1939年8月 日本人から見た六全大会1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/06 14:42 投稿番号: [2165 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
大会は、 「独ソ不可侵条約」
が発表された五日後、
八月二十八日にひらかれたが、この日、東京では平沼内閣が総辞職した。
「独ソ不可侵条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」
ゆえに新体制と新政策の必要がある、というのが、辞職の理由であった。
近衛首相は、汪兆銘を重慶から引き出した直後に辞職し、
平沼首相は汪政府樹立の方針をきめながら、その実現前に退陣する……。
汪兆銘にしてみれば、なんとも俗にいう
「辻占の悪い」
現象の連続であったが、
大会そのものも
「うら淋しい」
雰囲気につつまれていた。
こちらこそが真の国民党 − の名のりをあげるのであれば、
そして汪兆銘が救国の指導者として認められるのであれば、
大広場をうずめての群衆の前での獅子吼か、
せめて大会場での壮麗な儀式がふさわしい。
だが、会場はゼスフィールド路七十六号の
「特工総部」
であった。
すでに上海に汪兆銘暗殺団の存在が推知されたための措置だが、
それにしても、日本特務機関の構内にひとしい場所で、
中国新政府の第一歩をふみだすのは、
一般の中国市民にたいするアピール効果は乏しいはずである。
大会の用意も
「特攻総部」
がおこなったが、
各省代表という形の出席者二百四十四人は、
前夜はひそかに市内の知人宅に身をかくして重慶側のテロをさけ、
会場周辺には約三十人の憲兵が配置された。
汪兆銘は、大会の開催について、国旗と国民党旗の掲揚、
日本人の立入り禁止の二つを要求し、日本側は承知した。
参謀本部第八課員塚本誠憲兵少佐は、上海出張を命ぜられて、
影佐禎昭少将
(註、八月に進級)
を中心にする汪工作
『梅機関』
に
所属していたが、この日は、会場の外で警戒にあたっていた。》
つづく
これは メッセージ 2163 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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