入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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1938年1月5日 石川達三南京到着

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/04 18:42 投稿番号: [2160 / 2250]
『生きている兵隊』 中公文庫のあとがき・解説 (半藤一利) 205pより


《 南京に着いたのは、十三年一月五日。

念のために書くが、南京を日本軍が攻略したのは十二月十三日。

石川はずっと遅れてその地に着いている。

東京裁判でいう暴虐事件を目撃することはなかったが、

なお血なまぐさい、なまなましい事件後の状況を見聞することは可能であり、

そこで日本軍の実態に接してふかい衝撃をうけた。その回想が残されている。



「小便くさい貨車に便乗して上海から南京へゴトゴトゆられて行きました。

南京市民は難民区に隔離され、町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、

死の町という言葉がピッタリでした。

はじめて目撃した戦場は、ショックでした」



そして南京で八日、上海で四日、精力的な取材をすませると、

ただちに帰国する。》



*   ここでも、彼は、他の善良な日本人と   同じ勘違いしている。

   「南京市民は難民区に隔離され」   と言っているが、

   別に日本軍が隔離したわけではない。

   難民区は外国人が作ったのであって、便衣兵の温床・隠れ蓑となっていた。


   日本軍は逆に、その難民区を解体しようとしていたのだ。

   そして、それを外国人は快く思っていなかった。



   次に

   「町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、・・・ショックでした」

   と衝撃を受けた感想を述べているが、

   彼も、この死体を作ったのは日本軍だと勘違いしている。


   本当は、中国軍が脱出の時の同士討ちや混乱で生じたものなのだけど。

   結果として、彼が、描きたかった残酷シーンに相応しい現場の状況を見聞でき、

   好材料を得て   『生きている兵隊』   という、

   日本兵が残虐行為を働く小説が完成する事になる。

福岡県警はなぁ半日公安体制なんやで

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2013/01/04 13:18 投稿番号: [2159 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-ステラオブアリエス302鹿毛信義、古賀好男。八女市本村25総合庁舎監視室0943226999古賀繁文久留米市荒木町藤田1066-1中央区小笹5-16-58-501古賀麻里惠、糸数昌一、ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで

福岡県警はなぁ半日公安体制なんやで

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2013/01/03 23:38 投稿番号: [2158 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-ステラオブアリエス302鹿毛信義、古賀好男。八女市本村25総合庁舎監視室0943226999古賀繁文久留米市荒木町藤田1066-1中央区小笹5-16-58-501古賀麻里惠、糸数昌一、ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで

1939年8月28日 平沼内閣総辞職

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/03 13:52 投稿番号: [2157 / 2250]
〔昭和14年8月29日   東京朝日(夕刊)〕   欧州の天地は複雑怪奇、と総辞職


独ソ条約の責任痛感    平沼内閣は二十八日、総辞職を決行した。


平沼首相は独ソ不侵略条約が我が日独防共枢軸強化方針を裏切り、

帝国外交政策に対し重大な結果を及ぼしたことに

輔弼   (ほひつ)   の責任を痛感し、この責任をとって総辞職するに決意し、



湯浅内府、近衛無任相等と政局の円満なる推移を期するための

爾後工作につき慎重協議中の所、その見通しも成ったので、

二十八日午前九時十分、首相官邸に緊急閣議を招集して正式に全閣僚に対し

総辞職の決意を表明、一同これを承認して、ついに総辞職に決定した。



すなわち同日の閣議には平沼首相、近衛無任相をはじめ全閣僚出席、まず平沼首相より、


「政府は日独防共枢軸強化を対欧策の根本方針として今日まで努力して来たが、

今回我が方針に反してドイツが突如独ソ不侵略条約を締結するに至り、

我が外交政策は再出発の余儀なきに至った。

事すこぶる重大にして、政府としてはこの際輔弼の責任を明らかにし

臣節を尽くすため、引責辞職すべきものと信ずる」



と厳かにその信念を披瀝した。

これに対し各閣僚は既にあらかじめ内意を示されていたこととて

即座に賛成、直ちに全閣僚の辞表を取り締めた。


よって同九時半、閣議をいったん休憩した上、

平沼首相は午前九時五十分、宮中に参内、天皇陛下に拝謁仰せ付けられ、

総辞職に至った事情をつぶさに奏上し、

全閣僚の辞表を捧呈して闕下   (けっか)   に骸骨を乞い奉った。



平沼首相は、 「何分の沙汰あるまで政務を見よ」   との有難き御言葉を拝し

恐懼   (きょうく)   して御前を退下、

別室において湯浅内府と会見、総辞職したことについて改めて諒解を求めるとともに

後継内閣について懇談を重ねた上、同十時半、宮中を退出、

首相官邸に待機中の閣議に臨み辞表捧呈の顛末を報告し、

別項のごとき声明を発表するに決定して、同十時四十五分、閣議を終わった。



かくて第二次戦時内閣として登場した平沼内閣は、

組閣後八カ月にしてここについに崩壊した。



注   闕下    ケッカ    宮中に同じ

   骸骨を乞う      辞職を願い出る事

   恐懼    キョウク   ひじょうにおそれる。

   懼     ク      おそれる。

1938年1月5日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/03 13:44 投稿番号: [2156 / 2250]
《・・・・

今日の午前までは水が出たのだが、午後になってとまってしまった。

電気はまだつかない。

それなのに、近所ではいまだに家が燃えている。

・・・・


またもや漢中門が閉まっている。きのうは開いていたのに。

クレーガーの話では、門のそばの干上がった側溝に

三百ほどの死体が横たわっているそうだ。

機関銃で殺された市民たちだ。

日本軍は我々外国人を城壁の外に出したがらない。

南京の実態がばらされたら困るからな。》



*   「漢中門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が・・・

   機関銃で殺された市民」

   と言っているが、本当に市民なのだろうか?



   ラーベ達外国人は、

   12月12日夜の、中国兵脱出の時の混乱で生じた、城内の大量の死体ですら、

   日本軍   (まだ南京城内に入っていなかった)   の仕業と思い込むくらいだから、

   そのつもりで聞いていた方がいいだろう。



   すくなくとも、クレーガーが出入りした時には、既に死体があった。

   つまり、門を閉める前に、急に死体を作ったわけではないという事だ。

   隠蔽のために、今頃、門を閉めても手遅れだろう。

   ラーベの想像は妄想でしかない。



   その死体が処刑された便衣兵なのか、

   戦闘で殺されたものなのか、

   脱出時の混乱で死んだものなのか、

   判別はつかない。

1939年8月25日 日本 ドイツに抗議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/02 15:52 投稿番号: [2155 / 2250]
〔昭和14年8月26日   東京日日〕


《 独ソ不可侵条約の締結によって

欧洲の外交的、政治的、軍事的分野は一変し、

帝国政府においてもこの新情勢に対応して、

過去六十数回にわたる五相会議において研究、討議したる

対欧方策の根本方針をこの際すべて御破算とし、いっさい白紙に還元する旨、



二十五日の重要閣議で決定し、

更に有田外相の報告に基づいて独ソ不可侵条約の内容を検討した結果、

右独ソ協定は明らかに日独伊防共協定の精神に違反するものなりとの

重大結論に到達し、ドイツ政府に厳重抗議することに廟議一決、



その外交措置については有田外相に一任したので、

外相は閣議後、直ちに外務省に沢田次官以下を招集して

首脳部会議を開いた上、同日午後四時、大島駐独大使に対し、



「ドイツ政府が今回ソ連政府との間に締結した不可侵条約は、

帝国政府の見解によれば明らかに防共協定の精神に背馳し、

従来の日独の盟邦関係に鑑み遺憾至極である。

右の旨、ドイツ政府へ厳重抗議せよ。

なお帝国政府の防共協定に対する措置は今後留保する」

との訓令を電命した。



よって大島大使は直ちに帝国政府の抗議をドイツ政府に通告するはずであるが、

右に対するドイツ政府の回答は来週早々到着するものと予想されるので、

有田外相は大島大使よりの公電を待って、

二十九日の定例閣議に右の経過を報告するはずである。



しかして帝国政府はドイツ政府の返答次第では、

日独伊防共協定が独ソの提携によって死文化したものと認めて、

満洲国政府とも交渉の上、日満両国が連袂して

日独伊防共協定より脱退するとの重大決意を固めていることは注目される。



オット独大使、外相に釈明

オット駐日ドイツ大使は二十五日午後五時二十五分、

外務省に有田外相を訪問、有田外相に対し、


本使は本国政府の訓令により正式に申し上ぐるのではないが、

今回の独ソ不可侵条約の締結はリッベントロップ外相より大島大使に申し上げた通り、

欧洲情勢が逼迫し、ソ連邦を中立せしむるさし迫った必要があったからである。

本協定はドイツ側から提案して締結を見るに至ったものである。



と釈明したのに対し、有田外相は、

独ソ不可侵条約は日独伊防共協定の精神に違反するものと認め、

大島大使からドイツ政府に対し正式に厳重抗議することに決したから、

右様お伝えする。

と述べ、午後六時十分、会見を終わった。

1938年1月4日 ニューヨーク・タイムズ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/02 15:43 投稿番号: [2154 / 2250]
ラーベ達が日本軍の犯罪と決めつけていた事が、実はそうではなく、

中国兵の犯罪で有った事が判明した。



東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   275〜276p

〈一九三八年一月三日上海発の   『ニューヨーク・タイムズ』   の記事

(一月四日付)   である。

「元支那軍将校が避難民のなかに − 大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」

と題する記事は、次のように言う。以下は全訳である。



《 南京の金陵女子大学に、

避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、

逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名を匿 (かくま) っていたことを発見し、

心底から当惑した。   実のところ教授たちは、この大佐を

避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。



この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、

それから女子大の建物に住んでいて発見された。

彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、

砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、

それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。



この元将校たちは、南京で掠奪したことと、

ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、

その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、

アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した。

この元将校たちは逮捕された。

戒厳令に照らして罰せられ、恐らく処刑されるであろう。》



南京安全地帯は中立地帯であった。

そこに、ベイツやスマイスなどアメリカ人教授が支那軍将校を匿っていたのである。

これは重大な中立違反であった。

その上、あろうことか、 〈市民に変装した現役の将校たち〉   が

掠奪や強姦を重ねては、日本軍の犯行にしていた。

アメリカ人教授が   「心底から当惑」   したのも当然であったろう。



しかも、彼らの十号文書   (十二月十八日付)   は、安全地帯に支

那兵は一人もいないと保証していたのであった。

しかし、この安全地帯で生じた重大な出来事が、不思議なことに、

『南京安全地帯の記録』   には収録されていない。

日本軍告発という目的に、合致しなかったからであろう。

しかも、これは氷山の一角に過ぎなかった。〉



*   別に驚くに当らないでしょう。

   東中野がどうとか、日本軍の発表だ、とか言う以前の問題です。

   ラーベも金を貰って、龍上校と周上校を匿いました。

  「1900   12月12日のラーベの日記   2」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1900

   そして、中国軍は安全区を基地にし、

   ラーベ達の要請にもかかわらず、撤去しませんでしたから、

   彼らが武器を持っていても、何の不思議もありません。

1939年8月23日 独ソ不可侵条約締結と日本

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/01 15:33 投稿番号: [2153 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』
217〜218p


《 日英交渉が決裂した五日後、 「独ソ不可侵条約」   の締結が発表され、

文字どおりに世界を驚愕させた。

とりわけて、日本にとっての衝撃は強い。

もともと、日本とドイツとの結びつきは、反共すなわち反ソの立場にたつものであり、

イタリヤをふくめて防共協定を結んだゆえんでもある。



ドイツ側は、前年七月から防共協定を相互援助条約   (軍事同盟)   に

強化させたい意向をつたえ、陸軍は同条約の締結に賛成した。

「支那事変処理のためにソ連を戦略的に、又英米を政略的に欧州に牽制」

する効果があると判断したからである。



ただし、日本側の考えが軍事的対象をソ連にしぼるのにたいして、

ドイツ側は、一般的に第三国を対象にすることを要求した。

そうなると、ドイツが対立関係にある英米仏と開戦した場合には、

それら諸国との戦いにまきこまれるので、日本は反対し交渉は難航していた。



だが、 「独ソ不可侵条約」   が締結されたとなると、

日独提携の基盤である反共精神が吹きとぶことになり、

当然に、日本側の不信感をかきたてて、交渉は閉幕した。》

1938年1月3日 蒋介石 和平使派遣 拒否

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/01 15:15 投稿番号: [2151 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   262p


《 その翌日   (3日)、国民政府は、正式に次のように決定した。

「否認   将派代表   赴南京   與日方   講和」

(日本側との和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)

  和平拒否   −   である。

  だが、この決定は極秘にされ、ドイツ側にもつたえられなかった。》



*   中国は   「和平拒否」   を決定していながら、

   ドイツ大使に伝えないため、当然の事ながら日本にも伝わりません。

   そのお陰で日本では、無用な会議を連日続けることになります。


   これも中国側の作戦かも知れません。

   無用な疑心暗鬼をさせて、日本を精神的に疲れさせるための。

1939年8月23日 独ソ不可侵条約調印

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/31 15:00 投稿番号: [2150 / 2250]
〔昭和14年8月25日   東京日日〕


〔ベルリン本社特電二十四日発〕   ドイツ政府は二十三日、

モスクワで独ソ不可侵条約の調印を了した旨正式に発表した。

発表要旨、左のごとし。


「独ソ不可侵条約は二十三日夜、クレムリン宮における第二回目の会議において

ソ連代表モロトフ外相、ドイツ代表リッベントロップ外相との間に調印せられたり。

席上にはスターリン共産党書記長、シューレンベルグ駐ソ独大使も同席せり」


条約内容   〔モスクワ二十三日発同盟〕   独ソ不可侵条約の内容は次の通り。



一、両締約国は単独たると第三国と共同するとを問わず、相互に不侵略を約す。

一、両締約国のうち一国が第三国の侵略を受けた場合、

   他の一国はいかなる方法によるも右侵略国を支援せざることを約す。

一、両締約国は両国の重大権益に関する諸問題につき相互に通報を行い、

   かつ協議を遂げることを約す。

一、両締約国は直接たると間接たるとを問わず、締約国の一国を敵対目標とする

   いかなる国家間の結合   (grouping)   にも参加せざることを約す。



一、両締約国間に意見の相違を来たした場合は、

   もっぱら友好的商議乃至は仲裁委員会によってこれを解決す。

一、本条約の有効期限は十カ年とし、

   期限満了の上は両締約国が規定の廃棄通告を行わざる限り、

   自動的に更に五力年間更新されるものとす。

一、本条約は調印と同時に即時効力を発生す。

1938年1月3日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/31 14:54 投稿番号: [2149 / 2250]
1938年1月3日   ラーベの日記2


《 せめてもの慰めのつもりだろう、

田中氏は、そのあととてもうれしいことを教えてくれた。

目下蕪湖にいるローゼン、それからたぶんヒュルターとシャルフェンベルクの三人が、

一月五日に南京に到着するそうだ。

ということは、アメリカ大使館の人たちと同じ日だ。

そちらからはすでに連絡がきている。


・・・・・


給食所と収容所の決算報告で、

委員会の財政がかならずしも楽ではないことがわかったが、

これには改めてうなってしまった。

要するに、働いている中国人がめいめいしっかり手数料を取っていたのだ。

なんせここは中国だ。 手数料なしにはなにひとつ運ばない。



今日うちの庭で、とほうもない値段をふっかけようとした野菜売りをつかまえた。

ちょうどそこにいあわせた女の人たちが品物をそっくり買いとろうとしたので、

私はそれをとめ、そいつを追い払った。》



*   「働いている中国人がめいめいしっかり手数料を取っていた」


   ラーベ達が善意で無償で働いているのに、

   当の助けられている中国人が手数料をとり、

   人の弱みに付け込み、途方もない値段を吹っ掛けている。


   ラーベ達も大概で、自分達が何をしているのか気づくべきだろうに。

1939年8月21日 独ソ不可侵条約妥結を発表

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/30 17:01 投稿番号: [2148 / 2250]
〔昭和14年8月23日   東京日日(夕刊)〕


〔ベルリン本社特電二十一日発〕

ドイツ政府は二十一日、次のごときコンミュニケを発表した。

独ソ両国政府は相互不可侵条約を締結するに決し、

リッペントロップ独外相は右使命を帯びて、二十三日、モスクワに向かうことになった。

右発表はダンチヒ問題の危機切迫の折柄、

ベルリン政界は勿論、民主主義諸国を唖然たらしめた。



〔ベルリン二十一日発同盟〕   ドイツ政府は二十一日午後十時、

ラジオを通じ独ソ不可侵条約締結決定に関し、左のごとく発表した。

ドイツ政府はソ連側の申し出に基づき独ソ不可侵条約の締結につき

協議中のところ、今般両国間に意見一致を見、条約の成立を見るに至った。

よってリッベントロップ外相は来たる二十三日、

モスクワに赴き同条約の調印を行う予定である。



〔モスクワ二十一日発同盟〕   ソ連政府は二十一日、

タス通信社を通じて独ソ不可侵協定締結決定に関して、左のごとく発表した。

独ソ通商条約成立に続いて、両国間の政治的関係改善の問題が起こった。

本問題に関しては独ソ両国政府はかねて意見の交換を行っていたが、

その結果、独ソ両国は両国政治関係の緊張緩和、戦争の脅威除去

並びに独ソ不可侵条約の締結を希望することが明らかとなった。


リッベントロップ独外相は右条約締結交渉のため

二、三日中にモスクワに到着するはずである。

1938年1月3日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/30 16:49 投稿番号: [2147 / 2250]
一月三日

《 きのう夜七時に、スマイスがフィッチあての報告書を手に

医者の許伝音氏のところからやってきた。


   フィッチ様!

   本日午後四時三十分ごろ、劉培坤は、暴行されそうになった妻を守ろうとして

   日本兵に射殺されました。

   近所の家が日本兵に占領されているため、わが家はいま、

   逃げてきた婦人たちでいっぱいです。



   私はシュペアリング氏に手紙を書き、

   すぐにこちらへきて我々を守って下さるようお願いしました。

   シュペアリング氏の体があかない場合、ここ寧海路五号に、

   だれか他の外国人をさしむけていただけないでしょうか?      敬具

   許伝音



本部に泊まりこんでいるはずのシュペアリングをスマイスが探しに行っている間、

私はマギーといっしょに日本大使館へ行った。

マギーはすでにこの件について詳しい報告を受けていた。

田中氏に軍部に出向いてもらい、この事件を調査するよう要求してもらうのだ。

これは実に計画的で残虐な犯行だ。



  劉の妻がおそわれたのは昨日の朝だった。五人の子どもがいる。

  夫がかけつけ、日本兵の横っ面をはって追い払った。

  午後、朝は丸腰だったその兵士は、今度はピストルを持ってやってきて、

  台所に隠れていた劉をひきずりだした。

  近所の人が必死で命乞いをし、ある者は足もとにひれ伏してすがった。

  だが日本兵は聞き入れなかった。



  田中氏は、ただちに軍部に報告すると約束した。

  私も氏が約束を果たさなかったとは思っていない。だが結局、沙汰やみだ。

  兵士の処罰といえば、いつだってたかだか平手打ちどまり。

  それ以上こらしめたという話を聞いたことがない。



*   >朝は丸腰だったその兵士は、今度はピストルを持って<


   日本兵   (陸軍)   はピストルを持っていない。

   将校は自決用に持っている、が、これは自前。

   だから、弾に予備はあまり無く、かつ軍の弾と合わない。

   よって、無駄に撃てない。

   ピストルを持って来た兵士は、便衣兵の変装ではないだろうか?

1939年8月 ノモンハン事件42 最後の攻勢

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/29 15:24 投稿番号: [2146 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
220〜223p


《 敵の八月攻勢は空前の規模を以て火蓋を切ったのである。

第二課の情報判断で、八月十四、五日頃敵の攻勢があることは、

十分予期していたのであるが、その規模及び兵力は全く不明であった。

まさかあのような大兵力を、外蒙の草原に展開できるものとは夢にも思わなかった。



第二十三師団の陣地を固め、戦力を補充し、重砲と第七師団の一連隊を増強すれば、

十分対抗できるものと信じていたのである。

作戦参謀としての判断に誤りがあったことは、何としても不明の致すところ、

この不明のために散った数千の英霊に対しては、何とも申し訳ない。



敵は八月九日から十日にわたり、川又方面からホルステン河両岸地区の

我が陣地正面に、有力な歩砲兵戦車を以て逆襲し来たり、

我が軍はこれを陣前に迎撃して破摧   (はさい)   し、

敵は約五百の屍体を棄てて退却し、我が方の損害は六十名内外だった。

陣地による戦闘の利益を初めて感じ、自信を以て守備に任じた。

ただしこれは八月攻勢の規模としては余りに小で、

たぶん前哨的偵察戦であろうと判断した。



  八月二十一日朝、次の電報を受領した。

軍参謀長                   第二十三師団長


一、本朝来敵の戦勢頓   (とみ)   に活気を呈し殆んど全正面に亘る戦場に転移せり。

二、ホンジンガンガの北警備軍正面に於ては敵は

   歩、騎兵約千、戦車五十、砲十数門の展開を終り十二時攻撃前進し、

   更に主力を以てガロートコ   (将軍廟西方約四里)   に於て渡河を実施せり。


すなわち師団の最右翼たる満軍騎兵は鎧袖一触されて敗退し、

敵は外翼より将軍廟方面に進出を企図しているようである。



次いで第六軍司令官より、次のような電報を受領した。

  軍司令官宛                   第六軍司令官


   二十日以来の戦況より判断するに第二十三師団正面に現出せる敵の第一線兵力は

   少くも狙撃二師団及機械化部隊にして、

   目下に於ける重点はホルステン河南方地区にあるものの如し。



最右翼を突被せられた前線から、いまやまた最左翼ホルステン河南方に、

敵の重点があるとの報告に接したのである。

これはまさしく全面攻勢である。我が両翼を包囲しようとする敵の兵力は、

到底二師団程度ではなかろう。

第二線兵団を加えると、三〜四師団に達するであろう。

従来の戦況より判断すると、戦車は少なくも四〜五旅団を超える。



第二課の判断は、狙撃二ないし三師団、戦車二ないし三旅団であったが、

現実においては、まさに二倍の兵力と見做さねばならぬ。》



(この後の戦闘は長くなりますので、途中を省略します。)

1938年1月2日蒋介石和平拒絶を命ず

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/29 15:14 投稿番号: [2145 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   261p


《 一月二日、外交部長王寵恵が、

ドイツ大使トラウトマンから対日回答の督促をうけていると報告すると、


「日方所授条件等   於征服   與   滅亡我国、與   其屈服而亡、不如戦敗 而亡之為愈」

(日本側の条件は、わが国を征服して滅亡させるためのものだ。

屈服してほろびるよりは、戦って敗れてほろびたほうがよい)


  蒋介石は、大声で、そう、叫ぶと、王部長に命令した。

「応即厳詞拒絶」 (断乎として拒絶せよ) 》



*   日本は、別に、中国を征服して滅亡させるような条件などつけていない、

   自分で勝手に戦争をしかけておきながら、勝手に滅亡の妄想をしている。

   日本はただ、早く戦争を止めたいだけなのだ。

   しかし、蒋介石は、断固拒絶を命じた。

   蒋介石は、またしても、和平の拒絶を選んでしまった。

1939年8月19日 日英会談、決裂

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/28 18:55 投稿番号: [2144 / 2250]
〔昭和14年8月19日   東京日日〕


日英会談、決裂に直面   英国政府は十八日午後に至り突然、別項のごとく

一方的に現銀、法幣両問題に関する訓令の内容を説明する重大声明を発表し、

現銀、法幣両問題は純粋なる局地的問題と見做すことを得ず。

従って日英両国間のみの基礎において両問題に関し討議を進めても、

なんら有益な成果を挙げ得ない。



と真向うから米仏介入論を振りかざすに至ったので、

英国側がこの不遜なる見解を捨てない限り日英の意見は全く対立し、

この英政府の不信行為によって会談続行不能はもちろん、決裂の危機に直面するに至った。

よって外務当局は十九日午前、陸軍側との間にこれが対策に関し重要協議を遂げた上、

英国政府声明を反駁して、帝国政府の見解を堂々中外に宣布すべき

画期的声明を行うこととなった。


なお有田外相は右に関し同日、平沼首相と会見、都合によって板垣陸相をも加えて、

会談決裂に処するわが最後的措置を決定するものと見られる。(中略)



  英政府の訓令、声明〔ロンドン十八日発同盟〕

  東京で進行中の日英会談が経済問題で難関に逢着したのに対し、

英政府は久しく訓令を出し渋り遷延策に出ていたが、

十七日夜、ついにクレーギー大使に対し現銀および法幣の両問題に関する訓令を発した。



訓令の内容は、英国政府は現銀および通貨の両問題が日英両国外の国家の

利害とも関係あると思惟する故に、

両問題は日英両国間のみの間では討議し得ぬものと見做す旨、

日本政府に通告するよう指令したものといわれる。



〔ロンドン十八日発同盟〕   英政府官辺では十七日夜、

新訓令の内容を説明し、左のごとく声明した。

東京で進行中の日英会談の議題中、治安問題に関してはかなり折衝が進められている。

しかし現銀および通貨問題については、英国政府はこれらの問題が

支那の現情勢に関するいかなる討議からも除外すべきではないことは

常に認めているとはいえ、



結局両問題は純粋に局地的な問題と見做すことは不可能であり、

従って純粋に日英間のみの基礎において両問題に関し討議を進めても、

なんら有益な成果を挙げ得ないとの結論に到達したのである。

もし今後現銀および通貨間題が更に討議されるような場合には、

英政府としては九国条約その他の関係条約に加盟しているすべての国が、

自己の見解を表示する機会を与えらるべきであると主張するであろう。



なお英政府官辺では、英政府は東京会談に関し関係諸国、

特に米仏両国政府と緊密な連絡をとって来たことは認めるが、

今次の訓令発送は独立に決定されたものである旨を強調している。

更に官辺では、英政府は現在訓令の内容を関係諸国へ通牒する手続きを

とっている旨を洩らした。

南京 郭岐が明かした略奪者

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/28 18:45 投稿番号: [2143 / 2250]
ラーベは、略奪は日本軍がやっていて、中国人はかわいそうな被害者だと

思っていますが、実は中国人こそが略奪の犯人だったと郭岐は書いています。



松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   138〜141p


《 ところで、いささか長文になるが、次に重要な文章を引用する。

これこそが   「略奪」   の真相だったと考えられるからである。


〈 十二月十二日の後、城門は大型の荷車が通行できず、汽船の運行も断絶していたのに、

なぜ上海路ではあのように売買がおこなわれたのだろうか。

また商品はどこから来るのだろうか。



これらは   簡単なことであった。一夜のうちに商品はすべて揃い、

選ぶ手間も運ぶ時間も省け、そのうえどれも使えそうな商品ばかりだった。

一般に生計が苦しく度胸がある難民たちは、昼は隠れて

夜活動するというねずみのような生活をしていた。



夜の間は獣兵は難民区の内外を問わず、活動する勇気がなく、

兵隊の居住する地区を守る衛兵がいるだけで、このときが活動の機会となった。

人々は難民区外の大企業、大店舗、大きな邸宅を好きなだけ物色した。

当時、食品会社には食べ物が、妙機会社には日用品が、絹織物問屋には絹織物があった。

だから一晩動くと翌日には手に入らない物はなく色々なものがすべて揃った。

長い間世に出ることのなかった骨董書画、磁器や、馬桶、たんつぼ、箸、

お碗、小皿、電球までもが揃っていて、一つの家庭を作るのも容易なことだった。



半日もかからずにすべて買いそろえることができ、

しかも価格を勝手に決めることができた。

あるときなど、私は銅貨三枚で茶壷を買ったが、帰り際に売っていた人は

「友よ、持って行けよ!」   とでもいうように笑っていた。

真新しい洋服でも、おそらく二元あれば買え、新品のソファーが三元もしなかったし、

狐の皮の長衣が十数元で、これを着て日本兵に仕えて荷物運びをしている者もいた。



一番良い上等のロシア絨毯が数元もしなかったが、惜しむらくは、

それらの書画や古い磁器が獣兵にも多く買われていたことである。

その中には、世に伝わる名品もあり、長い間、世に出てこなかった物もあったが、

今無造作に道端に並べられていた。



ある人が地中から金の碗を二つ掘り出したが、茶碗のように大きく、

表面がとてもきたなかったので、てっきり鋼製だと思い、上海路に並べて売っていた。

注意深い人が、手で持ってみたところ思ったよりも重量感があったので、

表面を少し力を入れてこすってみると、美しい光沢があったので、金ではないかと疑った。

そこで二角で二つの碗を買い取って、鑑識眼のある人に見てもらうと、

本当に金製であったとのことである。



その他にも骨董品の値打ちが分からずにやたらに買った人は多く、

磁器一つとっても、六朝時代、康煕帝時代のものまで多く含まれていた。

しかし、そのとき盗んで売った者も、買って持っている者も何の罪もとがめられなかった。

ただ金陵女子大の黄女史だけが入り口のところに次のように書いて貼っていた。

「略奪品を買って持ち込むべからず」 と。・・・・〉

(②234頁〜235頁)



この文章を読んで、読者は誰が書いたと思ったろうか。

「獣兵」   とあるのは日本兵を意味するのでとまどうかもしれないが、

これは   『資料集②』   に載っている郭岐の手記の一部である。

先に書いたように、彼は南京戦当時、支那軍の指揮官であった。》



注:松村俊夫氏の言う資料集とは、青木書店刊   『南京事件資料集』   の事

   ②は中国関係資料編



*   「それらの書画や古い磁器が獣兵にも多く買われていた」

   つまり、中国人が略奪し売っていた   「書画や古い磁器」   を

   日本兵が買ったと言う事です。

   しかしながら、その買った日本兵は、後世、略奪者と見なされます。

   ひどい事に。

1939年8月11日 英国、犯人引渡しを声明

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/27 18:47 投稿番号: [2142 / 2250]
〔昭和14年8月12日   東京日日〕


〔ロンドン本社特電十二日発〕   英国政府は四人の犯人を

北京臨時政府に引き渡すことを決定した旨正式に発表、

外務省スポークスマンは、

「これはなんら政治的意味を有せず、単なる法律上の手続きに過ぎない」

と説明し、この英国の処置は七月三十日、

日本が提出した新証拠により罪状が明らかになったからだといっている。



しかし政治的意味を持つことは勿論であって、

十日の郭泰祺大使のハリファックス外相訪問もこれに関連していると見られ、

蒋にとっては重大な打撃であることは言をまたない。

英国政府はこのゼスチュアで東京会談の行き詰まりを救わんとしているもののごとく、

引き渡し決定の通知と同時にクレーギー大使に回訓が送られたとみられる。

ただしこの回訓が通貨問題に関して決定的方針を明示しているとは解されず、

会談はなお幾多の曲折を経るものと見られる。



〔ロンドン十一日発同盟〕   英国政府は十一日午後、

日英会談に関しクレーギー大使に訓令を発した旨、次のごとく発表した。

政府はクレーギー駐日大使に対し新訓令を発したが、右訓令は、


一、英国は目下天津英租界に庇護中の四名の支那人容疑者を引き渡すに

   決定した旨、日本政府に通達すること。

一、その他の問題につき、日英会談を再開すべきこと。


を指令したものである。



確聞するに新訓令の内容は相当詳細に亘り、

主として治安、警察問題に関するものであるが、

現銀引き渡し問題並びに法幣問題にも触れているといわれるが、

英国官辺はその見解の発表を避け、

ただ新訓令によって交渉続行の途が開かれるであろうとのみ語っているに過ぎない。


英国政府が暗殺犯人引き渡しを決定した以上、

天津英租界工部局警察は直ちに四名の犯人を現地の支那法院に引き渡すこととなろう。

なお英国政府の右決定は、東京への訓令発出と同時に蒋政権にも通達された。

1938年1月2日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/27 18:38 投稿番号: [2141 / 2250]
一月二日


《本部の隣の家に日本兵が何人も押し入り、

女の人たちが塀を越えてわれわれのところへ逃げてきた。

クレーガーは、防空壕の上からひらりと塀をとび越えた。

塀はひじょうに高いのだが、警官がひとり手伝ってくれたので、私もあとを追おうとした。

ところが二人ともバランスを崩して落ちてしまった。

さいわいかなり太い竹の上だったので、竹が折れただけで、けがをせずにすんだ。

その間にクレーガーは兵たちをとっつかまえた。やつらはあわてふためいて逃げていった。

ただちょっと様子を見にきただけだというのだ!



十日前、銃剣でのどを突かれた近所の奥さんを鼓楼病院に運んだが、

今日ようやく退院が許された。入院費は一日当たり八十セント。

お金がないというので、私がかわりに払った。

日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。

自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で開かれた。

演説者が協力ということばを口にしているそばから、

病院の左右両側で家が数軒焼けた。軍の放火だ。



自治委員会の代表でありかつ紅卍字会のメンバー、孫氏がもったいぶって私にいった。

「ある重要な件につき、近いうちにお話ししたいのですが」

どうぞどうぞ!   とっくに心づもりはできている。

お宅たちがなにを狙ってるのかなんざ、お見通しだよ!



安全区の通りは、あいかわらず見渡すかぎりの人の海だ。

何千というおびただしい人々が道ばたにたたずんでいる。

値段の交渉をしている人もある。

道路の両側には行商人が鈴なりになって、食料品、タバコ、古い衣服を売っている。



だれもが日本の腕章や国旗をつけてとび回っている。

横町や道路の間の空き地には、藁小屋が所せましと建ち並び、難民村ができている。

わが家と同じ光景だ。うちの庭には、もはや草一本生えていない。

美しかった生け垣もあっという間に踏みつぶされ、見る影もなくなった。

なにしろ大人数だ、しかたあるまい。なによりまず生きることが先決なのだ!

昨夜、またしても日本兵の乱暴があいついだ。

スマイスが書きとめ、いつものように抗議書として日本大使館に提出した。



我々がひそかにおそれていたことがついに起こった。

中国の爆撃機がやってきたのだ。といったからといって、けっして友人としてではない。

敵としてだ! かつての日本軍のように、時間どおりに爆弾を落としていく。

だが、いままでのところ、幸いなことにたいていは同じ場所、

つまり南の飛行場かその近くに限られている。



日本の防空部隊が姿を現したが、人数も少なく、いとも手薄だった。

空襲がこのまま安全区の外にとどまるかどうかは、あとになってみないとわからない。

だが、そうであってほしい。

さもないと、いままでよりもっと悲惨なことになるかもしれないのだ。

いまの安全区の混み具合ときたら、日中は上海よりすごい。

そんなところに一発爆弾が落ちたが最後、ものすごい数の人命が失われるのだ。

そう思っただけでぞっとする。》



*   「日本軍の略奪につぐ略奪」・・・「軍の放火だ。」・・・

   「道路の両側には行商人が鈴なりになって、食料品、タバコ、古い衣服を売っている。」


   とラーベは言っているが、おかしいと思わないのだろうか。

   その商人はどこから品物を仕入れたのか?

   実は、彼らこそが略奪の犯人で証拠隠滅のために放火しているとは考えられないのか?

1939年8月 ノモンハン事件41 第六軍の新設

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/26 18:45 投稿番号: [2140 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
218〜220p


《 八月十日、第六軍の編成が命ぜられた。

全満を指揮する関東軍が、いまや西正面の一角に全神経を集中し、

ともすれば全軍の統帥を誤りそうに見える。

第二十三師団長が、全戦場を自ら指揮することは到底その任ではない。

新しい軍の陣容は次の通りであった。



軍司令官   陸軍中将   荻洲立兵

軍参謀長   陸軍少将   藤本鉄熊

高級参謀   陸軍大佐   浜田寿栄雄

作戦主任   陸軍少佐   平井重文

後方主任   同      岩越紳六

情報主任   同      某



荻洲中将はシナ戦線で第十三師団長として戦い、徐州会戦に経験があり、

藤本参謀長は航空出身の逸材であった。

第二十三師団が五月中旬以来、新編の弱体を以て困難な戦場統帥に当たったので、

軍参謀は植田将軍の意志により、

絶えず戦場に交互に出張して師団の戦闘を援助してきたが、

すでに第六軍が編成された以上、関東軍としてはその地位を尊重し、

干渉がましい態度に出ないよう注意を払い、もっぱら連絡の任務に限定された。



八月十三日、新軍司令官は戦場に進出し、将軍廟に司令部を置いて、

次のような報告第一号を打電してきた。


  関東軍司令官宛                 第六軍司令官

一、小職 本十三日戦闘を視察す。将兵志気極めて旺盛なり。

二、敵は連日小規模ながら出撃し、特に砲撃及飛行機による対地攻撃を反復しあり。

三、軍は局部的反撃を避け速に築城及冬営準備を完成し、

   以て其後に於ける攻勢の弾撥力を培養せんとす。



未だ戦場に不慣れの新設軍司令部を以て、

この困難な戦場の指揮に当たらせることは、何としても気の毒である。

勝ち誇った戦場ならばともかく、破れそうな茅屋を、雨漏りのままで

譲ることに限りない責任を感じたのは植田将軍以下全員の気持ちであった。



事件が起きてから、参謀本部の直接責任者たる次長が

まだ一度も満州に来ないことは、不快なことである。

「関東軍は内外二正面作戦をしている」   とまで漏らさざるを得ない状態にあった。

事件が起こってから、第一部長と有末、谷川中佐、島村少佐が、

一、二日出張しただけで、次長も、作戦課長も全く姿を見せない。

植田軍司令官からたびたび次長の来満を希望したものの、ついに拒絶された。》

1938年1月1日 蒋介石の戦争決意

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/26 18:37 投稿番号: [2139 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   261p


《 一九三八年 (昭和十三年) 元日

蒋介石は突然に内閣改造をおこない、自身は行政院長を辞任して、

「抗日戦之指揮」 に専心する旨を言明した。

副院長孔祥煕が行政院長に昇格し、副院長には秘書長張群が転出した。


しかし、改造の主眼は 〝和平派〟 の追放におかれ、

蒋介石は、前述の国防最高会議で和平交渉を提議した交通部長愈飛鵬、

教育部長王世杰を解任し、それぞれ張家○(王+敬)、陳立夫を後任とした。》

1939年8月ノモンハン40 モスクワ武官の意見

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/25 18:44 投稿番号: [2138 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
213〜215p


《 この頃、モスクワの駐在武官より、次のような意見を電報してきた。

その趣旨は軍で考えていたこととほぼ一致するものであった。



軍参謀長宛                   モスクワ武官

外蒙事件に関し、左の如く意見を具申す。

   判決

一、我はハルハ河より適宜離隔せる位置に至短時間に最も堅固なる陣地を構築す。

   又国境監視隊に対しても永久に之を確保し得る如くし、

   敵の回復攻撃企図を放棄せしむるを要す。

二、対国内政策を断行するを要す。



    理由

一、対ソ情勢判断は今日に至るも変化なく、

   ソ軍は益々対日戦備の強化並に外蒙国境の回復に専念すべし。

   即ちソ連当局が屡々声明せる所に鑑みるも特に対外蒙政策、対異民族政策、

   対内政策上より見て、今次事件の政治的意義を重視しあること明かにして

   現在の如き状態を以て推移せんか、

   時に緩急あるべしと雖   (いえど)   も消耗戦はいつまでも続くべし。



   尚張鼓峰事件の全面的勝利を益々大々的に内外に宣伝誇示しつつあるに拘らず、

   今日まで外蒙事件に関し未だ大なる宣伝をなさざるは、

   我が軍の闘志衰えず勝敗不明、しかも戦面拡大の公算絶無に非ざるためにして、

   一度休戦を欲し或は現地より引揚ぐるに於ては張鼓峰事件同様、

   俄然大いに宣伝に転ずるものと判断せらる。



二、果して然らば、現状を以てする消耗戦の続行は迅速の解決を期するを得ず。

   又張鼓峰の如く撤退せんか、彼の最も欲する所にして再び我が足下を見透され、

   且張鼓峰事件に数倍する宣伝効果を挙げしむるのみならず、

   益々我を戦争不可能と誤りて判断せしむるに至るべきを以てなり。



   この際我の採るべき最良の手段は、之以上大規模の消耗戦を避け、

   しかも国境確保に関し確固たる我が決意を示し得る地域毎に、

   堅固なる築城を迅速に設置し敵の蠢動   (しゅんどう)   に対しては

   断固たる一撃を加え得る態勢に於て持久し、

   敵をして遂に我との抗争を断念せしむるにありと判断す。



雲烟   (うんえん)   万里を隔てたモスクワの端から、遠くホロンバイルの空を望んで、

関東軍の善戦健闘を心から祈ってくれている駐在武官の心中は、

どんなに苦しかったであろう。》

1938年1月1日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/25 18:35 投稿番号: [2137 / 2250]
一九三八年一月一日


(前の部分は   日本軍の問題に関係ないので省略します)


《 夜の九時に日本兵がトラックに乗ってやってきて女を出せとわめいた。

戸を開けないでいたらいなくなった。見ていると中学校へむかった。

ここはたえず日本兵におそわれている。

私は庭の見張りをいっそう厳重にして、不寝番に警笛を持たせた。

こうしておけば、いつお越し下さってもすぐに馳せ参じられる。

だが、ありがたいことに、今晩は無事に過ぎた。》



*   既に慰安所を作っているのに、夜中に   「女集め」   に来るか?

   しかも、喚いただけで、サッサといなくなった??


   日本の正月は1月1日だが、中国は旧暦で祝う。

   従って、売春婦の正月休みが西暦の1月1日とは限らない。

   そもそも、今、南京には第16師団しかいないのだから、

   売春婦が足りなくなるほど、多くの兵隊はいない。


   この “日本兵” と見られている者の行為、

   ラーベ達に日本兵を悪く印象づけさせるため、

   わざとやっているとしか見えないのだが。

1939年8月 ノモンハン39 前線と後方の齟齬

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/24 14:34 投稿番号: [2136 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
211〜213p


《 第二課(情報)の判断によると、

八月中旬には敵は攻勢を取るであろうとのことである。

その根拠になったものは、



一、ハルビン機関の特情によると、赤軍本部から政治部宛の電報によれば

   現地司令部の再三の延期要求を斥けて、

   八月五日から十日の間に攻撃を始めよと命じたこと。

二、敵の現地指導官は準備未了を理由とし攻勢開始の延期を申し出たこと。

三、補給困難のため敵は悲鳴を上げている、

   その補給関係者がチタに会合し協議している。



などであり、これらを総合すると、敵の攻勢は八月十四、五日頃だろうとの判断であった。

皮肉なことに、敵の現地指揮官がいつでも弱音を吐いているのに、

後方の司令部は激しい督戦を加えている点で、

これは我が第一線と、東京との関係と全く反対の現象であった。

ノモンハン事件を大規模に積極的に指導したのはクレムリンであり、

これを消極的に退嬰的に収拾しようと焦ったのは東京である。



第二十三師団の、七月二十三日の攻撃が頓挫したとき、

敵の八月攻勢に、どうして備えるかは最も苦心した点である。

この事件は、越冬を覚悟しなければならぬ。

酷寒零下五十度の砂漠に、一万数千の将兵を越冬させることは、

補給上から生易しいものではなかった。



とりあえず、陣地構築材料を豊富に師団に交付し、

約一カ月の持久に耐える弾薬と糧株を集積する。

井戸を掘り給水の準備を整えたり、あるいは冬営の材料を迫送したりする仕事は、

戦闘以上に将兵の重い負担であった。

万一ソ連が全面戦争を決意する場合をも考えて、全般の作戦計画を樹てねばならぬ。

軍司令官が、敵の攻勢に対して最も懸念されたところは、



一、敵が我が右翼フイ高地方面または最左翼方面から

   包囲的に攻勢を取る公算が大きい。

   この際は第二十三師団の陣地を支点として、敵の外翼に向かって逆襲するが、

   万一敵が正面より一地区毎に絶対優勢な兵力で逐次侵蝕する場合、

   現在の兵力で満足し得るか。

二、このために第七師団を増加する必要はないか。

   少なくもハイラル付近まで推進しておく必要はないか。



とのことであった。参謀長も副長も同意見であり、

この心配は事実において、全く的中したのである。

幕僚の考えがこれに及ばないで、

第七師団を平時の計画通り東部正面に備えるために動かしたくない

との考えと共に、後方の補給能力が十分でないことを理由として、

この処置を躊躇したことは、現実において大きな失敗を重ねる原因となった。》

1937年12月30日 和平案ドイツの説得と中国

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/24 14:23 投稿番号: [2135 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   260〜261p


《 駐支大使トラウトマンは、しかし、日本側の勝利を確信しているので、

軍事顧問A・ファルケンハウゼン中将を通じて、中国側説得をこころみることにした。



十二月三十日、大使は中将に中国軍の抗戦能力を質問した。

「適切な軍事措置、国民の戦意高揚、十分な弾薬補給という三要件が

確保されれば、あと六カ月間は戦えるでしょう」

「そりゃ、楽観的すぎると思うね。将軍」



大使によれば、大使は、顧問ファルケンハウゼン中将の言葉から、

中国側も同様の   「自己過信」   をしているとみなし、

「極秘情報」   を提供して、中国側の反省をうながすよう依頼した、という。

だが、顧問ファルケンハウゼン中将による説得工作は、逆効果をうんだだけであった。




戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   466p


《 十二月三十日から翌年一月一日まで、

中国側は最高国防会議   (主席蒋介石、副主席汪兆銘)   を開いた。

この会議でトラウトマン大使がもたらした回答を討議したもようであるが

その結論は明らかでない。


(汪兆銘の回想録によれは、この和平交渉条件受諾を決定したというが、

ドイツ側資料からみて、これは信じ難い)

ただ本会議において、蒋介石が行政院長の職を辞し、

孔祥煕が院長、張群が副院長になることが決定し、元旦の日に正式就任した。》

1939年8月ノモンハン38 敵基地爆撃の許可

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/23 15:27 投稿番号: [2134 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
207〜209p


《 八月七日、次のような電報を受領した。



大陸命第三三六号

   命令

一、関東軍司令官はノモンハン方面作戦のため状況己むを得ざれば

   その航空部隊を以て概ねタムスク付近及その以東に於ける

   敵航空根拠地を爆撃することを得。

二、細項に関しては参謀総長をして指示せしむ。



右の命令と前後して、参謀総長からは、


一、大陸命令第三三六号実施の結果敵が満領内深く爆撃を行うこと

   絶無なりと言うべからず。

   その際に於ても空中爆撃の範囲若しくは、その他を拡大せざることに

   関しては深く留意相成度。



関東軍司令官の名を以て数回にわたり意見を具申し、

参謀長上京して、面   (おもて)   を冒し理を尽くして説明したのに、

軽くあしらって採用しなかった意見が、

若い参謀本部部員が僅かに一両日の戦場視察の結果によって、

陛下の下された命令を根本的に変更する態度こそ、

下剋上の尤   (ゆう)   たるものではなかろうか。


結果的に見れば関東軍司令官に対する信頼が、

一少佐参謀に及ばなかったものとなるではないか。



飛行集団はこの命令によって勇躍したが、当時飛行部隊の疲労ようやく加わり、

実行のためには相当の準備を必要とした、

のみならず天候の関係によって期日が次第に延び、

八月二十一日に至って初めてマタット及びタムスク付近に進攻した。

第一次タムスク爆撃に劣らない兵力で、約九十機撃墜の戦果を挙げたものの、

我もまた十数機を墜とされた。

それは敵の抵抗と準備とが、日を逐うて増大した結果である。》

1937年12月28日 ラーベの日記3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/23 15:18 投稿番号: [2133 / 2250]
《 岡少佐は、トラウトマン大使から私たちのことを頼まれているそうで、

次のように言った。

今南京にいるドイツ人は全部で五人だが、いっしょに暮らしてもらえないか。

そうすればこちらとしても保護しやすい。

もしそれに賛成でない場合は、その旨一筆書いてもらいたい、と。



私はきっぱり言った。

「身の安全ということなら、中国人とおなじでけっこうですよ。

日本軍は中国人を保護すると約束しているんですからね。

もしも中国人を見殺しにするつもりだったら、

トラウトマン大使や他のドイツ人といっしょにさっさとクトウー号で

逃げていましたよ」



岡少佐はいった。「私はあなた方の命を守るように頼まれているんです。

それはともかく、日本兵に持ち物を奪われたり壊されたりしたことが証明できれば、

政府が弁償するか、かわりのものを支給するかします」

それについては、ただ次のように答えるしかなかった。



「南京陥落後の十二月十四日に委員会のメンバー全員で街を見まわりましたが、

ドイツ人の家も持ち物も無事でした。

略奪や放火、強姦、殺人、撲殺、こういうことが始まったのは

日本軍がやってきてからです。誓ってもいいですがね。

同じことはアメリカ人の財産にもいえるんですよ。

舞い戻ってきた中国軍によって略奪された家はもともと多くありませんでしたし、

みんな太平路にありました。

太平路には外国人の家は一軒もありませんでしたからね」



七時半ころ、下士官が一人、私の衛兵といっしょにやってきた。

二人ともがっしりした体格で銃剣をたずさえ、泥だらけの軍靴を履いていた。

おかげで、カーペットがすっかり汚れてしまった。

この二人は私の護衛を命じられているのだそうだ。

すぐにまた外へ出ていって、この雨や雪のなかを歩きまわらなければならない。

外はひどい天気なので、さすがにちょっと気の毒になった。



夜の九時ころ、日本兵が二人、こっそり裏の塀をよじ登っていた。

私が出かけようとしたときには、やつらはすでに食料貯蔵室にもぐりこんでいた。

私は取り押さえようとした。クレーガーには衛兵を呼びにいってもらった。

ところがどうだ、衛兵はドロンをきめこんでいたのだ!

クレーガーが私に知らせにきたときには、

こっちの二人もあわてて塀を乗り越えて逃げだしていた。



*   またもや日本兵の侵入?   もはや第16師団しかいないのだから、

   状況証拠からするとラーベのところに侵入していたのは

   第16師団の兵士か、と言うことになるのだが。さて?

1939年 ノモンハン37 手足を縛られての戦闘

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/22 16:27 投稿番号: [2132 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
205〜206p


《 地上作戦の成果が期待に反して不徹底に終わり、受け太刀となったのに反し、

航空部隊は事件発生以来、偉大な戦果を挙げている。

しかし、脚を縛られて戦わねばならぬ条件は、疲労の累積となり、

消耗の続出となって、すでに六十名近くの精鋭操縦者を失った。

このままで推移したら、将来に恐るべき欠陥を免れない。



地上においては、すでに五千人の死傷を生じている。

これをよそに見て、航空だけを温存することは許されそうにもない。

この不利から脱却するためには、進んで敵機を根拠地に急襲する以外に途はない。

幾度か軍司令官の名を以て中央部に具申したが相手にされなかった。

参謀本部から航空主任谷川中佐が戦場視察のため派遣せられ、次いで島村参謀が出張した。

僅かに一両日の視察の後に、両参謀から参謀総長に具申した意見は次の通りである。



  参謀本部作戦課長宛              島村参謀

一、最早航空戦力の保持上自衛のため外蒙内、敵の航空根拠地に対し

   進攻を行うの止むを得ざるに当面するものと判断す。

二、敵の対日戦意ないしは事件対応方針に関する諸情報に照し、

   事態拡大の危険は従前に比し減少しつつありと考慮す。

三、処理要綱起案後旬日ならずして意見を変更せざるを得ざるの状況に

   直面し自責の念に堪えず。



七月二十九日及び八月二日の両日にわたり、敵機は我が制空の間隙に乗じ、

将軍廟付近の我が飛行場を急襲し、

飛行第十戦隊及び第二十四戦隊は甚大なる損害を蒙り、

関東軍前任高級参謀安倍大佐は第十戦隊長として壮烈なる戦死を遂げた。

あの峻厳な安倍さんの顔が、血に塗れて愛機と共に草原上に横たわった。》


つづく

1937年12月28日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/22 16:19 投稿番号: [2131 / 2250]
宣教師のフォースターからジョージ・フィッチにあてた手紙


《 ジョージヘ!

鳴羊街十七号付近の謝公祠、この大きな寺院の近くに、

中国人の死体がおよそ五十体ある。

元中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。二週間ほど前から放置されている。



もうかなり腐敗が進んでいるので、

できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。

私のところには、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが、

日本当局からの許可なしでは不安らしい。許可がいるのかなあ?

もしそうなら、許可を取ってもらえないだろうか?

よろしく!》



フィッチにあてたフォースターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発でわかる。

この五十体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。

これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。

いったいどうなるのだろう。

このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。



スマイスと私は、日本大使館にいき、福井氏や岡という少佐と二時間話し合った。


つづく

1939年7月27日 日英会談 法幣問題

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/21 18:51 投稿番号: [2130 / 2250]
〔昭和14年7月28日   東京日日〕


二十七日の第四次日英会談は、午前中の討議において

治安警察問題の全項目を一応完了したが、

英国側から将来実施すべき具体的方法のうち二、三の点について

天津の英国側出先当局へ照会すべき必要あるため、

最後的妥結を延期せられたしとの申し出であったため、



この英出先の報告到着を待って、たぶん来週月曜   (三十一日)   あたり

治安問題を再討議して最後の仕上げをなすこととなったため、

その間日程の空白が出来たので、午後四時から再開された会談では、

去る二十四日の第一次会談でわが加藤代表から提示された細目的要求のうち、

経済通貨に関する、



(一)天津英租界において蒋政権の通貨たる法幣の流通を禁ずべし。

(二)天津英租界内にある蒋政権側の現銀をわが方へ引き渡すべし。

(三)北支臨時政府の発券銀行たる連合準備銀行の活動に協力すべし。

(四)天津英租界内にある支那銀行および銭荘の業態検査並びに取り締まりを励行すべし。



の四項目の逐条審議に入ったが、

早くも第一項目の法幣流通禁止について日英の見解が食い違い、

加藤、クレーギー、ハーバート三代表の間で論戦を重ねたが、

解決点を見出ださず会談は相当難航を続け、

前途は坐礁のおそれなしと断言出来ぬ状態に立ち至ったまま、

同午後六時三十分散会、双方議を練った上で二十八日は午前十時より

第五次会談を開いて、法幣流通禁止問題の討議を続行することとなった。



しかしてわが方は、有田・クレーギーの原則協定に準拠し、

蒋介石政権の貨幣たる法幣が流通しているのは害我利敵の具体的現れであるから、

これが禁止は当然の処置であると主張したのに対して、



英国側は、昭和十年、リースロス氏を支那に派遣して幣制改革をなさしめ、

ついに現行の法幣による幣制を確立した直後、

蒋介石政権へ英国が協力する意思表示として発布された

一九三五年九月五日付の勅令   (オーダー・イン・カウンシル)   に、

「在支英国人の支払勘定は法幣をもって行うべし」   との

主旨の明文があることを楯にとって   わが方の要求を肯んぜず、



もし北支の現実の事態を認識するとしてこの勅令に除外例を設けるとしても、

英本国枢密院の議を経なければならぬと国内法改革の困難を主張し、

強硬態度を堅持して譲らぬため、会談は第一項目に引っかかって

難航を告げるに至ったものであるが、

わが方においては幣制改革当時とは一変した支那における現実の事態を

英国が真に認識したならば、法幣   (支那政府の法定通貨)   の意義に

ついても変更を認めざるを得ぬわけで、



法幣必ずしも蒋政権の通貨たることを意味せず、

現に北支に樹立せられたる新政権の法定通貨たる連銀券制度を確立し、

これをもって法幣   (蒋政権通貨)   に代うべしとの断乎たる決意と、

経済的実力をもって善処しつつある事実を指摘して、英国側の猛省を促している。

1937年12月28日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/21 18:42 投稿番号: [2129 / 2250]
  十二月二十八日


《 あいもかわらず、放火がくりかえされる!

まるで重い病いにでもかかっているようだ。

おそるおそる時計の針に目をやるが、針は遅々として進まない。

難民はだれしも新年のお祝いを恐れている。

酔ったいきおいで、日本兵がますます乱暴を働くにきまっているからだ。

慰めようとするが、いまひとつ力がこもらない。

それはそうだろう、そういう我々自身、信じていないのだから!



誰だか知らないが、今日が登録の最終日だといううわさを広めた人がいるらしい。

そのため何万人もの人が登録所につめかけた。

安全区の道路は人で埋まり、歩くこともできない。

私はドイツ国旗のおかげでかろうじて前へ進める。

ここではハーケンクロイツのついた私の車を知らない者はない。



なんとかして道をあけようとして、ぶつかり、押し合いへし合いしている。

そのわずかな隙間に滑りこみつつ、ようやく目的地に着いた。

私が通ったとたん、あっというまに元通り埋まってしまう。

休憩時間にでもあたったら、ここから抜け出すのは並大抵のことではないだろう。



今日、ほうぼうから新たな報告が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。

こうして文字にするのさえ、ためらわれるほどだ。

難民はいくつかの学校に収容されている。

登録前、元兵士がまぎれていたら申し出るように、との通告があった。

保護してやるという約束だった。

ただ、労働班に組み入れたいだけだ、と。何人か進み出た。



ある所では、五十人くらいだったという。彼らはただちに連れ去られた。

生きのびた人の話によると、空き家に連れていかれ、

貴重品を奪われたあと素裸にされ、五人ずつ縛られた。

それから日本兵は中庭で大きな薪に火をつけ、

一組ずつひきずり出して銃剣で刺したあと、生きたまま火の中に投げこんだというのだ。

そのうちの十人が逃げのびて塀を飛び越え、群衆の中にまぎれこんだ。

人々は喜んで服をくれたという。



これと同じ内容の報告が三方面からあった。

もう一つの例。これはさっきのより人数が多い。

こちらは古代の墓地跡で突き殺されたらしい。

ベイツはいまこれについて詳しく調べている。

ただ、いざ報告するときには、誰から聞いたか分からないよう、

よくよく気をつけなければならない。

知らせてきた人にもしものことがあったら大変だ。》



*   掃蕩作戦は既に終了している。第7連隊はもういない。

   「五人ずつ縛って、銃剣で刺し、火の中に投げ込む」   と言うが、

   5人縛られたままで倒れた者達を、どうやって火に投げられるのだ?

   一人を動かそうとしたら、つながっている他の四人が邪魔になって動かせない。

   ロープを切ったら、そのロープは短くなって、次には使えなくなる。



   また、五人ずつ縛られていて、どうやって塀を乗り越えられる?

   三方面から、同じ内容の報告という事は、攪乱工作による、デマ宣伝の可能性大。


   清国の官憲が   「中国人の訴えを信用するな」   と言った事が想起される。

1939年7月26日 米、日米通商航海条約廃棄

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/20 18:56 投稿番号: [2128 / 2250]
〔昭和14年7月28日   東京朝日(夕刊)〕   新事態に即応、と米が一方的に通告


〔ワシントン特電二十六日発至急報〕

アメリカ国務省では一九一一年締結の日米通商航海条約を廃棄する旨、

二十六日午後十時(日本時間二十七日正午)発表した。



〔ワシントン特電二十六日発〕   上院外交委員会は二十六日、ヴァンデンバーグ決議案

(一九一一年の日米通商条約破棄並びにブラッセル会議再開に関するもの)   を審議、

なんらの決定に至らず散会したが、

政府としては同日、右決議案が可決されることを期待していたもののごとく、

失望の色が窺われた。

しかし国務長官は同日昼、大統領と協議を遂げて居り、

その決定に基づいて委員会の態度いかんに拘わらず条約破棄を発表せるものである。



対日通牒全文   〔ワシントン二十六日発同盟〕

セイヤー国務次官補は二十六日午後、

国務省に須磨参事官の来訪を求め、

一九一一年の日米通商航海条約を廃棄する旨、

ハル長官より堀内大使に宛てた通牒を手交したが、

通牒全文、左の通り。



閣下、最近数年間アメリカ政府は、

アメリカと他国間に存在する通商航海条約に関し、

右条約が締結された目的をよりよく達成するには

いかなる変更が必要であるかを決定することを目標として検討を加えつつあった。

右検討中アメリカ政府は、千九百十一年二月二十一日、

ワシントンで調印された日米通商航海条約は

新たなる考慮を要する条項を包含しているとの結論に到達した。



かかる考慮への途を開き、

かつ新事態の発生に即応してアメリカの権益を擁護しかつ助長するため、

アメリカ政府は該条約第十七条に規定された手続きに従い、

ここに本条約の期限終結を希望する旨を通告する。

しかしてかかる通告がなされた以上、

本条約及び附属議定書とともに本日より六箇月以後に満期となるものと期待する。


ここに閣下が余の最高の敬意の新たなる保証を受けられんことを希望す。


*   米国の日本に対する嫌がらせは、既に始まっている。

1937年12月27日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/20 18:47 投稿番号: [2127 / 2250]
  十二月二十七日

《・・・

鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五カ所も銃剣で刺されている。

金陵中学の難民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、

そのうちの一人だという。

この元兵士たちは、射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。

目下この方法が取られている。

さもないと、我々外国人が機関銃の音に耳をそばだてて、

なにかあったのか、とうるさいからだ。



今日、張と韓が、新街口   (ポツダム広場)   に日中合弁商店ができて、

ありとあらゆる食料品が買えると知らせに来た。

私は韓といっしょに確かめに行った。

そして はからずも、この建物に放火する現場を目撃したのだ!

日本軍はこの街を破壊しようというのか!》



*   日中合弁の店を日本軍が何のために放火しなければならないのか?

   自分で金を出して、作って、自分で放火?

   意味ないだろう。

   なぜ、日本軍の放火と決めつける。


   こういう事をするのは、中国人が日本軍と仲良くするのを好まない、

   便衣兵のしわざとは、考えないのか?

   こういう、攪乱工作をする者がいるから、間違って処刑される市民が出てくる。

   すべての責任は便衣を着た潜伏兵にある。

   そして、彼らを匿ったラーベ達に。

1939年7月24日 日英会談 現地問題交渉

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/19 19:00 投稿番号: [2126 / 2250]
〔昭和14年7月25日   大阪毎日(夕刊)〕   日本側、六項目の要求   −   現地問題交渉


第二段階に入った日英会談の第一回局地会談は、

二十四日午前九時から裏霞ヶ関の外務次官官舎で開始された。

会議場はかつて日ソ両国代表の間に北鉄移譲交渉が行われた歴史的大広間である。



これより先、クレーギ英国大使は八時五十分、外相官邸に有田外相をたずねて

局地会談の順序その他について打ち合わせた後、車を連ねて会議場へ到着、

日本側   有田外相、加藤公使、田中領事、青木、朝海両東亜局事務官、

寺岡欧亜局事務官、与謝野三等書記官、武藤少将、河村大佐。

英国側   クレーギ大使、ハーバート領事、ピゴット駐在武官、ゴアブース二等書記官、

ブレーン二等書記官、アレン三等書記官、マックレー商務官。



の両国代表の顔が揃うや、有田外相は立って加藤代表はじめ日本側の

参列諸員を順次紹介し、ついでクレーギ大使も同様英国側代表を紹介した後、

打ち揃ってカメラに収まり、有田外相は退席、外務省に登庁したが、

日英両代表は加藤=クレーギ、武藤=ハーバート、田中=ピゴットの各氏が

それぞれ向かいあって着席し、卓を囲んで会談に入った。



まず日本側より公用語として日本語を採用したき旨を提案し、

これに対し英国側は日英両国語を併用したき旨を申し出たのでこれを容れた後、

加藤公使起って天津に範囲を局限した具体的諸問題に関し日本語で総括的説明を試み、

天津における現下の事態解決のため必要なる六項目の細目要求、すなわち、



(一)程錫庚氏暗殺犯人を日本側に引き渡すこと、

(二)英国租界内における反日テロに関する日英共同捜査ならびに共同取り締まり、

(三)英国租界における抗日ならびに支那新政権反対分子の策動に対する徹底的取り締まり、

(四)英国租界における法幣の流通禁止ならびに現銀引き渡し、

(五)北支における経済撹乱行為の一掃並びに経済協力、

(六)新支那政権との協力。



に関しわが軍の治安維持上の必要を強調しつつ一般論を行い、

朝海東亜局事務官がこれを英訳した。

これに対し英国側はクレーギ大使より同様概論的な回答があり、

これをプレーン二等書記官が邦訳した後、

加藤公使は英国側の疑問とする点につき二、三補足説明を与えた。



会談は前哨戦の程度であったが、英国側は大体においてわが方の立場を諒解し、

第一次会談に関する限り交渉は順調に進捗したが、

同十一時二十五分、昼食のためいったん休憩、

両国代表はそれぞれ会場を引き揚げ対策を協議した後、午後四時より会談を続行した。

1937年12月27日 中国 日本の和平案検討

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/19 18:48 投稿番号: [2125 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   259〜260p


《 十二月二十七日、蒋介石が国防最高会議を招集して、

日本側提案を討議の対象にすると、

意外にもとにかく交渉すべきだと主張する者が、いた。

交通部長愈飛鵬、教育部長王世杰らである。

そして、会議後、交通部長愈飛鵬は大使トラウトマンを訪ねた。



「中国としては、日本の条件をうけいれるべきでしょうか。

大使閣下のご意見をうかがいたい」

「残念ながら、本使はその種の意見をのべる立場におりません」

「それでは、結局、貴国のお力で停戦にもちこむことはできないのでしょうか」



交通部長愈飛鵬は、大使トラウトマンの明答を得られぬまま、肩をおとして帰っていった。

蒋介石は、憤然とした。

「今日除投降無和平、捨抗戦外無生存、彼等実昧於大勢、不知国家利害、

此革命之所以未能成功、一至於此也」

(いまや降伏以外には和平はなく、抗戦する以外に生存の道はない。

彼らは世界の大勢にくらく国家の利害も知らない。

革命が成就できないゆえんは、まさにここにある)



蒋介石は、ソ連の援助をもとめる決心をかため、立法院長孫科にモスクワ行を指示した。

行政院副院長孔祥煕は、ドイツ商社   『HAPRO』   代表H・クラインをまねいて、述べた。

「(日本との)   和平交渉開始の努力が成功しなければ、

国民政府は、たとえわが国が経済的に破綻しようとも、

また、たとえわが国民をソ連の腕の中におしやろうとも、

最後まで抗戦するつもりです」



H・クラインから通報をうけた外務次官H・マケンゼンは、駐支大使トラウトマンに、

ソ連との接近強化は中独関係を改変させる旨を中国側につたえるよう、指示した。

同時に、次官マケンゼンは、駐日大使ディルクセンにも、

中国の赤化は防共協定にそぐわない、

不満があっても日中関係を正常化して中国の赤化を防止すべきだと

日本政府に勧告せよ、と訓令した。

駐日大使ディルクセンは、その程度の勧告で日本側の考え方を変えられるものでもない、

と思ったので、とっさには行動しなかった。》



*   蒋介石は

   「いまや降伏以外には和平はなく、抗戦以外に生存の道はない。」   と言った。

   何を妄想しているのか?   日本は、そんな要求をしていないではないか。

   彼らが、勝手に妄想を抱いて、解決を不可能にしているだけ。

   もともと、戦争を仕掛けたのは中国。

   日本は大幅に譲歩した和平案を出していた。

   それを蒋介石が蹴って戦争を続けたから、こうなったのだ。

   なぜ、自分たちの非を悟らないのか。

1939年7月24日 日英会談で援蒋根絶を確認

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/18 18:56 投稿番号: [2124 / 2250]
〔昭和14年7月25日   東京日日〕


天津事件の背景をなす一般問題に関する有田・クレーギー会談は、

去る十五日以来回を重ねること四回、

余人を交えぬ両氏だけの折衝を行うことまさに十時間半、

ついに二十二日深更、原則的諒解の成立を見るに至り、

東京においては二十四日午後十時、外務省より

右に関する帝国政府声明(外務省発表)を左のごとく公表した。



一方ロンドンにおいてはチェンバレン首相が同日午後三時   (日本時間午後十一時)、

英国議会下院で同趣旨の声明を正式発表したが、

その内容は事変以来英国がわが国力を見縊   (みくび) り

蒋政権の抗戦力を過信した結果、執拗な反日援蒋政策を続けていた認識不足を是正し、



現在支那において日本が一大聖戦に従事しつつある事態を認識し、

この事態において皇軍はその生存上並びに治安維持上当然の要求を有することを

自発的に認め、これと協力を誓ったもので、

大英帝国がその老檜なる極東政策の画期的転換のやむなきに至ったことを告白した、

事実上の対日詫び証文ともいうべきものである。



この帝国道義外交の成功はわが官民が挙国一致、

霞ヶ関に全幅の支持を捧げてかち得たもので、

ここに事変下における政治日本の力量を顕現したものとして特筆すべきであろう。



帝国政府声明   (外務省発表二十四日午後十時)

帝国外務大臣と在京英国大使との間に七月十五日以来

行われ来たりたる会談の結果として、左の声明発せらる。



英国政府は大規模の戦闘行為進行中なる支那における現実の事態を完全に承認し、

またかかる状態が存続する限り支那における日本軍が自己の安全を確保し、

かつその勢力下にある地域における治安を維持するため特殊の要求を有すること、

並びに日本軍を害し、またはその敵を利するがごときいっさいの行為

及び原因を排除するの要あることを認識す。



英国政府は日本軍において前記目的を達成するに当り、

これが妨碍   (ぼうがい)   となるべきなんらの行為または措置を是認するの意思を有せず。

この機会においてかかる行為及び措置を控制すべき旨、

在支英国官憲及び英国国民に明示し、以って右政策を確認すべし。



〝誤解一掃同意〟、英首相声明〔ロンドン本社特電二十四日発〕

チェンバレン英首相は二十四日の下院において日英東京協定に関し、

左のごとく述べた。



日本政府は日英間の誤解が解かれるためには、まず天津問題の根底をなすべき背景を

英国が承認することが必要であるとの見解を述べたが、

これは英国の対支政策になんら関係を有するものにあらず、

ただ事実に対する問題であった。

戦闘行為は現に支那において大規模に進行中で、

日本軍は占領地域の秩序を維持するため自身の治安措置をとった。

それ故、これらの事柄に僻見を抱かれないよう措置を講ずることを必要とした。

英国はこの定則に対し討議の明朗な方法として同意した。(後略)

1937年12月26日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/18 18:44 投稿番号: [2123 / 2250]
《・・・・

安全区の二十万もの人々の食糧事情はだんだん厳しくなってきた。

米はあと一週間しかもたないだろうとスマイスはいっているが、

私はそれほど悲観的には見ていない。

米を探して安全区にまわしてくれるよう、何度も軍当局に申請しているのだが、

なしのつぶてだ。



日本軍は、中国人を安全区から出して、家に帰らせようとしている。

そのくせいつ汽車や船で上海にいけるようになるのかと聞いても、

肩をすくめるだけだ。

「それは当方にもわかりません。川には水雷がばらまかれているので、

定期的に船を出すのはとうてい無理でしょうな」


・・・・・


ミス・ミニ・ヴォートリン。

実はこの人について個人的にはあまりよく知らないのだが、

アメリカ人で、金陵女子文理学院の教授らしい。

大変きまじめな女性で、自分の大学に男性の難民を収容するときいて、

びっくり仰天して反対したそうだ。

最終的には、男女別々のフロアにするからという条件で承諾した。



ところで、この人に恐ろしい事件が起こった!

彼女は自分が庇護する娘たちを信じて、

めんどりがひなを抱くようにして大切に守っていた。

日本兵の横暴がとくにひどかったころ、私はミニをじかに見たことがある。

四百人近くの女性難民の先頭に立って収容所になっている大学につれていくところだった。



さて、日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうというとんでもないことを思いついた。

何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、

ミニは両手を組み合わせて見ていた。一人だって引き渡すもんですか。

それくらいならこの場で死んだほうがましだわ。



ところが、そこへ唖然とするようなことが起きた。

我々がよく知っている、上品な紅卍字会のメンバーが

(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いも寄らなかったが)、

なみいる娘たちに二言三言やさしく話しかけた。

すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。

売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのを

ちっとも苦にしていないようだった。ミニは言葉を失った。》



*   「川には水雷がばらまかれているので、・・・」   これは事実。

   海軍による揚子江掃海・障害物除去作業は昭和十三年四月まで続いている。


*   「日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうという」

   いわゆる、 「戦時慰安婦」   はこの時始まったようだ。

   ここで明らかなように、これは強制でも連行でもない、

   売春婦を雇って働かせるシステムだった。


   これを悪と言う者は、ソ連や米軍のように強姦しまくりが良いと言うのだろうか。

   人間は、性欲を持った動物。

   性欲を持たない機械ならいざ知らず、性欲で充満している人間に、

   慰安所計画を非難する資格はない。

1939年7月23日 日英代表、原則諒解で署名

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/17 18:52 投稿番号: [2122 / 2250]
この日   天津租界封鎖問題について、日英会談で原則的に話がつきました。


〔昭和14年7月23日   東京朝日〕


世界環視の   裡(うら)   に一時は難航を伝えられたさしもの有田・クレーギー会談も、

二十一日の第三次会談に到って形勢一変、

ついに英国側の譲歩によって日英両国代表間に

今次天津問題の背景をなす一般問題に関し原則的諒解が成立し、

二十二日   続開された第四次会談においては国内手続きを終了して、

両国政府の形式的確認を持ち寄るのみとなった。



よって帝国政府は二十二日午前九時五分より臨時閣議を開いて、

二十一日の第三次会談において有田外相とクレーギー大使の間に成立した諒解事項を討議、

これを正式決定し、平沼首相より上奏御裁可を仰ぎ、我が方の国内手続きは全く完了した。



一方クレーギー大使は第三次会談が終了するや、

直ちに本国政府に対し最終的訓令を仰ぎ、ひたすら回訓の到着を待っていたが、

二十二日午後九時に到って待望の訓令が英国大使館に到着、

十時半、その翻訳を終えたので、日英間に第四次会談の開始時間を打ち合わせ、

午後十一時五分より外相官邸に有田・クレーギー第四次会談を開始、



天津問題の背景をなす一般諸問題に関し

日英両国に円満成立した諒解事項の正式の覚書を交換し、右諒解事項の確認をなした上、

有田外相並びにクレーギー大使は覚書に署名をなして、

ここに内外の視聴を集めた有田・クレーギー会談は円満妥結を見、

同十一時五十分終了した。



しかして日英両国政府が確認した諒解事項の内容に関しては、

日英両国代表の協議によって発表形式を帝国政府声明並びに英国政府声明と決定、

東京並びにロンドンに於いて二十四日午後十時   (ロンドンは同日午後三時)、

同時声明の形式を以って発表することとなった。



  覚書全文   二十二日午後十二時、

外相官邸において有田外相・クレーギー駐日英大使間で署名を了した覚書全文、左のごとし。


  英国政府は大規模なる戦闘行為の行われている支那における現実の事態を確認し、

  かつ右事態が存続する限り支那における日本軍がその安全を確保し、

  かつ治安を維持するため特殊の要求を有することを認め、また日本軍を害し、

  または支那側を利するがごとき行為を排除するの要あることを認識す。

  英国政府は日本軍が如上の目的を達成するに当り、

  これが妨害となるべきいっさいの行為及び措置を排除し、

  かつ在支英国官憲及び英国国民にこれを明示し、右政策を確認せしむべし。


(以下略)

1937年12月26日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/17 18:44 投稿番号: [2121 / 2250]
十二月二十六日   十七時


《 素晴らしいクリスマスプレゼントをもらったぞ。夢のようだ!

なんたって六百人をこす人々の命なのだから。

新しくできた日本軍の委員会がやってきて、登録のために難民を調べ始めた。

男は一人一人呼び出された。全員がきちんと整列しなければならない。

女と子どもは左、男は右。ものすごい数の人だった。

しかし、すべてうまくいった。だれひとり連れていかれずにすんだ。



隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかったというのに。

元中国兵という疑いで処刑されるのだという。

わが家の難民はだれもがほっとした。私は心から神に感謝した。

いま、日本兵が四人、庭で良民証を作っている。

今日中には終わらないだろうが、そんなことはどうでもいい。

将校が決定した以上、もうひっぱられる心配はないのだから。



葉巻とジーメンスのカレンダーを担当の将校に渡したとき、

百子亭にある家からもうもうと煙が上がってきた。

庭は灰の雨だ。藁小屋は大丈夫だろうか。

いくぶん考え深げにその様子を眺めながら、その将校はフランス語であっけらかんと言った。

「わが軍にも、なかには粗暴なやつがいましてね」



そう、なかには、ね。

昨日は日本兵が押し入ってこなかった。この二週間ではじめてのことだ。

やっといくらか落ちついてきたのではないだろうか。ここの登録は昼に終わった。

しかも後からこっそりもぐりこませた二十人の新入りにも気前よく良民証が与えられた。



使用人の劉と劉の子どもが、病気になったので、

鼓楼病院のウィルソン先生のところに連れていった。

トリマー先生が病気で、いまはこのウィルソン先生一人で病院を切り盛りしている。

先生から、新しい患者を見せられた。

若い娘を世話できなかったという理由で撃たれた中年婦人だ。

下腹部を銃弾がかすめており、手のひら三つぶんくらいの肉がもぎとられている。

助かるかどうかわからないという話だ。



安全区本部でも登録が行われた。担当は菊池氏だ。

この人は寛容なので我々一同とても好意を持っている。

安全区の他の区域から、何百人かずつ、追いたてられるようにして登録所へ連れてこられた。



今までにすでに二万人が連行されたという。

一部は強制労働にまわされたが、残りは処刑されるという。

なんというむごいことを……。我々はただ黙って肩をすくめるしかない。

くやしいが、しょせん無力なのだ。》



*   「隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかった…。

   元中国兵という疑いで処刑されるのだ。」   とあるが、

   1月4日の   『ニューヨーク・タイムズ』   には

  「元支那軍将校が避難民のなかに   大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」

   という記事があり、記事では   「恐らく処刑されるであろう。」   と書かれていた。

   その将校らの潜伏先は、金陵女子大学だった。

   中学と女子大では違うだろうが、この処刑は関連ないのか?

東トルキスタンからの手紙4

投稿者: ornithologist99 投稿日時: 2012/12/16 23:46 投稿番号: [2120 / 2250]
このような報道は、日本のマスコミは一言もいいませんし、新聞、雑誌に載ることもめったにないと思います。一人でも多くの方に、この真実を知らせていただければ、この国の運命も、日本の運命も変わるかもしれません。あなたのその一言が世界の未来を変えていくことになるかもしれません。私たちに出来ることは、もうそんなに残されていませんが、出来る限りの努力はしたいと思っているのです。どうかこの話を、日本の皆さんに知っていただきたいと、心より願っています。そして、アジアの平和と世界の平和を心より願いたいと思います。>東トルキスタンを愛する女性より
ほぼ、原文のまま引用
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