入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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1939年7月26日 米、日米通商航海条約廃棄

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/20 18:56 投稿番号: [2128 / 2250]
〔昭和14年7月28日   東京朝日(夕刊)〕   新事態に即応、と米が一方的に通告


〔ワシントン特電二十六日発至急報〕

アメリカ国務省では一九一一年締結の日米通商航海条約を廃棄する旨、

二十六日午後十時(日本時間二十七日正午)発表した。



〔ワシントン特電二十六日発〕   上院外交委員会は二十六日、ヴァンデンバーグ決議案

(一九一一年の日米通商条約破棄並びにブラッセル会議再開に関するもの)   を審議、

なんらの決定に至らず散会したが、

政府としては同日、右決議案が可決されることを期待していたもののごとく、

失望の色が窺われた。

しかし国務長官は同日昼、大統領と協議を遂げて居り、

その決定に基づいて委員会の態度いかんに拘わらず条約破棄を発表せるものである。



対日通牒全文   〔ワシントン二十六日発同盟〕

セイヤー国務次官補は二十六日午後、

国務省に須磨参事官の来訪を求め、

一九一一年の日米通商航海条約を廃棄する旨、

ハル長官より堀内大使に宛てた通牒を手交したが、

通牒全文、左の通り。



閣下、最近数年間アメリカ政府は、

アメリカと他国間に存在する通商航海条約に関し、

右条約が締結された目的をよりよく達成するには

いかなる変更が必要であるかを決定することを目標として検討を加えつつあった。

右検討中アメリカ政府は、千九百十一年二月二十一日、

ワシントンで調印された日米通商航海条約は

新たなる考慮を要する条項を包含しているとの結論に到達した。



かかる考慮への途を開き、

かつ新事態の発生に即応してアメリカの権益を擁護しかつ助長するため、

アメリカ政府は該条約第十七条に規定された手続きに従い、

ここに本条約の期限終結を希望する旨を通告する。

しかしてかかる通告がなされた以上、

本条約及び附属議定書とともに本日より六箇月以後に満期となるものと期待する。


ここに閣下が余の最高の敬意の新たなる保証を受けられんことを希望す。


*   米国の日本に対する嫌がらせは、既に始まっている。

1937年12月27日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/20 18:47 投稿番号: [2127 / 2250]
  十二月二十七日

《・・・

鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五カ所も銃剣で刺されている。

金陵中学の難民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、

そのうちの一人だという。

この元兵士たちは、射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。

目下この方法が取られている。

さもないと、我々外国人が機関銃の音に耳をそばだてて、

なにかあったのか、とうるさいからだ。



今日、張と韓が、新街口   (ポツダム広場)   に日中合弁商店ができて、

ありとあらゆる食料品が買えると知らせに来た。

私は韓といっしょに確かめに行った。

そして はからずも、この建物に放火する現場を目撃したのだ!

日本軍はこの街を破壊しようというのか!》



*   日中合弁の店を日本軍が何のために放火しなければならないのか?

   自分で金を出して、作って、自分で放火?

   意味ないだろう。

   なぜ、日本軍の放火と決めつける。


   こういう事をするのは、中国人が日本軍と仲良くするのを好まない、

   便衣兵のしわざとは、考えないのか?

   こういう、攪乱工作をする者がいるから、間違って処刑される市民が出てくる。

   すべての責任は便衣を着た潜伏兵にある。

   そして、彼らを匿ったラーベ達に。

1939年7月24日 日英会談 現地問題交渉

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/19 19:00 投稿番号: [2126 / 2250]
〔昭和14年7月25日   大阪毎日(夕刊)〕   日本側、六項目の要求   −   現地問題交渉


第二段階に入った日英会談の第一回局地会談は、

二十四日午前九時から裏霞ヶ関の外務次官官舎で開始された。

会議場はかつて日ソ両国代表の間に北鉄移譲交渉が行われた歴史的大広間である。



これより先、クレーギ英国大使は八時五十分、外相官邸に有田外相をたずねて

局地会談の順序その他について打ち合わせた後、車を連ねて会議場へ到着、

日本側   有田外相、加藤公使、田中領事、青木、朝海両東亜局事務官、

寺岡欧亜局事務官、与謝野三等書記官、武藤少将、河村大佐。

英国側   クレーギ大使、ハーバート領事、ピゴット駐在武官、ゴアブース二等書記官、

ブレーン二等書記官、アレン三等書記官、マックレー商務官。



の両国代表の顔が揃うや、有田外相は立って加藤代表はじめ日本側の

参列諸員を順次紹介し、ついでクレーギ大使も同様英国側代表を紹介した後、

打ち揃ってカメラに収まり、有田外相は退席、外務省に登庁したが、

日英両代表は加藤=クレーギ、武藤=ハーバート、田中=ピゴットの各氏が

それぞれ向かいあって着席し、卓を囲んで会談に入った。



まず日本側より公用語として日本語を採用したき旨を提案し、

これに対し英国側は日英両国語を併用したき旨を申し出たのでこれを容れた後、

加藤公使起って天津に範囲を局限した具体的諸問題に関し日本語で総括的説明を試み、

天津における現下の事態解決のため必要なる六項目の細目要求、すなわち、



(一)程錫庚氏暗殺犯人を日本側に引き渡すこと、

(二)英国租界内における反日テロに関する日英共同捜査ならびに共同取り締まり、

(三)英国租界における抗日ならびに支那新政権反対分子の策動に対する徹底的取り締まり、

(四)英国租界における法幣の流通禁止ならびに現銀引き渡し、

(五)北支における経済撹乱行為の一掃並びに経済協力、

(六)新支那政権との協力。



に関しわが軍の治安維持上の必要を強調しつつ一般論を行い、

朝海東亜局事務官がこれを英訳した。

これに対し英国側はクレーギ大使より同様概論的な回答があり、

これをプレーン二等書記官が邦訳した後、

加藤公使は英国側の疑問とする点につき二、三補足説明を与えた。



会談は前哨戦の程度であったが、英国側は大体においてわが方の立場を諒解し、

第一次会談に関する限り交渉は順調に進捗したが、

同十一時二十五分、昼食のためいったん休憩、

両国代表はそれぞれ会場を引き揚げ対策を協議した後、午後四時より会談を続行した。

1937年12月27日 中国 日本の和平案検討

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/19 18:48 投稿番号: [2125 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   259〜260p


《 十二月二十七日、蒋介石が国防最高会議を招集して、

日本側提案を討議の対象にすると、

意外にもとにかく交渉すべきだと主張する者が、いた。

交通部長愈飛鵬、教育部長王世杰らである。

そして、会議後、交通部長愈飛鵬は大使トラウトマンを訪ねた。



「中国としては、日本の条件をうけいれるべきでしょうか。

大使閣下のご意見をうかがいたい」

「残念ながら、本使はその種の意見をのべる立場におりません」

「それでは、結局、貴国のお力で停戦にもちこむことはできないのでしょうか」



交通部長愈飛鵬は、大使トラウトマンの明答を得られぬまま、肩をおとして帰っていった。

蒋介石は、憤然とした。

「今日除投降無和平、捨抗戦外無生存、彼等実昧於大勢、不知国家利害、

此革命之所以未能成功、一至於此也」

(いまや降伏以外には和平はなく、抗戦する以外に生存の道はない。

彼らは世界の大勢にくらく国家の利害も知らない。

革命が成就できないゆえんは、まさにここにある)



蒋介石は、ソ連の援助をもとめる決心をかため、立法院長孫科にモスクワ行を指示した。

行政院副院長孔祥煕は、ドイツ商社   『HAPRO』   代表H・クラインをまねいて、述べた。

「(日本との)   和平交渉開始の努力が成功しなければ、

国民政府は、たとえわが国が経済的に破綻しようとも、

また、たとえわが国民をソ連の腕の中におしやろうとも、

最後まで抗戦するつもりです」



H・クラインから通報をうけた外務次官H・マケンゼンは、駐支大使トラウトマンに、

ソ連との接近強化は中独関係を改変させる旨を中国側につたえるよう、指示した。

同時に、次官マケンゼンは、駐日大使ディルクセンにも、

中国の赤化は防共協定にそぐわない、

不満があっても日中関係を正常化して中国の赤化を防止すべきだと

日本政府に勧告せよ、と訓令した。

駐日大使ディルクセンは、その程度の勧告で日本側の考え方を変えられるものでもない、

と思ったので、とっさには行動しなかった。》



*   蒋介石は

   「いまや降伏以外には和平はなく、抗戦以外に生存の道はない。」   と言った。

   何を妄想しているのか?   日本は、そんな要求をしていないではないか。

   彼らが、勝手に妄想を抱いて、解決を不可能にしているだけ。

   もともと、戦争を仕掛けたのは中国。

   日本は大幅に譲歩した和平案を出していた。

   それを蒋介石が蹴って戦争を続けたから、こうなったのだ。

   なぜ、自分たちの非を悟らないのか。

1939年7月24日 日英会談で援蒋根絶を確認

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/18 18:56 投稿番号: [2124 / 2250]
〔昭和14年7月25日   東京日日〕


天津事件の背景をなす一般問題に関する有田・クレーギー会談は、

去る十五日以来回を重ねること四回、

余人を交えぬ両氏だけの折衝を行うことまさに十時間半、

ついに二十二日深更、原則的諒解の成立を見るに至り、

東京においては二十四日午後十時、外務省より

右に関する帝国政府声明(外務省発表)を左のごとく公表した。



一方ロンドンにおいてはチェンバレン首相が同日午後三時   (日本時間午後十一時)、

英国議会下院で同趣旨の声明を正式発表したが、

その内容は事変以来英国がわが国力を見縊   (みくび) り

蒋政権の抗戦力を過信した結果、執拗な反日援蒋政策を続けていた認識不足を是正し、



現在支那において日本が一大聖戦に従事しつつある事態を認識し、

この事態において皇軍はその生存上並びに治安維持上当然の要求を有することを

自発的に認め、これと協力を誓ったもので、

大英帝国がその老檜なる極東政策の画期的転換のやむなきに至ったことを告白した、

事実上の対日詫び証文ともいうべきものである。



この帝国道義外交の成功はわが官民が挙国一致、

霞ヶ関に全幅の支持を捧げてかち得たもので、

ここに事変下における政治日本の力量を顕現したものとして特筆すべきであろう。



帝国政府声明   (外務省発表二十四日午後十時)

帝国外務大臣と在京英国大使との間に七月十五日以来

行われ来たりたる会談の結果として、左の声明発せらる。



英国政府は大規模の戦闘行為進行中なる支那における現実の事態を完全に承認し、

またかかる状態が存続する限り支那における日本軍が自己の安全を確保し、

かつその勢力下にある地域における治安を維持するため特殊の要求を有すること、

並びに日本軍を害し、またはその敵を利するがごときいっさいの行為

及び原因を排除するの要あることを認識す。



英国政府は日本軍において前記目的を達成するに当り、

これが妨碍   (ぼうがい)   となるべきなんらの行為または措置を是認するの意思を有せず。

この機会においてかかる行為及び措置を控制すべき旨、

在支英国官憲及び英国国民に明示し、以って右政策を確認すべし。



〝誤解一掃同意〟、英首相声明〔ロンドン本社特電二十四日発〕

チェンバレン英首相は二十四日の下院において日英東京協定に関し、

左のごとく述べた。



日本政府は日英間の誤解が解かれるためには、まず天津問題の根底をなすべき背景を

英国が承認することが必要であるとの見解を述べたが、

これは英国の対支政策になんら関係を有するものにあらず、

ただ事実に対する問題であった。

戦闘行為は現に支那において大規模に進行中で、

日本軍は占領地域の秩序を維持するため自身の治安措置をとった。

それ故、これらの事柄に僻見を抱かれないよう措置を講ずることを必要とした。

英国はこの定則に対し討議の明朗な方法として同意した。(後略)

1937年12月26日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/18 18:44 投稿番号: [2123 / 2250]
《・・・・

安全区の二十万もの人々の食糧事情はだんだん厳しくなってきた。

米はあと一週間しかもたないだろうとスマイスはいっているが、

私はそれほど悲観的には見ていない。

米を探して安全区にまわしてくれるよう、何度も軍当局に申請しているのだが、

なしのつぶてだ。



日本軍は、中国人を安全区から出して、家に帰らせようとしている。

そのくせいつ汽車や船で上海にいけるようになるのかと聞いても、

肩をすくめるだけだ。

「それは当方にもわかりません。川には水雷がばらまかれているので、

定期的に船を出すのはとうてい無理でしょうな」


・・・・・


ミス・ミニ・ヴォートリン。

実はこの人について個人的にはあまりよく知らないのだが、

アメリカ人で、金陵女子文理学院の教授らしい。

大変きまじめな女性で、自分の大学に男性の難民を収容するときいて、

びっくり仰天して反対したそうだ。

最終的には、男女別々のフロアにするからという条件で承諾した。



ところで、この人に恐ろしい事件が起こった!

彼女は自分が庇護する娘たちを信じて、

めんどりがひなを抱くようにして大切に守っていた。

日本兵の横暴がとくにひどかったころ、私はミニをじかに見たことがある。

四百人近くの女性難民の先頭に立って収容所になっている大学につれていくところだった。



さて、日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうというとんでもないことを思いついた。

何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、

ミニは両手を組み合わせて見ていた。一人だって引き渡すもんですか。

それくらいならこの場で死んだほうがましだわ。



ところが、そこへ唖然とするようなことが起きた。

我々がよく知っている、上品な紅卍字会のメンバーが

(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いも寄らなかったが)、

なみいる娘たちに二言三言やさしく話しかけた。

すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。

売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのを

ちっとも苦にしていないようだった。ミニは言葉を失った。》



*   「川には水雷がばらまかれているので、・・・」   これは事実。

   海軍による揚子江掃海・障害物除去作業は昭和十三年四月まで続いている。


*   「日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうという」

   いわゆる、 「戦時慰安婦」   はこの時始まったようだ。

   ここで明らかなように、これは強制でも連行でもない、

   売春婦を雇って働かせるシステムだった。


   これを悪と言う者は、ソ連や米軍のように強姦しまくりが良いと言うのだろうか。

   人間は、性欲を持った動物。

   性欲を持たない機械ならいざ知らず、性欲で充満している人間に、

   慰安所計画を非難する資格はない。

1939年7月23日 日英代表、原則諒解で署名

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/17 18:52 投稿番号: [2122 / 2250]
この日   天津租界封鎖問題について、日英会談で原則的に話がつきました。


〔昭和14年7月23日   東京朝日〕


世界環視の   裡(うら)   に一時は難航を伝えられたさしもの有田・クレーギー会談も、

二十一日の第三次会談に到って形勢一変、

ついに英国側の譲歩によって日英両国代表間に

今次天津問題の背景をなす一般問題に関し原則的諒解が成立し、

二十二日   続開された第四次会談においては国内手続きを終了して、

両国政府の形式的確認を持ち寄るのみとなった。



よって帝国政府は二十二日午前九時五分より臨時閣議を開いて、

二十一日の第三次会談において有田外相とクレーギー大使の間に成立した諒解事項を討議、

これを正式決定し、平沼首相より上奏御裁可を仰ぎ、我が方の国内手続きは全く完了した。



一方クレーギー大使は第三次会談が終了するや、

直ちに本国政府に対し最終的訓令を仰ぎ、ひたすら回訓の到着を待っていたが、

二十二日午後九時に到って待望の訓令が英国大使館に到着、

十時半、その翻訳を終えたので、日英間に第四次会談の開始時間を打ち合わせ、

午後十一時五分より外相官邸に有田・クレーギー第四次会談を開始、



天津問題の背景をなす一般諸問題に関し

日英両国に円満成立した諒解事項の正式の覚書を交換し、右諒解事項の確認をなした上、

有田外相並びにクレーギー大使は覚書に署名をなして、

ここに内外の視聴を集めた有田・クレーギー会談は円満妥結を見、

同十一時五十分終了した。



しかして日英両国政府が確認した諒解事項の内容に関しては、

日英両国代表の協議によって発表形式を帝国政府声明並びに英国政府声明と決定、

東京並びにロンドンに於いて二十四日午後十時   (ロンドンは同日午後三時)、

同時声明の形式を以って発表することとなった。



  覚書全文   二十二日午後十二時、

外相官邸において有田外相・クレーギー駐日英大使間で署名を了した覚書全文、左のごとし。


  英国政府は大規模なる戦闘行為の行われている支那における現実の事態を確認し、

  かつ右事態が存続する限り支那における日本軍がその安全を確保し、

  かつ治安を維持するため特殊の要求を有することを認め、また日本軍を害し、

  または支那側を利するがごとき行為を排除するの要あることを認識す。

  英国政府は日本軍が如上の目的を達成するに当り、

  これが妨害となるべきいっさいの行為及び措置を排除し、

  かつ在支英国官憲及び英国国民にこれを明示し、右政策を確認せしむべし。


(以下略)

1937年12月26日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/17 18:44 投稿番号: [2121 / 2250]
十二月二十六日   十七時


《 素晴らしいクリスマスプレゼントをもらったぞ。夢のようだ!

なんたって六百人をこす人々の命なのだから。

新しくできた日本軍の委員会がやってきて、登録のために難民を調べ始めた。

男は一人一人呼び出された。全員がきちんと整列しなければならない。

女と子どもは左、男は右。ものすごい数の人だった。

しかし、すべてうまくいった。だれひとり連れていかれずにすんだ。



隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかったというのに。

元中国兵という疑いで処刑されるのだという。

わが家の難民はだれもがほっとした。私は心から神に感謝した。

いま、日本兵が四人、庭で良民証を作っている。

今日中には終わらないだろうが、そんなことはどうでもいい。

将校が決定した以上、もうひっぱられる心配はないのだから。



葉巻とジーメンスのカレンダーを担当の将校に渡したとき、

百子亭にある家からもうもうと煙が上がってきた。

庭は灰の雨だ。藁小屋は大丈夫だろうか。

いくぶん考え深げにその様子を眺めながら、その将校はフランス語であっけらかんと言った。

「わが軍にも、なかには粗暴なやつがいましてね」



そう、なかには、ね。

昨日は日本兵が押し入ってこなかった。この二週間ではじめてのことだ。

やっといくらか落ちついてきたのではないだろうか。ここの登録は昼に終わった。

しかも後からこっそりもぐりこませた二十人の新入りにも気前よく良民証が与えられた。



使用人の劉と劉の子どもが、病気になったので、

鼓楼病院のウィルソン先生のところに連れていった。

トリマー先生が病気で、いまはこのウィルソン先生一人で病院を切り盛りしている。

先生から、新しい患者を見せられた。

若い娘を世話できなかったという理由で撃たれた中年婦人だ。

下腹部を銃弾がかすめており、手のひら三つぶんくらいの肉がもぎとられている。

助かるかどうかわからないという話だ。



安全区本部でも登録が行われた。担当は菊池氏だ。

この人は寛容なので我々一同とても好意を持っている。

安全区の他の区域から、何百人かずつ、追いたてられるようにして登録所へ連れてこられた。



今までにすでに二万人が連行されたという。

一部は強制労働にまわされたが、残りは処刑されるという。

なんというむごいことを……。我々はただ黙って肩をすくめるしかない。

くやしいが、しょせん無力なのだ。》



*   「隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかった…。

   元中国兵という疑いで処刑されるのだ。」   とあるが、

   1月4日の   『ニューヨーク・タイムズ』   には

  「元支那軍将校が避難民のなかに   大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」

   という記事があり、記事では   「恐らく処刑されるであろう。」   と書かれていた。

   その将校らの潜伏先は、金陵女子大学だった。

   中学と女子大では違うだろうが、この処刑は関連ないのか?

東トルキスタンからの手紙4

投稿者: ornithologist99 投稿日時: 2012/12/16 23:46 投稿番号: [2120 / 2250]
このような報道は、日本のマスコミは一言もいいませんし、新聞、雑誌に載ることもめったにないと思います。一人でも多くの方に、この真実を知らせていただければ、この国の運命も、日本の運命も変わるかもしれません。あなたのその一言が世界の未来を変えていくことになるかもしれません。私たちに出来ることは、もうそんなに残されていませんが、出来る限りの努力はしたいと思っているのです。どうかこの話を、日本の皆さんに知っていただきたいと、心より願っています。そして、アジアの平和と世界の平和を心より願いたいと思います。>東トルキスタンを愛する女性より
ほぼ、原文のまま引用

東トルキスタンからの手紙3

投稿者: ornithologist99 投稿日時: 2012/12/16 23:45 投稿番号: [2119 / 2250]
今、ウイグル人の男性の就職率は5パーセントです。ウイグルには仕事がありません。いえ、ウイグル人が仕事をできないようにされているのです。もちろん、お嫁さんをもらう事も、家庭を持つことも子供を育むこともできません。せっかく出来た子供の多くも、強制的に中絶させられます。若い女性は、強制的に連れ去られ、農作業や単純な仕事をさせられています。そして、年に一度だけ薄い給料袋が渡されます。ウイグルの女性は、中国人と結婚させられ中国人となるのです。ウイグルの血は根絶やしにさせられています。学校でもウイグル語を使うことは許されません。教えた先生は連れ去られたまま、戻ってきません。母国語を失い、中国語しか学べないのです。言葉も奪われました。このような弾圧を少しでも何とかしようと若者が集まっただけで、軍が出てきて、一万人の若者が一夜にしてなくなってしまいました。

東トルキスタンからの手紙2

投稿者: ornithologist99 投稿日時: 2012/12/16 23:42 投稿番号: [2118 / 2250]
それから60年たちました。中国の人たちがたくさん押し寄せ、私たちは少数民族になってしまいました。東トルキスタンという国は、新疆(しんきょう)ウイグルと名をつけられました。最近では、新疆地区というようになり、国の名前も消えてなくなっているかも知れません。
原爆の実験をこの国で46回行われ、120万人以上が亡くなりました。それは、つい最近まで続いていました。その場所は日本ではシルクロードと呼ばれているところです。美しい歴史を思い浮かべる方も多いと思いますが、この核の威力は広島型の数百倍と言われている水爆実験だったのです。日本のみなさんは、日本だけが核の犠牲となったと思っているかもしれませんが、ウイグルでは今でもその後遺症でたくさんの、たくさんの方が苦しんでいます。今でも、何の治療もないままです。

「東トルキスタンからの手紙」1

投稿者: ornithologist99 投稿日時: 2012/12/16 23:40 投稿番号: [2117 / 2250]
「東トルキスタンからの手紙」これから記す内容は実際のもので、ある女性からのお手紙です。希望を失い暗闇の中でうなだれ、涙色に染まった人たちを一人でも助けることができるかもしれないという望みを持って「日本のみなさまに知らせて欲しい」というメッセージが添えられておりました。昔、東トルキスタンの人々は自由な暮らしを営んでいました。人々は、歌を愛し、踊りを愛し、明るく開放的で、人々が愛し合う事を祈り、喜ぶ、そして平和を慈しむ民族でした。国土は豊かで、水や緑にも恵まれて、山からは貴重な金属が取れ、とても恵まれた土地で豊かに幸せに暮らしていました。ある日、突然、軍隊が入ってきました。たくさんの兵士が街中に溢れ、私たちは逃げまといました。それを許さないと抵抗するものは簡単に殺されてしまいました。この軍隊は、この国の一切の自由を奪ってしまったのです。

抗議チベット人が焼身自殺を図る

投稿者: ornithologist99 投稿日時: 2012/12/16 16:21 投稿番号: [2116 / 2250]
またもや中国による弾圧的統治に抗議した、チベット人1人が焼身自殺を図る 2012年10月22日
ダラムサラ:チベット東北地方にある甘粛省甘南チベット族自治州ラプランで焼身自殺を図ったラモ・キャプ氏に続き、その2日後に、ラプラン僧院付近で10月22日の朝、チベット人男性ドンドップ氏が焼身自殺を図った。ドンドップ氏は50代男性で、自身に火をつけた直後その場で死亡した。
この事件の写真からは彼が激しい炎に包まれ、体が完全に焼け焦げた状態が見て取れる。事件の目撃者によれば、中国警察部隊がドンドップ氏の遺体を運ぼうとした為、現地チベット人が阻止したとのこと。現在チベットではダライ・ラマ法王のチベット帰還と、チベット人への自由の権利を求め、2009年からすでに57人もの焼身自殺が起きている。

1939年7月22日 汪兆銘の反共論文

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/16 15:53 投稿番号: [2115 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
124〜125p


《 汪兆銘が新中央政府の樹立について日本の要路と協議している間、

丁黙邨たちは重慶テロの一掃に必死の活動をつづけていた。

その結果六月の末になると、市党部の大部は正式に汪派に帰順し、

上海の藍衣社組織は壊滅同然となり、そのほとんどの幹部は捕えられてしまった。



また、租界の反日、反汪新聞はことごとく逼塞   (ひっそく)   し、

これに代わって   『七十六号』   の機関紙、中華日報が七月十日に創刊されるなど、

上海は名実ともに汪派の手中に帰した。


ことに七月二十二日、中華日報に発表された汪兆銘の反共論文は、

上海で活動をはじめかけていた中国共産党に大きな打撃を与え、

多くの有能な青年、学生が汪陣営に吸収された。

その論文の内容は次の通りであった。



「日華開戦当時、軍事当局は三カ月以内にソ連は参戦するだろうと力説し、

共産党は虎の威をかりて開戦反対論者に圧迫を加えた。

上海、南京が陥落すると、共産党はたちまち説を変えて、

ソ連の参戦を主張するものを漢奸と呼んで弾圧した。

それからの共産党の最大の任務は、中国に戦争をいつまでもつづけさせることであった。



戦争を中途でやめることに彼らが反対するのは当然だが、

共産党は蒋介石の錯誤を利用している。

これ以上戦争をつづけていたら、勝っても負けても中国は共産党に奪われるだろう。

国家と党を救うためには、共産党とのつながりを断って、

戦争をすぐやめるほかはない。

日本は近衛声明を実行すると誓っている。

日本と妥協することはもはや国を滅すものでなく、国を救う道である」》


つづく

1937年12月26日 和平条件中国に伝わる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/16 15:45 投稿番号: [2114 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 466p


《 駐日大使から報告を受けたドイツ外務省は、

二十三日これを漢口のトラウトマン大使に伝達し、

同大使は、二十六日孔祥煕と宋美齢に伝えた。

(蒋介石は病臥) 中国側はその内容に極めて強い驚きを示した。》




児島襄著 『日中戦争4』 258〜259p


《 駐支大使トラウトマンは、二十六日、

行政院副院長孔祥煕と蒋介石夫人宋実齢に会い、日本側覚書を手交した。

大使は蒋介石との会見を申しいれたが、病気だとのことであった。

二人は、覚書内容の日本側条件が過酷なものに一変しているのにおどろき、

夫人宋美齢は、大使に言った。


「まさか、ドイツ政府はこのような要求に味方されるはずはないでしょうね」

副院長孔祥煕も、大きく吐息して、大使に告げた。

「日本はきっと、十の自治政府、十の非武装地帯を要求するにちがいない。

とても受けいれられない。日本は将来を考えるべきです。

必ず自滅する将来を、です」》



*   変化したと言っても、白崇禧将軍が

   「たったこれだけの条件なら、何のために戦争しているのか」

   といった条件と大して変わってない。

   ただ、賠償金が追加されただけ。


*   なお、この日、第7連隊が去ったので、南京には、第16師団しかいなくなった。

1939年 ノモンハン36 磯谷参謀長のねばり

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/15 14:29 投稿番号: [2113 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
202〜204p


《 「中央が飽くまで撤退せよと言われるならば、

国境はハルハ河の線であるとの

中央部従来の主張を変更せられる所存であるか」

これに対し、橋本第一部長は、

「変更してもよい」



磯谷参謀長は色をなして、

「この変更は重大な事項である。

一部長の意見ですぐに軍がこれに基づき行動することはできない」



次いで中島次長は、

「国境変更はこの席上すぐに決定し得ない」

と釈明して、第一部長の発言を抑え、陸軍次官もまた、

「国境の如何は政策に関する事項であるから参謀本部の一存では決定し得ない」

と述べて意見を保留した。



次いで第二課長稲田大佐が立った。

「張鼓峰事件は中央部の希望通りになったもので、誠に理想的解決と考えているが、

今度の事件は関東軍が中央の意志に反してやるので困っている」


磯谷参謀長曰く、

「張鼓峰事件の解決が理想的だとは何事か。

ソ連は事件当時よりさらに越境しているではないか。

関東軍はこの事件の終局を以て最も屈辱的解決であると考えている」

大本営を相手に、一歩も正論をまげず、堂々軍の所信を開陳して譲らない。



参謀次長は何とかして前記の処置要綱を押しつけようとしたが、

磯谷参謀長は軽く受け流し、「案」   としてならば参考のために持ち帰ろう

と言って、鉛筆で、表紙の上に   「案」   の字を太く書き込んだ。

「『案』   では困る。総長殿下の決裁を受けたものである」

と押し問答となり、結局、

「研究しましょう」

と述べて軍に持ち帰った……。



軍司令部では、参謀長の報告に基づいて、軍の採るべき態度について研究し、

「このようなものは参考資料にもならぬ」

「軍を拘束しようとするならば、堂々大命か正式の指示でやるべきである」   と、

少壮幕僚の憤慨もあったが、いまさら喧嘩を蒸し返しても大人気ないとのことで、

この上電報または書類で意見を述べることをやめ、黙殺の態度を採った。



磯谷参謀長は硬骨、気節を以て、進退を律する武将であった。

堂々所信を述べて、一歩も譲らず、

「消極退嬰はかえって事件を拡大するものである」

との見解を一歩もまげなかった。

その態度は、関東軍全部の態度であった。



*   この中央参謀本部の態度を見ていて、何か気づきませんか?

   今の政府や反日マスコミ、評論家と態度が殆ど変らないでしょう。

   ソ連に攻撃されているのに、「我慢して手を出すな」。

   中国に尖閣領域を侵犯されているのに、「中国を刺激するな」。

   「国境線を下げてもよい」   →   「尖閣なんか中国にやったら」

   当時の日本の軍部も、今の政府や反日マスコミ、反日評論家と殆ど同じ感覚なのです。

1937年12月25日 石川達三南京へ向け出発

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/15 14:14 投稿番号: [2112 / 2250]
12月25日   石川達三は南京取材のため、東京を発ちました。



『生きている兵隊』 中公文庫の後ろの方の   “「解説」   半藤一利”   204p   より引用


《 各雑誌は作家の現地特派という企画で競い合うことになる。

『中央公論』   は七月にもう尾崎士郎、林房雄を中国に派遣している。

同じく   『主婦の友』   は吉尾信子を送った。

九月には   『日本評論』   から榊山潤がでかけ、その報告がそれぞれの誌面を派手に飾った。

負けてはならじと   『文藝春秋』『改造』   などの各誌がそれにつづいた。

厳しい検閲のもとに、がぜん戦意を高める現地報告、従軍記、

ルポルタージュが、主流という情勢になっていく。



このとき、その二年前に第一回芥川賞を受けた気鋭の作家石川達三が

「俺が全然こんなのとは違った従軍記を書いてみせる」   と、

ひそかな野望を抱いたとしても、なんら奇怪   (おか)   しいことではない。


「毎日読む記事が画一的なんで腹が立ちました。

戦争というものは、こんなものではない。

自分の目で確かめたいと思っているところへ、中央公論特派員の話があったのです」


と、石川は語っているが、とにかく、こうしてかれは中国戦線へ従軍することになる。

十二年十二月二十五日に東京を発ち、神戸から軍用貨物船で出港、・・・》



*   石川達三は、どうも、他の人達の穏和な記事が気に食わず、

   残虐な光景を書きたかったようですね。

   彼の小説は、最初から、そういう意図で取材され、まとめられていたのなら、

   上海・南京戦の実態を表わしている物とは言えなくなります。



*   半藤氏は、石川達三の南京行きを   「従軍」   と書いていますが、

   これは、おかしいでしょう。

   別に、軍にくっついて行ったわけではないし、

   彼が、行った時には、上海戦も南京戦も終わっていました。

   彼は、適当に、現地で話しを聞き、破壊の後を見、死体を見ただけです。

   あとは、最初の想いのままに残虐話を作り上げただけです。

1939年7月 ノモンハン事件35 処理要綱

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/14 18:59 投稿番号: [2111 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
201〜202p


《 大陸命第三二〇号及大陸指第四九一条に基づき本要綱によりノモンハン事件を収拾す。

  本要綱に拠り難き情況発生せる場合の対策は臨時之を定む。


    方針

  事件を局地に限定する方針の下に、遅くも本冬までに事件を終結するに勉む。


    指導要領

一、地上作戦に於てはハルハ河右岸地区の敵を掃蕩するに勉む。

   この間所望の戦果を得るか、外交商議成立するか、

   然らざるも冬季に人らば機を見て兵力を事件地より撤去するに勉む。

   爾後ソ軍が係争地区に侵入する場合に於ても、

   情勢之を許すに至るまでは再び地上膺懲の作戦を行わず。



二、航空作戦に於ては越境機の撃墜を方針とし、且   (かつ)   戦力の保持に勉む。

   敵機の満領爆撃を行う場合に於ても、その根拠地に対する進攻作戦は行わず。


三、作戦の推移に応じ好機を捉え、速に外交交渉の端緒を把握し、

   国境劃定   (かくてい)   又は非武装地域設定等の商議に導入するに勉む。

   国交断絶を賭する外交交渉は行わず。

四、対英及三国協定問題を速に解決するに勉む。

五、本事件処理の間、厳に爾他の国境に於ける紛争の発生を避く。



  これに対し磯谷参謀長は、

「要綱の方針については大体異存はないが、その他については

軍として同意できない点が多く、

とくに要綱一の第二、第三の如きは適当でない。

軍は飽くまでハルハ河右岸地区を確保することが肝要と思う。

またこの航空作戦の項は適当ではない。



参謀本部側は、ソ連側の主張する国境線外に撤退せよと述べられるが、

軍としては紛争未発の地ならばいざ知らず、

すでに数千の英霊を犠牲にした現在、ハルハ河右岸地区を放棄することはできない。

中央が飽くまで撤退せよと言われるならば、国境はハルハ河の線であるとの

中央部従来の主張を変更せられる所存であるか」》


注   :   劃定は画定の旧字体


つづく

1937年12月24日 兵民分離の住民登録

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/14 18:52 投稿番号: [2110 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   233〜235p


〈 南京陥落から二週間にして、事態はほとんど沈静化したことになる。

では、何が、事態の沈静化をもたらしたのか。

その一つの要因として、国際委員会の日本軍批判が挙げられよう。

それに対する日本側の   「厳重」   すぎる処罰も、その一つの要因であったであろう。

しかし、それ以上に、決定的な要因が二つ考えられるのである。



一つは、十二月二十二日に布告され、二十四日から一斉に開始された住民登録である。

これにより市民は、日本軍の指定する登記所に   「各自」   出頭を要請された。

代理申請は不可能であった。 「良民票」   交付と言われるこの住民登録により、

日本軍は兵士と市民の分離を図ったのである。



もう一つが、住民登録と同時に始まった査問工作であった。

「兵士と、市民とを、分離しつづけることができなかった」(二号文書)

とは、国際委員会の告白であった。 そのため、安全地帯に潜伏する

敗残兵の摘出作業が、南京住民立ち会いのもとに始まったのである。



この兵民分離の査問工作を担当したのが、 『南京戦史資料集Ⅰ』   の

「佐々木到一少将私記」   にもあるように、歩兵第三十旅団長の佐々木少将であった。

第十六師団司令部の内田義直通訳官は、その査問工作に立ち会った感想を、

次のように回想する。以下は   『南京戦史』   からの引用である。



《 中国人の言葉には地方訛りがある。

南京を守備した中国軍は、広東、広西、湖南の兵隊で南方訛りであって、

言葉で兵隊と市民の区別は難しかった。

しかし身体つきを見れば兵隊と一般市民とは、直ぐ区別がつく。

自治委員会の中国人と一緒に相談しながら分離作業をやったので、

一般市民を狩り立てるようなことはなかった。

上衣だけが民服で、下着が兵隊服のものが多く、すぐ見分けがついた。》



恐らく、内田通訳官の回想に間違いはないであろう。

『南京安全地帯の記録』   には、あること無いことを含めて、

様々な日本軍批判が収録されているが、被害者の実名を挙げて、

兵民分離工作が市民に累を及ぼしたという記録は一つもない。



こうして約二千の敗残兵と武器が摘発されたと   「佐々木到一少将私記」   は記す。

従って、国際委員会十号文書 (十二月十八日付)   が

「武装解除された支那兵集団すら存在しない」   と主張したのは、誤りであった。



昭和十三年一月十日付の   『読売新聞』   は、

「難民調査は暮から始められて、七日漸く一段落を告げて、

敗残兵一千六百名とその他のものは安民居住の所を与へられ、

今では大手を振って城内を歩けるやうになった」   と記す。



潜伏に困難を来し、自ら出頭して市民登録を許可された支那兵もいたのである。

このため、潜伏兵が急減し、あわせて撹乱工作も減少した。

そしてまた、潜伏兵の出頭により、人口数が増加した。〉

1939年7月 ノモンハン34 磯谷参謀長の説明

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/13 18:51 投稿番号: [2109 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
199〜201p


《 七月十九日着京した参謀長は、

「明二十日関東軍の実情を聞きたい」   との連絡に対し、

「今度の上京は大臣、次長   (総長は開院宮)   と意見を交換するために来たから、

他の部長以下とは会談したくない」   と希望を述べられた。



翌朝、参謀本部に出頭すると、

次長、次官、第一、第二部長、第二、第六課長らが一室に参集している。

奇異の感に打たれながら会議室に入ると、

あたかも被告を取り調べるような空気であった。

その席上で参謀長は、



一、国軍としてはシナ事変の解決を以て第一義とすべく、

   この間対ソ戦争を誘発しないように努める気持ちは関東軍の終始変わらない意見で、

   この点は完全に中央部の考えと一致している。

二、全般的意見はその通りであるが、ノモンハン事件の処理に当たっては

   越境したソ連軍に徹底的打撃を与えることが肝要で、

   これによって初めて対ソ紛争不拡大を期し得るものである。

   もしこの事件で軟弱な態度を示したならば戦面は拡大するであろう。



三、その意味において、ハルハ河右岸を確保することは絶対必要である。

四、ソ連は全面戦争を企図しないものと判断する。

   故にこの際日本が断乎たる決意を示すと同時に、

   ノモンハン方面において徹底的打撃を与えたならばソ連を屈服させ、

   将来再び国境紛争を惹き起こさないであろう。



五、ノモンハンの終局をして張鼓峰事件の轍を踏ましてはならぬ。

六、タムスクに対する爆撃は、ソ連が先にカンヂュル廟、アルシャンなどを

   爆撃したことに対する当然の報復である。

   我が航空部隊の現状に鑑み速やかにこれに対する認可を与えられたい。



と、堂々軍の所信を披歴   (ひれき)   した。

説明が終わると、参謀次長は立って、

次のようなノモンハン事件処理要綱を磯谷参謀長に手渡し、

「これは省、部一致の意見で、参謀総長の決裁を受けたものである」

と説明した。》


つづく

1937年12月 第7連隊安全区掃蕩での鹵獲品

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/13 18:43 投稿番号: [2108 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   184〜186p


《 第七連隊の   「南京城内掃蕩成果表」 (十二月十三日より十二月二十四日まで)   は、

軍規があるとはとても思えない支那軍の実態を示している。

それは次のように記録していた。

一、消耗弾   小銃      五、〇〇〇発

         重機関銃    二、〇〇〇発

二、刺射殺数 (敗残兵)    六、六七〇



三、鹵獲 (ろかく) 品

     十五糎(センチ) 砲   二門     同弾薬      約六〇〇発

     二十糎級砲       八門     同弾薬    約一、〇〇〇発

     小銃      九六〇挺     同実包       三九万発

     水冷式重機関銃   一二挺     軽機関銃       三三挺

     拳銃        一〇三挺     同弾薬   二六一、三五〇発



     高射砲         一門     高射機関銃       一挺

     山砲          六門     同弾薬        八二発

     迫撃砲        一〇門     同弾薬    五七、二一八発

     戦車砲弾   三九、〇〇〇発     銃剣        三二〇挺

     手榴弾    五五、一二二発     青竜刀     二、〇二〇振



     対戦車砲        二門     戦車          四台

     機関砲         一門     自動貨車       一六台

     便衣服     二、三〇〇着     夏衣袴    二五、三〇〇着



これは第七連隊だけの   「成果」   である。

しかも押収品は、全ての項目を羅列すると、右の三倍近くになる。

あまりに多いので他は省略したが、それでも戦車四台と戦車砲弾三万九〇〇〇発が鹵獲された。

同じく、手榴弾五万五一二二発や、小銃九六〇挺に同実包三九万発、

迫撃砲一〇門と同弾薬五万七二一八発などが鹵獲された。



降伏の意思表示なく兵士が軍服を脱ぐこと自体、明らかな戦時国際法違反であった。

その上、あろうことか、安全地帯の将兵は大量の武器まで隠匿   (いんとく)   していた。

これも明らかな戦時国際法違反であった。》



*   ラーベ達は、路上で武器を捨てた中国兵を市民と見なしていたが、

   とんでもない事だった。

   もともと、中国軍は安全区の中に軍事施設を作っていて、

   日本軍突入前に撤去をしていないのだから、有って当り前。

   彼らは、いつでも、安全区から武器を取り出せたのだ。

1939年7月 ノモンハン33 軍参謀長の上京

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/12 18:51 投稿番号: [2107 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
198〜197p


《 七月十八日、参謀総長から軍司令官に対し、軍参謀長を上京させよとの電報を受け取った。

戦況がどう変わるかわからない重要時機に、参謀長が数日不在になることは適当ではない。

シナ方面の作戦においてさえ、参謀長を上京させるようなことは一度もなかった。

「必要とあらば、参謀次長が現地に来るべきものである」   とて

全幕僚は反対の意見であったが、磯谷参謀長は、



「むしろこの機会に上京して、大臣、次長と十分意見を交換すべきだ」

との意見であり、軍司令官もまたこれに同意された。

随行幕僚を誰にしようかとの問題が起こったが、

従来中央部では、



「関東軍の行動は一部の下級幕僚が下剋上で、上級者を引きずっているとの印象がある」

と噂されており、この際はむしろ参謀を帯同せず、副官だけにして

軍参謀長自ら所信を堂々開陳し、

関東軍が上下一体である事実を認識させようと決定された。》

1937年12月24日 第7連隊掃蕩任務を解除

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/12 18:45 投稿番号: [2106 / 2250]
午後六時、第七連隊は安全区の掃蕩の任務を解除される。



東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   187〜188p


《「爾今   (じこん)   掃蕩ノ任務ヲ解除ス」 (歩七作命甲第一一七号)   と命じられる。

十二月二十四日午後六時まで、安全地帯の掃蕩を任務としていた。

しかし、実際には十二月十四日、十五日、十六日の三日間で

ほとんど掃蕩を完了していた。》



*   ここに於いて、彼らも移動の準備を開始する。

1939年 ノモンハン32 中央部の冷やかな回答

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/11 18:54 投稿番号: [2105 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
196〜198p


《 この電報に対する中央部の回答は、冷やかであった。


  軍参謀長宛               参謀次長

一、満州内に対する敵の爆撃は、大陸指第四九二号の発令に方り考慮したる状況にして、

  本事件処理の方針たる局地解決の主義に照し、隠忍すべく、且隠忍し得るものと考えあり。



  即ち敵の奥地攻撃の企図は、傍受電により薄々察知せられたる所にして、

  空軍敗戦に伴う窮余の策とも判断せらるる節あり。

  今や地上作戦に於ても、制空権の常時絶対保持を必要とせざる状況となり、

  最早如何にして事件の自主的打切りを策すべきやを考慮すべき秋   (とき)   となれり。



  この際、外蒙、ザバイカル一体たるソ連軍に対し、タムスク等の攻撃を行うも、

  必ずしも貴軍の企図せらるる如き、膺懲成果を得るの見込絶対にありと称し難く、

  敵の取り得る対抗策に鑑み、寧ろ事件の拡大する虞   (おそ)   れも少からずと

  判断せらるるを以て全般の情勢上、此種対策は不適当にして、

  寧ろ満州内の防衛力強化に努力するを可とする意見なり。



二、大陸指の発令に当りてもタムスク攻撃の報復として、

  かかる情況の発生は予期の上、

  敵根拠地に対する我が空中攻撃を行わざる事に定められたり。



  申す迄もなく情況此の如くにして進展せる場合、

  ソ軍が開戦の決意なき場合に於ても、満州国の体面上忍び難き範囲迄、

  その爆撃範囲を拡大すること絶無ならず。

  此の如き場合、国境紛争に引曳られて、

  帝国が対ソ開戦の決意は為し得ざることを篤   (とく)   と御考慮になり、

  彼が紛争の範囲を拡大せば、我も又報復的に之に応ずるの観念の是正を

  三省せられ、事件の収拾に努力を加えられん事を切望してやまざるなり。



  この電報で、関東軍は激怒した。スターリンはさぞかし狂喜することであろう。

「『隠忍すべく、且隠忍し得るものなり』   とは何事か」

「『隠忍すべく』   とは誰が隠忍するのか」

「新京までも攻撃されて隠忍するとき、満州国はどうなるのか」

「これが大本営の打つ電報か」


等々、作戦参謀の憤慨は極度に達した。

かくて中央部と出先、東京と新京とは、到底融和一致して事件を処理する

曙光   (しょこう) さえ見出し得なくなった。》

1937年12月 中国が和平拒否の場合の対案

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/11 18:44 投稿番号: [2104 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   467〜468p


《 参謀本部第二課戦争指導班では、十二月一日、

現国民政府との直接交渉により事変を解決する方策として

「支那事変解決処理方針」   を策定していたが、・・・

中国側が条件を受諾せぬ場合の考案を同時に取り扱う必要に迫られたので、

十二月六日、大臣随員を加え、大本営陸軍部案とするよう

「事変対処要綱」   案を合同起案した。その方針は次のとおりである。



一   対現中央政府解決ノ場合

   (一)   現戦果ヲ   拡張強化シツツ   速ニ   現中央政権ト   日支全般問題ヲ

     一括解決スルコトニ   諸般ノ措置ヲ統合ス

   (二)   此間 爾後   持久戦争ニ移行ノ為ニ   必要ナル考慮ト   準備措置ノ実行トヲ

     併セ行フ   但シ   之カ為   方針第一項ノ   達成ヲ阻害スル   コトナシ



   (三)   持久戦争移行   ノ為ノ決意ノ時機ハ   方針第一項ノ   目的ヲ

     達成スルコト   能ハサル実情ヲ   確認シタルトキ

     又ハ   現中央政権カ   実力上一方地方政権タルニ   至リタル時トシ

     其 (その) 時機ハ   南京攻略前後トス



二   現中央政権否認ノ場合

   (一)   従来ノ支那中央政権ヲ否認シ   北支ニ   親日満防共ノ政権ヲ樹立シ

     之ヲ   更正新支那ノ   中心勢力タラシムル   如ク指導シ之ト連繋シテ

     各方面共親日 (又ハ非抗日)   反共政権ヲ樹立シ   支那全局面ニ於テ

     抗日共産政権ニ対スル   圧縮壊滅ヲ策ス



   (二)   所要地域ニ於テ   我兵力ヲ以テスル   軍事的占拠   其地域内ニ於ケル

     画期的善政指導   及   新樹立政権ノ勢力拡大等ニ依リ

     之ニ伴フ領土喪失感ト   抗日共産領域内住民ノ   困窮トニ依リ

     対抗政権   及   某所属民衆ヲシテ   抗日容共ノ非ヲ   悟ラシメ

     時ト共ニ依日救国ノ大勢ニ   順応スルニ至ラシム



   (三)   成ルヘク速ニ   全支ノ自然的統一状態ヲ誘致シ

     無期分裂抗争ニ   基ク支那ノ赤化   又ハ   欧米勢力侵襲ノ

     罅隙 (カゲキ:すきま)   ナカラシム


   (四)   全期間ヲ通シ   我国防国策ノ主脈ヲ   依然   対蘇反共ニ置キ

     其以外数正面ニ亙ル   戦争準備ノ余儀ナキ情勢ニ   立チ至ラサル如ク

     政戦両略ニ亙リ   運用施策ス


   (五)   我国家総力   就中 (なかんずく)   国防力ノ培養強化

     及   統整ヲ促進スルト共ニ支那ニ対スル我国カノ   消耗ヲ制限シ

     且   対   「ソ」   作戦ノ準備ヲ強化整頓ス 》

1939年7月 ノモンハン31 フラルキ爆撃さる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/10 18:48 投稿番号: [2103 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
194〜196p


《 東部国境方面の監視哨の視た敵情を総合すると、

敵はこの全正面において、陣地に配兵を終わったようである。

モスクワは、ノモンハン事件をきっかけに全満に戦いを挑むのではなかろうか。

七月中旬になると、ソ連極東空軍は動員されたらしい。



事件を局地で解決しようとする考えは、現地、中央の一致した方向ではあるが、

戦争は独り相撲ではない。   降る火の粉は払わねばならぬ。

作戦室はいま、敵にしかけられた場合の関東軍の全般作戦について頭を絞っている。



このような空気の中で、突如として、 「フラルキ鉄道橋爆撃されたり」

との緊急電報を受けたのは、七月十六日午前三時であった。

地獄の釜の蓋も開き、生霊が家に帰るというお盆の日、

この凶報は地獄への導きにも感ぜられた。



フラルキといえばチチハルの西側、嫩江   (どんこう)   に架けられた大鉄橋である。

ハイラル方面への鉄道の最重要点が突如として、敵機に爆撃された。

ホロンバイルの砂漠に起こった戦火が、

大興安嶺を越えて、北満の中心部に拡大されたのである。

これでもなお、東京は関東軍に事件拡大の責任があると非難するのか。

投弾は八発で、被害はたいして大きくはなかったが、

一般に与えた影響は物的損害の比ではなかった。



全面戦争になる可能性がすこぶる強いとの印象を受けた関東軍は、

全満の戦備を強化するため応急派兵と防空下令を実施した。

応急派兵とは、命令を受けてから的六時間以内に全軍が出動準備を終えることであり、

防空下令とは、全満に燈火管制を令し、民間防空と軍防空とを同時に実施することであり、

明らかに戦争状態の宣言である。



ソ連側がすでに積極的に動員し、戦備を全正面に強化している以上、

今後情勢の変化によっては大規模な越境侵犯行為をすることが十分予期される。

万一の場合に不覚を取ってはならぬ。



かつて張鼓峰事件のとき、関東軍が朝鮮軍に策応するため、

応急派兵により国境に兵力を推進したことが、

張鼓峰におけるソ連軍の行動を牽制し得た先例もある。

これ以上、内部に戦火を及ぼすならば、戦争敢えて辞せずとの気構えを現実に示す以外に、

ノモンハン事件を局地で解決する見込みはない。

中央部は、どんなに驚くことだろうと考えられる。直ちに次のような電報が打たれた。



  総長、大臣宛               軍司令官

一、情勢に鑑み軍は満州防衛の完璧を期するため、

   全満に戦時防空を下命し、且隷下全部隊に応急派兵を下命す。

二、敵機の跳梁をこのまま看過するときは更に満州国の中枢部に対し

   爆撃を受くるの虞   (おそ)   れなきに非ず。

   軍が単に越境敵機のみを迎撃する結果、此の如く軽侮せらるるに至れり。

   即時外蒙内部に対する爆撃を許可せられたし。》


注   :   嫩江    普通この字は   「ノンコウ」   と発音されますが、

    辻氏は   「ドンコウ」   とカナを振っていますので、そのまま書いてます。

1937年12月23日 和平条件、中国へ伝達

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/10 18:37 投稿番号: [2102 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   466p


《 駐日大使から報告を受けたドイツ外務省は、

二十三日これを漢口のトラウトマン大使に伝達 》



児島襄著   『日中戦争4』   258p


《 大使ディルクセンはベルリンに日本側条件を急電した。

ドイツ外相 C・ノイラートは、覚書の語調と内容から   「最後通告」   にひとしい

との印象をうけ、とっさに中国側への伝達は和平仲介の趣旨に反する、と考えた。

しかし、駐支大使トラウトマンに転電するとともに、中国大使程天放の来訪をもとめ、

日本側条件をつたえながら、このさいは、隠忍して受諾してはどうかと勧説した。》



*   こんなお人よしの和平案を   「最後通告」   にひとしいとは、

   どういう了見だろうか?

   第一、とっくに戦争しているではないか。

   いまさら   「最後通告」   して、何の意味がある?


   もともと中国が戦争を仕掛けたのだから、中国が譲歩するのが当たり前。

   それを日本が譲歩してやっているのに、過重だとか、 「最後通告」   に等しいとか、

   ふざけるにもほどがあるだろう。


   まー、ドイツ軍将校が中国軍の後ろで指揮しているのだから、当然の反応か。

1939年 ノモンハン事件30 態勢整理

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/09 15:28 投稿番号: [2101 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
189〜191p


《 参謀副長、服部参謀、著者と交替した磯谷参謀長は寺田参謀と共に戦場に進出し、

小松原師団の態勢整理を現地で指導された。



安岡支隊は戦車両連隊の半数を消耗して、

もはや大きな戦闘力を発揮し得ないことがわかり、

また安岡中将を同期の小松原師団長の指揮下に置くことは、

屋上屋   (おくじょうおく)   を架すの不利と認められたので、

その編組を解いて、原駐地に帰還し戦力を再建することに命令された。



この一戦で、一挙に越境外蒙軍を撃滅しようと期待したのに、

実際においては目的を達し得ず、さらに態勢を整理して敵の再犯に備えねば

ならなくなった。その原因は敵情の判断を誤ったことである。

我とほぼ同等と判断した敵の兵力は、我に倍するものであり、

とくに量を誇る戦車と、威力の大きい重砲とは、遺憾ながら意外とするところであった。



傍受電報によると、ソ連軍は損害の甚大なことを中央部に訴えており、

バイカル以東の病院は負傷者の収容に悲鳴を上げている。

我が損害も並々ならぬものではあるが敵はさらに大きな打撃を受けたらしい。

勝ち負けなし、引き分けに終わったこの戦場を確保しながら

攻勢の再興に応ずる方策が樹てられた。



ハルハ河左岸が右岸よりも高いことは、本質的な差として、両軍の上に現われている。

高いところから撃ち下ろす敵砲弾に暴露して、

第二十三師団主力を対峙させることは得策ではない。

再興のためには重砲を急速に戦場に招致しなければならぬ。

野戦重砲兵第三旅団   (第十連隊欠)   と、独立野戦重砲兵第七連隊の

内地動員が令せられ、その戦場到着までは守勢に立って、極力損害の減少に努力した。



砂漠の戦闘で、一番苦しんだものは飲料水である。

幸いに砂地を深く掘り下げると、随所に井戸水が湧いた。

崩れ易い砂を板で囲いながら掘って、冷たい水にありついた将兵がどんなに喜んだことか。

無尽蔵に近い敵の砲弾は、朝となく夕となく、惜しげもなしに

師団の正面に集中せられ、砂の壕はその都度埋められて、

夜間辛うじて補修する作業が、その後約十日間にわたって続けられた。



空中戦は互角の勝負を続けたが、敵は満領内を無制限に爆撃するのに反し、

我はハルハ河を越えて爆撃することは、大命で固く禁ぜられている。

脚を縛って走らされる苦痛に、飛行隊将兵はどんなにくやしかったであろう。

ああ、東京が怨   (うら)   めしい。   足伽手伽   (あしかせてかせ)   を

外してくれたらと、毎日天を仰いで嘆息する日が続いた。》



つづく

1937年12月23日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/09 15:20 投稿番号: [2100 / 2250]
十二月二十三日


《 昨夜、総領事館警察の高玉清親氏来宅。

外国人が受けた物的損害の一覧表を作ってもらいたいとのこと。

なんと今日の昼までに、という。

そんなことがらくにできるのは一国の大使館くらいなものだろう。

我々にはそんな簡単な仕事ではない。だが、やりとげた。



さっそくクレーガー、シュペアリング、ハッツに来てもらい、

地区ごとに分担を決め、時間までにちゃんと仕上げた。

それによると、ドイツ人の家で略奪にあったのは三十八軒。

うち、一軒   (福昌飯店)   は燃やされてしまった。

だがアメリカ人の被害ははるかに甚大だ。全部で百五十八軒にものぼる。



リストの完成を待っていたとき、ボーイの張が息せききってやってきた。

日本兵が押し入り、私の書斎をひっくり返して、

二万三千ドルほど入っている金庫を開けようとしているという。

クレーガーといっしょにかけつけたが、一足違いで逃げられた。

金庫は無事だった。どうしても開けられなかったとみえる。



昼食のとき、兵隊が三人、またぞろ塀をよじ登って入ってきていたので、

どやしつけて追い払った。やつらはもう一度塀をよじ登って退散した。

おまえらに扉なんかあけてやるものか。クレーガーが、午後の留守番をかってでてくれた。

私が本部にもどる直前、またまた日本兵が、塀を乗り越えようとしていた。

今度は六人。今回もやはり塀越しにご退場願った。

思えば、こういう目にあうのもそろそろ二十回ちかくになる。



午後、高玉氏に断固言い渡した。私はこういううじ虫を二度とわが家に踏みこませない。

命がけでドイツの国旗を守ってみせる。それを聞いても高玉は動じるようすもない。

肩をすくめ、それで一件落着だ。

「申し訳ないが、警官の数が足りないので、兵隊の乱暴を抑えることができないんですよ」



六時。家へむかって車を走らせていると、中山路の橋の手前が炎に包まれていた。

ありがたいことに、風向きはわが家と逆方向だった。火の粉が北へ舞っている。

同じころ、上海商業儲蓄銀行の裏からも火の手があがっていた。

これが組織的な放火だということぐらい、とっくにわかっている。

しかも橋の手前にある四軒はすでに安全区のなかにあるのだ。



わが家の難民たちは、雨の中、庭でひしめきあい、

おそろしくも美しく燃えさかる炎を息をのんで見つめていた。

もしここに火の手がまわったら、この人たちはどこにも行き場がないのだ。

かれらにとっての最後の希望、それは私だけなのだ。

(中略)



今日、シンバーグが棲霞山から持ってきてくれた手紙には

(彼は、江南セメント工場〜南京間をふつう一時間半で往復する)、

棲霞山の一万七千人の難民が日本当局にあてた請願書が添えてあった。

あちらでもやはり日本兵が乱暴のかぎりを尽くしているのだ。》



*   南京には、日本兵は殆どいなくなっているのに、

  “日本兵”   の犯行が一向に減らないとは、実に不思議な事だ。

   逆にラーベ宅に出没する   “日本兵”   が増えてないか?

1939年7月15日 日英会談始まる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/08 15:18 投稿番号: [2099 / 2250]
〔昭和14年7月16日   大阪毎日(夕刊)〕


英国の対日敵性放棄か否かを賭ける日英東京会談の鍵を握る有田・クレーギ

第一回正式会談は、十五日午前九時より麹町三年町の外相官邸に開かれた。

定刻よりやや早めに到着したクレーギ大使を迎えた有田外相は、

階下のホールでニュース映画におさまった後、

直ちに二人だけで階上会談室に移り、会談は極めて冷静な雰囲気の裏に開始された。



会談経過   十五日の東京会談はまず儀礼的挨拶の交換があった後、

有田外相より会談の口火を切って議題を提出し、有田外相、


   今回の会談は天津英租界における抗日テロ事件に対する

   租界当局の不当措置より誘発された現在の事態を友誼的に解決すべく、

   英国側の要請を容れて現地交渉を東京に移したものであるが、

   天津の諸問題を討議するに当ってもこれらの諸問題を貫く

   原則が存在することは明らかであるから、この一般的問題から先議した上、

   個別的問題は現地代表間の商議に譲りたい。



と劈頭   (へきとう)   に原則的討議を提議し、



   支那事変に対する英国の態度を見るに、事ごとにわが作戦ならびに軍事行動を阻害し、

   口に中立を唱えながら実際は対立、非協力、蒋政権援助の政策をとり、

   その結果、日英間には幾多の不幸なる事件が頻発した。

   天津における現在の事態はかくのごとき対日敵性の累積の結果である。

   この根本原因を除去することなしに今日の事態を解決することは望まれない。



   わが朝野の対英輿論はすでに貴使の御承知の通りであるが、

   事変以来鬱結せるわが国民感情はいまや沸騰点に達せんとしつつあり、

   この要素を無視してはいかなる解決もあり得ない。・・・・

   わが国の駐兵上ならびに治安維持上の妥当なる措置をとり得ることを認め、

   ならびに敵性ある諸行為を排斥し、これを取り締まるべし。



との原則的要求を突きつけた。これに対しクレーギ大使、



  本使は本会談の基礎条件として、

(一)租界の中立性を尊重すること、

(二)租界内にある英国権益を現状に維持することを提議したい。

また天津の事態に関する一般的討議を行うことは本使の権限外であるから、

本国政府の訓令を仰いだうえ何分の御回答をしたい。



とて対抗的前提条件を提出する一方、請訓を口実として交渉遷延策に出た。


(以下略)

1937年12月22日 独逸大使へ和平案を回答

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/08 14:57 投稿番号: [2098 / 2250]
日本は、独逸大使への回答の和平条件案が、

21日にやっとまとまったので22日独逸大使に回答しました。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   466p


《 二十二日、広田外相は、ディルクセン独大使と会談し、

十二月七日同大使からなされた連絡に対する正式の回答を行った。

大使は   「これらの条件は、十一月二日のものをはるかに越えており、

私は中国政府による受諾は極めて難しいと思う」   と述べた。



外相は   「軍事情勢の変化と世論の圧力により、

これ以外に各方面の意見をまとめることができなかった」   と述べた。

また大使は   「余日の少ない年内に中国側の回答を期待するのは無理だから、

一月五、六日ころまで延期してはどうか」   と申し出たので、外相はこれを承諾した。》



同じ事を児島襄氏の   『日中戦争4』   257〜258p は 23 日の事として書いています。



《 広田外相は、十二月二十三日、駐日ドイツ大使H・ディルクセンをまねき、

前文と四条件を列記した英文覚書をわたした。

「和ヲ乞フノ態度」   なる表現は、さすがに不適当とみなされたものか、

英文では   「インディケイト……ア・デザイア・ツー・メイク・ピース」

(媾和意思の表明) となっていた。



広田外相は、また、四条件の説明の形で細目九項を概括的に読みあげ、

大使ディルクセンに筆記させた。


大使ディルクセンが、条件加重を指摘して、

「中国政府が受諾する可能性は極度に少ないと思う」   旨を述べると、

広田外相は、 「戦況の変化」   と   「世論の圧力」   で

これ以外の条件は認められない、と応えた。

さらに外相は、交渉妥結までは日本側は作戦をつづける、

中国側の回答は年内に期待する、といった。



「それは無理でしょう。本使はベルリンに打電し、

ベルリンが漢口の駐支大使に電報して、また逆の経路をたどるほかに、

中国側の検討の時間も必要です。

まず一月五、六日までは待たねばなりますまい」

「その程度なら……結構です」

広田外相は大使の勧告をうけいれ、

大使ディルクセンはベルリンに日本側条件を急電した。》

1939年7月13日 日英会談の準備

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/07 18:58 投稿番号: [2097 / 2250]
英国は、天津の英国租界を日本軍に封鎖されたことにより、

日本政府に交渉を持ちかけました。

そこで、日英会談が始まります。

次の新聞記事は、その対策の話です。



〔昭和14年7月14日   東京日日(夕刊)〕


《 東京日英会談に対処する帝国政府の最高方針を決定すべき緊急臨時閣議は、

十三日午前九時五分より午後零時十分まで首相官邸に開催され、

平沼首相、近衛無任所相ほか全閣僚出席、慎重討議を重ねた結果、

去る十一日の首、陸、外三相会議で決定せる   「日英交渉要領大綱案」   を承認して

確固不動の対英方針に関する廟議を決定し、いよいよ挙国一致、会談に臨むこととなった。



同日の閣議は劈頭 (へきとう)、平沼首相より日英会談の重要性に鑑み

特に臨時閣議開催の趣旨を説明、次いで有田外相より

「日英交渉要領大綱案」   を二十分余にわたり説明があり、

板垣陸相から右大綱案に関連する軍関係事項につき補足的説明があって後、

討議に入り、近衛無任所相を除く各閣僚から種々真摯   (しんし)

かつ真剣なる意見の開陳及び質問等が行われ、有田外相これに答弁し、

最後に平沼首相が交渉要領大綱の決定を宣言して閣議を終わった。



しかして交渉要綱の重点は屡   (る)   報のごとく、

英国の援蒋政策の抛棄   (ほうき)   並びに新秩序建設の妨害排除を要求、

これに対するなんらかの諒解を確保するにあり、

これが具現を見た上、

天津租界の局地的諸要求条項の交渉を開始するとの方針が堅持されているから、



英国極東政策の基幹に触れて会談は展開されるものと見られ、

会談の成否はわが今後の外交国策運用上重要影響があり、

内外の視聴を蒐   (あつ)   めている。

しかして有田外相は閣議終了後、参議会に臨み廟議決定のわが方針を報告した。》


つづく

1937年12月22日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/07 18:47 投稿番号: [2096 / 2250]
十二月二十二日


《 軍事警察本部からだといって日本人が二人訪ねてきた。

日本側でも難民委員会をつくることになった由。

従って難民はすべて登録しなければならない。

「悪人ども」(つまり中国人元兵士)   は特別収容所に入れることになったといっている。

登録を手伝ってくれないかといわれ、ひきうけた。



そのあいだも、軍の放火はやまない。火事が上海商業儲蓄銀行のそばの家、

つまりメインストリートの西側にまで拡がったら、とはらはらしどおしだ。

あのあたりはもう安全区に入っている。   そうなったらわが家も危ない。



仲間と安全区の中を片づけていたら、市民の死体がたくさん沼に浮かんで

いるのをみつけた   (たった一つの沼だけで三十体あった)。

ほとんどは手をしばられている。中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。



わが家の難民はいまだに増えるいっぽうだ。私の小さな書斎だけでも六人が寝ている。

オフィスと庭も見わたすかぎり難民で埋まっており、

燃えさかる炎に照らされてだれもが血のように赤く染まっている。

今数えただけでも、七カ所で火災がおこっている。



私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。

下関には発電所の労働者が五十四人ほど収容されているはずだから、

まず最初にそこへ行くように。

ところが、なんとそのうちの四十三人が処刑されていたのだ!

それは三、四日前のことで、しばられて、河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。

政府の企業で働いていたからというのが処刑理由だ。

これを知らせてきたのは、おなじく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。

そばの二人が撃たれ、その下じきになったまま河に落ちて、助かったということだった。



今日の午後、酔っぱらった日本兵に中国人が銃剣で首を突かれた。

それを知って助けにいったクレーガーとハッツの二人も襲われた。

ハッツは椅子を使って身を守った。

だが、クレーガーのほうは日本兵にしばられそうになった。

やけどした左手を包帯でつっていなければ、そうはならなかっただろうが。



フィッチと私が車でかけつける途中、むこうから二人がもどってくるのに出くわした。

フィッチと私は二人をのせてただちに現場にむかった。

するとその兵隊は、偶然通りかかった日本の将校から平手打ちを食っていた。

そばには日本大使館の田中氏もいた。

その日本兵はどうやらクレーガーたちに不利になるような報告をしたらしい。

しかし、将校はかまわずなぐり続け、ついにそいつは目に涙をためた。

この事件は我々にとって悪い結果にはならなかった。

だが、いつもそうなるとはかぎらない。》



*   「安全区の中・・・、市民の死体がたくさん沼に・・・

   (たった一つの沼だけで三十体あった)。ほとんどは手をしばられている。

   中には首のまわりに石をぶら下げられて」



   これを見て、ラーベ達は疑わないのだろうか?

   日本軍は便衣兵を摘発して連行し、別の所で処刑していたはず。

   安全区の中でそんな事をしたら市民に見られるだろう。

   かつ、それでは何人殺したか上層部が確認できないから、戦果として計上できない。


   児島襄著   『日中戦争4』   238〜239p   に、

   入場式の前の死体片づけで、崇善堂に依頼したが、

   四十人しか作業員を集められず、いくつかの池に投棄した


   とあった。   そういう死体ではないのか?

1939年 ノモンハン29 軍をあざ笑う土建屋

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/06 18:51 投稿番号: [2095 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
188〜189p


《 十一日以後は、疲労と消耗のためについに攻撃を中止し、

進出線に陣地を構築して、敵と睨み合ったまま滞陣状態に陥った。

満を持して放った矢ではあるが、ついに金的を射貫くことができなかった。


この戦況を速やかに軍司令官に報告し、新しい手を講じなくてはならぬ。

十日夜、師団長に別れ、ハイラルに引き揚げた。



兵站宿舎に数時間まどろんでいたが、隣室の騒ぎがひどくて寝つかれない。

土建屋が芸妓   (げいぎ)   を揚げて、酒池肉林の中に気焔を吐いている。

「戦争が起こったらまた金儲けができるぞ。

軍人の馬鹿どもが儲かりもしないのに、生命を捨ておる。

阿呆な奴じゃ……」

襖   (ふすま)   一重のこの乱痴気騒ぎを、ついに黙視することができなかった。



大人気ない話であるが、いきなりその室に入って、

何も言わず、数名のゴロッキ利権屋に鉄拳を見舞った。


兵隊が一枚の葉書で召集せられ、数年間北満の砂漠に苦しみながら、

故郷に残した老父母や妻子に、一円の仕送りさえできず、

血戦死闘の戦場で散ってゆく姿を思い、

その背後で戦争成金が贅を尽くしているのを見ると、

体内の全血管が爆発しそうになるのを抑えることができなかった。



これは単にハイラルの狭い範囲だけの点描ではなかろう。

いずれの戦争でも、血を流さずに、金を儲ける者がつきものである。》

1937年12月21日 独逸大使宛回答和平案2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/06 18:44 投稿番号: [2094 / 2250]
戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 465〜466p


《     日支媾和交渉条件細目


一   支那ハ   満洲国ヲ   正式承認スルコト

二   支那ハ   排日及反満政策ヲ   放棄スルコト

三   北支及内蒙ニ   非武装地帯ヲ   設定スルコト

四   北支ハ   支那主権ノ下ニ於テ   日満支三国ノ   共存共栄ヲ   実現スルニ

   適当ナル機構ヲ設定   之ニ広汎ナル権限ヲ賦与シ   特ニ日満支経済合作ノ

   実ヲ挙クルコト



五   内蒙古ニハ   防共自治政府ヲ   設立スルコト   其ノ国際的地位ハ

   現在ノ外蒙ニ同シ

六   支那ハ   防共政策ヲ確立シ   日満両国ノ   同政策遂行ニ   協力スルコト

七   中支占拠地域ニ   非武装地帯ヲ設定シ   又   大上海市区域ニ就テハ

   日支協力シテ   之カ治安ノ維持   及   経済発展ニ当ルコト

八   日満支三国ハ   資源ノ開発、関税、交易、航空、通信等ニ関シ

   所要ノ協定ヲ   締結スルコト

九   支那ハ   帝国ニ対シ   所要ノ賠償ヲナスコト



  附   記

  (一)   北支内蒙   及   中支ノ一定地域ニ   保障ノ目的ヲ以テ

     必要ナル期間   日本軍ノ駐屯ヲナスコト

  (二)   前諸項ニ関スル   日支間ノ協定成立後   休戦協定ヲ開始ス

     支那政府カ   前記各項ノ約定ヲ   誠意ヲ以テ実行シ   日支両国

     提携共助ノ   我方理想ニ   真ニ協力シ来ル   ニ於テハ

     帝国ハ   単ニ右約定中ノ   保障条項ヲ解消   スルノミナラス

     進テ   支那ノ復興   及   其ノ国家的発展   国民的要望ニ

     衷心協力スルノ   用意アルコトヲ茲   (ここ)   ニ闡明   (せんめい)   ス



  別紙

(一)   媾和交渉条件中   保障条項タルモノ左ノ如シ

   一   第三項ノ非武装地帯

   二   第四項ノ折衝ニ当リ   保障ノ目的ヲ以テ   設定セラルヘキ特殊権益

     及   之カ為存置ヲ 必要トスル機関

   三   第七項ノ非武装地帯

   四   附記 (一) 及之ニ伴フ軍事施設、主要交通ノ管理拡充ニ関スル権益

(二)   媾和ニ関連シテ廃棄スヘキ約定

   一   梅津・何應欽協定、塘沽停戦協定、土肥原・秦徳純協定、上海停戦協定

   二   保障事項ノ解消ト同時ニ従来ヨリ有スル対支特殊権益

    (例へハ治外法権、租界、駐兵権等ノ如シ)   廃棄ヲ考慮ス



*   ここでは、梅津・何応欽協定、塘沽停戦協定、土肥原・秦徳純協定、

   上海停戦協定や治外法権、租界、駐兵権なども廃棄しようと言っています。

   中国側や反日日本人は、この条件を過酷と言っていますが、

   こんなお人好しな条件があるでしょうか。


   付加した条件としては、賠償金が加わった事くらいです。

   あとは、前の温和な条件とほとんど変わりません。

1939年7月 ノモンハン28 敵の新兵器登場

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/05 18:55 投稿番号: [2093 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
186〜188p


《 ハルハ河左岸   (*モンゴル領)   に師団の主力を以て果敢な攻撃を決行したのと策応し、

右岸   (*満州国領)   に進出している敵を北から南に向かって攻撃したのは、安岡支隊である。

七月二日朝から戦車二連隊を並べて敵陣地に突入し、

その日の夕刻までに敵の第一線と第二線を突破したが、

第三線で強烈な敵砲火を受け、損害が続出した。



のみならず三日朝から、敵の戦車の大群と陣内で遭遇し、

ついに軽戦車連隊は約半数の損害を受けて連隊長も戦死した。

右中戦車連隊は三日朝、第三線を蹂躙して、深く川又方向に突進したが、

いま一息のところで敵の砲弾幕に遮られ、川又橋梁を眼の前に見ながら、

約三分の一を破壊せられてやむなく攻撃を中止しなければならなかった。



山縣連隊   (歩六四)   が戦車の後から続き、戦果を確保するはずであったが、

歩兵と戦車の協同も不十分なために、せっかく深入りした戦車の後方を

固めることができなかったのは、攻撃頓挫の大きな原因であった。



この両日の戦いで、思いがけない失敗を見たのは、

敵の陣地前や陣地内部にあった特別の障碍   (しょうがい)   物である。

それは、従来見たことのない、ピアノ線で作った蛇腹式移動鉄条網である。

戦車のキャタピラに、蜘株の巣のようにからみつき、もがけばもがくほど

深く喰い入って、ついに速度を落としあるいは立ち往生しなければならなかった。



細い弾力性のある鋼鉄線で、眼にも見えないような霞網に似たこの障得物は、

鉄条鋏   (ハサミ)   で切ることもできず、踏み潰してもたちまち元の形にはね返る。

始末に困ったものである。蜘妹の巣にかかって、身動きできないようなところを、

敵の重砲に狙い撃たれて受けた損害は致命的であった。



二日間の戦闘で、軽戦車約三十輌、中戦車約十輌を失った。

この正面の戦いで敵に与えた損害は、少なくも六、七十輌を下らず、

また歩兵の多数を採掘したが、詳しい戦況は不明である。

師団長は三日の晩、左岸から転進した主力を安岡支隊の戦線に増加し、

五日朝から攻撃を再開し、約一週間連続戦い抜いたが、

ついに右岸の敵に止めを刺すことができないまま、

川又橋梁の橋頭堡前に戦線が膠着するに至った。》


つづく

1937年12月21日 独逸大使宛回答和平案1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/05 18:47 投稿番号: [2092 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   464〜465p


《 日華和平交渉ニ関スル   在京独逸大使宛   回答文

          昭和十二年十二月二十一日閣議決定



本月七日   貴大使ヨリ   本大臣ニ対スル   口頭御説明   並   (ならび)   ニ

同日附覚書ニ依   (よ)   ル   日支事変ノ   和平直接交渉ニ対スル

貴国政府ノ   好意的御配慮   及   在支貴国大使ノ   御努力ハ

本大臣ノ感佩   (かんはい)   スル所ナリ



然ルニ最近   戦局急速ニ発展シ   事態ニ大ナル変転ヲ   見タル情勢ニ鑑ミ

帝国政府ノ   提示セントスル   基礎条件ハ   左記ノ如キモノニシテ

支那側カ   之ヲ媾和ノ原則トシテ   総括的ニ承認シテ   帝国ニ和ヲ乞フノ態度ヲ

表示シ   来ルニ於テハ   帝国トシテモ   之ニ応シ   日支直接交渉ヲ   開始スルノ用意アリ

若シ   右原則ニシテ   受諾セラレサル   場合ニハ   帝国トシテハ   遺憾乍   (なが)   ラ

従来ト   全ク新ナル   見地ニ立チ   事変ニ対処スルノ   己 (や) ムナキニ

至ル   ヘキコトヲ   含ミ置カレ度   (たし)



     左   記

一   支那ハ   容共抗日満政策ヲ放棄シ   日満両国ノ防共政策ニ   協力スルコト

ニ   所要地域ニ   非武装地帯ヲ設ケ   且   該各地方ニ   特殊ノ機構ヲ   設定スルコト

三   日満支三国間ニ   密接ナル   経済協定ヲ   締結スルコト

四   支那ハ   帝国ニ対シ   所要ノ賠償ヲナスコト



    口頭説明

(一)   支那ハ   防共ノ誠意ヲ   実行ニ示スコト

(二)   支那ハ   一定ノ日限内ニ   媾和使節ヲ   日本ノ指定スル地点ニ   派遣スルコト

(三)   我方トシテハ   大体本年中ニ回答アルモノト   考へ居ルコト



(四)   蒋介石カ   只今内示ノ原則   承認ノ意ヲ表明シタル上ハ

   独逸側ニ於テ   日支双方ニ対シ   停戦ノ慫慂   (しょうよう)   ニアラスシテ

   日支直接交渉方ノ慫慂ヲ   為サルル様致度   (いたしたし)

(五)   独逸大使ノ質問ニ応シ   只今内示ノ原則ヲ   一層具体化セル条件トシテ

   我方ニ於テ   考慮シ居ル所ヲ   御参考迄ニ   申上クレハ   別紙ノ通ナリ

  (極秘トシテ)》



つづく

1939年 ノモンハン27 帰る参謀本部部長

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/04 19:02 投稿番号: [2091 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
184〜185p


《 最精鋭第七師団の戦力も、連隊長がこれでは頼みにならぬと、がっかりしながら、

元の師団司令部位置に辿り着いたとき、夜は全く明けはなれていたが、

そこにはもはや、一人の兵隊もいなかった。



師団長と副長を喜ばせようと思って急いで帰ったのに、

すでに昨夜の中に位置を移動したらしい。

ただ、馬が一頭、鞍を置かれたままションボリと草を食っている。

見覚えのある馬だ。確かに師団長の乗馬だ。

近づいて、鼻づらを撫でてやると、人懐かしそうに、言葉さえ出したいような表情である。

この動物もまた主人の行方を見失って、淋しがっていたのであろう。



「よし、よし、俺が連れてってやるよ……」

  平首をたたいて愛撫し、ヒラリと飛び乗って、

砂上に残された足跡を辿りながら、南に進んだ。

昨日戦ったハルハ河左岸の戦場には、まだ戦車の燃える黒煙が数条立ち上っている。

砲弾がときどき思い出したように、前に後ろに炸裂する中を、ただ一騎南に急いだ。



ハルハ河に架けられた橋の向こう岸には、十数台の敵の戦車がひしめき合っている。

黒煙にハッと思うと、橋板が水柱と共に高く空中に噴き上げられ、轟然たる爆破音が響いた。

工兵隊長は敵戦車に妨碍されて、橋を取り外す暇がなかったのである。

敵の戦車が我に追尾して渡りかけたところを、橋諸共爆破したのであった。



砂丘の蔭に、壕を掘って休んでいる師団司令部を見つけたときは、思わずホーッとした。

須見連隊を全員無事撤収し得た報告に、師団長も副長も心から喜ばれた。

参謀本部から第一部長   (作戦)   が初めて戦場付近に進出し、

三日朝からの戦況を将軍廟で視察していた。

たまたま敵の爆撃機で橋梁付近がやられるのを目撃し、

戦況が不利であるとの感じを受けて、師団長にも会わずにさっさと引き揚げた。



師団長も副長も、身を第一線に曝して戦っているとき、中央部の高級幕僚が

現地の師団長にも会わずに帰京したことは、第一線に決してよい印象は残さなかった。

この部長が、事態の認識を誤り、悲観的な態度を取ったことは、

他日大きな齟齬   (そご)   を来たす原因となったのである。》



つづく

1937年12月21日 和平案会議で異論続出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/04 18:55 投稿番号: [2090 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 256〜257p


《 参謀本部の思想は、政府、陸海軍省の大勢的考えとは相違し、

こんごの政略方針の確立にあたっては、基本的な立場で対立せざるを得なかった。

まっさきに、政府側との衝突が具現したのは、

ドイツを仲介にする対中国和平条件についてである。



和平交渉は、蒋介石側が北支の宗主権、領土保全、第三国との協約尊重などを

前提にして原則的にドイツのあっせんを受諾し、

日本側が提示した条件にもとづいて交渉に応ずる意向を表明している。

南京陥落は、この和平条件も大きく湾曲させた。



「かかる条件で国民が納得するかね」

と、内相末次信正海軍大将が先頭にたって条件の加重的修正を主張した。


   「犠牲ヲ多ク   出シタル今日、 斯クノ如キ   軽易ナル条件ヲ   以テシテハ、

   之ヲ   容認シ難シ」


外相広田弘毅がそうあいづちをうつと、同意、と陸相杉山元大将も応じ、

首相近衛文麿が、つけ加えた。


   「大体、敗者トシテノ   言辞   無礼ナリ」



このような雰囲気で、十二月二十一日、

「日華和平交渉ニ関スル   在京独逸大使宛回答文」

の形で和平条件が閣議決定された。

南京からは、主力攻撃部隊のほとんどが転進したころである。

条件は、防共政策の採用、非武装地帯の設置、経済協定の締結、

賠償の支払いの四つを主軸にし、満州国承認をふくむ細目九項が付属していた。



前文には、戦局の   「進展」   と事態の   「変転」   によって前回の条件を

修正した旨を述べ、次のように強調されていた。

  「支那側ガ   之ヲ   媾和ノ条件トシテ   総括的ニ承認シテ、

   帝国ニ   和ヲ乞フノ態度ヲ   示シ来ルニ於テハ……

   日支直接交渉ヲ   開始スル用意アリ」》



つづく

1939年 ノモンハン26 ビールを飲む連隊長

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/03 19:22 投稿番号: [2089 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
182〜184p


《 午後三時頃であった。悲痛な顔をした須見連隊の将校が、

部隊の危機を訴えるように報告している。

「火焔瓶と地雷を下さい」

声が慄えている。

師団長はたったいま参謀長を失ったばかりのところへ、

またしても前岸の急を訴えられ、苦脳の色がさすがに濃い。

師団参謀は手不足で、前岸に行く余裕は全くなさそうだ。



またお手伝いしようと思って副長に申し出た。異論はない。師団長は柔和な瞳で、

「君、行ってくれるか、御苦労ですが……」

と、心からいたわり、喜んで申し出を承認された。

「護衛兵を連れて行け」   と言われたが、白昼、敵砲弾下を潜るには一人に限る。

敵がどんなに弾薬が豊富であったにしても、

まさか一人の目標に対して大砲を向けることもあるまいと考えながら、

砲弾の合間を縫いながら、再びハルハ河を渡った。



昨日からの渇きを癒   (いや)   すのはただこのときだ。

橋板の上に腹ばいになって水筒で河水を汲み、たちまち二本を飲み干した。

ああこの水を、師団長にも兵にも飲ませてやりたい……。



バラ高地の連隊本部に辿り着いたとき、まだ陽が高いのに連隊長は夕食の最中であった。

不思議にもビールを飲んでいる。

この激戦場でどうしたことだろう、ビールがあるとは……。

飲まず食わずに戦っている兵の手前も憚   (はばか)   らないで……。

不快の念は、やがて憤怒   (ふんど) の情に変わった。

「安達大隊はどうなっていますかッ」



「ウン……安達の奴、勝手に暴進して、こんなことになったよ。

仕方がないねえ……今夜、斥候を出して連絡させようと思っとる」

部下の勇敢な大隊長が、敵中に孤立して重囲の中に危急を伝えているとき、

連隊長が涼しい顔をしてビールを飲んでいるとは   −。

これが陸大を出た秀才であろうか。ついに階級を忘れ、立場を忘れた。



「安達大隊を、何故軍旗を奉じ、全力で救わないのですかッ、

将校団長として見殺しにできますかッ」

傍にいた第二、第三大隊長も、連隊副官も、小声で連隊長に対する不満を述べている。

軍旗はすでに将軍廟に後退させていたのである。

連隊と生死を共にせよとて、三千の将兵の魂として授けられた軍旗を、

事もあろうに、数里後方の将軍廟に後退させるとは何事か。



食事を終わった連隊長は、さすがに心に咎   (とが)   めたらしく、

重火器だけをその陣地に残して、歩兵の全力で夜襲し、

ついに安達大隊を重囲から救出した。

安達少佐以下約百名の死傷者を担いで、夜半過ぎ渡河を開始した。

その最後尾の兵が橋を渡り終わるのを見届けてから、ハルハ河を渡った。》


つづく
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