀は歴戦の勇士です。

   私、服部、島貫は初めてですが、この事件以来参戦しました。

   実戦の気分を知らなければ統帥はできません。

   故に今後の人事ではこの点十分考えていただきたい」

参謀次長   「参謀本部も、もっと早く戦場を見ればよかった」



寺田参謀「   第二十三師団の戦場整理ができなければ、師団の再建は困難です。

   兵士は人間ということを考えねばなりません。

   関東軍は今度こそ、抜く考えで必勝を期しています。

   このまま止めては、どんな影響を全軍に及ぼしますか。

   軍の威望、伝統、訓練、教育などは人を入れ替えただけではできません。

   捨て身は最大の安全です。



   大命は今更批判しませんが、分隊でも戦死すれば小隊は屍体を収容するのが当然です。

   武士の情けではありませんか。


   ラジオ放送によれば、敵もまた悲鳴を上げています。

   戦いは先に負けたと思うものが負けです」》


つづく

1938年1月11日 和平関係の大本営御前会議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/15 18:48 投稿番号: [2182 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   263〜264p


《 一月十一日、政府、大本営首脳をあつめた御前会議がひらかれた。

近衛首相が回答期限を十日にしたのは、この日の御前会議が予定されていたので、

その前に中国側の姿勢を知っておきたい、と思ったからである。

だが、返事は来ない。



大本営御前会議は、日本にとっては、日露戦争いらいの行事である。

とかく 〝欲ぼけ〟 的に長期戦にはまりこむことをおそれた参謀本部が、

とくに強硬に開催を主張した。

このさい、情勢の変化に応じて転変しないよう、

はっきりと和平交渉の基本方針を確立しておく必要がある。



その方針を最重要のものとして   「確固不動」   にするには、

閣議や大本営・政府連絡会議ではなく、御前会議での決定こそ望ましいし、

また、ふさわしい……。


外務省や海軍、陸軍の首脳部の間には、御前会議をひらくほどのこともない

との意見が強かったが、参謀本部はがんばった。

第二課員堀場一雄少佐は、海軍省軍務局第一課長保科善四郎大佐と激論し、あわや、

「彼、逆上して短剣を抜きて迫らんか、余は水月をもって之に応ぜん」

と、身がまえる一幕もあったほどだが、ともかく御前会議開催にこぎつけたのである。



会議は、前年十二月二十一日の閣議で決定した和平条件を

「支那事変処理根本方針」   としたが、 「支那現中央政府」   が

「和ヲ求メ来ラザル場合」   の対策を、次のように規定した。


「帝国ハ、爾後   (じご)   之   (これ)   ヲ相手トスル事変解決ニ   期待ヲ掛ケズ……

之ガ潰滅ヲ図リ、又ハ   新興中央政権ノ傘下ニ   収容セラル如ク施策ス」


そして、中国側の回答期限を、あらためて   「一月十五日」   に設定した。



なぜ、十五日なのか。

一月二十日ごろに再開される第七十三帝国議会にそなえるためだ、と知り、

「血ノ気ノ多イ」   参謀本部第二課員堀場少佐は、またもカッとした。

「国家の運命を決する大事を、議会対策の便宜より割出す。

本末顛倒も甚しきものなり」》


つづく

1939年9月3日 ノモンハン45 攻勢中止命令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/14 16:27 投稿番号: [2181 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
261〜263p


《 三十一日以後の戦場は平穏で、第六軍はひたすら爾後の攻勢作戦を準備し、

第一線の師団もまた復仇の観念に燃え、夜襲突破の訓練に余念がなかった。

上下一致して必勝の成果を収めようと喜び勇んでいたとき、

九月三日突然、次のような大命を受けた。僅かに三日の後である。



関東軍司令官宛                 参謀総長

大陸命第三四九号

      命令


一、情勢に鑑み大本営は爾今ノモンハン方面国境事件の自主的終結を企図す。

二、関東軍司令官はノモンハン方面に於ける攻勢作戦を中止すべし。

   之がため戦闘の発生を防止し得る如く、

   まづ兵力をハルハ河右岸地区繋争地域(ハンダガヤ付近以東を除く)外に、

   適宜離隔して位置せしむべし。

   航空作戦に関しては、状況己むを得ざれば大陸命第三三六号によるべし。

   作戦軍主力を原駐地に帰還せしむべき時期は迫って命ず。



  全く意外。朝令暮改の真因は那辺   (なへん)   にあるかの判断に苦しんだ。

  九月四日、中島次長は再び飛来した。

  次長に対し、軍司令官は謹厳な態度を以て臨んだ。

「大命は謹んで奉じます」



  次長は次の参謀総長の御言葉を伝えた。

「大陸命第三四九号に基づき隠忍自重、他日の雪辱を期し、

克   (よ)   く上下を抑制して時局の収拾に善処せんことを切望す。

欧州情勢の急迫に鑑み、今後日ソ一般国交調整、

とくに国境保全の外交交渉を行う予定なるも、停戦交渉は行わざる主義なり」



植田軍司令官   「ついては一つお願いがあります。

   攻勢作戦は大命に基づき中止しますが、第二十三師団の屍体収容は

   まだできていません。是非これだけやらせていただきたい」

参謀次長   「これさえも御許しにならないのが、大命の趣旨です」

軍司令官   「屍体収容のための戦闘が、持久戦にならないように、

   私が自ら戦場に出てその責任に任じますから、

   最小限度の戦場掃除だけでも御許しを願いたい」



参謀次長   「それは大命の趣旨に反します」

軍司令官   「大命を拝し恐懼   (きょうく)   に堪えません。

   事茲   (ここ)   に至りましたのは、全く軍司令官一人の責任です。

   もはや戦場整理案も御許しなき以上、自分がこのまま職に留まることはできません。

   一刻も早く後任司令官を御任命になり、事件を収拾せられることを希望します。

   また一切の責任は司令官一人です。参謀長以下はよく自分の意図を体して、

   行動したのでこれに責任の及ばないよう取り計らって下さい」



参謀次長   「軍司令官の御希望は、直ちにこれを伝達します。

   中央部の自分としても大いに責任を感じています」

軍司令官   「中央部に責任はありません。私一人の責任です」


つづく

南京 ベイツの盗品リスト

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/14 16:14 投稿番号: [2180 / 2250]
つづき
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   143〜144p


《 最後の三種類をのぞいた他の品物はすべて、私の敷地から持ち去られたのである。


一   食料品 − 果物・牛肉・魚の缶詰、砂糖、食料雑貨類   (現地通貨で)   三五元

二   道具、台所道具 − 鋸、手斧、金槌二個、ベンチ、バリカン、

   重たいアルミニウム製台所道具五個、ライター四個     四五元

三   羊毛製衣料 − 重い外套、セーター二枚、毛皮付の婦人コート      二二〇元

四   絵画 − 中国画五巻、金箔の額つき西洋画複製大型二枚、同小型三枚     一八一元



五   蓄音機とレコード − 蓄音機   (七五元)、レコード八五枚

   (すべてアメリカ製とイギリス製で平均四・五元)    四五七・五〇元

六   毛布 − 北京絹の大 : 一六〇元と一二五元、

         北京絹の小 : 一九元三枚    三四二元

七 ランプと傘   −   大きい石油ランプ一式、特製の傘付電気スタンド一個    一九元

八   磁器   −   高級な花瓶二個、古壷五個      五五元



九   テーブルクロスと刺繍飾り   −   大きいテーブルクロス四枚

   (アメリカ製リンネン高級品、単価五二元)、ナプキン二四枚   (七〇元)、

   昼食会用上質リンネンクロス六枚   (単価一二元)、ナプキン四二枚   (四〇元)、

   高価な絹の刺繍飾り七枚   (六五元)       四五五元

一〇   寝具   高級シーツ九枚(単価七・五〇元)、枕おおい六枚(単価四元)、

   掛布四枚(単価   一一元)    一三五・五〇元

一一   自転車   −   子供用            一五元



一二   切手アルバムと収集切手   −   二人の男の子の収集     五〇元

一三   机   −   上等なアメリカ製のウインスロップ総督型、机の上面とガラス戸、

   鍵付の引き出しが壊され、切り傷をつけられる         二五元

一四   鍵   −   (トランクや箱の破損も含む)   高価なダイアル錠五個     二〇元

一五   ドライ・クリーニングやアイロンないしは洗濯された物   −   家族の衣服と

   家庭所有リンネンの残りがすべて汚損され踏みつけられる      五〇元


       合計二〇一五・〇〇元

   アメリカ通貨による請求

       一ドル=三・四〇元    合計五九二・六五ドル)

                     〈①220〜221頁〉



この盗品リストを見るとき、

明日にも前進命令が下るかもしれない日本兵が持ち出したものか、

それとも、スティールが表現した   「逸品」   ばかりの宝の山に入った

難民達が略奪して露店に並べた   (後述)   ものか、

正常な判断力を持つ者なら、ためらわず後者を指し示すだろう。》



*   二にベンチとあるのは、多分ペンチの誤植と思われるが一応元のままにしておく。

   三の毛皮付婦人コート   これも兵隊は着られない。

   一一の子供用自転車   こんなもの兵隊が盗んでどうする。


   こういう物は中国人が略奪して、露店で売っていると解釈するのが自然だろう。

   ベイツ達外国人はあくまでも、日本軍の犯行にしたいらしい。



*   「リッグズが目撃者」   と書いているが、

   11回の略奪すべてに立ち会ったわけでもあるまいに。

   12月14日頃の徴発なら本物の日本軍だが、他はどうだか判らない。

1939年9月3日 英・仏、ドイツに宣戦布告

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/13 15:59 投稿番号: [2179 / 2250]
〔昭和14年9月4日   東京朝日(夕刊)〕


〔ロンドン特電三日発〕   チェンバレン首相は三日午前十一時十五分

  (日本時間午後七時十五分)、

  対独最後通牒の期限完了とともに英国の対独戦争を宣言した。

  同首相はダウニング街十番の官邸より全世界に向かって、

  「英国はドイツと戦争状態に入ったことを告げねばならなくなった」   と放送した。



〔パリ特電三日発〕   フランス政府はドイツ軍がポーランドより撤退しなかった場合、

  パリ時間三日午後五時   (日本時間四日午前一時)   を期して参戦する旨を発表した。

〔ロンドン特電三日発〕   チェンバレン英首相の対独宣戦声明において、

  「フランスもまた、フランスの与えた誓約を履行するため

  英国と同一行動を執りつつある」   旨言明した。

〔パリ三日発同盟〕   フランスは対独最後通牒に対するドイツ側の回答がないため、

  三日午後五時   (日本時間四日午前一時)   を以って自動的に仏独戦争状態に入った。


(中略)


英軍、直ちに出動す   〔パリ三日発同盟〕   イギリス、フランス共同作戦計画に従い、

  かねて秘かに海峡を渡ってフランスで待機中のイギリス軍隊は

  三日午前十一時十五分、チェンバレン首相の宣戦声明とともに

  直ちに出動して、それぞれ所定の部署についた。

  (後略)



*   ドイツはポーランドには侵攻したけど、英仏を攻撃したわけではない。

   英仏が先に、ドイツに宣戦を布告した。

   これでは、後に、パリを陥落されても、ロンドンを爆撃されても、

   文句言えないのではなかろうか。

南京 委員会が記録する日本軍の暴状

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/13 15:50 投稿番号: [2178 / 2250]
12月19日〜1月上旬

児島襄著   『日中戦争4』   250〜251p



《 十二月十九日から一月上旬にかけて、委員会が耳にした被強姦者は、

七十五人」 である。



掠奪された品目は、次のとおり。

「自動車三輌、自転車六台、水牛二頭、牝牛九頭、ロバ一頭、フトン二十六枚、

フトン・カバー十二枚、ピアノ一台、タバコ七缶、靴一足、時計一個、

背広一着、トランク一個」

そして、なぜか、人力車一台、蚊帳   (かや)   三、消防自動車のタイヤが

〝強奪〟 された、という。



消防自動車のタイヤは、予備品としての効用があろうが、人力車はどうするのか。

とくに真冬の南京での蚊帳の利用法は、なかなかに推断し難い。

あるいは、死体が多いために冬でもハエが発生したのだろうか……。

この第二期は、まさに第十六師団が南京を管理した時期にはいっているが、

同時に、日本側が、本格的に兵士の恣意的行為の取りしまりに

のりだしたころでもある。》



*   真冬に蚊帳を盗んでどうするのか、というのもあるが、

   背広も靴も意味ないだろう。兵隊には着る時も履く時もない。

   第一、他人の背広や靴を、盗んでも、体に合うとは限らない。

   それだけではない、ここには書いてないが、

   ベイツの   「盗品リスト」   には   「子供用自転車」   というのもある。

   こんな物、兵隊が盗んでも使えないだろう。



そこで、次に、ベイツの   「盗品リスト」   を紹介しよう。

松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   142〜143p



《『資料集①』   に、「日本兵の略奪による損失に関するM・S・ベイツの申立て」

(南京、一九三七年十二月十八日から一九三八年一月十一日まで)

という文書がある   〈①219〜221頁〉。



ベイツは国際委員会の中心人物であり、金陵大学の教授で宣教師でもあった。

この文書の日付と宛名の明記はない。

しかしここには、彼の私宅へ日本兵が十回か十一回やってきて

略奪し破壊していったという品目が書かれている。

同じ国際委員会のリッグズが目撃者だったとか、日本軍補助憲兵も侵入したなどと書き、

その件を日本大使館に文書で連絡したが関心を示さなかった、と強調している。



ここに、日本兵が   「家の二部屋の床に排便を残していった」   とまで

書きつつ示した盗品リストを転載する。

先の郭岐の文章にある盗品の品目と比べれば、

略奪の真相が見えてくるのではないだろうか。



〈以下に品目別に盗難および破損のリストを記す。

しかし、多くの細かい物は除外してあるし、

私の家族が危険を避けて不在であることにより、不十分さは避けられない。〉 》



ベイツの   「盗品リスト」   は次で

1939年9月1日 ドイツ軍ポーランド侵攻

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/12 14:51 投稿番号: [2177 / 2250]
〔昭和14年9月2日   東京朝日(夕刊)〕   ヒトラー、軍に実力行使指令


〔ベルリン一日発同盟〕   ヒトラー総統は一日早朝、

果然独国防軍に対し実力行使を発令した。右非常命令要旨、左の通り。



ポーランドは善隣関係を確立せんとする余の努力を拒絶し、武力に訴えるの挙に出でた。

ポーランド領内の独人は今や流血、暴虐の犠牲となり、その家を追われるに至った。

打ち続くポーランドの国境侵犯はもはや大国として忍び得ざるに至り、

ポーランドがもはや我が国境線を尊重せざることは明瞭となった。

余はすべての独人が全力を尽くして各自の義務を果たさんことを期待する。

爾   (なんじ)   等は常に国家社会主義大ドイツを代表するものなることを忘ることなかれ。


ドイツ民族、ドイツ帝国万歳。



〔ベルリン一日発同盟至急報〕   ヒトラー総統は一日早朝、

ドイツ国防軍に対し指令を発し、武力に対しては武力を以って対抗せよと命令した。


〔ベルリン一日発同盟至急報〕   ヒトラー総統は一日早暁、

全独国防軍に対し実力行使を発令した。

ドイツ政府は右発令と同時にバルチック海にある中立諸国船舶に対し、

ダンチヒまたは附近の海港に入港せんとするものは

自己の危険においてこれをなすべき旨警告した。



グジニア港を封鎖   〔ベルリン一日発同盟至急報〕   独政府は一日早朝、

ラジオを通じて、独海軍はポーランド軍港グジニア港を封鎖した旨公表した。


独波両軍、国境で激戦   〔ベルリン三十一日発同盟至急報〕

三十一日午後八時(日本時間一日午前四時)、

正規軍の支援を持つポーランド側便衣隊は上部シレジアのグライウィツに侵入し、

同市放送局を占拠、その他二カ所に於いて越境し来たり、

目下独波両軍は国境に於いて激戦中である。




〔昭和14年9月2日   東京朝日〕   ドイツ軍、全線でポーランド領に進撃

〔ベルリン特電一日発〕   ドイツ参謀本部は一日正午、左のごとく発表した。


ドイツ国防軍はドイツ国土の防衛のために、

ヒトラー総統の命により既に積極的行動を開始した。

陸軍はポーランド軍の武力を制圧する目的を以って一日朝来、

独波全国境よりポーランド領内に進撃を開始した。

同時にドイツ空軍はポーランドの軍事拠点粉砕の目的を以って爆撃を開始した。

ドイツ海軍はバルチック海の守りに着き、それぞれ配置を終了した。

(以下略)

1938年1月9〜10日 日本人各人の対中意見

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/12 14:41 投稿番号: [2176 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   263p


《 (川越大使の談話の) 二日後 (9日) の閣議では、

かねて強硬意見を開陳している末次内相が、よりエスカレートして強調した。


「ことここにおよんで、なお国民政府が迷夢よりさめず、妄動をつづける以上、

断乎として宣戦布告によってさらに徹底的戦果をあげるとともに、

軍需品の送道をたち、軍事上、財政上、ともに最後的打撃をあたうべきである」



そうかと思えば、回答期限にさだめた一月十日、

駐独大使東郷茂徳はドイツ外相ノイラートに、通告した。


「日本政府は、もはや蒋介石を中国の中央政府の代表とは考えていない……。

中国側が軍事的勝利をおさめる可能性を考えるのは、幻想である」》



*   日本が宣戦布告をしなかったのは、元々戦争する気はなかったからで、

   中国から仕掛けられた戦争を、ある程度制圧した後、

   必ず停戦や和平を提案していた。


   しかし、中国がどうあっても戦争をやめないとあれば、

   本気で叩いた方が早いのでは、という意見が台頭して来るわけです。


   ただし、宣戦布告はしませんでした。

   それは、米国が中立法を発動して、対日輸出を止めるからです。

1939年8月31日 英独交渉決裂と独が発表

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/11 18:53 投稿番号: [2175 / 2250]
〔昭和14年9月2日   中外商業(夕刊)〕


〔ベルリン三十一日発同盟〕   ドイツ政府は三十一日午後九時、

今回の英独交渉経過に関しDNB通信社を通じて、大要左のごとく発表した。



ドイツ政府はポーランド政府の妥協用意に疑問を有したに拘わらず、

八月二十八日附英国政府の通牒に示された独波間調停の申し出でを受諾する旨、

二十九日、英国政府に回答した。



英国政府に於いても事態の緊迫せる事実に鑑み、

三十日夜までにポーランド政府の全権代表をベルリンに派遣せしめるよう確約したが、

ついに三十日に至りポーランド総動員の報に接し、更に三十日深更、

英国政府より交渉開始をポーランド政府に要請すべき旨の通告を受けた。



ここにおいてリッベントロップ外相はヘンダーソン英大使に対し

対波交渉の条件を明示するとともに、事態の急迫せる事実を考慮し、

ポーランド政府代表のベルリン派遣を要請した。



三十一日午前に至りリブスキー波大使の来訪があったが、

大使は交渉の全権を有せぬことが明らかとなった。

ヒトラー総統及びドイツ政府はここ二日、

無為にポーランド全権のベルリン訪問を待ったのである。



かくてドイツ政府の提案は事実上、

ついに拒否されたものと認むるのやむなきに至った次第である。

ドイツ政府提案の内容は、前述のごとく既に英国政府に通告済みだが、

ドイツ政府はその形式に於いても公正かつ実現可能なりしを確信してやまない。

1938年1月9日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/11 18:47 投稿番号: [2174 / 2250]
一月九日

《・・・・

十一時にクレーガーとハッツが本部に来て、

たまたま目にするはめになった   「小規模の」   死刑について報告した。

日本人将校一人に兵士が二人、山西路にある池のなかに

中国人   (民間人)   を追いこんだ。その男が腰まで水につかったとき、

兵士のひとりが近くにあった砂嚢のかげにごろりと寝ころび、

男が水中に沈むまで発砲し続けたというのだ。



ローゼンとヒュルター、シャルフェンベルクの三人がイギリス砲艦クリケットで到着した。

イギリス大使館の役人三人とプリドー=ブリュン領事、

フレーザー大佐、空軍武官のウォルサー氏もいっしょだった。

だがウォルサー氏は、事前に報告しなかったといいがかりをつけられて、

上陸させてもらえなかった。



午後二時、クレーガー、ハッツ、私の三人で、ドイツ大使館にいった。

三時に、日本大使館の田中、福田両氏といっしょにローゼンたち三人がやってきた。

我々はクレーガーがどこからか接収してきたシャンパンで歓迎の意を表した。

ローゼンは、盗まれた車の代わりに、豪華なビュイック一台と、

ドイツ大使館用の公用車を一台、日本から借り受けた。

ぜったいに返すものかと息巻いている。



それからみなでシャルフェンベルクの家に行ってみた。

家中ひっかきまわされ、目も当てられない状態だ。

大切にしていた品のなかでも彼がとくに残念がったのは、

シルクハットとネクタイだった。なにしろ四十本もあったのだ。》

(以下略)



*   「日本人将校一人に兵士が二人、・・・

   男が水中に沈むまで発砲し続けた」   とあるが、

   本当に日本人将校なら、これは処刑ではなく虐殺にあたる。



   ただ、日本軍は弾薬を節約しており射耗報告がやかましい。

   ムダ弾は許されていない。

   日本軍の鉄砲はボトム・アクションと言って、一発撃ったらガチャンと

   やって次の弾を出せるようになっており、連発はできない構造。



   それほど、ケチケチしているのに、一発で仕留めず、

   わざと外して水に潜るまで弾を撃ち続けるのは不自然。

   わずかの守備隊で警備し、いつ中国軍が反撃に戻ってくるか判らない状態なのに、

   弾を無駄に消費するのは理解に苦しむ。



*   「我々はクレーガーがどこからか接収してきたシャンパンで歓迎の意を表した。」


   「接収」   って何なのだ、それは略奪だろう。

   「接収」   っていうのは、国家のような権力が、力づくで取り上げることを言う。

   国際委員会は、いつ権力機構になったのか。

   日本軍の   「徴発」   を   「略奪」   と言いながら、自分達の   「略奪」   を   「接収」   と言うとは。

1939年8月31日 英・波、独逸の要求を拒絶

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/10 18:59 投稿番号: [2173 / 2250]
〔昭和14年9月2日   大阪毎日(夕刊)〕   英・ポーランド、独の要求を拒絶


〔ベルリン三十一日発同盟〕   独政府は三十一日夜にいたり、

対英並びに対波   (ポーランド)   提案は事実上拒絶されたと認める旨正式に発表した。

〔ワルソー三十一日発同盟〕

独政府は三十一日夜、対英波要求が事実上拒否された旨発表したが、

波政府スポークスマンは同日夜、



「ポーランドはダンチッヒおよびポメラニヤ地方を放棄することを欲せず、

また侮辱的条件を基礎とした交渉を開始するため

全権をベルリンに派遣することを欲しない」   と声明した。


なお確聞するに、三十一日、在波ドイツ人陰謀団が

ワルソー中央停車場をダイナマイトで爆破せんとした計画が未然に発覚、

ドイツ人十名が逮捕されたといわれる。




廻廊帰属に投票、独の要求十六ヵ条   〔ベルリン本社特電三十一日発〕

三十一日夜、ドイツ政府の発表した十六ヵ条の要求、左の通り。


(一)   ダンチッヒの即時返還。

(二)   バルチック沿岸よりマリエンウェルダーの線に至る間の廻廊地帯の

   帰属を、同地方住民の一般投票によって決定する。

(三)   右投票資格は、一九一八年以来同地方に居住するものたることを要する。



(四)   一般投票は英、仏、伊、ソ四国代表より成る国際委員会、これを監督する。

   ポーランド軍隊は廻廊より撤兵することを要し、

   グディニヤ港地帯は投票区域より除外される。

   新国境画定は独波の直接交渉によってこれを定める。

(五)   一般投票は現在より一カ年を経過したのちに行う。

(六)   ドイツ本土と東プロシャを連絡し、ポーランドとバルチック海を

   連絡するために無停車横断の特別鉄道をつくる。

(七)   一般投票は単純多数決による。



(八)   一般投票の結果、廻廊地帯がポーランド所属と決定した場合には、

   ポーランドはドイツに対して両側に治外法権地帯を有する自動車路

   ならびに四本の鉄道をつくることを保障する。

   ドイツに帰属した場合には、ポーランドはグディニヤ港と

   ポーランド本土を連絡する同様の道路ならびに鉄道が保障される。

(九)   ドイツに廻廓が返還される場合、

   ドイツはポーランドと住民をそれぞれ交換すべき案を提出する。



(十)   ドイツのグディニヤにおける権利は、ポーランドのダンチッヒに

   おける治外法権と均衡を保たしむべきこと。

(十一)   脅威の空気を消滅せしめるため、両市を純然たる商業都市とし、

   武装を施さざること。

(十二)   ヘラ半島の武装を解除すること。

(十三)   独波両国は少数民族からの抗議を国際委員会に提出し、

   一九一八年以来の損害に対して賠償することに同意すること。



(十四)   独波両国は互いに自国領土内にある少数民族の権利を保障し、

   必要と思惟さるる少数民族の組織を許すと同時に、

   少数民族に対しては兵役の義務より免除すること。

(十五)   独波両国は直ちに動員解除の用意ある旨宣言すること。

(十六)   独波両国は如上の諸事項の達成を便利ならしめるごとき

   種々の手段を講ずることを約する。



注   :   波は波蘭の略でポーランドの事。

     ワルソーとは、ワルシャワのこと。

1938年1月8日 便衣兵による反乱工作

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/10 18:42 投稿番号: [2172 / 2250]
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』
154p   『資料集②』   の郭岐の手記


《 日本の獣兵は南京市を占領していたが、周辺のデマで日夜不安であり、

まるで針の延に座っているかのようだった。

あるとき、中央   〔国民政府〕   の便衣隊約五、六人が入城し、

中華路付近の地下室内に潜んでいた。



ちょうど五人の獣兵が三、四人の人夫をともなって北から南へやって来ていて、

わが便衣隊の近くに来た。

彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺しにし、四人の人夫に

「中央軍はすでに入城した」   と言って、人夫たちを安心させた。

この四人の人夫は常態を失して狂気乱舞した。



彼らは大あわてで道をかけ、途中、日本人・中国人を問わず、人に会うごとに

「中央軍が来た!」 「中央軍が入城した!」   と大声で叫んだ。

中華路からずっと難民区内まで叫び続けたので、町中にうわさが広がり、

みな疑心暗鬼になった。・・・》



136p
《 ウィルソンの一月八日付の手紙にも次のような話がある。


〈 南京市は絶えずでたらめの噂で一杯だが、私たちはこうした噂を

ラジオでチェックしている。きょう面白い事件があった。

中国人の噂によると、中国軍が城門のところまで来ていて、

再び市を奪還しようとしているというのだ。



日本大使館に行って衣類の洗濯をしていた女性が数人、

手に大きな包みを抱えて家に帰ってきた。

彼女たちが大学に近づくと、日本人が大使館を出ていったので、

この女性たちが略奪品を持って帰ってきたというニュースが野火のように広まった。



たちまち一群の女性たちが略奪の分け前にあずかろうと、

有刺鉄線のある柵を乗り越えて入って行った。

由々しい事態が発生しないうちに彼女たちは大使館の建物の裏から、

中国人使用人に押し出されたという。〉   (①297頁) 》



注 : 松村俊夫氏の言う資料集とは、青木書店刊   『南京事件資料集』   の事

   ①はアメリカ関係資料編

   ②は中国関係資料編


*   この話は1月8日付けラーベの日記の内容と符合している。

   そして、中国人は女性といえども、かわいそうな被害者ではなく、

   隙あらば、大使館にでも略奪にはいる連中だということも示している。

   しかしながら、ラーベは、それでもなお、略奪者は日本兵と信じて疑わない。

1939年8月31日 ノモンハン44 大命拝受

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/09 18:52 投稿番号: [2171 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
258〜260p


《 幾度か来満視察を希望した中島参謀次長が、

八月三十一日突然、飛行機で新京の関東軍司令部に着かれた。

軍司令官室で、厳粛に伝達された大本営命令は次の通りである。


  大陸命第三四三号

    命令

一、大本営の企図は支那事変処理の間、満州方面に於て、

   帝国軍の一部を以てソ連邦に備え、北辺の平静を保持するにあり。

   之がため、ノモンハン方面に於ては、努めて作戦を拡大することなく、

   速に之が終結を策す。


二、関東軍司令官はノモンハン方面に於て、

   勉めて小なる兵力を以て持久を策すべし。

三、細項に関しては、参謀総長をして指示せしむ。

   昭和十四年八月三十日           参謀総長載仁   (ことひと)   親王



息詰まるような空気の中で、植田軍司令官と磯谷参謀長が、謹んでこの大命を拝受した。



軍司令官   「命令の第三項に基づき、参謀総長の指示事項はありませんか」

参謀次長   「ありません」

軍参謀長   「それでは   『細項に関し参謀総長をして指示せしむ』   と

   ありますのは、どういう意味ですか」

参謀次長   「指示することがあれば指示する意味で、

   目下のところ指示事項はありません」



次いで軍司令官室において、一般の戦況と軍の企図   (九月攻勢)   について説明した。

まず第二課加藤参謀から敵情判断を、

次いで寺田参謀から一般の戦況と軍の現状将来の企図などを説明し、

磯矢   (いそや)   参謀から後方補給状況を説明した。

軍は十分な兵力を以て、冬季前にできるだけ短期間に敵に大打撃を与えた後、

速やかに全兵力を撤去し、ハルハ河を越えて作戦する意志のないことを明瞭にした。



随行の高月参謀の、

「第四師団を加えずにやることはできないか」   との問いに対し寺田参謀は、

「第四師団は絶対に必要である。できれば大本営から加えられた第五師団も、

早く到着したら加えたいと思う。

それは徹底した兵力で至短時間に目的を達して引き揚げたいからである」

と説明を補足した。



中島次長は何ら発言するところがなかったので、植田軍司令官はさらに念を押された。

「『ノモンハン方面において、勉めて小なる兵力を以て持久を策すべし』

とは軍がいま考えている攻撃の考案を容認せられるのですか」

これに対し次長は、

「『勉めて小なる兵力を以て持久に任ずべし』   との意味は戦略的持久の意味で、

その範囲内にて戦術的攻勢を取ることはもちろん妨げません」



磯谷軍参謀長はさらに、

「それでは軍が現在考えている第四師団を加えてする攻撃は宜しいですか」

と問うたのに対し次長は、

「宜しゅうございます」

と、明確に答えられたのみならず、軍がこれだけの兵力で攻撃するならば、

ハルハ河を越えて作戦する必要があろうと、

図上に手で渡河方面を指示したほどであった。》



つづく

1938年1月8日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/09 18:43 投稿番号: [2170 / 2250]
一月八日


《 ローゼン、ヒュルター、シャルフェンベルクの三氏が、

明日イギリス大使館の二人といっしょに南京にくると福井氏が知らせてくれた。

ローゼン、ヒュルターの家はどちらも無事だ。ドイツ大使館も。

ただローゼン家からは車と自転車、それから酒が数本盗まれた。



イギリス人の家の様子はわからない。

シャルフェンベルクの家は安全区の外だったこともあって、ひどい荒らされようだった。

ヒュルターの家に泊めてもらわなければなるまい。

こまったことに、どこも電気や水がとまっている。そこで福井氏にまた手紙を書いた。



アメリカ大使館の人たちの家も同じ状態らしい。

みな、寒い寒いと言いながら、大使館の大きな暖炉にへばりついているという。

電気や水が使えるよう、日本軍に要求すればいいと思うのだが。

福井氏がいうには、日本大使館が国から新しい車を取り寄せるそうだ。

ドイツ大使館に、おそらく他の大使館にもだろうが、盗まれた車を弁償するという。



今日、中国人の間で、中国兵たちが南京を奪いかえそうとしている

という噂が、またもやひろまった。

それどころか、市内で中国兵の姿をみかけた、という話まで出ている。


まず、安全区の家々に飾られていた小さな日の丸がそっくり姿を消した。

日本の腕章も。中国人のほぼ全員がつけていたのだが。

そしてつい今し方、ミルズが教えてくれたところによると、

相当数の難民が日本大使館を襲おうと考えていたという。



このときのささやかな暴動に加わった人たちは死刑になった。

いままで安全区が平穏でいられて、本当によかった。

どうかこういう悲惨なことにならないようにと祈るばかりだ。》



*   この中国人の反乱は、便衣兵による攪乱工作であった。

   それは、安全区に潜伏していた郭岐が手記に書いている。

   郭岐の手記は次で。

1939年8月 ノモンハン43 酒酔いの軍司令官

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/08 18:55 投稿番号: [2169 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ


(ここまでの戦闘は長いので省略しています。)

246〜248p


《 山縣、須見両連隊及び砲兵隊主力を指揮して態勢を挽回させようと勉めたが

時すでに遅く、山縣連隊   (歩六四)   は敵の強圧に耐え兼ねて

二十八日夜、ついに元の陣地を放棄して潰乱し、

第二十三師団長は手兵僅かに五百人を率いて、旧師団司令部位置に前進した。

右側背より溢れ出した敵の戦車が我が後方及び砲兵陣地を蹂躙し、

重砲連隊長鷹司大佐は火砲を放棄して後退し、山縣連隊もまた危殆に瀕したようである。



事態はまさに最悪であり、崩壊寸前に瀕している。

身を挺して善後処置に当たるべく、植田軍司令官と参謀長に願い出でて、

ハイラルを経由し将軍廟に到着したのは三十日夕刻であった。

天幕内の幕僚室は誰一人一語も発する者がなく、陰惨な空気に閉ざされている。

第六軍司令官室に申告に行った。ウイスキーで大分酔いが回っているらしい。



心の苦しさを酒で紛らわざねばならなかったのだろう。申告が終わったとき、

「辻君。僕は小松原が死んでくれることを希望しているが、どうかねえ君……」

その瞬間唖然とした。次いで憤然とした。

この事件が発生してからこんなに癪   (しゃく)   にさわったことは

未だかつてなかった。身分を忘れて、



「軍の統帥は師団長を見殺しにすることですかッ。

小松原閣下としては数千の部下を失った罪を死を以て償おうとしておられる

その心は当然であり、御胸中は十分わかります。

それだけに軍司令官としては何とでもして、この師団長を救い出すべきではないですかッ。

これが閣下の部下に対する道ではありませんかッ」



天幕の外にまで筒抜けの大声であったらしい。驚いて入ってきた藤本参謀長は、

「まあまあ君、一寸」

と袖を引いて天幕外に連れ出した。軍参謀長は小さい声で、

「君の言うことはよくわかる。何とかして小松原師団長を救出するから」

となだめられた。幕僚室は浜田高級参謀以下、ただ沈黙を守っている。



「誰か若い参謀で決死隊を作り、師団長を救い出してこい。

でないと第六軍の今後の統帥はできないぞッ」

話しさとしたが誰一人行こうという者がない。

「よし、君たちが行かないなら、出しゃばるようだが俺が行く」

と著者が立ち上がったとき、浜田高級参謀はさすがに恥を知ったらしい。

「辻君、待ってくれたまえ。これは第六軍に委せてもらいたい。

軍の面子だ。僕が行くから」



(この後小松原師団は救出されますが長くなるので、これも省略します。)

1938年1月7日 川越大使の談話

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/08 18:45 投稿番号: [2168 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   261〜263p


《 近衛首相は、六日、四相会議   (首相、陸、海、外相)   を招集して、

十二日までは待てぬ、十日までにする、と定め、

回答を催促する内閣書記官長談を発表した。



この声明をうけて、翌日、駐支大使川越茂が、上海で、談話を発表した。


「日本軍占領地域内の支那民衆は、

国民政府からはなれて新しい国家の出現を熱望している   ―   。


新しい中支の政権は従来の南京政府の如き軍閥政権でもなく、

古い政治家の政権でもなく……財界人、実業家を中心とする

『経済的民衆的国家』   が出現するものと思われる。


新政権が出現するには、日本政府が南京政府を公式に否認することが必要だ。

……日本は腰をすえて、支那民衆を援助する。

再び国民党政権の復活はあり得ないことを、十分に認識させてやらねばならない」



蒋介石が和平を求めてこなければ、

北支のほかに中支にも新政権を誕生させるぞ、というよりも、

もはや蒋政権に用はない、

はやく否認すべきだとの趣意がうかがわれる発言である。》




戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   473p


《 このような情勢のうちに、現地にある川越大使もまた一月七日、

上海で新聞記者に対し

「中支新政権が出現するためには、

日本改府が国民政府を公式に否認することが必要だ」

という意見を発表した。》

1939年8月 日本人から見た六全大会2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/07 18:59 投稿番号: [2167 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
219〜220p


《 大会は、予定どおりに午前十時にひらかれ、

会場から流れる中国国歌の合唱の声が、塚本少佐にも聞こえた。

「やあ、唱歌はうまくねえな……しかし、まあまあ無事でよかった」

少佐   (塚本)   は、同伴していたおなじく   『梅機関』   に配属されている

逓信省参与犬養健に、安堵した表情で語りかけた。

すると、間もなく、 「特工総部」   幹部の李士群が、

会議の議題を印刷した文書を、持参した。



国民党の総裁制を中央執行委員制にして汪兆銘を委員長にすること、

政府の組織と対日外交にかんする全権を汪兆銘に一任すること、

反共と日中国交調整を国民党の政策にすること……。

だが、黙読する塚本少佐は、重要政策の中に

「東三省回復」   がふくまれているのに気づき、顔色を変えた。



東三省すなわち満州であり、満州国承認は汪兆銘派との接触の当初から

日本側が主張し、汪兆銘側も承知してきた重要事である。

それなのに、新政府の政策としてその満州の失地回復をかかげるのは、なぜか。

日本の傀儡でない点を強調するためのジェスチュアか……汪兆銘の本心なのか

……それともやはり蒋介石と連携している事情を告白したものか……。

塚本少佐は   『梅機関』   に報告したが、逓信省参与犬養健によれば、

じつは、機関でも気づいていた。



前夜、中央宣伝部長周仏海が出席者名簿をとどけたが、

その中に   「東三省代表」   がふくまれていたのである。

この表現は、議決された   「東三省回復」   政策と同意義であり、満州国否認に通ずる。

影佐少将と犬養健は、塚本少佐と同様の感想をさそわれたが、

訂正させるのはかえって汪兆銘側を刺戟   (しげき)   しかねない、

新政府樹立のための具体的交渉の場で討議したほうがよい、と判決した

と、犬養健は記述している。



大会は午後四時三十分に終了した。

しかし、一般には三十日までの続行が発表され、参会者は

「特工総部」   と憲兵隊の隠密な警護をうけて、帰途についた。》



*   日本人は相手の裏切りを知っていても、相手を思いやって、厳しく追及しない。

   極悪視されている、特務機関ですら、今の平和主義者と似た行動をとっている。

1938年1月7日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/07 18:52 投稿番号: [2166 / 2250]
一月七日


《 福田氏に国際委員会の趣意書を渡す。

氏の話だと、なにがなんでも南京の秩序を即刻回復せよ、と

東京から厳命があったとのこと。

また、行政的な職務   (この私、ラーベの   「市長職」   も?)   も

我々   「よそ者」   ではなく、すべて自治委員会が担当すべし、といってきたという。

そういわれてしまっては、手も足もでない。

願わくは自治委員会にそれだけの能力があらんことを。



南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。

「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。

なかにはすでに犬に食われているものもあります。

でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。

この二十八日間というものずっと、

遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。

福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。



きょう午前十時ごろ、私の留守中のことだった。

日本兵が一人、使用人の部屋に押し入り、

女たちが悲鳴をあげながら私の住居へ逃げこんできた。

屋根裏部屋まで追っていったところで、この日本兵は、たまたま私を訪ねてきた

通訳の日本人将校に取り押さえられ、放り出された。

占領されて今日で二十六日。

南京のヨーロッパ人住宅の治安状況がどんなものか、これでもわかるだろう。



リッグズが今日の視察の報告書をもってきた。

うつろな目をした女性がひとり、通りをふらふらさまよっていたという。

この人は病院に運ばれ、身の上を話した。

十八人家族だったが、生き残ったのはこの人ひとりだという。

残りの十七人は射殺されるか、銃剣で突き刺されるかして死んだ。

家は中華門の近くだそうだ。



わが家の収容所にやはり近くに住んでいた女性がいる。

弟が一緒だが、こちらは両親と三人の子どもをなくした。

全員日本兵に射殺されてしまったのだ。

せめて父親だけでも埋葬したいと、なけなしの金で棺桶を買ったところ、

これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、亡骸   (なきがら)   を放り出したという。

中国人なんかその辺に転がしておけばいいんだ、というのが、かれらの言い分だった。



*   「なけなしの金で棺桶を買った」   というが、どこで棺桶を売っているのか?

   どこにそんな店が開いている?

   「棺桶を買ったところ、これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、

   亡骸   (なきがら)   を放り出した」

   と言うが、日本兵は中国語が分からない。そんな個人情報をどうやって知り得た?

   棺桶を買ったのが、どこの誰とも分からないのに、

   わざわざ捜し出して埋葬の妨害に出動するほど日本兵は暇なのか?


*   「中国人なんかその辺に転がしておけばいいんだ」   と言ったそうだが、

   その訴えた中国人、日本語が分かったのか?

1939年8月 日本人から見た六全大会1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/06 14:42 投稿番号: [2165 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫


大会は、 「独ソ不可侵条約」   が発表された五日後、

八月二十八日にひらかれたが、この日、東京では平沼内閣が総辞職した。

「独ソ不可侵条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」

ゆえに新体制と新政策の必要がある、というのが、辞職の理由であった。



近衛首相は、汪兆銘を重慶から引き出した直後に辞職し、

平沼首相は汪政府樹立の方針をきめながら、その実現前に退陣する……。

汪兆銘にしてみれば、なんとも俗にいう   「辻占の悪い」   現象の連続であったが、

大会そのものも   「うら淋しい」   雰囲気につつまれていた。



こちらこそが真の国民党 − の名のりをあげるのであれば、

そして汪兆銘が救国の指導者として認められるのであれば、

大広場をうずめての群衆の前での獅子吼か、

せめて大会場での壮麗な儀式がふさわしい。

だが、会場はゼスフィールド路七十六号の   「特工総部」   であった。



すでに上海に汪兆銘暗殺団の存在が推知されたための措置だが、

それにしても、日本特務機関の構内にひとしい場所で、

中国新政府の第一歩をふみだすのは、

一般の中国市民にたいするアピール効果は乏しいはずである。

大会の用意も   「特攻総部」   がおこなったが、

各省代表という形の出席者二百四十四人は、

前夜はひそかに市内の知人宅に身をかくして重慶側のテロをさけ、

会場周辺には約三十人の憲兵が配置された。



汪兆銘は、大会の開催について、国旗と国民党旗の掲揚、

日本人の立入り禁止の二つを要求し、日本側は承知した。

参謀本部第八課員塚本誠憲兵少佐は、上海出張を命ぜられて、

影佐禎昭少将   (註、八月に進級)   を中心にする汪工作   『梅機関』   に

所属していたが、この日は、会場の外で警戒にあたっていた。》



つづく

1938年1月6日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/06 14:36 投稿番号: [2164 / 2250]
一月六日

《 ばんざい!   アメリカ大使館のアリソン、エスビー、マクファディエンの

三氏がアメリカの砲艦オアフ号で今日上海から到着した。

すでに十二月三十一日に南京を目の前にしていたのだが上陸の許可が下りず、

蕪湖で待機していたのだ。

アリソン氏はかつて東京で勤務したことがあり、日本語ができる。



これで日本の軍当局から米と小麦粉   (これは軍が略奪したものだが)   が買える。

価格は高いが   (米一袋約十三メキシコドル)、約五万メキシコドル買うことにした。

石炭も一万二千メキシコドルぐらい買っておかなくては。

難民の蓄えが底をついてきたので早急に手を打つ必要がある。



韓はあまり乗り気ではない。

米屋から、中国軍が南京を奪還しようとしていると聞かされたからだ。

すでに南西部では砲声が聞こえたという。

「そうなれば米だって小麦粉だってただで手に入りますよ」。

けれども私は、心ならずも韓に言い聞かせなければならなかった。

「決してそんなことにはならないよ」


・・・・・


午後五時、福田氏来訪。軍当局の決議によれば、我々の委員会を解散して、

その資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと。

自治委員会が今後われわれの仕事を引き継ぐことになっているからだという。

資産を引き渡す?   冗談じゃない。私はただちに異議を申し立てた。


・・・・・


さっそく委員会の会議を開いて、福田氏にどう返事をしたものかと相談した。

また、治安や秩序をとりもどすためにどういう提案をするかについても。

日本から助言を得てはいるが、自治委員会はまるで無策だという気がする。

どうやら狙いは我々の金だけらしい。つまり、

「国民政府からもらったのだから、おれたちの物だ!」   というわけだ。



しかし我々の考えは全く違う。

なんとしてもこちらの主張を通そうということになった。

アメリカやドイツの大使館が支持してくれると当てにしたうえでの結論だ。

といっても、先方が果たしてどう考えているのか、まるっきりわからないのだが。》



*   「韓はあまり乗り気ではない。

   米屋から、中国軍が南京を奪還しようとしていると聞かされたからだ。」


   このうわさは本当のうわさ。

   これは、便衣兵による撹乱工作で、8日の所で具体的に紹介する。

1939年8月28日 汪兆銘の開いた六全大会

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/05 16:09 投稿番号: [2163 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
125〜127p


《 国民党第六次全国国民代表大会が開かれた。 大会は国民党副総裁、

汪兆銘の名で、その年の八月二十八日から三十日の三日間招集された。

会場は   『七十六号』   の庭園だった。

鉄門をくぐって、左に入ったところの本館前の大広場であった。

ここで代表大会を開く   『七十六号』   の誇り、まして丁黙邨の得意や思うべしであった。



全国国民代表大会とは、国民大会につぐ国民党の最高機関である。

党の憲章によれば、国家の主権は国民大会がもち、国民大会は国民代表を選出する。

国民代表大会は党の章程、政綱を修正し重要政策を決定し、

かつ中央執行委員などを選出する。

二年ごとに開く代表大会は、慣習によって一年以上の延期が認められていた。

また、代表大会閉会中は半年ごとに開かれる中央執行委員会全体会議が

全国代表大会の任務を代行する。



汪兆銘は党の章程、政綱を修正し、中央執行委員の陣容を整えるために、

第六次全国国民代表大会   (六全大会)   を招集したのである。

事変前の昭和十年十一月、南京で開かれた五全大会では、 日華和戦の大計が議せられ、

その揚句、汪兆銘は軟弱だと抗日派に狙撃されて重傷を負い、

行政院長を辞めた思い出も深い。



その汪兆銘が、今や和平の策案を持して六全大会を主宰しようとするのである。

六全大会には国民代表二百四十人が出席した。

チョ民誼、陳公博、陳璧君など、いわゆる改組派と称されていた汪兆銘直系のもの、

周仏海、高宗武、梅思平など蒋介石の腹心で汪兆銘の幕下に馳せ参じたもの、

丁黙邨、李士群などのように上海で新しく同志となったもの、

陶希聖、博式説など従来政治の圏外にいたもので和平運動に加盟したものなど、

いろいろな系統のものが集まったが、

その中ではかつて上海で活躍した有能な抗日分子が圧倒的に多数だった。

丁黙邨は彼の斡旋で最近、汪運動に加担した徒党が優勢なので、

六全大会の主催者となったような気がして会心の笑みを洩らしていた。



大会は、六全大会を合法化し、かつ今後の党務の運営を容易にするため、

まず党綱領の総章の修正が行われた。

そして総裁制が廃され、代わって中央委員会制が設けられ、

汪兆銘はその主席に推薦されたが、

この決定によって蒋介石は自動的に国民党総裁を解任された。

つぎに党務整理案が可決され、

同年一月一日以降の中央執行委員会の決議は、すべて無効とされた。



この決定によって、重慶が行った汪兆銘以下の党籍、官職の剥奪は取り消され、

逮捕令失効ということになった。それと同時に中央執行委員などの補充が行われた。

六全大会の執行委員は新たに選挙することをやめて、

五全大会の委員をそのまま留任させ、

その欠員だけを汪兆銘が指名して補充することになり、

丁黙邨、李士群は新しく委員となった。

さらに重慶地区にいる執行委員には、上海に集まって汪兆銘に協力するように要請された。



次は国民党の新しい政綱の決定である。

外交関係では日本と和協し、反共産主義国と連合して

第三インターの陰謀を防止することを決めた。

内政では連邦政治、分治合作などの分裂政策を排して統一国家を維持すると規定し、

軍事部門では事変の終結とにらみ合せて軍隊の復員と整備を図ることなどを決定した。》

1938年1月6日 回答期限を十日に変更

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/05 15:52 投稿番号: [2162 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   262p


《 駐日大使ディルクセンが、四日、広田外相にたいして、

ドイツ側は中国に回答を督促している、と語り、

外相は、十二日まで待つと応えた。


だが、近衛首相は、六日、四相会議   (首相、陸、海、外相)   を招集して、

十二日までは待てぬ、十日までにする、と定め、

回答を催促する内閣書記官長談を発表した。》




戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   472p


《 日本政府は、独大使を通じて示した和平交渉条件の中国側回答が

一月五、六日ころまでには到着するものと期待しつつ年を越した。

ディルクセン大使は、従来の責任上これを捨てておけないので、

一月四日、広田外相に対して国民政府との接触経過に関し中間連絡を行うとともに、

本国政府及びトラウトマン大使にあて、

日本政府から速やかに国民政府の諾否を求められていることを通告した。

(このとき、中国側回答期限を十二日ころとしたが、

のち六日の四相会議で十日ころとするよう変更した)



一月六日、しびれをきらした近衛総理は、陸海外三相を招き、

国民政府にだめを押す相談をした結果、

早く回答しないとためにならぬという意味の内閣書記官長談を発表した。


この談話のなかでは

「もし中国側が如実に反省の真意を示すならとにかく、

わが方としては、あくまで所期の目的達成に邁   (まい)   進すべく、

今後この決意のもとに百般の対策を講ずる」   と述べている。



このころ、すなわち年末から年始にかけて日本側の対支態度には非常な変化があった。

中・北支における軍事的進展と北支、蒙疆における新政権の成立等により、

軍部はもちろん政党、ジャーナリズム、有力な国民層とくに右翼団体等の間に、

蒋介石の国民政府を相手にしなくても中国側を屈服させることは

必ずしも不可能でない、という空気が濃厚に台頭してきたので、

講和促進論者は沈黙せざるをえない情勢となっていた。


従って、前記書記官長談も、一般国民には和平無用論のような印象を与えた。

しかし参謀本部首脳は、長期戦に対する戦力の限界を考え、和平策を堅持していた。》

1939年8月28日 独逸のポーランドへの要求

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/04 18:52 投稿番号: [2161 / 2250]
中心は   「回廊」、 妥協は困難


〔昭和14年8月29日   東京朝日〕

〔ベルリン特電二十八日発〕   二十八日、

ヒトラー総統とダラジエ仏首相との間に往復された書翰の内容発表によって、

ドイツの要求が単にダンチヒの復帰のみに止まらず、

廻廊及び東ドイツの国境の全面的地図の修正にあることが明らかにされ、

ここにダンチヒ問題は廻廊問題に拡大、

ドイツが譲歩せざる限り問題の外交折衝解決は至難なりとの印象を与えられるに至った。



従来ポーランド側はダンチヒのみの独立なら、或いはこの際ドイツに譲歩して承認し、

その代償に現在の独波   (ポーランド)   国境線の不侵略保障によって

両国間に平和協定成立の希望ありとされていたものだが、


ドイツがダンチヒよりもむしろ廻廊こそ、ドイツの領土回復要求の本体なり

とする態度を闡明   (せんめい)   した以上は、

もはやポーランドにとって妥協の余地は失われたも同様で、

平和解決の望みはただドイツの要求縮小によってのみ

可能という困難な事態に直面した訳である。



英国首相に宛てたヒトラー総統の書翰もほぼ同趣旨のものと見られ、

これに対して二十八日午後ベルリン帰任の

ヘンダーソン英大使の回答内容が今関心の焦点になっている。



二十八日、ベルリン各紙の朝刊は、この

「廻廊及びダンチヒは当然ドイツに復帰すべきなり」   との

ヒトラー総統の言葉を大活字でトップに報道し、

ウンター・デン・リンデン等の目抜きの通りでは

各商店の飾り窓にこの新聞が貼り出され、道行く市民はその前に足を止め、

覆面を脱したドイツの正体に領いて読み耽っている。



なおイタリア首相ムソリニ氏の調停乗り出し説が当地でもしきりに伝えられるが、

ドイツ廻廊要求を撒回せぬ限り調停不可能なりとして、

ムソリニ首相も動くまいとの観測が有力である。




注   :   「波」   は   「波蘭   (ポーランド) 」   の略
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