入って中国人に南京事件真相議論しましょう
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
1939年8月 ノモンハン43 酒酔いの軍司令官
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/08 18:55 投稿番号: [2169 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
(ここまでの戦闘は長いので省略しています。)
246〜248p
《 山縣、須見両連隊及び砲兵隊主力を指揮して態勢を挽回させようと勉めたが
時すでに遅く、山縣連隊
(歩六四)
は敵の強圧に耐え兼ねて
二十八日夜、ついに元の陣地を放棄して潰乱し、
第二十三師団長は手兵僅かに五百人を率いて、旧師団司令部位置に前進した。
右側背より溢れ出した敵の戦車が我が後方及び砲兵陣地を蹂躙し、
重砲連隊長鷹司大佐は火砲を放棄して後退し、山縣連隊もまた危殆に瀕したようである。
事態はまさに最悪であり、崩壊寸前に瀕している。
身を挺して善後処置に当たるべく、植田軍司令官と参謀長に願い出でて、
ハイラルを経由し将軍廟に到着したのは三十日夕刻であった。
天幕内の幕僚室は誰一人一語も発する者がなく、陰惨な空気に閉ざされている。
第六軍司令官室に申告に行った。ウイスキーで大分酔いが回っているらしい。
心の苦しさを酒で紛らわざねばならなかったのだろう。申告が終わったとき、
「辻君。僕は小松原が死んでくれることを希望しているが、どうかねえ君……」
その瞬間唖然とした。次いで憤然とした。
この事件が発生してからこんなに癪
(しゃく)
にさわったことは
未だかつてなかった。身分を忘れて、
「軍の統帥は師団長を見殺しにすることですかッ。
小松原閣下としては数千の部下を失った罪を死を以て償おうとしておられる
その心は当然であり、御胸中は十分わかります。
それだけに軍司令官としては何とでもして、この師団長を救い出すべきではないですかッ。
これが閣下の部下に対する道ではありませんかッ」
天幕の外にまで筒抜けの大声であったらしい。驚いて入ってきた藤本参謀長は、
「まあまあ君、一寸」
と袖を引いて天幕外に連れ出した。軍参謀長は小さい声で、
「君の言うことはよくわかる。何とかして小松原師団長を救出するから」
となだめられた。幕僚室は浜田高級参謀以下、ただ沈黙を守っている。
「誰か若い参謀で決死隊を作り、師団長を救い出してこい。
でないと第六軍の今後の統帥はできないぞッ」
話しさとしたが誰一人行こうという者がない。
「よし、君たちが行かないなら、出しゃばるようだが俺が行く」
と著者が立ち上がったとき、浜田高級参謀はさすがに恥を知ったらしい。
「辻君、待ってくれたまえ。これは第六軍に委せてもらいたい。
軍の面子だ。僕が行くから」
(この後小松原師団は救出されますが長くなるので、これも省略します。)
これは メッセージ 2146 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2169.html
1938年1月7日 川越大使の談話
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/08 18:45 投稿番号: [2168 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
261〜263p
《 近衛首相は、六日、四相会議
(首相、陸、海、外相)
を招集して、
十二日までは待てぬ、十日までにする、と定め、
回答を催促する内閣書記官長談を発表した。
この声明をうけて、翌日、駐支大使川越茂が、上海で、談話を発表した。
「日本軍占領地域内の支那民衆は、
国民政府からはなれて新しい国家の出現を熱望している
―
。
新しい中支の政権は従来の南京政府の如き軍閥政権でもなく、
古い政治家の政権でもなく……財界人、実業家を中心とする
『経済的民衆的国家』
が出現するものと思われる。
新政権が出現するには、日本政府が南京政府を公式に否認することが必要だ。
……日本は腰をすえて、支那民衆を援助する。
再び国民党政権の復活はあり得ないことを、十分に認識させてやらねばならない」
蒋介石が和平を求めてこなければ、
北支のほかに中支にも新政権を誕生させるぞ、というよりも、
もはや蒋政権に用はない、
はやく否認すべきだとの趣意がうかがわれる発言である。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
473p
《 このような情勢のうちに、現地にある川越大使もまた一月七日、
上海で新聞記者に対し
「中支新政権が出現するためには、
日本改府が国民政府を公式に否認することが必要だ」
という意見を発表した。》
これは メッセージ 2162 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2168.html
1939年8月 日本人から見た六全大会2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/07 18:59 投稿番号: [2167 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
219〜220p
《 大会は、予定どおりに午前十時にひらかれ、
会場から流れる中国国歌の合唱の声が、塚本少佐にも聞こえた。
「やあ、唱歌はうまくねえな……しかし、まあまあ無事でよかった」
少佐
(塚本)
は、同伴していたおなじく
『梅機関』
に配属されている
逓信省参与犬養健に、安堵した表情で語りかけた。
すると、間もなく、 「特工総部」
幹部の李士群が、
会議の議題を印刷した文書を、持参した。
国民党の総裁制を中央執行委員制にして汪兆銘を委員長にすること、
政府の組織と対日外交にかんする全権を汪兆銘に一任すること、
反共と日中国交調整を国民党の政策にすること……。
だが、黙読する塚本少佐は、重要政策の中に
「東三省回復」
がふくまれているのに気づき、顔色を変えた。
東三省すなわち満州であり、満州国承認は汪兆銘派との接触の当初から
日本側が主張し、汪兆銘側も承知してきた重要事である。
それなのに、新政府の政策としてその満州の失地回復をかかげるのは、なぜか。
日本の傀儡でない点を強調するためのジェスチュアか……汪兆銘の本心なのか
……それともやはり蒋介石と連携している事情を告白したものか……。
塚本少佐は
『梅機関』
に報告したが、逓信省参与犬養健によれば、
じつは、機関でも気づいていた。
前夜、中央宣伝部長周仏海が出席者名簿をとどけたが、
その中に
「東三省代表」
がふくまれていたのである。
この表現は、議決された
「東三省回復」
政策と同意義であり、満州国否認に通ずる。
影佐少将と犬養健は、塚本少佐と同様の感想をさそわれたが、
訂正させるのはかえって汪兆銘側を刺戟
(しげき)
しかねない、
新政府樹立のための具体的交渉の場で討議したほうがよい、と判決した
と、犬養健は記述している。
大会は午後四時三十分に終了した。
しかし、一般には三十日までの続行が発表され、参会者は
「特工総部」
と憲兵隊の隠密な警護をうけて、帰途についた。》
*
日本人は相手の裏切りを知っていても、相手を思いやって、厳しく追及しない。
極悪視されている、特務機関ですら、今の平和主義者と似た行動をとっている。
これは メッセージ 2165 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2167.html
1938年1月7日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/07 18:52 投稿番号: [2166 / 2250]
一月七日
《 福田氏に国際委員会の趣意書を渡す。
氏の話だと、なにがなんでも南京の秩序を即刻回復せよ、と
東京から厳命があったとのこと。
また、行政的な職務
(この私、ラーベの
「市長職」
も?)
も
我々
「よそ者」
ではなく、すべて自治委員会が担当すべし、といってきたという。
そういわれてしまっては、手も足もでない。
願わくは自治委員会にそれだけの能力があらんことを。
南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。
「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。
なかにはすでに犬に食われているものもあります。
でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。
この二十八日間というものずっと、
遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。
福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。
きょう午前十時ごろ、私の留守中のことだった。
日本兵が一人、使用人の部屋に押し入り、
女たちが悲鳴をあげながら私の住居へ逃げこんできた。
屋根裏部屋まで追っていったところで、この日本兵は、たまたま私を訪ねてきた
通訳の日本人将校に取り押さえられ、放り出された。
占領されて今日で二十六日。
南京のヨーロッパ人住宅の治安状況がどんなものか、これでもわかるだろう。
リッグズが今日の視察の報告書をもってきた。
うつろな目をした女性がひとり、通りをふらふらさまよっていたという。
この人は病院に運ばれ、身の上を話した。
十八人家族だったが、生き残ったのはこの人ひとりだという。
残りの十七人は射殺されるか、銃剣で突き刺されるかして死んだ。
家は中華門の近くだそうだ。
わが家の収容所にやはり近くに住んでいた女性がいる。
弟が一緒だが、こちらは両親と三人の子どもをなくした。
全員日本兵に射殺されてしまったのだ。
せめて父親だけでも埋葬したいと、なけなしの金で棺桶を買ったところ、
これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、亡骸
(なきがら)
を放り出したという。
中国人なんかその辺に転がしておけばいいんだ、というのが、かれらの言い分だった。
*
「なけなしの金で棺桶を買った」
というが、どこで棺桶を売っているのか?
どこにそんな店が開いている?
「棺桶を買ったところ、これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、
亡骸
(なきがら)
を放り出した」
と言うが、日本兵は中国語が分からない。そんな個人情報をどうやって知り得た?
棺桶を買ったのが、どこの誰とも分からないのに、
わざわざ捜し出して埋葬の妨害に出動するほど日本兵は暇なのか?
*
「中国人なんかその辺に転がしておけばいいんだ」
と言ったそうだが、
その訴えた中国人、日本語が分かったのか?
これは メッセージ 2164 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2166.html
1939年8月 日本人から見た六全大会1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/06 14:42 投稿番号: [2165 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
文春文庫
大会は、 「独ソ不可侵条約」
が発表された五日後、
八月二十八日にひらかれたが、この日、東京では平沼内閣が総辞職した。
「独ソ不可侵条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」
ゆえに新体制と新政策の必要がある、というのが、辞職の理由であった。
近衛首相は、汪兆銘を重慶から引き出した直後に辞職し、
平沼首相は汪政府樹立の方針をきめながら、その実現前に退陣する……。
汪兆銘にしてみれば、なんとも俗にいう
「辻占の悪い」
現象の連続であったが、
大会そのものも
「うら淋しい」
雰囲気につつまれていた。
こちらこそが真の国民党 − の名のりをあげるのであれば、
そして汪兆銘が救国の指導者として認められるのであれば、
大広場をうずめての群衆の前での獅子吼か、
せめて大会場での壮麗な儀式がふさわしい。
だが、会場はゼスフィールド路七十六号の
「特工総部」
であった。
すでに上海に汪兆銘暗殺団の存在が推知されたための措置だが、
それにしても、日本特務機関の構内にひとしい場所で、
中国新政府の第一歩をふみだすのは、
一般の中国市民にたいするアピール効果は乏しいはずである。
大会の用意も
「特攻総部」
がおこなったが、
各省代表という形の出席者二百四十四人は、
前夜はひそかに市内の知人宅に身をかくして重慶側のテロをさけ、
会場周辺には約三十人の憲兵が配置された。
汪兆銘は、大会の開催について、国旗と国民党旗の掲揚、
日本人の立入り禁止の二つを要求し、日本側は承知した。
参謀本部第八課員塚本誠憲兵少佐は、上海出張を命ぜられて、
影佐禎昭少将
(註、八月に進級)
を中心にする汪工作
『梅機関』
に
所属していたが、この日は、会場の外で警戒にあたっていた。》
つづく
これは メッセージ 2163 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2165.html
1938年1月6日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/06 14:36 投稿番号: [2164 / 2250]
一月六日
《 ばんざい!
アメリカ大使館のアリソン、エスビー、マクファディエンの
三氏がアメリカの砲艦オアフ号で今日上海から到着した。
すでに十二月三十一日に南京を目の前にしていたのだが上陸の許可が下りず、
蕪湖で待機していたのだ。
アリソン氏はかつて東京で勤務したことがあり、日本語ができる。
これで日本の軍当局から米と小麦粉
(これは軍が略奪したものだが)
が買える。
価格は高いが
(米一袋約十三メキシコドル)、約五万メキシコドル買うことにした。
石炭も一万二千メキシコドルぐらい買っておかなくては。
難民の蓄えが底をついてきたので早急に手を打つ必要がある。
韓はあまり乗り気ではない。
米屋から、中国軍が南京を奪還しようとしていると聞かされたからだ。
すでに南西部では砲声が聞こえたという。
「そうなれば米だって小麦粉だってただで手に入りますよ」。
けれども私は、心ならずも韓に言い聞かせなければならなかった。
「決してそんなことにはならないよ」
・・・・・
午後五時、福田氏来訪。軍当局の決議によれば、我々の委員会を解散して、
その資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと。
自治委員会が今後われわれの仕事を引き継ぐことになっているからだという。
資産を引き渡す?
冗談じゃない。私はただちに異議を申し立てた。
・・・・・
さっそく委員会の会議を開いて、福田氏にどう返事をしたものかと相談した。
また、治安や秩序をとりもどすためにどういう提案をするかについても。
日本から助言を得てはいるが、自治委員会はまるで無策だという気がする。
どうやら狙いは我々の金だけらしい。つまり、
「国民政府からもらったのだから、おれたちの物だ!」
というわけだ。
しかし我々の考えは全く違う。
なんとしてもこちらの主張を通そうということになった。
アメリカやドイツの大使館が支持してくれると当てにしたうえでの結論だ。
といっても、先方が果たしてどう考えているのか、まるっきりわからないのだが。》
*
「韓はあまり乗り気ではない。
米屋から、中国軍が南京を奪還しようとしていると聞かされたからだ。」
このうわさは本当のうわさ。
これは、便衣兵による撹乱工作で、8日の所で具体的に紹介する。
これは メッセージ 2156 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2164.html
1939年8月28日 汪兆銘の開いた六全大会
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/05 16:09 投稿番号: [2163 / 2250]
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
125〜127p
《 国民党第六次全国国民代表大会が開かれた。 大会は国民党副総裁、
汪兆銘の名で、その年の八月二十八日から三十日の三日間招集された。
会場は
『七十六号』
の庭園だった。
鉄門をくぐって、左に入ったところの本館前の大広場であった。
ここで代表大会を開く
『七十六号』
の誇り、まして丁黙邨の得意や思うべしであった。
全国国民代表大会とは、国民大会につぐ国民党の最高機関である。
党の憲章によれば、国家の主権は国民大会がもち、国民大会は国民代表を選出する。
国民代表大会は党の章程、政綱を修正し重要政策を決定し、
かつ中央執行委員などを選出する。
二年ごとに開く代表大会は、慣習によって一年以上の延期が認められていた。
また、代表大会閉会中は半年ごとに開かれる中央執行委員会全体会議が
全国代表大会の任務を代行する。
汪兆銘は党の章程、政綱を修正し、中央執行委員の陣容を整えるために、
第六次全国国民代表大会
(六全大会)
を招集したのである。
事変前の昭和十年十一月、南京で開かれた五全大会では、 日華和戦の大計が議せられ、
その揚句、汪兆銘は軟弱だと抗日派に狙撃されて重傷を負い、
行政院長を辞めた思い出も深い。
その汪兆銘が、今や和平の策案を持して六全大会を主宰しようとするのである。
六全大会には国民代表二百四十人が出席した。
チョ民誼、陳公博、陳璧君など、いわゆる改組派と称されていた汪兆銘直系のもの、
周仏海、高宗武、梅思平など蒋介石の腹心で汪兆銘の幕下に馳せ参じたもの、
丁黙邨、李士群などのように上海で新しく同志となったもの、
陶希聖、博式説など従来政治の圏外にいたもので和平運動に加盟したものなど、
いろいろな系統のものが集まったが、
その中ではかつて上海で活躍した有能な抗日分子が圧倒的に多数だった。
丁黙邨は彼の斡旋で最近、汪運動に加担した徒党が優勢なので、
六全大会の主催者となったような気がして会心の笑みを洩らしていた。
大会は、六全大会を合法化し、かつ今後の党務の運営を容易にするため、
まず党綱領の総章の修正が行われた。
そして総裁制が廃され、代わって中央委員会制が設けられ、
汪兆銘はその主席に推薦されたが、
この決定によって蒋介石は自動的に国民党総裁を解任された。
つぎに党務整理案が可決され、
同年一月一日以降の中央執行委員会の決議は、すべて無効とされた。
この決定によって、重慶が行った汪兆銘以下の党籍、官職の剥奪は取り消され、
逮捕令失効ということになった。それと同時に中央執行委員などの補充が行われた。
六全大会の執行委員は新たに選挙することをやめて、
五全大会の委員をそのまま留任させ、
その欠員だけを汪兆銘が指名して補充することになり、
丁黙邨、李士群は新しく委員となった。
さらに重慶地区にいる執行委員には、上海に集まって汪兆銘に協力するように要請された。
次は国民党の新しい政綱の決定である。
外交関係では日本と和協し、反共産主義国と連合して
第三インターの陰謀を防止することを決めた。
内政では連邦政治、分治合作などの分裂政策を排して統一国家を維持すると規定し、
軍事部門では事変の終結とにらみ合せて軍隊の復員と整備を図ることなどを決定した。》
これは メッセージ 2115 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2163.html
1938年1月6日 回答期限を十日に変更
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/05 15:52 投稿番号: [2162 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
262p
《 駐日大使ディルクセンが、四日、広田外相にたいして、
ドイツ側は中国に回答を督促している、と語り、
外相は、十二日まで待つと応えた。
だが、近衛首相は、六日、四相会議
(首相、陸、海、外相)
を招集して、
十二日までは待てぬ、十日までにする、と定め、
回答を催促する内閣書記官長談を発表した。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
472p
《 日本政府は、独大使を通じて示した和平交渉条件の中国側回答が
一月五、六日ころまでには到着するものと期待しつつ年を越した。
ディルクセン大使は、従来の責任上これを捨てておけないので、
一月四日、広田外相に対して国民政府との接触経過に関し中間連絡を行うとともに、
本国政府及びトラウトマン大使にあて、
日本政府から速やかに国民政府の諾否を求められていることを通告した。
(このとき、中国側回答期限を十二日ころとしたが、
のち六日の四相会議で十日ころとするよう変更した)
一月六日、しびれをきらした近衛総理は、陸海外三相を招き、
国民政府にだめを押す相談をした結果、
早く回答しないとためにならぬという意味の内閣書記官長談を発表した。
この談話のなかでは
「もし中国側が如実に反省の真意を示すならとにかく、
わが方としては、あくまで所期の目的達成に邁
(まい)
進すべく、
今後この決意のもとに百般の対策を講ずる」
と述べている。
このころ、すなわち年末から年始にかけて日本側の対支態度には非常な変化があった。
中・北支における軍事的進展と北支、蒙疆における新政権の成立等により、
軍部はもちろん政党、ジャーナリズム、有力な国民層とくに右翼団体等の間に、
蒋介石の国民政府を相手にしなくても中国側を屈服させることは
必ずしも不可能でない、という空気が濃厚に台頭してきたので、
講和促進論者は沈黙せざるをえない情勢となっていた。
従って、前記書記官長談も、一般国民には和平無用論のような印象を与えた。
しかし参謀本部首脳は、長期戦に対する戦力の限界を考え、和平策を堅持していた。》
これは メッセージ 2151 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2162.html
1939年8月28日 独逸のポーランドへの要求
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/04 18:52 投稿番号: [2161 / 2250]
中心は
「回廊」、 妥協は困難
〔昭和14年8月29日
東京朝日〕
〔ベルリン特電二十八日発〕
二十八日、
ヒトラー総統とダラジエ仏首相との間に往復された書翰の内容発表によって、
ドイツの要求が単にダンチヒの復帰のみに止まらず、
廻廊及び東ドイツの国境の全面的地図の修正にあることが明らかにされ、
ここにダンチヒ問題は廻廊問題に拡大、
ドイツが譲歩せざる限り問題の外交折衝解決は至難なりとの印象を与えられるに至った。
従来ポーランド側はダンチヒのみの独立なら、或いはこの際ドイツに譲歩して承認し、
その代償に現在の独波
(ポーランド)
国境線の不侵略保障によって
両国間に平和協定成立の希望ありとされていたものだが、
ドイツがダンチヒよりもむしろ廻廊こそ、ドイツの領土回復要求の本体なり
とする態度を闡明
(せんめい)
した以上は、
もはやポーランドにとって妥協の余地は失われたも同様で、
平和解決の望みはただドイツの要求縮小によってのみ
可能という困難な事態に直面した訳である。
英国首相に宛てたヒトラー総統の書翰もほぼ同趣旨のものと見られ、
これに対して二十八日午後ベルリン帰任の
ヘンダーソン英大使の回答内容が今関心の焦点になっている。
二十八日、ベルリン各紙の朝刊は、この
「廻廊及びダンチヒは当然ドイツに復帰すべきなり」
との
ヒトラー総統の言葉を大活字でトップに報道し、
ウンター・デン・リンデン等の目抜きの通りでは
各商店の飾り窓にこの新聞が貼り出され、道行く市民はその前に足を止め、
覆面を脱したドイツの正体に領いて読み耽っている。
なおイタリア首相ムソリニ氏の調停乗り出し説が当地でもしきりに伝えられるが、
ドイツ廻廊要求を撒回せぬ限り調停不可能なりとして、
ムソリニ首相も動くまいとの観測が有力である。
注
:
「波」
は
「波蘭
(ポーランド) 」
の略
これは メッセージ 2150 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2161.html
1938年1月5日 石川達三南京到着
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/04 18:42 投稿番号: [2160 / 2250]
『生きている兵隊』 中公文庫のあとがき・解説 (半藤一利) 205pより
《 南京に着いたのは、十三年一月五日。
念のために書くが、南京を日本軍が攻略したのは十二月十三日。
石川はずっと遅れてその地に着いている。
東京裁判でいう暴虐事件を目撃することはなかったが、
なお血なまぐさい、なまなましい事件後の状況を見聞することは可能であり、
そこで日本軍の実態に接してふかい衝撃をうけた。その回想が残されている。
「小便くさい貨車に便乗して上海から南京へゴトゴトゆられて行きました。
南京市民は難民区に隔離され、町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、
死の町という言葉がピッタリでした。
はじめて目撃した戦場は、ショックでした」
そして南京で八日、上海で四日、精力的な取材をすませると、
ただちに帰国する。》
*
ここでも、彼は、他の善良な日本人と
同じ勘違いしている。
「南京市民は難民区に隔離され」
と言っているが、
別に日本軍が隔離したわけではない。
難民区は外国人が作ったのであって、便衣兵の温床・隠れ蓑となっていた。
日本軍は逆に、その難民区を解体しようとしていたのだ。
そして、それを外国人は快く思っていなかった。
次に
「町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、・・・ショックでした」
と衝撃を受けた感想を述べているが、
彼も、この死体を作ったのは日本軍だと勘違いしている。
本当は、中国軍が脱出の時の同士討ちや混乱で生じたものなのだけど。
結果として、彼が、描きたかった残酷シーンに相応しい現場の状況を見聞でき、
好材料を得て
『生きている兵隊』
という、
日本兵が残虐行為を働く小説が完成する事になる。
これは メッセージ 2112 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2160.html
福岡県警はなぁ半日公安体制なんやで
投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2013/01/04 13:18 投稿番号: [2159 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-ステラオブアリエス302鹿毛信義、古賀好男。八女市本村25総合庁舎監視室0943226999古賀繁文久留米市荒木町藤田1066-1中央区小笹5-16-58-501古賀麻里惠、糸数昌一、ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで
これは メッセージ 1 (rdup さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2159.html
福岡県警はなぁ半日公安体制なんやで
投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2013/01/03 23:38 投稿番号: [2158 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-ステラオブアリエス302鹿毛信義、古賀好男。八女市本村25総合庁舎監視室0943226999古賀繁文久留米市荒木町藤田1066-1中央区小笹5-16-58-501古賀麻里惠、糸数昌一、ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで
これは メッセージ 1 (rdup さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2158.html
1939年8月28日 平沼内閣総辞職
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/03 13:52 投稿番号: [2157 / 2250]
〔昭和14年8月29日
東京朝日(夕刊)〕
欧州の天地は複雑怪奇、と総辞職
独ソ条約の責任痛感
平沼内閣は二十八日、総辞職を決行した。
平沼首相は独ソ不侵略条約が我が日独防共枢軸強化方針を裏切り、
帝国外交政策に対し重大な結果を及ぼしたことに
輔弼
(ほひつ)
の責任を痛感し、この責任をとって総辞職するに決意し、
湯浅内府、近衛無任相等と政局の円満なる推移を期するための
爾後工作につき慎重協議中の所、その見通しも成ったので、
二十八日午前九時十分、首相官邸に緊急閣議を招集して正式に全閣僚に対し
総辞職の決意を表明、一同これを承認して、ついに総辞職に決定した。
すなわち同日の閣議には平沼首相、近衛無任相をはじめ全閣僚出席、まず平沼首相より、
「政府は日独防共枢軸強化を対欧策の根本方針として今日まで努力して来たが、
今回我が方針に反してドイツが突如独ソ不侵略条約を締結するに至り、
我が外交政策は再出発の余儀なきに至った。
事すこぶる重大にして、政府としてはこの際輔弼の責任を明らかにし
臣節を尽くすため、引責辞職すべきものと信ずる」
と厳かにその信念を披瀝した。
これに対し各閣僚は既にあらかじめ内意を示されていたこととて
即座に賛成、直ちに全閣僚の辞表を取り締めた。
よって同九時半、閣議をいったん休憩した上、
平沼首相は午前九時五十分、宮中に参内、天皇陛下に拝謁仰せ付けられ、
総辞職に至った事情をつぶさに奏上し、
全閣僚の辞表を捧呈して闕下
(けっか)
に骸骨を乞い奉った。
平沼首相は、 「何分の沙汰あるまで政務を見よ」
との有難き御言葉を拝し
恐懼
(きょうく)
して御前を退下、
別室において湯浅内府と会見、総辞職したことについて改めて諒解を求めるとともに
後継内閣について懇談を重ねた上、同十時半、宮中を退出、
首相官邸に待機中の閣議に臨み辞表捧呈の顛末を報告し、
別項のごとき声明を発表するに決定して、同十時四十五分、閣議を終わった。
かくて第二次戦時内閣として登場した平沼内閣は、
組閣後八カ月にしてここについに崩壊した。
注
闕下
ケッカ
宮中に同じ
骸骨を乞う
辞職を願い出る事
恐懼
キョウク
ひじょうにおそれる。
懼
ク
おそれる。
これは メッセージ 2155 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2157.html
1938年1月5日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/03 13:44 投稿番号: [2156 / 2250]
《・・・・
今日の午前までは水が出たのだが、午後になってとまってしまった。
電気はまだつかない。
それなのに、近所ではいまだに家が燃えている。
・・・・
またもや漢中門が閉まっている。きのうは開いていたのに。
クレーガーの話では、門のそばの干上がった側溝に
三百ほどの死体が横たわっているそうだ。
機関銃で殺された市民たちだ。
日本軍は我々外国人を城壁の外に出したがらない。
南京の実態がばらされたら困るからな。》
*
「漢中門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が・・・
機関銃で殺された市民」
と言っているが、本当に市民なのだろうか?
ラーベ達外国人は、
12月12日夜の、中国兵脱出の時の混乱で生じた、城内の大量の死体ですら、
日本軍
(まだ南京城内に入っていなかった)
の仕業と思い込むくらいだから、
そのつもりで聞いていた方がいいだろう。
すくなくとも、クレーガーが出入りした時には、既に死体があった。
つまり、門を閉める前に、急に死体を作ったわけではないという事だ。
隠蔽のために、今頃、門を閉めても手遅れだろう。
ラーベの想像は妄想でしかない。
その死体が処刑された便衣兵なのか、
戦闘で殺されたものなのか、
脱出時の混乱で死んだものなのか、
判別はつかない。
これは メッセージ 2149 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2156.html
1939年8月25日 日本 ドイツに抗議
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/02 15:52 投稿番号: [2155 / 2250]
〔昭和14年8月26日
東京日日〕
《 独ソ不可侵条約の締結によって
欧洲の外交的、政治的、軍事的分野は一変し、
帝国政府においてもこの新情勢に対応して、
過去六十数回にわたる五相会議において研究、討議したる
対欧方策の根本方針をこの際すべて御破算とし、いっさい白紙に還元する旨、
二十五日の重要閣議で決定し、
更に有田外相の報告に基づいて独ソ不可侵条約の内容を検討した結果、
右独ソ協定は明らかに日独伊防共協定の精神に違反するものなりとの
重大結論に到達し、ドイツ政府に厳重抗議することに廟議一決、
その外交措置については有田外相に一任したので、
外相は閣議後、直ちに外務省に沢田次官以下を招集して
首脳部会議を開いた上、同日午後四時、大島駐独大使に対し、
「ドイツ政府が今回ソ連政府との間に締結した不可侵条約は、
帝国政府の見解によれば明らかに防共協定の精神に背馳し、
従来の日独の盟邦関係に鑑み遺憾至極である。
右の旨、ドイツ政府へ厳重抗議せよ。
なお帝国政府の防共協定に対する措置は今後留保する」
との訓令を電命した。
よって大島大使は直ちに帝国政府の抗議をドイツ政府に通告するはずであるが、
右に対するドイツ政府の回答は来週早々到着するものと予想されるので、
有田外相は大島大使よりの公電を待って、
二十九日の定例閣議に右の経過を報告するはずである。
しかして帝国政府はドイツ政府の返答次第では、
日独伊防共協定が独ソの提携によって死文化したものと認めて、
満洲国政府とも交渉の上、日満両国が連袂して
日独伊防共協定より脱退するとの重大決意を固めていることは注目される。
オット独大使、外相に釈明
オット駐日ドイツ大使は二十五日午後五時二十五分、
外務省に有田外相を訪問、有田外相に対し、
本使は本国政府の訓令により正式に申し上ぐるのではないが、
今回の独ソ不可侵条約の締結はリッベントロップ外相より大島大使に申し上げた通り、
欧洲情勢が逼迫し、ソ連邦を中立せしむるさし迫った必要があったからである。
本協定はドイツ側から提案して締結を見るに至ったものである。
と釈明したのに対し、有田外相は、
独ソ不可侵条約は日独伊防共協定の精神に違反するものと認め、
大島大使からドイツ政府に対し正式に厳重抗議することに決したから、
右様お伝えする。
と述べ、午後六時十分、会見を終わった。
これは メッセージ 2153 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2155.html
1938年1月4日 ニューヨーク・タイムズ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/02 15:43 投稿番号: [2154 / 2250]
ラーベ達が日本軍の犯罪と決めつけていた事が、実はそうではなく、
中国兵の犯罪で有った事が判明した。
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
275〜276p
〈一九三八年一月三日上海発の
『ニューヨーク・タイムズ』
の記事
(一月四日付)
である。
「元支那軍将校が避難民のなかに − 大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」
と題する記事は、次のように言う。以下は全訳である。
《 南京の金陵女子大学に、
避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、
逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名を匿 (かくま) っていたことを発見し、
心底から当惑した。
実のところ教授たちは、この大佐を
避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。
この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、
それから女子大の建物に住んでいて発見された。
彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、
砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、
それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この元将校たちは、南京で掠奪したことと、
ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、
その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、
アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した。
この元将校たちは逮捕された。
戒厳令に照らして罰せられ、恐らく処刑されるであろう。》
南京安全地帯は中立地帯であった。
そこに、ベイツやスマイスなどアメリカ人教授が支那軍将校を匿っていたのである。
これは重大な中立違反であった。
その上、あろうことか、 〈市民に変装した現役の将校たち〉
が
掠奪や強姦を重ねては、日本軍の犯行にしていた。
アメリカ人教授が
「心底から当惑」
したのも当然であったろう。
しかも、彼らの十号文書
(十二月十八日付)
は、安全地帯に支
那兵は一人もいないと保証していたのであった。
しかし、この安全地帯で生じた重大な出来事が、不思議なことに、
『南京安全地帯の記録』
には収録されていない。
日本軍告発という目的に、合致しなかったからであろう。
しかも、これは氷山の一角に過ぎなかった。〉
*
別に驚くに当らないでしょう。
東中野がどうとか、日本軍の発表だ、とか言う以前の問題です。
ラーベも金を貰って、龍上校と周上校を匿いました。
「1900
12月12日のラーベの日記
2」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb
faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1900
そして、中国軍は安全区を基地にし、
ラーベ達の要請にもかかわらず、撤去しませんでしたから、
彼らが武器を持っていても、何の不思議もありません。
これは メッセージ 2121 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2154.html
1939年8月23日 独ソ不可侵条約締結と日本
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/01 15:33 投稿番号: [2153 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
217〜218p
《 日英交渉が決裂した五日後、 「独ソ不可侵条約」
の締結が発表され、
文字どおりに世界を驚愕させた。
とりわけて、日本にとっての衝撃は強い。
もともと、日本とドイツとの結びつきは、反共すなわち反ソの立場にたつものであり、
イタリヤをふくめて防共協定を結んだゆえんでもある。
ドイツ側は、前年七月から防共協定を相互援助条約
(軍事同盟)
に
強化させたい意向をつたえ、陸軍は同条約の締結に賛成した。
「支那事変処理のためにソ連を戦略的に、又英米を政略的に欧州に牽制」
する効果があると判断したからである。
ただし、日本側の考えが軍事的対象をソ連にしぼるのにたいして、
ドイツ側は、一般的に第三国を対象にすることを要求した。
そうなると、ドイツが対立関係にある英米仏と開戦した場合には、
それら諸国との戦いにまきこまれるので、日本は反対し交渉は難航していた。
だが、 「独ソ不可侵条約」
が締結されたとなると、
日独提携の基盤である反共精神が吹きとぶことになり、
当然に、日本側の不信感をかきたてて、交渉は閉幕した。》
これは メッセージ 2150 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2153.html
1938年1月3日 蒋介石 和平使派遣 拒否
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/01/01 15:15 投稿番号: [2151 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
262p
《 その翌日
(3日)、国民政府は、正式に次のように決定した。
「否認
将派代表
赴南京
與日方
講和」
(日本側との和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)
和平拒否
−
である。
だが、この決定は極秘にされ、ドイツ側にもつたえられなかった。》
*
中国は
「和平拒否」
を決定していながら、
ドイツ大使に伝えないため、当然の事ながら日本にも伝わりません。
そのお陰で日本では、無用な会議を連日続けることになります。
これも中国側の作戦かも知れません。
無用な疑心暗鬼をさせて、日本を精神的に疲れさせるための。
これは メッセージ 2145 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2151.html
1939年8月23日 独ソ不可侵条約調印
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/31 15:00 投稿番号: [2150 / 2250]
〔昭和14年8月25日
東京日日〕
〔ベルリン本社特電二十四日発〕
ドイツ政府は二十三日、
モスクワで独ソ不可侵条約の調印を了した旨正式に発表した。
発表要旨、左のごとし。
「独ソ不可侵条約は二十三日夜、クレムリン宮における第二回目の会議において
ソ連代表モロトフ外相、ドイツ代表リッベントロップ外相との間に調印せられたり。
席上にはスターリン共産党書記長、シューレンベルグ駐ソ独大使も同席せり」
条約内容
〔モスクワ二十三日発同盟〕
独ソ不可侵条約の内容は次の通り。
一、両締約国は単独たると第三国と共同するとを問わず、相互に不侵略を約す。
一、両締約国のうち一国が第三国の侵略を受けた場合、
他の一国はいかなる方法によるも右侵略国を支援せざることを約す。
一、両締約国は両国の重大権益に関する諸問題につき相互に通報を行い、
かつ協議を遂げることを約す。
一、両締約国は直接たると間接たるとを問わず、締約国の一国を敵対目標とする
いかなる国家間の結合
(grouping)
にも参加せざることを約す。
一、両締約国間に意見の相違を来たした場合は、
もっぱら友好的商議乃至は仲裁委員会によってこれを解決す。
一、本条約の有効期限は十カ年とし、
期限満了の上は両締約国が規定の廃棄通告を行わざる限り、
自動的に更に五力年間更新されるものとす。
一、本条約は調印と同時に即時効力を発生す。
これは メッセージ 2148 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2150.html
1938年1月3日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/31 14:54 投稿番号: [2149 / 2250]
1938年1月3日
ラーベの日記2
《 せめてもの慰めのつもりだろう、
田中氏は、そのあととてもうれしいことを教えてくれた。
目下蕪湖にいるローゼン、それからたぶんヒュルターとシャルフェンベルクの三人が、
一月五日に南京に到着するそうだ。
ということは、アメリカ大使館の人たちと同じ日だ。
そちらからはすでに連絡がきている。
・・・・・
給食所と収容所の決算報告で、
委員会の財政がかならずしも楽ではないことがわかったが、
これには改めてうなってしまった。
要するに、働いている中国人がめいめいしっかり手数料を取っていたのだ。
なんせここは中国だ。 手数料なしにはなにひとつ運ばない。
今日うちの庭で、とほうもない値段をふっかけようとした野菜売りをつかまえた。
ちょうどそこにいあわせた女の人たちが品物をそっくり買いとろうとしたので、
私はそれをとめ、そいつを追い払った。》
*
「働いている中国人がめいめいしっかり手数料を取っていた」
ラーベ達が善意で無償で働いているのに、
当の助けられている中国人が手数料をとり、
人の弱みに付け込み、途方もない値段を吹っ掛けている。
ラーベ達も大概で、自分達が何をしているのか気づくべきだろうに。
これは メッセージ 2147 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2149.html
1939年8月21日 独ソ不可侵条約妥結を発表
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/30 17:01 投稿番号: [2148 / 2250]
〔昭和14年8月23日
東京日日(夕刊)〕
〔ベルリン本社特電二十一日発〕
ドイツ政府は二十一日、次のごときコンミュニケを発表した。
独ソ両国政府は相互不可侵条約を締結するに決し、
リッペントロップ独外相は右使命を帯びて、二十三日、モスクワに向かうことになった。
右発表はダンチヒ問題の危機切迫の折柄、
ベルリン政界は勿論、民主主義諸国を唖然たらしめた。
〔ベルリン二十一日発同盟〕
ドイツ政府は二十一日午後十時、
ラジオを通じ独ソ不可侵条約締結決定に関し、左のごとく発表した。
ドイツ政府はソ連側の申し出に基づき独ソ不可侵条約の締結につき
協議中のところ、今般両国間に意見一致を見、条約の成立を見るに至った。
よってリッベントロップ外相は来たる二十三日、
モスクワに赴き同条約の調印を行う予定である。
〔モスクワ二十一日発同盟〕
ソ連政府は二十一日、
タス通信社を通じて独ソ不可侵協定締結決定に関して、左のごとく発表した。
独ソ通商条約成立に続いて、両国間の政治的関係改善の問題が起こった。
本問題に関しては独ソ両国政府はかねて意見の交換を行っていたが、
その結果、独ソ両国は両国政治関係の緊張緩和、戦争の脅威除去
並びに独ソ不可侵条約の締結を希望することが明らかとなった。
リッベントロップ独外相は右条約締結交渉のため
二、三日中にモスクワに到着するはずである。
これは メッセージ 2146 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2148.html
1938年1月3日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/30 16:49 投稿番号: [2147 / 2250]
一月三日
《 きのう夜七時に、スマイスがフィッチあての報告書を手に
医者の許伝音氏のところからやってきた。
フィッチ様!
本日午後四時三十分ごろ、劉培坤は、暴行されそうになった妻を守ろうとして
日本兵に射殺されました。
近所の家が日本兵に占領されているため、わが家はいま、
逃げてきた婦人たちでいっぱいです。
私はシュペアリング氏に手紙を書き、
すぐにこちらへきて我々を守って下さるようお願いしました。
シュペアリング氏の体があかない場合、ここ寧海路五号に、
だれか他の外国人をさしむけていただけないでしょうか?
敬具
許伝音
本部に泊まりこんでいるはずのシュペアリングをスマイスが探しに行っている間、
私はマギーといっしょに日本大使館へ行った。
マギーはすでにこの件について詳しい報告を受けていた。
田中氏に軍部に出向いてもらい、この事件を調査するよう要求してもらうのだ。
これは実に計画的で残虐な犯行だ。
劉の妻がおそわれたのは昨日の朝だった。五人の子どもがいる。
夫がかけつけ、日本兵の横っ面をはって追い払った。
午後、朝は丸腰だったその兵士は、今度はピストルを持ってやってきて、
台所に隠れていた劉をひきずりだした。
近所の人が必死で命乞いをし、ある者は足もとにひれ伏してすがった。
だが日本兵は聞き入れなかった。
田中氏は、ただちに軍部に報告すると約束した。
私も氏が約束を果たさなかったとは思っていない。だが結局、沙汰やみだ。
兵士の処罰といえば、いつだってたかだか平手打ちどまり。
それ以上こらしめたという話を聞いたことがない。
*
>朝は丸腰だったその兵士は、今度はピストルを持って<
日本兵
(陸軍)
はピストルを持っていない。
将校は自決用に持っている、が、これは自前。
だから、弾に予備はあまり無く、かつ軍の弾と合わない。
よって、無駄に撃てない。
ピストルを持って来た兵士は、便衣兵の変装ではないだろうか?
これは メッセージ 2141 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2147.html
1939年8月 ノモンハン事件42 最後の攻勢
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/29 15:24 投稿番号: [2146 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
220〜223p
《 敵の八月攻勢は空前の規模を以て火蓋を切ったのである。
第二課の情報判断で、八月十四、五日頃敵の攻勢があることは、
十分予期していたのであるが、その規模及び兵力は全く不明であった。
まさかあのような大兵力を、外蒙の草原に展開できるものとは夢にも思わなかった。
第二十三師団の陣地を固め、戦力を補充し、重砲と第七師団の一連隊を増強すれば、
十分対抗できるものと信じていたのである。
作戦参謀としての判断に誤りがあったことは、何としても不明の致すところ、
この不明のために散った数千の英霊に対しては、何とも申し訳ない。
敵は八月九日から十日にわたり、川又方面からホルステン河両岸地区の
我が陣地正面に、有力な歩砲兵戦車を以て逆襲し来たり、
我が軍はこれを陣前に迎撃して破摧
(はさい)
し、
敵は約五百の屍体を棄てて退却し、我が方の損害は六十名内外だった。
陣地による戦闘の利益を初めて感じ、自信を以て守備に任じた。
ただしこれは八月攻勢の規模としては余りに小で、
たぶん前哨的偵察戦であろうと判断した。
八月二十一日朝、次の電報を受領した。
軍参謀長
第二十三師団長
一、本朝来敵の戦勢頓
(とみ)
に活気を呈し殆んど全正面に亘る戦場に転移せり。
二、ホンジンガンガの北警備軍正面に於ては敵は
歩、騎兵約千、戦車五十、砲十数門の展開を終り十二時攻撃前進し、
更に主力を以てガロートコ
(将軍廟西方約四里)
に於て渡河を実施せり。
すなわち師団の最右翼たる満軍騎兵は鎧袖一触されて敗退し、
敵は外翼より将軍廟方面に進出を企図しているようである。
次いで第六軍司令官より、次のような電報を受領した。
軍司令官宛
第六軍司令官
二十日以来の戦況より判断するに第二十三師団正面に現出せる敵の第一線兵力は
少くも狙撃二師団及機械化部隊にして、
目下に於ける重点はホルステン河南方地区にあるものの如し。
最右翼を突被せられた前線から、いまやまた最左翼ホルステン河南方に、
敵の重点があるとの報告に接したのである。
これはまさしく全面攻勢である。我が両翼を包囲しようとする敵の兵力は、
到底二師団程度ではなかろう。
第二線兵団を加えると、三〜四師団に達するであろう。
従来の戦況より判断すると、戦車は少なくも四〜五旅団を超える。
第二課の判断は、狙撃二ないし三師団、戦車二ないし三旅団であったが、
現実においては、まさに二倍の兵力と見做さねばならぬ。》
(この後の戦闘は長くなりますので、途中を省略します。)
これは メッセージ 2140 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2146.html
1938年1月2日蒋介石和平拒絶を命ず
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/29 15:14 投稿番号: [2145 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
261p
《 一月二日、外交部長王寵恵が、
ドイツ大使トラウトマンから対日回答の督促をうけていると報告すると、
「日方所授条件等
於征服
與
滅亡我国、與
其屈服而亡、不如戦敗 而亡之為愈」
(日本側の条件は、わが国を征服して滅亡させるためのものだ。
屈服してほろびるよりは、戦って敗れてほろびたほうがよい)
蒋介石は、大声で、そう、叫ぶと、王部長に命令した。
「応即厳詞拒絶」 (断乎として拒絶せよ) 》
*
日本は、別に、中国を征服して滅亡させるような条件などつけていない、
自分で勝手に戦争をしかけておきながら、勝手に滅亡の妄想をしている。
日本はただ、早く戦争を止めたいだけなのだ。
しかし、蒋介石は、断固拒絶を命じた。
蒋介石は、またしても、和平の拒絶を選んでしまった。
これは メッセージ 2139 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2145.html
1939年8月19日 日英会談、決裂
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/28 18:55 投稿番号: [2144 / 2250]
〔昭和14年8月19日
東京日日〕
日英会談、決裂に直面
英国政府は十八日午後に至り突然、別項のごとく
一方的に現銀、法幣両問題に関する訓令の内容を説明する重大声明を発表し、
現銀、法幣両問題は純粋なる局地的問題と見做すことを得ず。
従って日英両国間のみの基礎において両問題に関し討議を進めても、
なんら有益な成果を挙げ得ない。
と真向うから米仏介入論を振りかざすに至ったので、
英国側がこの不遜なる見解を捨てない限り日英の意見は全く対立し、
この英政府の不信行為によって会談続行不能はもちろん、決裂の危機に直面するに至った。
よって外務当局は十九日午前、陸軍側との間にこれが対策に関し重要協議を遂げた上、
英国政府声明を反駁して、帝国政府の見解を堂々中外に宣布すべき
画期的声明を行うこととなった。
なお有田外相は右に関し同日、平沼首相と会見、都合によって板垣陸相をも加えて、
会談決裂に処するわが最後的措置を決定するものと見られる。(中略)
英政府の訓令、声明〔ロンドン十八日発同盟〕
東京で進行中の日英会談が経済問題で難関に逢着したのに対し、
英政府は久しく訓令を出し渋り遷延策に出ていたが、
十七日夜、ついにクレーギー大使に対し現銀および法幣の両問題に関する訓令を発した。
訓令の内容は、英国政府は現銀および通貨の両問題が日英両国外の国家の
利害とも関係あると思惟する故に、
両問題は日英両国間のみの間では討議し得ぬものと見做す旨、
日本政府に通告するよう指令したものといわれる。
〔ロンドン十八日発同盟〕
英政府官辺では十七日夜、
新訓令の内容を説明し、左のごとく声明した。
東京で進行中の日英会談の議題中、治安問題に関してはかなり折衝が進められている。
しかし現銀および通貨問題については、英国政府はこれらの問題が
支那の現情勢に関するいかなる討議からも除外すべきではないことは
常に認めているとはいえ、
結局両問題は純粋に局地的な問題と見做すことは不可能であり、
従って純粋に日英間のみの基礎において両問題に関し討議を進めても、
なんら有益な成果を挙げ得ないとの結論に到達したのである。
もし今後現銀および通貨間題が更に討議されるような場合には、
英政府としては九国条約その他の関係条約に加盟しているすべての国が、
自己の見解を表示する機会を与えらるべきであると主張するであろう。
なお英政府官辺では、英政府は東京会談に関し関係諸国、
特に米仏両国政府と緊密な連絡をとって来たことは認めるが、
今次の訓令発送は独立に決定されたものである旨を強調している。
更に官辺では、英政府は現在訓令の内容を関係諸国へ通牒する手続きを
とっている旨を洩らした。
これは メッセージ 2142 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2144.html
南京 郭岐が明かした略奪者
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/28 18:45 投稿番号: [2143 / 2250]
ラーベは、略奪は日本軍がやっていて、中国人はかわいそうな被害者だと
思っていますが、実は中国人こそが略奪の犯人だったと郭岐は書いています。
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
138〜141p
《 ところで、いささか長文になるが、次に重要な文章を引用する。
これこそが
「略奪」
の真相だったと考えられるからである。
〈 十二月十二日の後、城門は大型の荷車が通行できず、汽船の運行も断絶していたのに、
なぜ上海路ではあのように売買がおこなわれたのだろうか。
また商品はどこから来るのだろうか。
これらは
簡単なことであった。一夜のうちに商品はすべて揃い、
選ぶ手間も運ぶ時間も省け、そのうえどれも使えそうな商品ばかりだった。
一般に生計が苦しく度胸がある難民たちは、昼は隠れて
夜活動するというねずみのような生活をしていた。
夜の間は獣兵は難民区の内外を問わず、活動する勇気がなく、
兵隊の居住する地区を守る衛兵がいるだけで、このときが活動の機会となった。
人々は難民区外の大企業、大店舗、大きな邸宅を好きなだけ物色した。
当時、食品会社には食べ物が、妙機会社には日用品が、絹織物問屋には絹織物があった。
だから一晩動くと翌日には手に入らない物はなく色々なものがすべて揃った。
長い間世に出ることのなかった骨董書画、磁器や、馬桶、たんつぼ、箸、
お碗、小皿、電球までもが揃っていて、一つの家庭を作るのも容易なことだった。
半日もかからずにすべて買いそろえることができ、
しかも価格を勝手に決めることができた。
あるときなど、私は銅貨三枚で茶壷を買ったが、帰り際に売っていた人は
「友よ、持って行けよ!」
とでもいうように笑っていた。
真新しい洋服でも、おそらく二元あれば買え、新品のソファーが三元もしなかったし、
狐の皮の長衣が十数元で、これを着て日本兵に仕えて荷物運びをしている者もいた。
一番良い上等のロシア絨毯が数元もしなかったが、惜しむらくは、
それらの書画や古い磁器が獣兵にも多く買われていたことである。
その中には、世に伝わる名品もあり、長い間、世に出てこなかった物もあったが、
今無造作に道端に並べられていた。
ある人が地中から金の碗を二つ掘り出したが、茶碗のように大きく、
表面がとてもきたなかったので、てっきり鋼製だと思い、上海路に並べて売っていた。
注意深い人が、手で持ってみたところ思ったよりも重量感があったので、
表面を少し力を入れてこすってみると、美しい光沢があったので、金ではないかと疑った。
そこで二角で二つの碗を買い取って、鑑識眼のある人に見てもらうと、
本当に金製であったとのことである。
その他にも骨董品の値打ちが分からずにやたらに買った人は多く、
磁器一つとっても、六朝時代、康煕帝時代のものまで多く含まれていた。
しかし、そのとき盗んで売った者も、買って持っている者も何の罪もとがめられなかった。
ただ金陵女子大の黄女史だけが入り口のところに次のように書いて貼っていた。
「略奪品を買って持ち込むべからず」 と。・・・・〉
(②234頁〜235頁)
この文章を読んで、読者は誰が書いたと思ったろうか。
「獣兵」
とあるのは日本兵を意味するのでとまどうかもしれないが、
これは
『資料集②』
に載っている郭岐の手記の一部である。
先に書いたように、彼は南京戦当時、支那軍の指揮官であった。》
注:松村俊夫氏の言う資料集とは、青木書店刊
『南京事件資料集』
の事
②は中国関係資料編
*
「それらの書画や古い磁器が獣兵にも多く買われていた」
つまり、中国人が略奪し売っていた
「書画や古い磁器」
を
日本兵が買ったと言う事です。
しかしながら、その買った日本兵は、後世、略奪者と見なされます。
ひどい事に。
これは メッセージ 2141 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2143.html
1939年8月11日 英国、犯人引渡しを声明
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/27 18:47 投稿番号: [2142 / 2250]
〔昭和14年8月12日
東京日日〕
〔ロンドン本社特電十二日発〕
英国政府は四人の犯人を
北京臨時政府に引き渡すことを決定した旨正式に発表、
外務省スポークスマンは、
「これはなんら政治的意味を有せず、単なる法律上の手続きに過ぎない」
と説明し、この英国の処置は七月三十日、
日本が提出した新証拠により罪状が明らかになったからだといっている。
しかし政治的意味を持つことは勿論であって、
十日の郭泰祺大使のハリファックス外相訪問もこれに関連していると見られ、
蒋にとっては重大な打撃であることは言をまたない。
英国政府はこのゼスチュアで東京会談の行き詰まりを救わんとしているもののごとく、
引き渡し決定の通知と同時にクレーギー大使に回訓が送られたとみられる。
ただしこの回訓が通貨問題に関して決定的方針を明示しているとは解されず、
会談はなお幾多の曲折を経るものと見られる。
〔ロンドン十一日発同盟〕
英国政府は十一日午後、
日英会談に関しクレーギー大使に訓令を発した旨、次のごとく発表した。
政府はクレーギー駐日大使に対し新訓令を発したが、右訓令は、
一、英国は目下天津英租界に庇護中の四名の支那人容疑者を引き渡すに
決定した旨、日本政府に通達すること。
一、その他の問題につき、日英会談を再開すべきこと。
を指令したものである。
確聞するに新訓令の内容は相当詳細に亘り、
主として治安、警察問題に関するものであるが、
現銀引き渡し問題並びに法幣問題にも触れているといわれるが、
英国官辺はその見解の発表を避け、
ただ新訓令によって交渉続行の途が開かれるであろうとのみ語っているに過ぎない。
英国政府が暗殺犯人引き渡しを決定した以上、
天津英租界工部局警察は直ちに四名の犯人を現地の支那法院に引き渡すこととなろう。
なお英国政府の右決定は、東京への訓令発出と同時に蒋政権にも通達された。
これは メッセージ 2130 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2142.html
1938年1月2日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/27 18:38 投稿番号: [2141 / 2250]
一月二日
《本部の隣の家に日本兵が何人も押し入り、
女の人たちが塀を越えてわれわれのところへ逃げてきた。
クレーガーは、防空壕の上からひらりと塀をとび越えた。
塀はひじょうに高いのだが、警官がひとり手伝ってくれたので、私もあとを追おうとした。
ところが二人ともバランスを崩して落ちてしまった。
さいわいかなり太い竹の上だったので、竹が折れただけで、けがをせずにすんだ。
その間にクレーガーは兵たちをとっつかまえた。やつらはあわてふためいて逃げていった。
ただちょっと様子を見にきただけだというのだ!
十日前、銃剣でのどを突かれた近所の奥さんを鼓楼病院に運んだが、
今日ようやく退院が許された。入院費は一日当たり八十セント。
お金がないというので、私がかわりに払った。
日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。
自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で開かれた。
演説者が協力ということばを口にしているそばから、
病院の左右両側で家が数軒焼けた。軍の放火だ。
自治委員会の代表でありかつ紅卍字会のメンバー、孫氏がもったいぶって私にいった。
「ある重要な件につき、近いうちにお話ししたいのですが」
どうぞどうぞ!
とっくに心づもりはできている。
お宅たちがなにを狙ってるのかなんざ、お見通しだよ!
安全区の通りは、あいかわらず見渡すかぎりの人の海だ。
何千というおびただしい人々が道ばたにたたずんでいる。
値段の交渉をしている人もある。
道路の両側には行商人が鈴なりになって、食料品、タバコ、古い衣服を売っている。
だれもが日本の腕章や国旗をつけてとび回っている。
横町や道路の間の空き地には、藁小屋が所せましと建ち並び、難民村ができている。
わが家と同じ光景だ。うちの庭には、もはや草一本生えていない。
美しかった生け垣もあっという間に踏みつぶされ、見る影もなくなった。
なにしろ大人数だ、しかたあるまい。なによりまず生きることが先決なのだ!
昨夜、またしても日本兵の乱暴があいついだ。
スマイスが書きとめ、いつものように抗議書として日本大使館に提出した。
我々がひそかにおそれていたことがついに起こった。
中国の爆撃機がやってきたのだ。といったからといって、けっして友人としてではない。
敵としてだ! かつての日本軍のように、時間どおりに爆弾を落としていく。
だが、いままでのところ、幸いなことにたいていは同じ場所、
つまり南の飛行場かその近くに限られている。
日本の防空部隊が姿を現したが、人数も少なく、いとも手薄だった。
空襲がこのまま安全区の外にとどまるかどうかは、あとになってみないとわからない。
だが、そうであってほしい。
さもないと、いままでよりもっと悲惨なことになるかもしれないのだ。
いまの安全区の混み具合ときたら、日中は上海よりすごい。
そんなところに一発爆弾が落ちたが最後、ものすごい数の人命が失われるのだ。
そう思っただけでぞっとする。》
*
「日本軍の略奪につぐ略奪」・・・「軍の放火だ。」・・・
「道路の両側には行商人が鈴なりになって、食料品、タバコ、古い衣服を売っている。」
とラーベは言っているが、おかしいと思わないのだろうか。
その商人はどこから品物を仕入れたのか?
実は、彼らこそが略奪の犯人で証拠隠滅のために放火しているとは考えられないのか?
これは メッセージ 2137 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2141.html
1939年8月 ノモンハン事件41 第六軍の新設
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/26 18:45 投稿番号: [2140 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
218〜220p
《 八月十日、第六軍の編成が命ぜられた。
全満を指揮する関東軍が、いまや西正面の一角に全神経を集中し、
ともすれば全軍の統帥を誤りそうに見える。
第二十三師団長が、全戦場を自ら指揮することは到底その任ではない。
新しい軍の陣容は次の通りであった。
軍司令官
陸軍中将
荻洲立兵
軍参謀長
陸軍少将
藤本鉄熊
高級参謀
陸軍大佐
浜田寿栄雄
作戦主任
陸軍少佐
平井重文
後方主任
同
岩越紳六
情報主任
同
某
荻洲中将はシナ戦線で第十三師団長として戦い、徐州会戦に経験があり、
藤本参謀長は航空出身の逸材であった。
第二十三師団が五月中旬以来、新編の弱体を以て困難な戦場統帥に当たったので、
軍参謀は植田将軍の意志により、
絶えず戦場に交互に出張して師団の戦闘を援助してきたが、
すでに第六軍が編成された以上、関東軍としてはその地位を尊重し、
干渉がましい態度に出ないよう注意を払い、もっぱら連絡の任務に限定された。
八月十三日、新軍司令官は戦場に進出し、将軍廟に司令部を置いて、
次のような報告第一号を打電してきた。
関東軍司令官宛
第六軍司令官
一、小職 本十三日戦闘を視察す。将兵志気極めて旺盛なり。
二、敵は連日小規模ながら出撃し、特に砲撃及飛行機による対地攻撃を反復しあり。
三、軍は局部的反撃を避け速に築城及冬営準備を完成し、
以て其後に於ける攻勢の弾撥力を培養せんとす。
未だ戦場に不慣れの新設軍司令部を以て、
この困難な戦場の指揮に当たらせることは、何としても気の毒である。
勝ち誇った戦場ならばともかく、破れそうな茅屋を、雨漏りのままで
譲ることに限りない責任を感じたのは植田将軍以下全員の気持ちであった。
事件が起きてから、参謀本部の直接責任者たる次長が
まだ一度も満州に来ないことは、不快なことである。
「関東軍は内外二正面作戦をしている」
とまで漏らさざるを得ない状態にあった。
事件が起こってから、第一部長と有末、谷川中佐、島村少佐が、
一、二日出張しただけで、次長も、作戦課長も全く姿を見せない。
植田軍司令官からたびたび次長の来満を希望したものの、ついに拒絶された。》
これは メッセージ 2138 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2140.html
1938年1月1日 蒋介石の戦争決意
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/26 18:37 投稿番号: [2139 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
261p
《 一九三八年 (昭和十三年) 元日
蒋介石は突然に内閣改造をおこない、自身は行政院長を辞任して、
「抗日戦之指揮」 に専心する旨を言明した。
副院長孔祥煕が行政院長に昇格し、副院長には秘書長張群が転出した。
しかし、改造の主眼は 〝和平派〟 の追放におかれ、
蒋介石は、前述の国防最高会議で和平交渉を提議した交通部長愈飛鵬、
教育部長王世杰を解任し、それぞれ張家○(王+敬)、陳立夫を後任とした。》
これは メッセージ 2135 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2139.html
1939年8月ノモンハン40 モスクワ武官の意見
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/25 18:44 投稿番号: [2138 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
213〜215p
《 この頃、モスクワの駐在武官より、次のような意見を電報してきた。
その趣旨は軍で考えていたこととほぼ一致するものであった。
軍参謀長宛
モスクワ武官
外蒙事件に関し、左の如く意見を具申す。
判決
一、我はハルハ河より適宜離隔せる位置に至短時間に最も堅固なる陣地を構築す。
又国境監視隊に対しても永久に之を確保し得る如くし、
敵の回復攻撃企図を放棄せしむるを要す。
二、対国内政策を断行するを要す。
理由
一、対ソ情勢判断は今日に至るも変化なく、
ソ軍は益々対日戦備の強化並に外蒙国境の回復に専念すべし。
即ちソ連当局が屡々声明せる所に鑑みるも特に対外蒙政策、対異民族政策、
対内政策上より見て、今次事件の政治的意義を重視しあること明かにして
現在の如き状態を以て推移せんか、
時に緩急あるべしと雖
(いえど)
も消耗戦はいつまでも続くべし。
尚張鼓峰事件の全面的勝利を益々大々的に内外に宣伝誇示しつつあるに拘らず、
今日まで外蒙事件に関し未だ大なる宣伝をなさざるは、
我が軍の闘志衰えず勝敗不明、しかも戦面拡大の公算絶無に非ざるためにして、
一度休戦を欲し或は現地より引揚ぐるに於ては張鼓峰事件同様、
俄然大いに宣伝に転ずるものと判断せらる。
二、果して然らば、現状を以てする消耗戦の続行は迅速の解決を期するを得ず。
又張鼓峰の如く撤退せんか、彼の最も欲する所にして再び我が足下を見透され、
且張鼓峰事件に数倍する宣伝効果を挙げしむるのみならず、
益々我を戦争不可能と誤りて判断せしむるに至るべきを以てなり。
この際我の採るべき最良の手段は、之以上大規模の消耗戦を避け、
しかも国境確保に関し確固たる我が決意を示し得る地域毎に、
堅固なる築城を迅速に設置し敵の蠢動
(しゅんどう)
に対しては
断固たる一撃を加え得る態勢に於て持久し、
敵をして遂に我との抗争を断念せしむるにありと判断す。
雲烟
(うんえん)
万里を隔てたモスクワの端から、遠くホロンバイルの空を望んで、
関東軍の善戦健闘を心から祈ってくれている駐在武官の心中は、
どんなに苦しかったであろう。》
これは メッセージ 2136 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2138.html
1938年1月1日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/25 18:35 投稿番号: [2137 / 2250]
一九三八年一月一日
(前の部分は
日本軍の問題に関係ないので省略します)
《 夜の九時に日本兵がトラックに乗ってやってきて女を出せとわめいた。
戸を開けないでいたらいなくなった。見ていると中学校へむかった。
ここはたえず日本兵におそわれている。
私は庭の見張りをいっそう厳重にして、不寝番に警笛を持たせた。
こうしておけば、いつお越し下さってもすぐに馳せ参じられる。
だが、ありがたいことに、今晩は無事に過ぎた。》
*
既に慰安所を作っているのに、夜中に
「女集め」
に来るか?
しかも、喚いただけで、サッサといなくなった??
日本の正月は1月1日だが、中国は旧暦で祝う。
従って、売春婦の正月休みが西暦の1月1日とは限らない。
そもそも、今、南京には第16師団しかいないのだから、
売春婦が足りなくなるほど、多くの兵隊はいない。
この “日本兵” と見られている者の行為、
ラーベ達に日本兵を悪く印象づけさせるため、
わざとやっているとしか見えないのだが。
これは メッセージ 2133 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2137.html
1939年8月 ノモンハン39 前線と後方の齟齬
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/24 14:34 投稿番号: [2136 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
211〜213p
《 第二課(情報)の判断によると、
八月中旬には敵は攻勢を取るであろうとのことである。
その根拠になったものは、
一、ハルビン機関の特情によると、赤軍本部から政治部宛の電報によれば
現地司令部の再三の延期要求を斥けて、
八月五日から十日の間に攻撃を始めよと命じたこと。
二、敵の現地指導官は準備未了を理由とし攻勢開始の延期を申し出たこと。
三、補給困難のため敵は悲鳴を上げている、
その補給関係者がチタに会合し協議している。
などであり、これらを総合すると、敵の攻勢は八月十四、五日頃だろうとの判断であった。
皮肉なことに、敵の現地指揮官がいつでも弱音を吐いているのに、
後方の司令部は激しい督戦を加えている点で、
これは我が第一線と、東京との関係と全く反対の現象であった。
ノモンハン事件を大規模に積極的に指導したのはクレムリンであり、
これを消極的に退嬰的に収拾しようと焦ったのは東京である。
第二十三師団の、七月二十三日の攻撃が頓挫したとき、
敵の八月攻勢に、どうして備えるかは最も苦心した点である。
この事件は、越冬を覚悟しなければならぬ。
酷寒零下五十度の砂漠に、一万数千の将兵を越冬させることは、
補給上から生易しいものではなかった。
とりあえず、陣地構築材料を豊富に師団に交付し、
約一カ月の持久に耐える弾薬と糧株を集積する。
井戸を掘り給水の準備を整えたり、あるいは冬営の材料を迫送したりする仕事は、
戦闘以上に将兵の重い負担であった。
万一ソ連が全面戦争を決意する場合をも考えて、全般の作戦計画を樹てねばならぬ。
軍司令官が、敵の攻勢に対して最も懸念されたところは、
一、敵が我が右翼フイ高地方面または最左翼方面から
包囲的に攻勢を取る公算が大きい。
この際は第二十三師団の陣地を支点として、敵の外翼に向かって逆襲するが、
万一敵が正面より一地区毎に絶対優勢な兵力で逐次侵蝕する場合、
現在の兵力で満足し得るか。
二、このために第七師団を増加する必要はないか。
少なくもハイラル付近まで推進しておく必要はないか。
とのことであった。参謀長も副長も同意見であり、
この心配は事実において、全く的中したのである。
幕僚の考えがこれに及ばないで、
第七師団を平時の計画通り東部正面に備えるために動かしたくない
との考えと共に、後方の補給能力が十分でないことを理由として、
この処置を躊躇したことは、現実において大きな失敗を重ねる原因となった。》
これは メッセージ 2134 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2136.html
1937年12月30日 和平案ドイツの説得と中国
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/24 14:23 投稿番号: [2135 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
260〜261p
《 駐支大使トラウトマンは、しかし、日本側の勝利を確信しているので、
軍事顧問A・ファルケンハウゼン中将を通じて、中国側説得をこころみることにした。
十二月三十日、大使は中将に中国軍の抗戦能力を質問した。
「適切な軍事措置、国民の戦意高揚、十分な弾薬補給という三要件が
確保されれば、あと六カ月間は戦えるでしょう」
「そりゃ、楽観的すぎると思うね。将軍」
大使によれば、大使は、顧問ファルケンハウゼン中将の言葉から、
中国側も同様の
「自己過信」
をしているとみなし、
「極秘情報」
を提供して、中国側の反省をうながすよう依頼した、という。
だが、顧問ファルケンハウゼン中将による説得工作は、逆効果をうんだだけであった。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
466p
《 十二月三十日から翌年一月一日まで、
中国側は最高国防会議
(主席蒋介石、副主席汪兆銘)
を開いた。
この会議でトラウトマン大使がもたらした回答を討議したもようであるが
その結論は明らかでない。
(汪兆銘の回想録によれは、この和平交渉条件受諾を決定したというが、
ドイツ側資料からみて、これは信じ難い)
ただ本会議において、蒋介石が行政院長の職を辞し、
孔祥煕が院長、張群が副院長になることが決定し、元旦の日に正式就任した。》
これは メッセージ 2125 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2135.html
1939年8月ノモンハン38 敵基地爆撃の許可
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/23 15:27 投稿番号: [2134 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
207〜209p
《 八月七日、次のような電報を受領した。
大陸命第三三六号
命令
一、関東軍司令官はノモンハン方面作戦のため状況己むを得ざれば
その航空部隊を以て概ねタムスク付近及その以東に於ける
敵航空根拠地を爆撃することを得。
二、細項に関しては参謀総長をして指示せしむ。
右の命令と前後して、参謀総長からは、
一、大陸命令第三三六号実施の結果敵が満領内深く爆撃を行うこと
絶無なりと言うべからず。
その際に於ても空中爆撃の範囲若しくは、その他を拡大せざることに
関しては深く留意相成度。
関東軍司令官の名を以て数回にわたり意見を具申し、
参謀長上京して、面
(おもて)
を冒し理を尽くして説明したのに、
軽くあしらって採用しなかった意見が、
若い参謀本部部員が僅かに一両日の戦場視察の結果によって、
陛下の下された命令を根本的に変更する態度こそ、
下剋上の尤
(ゆう)
たるものではなかろうか。
結果的に見れば関東軍司令官に対する信頼が、
一少佐参謀に及ばなかったものとなるではないか。
飛行集団はこの命令によって勇躍したが、当時飛行部隊の疲労ようやく加わり、
実行のためには相当の準備を必要とした、
のみならず天候の関係によって期日が次第に延び、
八月二十一日に至って初めてマタット及びタムスク付近に進攻した。
第一次タムスク爆撃に劣らない兵力で、約九十機撃墜の戦果を挙げたものの、
我もまた十数機を墜とされた。
それは敵の抵抗と準備とが、日を逐うて増大した結果である。》
これは メッセージ 2132 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2134.html
1937年12月28日 ラーベの日記3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/23 15:18 投稿番号: [2133 / 2250]
《 岡少佐は、トラウトマン大使から私たちのことを頼まれているそうで、
次のように言った。
今南京にいるドイツ人は全部で五人だが、いっしょに暮らしてもらえないか。
そうすればこちらとしても保護しやすい。
もしそれに賛成でない場合は、その旨一筆書いてもらいたい、と。
私はきっぱり言った。
「身の安全ということなら、中国人とおなじでけっこうですよ。
日本軍は中国人を保護すると約束しているんですからね。
もしも中国人を見殺しにするつもりだったら、
トラウトマン大使や他のドイツ人といっしょにさっさとクトウー号で
逃げていましたよ」
岡少佐はいった。「私はあなた方の命を守るように頼まれているんです。
それはともかく、日本兵に持ち物を奪われたり壊されたりしたことが証明できれば、
政府が弁償するか、かわりのものを支給するかします」
それについては、ただ次のように答えるしかなかった。
「南京陥落後の十二月十四日に委員会のメンバー全員で街を見まわりましたが、
ドイツ人の家も持ち物も無事でした。
略奪や放火、強姦、殺人、撲殺、こういうことが始まったのは
日本軍がやってきてからです。誓ってもいいですがね。
同じことはアメリカ人の財産にもいえるんですよ。
舞い戻ってきた中国軍によって略奪された家はもともと多くありませんでしたし、
みんな太平路にありました。
太平路には外国人の家は一軒もありませんでしたからね」
七時半ころ、下士官が一人、私の衛兵といっしょにやってきた。
二人ともがっしりした体格で銃剣をたずさえ、泥だらけの軍靴を履いていた。
おかげで、カーペットがすっかり汚れてしまった。
この二人は私の護衛を命じられているのだそうだ。
すぐにまた外へ出ていって、この雨や雪のなかを歩きまわらなければならない。
外はひどい天気なので、さすがにちょっと気の毒になった。
夜の九時ころ、日本兵が二人、こっそり裏の塀をよじ登っていた。
私が出かけようとしたときには、やつらはすでに食料貯蔵室にもぐりこんでいた。
私は取り押さえようとした。クレーガーには衛兵を呼びにいってもらった。
ところがどうだ、衛兵はドロンをきめこんでいたのだ!
クレーガーが私に知らせにきたときには、
こっちの二人もあわてて塀を乗り越えて逃げだしていた。
*
またもや日本兵の侵入?
もはや第16師団しかいないのだから、
状況証拠からするとラーベのところに侵入していたのは
第16師団の兵士か、と言うことになるのだが。さて?
これは メッセージ 2131 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2133.html
1939年 ノモンハン37 手足を縛られての戦闘
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/22 16:27 投稿番号: [2132 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
205〜206p
《 地上作戦の成果が期待に反して不徹底に終わり、受け太刀となったのに反し、
航空部隊は事件発生以来、偉大な戦果を挙げている。
しかし、脚を縛られて戦わねばならぬ条件は、疲労の累積となり、
消耗の続出となって、すでに六十名近くの精鋭操縦者を失った。
このままで推移したら、将来に恐るべき欠陥を免れない。
地上においては、すでに五千人の死傷を生じている。
これをよそに見て、航空だけを温存することは許されそうにもない。
この不利から脱却するためには、進んで敵機を根拠地に急襲する以外に途はない。
幾度か軍司令官の名を以て中央部に具申したが相手にされなかった。
参謀本部から航空主任谷川中佐が戦場視察のため派遣せられ、次いで島村参謀が出張した。
僅かに一両日の視察の後に、両参謀から参謀総長に具申した意見は次の通りである。
参謀本部作戦課長宛
島村参謀
一、最早航空戦力の保持上自衛のため外蒙内、敵の航空根拠地に対し
進攻を行うの止むを得ざるに当面するものと判断す。
二、敵の対日戦意ないしは事件対応方針に関する諸情報に照し、
事態拡大の危険は従前に比し減少しつつありと考慮す。
三、処理要綱起案後旬日ならずして意見を変更せざるを得ざるの状況に
直面し自責の念に堪えず。
七月二十九日及び八月二日の両日にわたり、敵機は我が制空の間隙に乗じ、
将軍廟付近の我が飛行場を急襲し、
飛行第十戦隊及び第二十四戦隊は甚大なる損害を蒙り、
関東軍前任高級参謀安倍大佐は第十戦隊長として壮烈なる戦死を遂げた。
あの峻厳な安倍さんの顔が、血に塗れて愛機と共に草原上に横たわった。》
つづく
これは メッセージ 2113 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2132.html
1937年12月28日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/22 16:19 投稿番号: [2131 / 2250]
宣教師のフォースターからジョージ・フィッチにあてた手紙
《 ジョージヘ!
鳴羊街十七号付近の謝公祠、この大きな寺院の近くに、
中国人の死体がおよそ五十体ある。
元中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。二週間ほど前から放置されている。
もうかなり腐敗が進んでいるので、
できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。
私のところには、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが、
日本当局からの許可なしでは不安らしい。許可がいるのかなあ?
もしそうなら、許可を取ってもらえないだろうか?
よろしく!》
フィッチにあてたフォースターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発でわかる。
この五十体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。
これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。
いったいどうなるのだろう。
このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。
スマイスと私は、日本大使館にいき、福井氏や岡という少佐と二時間話し合った。
つづく
これは メッセージ 2129 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2131.html
1939年7月27日 日英会談 法幣問題
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/21 18:51 投稿番号: [2130 / 2250]
〔昭和14年7月28日
東京日日〕
二十七日の第四次日英会談は、午前中の討議において
治安警察問題の全項目を一応完了したが、
英国側から将来実施すべき具体的方法のうち二、三の点について
天津の英国側出先当局へ照会すべき必要あるため、
最後的妥結を延期せられたしとの申し出であったため、
この英出先の報告到着を待って、たぶん来週月曜
(三十一日)
あたり
治安問題を再討議して最後の仕上げをなすこととなったため、
その間日程の空白が出来たので、午後四時から再開された会談では、
去る二十四日の第一次会談でわが加藤代表から提示された細目的要求のうち、
経済通貨に関する、
(一)天津英租界において蒋政権の通貨たる法幣の流通を禁ずべし。
(二)天津英租界内にある蒋政権側の現銀をわが方へ引き渡すべし。
(三)北支臨時政府の発券銀行たる連合準備銀行の活動に協力すべし。
(四)天津英租界内にある支那銀行および銭荘の業態検査並びに取り締まりを励行すべし。
の四項目の逐条審議に入ったが、
早くも第一項目の法幣流通禁止について日英の見解が食い違い、
加藤、クレーギー、ハーバート三代表の間で論戦を重ねたが、
解決点を見出ださず会談は相当難航を続け、
前途は坐礁のおそれなしと断言出来ぬ状態に立ち至ったまま、
同午後六時三十分散会、双方議を練った上で二十八日は午前十時より
第五次会談を開いて、法幣流通禁止問題の討議を続行することとなった。
しかしてわが方は、有田・クレーギーの原則協定に準拠し、
蒋介石政権の貨幣たる法幣が流通しているのは害我利敵の具体的現れであるから、
これが禁止は当然の処置であると主張したのに対して、
英国側は、昭和十年、リースロス氏を支那に派遣して幣制改革をなさしめ、
ついに現行の法幣による幣制を確立した直後、
蒋介石政権へ英国が協力する意思表示として発布された
一九三五年九月五日付の勅令
(オーダー・イン・カウンシル)
に、
「在支英国人の支払勘定は法幣をもって行うべし」
との
主旨の明文があることを楯にとって
わが方の要求を肯んぜず、
もし北支の現実の事態を認識するとしてこの勅令に除外例を設けるとしても、
英本国枢密院の議を経なければならぬと国内法改革の困難を主張し、
強硬態度を堅持して譲らぬため、会談は第一項目に引っかかって
難航を告げるに至ったものであるが、
わが方においては幣制改革当時とは一変した支那における現実の事態を
英国が真に認識したならば、法幣
(支那政府の法定通貨)
の意義に
ついても変更を認めざるを得ぬわけで、
法幣必ずしも蒋政権の通貨たることを意味せず、
現に北支に樹立せられたる新政権の法定通貨たる連銀券制度を確立し、
これをもって法幣
(蒋政権通貨)
に代うべしとの断乎たる決意と、
経済的実力をもって善処しつつある事実を指摘して、英国側の猛省を促している。
これは メッセージ 2126 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2130.html
1937年12月28日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/21 18:42 投稿番号: [2129 / 2250]
十二月二十八日
《 あいもかわらず、放火がくりかえされる!
まるで重い病いにでもかかっているようだ。
おそるおそる時計の針に目をやるが、針は遅々として進まない。
難民はだれしも新年のお祝いを恐れている。
酔ったいきおいで、日本兵がますます乱暴を働くにきまっているからだ。
慰めようとするが、いまひとつ力がこもらない。
それはそうだろう、そういう我々自身、信じていないのだから!
誰だか知らないが、今日が登録の最終日だといううわさを広めた人がいるらしい。
そのため何万人もの人が登録所につめかけた。
安全区の道路は人で埋まり、歩くこともできない。
私はドイツ国旗のおかげでかろうじて前へ進める。
ここではハーケンクロイツのついた私の車を知らない者はない。
なんとかして道をあけようとして、ぶつかり、押し合いへし合いしている。
そのわずかな隙間に滑りこみつつ、ようやく目的地に着いた。
私が通ったとたん、あっというまに元通り埋まってしまう。
休憩時間にでもあたったら、ここから抜け出すのは並大抵のことではないだろう。
今日、ほうぼうから新たな報告が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。
こうして文字にするのさえ、ためらわれるほどだ。
難民はいくつかの学校に収容されている。
登録前、元兵士がまぎれていたら申し出るように、との通告があった。
保護してやるという約束だった。
ただ、労働班に組み入れたいだけだ、と。何人か進み出た。
ある所では、五十人くらいだったという。彼らはただちに連れ去られた。
生きのびた人の話によると、空き家に連れていかれ、
貴重品を奪われたあと素裸にされ、五人ずつ縛られた。
それから日本兵は中庭で大きな薪に火をつけ、
一組ずつひきずり出して銃剣で刺したあと、生きたまま火の中に投げこんだというのだ。
そのうちの十人が逃げのびて塀を飛び越え、群衆の中にまぎれこんだ。
人々は喜んで服をくれたという。
これと同じ内容の報告が三方面からあった。
もう一つの例。これはさっきのより人数が多い。
こちらは古代の墓地跡で突き殺されたらしい。
ベイツはいまこれについて詳しく調べている。
ただ、いざ報告するときには、誰から聞いたか分からないよう、
よくよく気をつけなければならない。
知らせてきた人にもしものことがあったら大変だ。》
*
掃蕩作戦は既に終了している。第7連隊はもういない。
「五人ずつ縛って、銃剣で刺し、火の中に投げ込む」
と言うが、
5人縛られたままで倒れた者達を、どうやって火に投げられるのだ?
一人を動かそうとしたら、つながっている他の四人が邪魔になって動かせない。
ロープを切ったら、そのロープは短くなって、次には使えなくなる。
また、五人ずつ縛られていて、どうやって塀を乗り越えられる?
三方面から、同じ内容の報告という事は、攪乱工作による、デマ宣伝の可能性大。
清国の官憲が
「中国人の訴えを信用するな」
と言った事が想起される。
これは メッセージ 2127 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2129.html
Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ
[検索ページ]
(中東)
(東亜)
(捕鯨 / 捕鯨詳細)