1938年1月6日 回答期限を十日に変更
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/05 15:52 投稿番号: [2162 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
262p
《 駐日大使ディルクセンが、四日、広田外相にたいして、
ドイツ側は中国に回答を督促している、と語り、
外相は、十二日まで待つと応えた。
だが、近衛首相は、六日、四相会議
(首相、陸、海、外相)
を招集して、
十二日までは待てぬ、十日までにする、と定め、
回答を催促する内閣書記官長談を発表した。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
472p
《 日本政府は、独大使を通じて示した和平交渉条件の中国側回答が
一月五、六日ころまでには到着するものと期待しつつ年を越した。
ディルクセン大使は、従来の責任上これを捨てておけないので、
一月四日、広田外相に対して国民政府との接触経過に関し中間連絡を行うとともに、
本国政府及びトラウトマン大使にあて、
日本政府から速やかに国民政府の諾否を求められていることを通告した。
(このとき、中国側回答期限を十二日ころとしたが、
のち六日の四相会議で十日ころとするよう変更した)
一月六日、しびれをきらした近衛総理は、陸海外三相を招き、
国民政府にだめを押す相談をした結果、
早く回答しないとためにならぬという意味の内閣書記官長談を発表した。
この談話のなかでは
「もし中国側が如実に反省の真意を示すならとにかく、
わが方としては、あくまで所期の目的達成に邁
(まい)
進すべく、
今後この決意のもとに百般の対策を講ずる」
と述べている。
このころ、すなわち年末から年始にかけて日本側の対支態度には非常な変化があった。
中・北支における軍事的進展と北支、蒙疆における新政権の成立等により、
軍部はもちろん政党、ジャーナリズム、有力な国民層とくに右翼団体等の間に、
蒋介石の国民政府を相手にしなくても中国側を屈服させることは
必ずしも不可能でない、という空気が濃厚に台頭してきたので、
講和促進論者は沈黙せざるをえない情勢となっていた。
従って、前記書記官長談も、一般国民には和平無用論のような印象を与えた。
しかし参謀本部首脳は、長期戦に対する戦力の限界を考え、和平策を堅持していた。》
これは メッセージ 2151 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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