入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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1939年 蒋介石側の工作を破る

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/12 18:44 投稿番号: [2241 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
146〜148p


《 小野寺中佐と会見した戴笠と称する男は、蒋介石の信任状をまず示してから



「和平交渉を日本の大本営とするように蒋介石から秘密の命令をもらって

危険な上海にやってきた。 日華をほんとうに和平させるには

中国を現に支配している蒋介石と手を握るほかはない。

汪兆銘の擁立などに憂き身をやつしているものにはこの理屈がわからないようだ。

私は小野寺機関にお世話を願って、

なるべく早く日本の中央部と直接に和平交渉をはじめたい」



と   「日華和平の具体策について」   という長文の意見書を差し出した。

意大いに動いた小野寺中佐はきっそく、その意見書に添えて

「重慶との直接交渉の橋渡しをしたい」   と東京に報告した。



小野寺機関は   『七十六号』   の力が及ばない日本軍警備区域内の虹口にあった。

この会見が行われてからは藍衣社員は小野寺機関に公然と足繁く出入りしていたが、

巷には敵の宣伝によって日華の直接交渉が戴笠と小野寺中佐の間で

順調に進行中だという風説が、さも事実らしく伝えられていた。


その上、心ない小野寺中佐の部下までが

「蒋介石との和平ができたら、小野寺さんの銅像が九段に立つだろう」   と

放言して、汪派の神経をいよいよいらだたせた。



これは容易ならぬ敵の謀略だった。

『七十六号』   は、すぐそれが敵の工作であることを見破った。

そして李士群は流言の火元を苦心して調べ、

それからまた小野寺中佐が会った藍衣社の首領、戴笠はにせ者であった

ことまで、突きとめて本物の戴笠の写真をそえて報告してきた。



しかし、私はそれを暴くことによって汪政府樹立工作に当たる影佐機関が、

小野寺機関と下手に対立することにならないよう、

うまく解決すべく憲兵隊の林少佐に善処を依頼した。

戴笠は絶対に上海に来ていないと信じている林少佐は李士群から

戴笠の写真を借りて、さっそく小野寺中佐を訪ねた。そして、



「小野寺さん。この写真の中でご存じの人はありませんか」

と戴笠を交えた四、五枚の中国人の写真を取り出した。

「知っている者は一人もいませんね」

「小野寺さんがお会いになった戴笠はいませんでしょうか」

「いませんね」

小野寺中佐は教えるようにいう。



「戴笠はここにある写真のような男ではなく、

もっと福々しくて、一見商人風に見える優男ですよ」

偶然、そこに居合わせた支那通の鹿島宗二郎氏の眼が数枚の写真に輝いた。

鹿島氏は戴笠の写真を引き出した。

「小野寺さん。冗談じゃないですよ、これが戴笠ですよ」



小野寺中佐は愕然と色を失った。

人の好い彼も、はじめてにせ戴笠と会見したことに気づき、

藍衣社の手先に翻弄された自分のみじめな姿を悟ったのである。

こうなっては何の和平交渉があろうか。

一時上海を騒がした小野寺工作は、こうして泡沫のように消えてしまった。》

南京関係の書き込みをやめます

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/11 12:12 投稿番号: [2240 / 2250]
2月中旬投稿機能終了とか、なっていますので、

南京とそのずっと後を平行してかくと、ややこしくなっておりましたが、

Textreamでは、個々の文に対する返信ができないみたいですので、

判りやすくするため、1939年からの分だけにします。

南京関係は既に2回書いてますから、もう止めます。

尤も、Textreamで1939年の続きが書けるかどうか判りませんけど。

1939年 小野寺機関に取り入る美女工作員

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/11 12:01 投稿番号: [2239 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
145〜146p


《 そのころ、上海における藍衣杜の工作責任者は呉開先であった。

彼は、 『七十六号』   と実力で争うには藍衣社が余りに無力に陥っていたので、

逆に日本側に食い入って、汪工作を内部から崩壊させようとした。

そうした藍衣社の手は上海、北京から東京にまで伸びて、

事情にうとい日本側要人を反汪的に躍らせていた。



藍衣社工作員は巧みに化けて日本の有力な官民に接近し、

重慶政府には日本と和平する意思があると宣伝し、

しきりに日本の気を引いたのである。


一例をあげると、上海では陸軍の小野寺機関が藍衣社に利用された。

小野寺機関というのは、ソ連事情に明るい小野寺信中佐を長とし、

昭和十四年ごろ、東京から上海に特派された対ソ情報機関である。



しかし、敵味方が入り乱れて策謀の火花を散らしていた上海は、

中国が初めての小野寺中佐にとっては、あまりにも複雑怪奇であった。

藍衣社は上海に着いたばかりで西も東もわからない小野寺中佐に近づいた。

その時の工作員が丁黙邨を失脚せしめた女間諜、鄭蘋茹だったのである。



彼女は美しい笑顔で巧みにとり入り、小野寺機関のふところ深く食い入った。

母は日本人だという鄭蘋茹、そして日本語の巧みな彼女は

日本の信用を得るには十分なものがあった。

彼女が持ってくる共産党情報なるものは、

店開きをしたばかりの小野寺中佐を簡単に喜ばせ、

遂に彼女をまたとない情報員だと信用してしまった。



すっかり信用をかち得た彼女は、

その後になって自分は藍衣社とも特別なルートを持っているといって、

とある藍衣社の工作員を紹介した。その工作員は小野寺中佐に対し


「重慶政府は日本と和平交渉をしたいと望んでいるが、

それを妨害しているのは汪兆銘である。

新中央政府ができてしまったら、日華の和平は絶望となる。

われわれの首領の戴笠はそれを心配して上海にきて、

日本軍と連絡したいといっている。

いっぺん会って意見を聞いてくれないか」


と言葉巧みにもちかけた。小野寺中佐は会見を承諾した。》

1938年1月22日 第16師団の申し送り

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/10 15:31 投稿番号: [2238 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   276p



《   昭和十三年一月二十二日ごろ、

第十六師団参謀長・中沢三夫の作成した   「南京ニ於ケル申送リ要点」   は、

「先日モ八十八師   (註・師団)   ノ大隊長ヲ捕縛セリ」   と書き、

「特ニ注意スベキハ   各国外交機関内ニ   隠匿シアル

相当階級ノ人物   アルコトナリトス、

右八十八師ノ大隊長ノ   自白ニヨレバ   米大使館内ニ

団長   及   営長尚   (なお)   隠レアリ」   と申し送っていた。》



*   まだ、便衣兵の潜伏が発覚しているみたいですね。

   本の註に、中国の八十八師を師団としてありますが、

   果たしてこれは正しいのでしょうか?

   中国の軍組織では、 「師」   の下に   「団」   がありますので、

   日本の   「師団」   のような物とすべきかも知れません。



   「団」   の下には   「連」、 「営」   があります。

   「団長」   とは第〇〇団の長と言う事であり、

   「営長」   とは第〇〇営の長と言う事。

   「連」   は   「連隊」   のようなものです。

1939年 蒋介石側の美女工作員

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/10 15:16 投稿番号: [2237 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社



『上海テロ工作76号』   の、ここの部分は長いので、要約して紹介します。


元、丁黙邨の部下にして、美人の重慶側工作員が丁黙邨に近づいてきました。

彼は一発でメロメロになり、彼女を   「76号」   に引き入れ、

汪側の秘密や日本側の機密を漏らします。



もちろん、 「76号」   の他のメンバーは反対ですが、恋の虜になった彼は聞きません。

或るとき、彼は、敵の工作員に銃撃されて、やっと目が覚めますが、

同志からは総スカンを食い、 「76号」   は内部分裂となり、

汪側の工作機関としての機能は停止しました。

丁黙邨派が一掃されてから、「76号」   は活動を再開します。



しかし、それまでに、蒋介石側の工作は日本側のあちこちに入り込んでいました。



135p

《 彼女は   『七十六号』   のメンバーとして、

汪派、ひいては日本側の間諜になりすましていた。

日本語もうまい彼女にとって、

多くの日本人たちを手玉にとることは何の造作もなかった。

彼女は、よく日本の軍人たちと虹口   (ホンキュ)   の日本料亭にも出入りし、

女中たちの間で、〝乙姫さま〟のように美しいお嬢さまだと謳われた。》


つづく

1939年11月30日 援蒋ルートの閉鎖を要請

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/09 14:37 投稿番号: [2235 / 2250]
〔昭和14年12月1日   東京日日〕


南支新作戦の皇軍は北海附近に敵前上陸以来、

去る二十四日には南寧を占領し、引き続き残敵掃蕩に当っているが、



敗残の張発奎軍の大部分は四散して広西・仏印国境、雲南・仏印国境、

広西・雲南省境附近の山間に蟠踞して、

重慶方面より南下し来たった蒋直系軍と共同作戦をもって、

執拗なる遊撃戦術により皇軍の戦果を減殺せんと企図しつつあるが、



この遊撃部隊に武器、弾薬、軍需品を補給しつつあるルートは、

全支海岸線が封鎖されている今日、仏領インド支那以外にはなく、すなわち

海防   (ハイフォン)   −   河内   (ハノイ)   −   鎮南関   −   龍州   −

  −   南寧の鉄道、公路による広西ルートと、

海防   −   河内   −   老開   −   河口   −   阿迷州のテン越鉄道による雲南ルートであるが、



ここにおいて仏領インド支那はわが広西作戦と至大の関連を持つに至ったので、

野村外相は三十日午後四時、外務省にアンリ駐日仏国大使の来訪を求めて

約四十分にわたり会談、



帝国政府としては南支作戦によって

なんら仏領インド支那に脅威を与えるものにあらざる旨を説明し、

その代わり仏国政府においてもインド支那を通過する

武器、弾薬、軍需品の輸送をこの際絶対に禁止されたき旨強硬に申し入れたが、



仏国の援蒋中止については従来しばしば帝国政府より抗議したにも拘わらず、

その都度仏国はその事実なしとして言辞を濁しているが、

南支作戦という新事態の発生を機として、

改めて厳重にその返答を要求した模様である。



なお従来仏印経由の軍用品は、いったん重慶に輸送された上で

各地の敵軍に配給されたものであるが、

戦場が広西省に移転、拡大した後は国境通過後、直接に敵遊撃隊に供給され、

皇軍の作戦に多大の障害を与えるに至ったものである。

1938年1月22日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/09 14:28 投稿番号: [2234 / 2250]
一月二十二日

《 ・・・・

マギーがまたしても悪い知らせをもってきた。

日本兵が食用の家畜を追いかけ回し、手当たりしだい運んでいってしまったというのだ。

ちかごろは、中国人の若者を使って豚をつかまえさせている。

なかなかつかまえられなかったり、一匹もつかまえることができなかった

若者は、銃剣で突き殺された。



なかの一人は内臓がはみだして垂れ下がっていたという。

これはみな目撃した人の話だ。

こんなことばかり聞かされていると、気分が悪くなってくる。

そうだ、やつらは犯罪者のよせ集めだと思えばいいんだ。

ふつうの人間にこんなことができるはずがない!



今日、トラックが数台、南の方からやってきて、下関へ向かっていった。

どれも中国兵で満員だ。おそらく捕虜だろう。

ここと蕪湖の間でつかまって揚子江のほとりで処刑されることになっているのだ。



高玉がやってきた。

この人は総領事館警察の責任者だが、そのまま日本大使館付きになっていた。

私は車を一台工面してやったことがある。

徴用証書をもらおうとすると、署名するかわりに無言でそれをポケットにねじこんだ。

がっかりした。》


(以下も省略)



*   「トラックが数台、・・・下関へ・・・どれも中国兵で満員だ。

   おそらく捕虜だろう。ここと蕪湖の間でつかまって揚子江のほとりで

   処刑されることになっているのだ。」



   と言っているが、20日の日記の

  「外交部のなかにある赤十字病院で中国兵が治療されていた」   事との

   矛盾に気づかないのだろうか。

   捕まえた中国兵を全部殺すのなら、治療など必要ない。

   治療してるのに、 「片っ端から殺す」   と考えるのも、不自然。



   それに、揚子江岸で殺して河に死体を流すのなら、

   別に、南京でやる必要はない。

   蕪湖か途中で殺せば、ラーベ達に感づかれなくてすむ。

   南京まで運ぶのは、燃料の無駄、かつ、タイヤがすり減る。

   彼ら外国人は先入観に凝り固まっている為、論理的には考えられないのだろう。

1939年11月30日 ソ連軍・芬国境で攻撃開始

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/08 18:49 投稿番号: [2233 / 2250]
〔昭和14年12月1日   東京日日〕


〔ヘルシンキ本社特電三十日発〕   三十日午前、テリヨキ   (フィンランド)   よりの

報道によれば、ソ連軍はついに国境においてフィンランド領を砲撃し始めた。

またヴィボルグからの報道によれば、同日午前、同地はソ連軍の爆撃を受けたといわれる。



〔ヘルシンキ本社特電三十日発〕   三十日午前、フィンランドのラドガ湖北方の

カレリア地方のスオヤルヴィにおいてソ連側から最初の砲撃あり、

続いてソ芬北部国境のリバチ及びコラ方面においてソ連側が砲撃を加えた。

またフィンランド湾の東部においてもソ連軍艦がフィンランド領を砲撃した。



〔ヘルシンキ本社特電三十日発〕   ソ連軍は三十日、

フィンランドのスオヤルヴィを占領した。

〔ヘルシンキ三十日発同盟〕   カレリア地峡のフィンランド領ヴァンメルスは三十日、

海上からソ連重砲の砲撃を受けた。

ソ連側は恐らくクロンスタット軍港から砲撃を行ったものとみられる。

またカレリア地方ギヴィネブでもソ連砲兵隊の砲撃開始が報ぜられている。



〔ヘルシンキ三十日発同盟〕   ソ連軍はフィンランド湾内セイスカリ島に上陸し、

ソ連バルチック艦隊はヘルシンキに向け進撃中で、

すでにホックランド島沖を通過したと伝えられる。

また工業地帯たる南部のエムソでは焼夷弾が投下され、

病院を含む数戸の建物が破壊された。



〔ヘルシンキ三十日発同盟〕   ソ連軍はフィンランド領の最北端

リバチ半島地方においても軍事行動を開始したが、

三十日午後、すでに同半島内券蘭領重要戦略地区を占領し、

北極圏以北のノルウェー領と極めて接近せる地点まで進出した。



猛爆下のヘルシンキ   〔ヘルシンキ本社特電三十日発〕

ソ連機は三十日午前九時五十分(日本時間午後五時五十分)、

ヘルシンキ飛行場を襲い、五個の爆弾が投下された。

なお同日午前九時二十五分、ヘルシンキに空襲警報が鳴り響き市民は続々防空壕へ避難、

地上から高射砲が発せられると見る間に、同市上空に双発のソ連機一機姿を現したが、

爆弾は投下しなかった。(中略)



〔ヘルシンキ三十日発同盟〕   フィンランド政府筋の非公式計算によれば、

ソ連機爆撃による死者はすでに二百余名に上るといわれる。

ヘルシンキ市工科大学は爆撃のため完全に破壊され、

民家にして破壊されたものは無数に上る模様である。

1938年1月21日 参謀本部 持久戦研究

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/08 18:40 投稿番号: [2232 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   481p


《 第二課戦争指導班   (第一班)   長高嶋辰彦中佐は、一月二十一日、 研究課題

「持久態勢ニ応スル為   陸軍省   乃至   内閣ニ対シ   大本営陸軍幕僚部ノ要望事項」

として



(一)   十六日声明ヲ段階トスル   日支間   客観的情勢ニ   関スル見解ノ統一、

(二)   蒋政権ノ潰滅ト   傘下統合ニ関スル   解ノ統一、

(三)   各地新興政権ノ   連繋   (れんけい)   統一ニ関スル問題、

(四)   新段階ニ応スル   戦争目的ノ確立

   (新政権ヲ助ケルノカ主カ、直接蒋政権潰滅カ主カ)、

(五)   北支政権ト   日満両国政府トノ権限関係ノ設定、非武装地帯   及   駐兵ノ件、



(六)   新段階ニ於ケル   武力戦指導ノ根本方針、

(七)   対支持久戦争   解決ノ為ノ   政略約手段   就中   (なかんずく)

   現地政権ヲ   如何   (いか)   ニ利用スルカノ方策、

(八)   今後ニ於ケル総力戦指導ニ関シ   長期ニ亙ル計画腹案、

(九)   対   『ソ』   情勢判断ニ関スル当局見解ノ統一、

(十)   昭和軍制改革



などを部内に提案しているが、当時の問題点を示すものといえよう。

  この日   (二十一日)   第二課では部員全員が参集し   「今後ノ持久戦争指導方策」

につき研究した。広東作戦の要否が第一の論点となった。》

1939年11月28日 ソ芬不侵略条約を廃棄

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/07 18:50 投稿番号: [2231 / 2250]
〔昭和14年11月30日   東京朝日(夕刊)〕   フィンランドとの不侵略条約廃棄を通告


〔ヘルシンキ特電二十八日発〕   ソ連は二十八日、

一九三二年締結のソ芬不侵略条約を廃棄した。

ソ連政府の同条約廃棄通告文は、

モスコー駐剳フィンランド公使コスキネン氏に手交された。

フィンランドのスポークスマンは、

「ソ連の廃棄通告文の内容は非常に非和協的であった」   とのみ述べ、

それ以上の論評を避けた。



〔モスコー二十八日発同盟〕   二十七日、フィンランド政府の発出した

対ソ回答はソ連側の憤激を買っているか、

モロトフ外務人民委員は二十八日、コスキネン駐ソ芬公使宛て

ソ芬不侵略条約の廃棄を声明せる強硬な新通牒を手交した。

新通牒内容、左の通り。



  一、ソ連政府はソ芬不侵略条約を廃棄する。

  一、国境事件に関するフィンランド側の説明はこれを拒否する。

  一、新たにフィンランド軍の国境撤兵を要求する。


  モロトフ委員は更にコスキネン公使に対し、

フィンランド政府の態度は現下の危機を決裂に導かんことを希望しているものと

認めざるを得ず、重大なる対ソ敵対方針の現れであると警告を発した模様である。



  廃棄の理由   〔モスコー特電二十八日発〕   二十八日、

モスコー官辺ではフィンランドとの不侵略条約廃棄通告の理由として、

フィンランドがソ連に対して同条約の主義、精神に違反せる態度を執ったと述べている。

また国境発砲事件に連関せる国境守備軍撤退の申し入れについては、

フィンランド側は、ソ連が同様に撤兵を実行するなら撤兵に応ずると返答した。



これは理論的には正しいが、実際問題としてはこれに同意しがたい。

人口三百五十万を有するレニングラードは国境からわずか三十哩   (マイル)   の距離に在る。

レニングラード附近でフィンランド軍と同様に国境から撤兵すれば、

レニングラードの安全は到底保証されない。

従ってフィンランド側は一方的に撤兵を実行すべきである。


と主張している。

1938年1月20日 長期戦に備えた大綱作成

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/07 18:40 投稿番号: [2230 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   482p


《 戦争指導班の掘場一雄少佐は、一月二十日

「昭和十三年以降ノタメノ   戦争指導計画大綱案」   第一案を起案し

各方面関係者との調整に入った。

・・・・

この計画の方針は



「先ツ当面ノ対支   持久戦争ヲ指導シツツ   速   (すみやか)   ニ   昭和軍制ノ建設

及   国家総力ノ増強整頓ヲ   強行シテ   対   『ソ』   支ニ国戦争準備ヲ完成ス

此ノ間   『ソ』   邦ノ動向ニ対処シツツ   政戦両略ノ運用ニ依リ

速ニ対支戦争ヲ終局ニ導ク」

「本計画ノ期間ハ   昭和十三年ヨリ   同十六年ニ亙ル   概   (おおむ)   ネ

四年間ト予定ス

爾後近キ将来ニ予想スヘキ   国際情勢ノ一大転機ニ   備フル為ノ戦争準備ハ

右ニ引続キ   之カ完成ヲ期ス」



というものであるが、その具体策となると実行の可能性に問題が多く、

各案とも成案とならなかったが、

長期持久戦について、各部局の注意を喚起するものがあった。

・・・・

次いで一月二十日、陸軍大臣名により



「形而上下ノ万般ニ亙リ   長期持久戦ノ準備ト   対策トヲ要スルノ秋

全軍将兵一致結束   特ニ   堅忍持久ノ精神ヲ以テ   職分ニ最善ノ努力ヲ

傾注スヘシ」


という訓示が全軍に出され、長期戦に臨む将兵の心構えを説いた。》



*   中国大使はこの日、横浜を出帆し帰国した。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   479p


《 日支両国の国交は事実上断絶した。

日本政府は、一月十八日、川越大使に帰朝命令を発し、

(二十八日上海発、三十一日東京着)、

許世英駐日大使は、一月二十日、横浜を出帆して上海に向かい、日本を退去した。



注   駐日大使館参事官揚雲竹以下一部の館員は昭和十三年六月十一日まで在留した。

   日本側も伊藤述史公使が昭和十二年十月から翌年三月まで、

   谷正之公使が三月から同年十二月まで、

   森島守人参事官は同年三月から翌十四年七月まで上海に出張駐在し、

   対中国及び第三国との接触に当たった。》

1939年11月27日 ソ連・フィンランド紛争

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/06 18:52 投稿番号: [2229 / 2250]
〔昭和14年11月29日   東京日日(夕刊)〕

芬蘭   (フィンランド)、 〝発砲無根〟を回答   〔モスクワ本社特電二十七日発〕

ソ芬   (フン)   国境の発砲事件に関するフィンランドの対ソ回答を携えた

フィンランド使節は二十七日午後零時三十分、モスクワに到着したが、

同回答の内容は次のごときものであるといわれる。



フィンランド側の発砲事実は絶対になし。

従って本使節は、フィンランドはなんら対ソ敵対行為をあえてせしことなき旨を

説明する義務を持つものである。

また両国軍隊の国境相互撤退の協商に喜んで応ずるものであって、

フィンランドはこの撤退を実施するため、

一九三八年九月二十四日のソ芬国境協定に従って共同委員会を設けることを

申し込むものである。



〔ヘルシンキ二十七日発同盟〕   ソ芬国境事件に関しソ連政府は、

フィンランド兵の国境線より二十五キロ以外に撤退を要求したに対し、

フィンランド政府がいかなる回答を発するかは極めて注目されていたが、

二十七日、フィンランド外務省の漏らすところによれば、

フィンランド政府はすでに二十七日中にソ連に対して回答を発し、

右回答においてフィンランドは、もしソ連が同様に国境線から撤兵するならば、

フィンランド側もソ連の要求を受諾する用意ある旨通告した模様である。



〔ヘルシンキ二十七日発同盟〕   フィンランド政府は事態の重大化に鑑み、

二十七日、国境附近駐屯の同国軍隊に対し、

ソ連軍側からたといいかなる挑発的行為を受けようとも、

断じてこれに応ずることなく冷静を保つべき旨厳命を発した。

1938年1月18日 参謀本部第一部長に

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/06 18:43 投稿番号: [2228 / 2250]
橋本少将就任。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   481p


《 持久戦に応ずる陸軍側の研究

陸軍中央とくに参謀本部は、長期持久戦を回避するため、

事変当初から不拡大方針の堅持につとめ、

あるいは和平交渉の機会をうかがっていたが、

今や、いよいよ長期持久戦を覚悟しなければならなくなった。



しかし、いまだ対ソ準備についての危惧   (きぐ)   の念は去っていないので、

今までのように中国に兵力を増加できないし、

政府は強気なことをいうが、どのようにして事変を処理しようとするのか、

という疑念もあった。



従って、軍としては、この際、徹底した持久すなわち大規模な計画を立てて

本当の持久戦にとりかかろうという気分になった。


一月十八日、前第一軍参謀長橋本群少将が参謀本部第一部長に着任し

(下村定少将は病気のため、一月十一日、更迭)

第一部は活発な研究を開始した。》



*   橋本少将は盧溝橋事件の時の支那駐屯軍の参謀長で、停戦協定締結に尽力した人。

   下村定少将は南京進撃を進めた人物。

   橋本少将は和平派の人物。

1939年11月 蒋介石との直工作を探る人

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/05 18:57 投稿番号: [2227 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
230〜232p


《 参諜本部第二部長樋口少将は、いずれにせよ、学長スチュワートに

不信を表明し、喜多中将にも明言した。

三カ月くらい前までは、参謀本部にも蒋介石との直接和平を

考えている者がいたが、「今日はさような不心得者なし」。

汪政府樹立で事変を解決する、というのである。



   −   だが、

少将がいう   「不心得者」   は、なお潜在していた。

汪兆銘の重慶脱出工作に主要な役割りをはたした参謀本部支那課長今井武夫大佐は、

支那派遣軍の新設にともない、その参謀   (第二課長)   に転出した。



自身の希望によるもので、大佐はその理由を、

「汪工作は全面和平を目的に推進していたのだが……

突然占領地内に政府を作るといわれて目算がはずれてしまった。

そこで……新たな対重慶和平工作を決意し、

自ら総軍   (支那派遣軍)   に転出することを願い出た」

と、述べている。



明らかに   「国策」   とは背離する意向だが、

同様の考え方は、戦争指導班員秩父宮雍仁中佐をふくむ参謀本部、

陸軍省の中佐クラスの有志たちの間でも発生し、

その一人、中国在勤の経験をもつ参謀本部支那班長鈴木卓爾中佐を

香港に派遣して、重慶側と接触させようと議決していた。



鈴木中佐は、三月に支那班長に就任したばかりだが、

この 〝同志〟 たちとの協議のあと、

十一月二十一日には、支那派遣軍総司令部付となった。

上司の諒解の下での転出であるが、

人事にも影響をおよぼし得る当時の中堅将校の   「実力」   を

ものがたる事例でもあろうか……。



汪兆銘にたいしては、十一月一日から、同日の閣議で決定された

「中央政治会議指導要領」   を提示して、上海で交渉が開始された。

汪政権が樹立されたのちの日本側の軍事、政治、経済上の   「要望」   を

列記したもので、実際には、大幅な   「権益」   の要求である。



内容は、日本占領地区の 〝満州国化〟 にひとしく、

汪兆銘側は駐兵、撤兵を中心に多くの条項について異議を申し立て、

修正を要求して交渉は難航した。


鈴木中佐は、南京に着任すると、今井大佐の同意を得てただちに香港にむかったが、

そのころ、十一月二十五日、上海での交渉は決裂状態になり、

汪兆銘も、政府樹立をあきらめる旨を影佐少将にもらすほどであった。》

1938年1月18日 近衛首相会見と国交断絶

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/05 18:48 投稿番号: [2226 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   479〜480p


《 政府の対支方針と国家総動員体制の推進

一月十八日午後、近衛首相は内閣記者団との会見において

「帝国政府の対支方針は、国民政府の潰減を期するにあり」   と前提し



「(一)   国民政府を対手にしないということは、国交調整をなすべき対手としない

   という意味であって、戦いの対手としないというのではない。

   今後は、国民政府を壊滅に導くため、軍事行動はもとより、

   あらゆる手段を講じなければならぬ。



   しかし第三国の権益は尊重し

   かつこれらとの友好関係をより一層増進するためには、

   外交工作が極めて重要である。   なお国民政府が屈服し、

   今までの抗日政策を捨てて新興政権の傘下に入ることもあり得るが、

   それは中国内の問題であり、こちらの関知したことではない。



(二)   新興政権に期待するものは、東洋平和のため真に提携できるという点にあり、

   満州国に求めるような国防的意味は新政権には全くない。

   今日では、必ずしも北支政権をそのまま中央政府にしなければならぬ

   という考え方ではない。   しかし現在の北支政権が中心となり、

   しだいに各地の政権が合流吸収されて統一政府に発達するだろう。

   その政権が真に提携できる政権ならば、われわれが国民政府に要求したよりも

   さらに寛大な条件で交渉に入ることができよう。



(三)   占領地の経済回復は強力に推進せねばならぬ。

   これがため内地資本家をはじめ、中国や外国資本家の進出も歓迎する。

   しかし、ある程度の国家的統制もやむをえぬので、

   一種の国策会社ができるだろう」


などと、今後の新情勢に臨む政府の決意を述べた。



  注   当時内閣書記官長であった風見章は

   「近衛首相の判断では、国民政府はやがて一地方政権に転落するであろうから、

   日本が長期戦に引きずり込まれる心配は少ない。

   また新政権の育成により時局収拾のみちが開かれるという

   認識に基づいたものであったのはいうまでもない」   と述べている。》



479p

《 このようにして、日支両国の国交は事実上断絶した。

  日本政府は、一月十八日、川越大使に帰朝命令を発した。》

1939年11月13日 仏の駐屯軍も撤兵通告

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/04 18:50 投稿番号: [2225 / 2250]
〔昭和14年11月14日   東京朝日〕


英国の北支駐屯軍は欧洲動乱の勃発により、

財産保護及び治安維持に必要な兵員のみを残しその引き揚げを行うこととなり、

クレーギー駐日英大使は十三日午前十一時、野村外相に右の旨通報したが、



仏国政府も英国と同様、北支駐屯軍の一部を引き揚げることに決定、

アンリー駐日仏大使もクレーギー英大使に引き続き同日午後五時、

外務省に谷次官を訪問、クレーギー大使が野村外相に通報したものと

同一趣旨の文書を谷次官に手交、同二十五分辞去した。



〔パリ十三日発同盟〕   英国政府は十二日、北支駐屯軍の引き揚げを発表したが、

仏政府も英国と同一行動をとり、北支駐屯軍の大部分を本国に引き揚げるに決し、

その旨十三日、陸軍省から次のごとく発表された。



欧洲戦争の勃発に伴い、

英仏両国は一九〇一年の団匪議定書に基づく北支駐屯軍の一部を撤退する事に決定、

これら駐屯軍の大部は近く本国に帰還する事となった。

ただし仏国政府は今後とも次の諸項には十分の注意を払う心算   (つもり)   である。

すなわち、



一、北京その他にある英仏両国権益の安全確保。

一、日本軍占領地域における上記権益の保持。

一、天津英仏租界の警備。

  そのためにはなお若干の分遣隊を天津に駐屯せしめるはずである。

右の措置は英仏以外の団匪議定書調印国にも通達済みである。(後略)

1938年1月18日 アリソン殴打事件の前段階

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/04 18:45 投稿番号: [2224 / 2250]
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   165p


《 ベイツよりアリソンへの一月十八日付報告には、

朝十時半、小粉橋三号の小桃園大学敷地に一月十四日と同じ憲兵がいて、

好きなように各部屋を捜索していたが、

見つけられてほぼ向かいの小粉橋三二号の本部へ入ってゆくのを観察した

(①157頁)   旨が書かれている。

この後に、大問題になった   「アリソン殴打事件」   が起きるのである。》



注:   ①は青木書店刊   『南京事件資料集』   のアメリカ関係資料編  



*   一月十四日と同じ憲兵は

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=2200

を参照して下さい。

1939年11月 欧洲戦で英・華北駐屯軍引揚げ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/03 15:52 投稿番号: [2223 / 2250]
〔昭和14年11月14日   東京日日(夕刊)〕


欧洲戦争勃発と同時に帝国政府は、

去る九月四日の閣議で欧洲戦争不介入、支那事変処理邁進の国是を決定し、

翌五日、当時の沢田外務次官をして英、仏、独、波   (ポーランド)   の交戦国

在京大使に対し右の次第を申し入れるとともに、



「支那において交戦国との間に不慮の事端を誘発する虞れある原因を除去

することにつき交戦国の深甚なる考慮」   を促し、

中立国たる米伊両国大使へも右申し入れを通報し、

わが出先当局においても事端誘発原因の除去を通告要求したまま今日に至ったが、



クレーギー駐日英大使は去る十日、谷次官を訪問して、

北支における鉱山権益の戦前復活並びにその保障を申し入れ、

わが方またその趣旨に異存なき旨を答えたので、



英国政府はまず現在北支に駐屯する約一千名の兵員の大部分を

この際撤兵することになり、租界警備その他に要する最小限の兵員

  (一九〇一年団匪議定書による各国司令官会議によって最小兵員数を決定、

ただしその員数は統帥事項なるゆえ秘密に付せられている)   だけを残すこととなり、



クレーギー大使は十三日午前十一時、外務省に野村外相を訪問、

わが方の撤兵申し入れに聴従したる別項のごとき公文通告を手交し、

支那における自国権益の取扱いについて種々懇談、同午前十一時五十分辞去した。



    北支撤兵に関する英国政府の公式通告文


英国政府は一九〇一年団匪議定書に従い、北支に一定の兵力を保有しいるところ、

欧洲戦争に基づく軍事的必要により、

これを財産保護及び治安維持に必要なる兵員のみとすることに決定せり。

右決定は一九〇一年議定書により、

北支に駐屯軍を有する他の各国政府にも通報せられたり。



関係各国へも通達   〔ロンドン本社特電十二日発〕   英国陸軍省は十二日、

軍事上の便宜のため北支にある英国駐屯軍の大部分を引き揚げ、

単に同地方における英国人財産保護と秩序維持に必要と思われるだけの兵員を

残しておくことに決定した旨発表した。

なお右決定は北支に駐屯軍を有する各国政府に通告された。

1938年1月20日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/03 15:39 投稿番号: [2222 / 2250]
一月二十日

(前の数行   日本軍の悪と関係ないので省略)


《 この間、近所の作りかけの家からレンガを二、三千ばかり失敬してきて、

テントや小屋のあいだに細長い通路を作った。

こうしておけばすこしは泥よけになる。



そのほか、仮設便所のまわりにレンガで壁を作ったので、いくらか見栄えがよくなった。

もっともこんなことをしたところで、焼け石に水だが。

依然としてあたり一面泥の海にかわりはない。

そこらじゅうでせき込んだり、吐いたりしているが、さもあらんと思う。

一番心配なのは伝染病だ。



われわれの国際赤十字代表のマギー牧師が、

外交部のなかにある赤十字病院の中国人看護婦から聞いた話を伝えてくれた。

ここは我々外国人は立ち入り禁止だが、看護人は買い物のためにときどきは外出できる。

あるとき、看護婦が本部に立ち寄ってこんな報告をしていったという。



一人の中国兵が、食べ物が不十分だと苦情を言ったらしい。

給食は小さなお椀で一日おかゆ三杯だそうだ。

するとその兵士は監視の日本兵に殴られた。

さんざん殴られたあとで、腹が減っているのがいけないのかと言ったところ、

中庭にひきずり出されて、銃剣で突き殺されてしまったというのだ。

この処刑の様子を看護婦たちは窓から見ていた。



難民の誰ひとり、安全区から出ていこうとしない。

もとの家に戻ろうとした人たちが大ぜい、日本兵から石を投げつけられて

追い払われたり、あるいはもっとひどい目にあったりしたからだ。

それなのに、街には日本軍のこんなポスターが貼られている。

「家へ帰りなさい!   食べものを支給します。日本軍を信用しなさい。

我々はみなさんを保護します」》



*   「近所の作りかけの家からレンガを二、三千ばかり失敬して」


   結局、ラーベも略奪しているではないか。

   どうして日本軍の徴発を非難できるのか。



*   「一人の中国兵が、食べ物が不十分だと苦情を言・・・殺されてしまった」


   ラーベ達の話では、捕まった中国兵は片っ端から処刑されていた筈。

   兵どころか市民までも殺されたと。

   ところが、この中国兵は病院で治療されていた。

   それまでの話と違うではないか。



*   「もとの家に戻ろうとした人たちが大ぜい、

   日本兵から石を投げつけられて追い払われたり」


   そもそも、日本軍が   「もとの家に戻れ」   と言っているのに、

   それを日本兵が妨害して、何の意味があるのか?

   日本兵に化けた中国兵が、日本軍の命令に従う中国人に腹を立てて、

   妨害したと言うのなら解るが。

1939年11月 汪政権と日本の思惑のずれ2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/02 14:52 投稿番号: [2221 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
130〜131p


《 影佐少将   (進級)   は日本の中央部に意見を具申して、

新中央政府をつくる前に近衛声明を具体化し、

これら見解の相違を調整しなければならないと強調した。



こうして汪兆銘の和平運動は、日本との国交の回復を議する交渉と一転し、

汪側は重慶に対する工作を放置して、

近衛声明を日本にどうして実行させるかだけに没頭し、

日本も意見の交換とその調整に精力を使い減らした。



だが、その頃こそは和平を策する絶好の機会であったのである。

重慶政府は前に述べたごとき危機に臨んでいた。

この機に処してあらゆる努力を事変の処理にだけ集中して、

和平を争い取るべきであったが、日本の当局と一派の首脳は、

和平を求める手段に過ぎない新政府の樹立の手続きにのみ熱中して

本来の目的を忘れ、いたずらに蝸牛角上の理論闘争に終止し、

遂にこの好機を逸したのであった。



すなわち日本政府は近衛声明を具体化すべく、十月ごろまで数十回の会議を重ねた揚句、

双方の意見を折衷した妥協案を作ったが、現地軍にも汪側にも不満が多く、

議論は沸騰して果てなかった。それに会議難航の噂は悪質なデマとなり、

重慶側の逆宣伝と相まって汪工作は失敗したとまで伝えられた。



しかし、影佐少将の隠忍と周仏海の努力によって、さしも難産をきわめたこの交渉も

「新政権に対する具体的協力方案」   となって、十一月に決定した。

「協力方案」   には周仏海も内心不満ではあったが、

戦争がつづいている現状では仕方がないと、そのまま上海に持ち帰った。



高宗武、陶希聖などの理想派は果たして猛烈にこれに反対した。

彼らはとうとう日本にだまされたと怒り、

和平運動の成功はおぼつかないから政府の樹立は中止したがよい、

とまで強硬に主張した。



しかし、汪兆銘はもう一度冷静に検討しようと

高宗武、陶希聖を除外して慎重に研究した結果、

若干の修正を加えて年末になって受諾することにした。

この最後案は日本との国交調整の基礎資料となったが、

日本政府でも昭和十五年四月、 「日華新関係調整方針」   として正式に決定した。》

1938年1月17日 駐支独大使に

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/02 14:45 投稿番号: [2220 / 2250]
打切り通告届く



児島襄著   『日中戦争4』   278p


《 ドイツは、既述したように、中国の抗戦能力を   「長くて六カ月間」   と推算している。

駐支大使らO・トラウトマンは、日本側の交渉打ち切り通告を十七日に

うけとったが、すかさず外相C・ノイラートに打電した。

「中国にいま一度再考の機会を与えるため、同通告は行政院長孔祥煕に伝達せず」



実際には、日本側通告はベルリンからの訓令によって中国側につたえられるが、

大使トラウトマンの電文には、中国の将来への悲観的見とおしがにじみでている。

「日中間の戦争は、新しい章のはじまりを記録することになった」

駐日ドイツ大使ディルクセンは、和平仲介が不成功に終ったあと、

ベルリンにそう報告している。》

1939年 汪政権と日本の思惑のずれ1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/01 18:55 投稿番号: [2219 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
128〜130p


《 汪兆銘の和平運動は内外情勢の好転に恵まれて、その前途は光明に満ち、

日華の工作当事者は昭和十五年一月までに政府を成立させるべく努力していた。


だが、その準備を具体的に進めるに伴い、樹立の方針について意見の食い違いが

日華の間にあることがわかり、工作の前途を不安にした。

それは全面和平と近衛声明の実行時期をめぐって、

日本の現地軍と汪側に相入れない見解の相違があったからである。



そもそも、昭和十三年十二月の近衛声明は和平条件というよりも、

友好と共存を主張した政治理念と称すべきもので、

その前提は日華の両国の交戦状態が停止されることであり、

その実行には、さらに具体的な取り決めが必要であった。


だから重慶に戦争の停止を強いる力がない汪兆銘政府を相手にして、

近衛声明をいま直ちに実行することは、

日本だけが戦争の続行に不利を被る現実を無視する空論であると思われた。



しかるに汪兆銘は、近衛声明は自分の   「日華和平条件試案」   を

日本政府が体裁を整え、自分の要求によって公表したものであると思いこんで、

新政府が成立したならば東京における約束にしたがって、

直ちに実行に移されるべきものであると信じていた。



しかし、現地の日本軍の見解は、それと違っていた。

近衛声明を実行しても全面和平はすぐには期待できない。

成立早々の弱体な新政府に作戦の基盤である占領地を委ねるのは不安である。


近衛声明は戦争をつづけるのに差し支えないように、

実行の順序と範用を考えねばならないと主張した。

現地軍の意向を知った汪兆銘の幕僚は、

日本は近衛声明を実行することに反対であると邪推した。



彼らは政府を急いでつくると、とんでもない条約を日本から押しつけられて

進退両難に陥り、政府は崩壊するか傀儡に甘んずるか、

いずれにせよ、和平運動は民衆の支持を失って失敗するだろうと憤慨した。


影佐少将   (進級)   は日本の中央部に意見を具申して、

新中央政府をつくる前に近衛声明を具体化し、

これら見解の相違を調整しなければならないと強調した。》


つづく

1938年1月17日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/01 18:45 投稿番号: [2218 / 2250]
一月十七日

《 ・・・・

日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。

あまりのことに言葉もない。

近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。

かつての目抜き通り、イルミネーションなら上海の南京路にひけをとらないと、

南京っ子の自慢の種だった太平路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。


・・・・

瓦礫 (がれき)、また瓦礫だ! いったいだれが元通りにするというんだ!

帰り道、国立劇場と市場の焼け跡によってみた。

ここもなにもかもすっかり焼け落ちていた。


南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、

あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。

まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、

三分の一どころか半分が廃墟と化したと言ってよいだろう。



日本軍は安全区から出るようにとくりかえしいっているが、

私は逆にどんどん人が増えているような気がする。

上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。


いまは道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。

そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、

なかには盗まれた故宮宝物もまじっている。



難民の数は今や約二十五万人と見積もられている。

増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。

かれらは、どこに行ったらいいのかわからないのだ。》



*   「道の両側に・・・ありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、

   なかには盗まれた故宮宝物もまじっている」


   これを見て、ラーベは自分の思い込みの間違いに気づかないのだろうか。

   露店で売られている物の中に、 「盗まれた故宮宝物もまじっている」

   という事は彼らこそが、本当の略奪者ではないか。

   南京の外から、衣料品など仕入れて来れないのだし。

   彼らが、略奪して、証拠隠滅のために放火したと言うべきであろう。



*   「増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。」


   王固盤が20万人と言った時、まだ難民区はできていなかったし、

   廃墟もなかった。

   城内全域で20万と言ったのだ。   ラーベは話をすり替えている。

   五万人増えたのは、潜伏した中国兵が市民として登録されたからだろう。

1939年10月14日 援蒋ルート遮断準備

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/31 19:05 投稿番号: [2217 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
226〜227p


《「(東京出発のさい)   事変解決ガ第一、作戦ハ第二ト特命サレタ」

と、総司令官西尾寿造大将が述懐している点にも、その辺の事情はうかがえるはずである。

だが、事情はさっそくに急転した。



「作戦ハ第二」   の指示をあたえられた西尾大将が南京で統帥を発動したのは

十月一日であったが、そのわずか二週間後の十月十四日、

南寧攻略作戦が示達されたのである。

作戦の主唱者は、九月十三日に着任したばかりの参謀本部作戦部長富永恭次少将であった。


・・・・


富永少将の場合は、インドシナのフランスの 「援蒋ルート」 の遮断をこころざした。

ハイフォンから昆明に通ずるテン   (サンズイ+眞)   越鉄道が、

インドシナの 〝援蒋幹線〟 であるが、

ハノイから北東にすすむ支線は広西省境のドンダンに到達し、

そこからもトラックで物資が輸送されていた。

このインドシナとビルマの補給ルートが、いわば蒋介石の   「動脈」   である。


・・・・・


英国が管轄するビルマから雲南に至るルートは遠いが、

フランス側のハノイから広西省境のルートの中国側拠点を制圧するのは、

大兵力を動員しなくてもできる。

南寧を攻略して飛行場を確保すれば、テン   (サンズイ+眞)   越鉄道の

中国側部分を爆撃できるし、

実質的に二本の   「動脈」   の一本ぶんの活動を封止することができる。



そして、いずれ、ヨーロッパ戦争でドイツとフランスが直接に戦い、

フランスの旗色が悪くなったときには、

南寧地区の拠点はインドシナ進出の基地にもなり得るであろう……。



この発想は、のちのインドシナ進駐という南進策を示唆しているが、

富永少将は、 「これが支那事変での最後の作戦です」   と強調して、

しぶる参謀次長沢田茂中将に南寧作戦を承知させたのである。

支那派逮軍総司令官西尾大将は、十月十九日、

第二十一軍司令官安藤利吉中将にたいして、

指揮下の第五師団、台湾旅団で南寧を攻略するよう命令した。》

1938年1月16日 間に合わなかった口上書

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/31 18:45 投稿番号: [2216 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   478〜479p


《 中国では、十五日、孔祥煕行政院長がトラウトマン大使に、

十三日の口上書よりも、さらに妥協的に表現した口上書を

日本側に伝達してくれるよう求めた。

孔祥煕は、中国政府は日本側提案に対し決して

回避的態度をとろうとしたのでない、と熱心に述べた。



しかし、ディルクセン大使が本書を日本側に手交する前に、

日本側から交渉打ち切りの通告があった。



一方、参謀本部は、十六日夕、ドイツ武官から、右の孔祥煕の口上書を受けた。

(第十回情報という)   十六日朝、東京のドイツ大使館に到着したが、

暗号がとけなかったため夕刻となった。



参謀本部では、右口上書によれば、脈のあることはもちろん少ないが、

文面には和平の誠意を有している。

従って内閣が   「脈なし」   としたことは重大な誤判断であるとし、

上聞に達することなども含め種々の方策を検討したが、

結局、しばらく今後の情勢の推移をみることとした。》



*   こう書いてあると、いかにも中国側がまだ、和平の意思を有していて、

   打ち切った日本が悪いかの様にとれるが、

   そもそも、蒋介石は和平を望んでいなかったし、

   孔祥煕が勝手に、文書を出しただけだから、何の解決にもならないだろう。

   日本が応じても、中国側の時間稼ぎになるだけ。

1939年10月4日 抗日テロ団の主力を逮捕

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/30 18:59 投稿番号: [2215 / 2250]
〔昭和14年10月5日   東京日日〕


〔上海本社特電四日発〕   重慶政府の手先となって上海を有力地盤として

蠢動しつつあった抗日テロ分子は、一昨年以降唐紹儀、周鳳岐、馬育○ (毎+亢) 等

親日要人をはじめ維新政府外交部長陳○ (竹+録)   氏系を連続的にその毒手に

殪   (たお)   し、或いは南京毒杯事件など戦慄すべき暗殺行為を続けて来たが、



これに対し上海総領事館警察ではその捜査、検挙に坂警察部長   (現警視庁官房主事)、

橋爪書記生以下涙ぐましい努力を続けた結果、

最近ついに上海抗日テロ団体の主流たる重慶政府軍事委員会特務処直属の

凌秋雲を首魁とする上海特務行動隊の重要人物、

上海特務行動隊第三隊長応渭水以下二十数名を一網打尽に逮捕した。



この行動隊は重慶政府軍事委員会調査統計局局長賀耀祖によって組織され、

その実権は副局長たる藍衣社最高幹部であり、軍事委員会、蘇浙行動委員会、

忠義救国軍総指揮を兼ねる載笠の手にあって、

南京、平津、香港、上海の各地に   「通訊区」、 その他重要地に   「站」   を設け

無電台を置き、一カ月十万元以上の金を支出する等、驚くべき組織機構をもっていた。



わが領事館警察部では今年三月から内偵を開始、一隊は七月十二日未明、

工部局日本隊数名の応援を得て決死共同租界派克路二号を襲って、

ピストルに手をかけんとする応渭水を逮捕したほか、

一隊はフランス租界環龍路一四二号の唐紹儀暗殺犯人駱意の寝込みを押え、

その他共同、フランス両租界の各所にわたり疾風迅雷的検挙を続け、

ほとんどその策源地を掃蕩した。



他の押収した犯人の武器はモーゼル拳銃三〇、弾丸三千数百発、

手榴弾十数、その他重要秘密証拠多数に上った。

なお上海市長傅宗耀、大陸銀行総理許漢郷、陳中孚等をも

その暗殺目標としつつあったことが暴露した。

1938年1月16日 国民政府ヲ対手トセズ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/30 18:46 投稿番号: [2214 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   275p


《 一月十六日。   午前十時十分すぎ、広田外相はドイツ大使ディルクセンの来訪をもとめ、

これまでの和平仲介の労に感謝したあと、中国側には和平意思がないと認めるので

これ以上の交渉は中止する、ドイツの仲介も謝絶する、と通告した。



大使ディルクセンは、日本側の決定は過早ではないか、と首をかしげ、

次のように指摘した。

「中国側の引きのばし的不満足な姿勢にたいし、

日本側が待ちきれなかったことは理解できるが、

世界の人々の眼には、日本側に交渉決裂の責任があるように、

うつるのではなかろうか」



大使ディルクセンは、前述したように、交渉を決裂させたのは蒋介石側だと観察している。

大使の発言は、その意味で、日本側から交渉拒否をいいだすのは

自ら不利をまねくことになる、との忠告であったわけである。



広田外相は、しかし、反応せず、そのあと、正午に日本政府は声明した。


「……仍   (よっ)   テ帝国政府ハ、 爾後   (ジゴ;今後)   国民政府ヲ対手トセズ。

帝国ト   真ニ提携スルニ足ル   新興支那政権ノ   成立発展ヲ期待シ、

是   (これ)   ト 両国国交ヲ調整シテ、 更生新支那ノ 建設ニ協力セントス」


世にいう   「蒋介石ヲ対手トセズ」   声明   である。》




戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   476p


《 政府は十六日次のような声明を発した。


帝国政府ハ   南京攻略後   尚ホ   支那国民政府ノ反省ニ

最後ノ機会ヲ   与フルタメ   今日ニ及ヘリ

然ルニ国民政府ハ   帝国ノ真意ヲ解セス   漫   (みだ)   リニ抗戦ヲ策シ

内   民人塗炭ノ苦ミヲ察セス    外   東亜全局ノ和平ヲ 顧ミル所ナシ

仍テ   帝国政府ハ   爾後   国民政府ヲ対手トセス   帝国ト真ニ   提携スルニ足ル

新興支那政権ノ   成立発展ヲ期待シ   是ト   両国国交ヲ調整シテ

更生新支那ノ建設ニ   協力セントス



元ヨリ帝国カ   支那ノ領土及主権   竝   (ならび)   ニ   在支列国ノ権益ヲ

尊重スルノ方針ニハ   毫   (ゴウ;少し)   モカハル所ナシ

今ヤ東亜和平ニ対スル   帝国ノ責任愈々   (いよいよ)   重シ

政府ハ国民カ   此ノ重大ナル任務遂行ノタメ   一層ノ発奮ヲ冀望   (きぼう)   シテ止マス



これは御前会議で和戦両様の方策を定めた   「支那事変処理根本方針」   の

「支那現中央政府カ   和ヲ求メ来ラサル場合ニ於テハ   帝国ハ爾後

之ヲ相手トスル   事変解決ニ   期待ヲ掛ケス」   の項によるものであるが、

この声明では   「爾後国民政府ヲ対手トセス」   と断定的に否認したものであった。

これに対し、国内の表面的世論は政府のこの声明をもって英断なりと共鳴した。



しかし   「対手にせず」   とは文字どおり国民政府と和平の話はしないという意味で、

この用語の持つ俗語味のために多少の融通性を感じさせ

(外務省の提案当事者は、これがねらいであり、とくに   「相手」   を

「対手」   に換話したという)

後日になって、あるいは国民政府と和を談ずることもあろうかという

いちまつの含蓄を務めるような印象をも内外に与えた様子であった。》

1939年9月28日 独ソが国境・友好条約

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/29 18:50 投稿番号: [2213 / 2250]
に調印


〔昭和14年9月30日   東京日日〕


〔モスクワ本社特電二十九日発〕

ソ連政府は二十九日、次のごときコンミュニケを発表した。


二十七日及び二十八日、ソ連首相兼外相モロトフとリッベントロップ独外相の間に

行われたる商議の結果、ここに独ソ国境並びに友好に関する条約の締結を見たり。

右商議にはソ連側スターリン共産党書記長、駐独ソ連大使シュクヴァルチェフ

及び   駐ソ独大使シューレンベルグの三氏も参加せり。

本条約調印と同時に独ソ両国政府の共同声明が発せられ、またモロトフ、

リッベントロップ両外相間に両国の経済問題に関する書簡が交換されたり。



〔モスクワ本社特電二十九日発〕   二十九日発表された独ソ友好、国境条約内容、左の通り。


  第一条   独ソ国境は付属地図に示されるごとく決定する。

  第二条   独ソ新国境線は永久的なものにして、これに関していかなる

    第三国の権利といえども介入することを許さず。

  第三条   ドイツは第一条に示された国境線の西方、

    ソ連は同国境線の東方の領土にそれぞれ国土の再建設を行うが、

    独ソ両国がそれぞれのイデオロギーに基づいて行う領土再組織については

    相互に干渉せず。



  第四条   独ソ両国政府は、現存する両国の制度が両国国民のための基礎で

    あることを認めることに同意する。

  第五条   本条約は可及的速やかに批准され、批准書はベルリンにおいて交換される。

   ただし本条約は調印とともに効力を発生するものとす。



〔モスクワ本社特電二十九日発〕   リッベントロップ、モロトフ独ソ両外相は

ポーランド分割に関する独ソ条約調印後、次のごとき共同声明を発した。


  二十九日早暁、リッベントロップ独外相とモロトフ・ソ連外相との間に

  両国国境画定に関する条約が調印された。

  右条約はポーランド崩壊後起こった諸問題を最後的に調整し、

  欧洲の恒久平和の基礎を形づくるものである。

  従ってその条約は真にすべての国家の利害に関係すると同時に、

  英仏との間に存在する戦争状態を停止せしめんとするものである。



  独ソ両国政府は必要あらば、他の友好国をともに可及的速やかに

  この目的を達成せんがために努力を続けるであろう。

  しかしながらもしその努力が失敗に帰するならば、

  戦争継続の責任はすべて英仏側に帰せらるべく、

  独ソ両国はそれに関し協議して必要なる処置を講ずるであろう。

(以下略す)

1938年1月16日 南京警備は天谷支隊に交代

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/29 18:37 投稿番号: [2212 / 2250]
ラーベ達、外国人が、日本軍の犯罪を訴えつづけるため、

第16師団は南京警備から外され、代わりに天谷支隊が警備につきました。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   432p


《 天谷支隊は、司令部、歩兵第十旅団主力を揚州、各一部を儀徴、

仙女廟、邵伯鎮に配備していた。


支隊は一月八日揚州付近の警備を第三師団と交代し、

一月十六日、南京に到着、第十六師団に代わり同地の警備に任じた。》

1939年9月28日 ソ連 エストニアと

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/28 18:49 投稿番号: [2211 / 2250]
相互援助条約を締結



〔昭和14年9月30日   東京朝日(夕刊)〕


〔モスコー特電二十八日発〕   ソ連政府は二十八日、

エストニアとの間に相互援助条約及び通商条約を締結した旨声明した。

ソ連タス通信杜は、右条約が去る二十四日から開始され四日間に亘った

交渉の後、二十八日、調印されたものであると述べている。



二島嶼をソ連基地に、条約の全文   〔モスコー二十九日発同盟〕

ソ連政府は二十九日早朝、ソ連・エストニア相互援助条約の内容を公表したが、

条約全文左の通り。



第一条   両締約国は、欧洲強国のある国が両締約国のバルチック海に面する

   海上国境、ラトヴィア共和国と接する陸上国境

   及び第三条に明記された軍事基地に対し直接的侵略を加えた場合、

   または侵略の脅威がある場合、

   相互に軍事的援助を含むあらゆる援助をなすべきことを約す。


第二条   ソ連はエストニア陸軍に対し、

   有利な条件を以って軍備並びに軍用資材の供給につき援助を行う。



第三条   エストニアはソ連に対し、サーリマー島   (ホーゼル島)、

   ヒーウマー島   (ダゴ島)   のエストニア領島嶼

   及びバルチスケ港   (バルチックボート)   に海軍及び航空基地を設置するため、

   適当の対価を支払って租借する権利を保障す。


   海軍並びに航空基地の明確なる地点並びにその区域は、

   相互間の協定によりこれを決定す。

   しかして海軍並びに航空基地警備のため、

   ソ連は右基地に対し厳重に制限せられたる一定数の地上兵力

   及び空軍兵力を自己の費用において駐屯せしむるを得。

   駐屯兵力数に関しては、別の協定によってこれを規定するものとす。



第四条   両締約国は、締約国の一方を目標とせる

   いかなる同盟乃至連合にも参加せざるべきものとす。

第五条   本条約の実施はいかなる場合に於いても両締盟国の主権、

   特にその経済組織乃至国家組織を侵害するものにあらず。

   従って第三条に規定せられたるソ連海軍並びに航空基地は、

   依然エストニア共和国領土たるべきものとす。(後略)

1938年1月15日 中国 妥協的口上書を出す

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/28 18:40 投稿番号: [2210 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   478p


《 中国では、十五日、孔祥煕行政院長がトラウトマン大使に、

十三日の口上書よりも、さらに妥協的に表現した口上書を

日本側に伝達してくれるよう求めた。

孔祥煕は、中国政府は日本側提案に対し決して

回避的態度をとろうとしたのでない、と熱心に述べた。》



*   もう遅いだろう。

   と言うか、いくら、ほかの者が表現を妥協的にしても、

   蒋介石に講和する意思がない以上、意味ないだろう。

   単なる、時間稼ぎにしかならない。

反日左翼寄生虫鹿毛信義

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2013/01/27 21:02 投稿番号: [2209 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良鹿毛信義、古賀好男。八女市本村25総合庁舎監視室の◯留米市荒木町藤田古賀重文、福◯市中央区小笹古賀麻里惠、糸数昌一、プラント本舗三擦り半晴誠吾、◯岡県警藤吉道史、◯◯カス左翼政党はなぁ〜自民党の邪魔をする寄生虫やで

1939年9月23日 支那派遣軍の創設

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/27 16:13 投稿番号: [2208 / 2250]
欧州の戦局の変化から、日本もそれに対応できるよう、

中国派遣の軍隊を整理することになりました。



児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫    225〜226p


《   −   九月二十三日、

支那派遣軍の戦闘序列が下令された。

これまでの中支那派遣軍、北支那方面軍のうち、中支那派遣軍を廃止し、

北支那方面軍、第十一、第十三、第二十一軍、

つまり中国に派出されている全陸軍部隊が、その指揮下にはいる。



つまりは、在中国日本陸軍の統一措置だが、

それというのも、ヨーロッパ情勢の急転にともない、陸軍としては

「対第三国   (ソ連)   戦備」   の促進が急務とみなされた。

それには、できるだけ在中国の兵力を   「対第三国」   用にふりむけたい。



陸軍省軍事課は、すでに当時の在中国兵力約八十五万人を昭和十六年

(一九四一年)   末には   「四十万人」   にへらす計画を提唱していた。

しかし、それは、ヨーロッパ戦争が   「昭和十七年以降」   におこる可能性があると

想定してのことであったので、いまや、予想より三年間も早く戦争勃発をむかえ、

ますます中国からの   「足抜き」   の必要を痛感せざるを得ない。



在中国部隊を統合する新編制は、その兵力削減を念頭においての処置であり、

そうなると、当然に支那派遣軍の任務は   「支那事変ノ迅速ナル処理」   が第一になる。

ただし、その   「処理」   は、兵力縮小を前提にしている以上は、

新しい攻勢によるよりは既定の汪兆銘の新中央政府の樹立などの政略が

基本になるであろう。》




晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
128p


《 そのころ欧州ではドイツに宣戦した英仏連合軍が独仏国境で決戦を迫られ、

英仏の運命は今やドイツとの戦争に賭けられていた。

このような情勢の悪化が、重慶政府に与えた苦悩は深刻であった。

期待していた欧州列強の中国参戦はもはや夢想さえできず、

その上、軍需物資の援助までが途絶えてきた。



いわれのないソ連のポーランド、フィンランド侵略によって、中国共産党は人気を失い、

中国の抗戦はようやく統一を失って混乱の兆しがみえてきた。

一方、日本の大本営は九月二十三日、支那派遣軍総司令部を南京に新設した。

政戦両略の連携を密にして、外に対しては重慶に対する圧迫を強化し、

内にあっては在華日本軍を統制して、

汪兆銘政府の樹立を援助するためだと公表された。》

1938年1月15日 和平交渉打切り決定

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/27 16:02 投稿番号: [2207 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   273 〜274p


《 政府側は、この二度目の休憩時間を利用して、多田中将の説得工作を推進した。

まず陸相秘書官山本茂一郎中佐、ついで陸軍省軍務局長町尻量基少将が、

参謀本部総務部長中島鉄蔵少将をたずね、

このまま多田中将ががんばりつづければ、内閣は総辞職せざるを得ない、

と指摘して、中将を説得するよう頼んだ。



中島少将は次長室にむかい、多田中将は、第二部長本間雅晴少将、

第二課長河辺大佐もまねいて、相談した。

河辺大佐は、中島少将にたいする陸軍省側のアプローチは、

政府側の 〝威嚇〟 ではないかと、うたがった。



ここで内閣総辞職となれば、強硬論をはいた政府が統帥部の消極論に

おしきられたことになる。そうなれば、国内世論は統帥部を批判するだろう。

辞職、辞職というのは、そうなってもいいのかとの意をこめて、

おどしているのではないのか。



「いや、そうではないらしいな」

  参謀次長多田中将は、会議の次第を回想しつつ、渋い表情で語った。

「近衛   (首相)   は本当に嫌になっているらしい。

なにかきっかけをつくって罷   (や)   めたいらしい。

外務大臣は、やめることにきめた、と、いっていたなァ」



そりゃ、まずい、と中島少将が即応し、結局、

このさい政府と統帥部との対立がおおやけになるのは   「頗   (すこぶ)   る不適当」   である、

政府に一任する、との結論に達した。

この参謀本部の 〝屈服〟 または譲歩を得て、大本営政府連絡会議は、

午後七時三十分に三たび開催され、蒋介石政府との和平交渉打ち切りを議決した。



   ―   だが、

参謀本部第二課戦争指導班の高嶋中佐、堀場少佐は、

なおも 〝抵抗〟 をあきらめなかった。

二人は、次長多田中将から譲歩した旨を聞くと、

統帥部が天皇に直属している憲法上の規定   (統帥権独立)   を

「妙用」   すべきだ、と主張した。



参謀総長閑院宮と軍令部総長伏見宮から、本日の会議の決定に不同意である、

ただ内閣崩壊をさけるために政府に一任した、と天皇に上奏する。

そうすれば、天皇から政府にたいして再考をもとめられるか、

あるいは御前会議召集が指示されるであろう……。



   ―   しかし、

この参謀本部の 〝巻き返し工作〟 は、効果を発揮しなかった。

次長多田中将は、高嶋中佐と堀場少佐の主張に同意して、

参謀総長の上奏文を作案させるとともに、軍令部次長古賀中将にも連絡し、

軍令部総長も同様の上奏をするよう、うちあわせた。


だが、午後九時四十分の首相上奏につづき、午後九時二十分に参謀総長閑院宮、

午後十時五分に軍令部総長伏見宮の上奏がおこなわれたが、

参謀本部が期待するような天皇の意見は表明されなかった。


参謀総長は予定どおりに政府決定に反対である旨を述べたが、

軍令部総長は、次長同士のうちあわせとは逆に、

政府に同意する見解を上奏したからである。

参謀本部は、文字どおりに   「孤立無援」   の立場にたち、

それ以上の 〝抵抗〟 は断念せざるを得なかった。》

◯◯カス左翼鹿毛信義

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2013/01/26 17:28 投稿番号: [2206 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良鹿毛信義、古賀好男。八女市本村25総合庁舎監視室の◯留米市荒木町藤田古賀重文、福◯市中央区小笹古賀麻里惠、糸数昌一、プラント本舗三擦り半晴誠吾、◯岡県警藤吉道史、◯◯カス左翼政党はなぁ〜自民党の邪魔をする寄生虫やで

1939年9月18日 独・ソ、ポーランド分割

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/26 15:27 投稿番号: [2205 / 2250]
〔昭和14年9月20日   東京日日(夕刊)〕   独・ソ、ポーランド分割で一致


〔ベルリン本社特電十八日発至急報〕   独ソ両軍は十八日、

プレストリトウスクにおいて相会し、友好裡に交確、握手をとげた。

独ソ両国の間にはポーランド分割に関する六項目につき意見一致した。


英・仏・波条約既に解消〔ベルリン本社特電十八日発〕

十八日のドイツ新聞はポーランド問題に関する独ソ間に一致した協定として、

次の六点を挙げている。



(一)   ポーランドはその成立当初より   国家として当然持つべき

    存在の条件を具備しなかったものと思惟する。

(二)ポーランドは自らの無能力によって崩壊した。

    それゆえに独ソ両国はこれに即応する手段をとったものである。

(三)国民協同体を建設することによってポーランド内各民族を再調整しなければならぬ。



(四)独ソ両国の平和と秩序を保障すべきポーランド内各民族間に

   新しい和協の途を開かねばならぬ

(五)英仏の対波援助宣言はなんら根拠なきものなることが実証された。

   従って英、仏、波三国間の同盟なるものはもはや存在せず。

(六)英仏両国は今、いかなる目的をもってドイツと戦いつつあるかという

   問題に逢着している。



〔モスクワ本社特電十八日発〕   モスクワでは十八日、

  独ソ両国共同コンミュニケとして次のごとく報道した。

独ソ両軍の行動は独ソ不可侵条約の精神ならびにその条文に背反するものではない。

われわれの目的は秩序あるポーランド国の再建にあり、

独ソ両国間に介在する緩衝国を作ろうとするにある。

1938年1月15日 大本営政府連絡会議 2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/26 15:19 投稿番号: [2204 / 2250]
  午後の部

児島襄著   『日中戦争4』   271〜272p


《 会議は、午後三時に再開されたが、閑院官と伏見官の両総長は出席しなかった。

午前中の会議では、二人の皇族がいたのでいくぶん遠慮もあったらしいが、

皇族不在となると、政府側の論調は、がぜん激化した。

参謀次長多田中将が、午前中と同様に、 「即断」   はさけて、

右か左かの確答を中国側からひきだすべきだ、と主張すると、



「期限マデ返電無キハ、 和平ノ誠意無キ証左ナリ。

蒋介石ヲ   (交渉の)相手ニセズ、 (蒋が)   屈服スルマデ作戦スベシ」


陸相杉山大将が、そう反論したのにつづいて、広田外相も語気をつよめて反駁した。


「永キ外交官生活ノ経験ニ照シ、

支那側ノ応酬ブリハ   和平解決ノ誠意ナキコト   明瞭ナリ。

参謀次長ハ外務大臣ヲ   信用セザルカ」


首相近衛文麿は、カン高い声で、論戦に終止符をうつ形で発言した。


「速   (すみやか)   ニ和平交渉ヲ打切り、 我ガ態度ヲ   明瞭ナラシムルヲ要ス」



しかし、それでも参謀次長多田中将は自説をまげず、

軍令部次長古賀中将も、多田中将を支持する発言をこころみた。

海相米内大将は、不満をあらわにした表情で、その古賀中将の発言を制止して、


「政府ハ外務大臣ヲ信頼ス。

統帥部ガ外務大臣ヲ信用セヌハ、 同時ニ政府不信任ナリ。

政府ハ辞職ノ外ナシ」


一説には、米内海相のこのときの発言は、

「かくなる上は、参謀本部がやめるか、内閣がやめるか、どちらかだ」

というものだった、といわれるが、いずれにせよ、

辞職を口走ったことは間違いなく、とたんに、多田中将の反撥をさそった。



「明治大帝ハ朕ニ辞職ナシト宣   (のたま)   ヘリ。

国家重大ノ時期ニ政府ノ辞職云々ハ、 何事ゾヤ」

中将は、双眼を涙でうるませて強調した。

が、政府側は譲らず、中将も譲歩せず、会議は再び休憩となった。》



*   広田外相の   「永キ外交官生活ノ経験ニ照シ、支那側ノ応酬ブリハ

   和平解決ノ誠意ナキコト明瞭ナリ。」   との洞察は正しい。


   1月1日   に蒋介石は、〝和平派〟   の交通部長愈飛鵬、教育部長王世杰を解任し

   1月2日には、王寵恵部長に   「応即厳詞拒絶」 (断乎として拒絶せよ)   と命令し

   1月3日には、国民政府は、 「否認将派代表赴南京與日方講和」

   (日本側との和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)

   と決定している。



*   ここでは、軍部が和平を求め、文民が和平交渉打ち切りを主張するという、

   世間常識とは逆の状態が出現している。

   世間では、軍部が戦争を起こし、政府が止められなかったかのように

   言われているが、事実は逆。

   しかし、多田中将がいかに和平を求めようとしても、

   中国にその気がなければ、無理だろう。



つづく

1939年9月17日 ソ連軍ポーランド侵攻

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/25 19:01 投稿番号: [2203 / 2250]
〔昭和14年9月18日   東京日日〕


〔モスクワ本社特電十七日森特派員発〕

先般来大規模な動員を行い、その行動を注目されていたソ連では、

十七日午前六時   (日本時間十七日午後一時)   を期しポーランド領に進入を開始した。

この赤軍のポーランド進入の目的は

白ロシア人、ウクライナ人の救済のためであるとされている。



〝 波既に潰滅、条約解消 〟   〔ベルリン本社特電十七日発〕

ドイツ宣伝省は、ソ連軍が十七日午前六時を期しポーランド領に進軍せる旨を確認、

右はドイツと完全なる諒解のもとに行われた旨付け加えた。

なおDNBのモスクワ特電は、ソ連の駐ソポーランド大使グルジボウスキー氏に

手交せる対波通牒内容として、次のごとく伝えている。



   ソ連は北はポロックより南はカメネッポドリスクに至る全国境より進軍するが、

   右行動の目的はソ連自身の権益および白ロシアおよびウクライナ少数民族を

   保護するにあり。

   ソ連はポーランド内に進軍するも、刻下の戦争には中立を維持するものである。

   ポーランド国はすでに現存せるものと認め得ない故に、

   ソ連はソ波間の諸条約は解消したものと認める。



〔ロンドン本社特電十七日発〕   ポーランド筋から得た情報によれば、

ソ波国境のミンスク・ウイルナ鉄道の接続地点モトデツノ付近において

進入し来たったソ連軍に対し、波国境警備兵は抵抗、激戦を続けていると。



〔パリ本社特電十七日発〕

ソ連軍のポーランド入りは一週間余りの準備の後、まずミンスクに主力を集中、

プリペット沼沢地帯の北に連なる平原から国境を越えて行われたもので、

国境ではなんらの抵抗にも遭わなかったが、ウイルノにあった

ポーランド軍は東進してソ連軍を遊撃したものと解される。



〔ロンドン本社特電十七日発〕

モロトフ・ソ連外相は十七日朝、最初のラジオ放送を行った。要旨、次の通り。


   ポーランド内白露及びウクライナの同胞に援助の手を差しのべることは、

   われわれの義務でなければならぬ。

   ソ連政府はポーランド国民をその無能、暴戻な支配下から解放し、

   その悲境から救い出すことを希望する。   この二週間来の事態は、

   ポーランドが国家として全く破産してしまっていることを実証した。



   ポーランドはこの産業中心地のすべてを失い、

   ワルソーはもはやポーランドの首都ではなくなった。

   今や何人もポーランドの存在を知るよしもなくなった。

   かかる状態に対しソ連は、国防上断じて晏如たり得ない。



   ソ連は最後まで中立を守っていたが、

   事態がかくなる以上もはや中立を守ることは出来ない。

   われわれはウクライナ人と白露人の運命のために中立たることは出来ないからである。

   これゆえ政府は軍最高司令部に対し、わが赤軍をして国境を越えて

   西部ウクライナ人及び西部白露人の生命財産を保護せしめるよう命令を発した。

   わが忠良なる赤軍兵士諸君は、あくまでこの民族解放の崇高な闘争のために戦え。

1938年1月15日 大本営政府連絡会議 1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/25 18:47 投稿番号: [2202 / 2250]
午前の部


この大本営政府連絡会議では、文民である政府が、和平交渉打ち切りを提唱し、

軍部である参謀本部が和平交渉の継続を主張します。



児島襄著   『日中戦争4』   270〜271p


《 大本営政府連絡会議は、一月十五日、午前九時三十分すぎから首相官邸で

ひらかれたが、次長多田中将は、参謀本部を出発するとき、決然たる口調で言明した。

「本日ノ会議ハ必ズ   決定ヲ保留セシムベシ」

そして、この言葉どおりに、会議での中将の   「奮闘」   はめざましかった。

政府側は、すでに   「交渉打ち切り」   を決定しているので、

経緯を説明して、陸海軍統帥部の同意をもとめた。



参謀総長閑院宮載仁元帥は、中国側が条件細目の提示を要求しているのだから、

それを知らせてやって期限付き回答をもとめてはどうか、と述べた。

次長多田中将は、中国側の口上書には

交渉打ち切りは明言されていないではないか、と指摘して、



「この回答文をもって脈なしと断定せず、脈あるように図るべきである」

駐日・中国大使許世英を通じて中国側の   「真意」   をたしかめることも、

こころみる価値があろう。

とにかく、 「僅   (わず)   カノ期日」   をあらそい、それだけで

「前途暗澹   (あんたん)   タル長期戦ニ移行」   するのはあまりに危険であり、

承服できない、と多田中将は、強調した。



海軍側の軍令部総長伏見宮博恭元帥、次長古賀峯一中将も、

参謀本部側に同調する意見を述べた。



政府側は、しかし、陸相杉山元大将、海相米内光政大将も、

もはや交渉は無用である、と主張しつづけた。

なんとなく、政府対大本営のほかに、省部   (陸海軍省と参謀本部、軍令部)   の対立も

加味された形となり、会議は、午前十一時四十分、昼食のための休憩にはいった。



多田中将が参謀本部に帰ると、第二課長河辺大佐と

戦争指導班の高嶋辰彦中佐、掘場一雄少佐らが、次長室をたずねた。

中将は、会議の模様と自身の決意を語り、堀場少佐は、記述している。

「(次長は)   最後迄   初志ヲ固執スル旨意志表示アリ。 戦争指導班安堵ス」》



つづく

1939年9月16日 ノモンハン事件51 停戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/24 19:02 投稿番号: [2201 / 2250]
ここの分は、インターネットの記事を引用しています。

2種類をつなぎ合わせていますので、話が、何か、すっきりしないものがありますが、

書いた人の主観はともかく、データとして見て下さい。

原文は   「ノモンハン」   と   「停戦」   で検索すれば、引っかかります。



《 9月8日にモスクワにいる東郷大使に外務省と大本営が共同で策定した停戦案が届く。

東郷大使は翌日の9月9日よりソ連政府のモロトフ外務人民委員   (外務大臣)   と

交渉を始めた。》



〈 ソ連は、10日には原状回復の条件を東郷大使に提示

9月14日に東郷大使は最終案を提示し、これを飲まねば停戦しない、と通告。

9月15日ソ連は受諾

モスクワ時間で9月16日の午前二時に停戦協定が成立。〉



《 満州では、9月16日午後一時十分に出された大本営命令で、

関東軍司令官にノモンハン全域でのソ連軍に対する

一切の敵対行為を停止するよう命じられた。

停戦ラインの確認、遺体や捕虜の交換等についての交渉は

9月16日の夕方から現地で開始された。》



*   この翌日、ソ連は安心して、ポーランド侵攻を始めます。

   平和を求める日本がポーランドを地獄に落としたことになるかも。
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