入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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中国、国際連盟に日本を提訴
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/05 19:00 投稿番号: [42 / 2250]
( 紀伊国屋書店発売 『 近代日本戦争史第3編
満州事変・支那事変 』
奥村房太
監修
河野収
編集
同台経済懇談会刊行 ) 300p
には
九月十二日、中国は、正式に事変を国際聯盟に提訴した。
聯盟はこの問題を諮問委員会に付託した。
とあり、
( 戦史叢書 『 支那事変
陸軍作戦1 』 311p )
には
中国が正式に事変を国際連盟に提訴したのは九月十二日で、翌日から第十八回国際連盟総会が開かれた。
とあります。
何と言う事でしょうか。
自分の方から、戦争を仕掛けておきながら、臆面もなく、「 侵略された 」 と訴えているのです。
これまでの流れで明らかなように、日本は 「 戦争を避け、話し合いで解決を」 とやっていたのです。
それを踏みにじって、無理やり戦争をしかけたのは中国の方です。
我々、日本人は、やっていなくても 「 相手がああ言っているのだから、取り敢えず謝っておこう。
それで相手の気が済むなら 」 とやりますが、
中国人の場合は、まったく逆で、自分が加害者のくせに、平然と被害者をよそおって、
本当の被害者を加害者に仕立てて、訴えるのです。
上陸した陸軍は、進撃どころか、大量の中国軍に苦戦し、大変な被害を出している最中です。
そして、追加の三ケ師団は9月10日に動員が下命されたばかりで、当分来れません。
日本人殺し放題のときに、侵略されてるとホザいているのです。
上海にいる、外国人は実情を知っていますが、遠くのヨーロッパや米国にいる人には分かりません。
だから中国が、「 強い日本が弱い中国をいじめている 」 と訴えれば信じてしまいます。
こうやって、「 日本悪者 」 宣伝工作が着々と進んで行くわけです。
なお、日本は、
これより先九月二日、臨時閣議で 「北支事変」 を 「支那事変」 に改称しました。
これは、戦争が北支だけでなく、中支に拡大したため、「北支事変」 では不都合になったからです。
そして、上海の苦境打開のため、追加の三ケ師団の動員が九月十日に下命されました。
この時点で、石原第一部長の支那事変に対する、作戦構想は破綻しますので、
石原少将は第一部長の職の辞任を申し出ました。
当然、後任は強硬派 ( 侵略主義者という意味ではありません ) ということになります。
石原少将は戦争を避けようとして、和平を模索したのですが、その思いは中国には通じませんでした。
これは メッセージ 41 (kireigotowadame さん)への返信です.
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上陸部隊にコレラ発生
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/04 18:46 投稿番号: [41 / 2250]
陸軍上陸部隊は大量の敵になやまされていましたが、もう一つ別の敵がいました。
それはコレラです。
以下は『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』より
不運はもう一つ重なった。
それは食糧不足の第11師団の20名がコレラにかかったとのしらせである。( 59p )
9月10日の日、コレラの原因が、クリークの水を飲んだためと判明。
コレラ患者は青島から2日に呉淞錨地に到着した天谷支隊に多い。
患者数は百名で、死者30名を出した。
松井は軍医部長に患者の感染地を消毒させる。( 62〜63p )
10日午後、日高信六郎南京大使館の参事官が司令部のある水産学校を訪れ、松井と会談した。
松井は日高に 「 何とか水を運んできてほしい 」 と頼む。水不足は予想外のことだった。
それに、コレラ保菌者も多く、このままでは戦意にかかわる。その後もコレラ患者は増え、
第三師団でも十二日の時点で、三十名の患者を出し、うち四名が死亡していた。
コレラ患者はその後も増えつづけ、二十日、藤田部隊片山支隊にも発生する。
二十一日には患者数三百余名、死亡者九十名に及ぶ。しかし、病院が不足して患者の隔離に苦悩した。
給水船を操って飲料水を運んだのは、上海の岡田酉次ら武官府だった。
岡田は『日中戦争裏方記』の中で、当時の給水船とコレラ患者のようすを、こう記している。
「八月二十五日ごろには、無数の日本軍輸送船が呉淞沖に到着していたが、
敵の妨害で砲弾の補給準備にもこと欠き、ましてや一般軍需の揚陸などは見込みさえ立て得ない。
そのうえやっと岸辺に取りついた部隊からは、不幸にも伝染病患者まで発生し、
惨状見るに忍びざる苦戦を繰り返した。
そこで、せっかく、武官府であらかじめ準備した軍需品 ( 医薬品を含む ) を、
黄浦江を下って揚子江本流への出口にあたる呉淞鎮付近までいかに補給するかが、
武官府に課せられた声なき至上命令となった。
さいわい暗夜を利用して敵の抑留から引き出してきた数隻の小艇に、鉄板で防弾装置をほどこし、
敵弾雨下の中を運航してやっと上陸し、水際に平伏している兵隊から歓呼して迎えられたのである 」
水上補給に使用した艇は、三井物産上海支店所属の 「 梅丸 」 が主力で、
三井物産上海支店の梶山幹六 ( のちに宇徳運輸社長 ) の決死行動で、
何度も上海と上陸地点との間を往復している。
江岸水際にて上陸兵と共に夜を徹したことも少なくなかった。
上陸部隊がやっと大場鎮に達したころ、部隊の中からコレラ患者が多発しだした。
当時なお上陸部隊では、これが治療薬剤にもこと欠き、
いたずらに患者を敷ワラの上に横臥せしめるのみで、ほどこすすべも持たない有様であった。
また、重傷患者の手術をしようにも、消毒薬や麻酔薬が揚陸できない窮状で、
部隊付軍医による医薬品の現地入手が、人道問題とまで考えられてきた。
( 63〜64p )
これは メッセージ 40 (kireigotowadame さん)への返信です.
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陸軍増派に関する陸海軍の交渉
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/03 19:11 投稿番号: [40 / 2250]
陸軍は上陸したけど、あまりの数の少なさに苦戦しているので増派を要請しました。
戦史叢書 『 支那事変
陸軍作戦1 』 294〜295p )
には
(
注:陸軍戦史叢書 『 支那事変1 』 という本の題名は正確ではありませんでしたので、
以後、戦史叢書 『 支那事変
陸軍作戦1 』 に変えます。)
《
二十四日、中央部は、臨参命第七十八号により、
独立重砲兵第二・第三大隊及び独立攻城重砲兵隊を動員派遣した。
三十日、軍令部福留第一課長は上司の命を受け、参謀本部武藤第三課長を訪ねて、
上海に陸軍部隊を増派し速やかに敵を撃破するよう交渉した。
・・・
翌三十一日、石原第一部長は軍令部の近藤信竹第一部長を訪ね、次のような申し入れを行った。
上海方面には兵力をつぎ込んでも戦況の打開は困難である。・・・
陸軍統帥部としては、何かのきっかけがあれは、なるべく速やかに平和に進みたく、
ついては平和条件を公明正大な領土的野心のないものに決めておきたい。
・・・
九月一日、近藤第一部長は石原部長に対し上海増派を督促した。
これに対し、石原部長は次のように回答した。
対ソ戦準備及び兵団の編制装備上、上海方面の作戦に適する兵力はない。・・・
なるべく速やかに講和をしたい。・・・しかしせっかくの要望であるので更に研究する。》
とあります。石原部長は、
「なるべく速やかに講和をしたい」
「条件を領土的野心のないものに」 といっていたのです。
世間でいう侵略戦争とは大違いですね。
日本人の危機にも関わらず、兵を出し渋っていますが、そうも言っておられなくなりました。
(同上296〜297p) の注1 には
《陸軍中央部内においても、上海方面の兵力が過少であるとして、作戦部を非難する声が相当に強かった。
石原作戦部長は、増兵しても焼け石に水だからと言って容易に同意せず、・・・頑張っていた。
しかし上海方面の悲惨な戦況を打開する必要があるので、ついに増兵に同意せざるをえなくなった。》
とあります。かくて
《九月一日、第五次動員として、かねてから準備中の第百一師団、独立工兵第十一聯隊(丁)、
野戦高射砲隊(甲)一隊などに対する動員が下命された。
(同上295p)
九月六日午前、軍令部総長は海軍の用兵について奏上した際、
「上海の陸上戦闘は遅々として進まず、陸軍兵力の増強が必要である」 旨を上奏した。
よって、直ちに参謀総長を召された。参謀総長は、参謀本部で検討ののち、十五時参内し、
「上海に、第九・第十三・第百一師団及び台湾守備隊を増派することに内定、
後備歩兵四コ大隊を派遣」 する旨上奏した。
九月七日、台湾軍の台湾守備隊を応急動員により、・・・重藤支隊として上海付近に派遣すべき命令が出された。
これと同時に、臨参命第九十六号をもって、北支那方面軍から、後備歩兵一〇コ大隊、
同砲兵二コ中隊、同工兵二コ中隊、野戦重砲兵第十聯隊の一大隊、高射砲隊(乙)五隊を
上海に転用する命令が下達された。》
(同上296p)
しかし、石原部長はまだ頑張ります。
《九月十日、石原部長は、第一部各課長に対し次のように意図を示した。
(1)
上海派遣軍は増兵されても任務は変わりない。南京の攻略戦は実施しない。
(2)
上海に一撃を加えたのちは二〜三コ師団をもって上海周辺を占拠させ、じ余は満州に転用する。》
(同上297p)
です。
これは メッセージ 39 (kireigotowadame さん)への返信です.
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膠着状態の上海戦線
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/02 18:33 投稿番号: [39 / 2250]
陸軍は呉淞と川沙口に上陸しましたが、敵に対して人数が少なすぎて犠牲がでます。
以下は井本熊男著 『 支那事変作戦日誌 』 芙蓉書房出版 150〜152p よりの引用です。
《 第三師団の先遣隊は、上陸後全面に数線の敵陣地があって、戦況は激しさを加えるのみで、
なかなか進まない。
第十一師団先遣隊は、上陸後約五日間で約六キロ南方の羅店鎮を占領したので、
戦況は有利に進捗するかに見えたが、
それから後約一ケ月の間、主力が到着加入しても戦線は膠着してほとんど動かず、
かえって敵の攻勢に対応するのに苦労する戦況であった。
その後第三師団方面は、ウースン・クリーク以北においては九月九日までに上陸江岸から
僅かに約三キロ前進して、宝山城からその西方を南北に走る泗塘クリークの西岸に進出した。
ウースン・クリーク以南においては、兵站部隊が黄浦江岸から二キロの泗塘クリークの線に進出した。
上海共同租界に近い黄浦江岸には、始め第三師団の飯田支隊 ( 歩兵一大隊 ) が
上陸したが、支隊長は間もなく戦死した。
次いで同師団の片山支隊 ( 歩兵第五旅団長、片山少将の率いる歩兵四大隊基幹 ) は
飯田支隊 ( 支隊長戦死 ) を併せ指揮して
九月十三日、江湾正面に進出して近く敵陣地と相対した。
この線は、黄浦江岸から僅かに四キロばかり前進した位置である。
九月二十八日、片山支隊は第百一師団の谷川支隊と交代して第三師団主力に復帰したが、
以後十月二十五日まで谷川支隊はその位置から動くことはできなかった。
すなわち我方は、江湾の敵陣地の前に、二ケ月間膠着していたのである。
海軍陸戦隊は共同租界の周囲にへばりついたまま、上海戦の最後まで動くことができなかった。
第三師団主力は九月十七日までに、前記九月九日の位置から右翼方面は約六キロ、
左翼方面は約四キロ前進した。一日四百メートル乃至は百メートルの前進である。
連続不断の激闘で、一面の敵陣地を、一枚一枚鱗を剥ぐように奪取しての前進であった。
第十一師団の天谷支隊は、大連に上陸することなく、八月下旬青島東方の洋上で
待機させられていたが、青島上陸は行わないことに決定せられたため、九月一日の大命で上海に向った。
同支隊は九月四、五日頃呉淞に上陸し、師団主力に復帰するため、宝山城附近を経て前進中、
九月七、八日頃月浦鎮周辺において、頑強に抵抗する数線の敵陣を攻撃して多大の損害を出しつつ、
九月十七日、羅店鎮東南地区において第十一師団主力の左翼に近く進出した
( 後に軍作戦主任参謀西原大佐の言によれば、
天谷支隊は上海上陸後十日間に三千四百名の兵力が九百名となった )。
その他第三、第十一師団主力においても、右九月十七日までの戦闘において莫大な損害を出した。
上海の陣地攻撃間に、この両師団の歩兵は当初出征したものは殆ど全部死傷し、補充員によって置き換えられた程であった。
これは日露戦争後、経験のない大損耗であった。
筆者の同期生で、中隊長として参戦した八名は、全員この戦闘で戦死した。》
結局、人数が少なすぎたために、とんでもない犠牲を出したわけです。
これは メッセージ 38 (kireigotowadame さん)への返信です.
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公大飛行場の確保
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/01 18:51 投稿番号: [38 / 2250]
日本海軍は楊樹浦 (ヤンジッポ) の東の方に公大飛行場を建設中でしたが、
中国軍の攻撃を受けてなかなか進みませんでした。
そこで、陸軍の一部を上海に回してもらって陸軍部隊と協力して、
周囲の敵を排除することにしました。
《 九月上旬我が東部支隊右翼隊は陸軍部隊の前進に呼応して、
キュウ江碼頭及び付近地域に対し単独作戦中であった。
付近に公大航空基地を建設中であったが、
敵陣地からの銃砲火にさらされ、航空機の進出が困難であった。
このため陸軍飯田支隊 ( 飯田七郎歩兵少佐の指揮する歩兵一コ大隊基幹 ) が主として
同方面の攻撃に当たることとなり、海軍側は東部支隊、火砲によりこれに協力することとなった。
陸軍中村中隊 ( 飯田支隊の先遣隊 ) の乗艦する 「 栂 」 は六日
02:00
上海発、
下江し同03:05
キュウ江碼頭に横付けし陸兵揚陸を開始した。
ところが同倉庫によっていた敵から頑強な抵抗を受けたため、一たん揚陸を中止、
「栂」は横付けを離し、「 刈萱、安宅、堅田、夕月、芙蓉、勢多 」 などの掩護艦と共に、
夜明けまで同倉庫付近を猛撃制圧し、07:30
碼頭下流江岸に揚陸を完了させた後、
午後戦死傷者を収容し上海に帰投した。
なお旗艦出雲も六日
03:50
上海発、主砲 ( 二十糎 ( センチ ) 砲 ) をもって本上陸掩護射撃に
加入の上、08:00
上海に帰着した。
かくて上陸した飯田支隊は滬江大学から進撃し、何家宅以南の軍工路の線に進出して
八日ほぼその目的を達成したが、
九日未明の戦闘で飯田支隊長以下幹部多数が戦死するに至った。》
( 海軍戦史叢書『中国方面海軍作戦〈1〉』397〜398p )
《 9月10日
事変勃発当初、周水子基地 ( 大連 ) で陸軍部隊の北支海上輸送警戒に従事していた第二聯合航空隊は、
上海方面への急速な進出が望まれていたが、同方面陸上基地は未整備であった。
しかし陸軍部隊上海派兵の結果、かねて建設中であった公大基地の使用が可能となり、
同隊は九月十日この基地に進出した。
公大基地は元来ゴルフ場を急速造成したもので、同隊進出直後、天候不良のため滑走路がどろだらけとなり、
昼夜兼行の修理にもかかわらず、最初の一〇日間に九六式艦戦約一一機が発着の際大中破した。
また敵機の来襲もしばしばであったが、おおむね夜間攻撃で我に被害なく、付近敵陣地からの砲撃もその都度反撃した。
この一〇日間が実に第二聯合航空隊にとり最大の危機であった。》
( 同上402〜403p )
いままで、上海方面には、陸上に飛行機基地を持たず、航空母艦から小さな複葉機を飛ばすか、
済州島や台湾から、96式陸攻を飛ばすしか出来ませんでした。
だから、南京へは済州島から空襲に向かっていたのですが、公大基地が確保できたお陰で、
陸上から艦上機で、南京やその他、遠くの敵基地を攻撃する事が可能になりました。
これは メッセージ 37 (kireigotowadame さん)への返信です.
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鉄壁の布陣で待ち構える中国軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/31 18:09 投稿番号: [37 / 2250]
陸軍は何とか上陸はしましたが、非常に苦戦します。
敵は鉄壁の布陣で待ち構えていたからです。
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』早瀬利之著には
54pに
この両師団の上陸は、ドイツ軍事顧問の指導で構築された中国軍のトーチカからの抵抗に苦戦した
中国軍側の配備は、上海北側地区に三十万、浦東に二万、上海西部地区に十万、北翼羅店鎮に十八万の最精鋭中国軍が、トーチカなどで陣地を造っていた(55p)
馮玉祥総指揮の下に、張治中の十万、のちに台湾の国民党の台湾主席となる陳誠が指揮する十八万、張発奎指揮の二万と判明する。
空軍の飛行機はほとんどがソ連製の飛行機だった。トーチカなどに構築された高射砲はドイツ製。
機関銃はチェコ。それにアメリカ製のカービン銃が見つかる。(57p)
第十一師団の長勇参謀が旗艦「由良」に帰ったさい、羅店鎮の正面に中国軍は約二万人、
さらに嘉定方面より増援があり、近々、第十一師団に反撃してくる姿勢がうかがえると報告がある。
・・・
中国軍は呉淞砲台、商船学校付近から西方の大金家村付近に及ぶ線を守っている。
指揮官は陳誠で、兵の数約十五、六師団であることが判明する。
日本軍の一師団と、ドイツ顧問団に指導された十五、六師団との睨み合いである。(58p)
とあります。
とんでもない大軍と堅固なトーチカ、優れた外国製の武器が待ち構えていたのです。
これにたった二個師団で太刀打ちできるはずがありません。
かつ敵は地の利を活かしています。
十一師団が上陸した辺りの稲の中には身を伏せて待ち伏せし、日本軍を狙撃したり、
また飛行機に連絡するなど、訓練された中国兵に苦戦する。
軍の参謀、下坂正男歩兵中佐が狙撃されたのは、稲の中からの中国軍による。
このときの十一師団の損害は、二十三、二十四日の二日間だけで、下坂参謀以下戦死十五名、負傷兵五十余名に及ぶ。(55p)
難敵は縦横に走るクリーク(川)である。橋は落とされていて、日本軍は前進できずにいる。(60p)
とあるのです。しかし敵は前だけではありません。後ろにもいました。
松井は、少なくとも五師団は必要と思い、第三艦隊長官と川越大使に通報(58p)
9月10日の朝、参謀本部からの電報が届いた。その電報は松井をびっくりさせるものだった。
電文は「新たに第九、第十三、第百一師団を一時的に増加するが、十月までに二師団だけ残し、
他の主力を北方に転用する予定」という内容のものである。
この朝の松井の無念さが、日記の行間に読みとれる。
「遅くも十月末までに二師団(うち一つは特設師団)だけ残し、主力を北方に転用する予定なりと知り吃驚せり。
かくのごとくして軍の攻撃ははなはだ不徹底となり、敵軍攻撃の半途にしてこれを打ち切り、
上海北方に小さく二コ師団をもって防守せんなどはとうてい上海確保、人民安護の所以(ゆえん) にあらず。
かつ皇軍の威信を傷つくること絶大なりと考えられ、憂慮に禁ぜず。」
(61〜62p)
兵隊をほとんど増やさず、増やしても一時的で、すぐよそに回すというのです。
石原参謀本部第一部長は、ソ連が参戦してきたら困るから、その防備に必要
という考えで、対中国戦は、あまり重要視していなかったのです。
こんな状態で、中国侵略などと言われるのですから、困ったものです。
これは メッセージ 36 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国軍機、米汽船に爆弾投下
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/30 18:27 投稿番号: [36 / 2250]
中国空軍機は、またも盲爆、今度はアメリカの汽船に爆弾を投下しました
以下は新聞記事です。
〔昭和12年8月31日
大阪毎日〕
〔上海三十日発同盟〕
支那軍飛行機一機は三十日午後五時頃、呉淞 ( ウースン) 港外に仮泊中の
ダラー汽船プレジデント・フーヴァー号に爆弾を投下、一弾は船体に命中し、
外人客ならびに船員に負傷者を出した模様である。
〔上海三十日発同盟〕
三十日午後七時半、P・フーブァー号より帝国海軍への公信によれば、
爆弾は当時上空飛行中の支那飛行機より投下され、フーヴァー号の舷側で炸裂したものである。
当時附近一帯の近距離にあった日本軍艦〇〇と〇〇の二隻は、直ちに支那飛行機に対し
猛烈に高角砲を発射し、これを撃退するとともに救援のためフーヴァー号に近づき、
乗組員二名を同船に派遣、救護に当らしめんと申し出でたが、フーヴァー号は日本海軍の
好意ある態度に深甚なる謝意を表するとともに、被害軽微のため日本側の救護申し入れを辞退した。
わが機、爆撃の一機を撃墜〔上海本社特電三十日発〕
(三十日午後十時第○艦隊報道班発表)
三十日午後五時三十分頃、軍艦〇〇の〇〇機二機は揚子江口のライト・シップ附近にて、
米国ダラー汽船プレジデント・フーヴァー号を爆撃せる支那空軍の
カーチス・ホークス機三機を認め、これを追撃、その一機を撃墜せり。
このころ、上陸した陸軍は少ない人数で大敵を相手にし苦戦していました。
これは メッセージ 35 (kireigotowadame さん)への返信です.
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各地で居留民引き揚げ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/29 19:32 投稿番号: [35 / 2250]
中国の他の地域でも不穏な情勢になってきましたので、居留民に引き上げ命令が出ました。
以下は新聞の記事です。
★
青島居留民に正式引き揚げ命令
〔昭和12年8月28日
大阪毎日(夕刊)〕
〔青島本社特電二十七日発〕
外務省よりの青島在留民正式引き揚げ命令は二十六日深更、総領事館に到着したので、
二十七日早朝、大鷹総領事は正式引き揚げ命令を民団参事会に申し渡し、
また同九時から第一小学校で開催した居留民会が発表した。
これによって約三千三百名の居留民と済南避難民約百名は本月末までに大連または
内地に引き揚げ、日独戦争以来の総引き揚げが行われることになった。
しかし青島および済南の両総領事館員、税関、市政府、鉄道、電信局の日本人役員は最後まで残るのである。(中略)
邦人財産、支那側で保障〔青島二十七日発同盟〕
引き揚げ後における邦人財産保護に関しては、
二十六日以来大鷹総領事と沈鴻烈市長および市政府当局との間に交渉が進められていたが、
二十七日朝にいたり両者の間に完全なる諒解が成立、支那側は全責任をもって邦人財産保護にあたることを確約した。
★
廈門の総領事館も閉鎖、全員引き揚げ
〔昭和12年8月30日
大阪毎日〕
廈門(アモイ) における邦人の危険なる状態が報道されているので、
海軍省は二十九日午前十一時、廈門の状況に関し左の副官談を発表した。
(海軍省副官談)
南支方面において従来比較的平静なりし廈門は、去る二十七日、
第百五十七師の一団侵入し廈門要港司令、同参謀長を監禁し、支那海軍陸戦隊の武装解除を行い
砲台、兵営などを占領し、果敢に抗日気勢をあげた結果、形勢とみに不安を加え、
加うるに同夜、支那便衣隊は帝国総領事館を包囲し形勢不穏となったため、
二十八日、所在帝国官憲は在留邦人残留員全部の引き揚げを決し、帝国海軍部隊警戒のうちに総領事館を閉鎖し、
邦人全部を長沙丸に収容し、軍艦〇〇および〇〇駆逐隊護
衛のもとに無事引き揚げを終わった。
★
香港も抗日気分強まり、婦女子引き揚げ
〔昭和12年9月4日
中外商業(夕刊)〕
三日、水沢香港総領事より外務省に到着した報告によれば、
わが空軍の広東爆撃以来香港の邦人に対する空気は俄然悪化し、
ために七日香港出港の郵船浅間丸で取り敢えず邦人婦女子百名を引き揚げさせることに決定した。
すなわち二日午後一時半ごろ、湾仔にある邦人経営浜田洋行に支那人五百名押し寄せ口々に、
「日本人を焼き殺せ」とわめき立てて暴行を働き、政庁より警官多数急行してようやく事なきを得た。
また同日、一邦人が内地引き揚げのために家財をまとめ苦力 (クーリー) に運ばせたところ、
その苦力は「日本人のために仕事をした漢奸だ」と仲間から罵られ袋叩きにあうなど、
邦人に対する人気は極度に険悪となってしまった。
最近支那人が日本人と誤られ殴打されたことが再三あり、八月三十一日には川田商店事件があったので、
水沢総領事は総引き揚げを決意するに至ったものである。
なお香港は英国領なるため支那の他地方と異なり、わが総領事が引き揚げ命令を出す訳に行かず、
各自自由に帰国という形式を取っている訳で、残留邦人千二百名は旅館千歳館と小学校及び
台湾銀行社宅に集まり引き揚げ待機の姿勢にあり、近く全面的引き揚げのやむなきに至る形勢である。
よく、中国人や善良な日本人は、日本兵が中国人を虐殺したと言いますが、日本国内で中国人が大量虐殺されたという話はききません。
日本人が残虐なら、日本本土でこそ、起こるべきと思うのですが。
逆に中国で日本人が虐殺されているのですね。
だから、逃げ出してるわけです。
駐日中国大使館参事官揚雲竹以下一部の館員は昭和13年6月11日まで在留していました。(陸軍戦史叢書『支那事変1』479p)
これは メッセージ 32 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: こんにちは
投稿者: chromists 投稿日時: 2009/05/28 22:00 投稿番号: [34 / 2250]
kireigotowadameさま
こんにちは
読んでいただきましてありがとうございます。
ただ、私の言わんとするところへのご意見をいただけなかったのは
残念です。
今後の貴方の話の展開に注目しています。
これは メッセージ 33 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: こんにちは
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/28 21:03 投稿番号: [33 / 2250]
>中共軍と戦った私の伯父の話でこんなことを
聞いたことがありました。死んだ中共兵士のキンタマを切り取って口に
咥えさせた・・・と。残忍極まりない行為です。それだけ中共兵士が
憎かったのでしょうか。<
すみませーん。
南京戦には中共軍は参加していないんですけど。
それから、殺した死体の陰部を切り取ったり・加工したりするのは中国軍の伝統なんですけど。
我々、日本人は、それを残忍と目をそむけますけど、
中国人は、楽しんでやっているみたいですよ。
1928年5月の済南事件でも
中国軍が日本人居留民を虐殺したとき
やっています。
▽
藤井小次郎(土産物商)=頭及び顔の皮を剥がれ、眼球摘出。内蔵露出。
陰茎切断
▽
井上国太郎(雑貨商)
=顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。上膊部に刺創。
左股に貫通銃創。
▽
東条弥太郎(土産物商)=両手を縛られて地上をひきずられた形跡。頭骨破砕。
小脳露出。眼球突出。
▽
同妻
きん
=両腕を紐帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。
肋骨切損。
陰部に棒を差し込まれていた。
▽
宮本
直八(土産物商)=胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による切創
陰茎切除。
▽
多比良貞一(土産物商)=頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創。
腹部を切り裂かれて小腸露出。
▽
中里重太郎(土産物商)=顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創
▽
高熊
うめ
=肋骨切損。右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱落。
右足の白足袋で婦人と判明した。
また、通州事件でも
《錦水楼と云ふ旅館は凄惨でありました。
同所は危険を感じた日本人が集まったものの如く大量虐殺を受けておりました。
錦水楼の女主人や女中等は数珠繋ぎにされ、手足を縛られたまま強姦され、遂に斬首されたと云ふ事でした》
《男は目玉をくり抜かれ、上半身は蜂の巣の様でありました》
《南城門の近くに一日本人の商店があり、そこの主人らしき者が引っ張りだされ
殺された屍体が路上に放置されてありました。これは腹部の骨が露出し、内蔵が散乱しておりました》
《旭軒と云ふ飲食店に入りますと、そこに居りました七〜八名の女は全部裸体にされ、
強姦射(刺)殺されて居りまして、陰部に箒を押し込んである物、口中に土砂を填めてあるもの、
腹部を縦に割ってあるもの等、見るに耐えませんでした》
《東門近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せて、
それに八番鉄線を通し(貫通)、一家六名数珠繋ぎにして引廻された形跡、
歴然たる死体がありました。
池の水は血で赤く染まって居たのを目撃しました》
なお済南事件の時、
英紙「デイリー・テレグラフ」は「支那人は略奪と殺人を天賦の権利であるごとく、暴行を繰り返している」
と書いています。
そのおじさんが本当にやったかどうかは知りませんが、その行為の原型は中国軍にあるのですよ。
これは メッセージ 31 (chromists さん)への返信です.
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捕虜の扱い
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/28 19:16 投稿番号: [32 / 2250]
よく通説では、日本は宣戦布告していないから、支那事変を正規の戦争とみなしていない。
従って、捕まえた敵の兵を捕虜とみなさない。
だから、片っぱしから、殺した、という話になっていますが、
ここ、上海では、必ずしもそうではないようです。
上陸作戦の露払いをした、海軍陸戦隊の竹下部隊は、20名近い中国軍将兵を捕まえています。
( 北博昭著『日中開戦』61p ) (8月23日の話)
その写真は
毎日新聞社刊『不許可写真1 』の24pに載っています。(8月23日づけで)
また、塚本誠氏の『ある情報将校の記録』204pには
浦東(プートン) 方面からの砲撃も激しく、一迫撃砲弾は目の前の俘虜収容所になっている
寺に命中したが軽傷者二名ですんだ。( 8月18日の話 )
とありますから、捕虜収容所はキチンと作られていたようです。
また、塚本氏は
楊樹浦地区には電気・瓦斯会社等が多く、これに各国の権益がいり混っていた。
この地帯に対し中国軍は砲、爆撃を加えてくるのであった。
私はまずわが警備地域に残留している中国人を蘇州河以南へ移すことに努力する。
それは残留中国人が日本人からスパイや便衣隊に疑われて迫害をうけた例が第一次上海事変当時に多かったからである。
現に戦闘開始後憲兵隊には陸戦隊から毎日二十名近くの中国人が疑いをかけられて送り込まれる。
すぐ放置するわけにもいかぬから、それを一応調べた上で工部局警察に引き渡す。
無辜の民を捕えておくことはできない。
(『ある情報将校の記録』203p )
と書いています。
彼の行動は、一般に言われているところの、残虐な日本軍とは、正反対のようです。
優しい、通州事件の処理と同じ傾向にあります。
そして、北博昭著『日中開戦』66〜67pには
昭和十二年九月末ごろに陸軍は上海の楊樹浦の眉州に俘虜の収容所を設けて
中国軍の士官一名、准士官二名、下士官二名、兵一八名を収容中、
国際赤十字社のドワットヴィユへ報告されているともあります。
これが、上海租界内の捕虜取扱いの現状のようです。
これは メッセージ 30 (kireigotowadame さん)への返信です.
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こんにちは
投稿者: chromists 投稿日時: 2009/05/28 01:22 投稿番号: [31 / 2250]
rdupwatch さん、こんにちは。
せっかくrdupwatch さんが日中の人々の間に立って、”南京事件”の
歴史認識の違いを議論して、相互理解を少しでも深めようとしている
のに、議論になるような意見が出てこないのは大変残念なことです。
日本においては、”南京事件”の規模や残忍さについて専門家・研究者の
間で大きく見解が異なり、残念ながら日本国民の間でも歴史認識の一致が
されていません。
私の意見ですが、”南京事件”は大変残忍で日本人にとって恥じるべき
行為と認識しています。中共軍と戦った私の伯父の話でこんなことを
聞いたことがありました。死んだ中共兵士のキンタマを切り取って口に
咥えさせた・・・と。残忍極まりない行為です。それだけ中共兵士が
憎かったのでしょうか。殺すか殺されるかの戦争で究極に追い詰められた
人間はどんな行為でも犯してしまうものなのでしょうか。
戦争の経験のない私には分かりません。
現在の日本人は”戦争”そのものを否定しています。
アメリカから落とされ、一瞬にして20万人近くの国民の命を奪った
原爆・水爆の怖さを知っているからです。
戦争は二度と起こさない、戦争の残忍さ・惨たらしさを自分も含め
子供たちの世代にも味わせたくないと日本人は強く心に決めています。
日本人はいつしか原爆・水爆を投下したアメリカへの憎しみが消え、
戦争の怖さだけが記憶に残るようになりました。
日本は島国であるため、ほとんどの日本人は外国人に興味を示し、
好意を持ちます。特にかつて敵国だったアメリカやヨーロッパの国々
からは、戦後多くの文化を学んだこともあって、中でもアメリカと
日本とは現在切っても切れない信頼できる良好なパートナーシップを
築くに至っています。
愚かな戦争を起こさないという共通の認識を日中両国民が強く持つ
ことこそが、真の日中両国の有効関係を築く早道と考えます。
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諸外国の不自然な対応
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/27 18:43 投稿番号: [30 / 2250]
8月23日に中国軍機が上海南京路を無差別爆撃したにも関わらず、
この日、諸外国は日本の方に文句をつけてきました。
海軍戦史叢書352〜353pには
《 二十三日夜、米国大使は米英仏独伊各国大使を代表して日本政府に、
南京市内に非爆撃地域を設定したい旨申し入れてきた。
これは南京の漢西門から新街口サークルを経て、北極関城壁に沿い 揚子江岸鉄道連絡桟橋
及び下関(其の前面の揚子江を含む)三サ(さんずい+叉)河から漢西門に至る区域内の爆撃を禁止するものであった。》
(注
下関:シャーカン)
とあります。しかし、南京は無防備都市ではなく軍事都市なのです。
海軍戦史叢書352pには
《二十四日
11:00、戸塚指揮官は軍令部から、「敵空軍南京に集中せり」との情報を受け、
13:00、木更津部隊に本日薄暮時を期し南京飛行場の飛行機を撃滅せよ、と命じ、…
木更津部隊中攻六機は18:00済州島発、21:30南京大校場飛行場を爆撃、避退針路を南にとり全機帰着した。
本空襲においては敵の対空照射裡に飛行場を発見爆撃し、敵機多数に火災を発生させ、
一面火の海となったのを確認、その間敵戦闘機数機と空戦し、その一機を撃墜した。
月夜ではあったとはいえ、敵機の夜間攻撃が盛んであったのは陸攻のエンジン排気の火炎が
攻撃目標となったものと認められ、急速改善の要求が起こった。》
とあります。日本軍はあくまでも敵軍の飛行場を攻撃しただけです。
しかし、27日以降、南京爆撃は当分行わないことにしました。
( 注
中攻とは九六式陸上攻撃機のこと、陸攻も同じ )
また、同23日に米国のハル国務長官は次のように声明しました。
〔昭和12年8月25日
東京朝日(夕刊)〕より
《 平和に関する米国政府の主張綱領は、先月十七日付列国に通達した声明書に明らかで、
戦闘状態の存在は当事国のみならず世界列国の関心事である。
吾人は日支両国が単に米国民のみならず世界多数の国民が是とする主義綱領によって、
その利害の一致を解決せんことを希望する。
その主義綱領のうちにはワシントン会議の諸条約及びケロッグ不戦条約の主義、精神が含まれている。
今回の日支両国間の紛争開始以来、吾人は日支両国が敵対行動を避け、平和の手段でこれを解決するよう希望して来た。
吾人は在留米人保護の任に当たるとともに、吾人がしばしば声明した諸方策、
殊に平和に関する政策の効力を発揮せんことを希望するものである。》
と
この声明では、日中両国とも戦争ではなく、平和的手段で解決をと、
恰も中立の立場でものを言っているようですが、これは不自然です。
ケロッグ不戦条約と言われても、日本はずっと平和的手段で解決しようとしたのです。
中国が、無理やり戦争を仕掛けたから、仕方なく自衛してるだけです。
加害者の中国を非難せずして、両者お互いに、と言われても、
被害者の日本にはどうしようもありません。 話が無茶です。
結局、この声明は、加害者の中国に味方してるだけにしかなりません。
また、東京裁判での松井証言に次のようなものもあります。
《日本軍が呉淞砲台を攻撃している最中に、フランスの軍艦が故意に日本軍の中を通過し、
日本軍の攻撃を妨害した事実がある。
この軍艦は上海の港内にいたのに、日本軍の呉淞攻撃中に、
上海港内から出て揚子江の方に出て来たのである。》
( 富士信夫著 『「 南京大虐殺 」 はこうして作られた 』 展転社203p )
と。
日本は“自分は正しい”と思っていますから、別に大した工作はしていませんが、
その間に、中国は着々と工作を進めているようです。
これは メッセージ 29 (kireigotowadame さん)への返信です.
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敵前上陸
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/26 18:49 投稿番号: [29 / 2250]
その様子は、児島襄著『日中戦争4』84pでは
《上海では、いぜんとして激戦がつづいていた。
兵力の少ない海軍陸戦隊は、文字どおりに不眠不休の防戦を強制されて苦戦したが、
その戦いぶりはすさまじく、包囲して攻撃をくり返す中国軍・第九集団軍は攻めあぐんだ。
上海派遣軍の第三、第十一師団の先遣隊が軍艦で到着したのは、八月二十二日である。
第三師団は、呉淞鎮に、第十一師団はその西北約十五キロの川沙鎮に上陸する。
呉淞鎮の場合、これまでに上海に増派されていた
竹下宜豊少佐指揮の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊約五百人と
第三師団派出の歩兵一個中隊と機銃、工兵各一個小隊、計約六百七十人が、
事前に呉淞港岸壁を占領して、上陸部隊を援護することになっていた。
竹下部隊は、糧食二日ぶんを持ち、白タスキをかけ、合言葉を第三師団の原駐地にちなんだ
「尾張」「名古屋」にきめ、輸送船三隻に分乗して、八月二十三日午前零時三十分、上海埠頭を出発した。
竹下部隊は、午前三時十五分、護衛駆逐艦の援護砲撃ののちに輸送船を岸壁に横付けして上陸し、》
とあり、
阿羅健一著『日中戦争はドイツが仕組んだ』98〜99pには
《江岸には水際鉄条網、岸壁には地雷と竹矢来。その上、岸壁に積んだ土嚢と、
構内にある建物と、軍工路の先の塹壕の陰で、中国軍が日本軍を待ちうけていた。
輸送船が接岸すると同時に、中国軍の機関銃が集中し、上陸する前から犠牲者が続出した。
軍工路の先、上流の水産学校、下流の呉淞砲台からは砲撃も来る。
接岸と同時に特別陸戦隊と岐阜第六十八連隊第五中隊が上陸する。
竹下宜豊少佐が指揮する横須賀鎮守府第一特別陸戦隊は約五百人、
岐阜第六十八連隊第五中隊は機銃、工兵各一個小隊とで約百六十人、合わせて約六百七十人。
・・・
上陸すると、地雷が日本軍の進撃を阻んだ。
発光弾が打ち上げられ、砲弾が炸裂するたびに、日本軍が暗闇に浮かびあがって中国軍にその姿をさらけだす。そこに中国軍からの銃弾が集中する。
・・・
日本の駆逐艦も水産学校や呉淞砲台に向け照射砲撃し、一帯は双方の銃砲撃で騒然となり、轟音は止むことなく響いた。
陸戦隊は左翼、第五中隊は右翼となって進んだ。日本軍が銃剣を手に斬りこむと、
中国軍は手榴弾で応じた。・・・
白兵戦は、さらに二時間以上も続いた。
中国軍も、一つの散兵壕で十数人全員が枕を並べて戦死するほど果敢に戦った。
午前五時四十分、とうとう上陸掩護部隊は鉄道桟橋を確保した。》
とあります。
竹下部隊は29名の戦死者と35名の負傷者を出し、午後上海へ引き上げました。
( 北博昭著『日中開戦』60〜61p )
なお、川沙鎮の上陸に際しては、中国軍機による襲撃をうけています。
23日09:35
敵機6機が来襲したが被害はなかった。(海軍戦史叢書366p)
23日は川沙口泊地に敵機の来襲三回あり。(海軍戦史叢書367p)
そして、この日、中国軍機は、またも上海市街を爆撃しました。
8月23日、支那軍機、国際租界を空爆。一つはハミルトンホテルの裏に、
一つは、シンシア・コーズ・エンポリウムの上に落ちて死者215名、負傷者558名を出した。
( 東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』334p )
中国の飛行機は国際租界を爆撃し、この時にはシンシアデパートとウィンオンデパートに被害を与えた。
( K・カール・カワカミ著『シナ大陸の真相』255〜256p )
とあります。
そして、その惨状の写真は、毎日新聞社刊『不許可写真1 』の10頁にあります。
( 注: シンシア=先施公司、ウィンオン=永安公司 )
これは メッセージ 28 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/29.html
ソ連が中国に加担する
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/25 19:42 投稿番号: [28 / 2250]
毎日新聞社刊『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』の22pに
「8/21
南京で中ソ不可侵条約、大量の武器供与」
とあります。
また、武器供与の具体的内容については田中正明著 『 東京裁判とは何か 』 267pにあります。
《 この時期ソ連は、「 日華戦争開始後は、この戦争をできるだけ長引かせることに全力をつくした 」
とダリン( David J. Dallin )はその著 『 ソ連と極東 』 の中で次のように述べている。
「 ソ連の対華援助は、西安事件後の秘密条項を含む不可侵条約によって、
直ちに飛行機四、五百機と同数の操縦士および教官を送り、ソ連士官が中国軍に配備された。
チェレバノフ将軍を長とする軍事使節団は、中国に滞在していた。
三八年から四〇年までの間に、ソ連は中国に三億ドルの借款を与えて、
戦車、飛行機その他の軍需品を中国に送った》
と、
そして陸軍戦史叢書『支那事変1』310〜311pには
《 中国は、米国、英国などに日本の侵略であると訴えるとともに、
八月二十一日、南京で、ソ連のボゴモロフ駐支大使との間で、「 中ソ不侵略条約 」 を締結調印した。
両国は、相互に攻撃しないこと、また締約国の一方が第三国から攻撃を受けた場合、
他の一方はその第三国を援助しないことなどが約束された。( 二十九日、南京で公表 )
外務省は、この条約の成立を重視し
「 日本は中国がコミンテルンの魔手に踊らされていることを警告してきたにかかわらず、
中国はついに悪夢から覚めず、容共抗日を国是となし、
殊に西安事件以来は完全に赤魔薬籠 ( やくろう ) 中のものとなり、
ついに今回のごとき条約の締結を見るに至ったことは支那のために真に採らざるところ 」
との見解を発表した。》
と書き、注二で具体的軍事援助として
《 本条約締結後、ソ連は中国に対しただちに軍事的、経済的援助を開始し、それは一九四二年まで続いた。
ソ連は三七年、三八年、三九年の三回にわたって総額二億五千万ドル( 約九億円 )のクレジットを中国に提供し、
これにより購入された兵器は、飛行機八〇〇機以上、弾薬、飛行機用兵器、無線通信機、給油装置などであった。
航空義勇兵約二〇〇人、軍事顧問は、最多時期において八一名が中国内で活躍した。
このほか中共軍に対する直接軍事援助も行われた。》
と書いています。
ソ連が国民党政府に軍事援助しパイロットまで送って日本機と交戦させていたのです。
この時点で、ソ連は事実上の交戦国と言えます。
これに関連することをラーベも日記に書いています。
1938年2月5日
十四時十五分
《
またもや中国機が上空を飛んでいる。
とにかく飛行機に中国の印がついていることだけはたしかだ。
パイロットがどこの国の人間かはわからない。ロシア人でないといいが。
ロシア人だとすると、ハーケンクロイツの旗を掲げてもあまり効きめはないだろうから。》
と。
盧溝橋事件は中国共産党がしかけ、その背後にソ連がいたと言われていますから、
まー、当然の行為でしょう。
しかし、上に書いた
陸軍戦史叢書 『 支那事変1 』 310pの
「 中国は、米国、英国などに日本の侵略であると訴え 」は何でしょうね。
自分の方から、攻撃しておきながら、「 侵略されてる 」 とはよく言えたものです。
まだ、日本陸軍は来てもいないのに。
日本人には「まね出来ません」が、
彼等は、自分で上海を爆撃しておいて、「日本がやった」と言う位ですから、
どうって事ないのでしょう。
しかし、これに外国人が騙され、戦後は日本人も騙されます。
これは メッセージ 27 (kireigotowadame さん)への返信です.
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陸軍到着までの上海居留民の苦悩
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/24 19:52 投稿番号: [27 / 2250]
陸軍が来るまでの上海居留民の苦悩は大変なものでした。
いつ皆殺しになるか判らないからです。
西岡香織著 『 報道戦線から見た 「 日中戦争 」』 芙蓉書房出版
80頁には
上海北部の共同租界と、虹口 (ホンキュウ) 方面で租界の北部に二キロほど突き出した形の
「租界外拡張道路」両側に形成された日本人街で、数十倍の敵軍の攻撃を受けた海軍陸戦隊の苦戦は当然であった。
「夜となく昼となく死物狂いに砲撃、爆撃して来る雲霞の大軍を引受けて、
寡兵よく虹口籠城の居留民二万を死守した」 が、「全く十七日、十八日は上海最後の日と目され、
……虹口クリーク東方楊樹浦地区一帯に殺到した敵軍によって、
第二の通州事件は何時、惹起されるかも判らぬという危機一髪の時」 を迎えていた」
(馬淵『報道戦線』)
とあります。また塚本誠氏はその著 『 ある情報将校の記録 』 208pで
当初敵機の跳梁には私も切歯扼腕したものである。
わが海軍が暴風を衝いて渡洋爆撃を行なったニュースを聞いた時は皆といっしょに躍り上って喜んだ。
とあり、苦悩のほどが偲ばれます。
馬淵氏は報道班として送られたので、上陸する陸軍より早く来たわけですが、
水兵服を着てきたら怒られたといいます。
その理由は
《 陸戦隊や居留民が陸軍部隊の上陸を待ちわびていることは知っていたが、
中国軍は日本陸軍上陸となれば、その前に租界地になだれ込み、
日本人居留区を全滅させようとするのではないかと心配し、
わざと海軍の水兵服を着て上陸したのであった。
それを見て末藤大佐は、絶望的な状況下の陸戦隊と居留民が、陸軍将校の姿を見ればどんなに喜び、
安心することか、余計な気を使うなと叱ったのである。
成るほどと、馬淵らは早速陸軍将校の軍服姿で陸戦隊の歩哨線を廻ると、
血と汗にまみれた海軍兵士たちが飛びついてきて、
「陸軍がやってきた」と歓声を挙げたので、しみじみと死闘の続く陸戦隊員の苦労が分かったという。》
( 西岡香織著 『 報道戦線から見た 「 日中戦争 」』 芙蓉書房出版
81頁 )
ということです。
しかし、蘇州河を挟んだ対岸は別世界でした。
《
蘇州河北側では日中両軍が死闘をくり返しているのに、
南側は英・米・伊・仏軍が駐在し、戦争景気でかえって繁昌している。
虹口地区は燈火管制をしているが、対岸は不夜城でバー、ダンスホールが賑わっている。》
(『ある情報将校の記録』202〜203p )
と言っています。
日本人のいる所は共同租界の一部なので、警察権の運用もイギリスの力が強い。
虹口、楊樹浦の警察署長は英人で、警察官は日本人よりも中国人、インド人の方が多い。
(『ある情報将校の記録』203p )
のですが、ここで問題が持ち上がりました。
《工部局警察が楊樹浦地区にいる警察官の一斉引揚げを命じた・・・
工部局警察員は中立の非戦闘員だから引き揚げると・・・
これは明らかにこの地区における工部局の行政権の放棄である。
放棄となれば中国軍が入っても不法ではなくなる。
これは重大なことだと考えたので、ブロードウェイ橋で・・・彼らの通過を拒否し
一行中の若干名の日本人警察官に話し・・旧部署へ戻ってもらった。
大使館に話すと、曾弥益書記官が工部局に話をし、外国人警察隊は引き揚げていったが、
日本人警察隊だけは、その配置を守った。》
(『ある情報将校の記録』204〜205pより要約 )
これは メッセージ 24 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/27.html
事実はひとつ
投稿者: kozagawano1921318konotamaisi 投稿日時: 2009/05/24 17:22 投稿番号: [26 / 2250]
米国や、米国の同盟国イギリスなどの方針がかわり、米国の国際戦略に沿って、日本軍の地上戦への参加を求める為に。
相手側の、米国やイギリスなどへの批判を分散化をする為に。
1994年から1996年にかけて。
ロシアが中心となって戦勝国が公式文書で、東京軍事裁判の結審結果とその歴史史観を全面否定している。
つまり、太平洋戦争は天皇家の命の保障と引き換えに。
戦勝国が負うべき戦争犯罪を日本に被せ、捏造した歴史を日本に受け入れさせ、極東の絶対悪になる事で終ったと言う事。
その後、日本軍捕虜が戦勝国に強要されて、捏造歴史の写真、フイルム、軍の行動記録、兵士の供述書などが作られて。
それにて裁判、処刑。文句を言えば、死人に口なし。
つい最近まで行われていたと言う事。
崩れやすい軍事裁判の結審結果とその歴史史観が、崩れていないと言う事は。
戦後の日本社会は。
日本国民の考えをリードする、日本の権力者の皇室、国会議員、メデアで活躍している人びとなどが、捏造歴史肯定派となっていると言う事。
史実の日中戦争南京戦は、1937年の1月に中共軍がチョウリャクをかけて、国民党が満州国の一部を支配。
日本軍は、批判の多い旧正月を避けて、同年の3月に国民党へ宣戦布告。
4月、中共軍が南京背後より国民党とイギリス軍事顧問団を倒して、南京を支配。
日共不可侵条約を結ばされて、捕虜の一部を返してもらい。日本軍の全軍が北京方面に撤退。
中共軍による国民党や南京市民への、南京大虐殺の始まり。
国民党、イギリス軍事顧問団、米国ペンタゴン、後のイスラエル要人達に預けていたハトにて、日本軍や日本人がSOSを受け取る。
中共軍やソ連軍事顧問団による退路確保の為の、盧溝橋など物流拠点の爆破工作。
失敗。
日本軍は日共不可侵条約を破棄通告、中共軍に宣戦布告。
1937年の7月末に、日本軍が中共軍やソ連軍事顧問団を倒し、南京落城。
日華不可侵条約の仮調印の強要をされる。
国民党、イギリス軍事顧問団、米国ペンタゴン、後のイスラエル要人などによるリベンジ大虐殺。
1937年の9月18日に、日本軍の上海撤兵式。
日華不可侵条約の本調印。
そして、1937年のライフ10月号に載った、上海事変の捏造となっている。
1998年、米国のホワイトハウスが公式見解として。
1937年のライフ10月号に載った、上海事変。
日本軍による上海空爆幼児丸焼けなどの写真、フイルム、証言などは、1937年の9月18日に、上海現地で捏造したと発表。
今日、捏造解説本まで出ている。
これがすべて、日本軍は南京大虐殺をやっていない。
犯人は、中共軍。
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Re: 派遣陸軍の編成と方針
投稿者: nuihongik 投稿日時: 2009/05/24 11:52 投稿番号: [25 / 2250]
横レス失礼します。
ここのトピ主様、まったくでてきませんね。
まさかここまで資料を突きつけられるとは思ってもみなかったのでしょうか。
先日サーチナを眺めていると面白い記事がありました。
「南京虐殺があったという2〜3ヶ月の間、中国軍はいったい何をしていたのか?自国民が殺されるのを助けもしないで見ていただけなのか?」とアメリカ人の友人から質問されたそうです。そこで疑問を持った彼は調べようと試みたがまったく資料が無かった、いったい中国軍は何をしていたのだろうか?・・・・このような内容でした。
日本では何かを知ろうとすれば簡単にネットで検索することが出来ます。様々な内容の中からホンモノを選ぶのは労力が要りますが、一次資料を見ることも、kireigotowadameさんのレスを読み、それを検証することもできます。世界中の先人達の残してくれた貴重な資料を日本語で読める国に生れた事を本当に幸せに感じています。
未だに南京虐殺が行なわれたと思い込んでいる人達が身近に存在し、その数が意外に多いことを知りました。
しかし、私の拙い説明でも「そうよね、なんか腑に落ちない、おかしいなあと思っていたのよね。」と素直に信じてくれます。
微力な私に出来る事は限られていますが子供達の将来の為に歴史を正視できる日本人になりたいと思います。
トピ主様は戻って来て意見を聞かせてください。
これは メッセージ 24 (kireigotowadame さん)への返信です.
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派遣陸軍の編成と方針
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/23 19:23 投稿番号: [24 / 2250]
8月14日に
第3師団・第11師団・第14師団に動員が下令されました。
但し、第14師団は青島行きなので、今は関係ありません。
尤も、行ってもする事がなく、後で苦戦の上海に回されますけど。
今ここで上海に行くのは第3師団と第11師団だけです。
そして、
8月15日に、松井石根大将を軍司令官とする、上海派遣軍の編組・任務が下令されます。
臨参命第73号の第2項に
上海派遣軍司令官ハ
海軍ト協力シテ
上海附近ノ敵ヲ掃滅シ
上海竝其北方地区ノ要線ヲ占領シ
帝国臣民ヲ保護スヘシ
( 註
竝は並びにの旧字
其は「その」と読む
)
とあります。これが出兵の主旨です。
また、
8月16日に臨命第452号で参謀総長より各種の指示が出されます。
(1)
上海派遣軍司令官と第三艦隊司令長官とは協同関係であり、
上陸した陸軍部隊と海軍特別陸戦隊とは戦闘間先任指揮官が統一指揮する。
(2)
第3、第11師団は海軍艦艇をもって急派する。
(3)
上陸地は劉河鎮方面及び呉淞方面とし、敵前上陸を予期する。
(4)
中支方面における敵航空勢力の覆滅は主として海軍が任じ、
陸軍は該方面に陸軍部隊の自衛のため飛行隊の一部を派遣する。
ここでは、陸軍・海軍の協力がうたわれ、戦闘指揮はどっちでもいいから、先任指揮官がやると言っています。
次に、上陸地点は劉河鎮と呉淞 ( ウースン ) の二か所が挙げられています。
そして、敵航空兵力をやっつけるのは海軍の役割と決めています。
また、上海は国際都市として列国の利害が錯綜し、かつ列国監視の中にあるので、
軍の行使には特に次の件に注意せよと述べています。
一
我カ
正当ナル行動ヲ
中外ニ
理解セシムルヲ
要ス
二
努メテ
列国軍トノ協調ヲ保持ス
三
上海租界ニハ
兵禍ヲ及ホササル
如ク努ム
四
飛行機ヲ以テスル 対地攻撃 就中 爆撃実施ニ 方リテハ 目標選定其他ニ関シ
国際関係ヲ顧慮スルヲ要ス
五
渉外事項ニ関シテハ 任務達成上
直接関係アルモノノ外ハ 努メテ 外務官憲等ノ処理ニ委ス
之カ為
所在帝国外務官憲ト 密接ニ 連繋ヲ保持ス
(注
就中:なかんづく、
方リテ:あたりて)
そして、参謀本部の立案した「上海派遣軍作戦要領」で
第11師団は劉河鎮方面に
第3師団は呉淞方面に上陸する事が指示されます。
8月18日
第3師団の約半分と第11師団は応急動員を完了し、海軍艦艇により二次に輸送せらるることになった。
松井軍司令官は22日に馬鞍群島に到着、上海付近の情勢及び作戦準備などに関する先遣参謀の報告ならびに中央の指示等に基づき、作戦計画を策定した。
ここでは、呉淞以外の上陸点が劉河鎮から川沙鎮に変っています。
( 陸軍戦史叢書『支那事変1』266〜267 )
なお、海軍は、いやがる陸軍に頼みこんで、派遣してもらったためか、
連合艦隊の旗艦である、戦艦陸奥や長門も陸兵の輸送に供しました。
陸奥は三津ヵ濱で第11師団の一部、約二〇〇〇人を
長門は小松島で第11師団の一部、約二〇〇〇人を
載せて馬鞍群島まで運んでいます。
( 海軍戦史叢書 『 中国方面海軍作戦〈1〉−昭和13年3月まで 』 358〜359p )
ただ戦艦は大きすぎますので、ここから、揚子江にいた小さい軍艦に移し替えて、敵前上陸に向かいます。
これは メッセージ 22 (kireigotowadame さん)への返信です.
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暴支膺懲声明
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/22 19:27 投稿番号: [22 / 2250]
中国の上海攻撃の非道さに、日本政府は声明を出しました。
〔昭和12年8月15日
大阪毎日〕より
声明書
帝国つとに東亜永遠の平和を冀念し、日支
両国の親善、提携に力を効せること久しきにおよべり。
しかるに南京政府は排日抗日をもって国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国論の過信と帝国の実力軽視の風潮と相待ち、
さらに赤化勢力と苟合して反日侮日いよいよはなはだしく、もって帝国に敵対せんとするの機運を醸成せり。
近年幾度か惹起せる不祥事件、いずれもこれに因由せざるなし。
今次の事変の発端もまた、かくのごとき気勢がその爆発点をたまたま永定河畔に選びたるに過ぎず、
通州における神人ともに許さざる残虐事件の因由またここに発す。
さらに中南支においては支部側の挑戦的行動に起因し、帝国臣民の生命財産すでに危殆 (きたい) に瀕し、
我が居留民は多年営々として建設せる安住の地を、涙をのんでついに一時撤退するのやむなきにいたれり。
顧みれば事変発生以来しばしば声明したるごとく、
帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、努めて平和的かつ局地的に処理せんことを企図し、
平津地方における支那軍屡次の挑戦および不法行為に対しても、我が支那駐屯軍は交通線の確保および我が居留民保護のため、
真にやむを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。
しかも帝国政府はつとに南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と現地解決を阻害せざるよう注意を喚起したるにも拘わらず、
南京政府は我が勧告を肯んぜざるのみならず、かえってますます我が方に対して戦備を整え、
厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、
また漢口、上海においては兵を集めていよいよ挑戦的態度を露骨にし、
上海においてはついに我が方に向かって砲火を開き、帝国軍艦に対して爆撃を加うるに至れり。
かくのごとく支那側が帝国を軽侮し不法、暴虐至らざるなく、全支にわたり我が居留民の生命財産危殆に陥るに於いては、
帝国としてはもはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促すため、
今や断乎たる措置をとるのやむなきに至れり。
かくのごときは東洋平和を念願し、日支の共存共栄を翹望する帝国として衷心より遺憾とするところなり。
しかれども帝国の庶幾するところは日支の提携にあり、これがため支那における排外抗日運動を根絶し、
今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除(さんじょ)
するとともに、日、満、支三国間の融和、
提携の実を挙げんとするのほか他意なく、もとより毫末も領土的意図を有するものにあらず。
また支那国民をして抗日に躍らしめつつある南京政府および国民党の覚醒を促さんとするも、
無辜の一般大衆に対してはなんら敵意を有するものにあらず。
かつ列国権益の尊重には最善の努力を惜しまざるべきは言をまたざるところなり。
中国があまりにひどい事をするので、已む無く断固たる措置をとらざるをえなくなった。
というものです。
もちろん「領土的野心などなく、あくまでも反省を促すためだ」と言っています。
そのため、派遣もたったの二個師団です。
総大将に任命された、松井石根大将もあまりの少なさに困惑したようです。
ちなみに、松井氏は、この時、予備役でした。
松井氏は、日中友好に尽していた人物なので、恐らく、彼なら、中国に対しても、良い対応をし、
事変も良い方向で解決するだろうと、期待して選ばれたのでしょう。
戦争の目的も
「上海派遣軍司令官ハ海軍ト協力シテ上海附近ノ敵ヲ掃滅シ上海竝其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スヘシ」
というもので、上海周辺の敵を排除して、日本人居留民を護れというものです。
要するに、上海の危険を排除することが目的で、それ以上の考えはなかったのです。
この、兵の少なさが、日本側に悲劇をもたらします。
これは メッセージ 20 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国は「日本が爆撃」と嘘報道
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/21 19:04 投稿番号: [20 / 2250]
中国は8月14日上海を無差別爆撃しましたが、
なんと、これを日本機がやったと報じたのです。
K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相』 255〜256pには
《 8月15日(?)
に中国軍の飛行機が国際租界のキャセイホテルとパレスホテルを爆撃した時、
中国政府の宣伝広報局は、この爆撃機は日本軍のものである、というニュースを流した。
ワシントンポストの上海特派員であるマーク・J・ジンスボーグ氏は、
「二四時間以内にこの宣伝広報局は重大な訂正を発表し、
我々特派員スタッフの完璧なる調査によって問題のものであることが判明した、
ということを内外に通報した」 と書いている。
さらにまた8月22日、中国の飛行機は国際租界を爆撃し、
この時にはシンシアデパートとウィンオンデパートに被害を与えた。
この時も同様に中国の宣伝広報局は、この爆弾は日本軍の飛行機から投下されたものであると発表した。
ニューヨークタイムス上海特派員は中国側の検閲を避けて真実を伝えるため、
この爆撃に関する特電を上海ではなく香港から発信した。
彼が香港から発信した8月27日(爆撃の5日後)付きの特電の一部は次のようになっている。
「上海の国際租界及びフランス特権区域に居住する無力な一般市民を、
中国軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、
武力手段または他の抑止策をとることについて何らかの国際的な合意が必要であるということは、
上海在住の外国の領事館員や陸海軍スタッフたちの一致した見解となっている」
この特電は中国の検閲に不満を漏らして次のように述べている。
「中国の検閲官は発信された外電やラジオ通信から前述の事実や意見を削除した。
そして場合によっては外電のニュースそのものを変えてしまいさえもした。
その目的は、現地の外国人たちが、あたかも心の中で、
この爆弾はおそらく日本の飛行機から投下されたかも知れないと、
疑っているかのように見せかけるためだったのである。
だがしかしこれは明らかに真実ではない」》
とあります。
そして、日本人の中に、今もこの嘘宣伝を信じて、これに呼応している人がいるのです。
『写真記録
日中戦争3.拡大する日中戦争
1937〜1941』ぽるぷ出版
鈴木亭・笠原十九司
編
という本の26頁のAに死体が転がっている写真がありますが、その前の頁に
“日本軍が連日上海市内を爆撃して、市民を酷い目にあわせている”と言う内容の事を書いています。
次にこの写真ですから、この写真の加害者は日本軍と言ってるようです。
しかし、この写真は、中国軍機が上海南京路を爆撃した時の惨状写真なのです。
また、彼らは、パレスホテル前の爆撃のあとの惨状写真(但しこれを先施公司デパートと言って)
も日本軍の犯行として載せています。
ここで彼らは二重に間違いを犯しています。
先施公司(シンシアコーズ)デパートを爆撃したのも中国軍です。
こういう風に、中国軍の犯行を日本軍の犯行にすりかえて本に書く、日本人がいるのです。
困ったことに。
ちなみに、日本の新聞は、南京路で中国人の死体の転がっている写真は掲載不許可にされました。
別に、日本が犯人ではないのですが、軍は、人道上、掲載すべきではないと判断したのでしょう。
なお、日本の空母は東シナ海にはいましたが、台風が来ていて発着艦できませんでした。
だから出撃していません。
そのため、日本本土 ( 長崎県大村 ) と台湾から、直接爆撃機を飛ばして、中国軍の飛行場を叩き、
上海居留民の命を少しでも永らえようとしました。
そして、日本政府は、中国の乱暴なやり方に、8月15日「暴支膺懲」の声明を出します。
これは メッセージ 19 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国の上海爆撃3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/20 18:35 投稿番号: [19 / 2250]
爆撃現場を目撃した松本重治氏は、その著 『上海時代(下)P195〜P196』に
《 十四日午後四時少し過ぎ、私が 「同盟」 支社にいると、中国空軍の編隊が上手から
黄浦江上空に進んで来て、旗艦「出雲」の高射砲や機関銃が反撃しているようだと、
記者の一人が急いで駈けよって、知らせてくれた。
すぐ窓側に行き、黄浦江の上空を眺めると、マルチン爆撃機の五機編隊で、
「出雲」めがけて進んでいるではないか。
私の肉眼では、編隊の高度はだいたい七、八百メートルとみた。
「出雲」その他の高射砲がパーン、パパーンと鳴り響いている。
ふと見ると、五機のうち一機の急所に高射砲の弾が命中したらしい。
その一機が隊伍を乱すかと見ると、中国空軍の射手らしいものが、其っ逆さまに降ってきて黄浦江にじゃぶん。
すると、編隊は「出雲」の方向からやや左旋回し始めたと思うと、
一つ、二つ、三つと大型の爆弾を落しつつ、租界上空を通って飛び去った。
一つは愛多亜路の十字街の舗装道路上で炸裂した。
その十字街の一角には大衆歓楽センターである「大世界」と言う四・五階のビルが有り、
十字街上と「大世界」内にいた千人余りが、爆風と破片とで死亡した。
第二弾は南京路カセイホテルの玄関先で炸裂し数百枚の窓ガラスが破壊された。
その為、通行中の中国人約二百名、外人八名が死んだ。
その外人のうちには、ライシャワー元大使の兄に当るロバート・ライシャワー(有名な日本古代史の学者)も含まれていた。
第三弾は、南京路を隔ててカセイホテルの向かい側のパレスホテルの屋根を貫いて地階に達し、数十人の死傷者を出した。
・・・
「同盟」支社の中国人使傭人は、急に動揺の色を見せ、同僚記者たちも、期せずして私の顔を見た。
私は、窓口から編集デスクに戻って、大声でみんなに
「僕たちは新聞記者だ。死場所はこのデスクだよ。冷静に落ちついて、ジタバタするな」
と命令した。
すると、みんな、「そうだ、そうだ」といって、各自デスクに戻り、仕事を続けてくれた 》
と書いています。
この無差別爆撃による死傷者は
キャセイホテルとパレスホテルの間で死者729名、負傷者861名、
エドワード七世通りとドモンティグニイ通りの交差点にて死者1012名、負傷者1007名
この時の死傷者の大半は中国人でした。
これは メッセージ 18 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国の上海爆撃2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/20 18:27 投稿番号: [18 / 2250]
〔上海十四日発同盟至急報〕
午後四時四十二分、我が方の高射砲弾を浴び西南方に退却中のマーチン重爆撃機は、
爆弾二個を避難民二千余の密集する新世界附近に投下せるため、支那民衆に多数の死傷者を出し、
安全地帯と絶対に信ぜられていたフランス租界、共同租界など所嫌わず爆撃を加えている。
その爆弾投下振りは全く狂気沙汰で、フランス租界、共同租界の随所に投弾、
無辜(むこ) の外人を多数死傷せしめつつある。
浦東のスタンダード・オイルの貯油タンクも爆弾命中せるもののごとく、同附近は黒煙に包まれている。
なお呉淞においてはアメリカ東洋艦隊旗艦オーグスタス号の傍らにも落下し、
果たして照準を定めて爆撃しつつありや否やすこぶる疑問で、
上海在留外人は支那軍の無軌道振りに今更のごとく驚き、非常な憤激に燃えている。
かくて敵飛行機の虹口上空爆撃はますます猛烈を極め、陸戦隊の周囲は目下盛んに火焔が揚がっている。
東部においては上海紡績、公大紡績などが敵機の目標となり、市内は盛んに火災を起こし、
また西部東洋紡、内外綿などの邦人工場に於いても敵の空爆のため火災が起こっている。
時に午後五時。
それより敵は空爆と呼応して虹口目がけて野砲を打ち込み、ダラッチ路の我が海軍武官室、
狄思威路、有恒路などの工部局警察署附近に落下、敵軍の虹口総攻撃はいよいよ確実となり、
共同租界は今や収拾すべからざる混乱に陥った。
屍の山、鮮血の海〔上海十四日発同盟至急報〕
午後四時半、支那側の連続的空爆でほとんどバンド北京路先の碼頭に落下した爆弾は、
折柄午前中の空爆で虹口楊樹浦方面から殺到した数万の避難民の真中に落下し、
死傷者無数、上海随一の華麗街、南京路上は死傷者の鮮血で真赤になり、
或いは片手を奪われ、或いは頭をやられた瀕死の重傷者が血の雨の中を這い廻り、
上海一の国際社交場カセー、パレス両ホテルに宿泊中の外国婦人等が、
滅茶滅茶に粉砕された窓硝子に傷ついて狂気のように泣きわめいて、
道路いっぱい身動きのならぬような混乱の中から逃れようとして踏み殺された小児等、
思わず眼を蔽わす惨状で、その悲惨語るに絶するものあり。
目下各国の救護班出動、死傷者を収容中である。
〔上海十四日発同盟至急報〕
支那軍の飛行機は西蔵路、大世界直前にも爆弾を投下し、付近に避難していた支那人二百余が惨死した。
アメリカ人宣教師フランク・ディ・ローリンソン氏も爆死したといわれる。
北四川路一帯、大火災〔上海十四日発同盟至急報〕
敵の爆弾で北四川路一帯は火災を起こし、日本人経営百貨店、購買組合、内山書店附近は目下延焼中である。
敵弾は更に我が西部小学校の東南部百米のところに落下、
同小学校に避難、集結している我が居留民は今や恐怖のどん底に怯えている。
〔昭和12年8月15日
中外商業〕
と書いています。
なお、キャセイホテルには、セオドア・ルーズベト ( 元大統領 ) 夫人も逗留していました。
つづく
これは メッセージ 17 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国の上海爆撃1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/20 18:17 投稿番号: [17 / 2250]
中国は、昭和12年8月13日、上海攻撃を開始すると、
翌14日には、上海爆撃を行いました。
午前中は日本人居留区への爆撃が主でした
新聞には
〔上海特電十四日発〕
敵飛行機一機は十四日朝九時五十分頃、陸戦隊の上空に現れたので、
我が方の高射砲は一斉に砲撃を開始し、敵機はいったん北方に逃げ去ったが、
更に午前十時二十分、敵機三機は新公園方面より現れて、陸戦隊本部目がけ盛んに爆弾を投下中、
これに対し我が黄浦江上の艦船は高射砲を以って応戦しつつあり。
英汽船会社碼頭に命中〔上海十四日発同盟〕
支那爆撃機の投下した爆弾二個は英国人経営ジャーデン・マゼソン会社の上海碼頭に命中、
同会社の倉庫を粉砕し、同社勤務英人シー・ゼー・ヘッド氏は負傷、支那人二名死亡、
その他支那人の重軽傷者多数に上った。
邦人紡績工場も爆撃さる〔上海十四日発同盟〕
敵機四台は十四日午前十時過ぎ、更に楊樹浦紡績工場地帯上空に現れ、
河岸にある日清汽船繋留船三隻の附近に爆弾を投下し、黄浦江上に盛んに水煙を立てている。
〔上海十四日発同盟〕
十時頃の支那爆撃機襲来により、楊樹浦にある公大紡(鐘紡)、
裕豊紡(東洋紡)は数弾の爆弾を見舞われ、相当損害を受けた模様。
邦船の乗組員四名死傷す〔上海十四日発同盟〕
呉淞河岸碇泊中の逓信省海底電線修理船沖縄丸(船員全部邦人)よりの無電によれば、
午前十一時過ぎ、敵機四機襲来し、内一機は同船に向かって爆弾を投下し、左舷の河岸で炸裂し、
破片のため同船の水夫一名即死、水夫一名、火夫一名、油差し一名、計三名負傷した。
同船は午前十一時抜錨、呉淞沖合に仮泊することとなった。
〔昭和12年8月15日
東京朝日(夕刊)〕
とあります、しかし午後には、白人地域も爆撃しました。
つづく
これは メッセージ 16 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/17.html
中国軍の上海攻撃始まる
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/19 18:56 投稿番号: [16 / 2250]
中国は、8月12日に租界の日本人居留区を大軍で包囲し川に船を沈めて戦争体制を整えました。
この時になって、初めて日本の政府内で上海への陸軍派兵の議論がなされます。
しかし、参謀本部の石原第一部長は 「ウン」 と言いません。
海軍戦史叢書『中国方面海軍作戦〈1〉−昭和13年3月まで』316pには
《 8月12日夜、四相会議が開かれ、米内海相が陸軍の上海派兵の方針決定を要求、
各大臣とも異存なく、翌日の閣議に上程することとなった。
ところが散会後、杉山陸相から米内海相あて
「当初の計画時とは著しく変わった状況となったので、出兵については最も慎重に考慮すべきだ」
という意見を参謀本部は述べている旨、通知があった。そして、
13日
早朝
参謀本部第一部長石原莞爾少将が、近藤軍令部第一部長に 「 出兵不同意 」 を表明してきた 》
とあります。
近藤軍令部第一部長は、何とか石原莞爾参謀本部第一部長を説得して、
やっと、この議題を閣議に上程することができました。
そのころ、上海では、
《 午前10:30ごろ商務印書館付近にいた中国軍が日本側陣地に対し突如機銃射撃を浴びせてきた。
我が方は応戦したが、不拡大方針に基づき極力当面の交戦を避けるように努めた。》
とあり、中国は小手調べをやったようです。
一方、日本では、閣議でやっと陸軍の派兵が決定しました。
そこで軍令部は長谷川司令長官に電報します。
《・・・同方面ニ於ケル 作戦上ノ地歩ヲ獲得スル迄 ( 概ネ陸軍主力上陸迄ニテ 動員下令後二十日間 )
ハ爾他ノ各地ニアリテハ ナルベク 武力発動ニ至ラザルヲ 有利トス・・・》
陸軍は下令してから到着まで20日は掛るので、それまではなるべく動くなということです。
向こうはとんでもない大軍、こちらはたったの4千うかつに動けないのは当然です。
そうは言っても相手のあることですから、そうも行きません。
敵は、租界の周囲のどこからでも、攻めて来れるのです。
中国側の資料 ( 8.13淞滬抗戦 劉勁持) には
《 12日
営長の一人が 『租界への出入りは簡単だ。
ピストルを持って日本の司令部の回りを見てきたが、一度もチェックを受けなかった。
今夜あたり進撃をかけてもいいのでないか』
といって、夜が過ぎるのを待った。
13日
正午
88師と租界線をこえて宝山路・四川路などに展開していた、
日本陸戦隊との間で小競り合いが始まり“8.13抗戦”が始まった。》
( 鈴木明著『 新「南京大虐殺」のまぼろし』195pより )
とあります。
16:54
八字橋方面の中国軍が攻撃を開始しました。
ここから、夜とも昼ともない中国側からの攻撃が続き、少人数の陸戦隊は不眠不休の防戦を強いられます。
翌14日午前の閣議で杉山陸相が上海に二個師団を出すことを提案し、決定されました。
陸軍の派遣準備はこれから、なされるわけです。
一方、上海では、14日
十数機編隊の中国空軍が港内外に停泊中の艦船及び陸上要点に爆撃してきました。
(“8.13抗戦”以外は、海軍戦史叢書『中国方面海軍作戦〈1〉−昭和13年3月まで』316p〜317pより)
この時、中国軍機は、上海市外を爆撃し、爆弾はキャセイホテルやパレスホテル等にも落ち、
中国人や西洋人に大量の死傷者を出しました。
これは メッセージ 15 (kireigotowadame さん)への返信です.
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開戦直前
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/18 19:18 投稿番号: [15 / 2250]
大山中尉が虐殺されたために、日本側は抗議しましたが、
中国側は日本に責任をなすりつけて、取り合いません。
「大山中尉が中国兵の止めるのも聞かず、衛兵を拳銃で撃ち殺して飛行場に押し入ったので射殺した」と言うのです。
大山中尉は拳銃を携帯しておらず、運転手の斉藤水兵は持っていましたがホルスターに入ったままで殺されているのに。
中国側の態度に危険を感じた長谷川長官は、警備の為、陸軍の応援を要請するのですが、却下されました。
仕方がないので、陸戦隊を1200名程増派します。
ところが追加の陸戦隊が上海に着いた8月11日には、既に租界の日本人居留区は保安隊に包囲されていました。
『上海時代・下』 193pには
船津さんの日誌から、左に抜粋する ( 『船津辰一郎』 194〜196ページ)。
八月十一日
…閘北方面における中国側保安隊ないし正規兵ますます増加し、
あたかもわが陸戦隊およびわが居留民の多数居住する虹口一帯を包囲する形勢を取り、
とあり、北博昭著 『日中開戦』 15pには
8月11日
銭大鈞の指揮する第13軍下の第88師が保安隊と合流し、
共同租界の境界線に接した非武装緩衝地帯にまで進出する事態になった
とあります。
8月11日、蒋介石は第9集団 ( 張治中 ) に呉淞口の閉鎖と上海包囲体勢をとる様下令した。
その夜、上海に出入りする鉄道はいずれも旅客の輸送を中止し、軍隊輸送に切り換えられた。
(『日中戦争4』68p)
8月12日
88師とおぼしき中国正規兵及び武装保安隊は12日朝来続々と上海付近に集中し
呉淞から江湾鎮に至り配備につき、租界と閘北との境界付近各所に戦備を整えて、
まさに一触即発の情勢に立ち至った。
( 海軍戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉−昭和13年3月まで』 312p )
8月12日
朝来、保安隊は北停車場付近から河南路及びハスケル路いったいの中国街に侵入し
中山路一帯及び江湾路付近は警戒厳重を極め、非常警戒網が張られ・・・
( 海軍戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉
−昭和13年3月まで』 313p )
この日、北站駅に中国兵が続々降りているという情報で憲兵隊の大前軍曹と
熊野通訳が偵察に行ったら捕まり、後でわかったのですが、殺されていました。
( 『ある情報将校の記録』 197p〜より要約)
中国側の資料 ( 8.13淞滬抗戦 劉勁持) によりますと
「虹橋での大山事件が起ると、88師 ( 孫元良 )、36師 ( 宋希濂 )、87師 ( 王敬久 )、に進軍命令が出た。鉄道はすべて軍事に使われ、
8月12日朝、88・87の二師は上海に到着、88師は北駅近くに駐留し、87師は北四川路東から
楊樹浦一帯に陣を構えた。・・・王敬久や孫元良の営長や連長なども便衣を着て、
住民たちと一緒に租界に入っていく。
( 鈴木明著 『 新「南京大虐殺」のまぼろし』194〜195pより )
とあります。
中国は、この日、上海の大河“黄浦江”に船を沈めて川を封鎖し、
次いで揚子江の江陰という所にも船を沈めて川を封鎖しました。
8月12日
中国側は夕闇迫るころ黄浦江に三千t級の汽船 「三興」 号、「福興」 号
さらに大石塊を満載した大型ジャンク二十隻を自沈させ、水路閉鎖をこころみた。
(『日中戦争4』 69p)
また既に 「揚子江流域居留民引き上げ」 でも書きましたように、
この日、中国は、揚子江の江陰という所に、軍艦5隻と2000tないし5000tの
商戦18隻を沈めて、水路を閉塞させました。
長谷川長官は再度、陸軍の派遣を要請します。
この状態に至って、やっと四相会議が開かれました。
しかし、難航します。
これは メッセージ 14 (kireigotowadame さん)への返信です.
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陸軍派遣要請は却下される
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/17 17:44 投稿番号: [14 / 2250]
8月9日に揚子江上流より、漢口の海軍陸戦隊が避難民を護衛して上海に引き揚げて来ました。
また、この日は大幅に譲歩した和平案でもって、中国と和平会談をする日でした。
この日の夕方、大山中尉が、碑坊路 ( 越界路 ) に進出して来た中国保安隊に虐殺されたため、和平の話し合いは壊れました。
現地駐留の第三艦隊司令長官長谷川清中将は
9日
上海の危険な現状を報告し
「現在ノ
上海特別陸戦隊
及
艦船陸戦隊
ノ全力ヲ以テスルモ
租界警備上
兵力不足ヲ
感ズルニ至レルヲ以テ、 約五個大隊ノ兵力増援
必要ナリト認ム」
として、陸戦隊の増援と先遣陸軍部隊の派遣を具申しました。
ところが、米内海相は、外交措置に望みをかけ、陸軍派兵はしばらく待ちたいと軍令部に伝えました。
それは、第三艦隊に返電されます。ただし、海軍陸戦隊の増派だけは承認されました。
官房機密第六八一番電
目下外交交渉中ニシテ
最モ慎重ヲ要スル時機
ニテモアリ、・・・
陸軍ノ派兵ニハ
相当ノ時日ヲ要スル
ノミナラズ、
我ガ方ヨリ
攻撃ヲ開始セザル限リ
支那側ヨリ攻撃セザル
中央政府ノ意向ナル旨ノ
特情報モアル
次第ナルヲ考慮シ・・・事態ヲ
急速
破局ニ
導カシメザル様
致シ度
( 海軍戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉
−昭和13年3月まで』 310〜314p )
この期に及んでもなお、外交に期待し、陸軍の派兵は躊躇されていたのです。
おまけに、「日本から手出ししなければ、中国からは手出ししない」 という、間違った認識を抱いて。
これまでの歴史を見れば、何度、先に攻撃されたか、盧溝橋事件もそうでした。
にもかかわらず、中国側の先制攻撃は
何故か
記憶から消え、どういうわけか、
日本が先に手出しして戦争になったかのように、記憶に刷り込まれるのです。
まるで、今の平和主義者のように。
この認識はまもなく、現実によって、覆されます。
しかしながら、こういう、現実に何度直面しようとも、なぜか、
日本が先にしかけたという刷り込みに戻り、日本人の頭に定着していきます。
あるTV番組で、赤い服を着た、女性が戦争でなく話し合いでと主張し、
別の人が、あんたらのは
「お前ら言う事を聞かないと、話し合うぞ」
と云うようなものと茶化していました。
こういう人たちは、話し合えばいいと言いますが、当時の日本も話し合おうとしていたのです。
ただ、相手にその気がなかっただけですけど。
相手に話し合う気がなければ、戦争準備の時間を与えるだけです。
この時、上海にいた海軍陸戦隊は、引き上げてきた漢口陸戦隊を含めてたったの2500名でした。
なお、陸軍の方では、参謀本部の石原第一部長が、8月10日に、
「陸軍の派兵は北支だけにとどめ、上海、青島方面は海軍で担当することを強く主張、同席の梅津陸軍次官もこれに同意した」
と ( 陸軍戦史叢書『支那事変1』259p ) に書いてあります。
要するに、陸軍も、上海に派遣する気はなかったのです。
これで、上海に危険が近づきます。
これは メッセージ 13 (kireigotowadame さん)への返信です.
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大山中尉惨殺される
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/16 17:42 投稿番号: [13 / 2250]
盧溝橋事件が起こると、蒋介石は本格的に戦争準備を始めました。
上海の外側の非武装地帯に、ドイツ軍将校指導の下、トーチカを築き、
上海から南京に至る途中には防御線をしきました。
その上で、上海の外側に、遠巻きに保安隊を配置し、徐々に包囲網を狭めていたのです。
戦争を察知した中国人が大勢フランス租界へ避難している写真が、毎日新聞社刊
『大日本帝国の戦争2
太平洋戦争1937〜1945』 の12p に8月6日づけで載っています。
同じ8月6日、同盟通信上海支局長の松本重治氏は保安隊に遭遇しました。
松本氏は、いつものように、夕刻、スコット路の北方二、三キロの道路を、愛馬ポニーで走っていたら、
「中国保安隊員数人がおのおの手榴弾二つを胸にかけ、剣附鉄砲で、これより以北は、まかりならぬと指示した。
それではと、少し廻れ右しながら北方へ斜めに走らせようとすると、また、保安隊員がいる。
上海北辺には保安隊が最近増加したとは聞いていたが、上海を包囲する恰好で、
包囲圏を圧縮しているという陣形の気配が明瞭に看取された。
私は、自分の乗馬による散歩通がだんだんと圧縮されたのに、多少は憤慨もしたが、
それよりも、今までは保安隊がいなかったのに、こんなところまでに、やってきたし、
その背後には中央軍が近接しつつあるものと感じ、すべては中国側の対戦準備の一環ではないかと悟って、そのことをすぐ東京に打電した。」(上海時代・下190〜191p)
とあります。しかしながら、保安隊に遭遇したのは彼だけではありません。
当時、上海の海軍陸戦隊本部にいた小川貞二さんは南西の方で遭遇しています。
彼はサイドカー運転員に誘われて越界路をドライブしていたら、
「突然、目の前に掘っ建て小屋が現れ、哨兵が小銃を構えて停止を求めました。
シマッタ。これは大変なことになったと思いました。
車も止めて極力冷静に落ち着きを装い、とっさの機転でメモを取り出しました。
「東亜同文書院(大学)へ行く途中だが、どの方向か」 と筆談を試みました。
哨兵はなんら疑う様子もなく指差して、「左の道を行け」 と指示してくれました。
ヤレヤレ助かった。・・・猛スピードで飛ばしてフランス租界に入り、
共同租界を経て虹口地区(日本人居留地)へ入り安堵しました。
本部へ帰った後も知らん顔で、二人とも 「口外しない」「他言しない」 と約束して別れました。」
と 『正論』 2001年6月号の 「編集者へ」 に投稿され、大山中尉の死には自分も関係があると述べられています。
大山中尉はそんなこととは知らず、同じ場所を車で通り惨殺されました。
車は機銃で蜂の巣になっていました。
屍体検案書では
大山勇夫
「頭蓋粉砕骨折、左前胸部刺殺傷、左前胸部射傷、左腰部盲管銃創、左腹壁ニ鉛弾ヲ蔵ス」
斉藤与蔵
「顔面挫傷、右頭頂部複雑骨折、後頭部貫通射傷、肋骨骨折」
とあり 『日中戦争4 』67pには
「大山中尉は拳銃をもたず、斉藤水兵はホルスターに入れていたが、発砲のひまなく射殺された。
二人の死体には、検案書以外にも傷があり、大山中尉の場合は、腰部の盲管銃創をうけて
車外に倒れたところを、銃剣で胸を刺し、大刀で頭を割ったらしい。
「脳漿は全部出てしまい、心臓部に拳大の穴があいていた」
斉藤水兵の頭部貫通銃創は、即死をもたらしたとみられ、したがって、顔面、頭部の
挫傷と骨折は、死体をひきずりだし銃床をたたきつけたものと、推定された。」
とあります。
東中野修道著『南京虐殺の徹底検証』24pは簡単に
「頭部は二つに切り割られ、顔半分は全く潰され、内蔵を露出し、心臓部に拳大の穴をあける」
などの暴行を受けていた。
と書いています。
この残虐な事件で、この日の和平会談はぶち壊しになりました。
これは メッセージ 12 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国の戦争準備
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/15 19:32 投稿番号: [12 / 2250]
日本が大幅に譲歩した和平案でもって、これなら中国も応じてくれるだろうと甘い幻想を抱いていたころ、
中国は逆に戦争の準備をすすめていました。
陸軍戦史叢書 『支那事変1』 264〜265pには
中国は8月6日、第一回国防会議を開き、次のような対日方針を決定していた
長期抗戦ヲ原則トシ
北支那方面防備ノ為其の主防禦線ヲ
保定 ― 滄州ノ線ニ、
第二線ヲ
彰徳 ― 済南ノ線ニ、
第三線ヲ
洛陽 ― 鄭州 ― 開封 ― 徐州 ― 淮陰ノ線ニ
選定シ徹底的抗日戦ヲ実施スル為
全般的ニハ集団戦ヲ避ケ消極戦ニ終始スル如ク各部門ニ亙リ戦備ノ充実ヲ期ス
とあり。
児島襄著『日中戦争』文春文庫4巻78〜79pには
「勝倭の道」
「大敵に遇えば即退き、小敵に遇えば即戦う」
「対倭作戦」
「戦術でもって武器の不足を補う」
「戦術原則五項目」
一
要以持久戦
消耗戦之決策
以打破敵人速戦即決之企図
ニ
要立主動
敵攻我守
待其気衰力疲
我即乗出撃
三
要固守陣地
堅忍不退
以深溝高塁厚壁
粉砕敵進攻
四
要利用民力地物
処処設穽防
従抗戦殺敵
五
要講求防制敵機
大砲戦車毒気之戦術
便其攻撃気効
とあります。
一、二は「空間を以って時間に代える」持久戦・消耗戦略で、要するに奥地に引きずり込み
疲弊させる、というもの。
二は、主動的立場に立ち、敵が攻めれば我は守り、敵が疲れて其の気力の衰えるのを待ち、
我乗り出して撃つ
三は、深い溝、高い防塁、厚い壁で以って敵の進攻を粉砕し、陣地を固守し、絶対に退かない。
四は、民衆の力、地の利を利用し、罠を仕掛けてのゲリラ戦
五は、空襲、大砲、戦車、毒ガスへの対策
です。
つまり、三つの防御ラインと、長期戦を目的とした戦争方針を作っていたわけです。
この文書では、8月6日から始まったかのように見えますが、本当は、もっと早くから始まっています。
その証拠に、上海憲兵隊の塚本誠氏は、7月24日ごろ、上海の周辺の非武装地帯に
中国軍がトーチカを造っているうわさを聞き、私服を着て、ゴルファーの格好で出掛けていき、
現物を確認しました。( 塚本誠著『ある情報将校の記録』中公文庫196P )
また、同盟通信上海支局長の松本重治氏は、8月6日に、非武装地帯に進出してきた保安隊に遭遇しています。
保安隊に遭遇し追い返された彼は、記事を東京に打電した所、翌日、海軍武官室に呼び出され、島田軍令部次長から
『上海内外の情況を誇大に描いたアラーミングな電報である。
海軍は不拡大主義に徹しているので、
松本支局長が、ああいう調子で打電しつづけるのは軍の方針に背馳することになる。
もっと冷静に打電するならばともかく、そうでなければ、即刻退去命令を出せ』
と訓電を受けたと伝えられました。
( 上海時代・下
190〜191p )
中国がどう戦争準備しようと
日本はとにかく平和を求めるだったのです。
まるで、今の平和主義者みたいに。
これは メッセージ 11 (kireigotowadame さん)への返信です.
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揚子江流域居留民引き上げ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/14 19:58 投稿番号: [11 / 2250]
今回は、今の平和主義者そっくりの日本人の話です。
盧溝橋事件後、揚子江流域でも不穏な状態になってきました。
日本人や日本人に使われている中国人に対して迫害が増えてきます。
7月27日には、長沙で20数名の中国人が 「スパイ・漢奸」 の名目で
湖南省特務室に引致されました。
奥地では、居留民を守り切れないため、政府は揚子江流域の各領事に
「居留民は早めに引揚げよ」 と訓令を出します。
ところが、漢口の松平総領事代理と長沙の高井領事代理は、引揚げに反対しました。
“中国が 「安全を保証する」 と言っている以上これを信頼すべきだ。
いまこの時期、そのような行動をとれば、中国を刺激し 《戦争準備》 と疑われる。
むしろ海軍がいるから戦争になるのだ”と。
何か、今の平和主義者そっくりの言葉ですね。
8月1日、重慶、宜昌、沙市の居留民は船に乗り出港しました、が、
漢口では、中国は日本人に対し、米、塩の販売を停止します。
2日、長沙の高井領事代理は、引揚げを決めました、が、漢口は頑張ります。
4日、漢口では、「租界内の支那人は5日までに退去すべし。
然らざれば身は危険にさらされ、又逮捕の上極刑に処す」 との流言があり、
租界外に逃げ出す中国人が急増しました。
5日、22:00漢口において中国側は、日本租界への交通及び電話を遮断し、
6日の午前0時から、租界周囲前線の土嚢陣地に兵力を増強しました。
そこで陸戦隊も0時から土嚢を積み、両軍対峙、一触即発の状態となりました。
ところが松平総領事代理は、この事態になってもまだ、引揚げを発令しません。
そこで、居留民代表が総領事代理に引揚げ発令を迫り、もし発令のない時は、
民団は自由行動に出ると申し入れたのです。
このとき、漢口に来ていた田中宜昌領事が同総領事代理を説得して、やっと引揚げを発令しました。
この日、蕪湖では婦女子の引揚げが完了します。
7日、漢口陸戦隊は、中国軍と対峙しながら引揚げを支援しました。
信陽丸は13:10 「比良」 護衛下に、
鳳陽丸は17:15 「勢多」 護衛下に上海に向け漢口を出港しました。
居留民の引揚げが済んだので、陸戦隊も日没後に撤退作業を始め、
8日未明に引揚げる予定でしたが、
これが中国側に漏れたため、予定を早め無灯下で撤退作業を行い
01:00に出港しました。
かくして残留者は総領事館員77名となります。
尚、漢口より上流の各地領事館職員で引揚げに抵抗していた人達も、
居留民引揚げ後、漢口に残留しました。
が、中国側から食料と電気を止められ、結局、引揚げざるを得なくなります。
9日、引揚者は全員無事上海に到着しました。
10日、漢口に居残っていた領事館員たちも、岳陽丸に乗って出港、
12日
南京に立ち寄り、南京で後始末をしていた領事館員を積んで上海に向かいました。
ところが、
13日、江陰にさしかかった所、中国軍艦「海容」に停船を命ぜられ、
「水路危険につき通行禁止」を通告され、南京に戻らされたのです。
後で判った事ですが、
12日に、江陰に、軍艦5隻と2000tないし5000tの商戦18隻を沈めて、水路を閉塞させていたのです。
南京に戻った、領事館員たちは鉄道で青島に、脱出しました。
( 以上は海軍戦史叢書『中国方面海軍作戦〈1〉
−昭和13年3月まで』の
287〜304pを抜萃要約したもの )
なお、13日には、中国軍が上海攻撃を開始しています。
平和主義者というものは、自分が正しい事をしていると思っているから、
間違いが理解できないのですね。
困ったものです。
これは メッセージ 9 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし
投稿者: maxponbom 投稿日時: 2009/05/14 09:45 投稿番号: [10 / 2250]
南京事件なんてものはなかったから、こんな話をしても無駄だよ。
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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大幅に譲歩した和平案
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/13 21:50 投稿番号: [9 / 2250]
まだ、中国人の方からのコメントがありませんので、通州虐殺事件の続きを書きますね。
徐々に南京に近づいて行きます。
「4なるほど」の所では、虐殺犯人が全員釈放されたことを書きました。
しかしながら、日本人のお人好しは、これに留まりません。
日本人が虐殺されたにも関わらず
3日後の8月1日、
石射東亜局長は、陸軍の柴山軍事課長と海軍の保科 (善四郎) 軍務局第一課長を招き、
大幅に譲歩した 「国交調整案」 を提示しました。
その内容は
塘沽停戦協定の解消、
梅津 − 何応欽 「協定」 の解消、
土肥原 − 秦徳純協定の解消、
冀察政権の解消、
冀東政権の解消、
冀東特殊貿易の廃止、
非武装地帯海面の中国側密輸取締りの自由恢復、
華北における「自由飛行」の廃止、
中国側がしいて要求すれば上海停戦協定をも解消する
という、まるで敗戦国が戦勝国に出すような内容です。
その見返りとして、
「『満州国を今後問題とせずとの約束を隠約の間になすこと、
日中両国間に防共協定をなすこと、
邦交敦陸令を徹底せしめること、
両国の経済の連絡、貿易の増進を図ること』
を中国に要望していますが。
これを提示して、陸・海の同意を得ようとしたのですが、陸軍はあまり面倒な注文を出さず、
石射案に沿って三省の意見一致をみることになりました。
各次官や各大臣の諒承を得、近衛首相は、待っていましたとばかりに、
ただちにその支持を与えることになりました。
( この内容は
松本重治著『上海時代・下』中公新書177〜178pにあります
)
それで、この案を和平案としまして、8月9日に上海で和平会談を開くようにします。
しかし、この和平会談は、同じ日に起きた、中国の大山中尉虐殺事件でぶち壊されます。
今日は
ここまで。
これは メッセージ 4 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: もしもし
投稿者: hart_no_ace0420 投稿日時: 2009/05/12 22:55 投稿番号: [8 / 2250]
横ですが。
多分、我が国でのこの事件のことが公にいろいろと真実が言われ始めているので、中国当局は危機感を持っているんだと思いますよ。
いや、危機感ではないですね。総仕上げのようなもんでしょう。
NHKをはじめマスゴミを掌握していますから。
このトビはその意図があるのだとみています。
釣り・・・いろんなカテに急に中国人を名乗るトビが乱立してきています。
民主党政権が誕生すれば我が国が中国寄りになるのは必至。
総選挙に向けての策略の一つだと思いますよ。
お気をつけください。
これは メッセージ 7 (kireigotowadame さん)への返信です.
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もしもし
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/12 19:11 投稿番号: [7 / 2250]
> 南京大虐殺が
もし
kireigotohadameさんの言うとうり
日本軍の
行為ではなかったと
言うのであれば <
って
私は
一言もそんな事
言ってませんけど。
勝手に
創作しないで下さい。
私は、通州虐殺事件の対処と
言われている所の南京の
不自然さを指摘したまでです。
どう解釈するかは、中国人にまかせます。
ところで、
> 何でそんな
報告書が
有るのか分かりませんよ????? <
って、あなたは 「通州虐殺事件」 を知らないのですか?
よく、それで、南京を論じられますね。
と言う事は、済南で日本人居留民が虐殺されたことも知りませんね。
昭和元年に、国民革命軍が南京の日本領事館になだれ込み、暴虐の限りを尽くして、
女性を全員輪姦した事件も知りませんね。
rdupwatch さんが言ってる事の、もっと大掛かりな事が、中国軍から、
日本人避難民・領事館員に対して行われたのですけど。
この他にも、日本人が虐殺された事件がたくさんありますが、知りませんよね。
一々、説明できませんから、自分で調べて下さい。
「通州事件」 とか 「済南事件」 とか 「昭和元年の南京事件」 くらいだったら、
検索したら、たぶん出て来るでしょう。
まずは、そこから始めることです。
私は、もっと具体的な資料で調べてますから、そんなもの使いませんけど。
これは メッセージ 5 (tomo12156 さん)への返信です.
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テレビに
投稿者: yuruyurumattari 投稿日時: 2009/05/12 09:28 投稿番号: [6 / 2250]
でていたから、といって本当に軍関係者かは解りませんよ。朝日のテレビ放送では、南京で虐殺行為をした。と告白した人物が紹介されましたが、後にその人物の年齢が南京攻略時10才であった。などとアホな放送をしたことがあります。つまりこの人物の証言が事実であれば9才で軍に志願し、10才で従軍したことになります。テレビ、新聞報道がいかにあてにならないか、よく解る事例ですね。
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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Re: なるほど
投稿者: tomo12156 投稿日時: 2009/05/12 01:41 投稿番号: [5 / 2250]
南京大虐殺が
もし
kireigotohadameさんの言うとうり
日本軍の
行為ではなかったと
言うのであれば
私も
又
当時南京に
いた
日本軍も
どんなに
気持ちが救われることでしょう。
しかしながら
確か
何年か前の戦後60周年記念の朝までテレビにて
この南京事件について
取り上げられた時にも
やはり
日本軍の
犯した
アヤマチとして
当時の軍関係者を
招いて
討論されて
おりましたが!!???
何でそんな
報告書が
有るのか分かりませんよ?????
これは メッセージ 4 (kireigotowadame さん)への返信です.
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なるほど
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/12 00:33 投稿番号: [4 / 2250]
ところで、その南京の、ほんの4か月半前、
1937年7月29日通州で日本人居留民約260人が虐殺されました。
犯人たちは、南京の嘘放送に騙されて、日本人を虐殺して、
それを忠誠の証しとして、北京の宋哲元のもとにやってきました。
ところが、そこにいたのは、中国軍ではなく、日本軍だったのです。
彼らは、はじめて騙された事に気づき、慌てて逃げました。
しかし、日本軍につかまります。
「機関銃で撃ち殺してやる」と息巻いている人もいましたが、
「それでは暴に酬いるに暴を以てするだけだ」
と否定され、
長官の殷汝耕だけを取り調べのために残し、他は全員釈放されました。
釈放された大半の者は張家口方面、湯恩伯の軍に合流しました。
そして、殷汝耕も被害者であったので、彼も釈放され、結局全員、釈放されたわけです。
この人道的日本軍と、あなた方の言う南京の日本軍と、ずいぶん違うのですが、どうしてでしょう。
ちなみに、通州虐殺事件の報告は次の通りです。
★
城内は実に凄惨なもので到る処、無惨な日本居留民の死体が横たわって居りまして、
殆ど全部の死体には首に縄がつけてありました。
頑是なき子供の死体や婦人の虐殺死体は殆ど見るに耐えませんでした
★
旭軒とか云ふ飲食店を見ました。そこには四十から十七〜八歳迄の女七〜八名は皆強姦され
裸体で陰部を露出したまま射殺されて居りました。
そのうち四〜五名は陰部を銃剣で刺されていました。
家の内は家具・布団・衣類等は何物もなく掠奪されていました。
★
錦水楼と云ふ旅館は凄惨でありました。
同所は危険を感じた日本人が集まったものの如く大量虐殺を受けておりました。
錦水楼の女主人や女中等は数珠繋ぎにされ、手足を縛られたまま強姦され、遂に斬首されたと云ふ事でした。
★
男は目玉をくり抜かれ、上半身は蜂の巣の様でありました。
★
南城門の近くに一日本人の商店があり、そこの主人らしき者が引っ張りだされ
殺された屍体が路上に放置されてありました。
これは腹部の骨が露出し、内蔵が散乱しておりました
★
旭軒と云ふ飲食店に入りますと、そこに居りました七〜八名の女は全部裸体にされ、
強姦射(刺)殺されて居りまして、陰部に箒を押し込んである物、
口中に土砂を填めてあるもの、腹部を縦に割ってあるもの等、見るに耐えませんでした。
★
東門近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せて、
それに八番鉄線を通し(貫通)、一家六名数珠繋ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。
池の水は血で赤く染まって居たのを目撃しました。
★
守備隊の東門を出ますと、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわって居るのを目撃し、
一同悲憤の極に達しました。敵兵は見当たりませんでしたので‥‥
「日本人は居ないか」と連呼し乍ら、各戸毎に調査して参りますと、
鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が、
そこかしこの塵埃箱の中や壕の内、塀の蔭等から続々這い出して来ました。
中国人が、こんな残虐な事をやったのに、北京の日本軍は犯人を釈放したのです。
その優しい日本軍が、どうして南京で、極端な残虐行為ができたのでしょう。
ちなみに、この通州のような虐殺の仕方は、日本にはありません。
ところが、南京では、日本軍が、同じような事をしたと言われています。
不思議ですね。
日本人の知らない方法で、日本軍が虐殺できるとは。
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Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし
投稿者: guangzhou0052000 投稿日時: 2009/05/11 18:16 投稿番号: [3 / 2250]
rdupwatchさん、虐殺される人数ではなく虐殺される内容が重要かと思います。その点、rdupwatchさんの文を読み1日本人として大変もうしわけなく思ってます。幼い子供の前でレイプ。。なんとも情けない行動です。ただ、戦争にはこのような事件が日常茶飯事であることも理解しなくてはいけないと思います。私もこれから日本人が歴史を直視し今後の日中関係が良くなること心から願ってます。しかし中国にも悪い点は数多くあります。反日をあおる教育、南京で虐殺された何の根拠もない天文学的数字。。どれを見ても今後の友好関係を築く弊害となってます。時間をかけてお互い日中友好を築きましょう!!
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし
投稿者: tomo12156 投稿日時: 2009/05/11 09:44 投稿番号: [2 / 2250]
日本人に
こんな掲示板を
立ち上げても
無駄ですよ!!!
だって
ほとんどの日本人は
知らないことなんですから。
知っているとしたら80歳以上の
パソコンも使えないような
お爺さんでしょう。
なぜ
知らないのかと言うと
日本が戦争に負けた時
アメリカや
中国などの
戦勝国による
東京裁判が
行われたことが
原因です。
この裁判は
戦勝国による裁判で
沢山の人が
死刑になりました。
当然のように
戦争に行った日本人は
自分や仲間が
裁判に
戦犯として
裁かれないように
戦争で
オコナっタことを
隠しました。
家族や友人にさえ
戦争で
行ったことは
言わなかったんですよ。
戦後60年余り経ちますが
現在に至るまで隠しとおしているんですよ。
中国人のあなたには信じられないかも知れませんが喋れば
今現在でさえ
戦犯として
裁かれるのではないかと
思っていると思いますよ。
ですから日本人は
知らないんですよ!
唯一
私が
知っているのは
南京事件は
本当にあったと言う
事実
ぐらいのもんでしょう。
このことは
もう25年以上前の
小学校に
通っていた時の
話なんで
すが
叔父が私の通った小学校の歴史の先生を
していて授業中に
聞かせ
てもらった話です。
話の内容は
と言うと
「絶対に誰にも言ってはいけないよ。しかし
こう言うことがあった
事実は覚えておいてくれ。」と言う
前置きがあった後話してくれました。
叔父は
戦時中
当時の満州国から
南京に
行軍して
南京についてみると
数えきれない中国人が
縄に数珠つなぎになったまま
殺されて
大きな
湖のような池に
沈められた状態になっているのを
見たと言う内容の話でした。
そして
そのような
行為をした
理由を
南京に
駐屯していた日本の
軍人に聞くと
いろいろな
理由があるが
一番の理由は
「食べる物がなかったからだ。」と聞いたそうです。
私の聞いた
南京事件は
これぐらいしかありません。
又
叔父も
去年なくなりました。
南京事件やあなたの叔父さんの件に関して
私の思ったことは
戦争は
人を
残酷で
冷酷な悪魔に変えてしまう恐ろしい行為であり
二度と
あってはいけないことだと感じていますし
又
中国人の
被害にあわれた
方の
誇りを
汚された怒りや悲しみは
日本人の
私が思っているよりも
もっと大きな物だと感じています。
時間は
かかると思いますが
日本と中国が
友好的な
空気に
なることを
望んでいます。
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2.html
入って中国人に南京事件真相議論しましょう
投稿者: rdupwatch 投稿日時: 2009/05/10 02:46 投稿番号: [1 / 2250]
日本の友達、こんにちは。僕の日本語は下手なので、深刻に書けません。気にしないで下さい。
これはこの文章もともとの様です:
http://rdup.blog.163.com/blog/static/2961053620094911756343/
僕のブログの中で、この文章のもともと様があります。図もあります。たくさん、中国人が日本の方を待って、この問題を一緒に議論します。
以下は私の文章の一部です。全部を読みたければ、僕のブログへ見に行ってください。
この文章の目的は中国平民が日本平民の考えを理解させます、これと共に日本の平民が中国平民の考えを理解させます。僕はもうこの文章を中国の高い人気の掲示板で発表したので、たくさん中国の人は必ずここへ行きます。彼らに南京大虐殺の真相を議論しましょう。
日本語も中国もできる人は翻訳することがもう準備します。日本の方たちの話も中国人の話も翻訳します。
以下は僕の個人的な体験です。
僕の仲がいい友達のお爺さんは今まだ生存です。1937年、彼は南京の中で住んでいました。あのとき、彼は10歳だけです。僕にあのときの南京の体験を話した時に、彼は老いの涙をぽろぽろとこぼす。
あの時、日本軍人は街で彼と彼の妊娠するお母さんを見えると、レイプをしたがって行った。彼はずいぶん恐れた。立つ力もありません。
お母さんのズボンが日本軍人に残虐に外されたが、お母さんは絶対に彼らに従いません。それに、前の日本軍人の顔によだれを吐きました。勿論、あの日本軍人はずいぶん怒りました。お母さんに刀で横に切ります。二つ部分になります。ああ!お腹の中のもう人の形になる赤ちゃんも出した。幸せである、彼が殺されません。
その時、彼は悲しい感じはなくて、怖い感じしかありません。そして、日本軍人は彼へ行って、笑わせる事やからかうすることをした。最後、刀で彼の腿で刀で日本字を深く刻んだ。
70年もう過ぎても、この怖い傷はまだ発作が起きた。心も痛がる。
「30万」この数字は一体本当かうそだか僕は分かりません。僕は学者ではありませんし歴史家ではありません。多分中国が捏造したが、虐殺することは本当にあります。30万でも3千でも一人でも同じ。まさか数量は減少したら、中国人や南京の被害者や彼らの親類の悲しい感じも減少できる?いいえ、同じです。1937年日本の中の悪い軍人は俺達の感情を害してる。今、拒否の日本人と日本の政府ははやりまだ俺達の感情を害してる。
拒否の日本の男の子、貴方の愛人かお母さんが中国の軍人にレイプされて、どんな感じがあります?
拒否の日本の男の子、貴方の兄弟かお父さんが中国の軍人に標的として練習されて、どんな感じがあります?
拒否の日本の女の子、貴方が中国軍人に从军慰安妇になられて、どんな感じがあります?
貴方達の親類と友達はどんな感じがあるはずです?
だから、拒否の日本の方、俺達の感情を害しないで下さい。
日本と中国は似るところがたくさんあります。彼らは同じなお母さんです。そう?私たちも人間で、全部が同じです。
日本も中国も韓国もアメニカも!拒否の日本の方、ちょっと反省してもいいですか。
この歴史事件を認める日本の方、多分、貴方は「30万」と思いません、大丈夫、あたしは必ずあなたたちに「有り難う」って言います。自分の国の歴史誤りにまともに目を向ける民族は、とてもえらい民族です、絶対!その様な日本の方に敬意を表しなくてもなりません。
僕は大和民族のたくさん長所がとても気に入っています。例えば、仕事熱心や仕事の効率がかなり高いなど。私だちもとても優等です。貴方たちは強い民族、私たちも。二つ強い民族は相互学習することは良くないか?なぜずっと互いに憎む?その様は良くない!
中国と日本は本当の友達になるとはきっと素晴らしい。
僕の言葉はどこが間違えば、ここで伝言して下さい。南京大虐殺することがないと「30万」がうそだと思う人もここで伝言して下さい。貴方の理由を書きて下さい。私は中国人と日本人が直接に通じることができたいです。一緒に真相を探して、議論して。
僕の目的は中国平民が本当の日本を分かられます、これと共に日本の平民が本当の中国を分かられます。
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