1939年9月 汪政権以外に道を探る日本人
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/23 18:57 投稿番号: [2199 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
228〜230p
《 参謀本部にはいぜんとして汪兆銘政府の樹立を支持する声が主流を形成していたが、
陸軍省には、汪不信の意見が強まってきた。
とりわけて、 「対第三国戦備」
に関心をもつ参謀本部が中南支は汪政府にまかせ、
陸軍部隊は黄河以北に撤収すべきだ、と主張すると、
新任の陸軍次官阿南惟幾中将は、汪兆銘に時局収拾能力はない、と反撥した。
・・・・
また、汪兆銘政府を樹立するという方針が決定されているかたわらで、
蒋介石との直接交渉をこころみる者もいた。
たとえば、臨時政府主席王克敏と親しい興亜院華北連絡部長官喜多誠一中将は、
王克敏に接近してきた燕京大学学長J・スチュワートを通ずる
「蒋工作」
を推進しようとした。
学長スチュワートは、既述したように、かつてドイツ大使O・トラウトマンの
和平仲介のさいにも動いたが、喜多中将によれば、主席王克敏にたいして、
国民政府は国防最高会議秘書長張群を派遣して
和平交渉をする用意がある、との 「蒋介石の伝言」 をつたえた。
さらに九月中旬には、米大使館の書類を持参して、
「米英が日中和平のために蒋介石に圧力をかける」
と語った。
喜多中将は、このスチュワートの言葉を基礎にして対重慶和平工作を主張したのだが、
参謀本部第二部長樋口少将は、首を横にふった。
「スチュワートのごときはうそつきの常習犯なり」
学長スチュワートが
「うそつき」
かどうかは、不明である。
しかし、最初に主席王克敏と会談したとき、紹介者として同行した中国人は
「ホウ悌」
と名のったそうだが、 「ホウ悌」
は、
前年の長沙放火事件の責任をとわれて処刑された同市警備司令と同名である。
同名異人か、それとも死者の名前を利用したのか……。
また、九月中旬の
「米大使館の書類」
なるものも、 「怪しげ」
であった。
北京の米大使館参事官F・ロックハートによれば、
学長スチュワートは九月十二日、電文案を持参した。
国務長官H・ハルから行政院長孔祥熙に打電する形のもので、
米国が日中和平仲介にのりだそうとする印象をあたえるように、
「明確な進展あり……」
などの文言があった。
参事官ロックハートは、即座に国務長官への取り次ぎを拒絶し、
連絡をうけた長官ハルも、干与するなと参事官に指示した。
学長スチュワートの
「米大使館の書類」
はこの電文案らしく、
その言動には、善意からか、あるいは王克敏の反汪兆銘感情を利用してかは
わからないが、あちらこちらに小細工を弄する気配がみうけられる……。》
これは メッセージ 2167 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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