紫陽花亭日乗
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Re: 星落秋風五丈原 土井晩翠
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/25 21:52 投稿番号: [192 / 735]
更に碧の空の上
靜かにてらす星の色
かすけき光眺むれば
神祕は深し無象の世
あはれ無限の大うみに
溶くるうたかた其はては
いかなる岸に泛ぶらむ
千仭暗しわだつみの
底の白玉誰か得む、
幽渺境窮みなし
鬼神のあとを誰か見む
嗚呼五丈原秋の夜半
あらしは叫び露は泣き
銀漢清く星高く
神祕の色につゝまれて
天地微かに光るとき
無量の思齎らして
「無限の淵」に立てる見よ
功名いづれ夢のあと
消えざるものはたゞ誠
心を盡し身を致し
成否を天に委ねては
魂遠く離れゆく
高き尊きたぐいなき
「悲運」を君よ天に謝せ
青史の照らし見るところ
管仲樂毅たそや彼
伊呂の伯仲眺むれば
「萬古の霄の一羽毛」
千仭翔る鳳の影
草廬にありて龍と臥し
四海に出でゝ龍と飛ぶ
千載の末今も尚
名はかんばしき諸葛亮
――
了
――
★昔、わたしの知人に、これを全部暗記しているという人がいました。
びっくり。
今でもまだ、ソラでいえるかしら。
.
これは メッセージ 191 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 星落秋風五丈原 土井晩翠
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/25 21:50 投稿番号: [191 / 735]
成否をたれかあげつらふ
一死盡くしゝ身の誠
仰げば銀河影冴えて
無數の星斗光濃し
照すやいなや英雄の
苦心孤忠の胸ひとつ
其壯烈に感じては
鬼神も哭かむ秋の風
鬼神も哭かむ秋の風
行て渭水の岸の上
夫の殘柳の恨訪へ
劫初このかた絶えまなき
無限のあらし吹過ぎて
野は一叢の露深く
世は北邱の墓高く
蘭は碎けぬ露のもと
桂は折れぬ霜の前
霞に包む花の色
蜂蝶睡る草の蔭
色もにほひも消去りて
有情も同じ世々の秋
群雄次第に凋落し
雄圖は鴻の去るに似て
山河幾とせ秋の色
榮華盛衰ことごとく
むなしき空に消行けば
世は一場の春の夢
撃たるゝものも撃つものも
今更こゝに見かえれば
共に夕の嶺の雲
風に亂れて散るがごと
蠻觸二邦角の上
蝸牛の譬おもほへば
世ゝの姿はこれなりき
金棺灰を葬りて
魚水の契り君王も
今泉臺の夜の客
中原北を眺むれば
銅雀臺の春の月
今は雲間のよその影
大江の南建業の
花の盛もいつまでか
五虎の將軍今いづこ
神機きほひし江南の
かれも英才いまいづこ
北の渭水の岸守る
仲達かれもいつまでか
聞けば魏軍の夜半の陣
一曲遠し悲茄の聲
つづく
これは メッセージ 190 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 星落秋風五丈原 土井晩翠
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/25 21:34 投稿番号: [190 / 735]
魏軍の營も音絶て
夜は靜かなり五丈原
たゝずと思ふ今のまも
丹心國を忘られず
病を扶け身を起し
臥帳掲げて立ちいづる
夜半の大空雲もなし
刀斗聲無く露落ちて
旌旗は寒し風清し
三軍ひとしく聲呑みて
つゝしみ迎ふ大軍師
羽扇綸巾膚寒み
おもわやつれし病める身を
知るや情の小夜あらし
諸壘あまねく經廻りて
輪車靜かにきしり行く
星斗は開く天の陣
山河はつらぬ地の營所
つるぎは光り影冴えて
結ぶに似たり夜半の霜
嗚呼陣頭にあらわれて
敵とまた見ん時やいつ
祁山の嶺に長驅して
心は勇む風の前
王師たゞちに北をさし
馬に河洛に飲まさむと
願ひしそれもあだなりや
胸裏百萬兵はあり
帳下三千將足るも
彼れはた時をいかにせん
星落秋風五丈原
成敗遂に天の命
事あらかじめ圖られず
舊都再び駕を迎へ
麟臺永く名を傳ふ
春玉樓の花の色
いさをし成りて南陽に
琴書をまたも友とせむ
望みは遂に空しきか
君恩酬ふ身の一死
今更我を惜しまねど
行末いかに漢の運
過ぎしを忍び後計る
無限の思い無限の情
南成都の空いづこ
玉壘今は秋更けて
錦江の水痩せぬべく
鐵馬あらしに嘶きて
劔關の雲睡るべく
明主の知遇身に受けて
三顧の恩にゆくりなく
立ちも出でけむ舊草廬
嗚呼鳳遂に衰へて
今に楚狂の歌もあれ
人生意氣に感じては
成否をたれかあげつらふ
つづく
これは メッセージ 189 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 星落秋風五丈原 土井晩翠
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/25 21:31 投稿番号: [189 / 735]
その三峽の道遠き
永安宮の夜の雨
泣いて聞きけむ龍榻に
君がいまわのみことのり
忍べば遠きいにしえの
三顧の知遇またこゝに
重ねて篤き君の恩
諸王に父と拜されし
思よいかに其宵の
邊塞遠く雲分けて
瘴烟蠻雨ものすごき
不毛の郷に攻め入れば
暗し瀘水の夜半の月
妙算世にも比なき
智仁を兼ぬるほこさきに
南蠻いくたび驚きて
君を崇めし「神なり」と
南方すでに定まりて
兵は精しく糧は足る
君王の志うけつぎて
姦を攘はん時は今
江漢常武いにしへの
ためしを今にこゝに見る
建興五年あけの空
日は暖かに大旗の
龍蛇も動く春の雲
馬は嘶き人勇む
三軍の師隨へて
中原北にうち上る
六たび祁山の嶺の上
風雲動き旗かへり
天地もどよむ漢の軍
偏師節度を誤れる
街亭の敗何かある
鯨鯢吼えて波怒り
あらし狂うて草伏せば
王師十萬秋高く
武都陰平を平げて
立てり渭南の岸の上
拒ぐはたそや敵の軍
かれ中原の一奇才
韜略深く密ながら
君に向はんすべぞなき
納めも受けむ贈られし
素衣巾幗のあなどりも
陣を堅うし手を束ね
魏軍守りて打ち出でず
鴻業果し收むべき
その時天は貸さずして
出師なかばに君病みぬ
三顧の遠いむかしより
夢寐に忘れぬ君の恩
答て盡すまごゝろを
示すか吐ける紅血は
建興の十三秋なかば
丞相病篤かりき
つづく
これは メッセージ 188 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 星落秋風五丈原 土井晩翠
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/25 21:29 投稿番号: [188 / 735]
成算胸に藏りて
乾坤こゝに一局棊
たゞ掌上に指すがごと
三分の計はや成れば
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は皆立ちて
蛟龍飛びて淵の外
英才雲と群がれる
世も千仭の鳳高く
翔くる雲井の伴やたそ
東新野の夏の草
南瀘水の秋の波
戎馬關山いくとせか
風塵暗きただなかに
たてしいさをの數いかに
江陵去りて行先は
武昌夏口の秋の陣
一葉輕く棹さして
三寸の舌呉に説けば
見よ大江の風狂ひ
焔亂れて姦雄の
雄圖碎けぬ波あらく
劔閣天にそび入りて
あらしは叫び雲は散り
金鼓震ひて十萬の
雄師は圍む成都城
漢中尋で陷りて
三分の基はや固し
定軍山の霧は晴れ
汚陽の渡り月は澄み
赤符再び世に出でゝ
興るべりかりし漢の運
天か股肱の命盡きて
襄陽遂に守りなく
玉泉山の夕まぐれ
恨みは長し雲の色
中原北に眺むれば
冕旒塵に汚されて
炎精あはれ色も無し
さらば漢家の一宗派
わが君王をいただきて
踏ませまつらむ九五の位
天の暦數こゝにつぐ
時建安の二十六
景星照りて錦江の
流に泛ぶ花の影
花とこしへの春ならじ
夏の火峯の雲落ちて
御林の陣を焚く掃ふ
四十餘營のあといづこ
雲雨荒臺夢ならず
巫山のかたへ秋寒く
名も白帝の城のうち
龍駕駐るいつまでか
つづく
これは メッセージ 187 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 星落秋風五丈原 土井晩翠
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/25 21:27 投稿番号: [187 / 735]
末は黄河の水濁る
三代の源遠くして
伊周の跡は今いづこ
道は衰へ文弊れ
管仲去りて九百年
樂毅滅びて四百年
誰か王者の治を思ふ
嗚呼南陽の舊草廬
二十餘年のいにしえの
夢はたいかに安かりし
光を包み香をかくし
隴畝に民と交われば
王佐の才に富める身も
たゞ一曲の梁父吟
閑雲野鶴雲濶く
風に嘯く身はひとり
月を湖上に碎きては
ゆくへ波間の舟ひと葉
ゆふべ暮鐘に誘はれて
訪ふは山寺の松の影
江山さむるあけぼのゝ
雪に驢を驅る道の上
寒梅痩せて春早み
幽林風を穿つとき
伴は野鳥の暮の歌
紫雲たなびく洞の中
誰そや棊局の友の身は
其隆中の別天地
空のあなたを眺むれば
大盜競ほひはびこりて
あらびて榮華さながらに
風の枯葉掃ふごと
治亂興亡おもほへば
世は一局の棊なりけり
其世を治め世を救ふ
經綸胸に溢るれど
榮利を俗に求めねば
岡も臥龍の名を負ひつ
亂れし世にも花は咲き
花また散りて春秋の
遷りはこゝに二十七
高眠遂に永からず
信義四海に溢れたる
君が三たびの訪づれを
背きはてめや知己の恩
羽扇綸巾風輕き
姿は替へで立ちいづる
草廬あしたのぬしやたれ
古琴の友よさらばいざ
曉さむる西窓の
殘月の影よさらばいざ
白鶴歸れ嶺の松
蒼猿眠れ谷の橋
岡も替へよや臥龍の名
草廬あしたはぬしもなし
つづく
これは メッセージ 186 (ajisai110701 さん)への返信です.
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星落秋風五丈原 土井晩翠
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/25 21:24 投稿番号: [186 / 735]
★横一行に三句ずつ配したいとおもったのですが、
二句め三句目のアタマをそろえるのが至難の業ですので諦めました。
ガタガタして読みにくいので一句ずつ縦にならべます。
星落秋風五丈原
土井晩翠(つちいばんすい)
草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く
鼓角の音も今しづか
丞相病あつかりき
清渭の流れ水やせて
むせぶ非情の秋の聲
夜は關山の風泣いて
暗に迷ふかかりがねは
令風霜の威もすごく
守る諸營の垣の外
丞相病あつかりき
帳中眠かすかにて
短檠光薄ければ
こゝにも見ゆる秋の色
銀甲堅くよろへども
見よや待衞の面かげに
無限の愁溢るゝを
丞相病
あつかりき
風塵遠し三尺の
劍は光曇らねど
秋に傷めば松柏の
色もおのづとうつろふを
漢騎十萬今さらに
見るや故郷の夢いかに
丞相病
あつかりき
夢寐に忘れぬ君王の
いまわの御こと畏みて
心を焦がし身をつくす
暴露のつとめ幾とせか
今落葉の雨の音
大樹ひとたび倒れなば
漢室の運はたいかに
丞相病
あつかりき
四海の波瀾收まらで
民は苦み天は泣き
いつかは見なん太平の
心のどけき春の夢
群雄立ちてことごとく
中原鹿を爭ふも
たれか王者の師を學ぶ
丞相病
あつかりき
つづく
これは メッセージ 182 (ajisai110701 さん)への返信です.
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梁甫吟 無名氏
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/25 20:17 投稿番号: [185 / 735]
登楼
杜甫
>日暮聊為梁甫吟
日暮
聊(いささか)か為す
梁甫の吟<
>この夕暮れ、わたしは孔明きどりになって、
孔明の愛誦した梁父吟を口ずさんでみる<
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
梁甫吟
無名氏
歩出斉城門
歩して斉の城門を出で
遥望蕩陰里
遥に望む
蕩陰(とういん)の里
里中有三墳
里中に三墳有り
塁塁正相似
塁塁として正に相い似たり
問是誰家墓
問う是れ誰が家の墓ぞ
田疆古冶子
田疆古冶子(でんきょうこやし)
力能排南山
力能く南山を排し
文能絶地紀
文能く地紀を絶つ
一朝被讒言
一朝 讒言を被り
二桃殺三士
二桃 三士を殺す
誰能為此謀
誰か能く此の謀(はかりごと)を為せる
国相斉晏子
国相斉の晏子なり
二桃三士
奇策によって人を自滅させること。
春秋時代、斉(せい)の景公の宰相・晏子(あんし)が用いた奇策で、
三人の粗暴な勇士(公孫接・田開疆(かいきょう)・古冶子(やし))に
二つの桃を贈って、最も功績のあった者が食べるようにしむけて三人に
争わせたところ、ついには三人とも自殺してしまったという故事に基づく。
己れの勲功を述べ立てて、いち早く桃を取った公孫接と田開疆は、
古冶子の反論にあって恥じ入って自害した。
残った古冶子は一人生きるのは不義であるとして果てた。
『晏子春秋・諫下』に見える。
★諸葛孔明はこの詩を好んで口ずさんでいたそうです。
★墳墓の主として、詩のなかに公孫接の名がないのが、少し気になります。
.
これは メッセージ 184 (ajisai110701 さん)への返信です.
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登楼 杜甫
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/24 22:22 投稿番号: [184 / 735]
登楼
杜甫(盛唐・712〜770)
花近高楼傷客心
花は高楼に近くして客心(かくしん)を傷ましむ
万方多難此登臨
万方(まんぽう)多難なるとき此(ここ)に登臨す
錦江春色来天地
錦江の春色は天地に来り
玉塁浮雲変古今
玉塁(成都の西北にある山)の浮雲は古今に変ず
北極朝廷終不改
北極の朝廷
終に改まらず
西山寇盗莫相侵
西山の寇盗(こうとう)
相い侵すことなかれ
可憐後主還祠廟
憐れむべし後主もまた廟に祠(まつ)らる
日暮聊為梁甫吟
日暮
聊(いささか)か為す
梁甫の吟
花は高楼のすぐそばに咲き乱れているが、
その美しさはかえってわが旅心を傷ませる
国はいたるところ多難の折り、わたしは高楼に上り世の中を眺めている
錦江の春景色は大空にも大地にも押し寄せているというのに
玉塁山にかかる白雲は古今にわたって形を変えながら、
長い我が国の歴史を見てきた
わが朝廷は北極星にも似て中心にあって、けっきょくは不動のものゆえ
西山にあだなす盗賊どもよ、わが国土を侵そうとしてはならぬぞ
その昔、劉備のあとを継いだ劉禅は国を亡ぼした
それでも廟に祀られているのは、孔明の補佐があったればこそであろう
そのことを思えば、わたしは感慨に堪えない
この夕暮れ、わたしは孔明きどりになって、
孔明の愛誦した梁父吟を口ずさんでみる
(いつの日にか、わたしは諸葛孔明となってこの大唐王国をささえたいものだ)
★杜甫の成都での住居は完花溪にあった。錦江は成都の中心を流れる川。
長江の上流の一部。蜀は錦の産地。川で錦をさらしたので錦江という。
★諸葛孔明(181〜234)の草庵跡の古隆中・・・湖北省襄樊
★文化の型として、
「高楼に登る」詩なら、望郷の想いをうたう。
「江」についてなら、人生の感慨をうたう。
★成都にて戦乱の世を愁い、
諸葛孔明のような人物の出現を期して詠んだ詩。
社会へ貢献したい思い。そして自分の貧困への思い。
★客・・・故郷を離れている人。旅人。
★西山寇盗・・・成都の外、西の異民族、チベット。
寇・・・かたき
★可憐・・・感情を強めるときにいう。
★先帝・・・劉備
後帝・後主・・・劉禅(蜀は二代で滅んだ)
★訓読・解釈は、あじさいです。
.
これは メッセージ 183 (ajisai110701 さん)への返信です.
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八陣圖 杜甫
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/24 22:04 投稿番号: [183 / 735]
八陣圖
杜甫(盛唐・712〜770)
功蓋三分國
功は蓋ふ
三分の國
名成八陣圖
名は成す
八陣の圖
江流石不轉
江流
石轉せず
遺恨失呑呉
遺恨なり
呉を呑むを失す
諸葛孔明の大きな功績は、三国時代の中国全土をおおいつくすほどである
諸葛孔明の名声は、八陣の図を作ったことにより鳴り響いている
不思議なことに、春の雪融けに長江の水かさが増し、
その流れがどんなに急であっても、諸葛孔明が八陣を研究するにあたって
積み上げたあの置石だけは流されていない
★これは、地元の伝説です。
ただ、残念なことには、諸葛孔明の奮戦にもかかわらず、
三国のうちで最初に滅んだのが蜀であり、
ついに呉の国を併呑することができなかったことだ
★杜甫は、
「我々も残念だが、諸葛孔明はさぞなおさら遺憾であったことだろう」
といっています。
★八陣・・・この詩の場合、諸葛孔明が、揚子江のほとりで
石を積み並べて研究し、作った迷路のような陣形をいう。
生門から入ると勝てる。死門から入ると必ず負ける、
生門と死門を見分けなければならない、・・・とか。
これはたぶん講釈師の創作だといわれています。
★杜甫は諸葛孔明を敬愛していました。
キ州に流寓した55歳のとき、近くに八陣の遺跡がありました。
その遺跡は、杜甫が詩にうたっているから、唐代にはもうある、
おそらくはインチキ史跡です。
★諸葛孔明の功績は、この八陣の石のように、流し去ろうとしても
消えることなく、いついつまでも残る、と詠んでいます。
★結句の解釈は諸説あります。
上記解釈のほかに、
劉備が諸葛亮の反対にもかかわらず、呉を討ったのを恨む
劉備の東征を諌止できなかったことを、みずから恨む
八陣図の陣法を用いることができず、呉を討ったが敗れたのを恨む
など。
★『唐詩三百首』より、解釈はあじさいです。
======================================
=
★訂正
直前の「詠懐古跡
其五」の
>運命は転移して漢の正当の皇位はついに再興できず<
の「正当」は、「正統」です。
.
これは メッセージ 182 (ajisai110701 さん)への返信です.
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詠懐古跡 其五 杜甫
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/24 21:43 投稿番号: [182 / 735]
詠懐古跡
其五
杜甫(盛唐・712〜770)
諸葛大名垂宇宙
諸葛の大名
宇宙に垂る
宗臣遺像肅清高
宗臣の遺像
肅として清高
三分割拠紆籌策
三分割拠
籌策を紆らし
万古雲霄一羽毛
万古の雲霄
一羽毛
伯仲之間見伊呂
伯仲の間に伊呂を見る
指揮若定失蕭曹
指揮若し定まれば蕭曹を失せん
運移漢祚終難復
運 移りて漢祚は終に復し難く
志決身殲軍務労
志は決するも身は殲く軍務の労に
諸葛孔明の名声は天地に知れ渡り
人々が仰ぎ尊ぶ孔明の像は、厳粛で清らかな気品をたたえている
孔明は、劉備のために天下三分のはかりごとをめぐらし
永久に大空を飛ぶ霊鳥のような才能を示した
孔明と優劣を定めがたい人物は
伊尹と呂尚(共に古代の名宰相)がいるだけで
孔明の指揮がきちんと行われていれば、
蕭何も曹参(共に漢代の賢臣)も必要ないであろう
運命は転移して漢の正当の皇位はついに再興できず
魏を伐つ決意はしたものの、軍務の労苦で帰らぬ人となってしまった
.
これは メッセージ 181 (ajisai110701 さん)への返信です.
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蜀相 杜甫
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/24 21:38 投稿番号: [181 / 735]
Re: 正氣歌
文天祥 2011/ 7/20 21:17 [ No.139
>或爲出師表
或は
出師の表と爲り<
Re: 正氣歌
文天祥 2011/ 7/20 21:33 [ No.140
>あるいは、蜀の諸葛亮孔明が後主劉禅に奉った、忠誠心溢れた
『出師の表』となりその出師の表に吐露された諸葛亮の忠誠心は、
鬼神も泣くほど壮烈であったという<
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
蜀相
杜甫(盛唐・712〜770)
丞相祠堂何処尋
丞相の祠堂
何れの処にか尋ねん
錦官城外柏森森
錦官城外
柏(はく)森森(しんしん)
映階碧草自春色
階(かい)に映ずるの碧草
自(おの)ずから春色
隔葉黄●空好音
葉を隔てるの黄<麗鳥>
空しく好音
三顧頻繁天下計
三顧
頻繁なり
天下の計
両朝開済老臣心
両朝
開済(かいさい)す老臣の心
出師未捷身先死
出師未だ捷(か)たざるに身まず死し
長使英雄涙満襟
長(とこしへ)に英雄をして涙
襟に満たしむ
●「麗」+「鳥」
リ
チョウセンウグイス
コウライウグイスのこと
蜀の丞相であった孔明の祠はどこに尋ねたらよいのだろうか
成都錦官城外、柏の木々がこんもりと茂るところがそれである
祠の階(きざはし)に映えるみどりの草は春の深まるにまかせて美しく萌え
葉陰のうぐいすは聞く人もないままに美しい声で鳴いている
その昔、劉備は、三顧の礼をつくして孔明を訪ね天下の計略を問うた
(孔明の出馬を促した)
孔明の臣の心はそれに応え劉備親子二代の主君に誠心誠意仕えた
しかし魏の討伐に赴き勝てないままに、志半ばにして彼の命は尽きてしまった
そのひたむきな真心は後世の英雄達をして、
涙で襟を濡らさせないではおかない
★武侯祠は、四川省成都に、武侯墓は、陝西省勉県にあります。
★諸葛孔明(181〜234)
.
これは メッセージ 139 (ajisai110701 さん)への返信です.
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別老母 黄景仁
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/24 21:27 投稿番号: [180 / 735]
與蘇武詩三首
李陵
の三首目に、
>攜手上河梁
手を攜(たずさ)へて河梁(カリャウ)に上る<
とあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
別老母
黄景仁(清・1749〜1783)
搴帳拝母河梁去
帳を搴げ母を拝して河梁に去る
白髪愁看涙眼枯
白髪愁へて看る
涙眼枯る
惨惨柴門風雪夜
惨惨たる柴門
風雪の夜
此時有子不如無
此の時
子有るは無きに如かず
帳を搴(あ)げ部屋に入り、母に別れの挨拶をして出て行く
白髪頭の老母の悲しげな眼、もはや涙も枯れ果てている
荒れ破れた柴の戸を叩く吹雪の夜
この別れのときのぬ母の辛さは、いっそ倅などないほうがよかったとの思いであろう
★作者は、宋の大詩人黄庭堅の子孫。天才詩人の名が高かった。
科挙に合格せず各地を転々、貧窮と病苦のうちに没した。
★「老母に別る」は、23歳の正月、衣食を求めて郷里を出る際の作。
★河梁・・・一般に送別の地を指していう。
漢の李陵が匈奴の地で蘇武に与えたという送別の詩に
「手を携えて河梁に上る」とあるのに因る。
★柴門・・・非常に粗末な門。
★奥平卓『漢詩名句集』PHP研究所
2773
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別歌 李陵
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/24 21:10 投稿番号: [179 / 735]
別歌
李陵(前?〜前74)
徑萬里兮度沙漠
萬里を徑(わた)りて
沙漠を度(わた)り
爲君將兮奮匈奴
君が將となりて
匈奴に奮ふ
路窮絶兮矢刃摧
路(みち)窮まり絶えて矢刃(シジン)摧(くだ)け
士衆滅兮名已●
士衆(シシュウ)滅びて
名已に●(お)つ
老母已死
老母已に死せり
雖欲報恩將安歸
恩を報いんと欲すと雖も
將(は)た安(いづく)にか歸せん
●・・・コザトヘン
+
「貴」
タイ
くずれる。おちる。
万里の長途をわたり、沙漠を越えて
漢帝の將となって匈奴の地に奮戦したが
戦い利あらず、
路は通ぜず、矢も刃もくだけ
部下の士卒は全滅し、わが名はもはや地におちてしまった
国に残した老母も罪せられてすでにこの世の人ではない
わが身の恥をすすいで親の恩に報いようとしても、
いったいいずこに身をよせようぞ
★内田泉之助『古詩源』上, 集英社, 漢詩大系4
★
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%99%B52837
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與蘇武詩三首 李陵
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/24 21:04 投稿番号: [178 / 735]
與蘇武詩三首
李陵(前?〜前74)
蘇武に與へる詩三首
良時不再至
良時
再びは至らず
離別在須臾
離別
須臾に在り
屏營衢路側
衢路(クロ)の側に屏営し
執手野①②
手を執りて野に<足知><足厨>(チチュウ)す
仰視浮雲馳
仰いで浮雲の馳するを視るに
奄忽互相踰
奄忽(エンコツ)として互に相踰(こ)ゆ
風波一失所
風波に一たび所を失へば
各在天一隅
各々
天の一隅に在り
長當從此別
長く當(まさ)に此れ從(よ)り別るべし
且復立斯須
且(しばら)く復(ま)た立ちて斯須(シシュ)す
欲因晨風發
晨風の發するに因って
送子以賤躯
子を送るに賤躯を以てせんと欲す
①②・・・<足知><足厨>
チチュウ
今別れたら再会の楽しいときは二度とこないのに
離別のときはたちまち迫ってくる
分かれ路に立ってはためらい
手をとりあっては野道に立ちどまる
仰ぎ見る空には、浮き雲が飛びかい
先になり後になりしてたちまち遠ざかってゆく
風に吹かれて一たびその場所をうしなえば
連れそう雲もおのおの天の一方に隔てられてしまう
われらもまたこれと同じく、長くここから別れ去らねばならぬ
名残りを惜しみ、またもやそこに立ちどまる
ああ、せめてあの朝風の吹きくるに、この身を乗せて
君を送ってどこまでもおともしたい
嘉會難再遇
嘉會
再び遇ひ難く
三戴爲千秋
三戴も千秋と爲らん
臨河濯長纓
河に臨みて長纓(チョウエイ)を濯(あら)ひ
念子悵悠悠
子を念(おも)うて悵として悠悠たり
遠望悲風至
遠く望めば悲風至り
對酒不能酬
酒に對して酬(むく)ゆる能はず
行人懐往路
行人
往路を懐(おも)ふ
何以慰我愁
何を以てか我が愁を慰めん
獨有盈觴酒
獨り觴(さかずき)に盈(み)つるの酒有るのみ
與子結惆繆
子と惆繆(チウビウ)を結ばん
楽しい会合は二度とは得がたいのだから
別れたら三年でも千年のように長く感じるであろう
いま君を送って河にのぞみ、涙にぬれた冠の纓(ひも)を洗って
いさぎよく別れようとするが、君を思う心の悲しみは流れる水のようにはてしない
立って遠く眺めると秋風がもの悲しくおとずれる
送別の酒宴にのぞんでも、君に酒をすすめる元気も出ない
旅立つ君も行く手のことが気にかかり
わたしの愁いを慰めるいとまはあるまい
ただここに杯を満たした酒がある
せめてこれを飲んでつきぬ交情を結びかわそう
攜手上河梁
手を攜(たずさ)へて河梁(カリャウ)に上る
遊子暮何之
遊子
暮れに何(いづ)くにか之(ゆ)く
徘徊蹊路側
蹊路の側(かたはら)に徘徊して
●●不能辭
●●(リャウリャウ)として辭する能はず
行人難久留
行人
久しく留まり難し
各言長相思
各々言ふ
長く相思ふと
安知非日月
安(いづく)んぞ日月(ジツゲツ)に非(あら)ざるを知らんや
弦望自有時
弦望
自(おのづか)ら時有り
努力崇明紱
努力して明紱を崇(たか)くせよ
皓首以爲期
皓首(コウシュ)以て期と爲さん
●・・・リッシンベン
+
「良」
リョウ
君と手を携えて橋の上に立った
旅姿の君よ、この日暮れどこへ行こうとするのか
あいともに小道のほとりを行きつ戻りつ
名残惜しさに、いとまをつげることばも出ない
さりとて旅立つ君ゆえ、長くとどまることもかなわぬ
お互いにいつまでも忘れまいぞといいかわすのみ
人生の離合は日月の循環と同じではなかろうか
月は満ちたりかけたりし、ときには日と月とがあい望むこともあるように、
われらもまたあい会うときがないとは限らぬ
どうか明紱を高めていただきたい
白髪になっても必ず再会することを約しましょう
★内田泉之助『古詩源』上, 集英社, 漢詩大系4
2836
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詩四首(四) 蘇武
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/23 23:49 投稿番号: [177 / 735]
詩四首(四)
蘇武(漢・前142〜前60)
旅立つ人が友に贈る詩
燭燭晨明月
燭燭(しょくしょく)たり晨(あした)の明月
馥郁秋蘭芳
馥郁として秋蘭芳し
★
芬馨良夜發
芬馨
良夜に發し
随風聞我堂
風に随って
我が堂に聞ゆ
征夫懐遠路
征夫
遠路を懐ひ
遊子戀故郷
遊子
故郷を戀ふ
寒冬十二月
寒冬十二月
★
晨起踐嚴霜
晨(あした)に起きて嚴霜を踐(ふ)む
俯觀江漢流
俯して江漢の流るるを觀(み)
仰視浮雲翔
仰いで浮雲の翔るを視る
良友遠別離
良友
遠く離別し
各在天一方
各々
天の一方に在り
山海隔中州
山海
中洲を隔て
相去悠且長
相去ること悠にして且つ長し
嘉會難再遇
嘉會
再び遇ひ難く
歡樂殊未央
歡樂
殊に未だ央(つ)きず
願君崇令紱
願はくは君
令紱を崇(たか)くし
随時愛景光
時に随ひて
景光を愛せよ
照り輝くありあけの月
かぐわしく秋の蘭は香る
その芳香は君と会するこの良夜に発して
風のまにまにわが室へとただよってくる
月光も蘭香も人の感をそそって別離の情を深からしめる
旅立つ人は行く手の長い道中を思いわずらい
異郷にとどまる遊子は故郷を恋いしたう
ときは寒冬の十二月
朝まだきに起き、ひどい霜をふんで出て見る
俯しては地に江漢の水の流れゆくを観(み)
仰いでは空に浮雲の飛び去るを眺めるにつけ
良友と遠く離れ、別れ別れて
おのおの天の一方に住む身となるのも、またこの江水浮雲に異ならぬかと思われる
海山を遠く隔て
友と別れてゆく旅路は果てしもなく遠い
思えば、また会うよき日は期しがたかろう
歓楽はいつまでもつきない、しかし出発は迫っている
どうか君よ、美徳を積んで
つねづね光陰を惜しんで自愛せられよ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
きらきらと
あかつきの月
ふくいくと
秋の蘭の香り
かぐわしさは
晴れた夜に舞い立ち
風のまにまに
わが座敷にかおる
旅立つものは
前途をおもい
さすらい人は
故郷をしたう
寒い冬の
十二月
朝はやく起き
厳しい霜をふまん
大川の
流れを見おろし
浮き雲の走るを仰ぎ見
よき友も
はるかに別れて
それぞれに
天の片すみに
山と水は
都をへだてて
遠くはるかに
別れゆく
楽しい語らいも
二度とあるまい
この楽しみは
今しばし続こうが
君に祈る
人徳を高めて
いついつまでも
自愛せんことを
★「秋蘭」と「寒冬十二月」。季節の表現に矛盾がある。★印の箇所。
偽作説の根拠の一つ。
★解釈、上段は、内田泉之助『古詩源』上, 集英社, 漢詩大系4
★解釈、下段は、伊藤正文・一海知義編訳『漢・魏・六朝詩集』
平凡社, 中国古典文学大系
4186
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Re: 詩四首(三) 蘇武
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/23 23:45 投稿番号: [176 / 735]
黄鵠(おおとり)も
遠く飛び去れば
千里の彼方で
あとふりかえる
胡(えびす)の馬も
群れを見失えば
仲間をいつも
思いつづける
まして二人は
番いの鳥
別れ別れに
羽ばたかねばならぬ
幸いに
琴歌の調べあり
胸のうちを
これに託そう
「さすらい人の歌」を請えば
歌声澄んで
ひとえに悲し
琴と笛の
高い音きびしく
心高ぶり
哀しさあふれる
尾をひく歌声
ひとえに高まり
心いたみ
胸もつぶれる
澄んだ音の
商の曲をと思うたが
帰れぬ身の
君の心をおもい
天を仰ぎ
うなだれて
心は痛み
涙あふれて
ぬぐいもならず
願わくは
翼つらねる黄鵠(おおとり)となり
どこまでも
君を送って飛んでゆきたい
★伊藤正文・一海知義編訳『漢・魏・六朝詩集』平凡社, 中国古典文学大系16
4176
.
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詩四首(三) 蘇武
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/23 23:44 投稿番号: [175 / 735]
詩四首(三)
蘇武(漢・前142〜前60)
異郷にあって、友に別れ、ひとり帰るにあたってその情を叙べたもの
黄鵠一遠別
黄鵠
一たび遠く別れ
千里顧徘徊
千里にして
顧みて徘徊す
胡馬失其羣
胡馬
其の羣を失ひ
思心常依依
思心
常に依依たり
何況雙飛龍
何ぞ況んや
雙飛の龍
羽翼臨當乖
羽翼
當に乖(そむ)くべきに臨むをや
幸有絃歌曲
幸に絃歌の曲有り
可以喩中懐
以て中懐を喩ふ可し
請爲遊子吟
請うて遊子の吟を爲せば
●●一何悲
●●(れいれい)として一に何ぞ悲しき
絲竹窅芿聲
絲竹は芿聲を窅(はげ)しくし
慷慨有餘哀
慷慨して餘哀あり
長歌正激烈
長歌
正に激烈
中心愴以摧
中心
愴(そう)として以て摧(くだ)く
欲展清商曲
清商の曲を展(の)べんと欲して
念子不能歸
子の歸る能はざるを念ふ
俛仰内傷心
俛仰(ふぎょう)して内に心(しん)を傷(いた)ましめ
涙下不可揮
涙
下りて揮ふ可からず
願爲雙黄鵠
願はくば雙黄鵠と爲りて
送子倶遠飛
子を送って倶に遠く飛ばんことを
●・・・さんずい
+
「令」
レイ
空飛ぶ黄鵠も一たび遠く別れ去れば
千里の彼方からでも、後ふりかえり名残り惜しんで徘徊し
えびすの馬がそのなかまを離れると
ともを思うて、いつも心に恋いしたうという
まして君とわれとは、連れそうて飛ぶ龍の如き身であるのに
今や互いに翼を分かたねばならぬこととなっては、いっそうたえがたい
幸いにも、わが心中の悲しみをなぞろうべき絃歌の曲があるから
遊子故郷を思うの曲を歌わしてもらうと
すみきった声の何と悲しいことよ
糸竹の調べは、すんだ音色をはげしく高め
それが心のなげきをそそって悲しみはつきない
長い歌曲がすさまじくひびけば
心は痛んでくだけるばかり
この清調悲痛の曲をつづいて奏し、わが情をつくしたくは思ったが
ともに帰ることのできぬ黄身の身を思うと、このうえ歌う気にはなれない
むなしく天を仰ぎ、地に俯して心は痛み
はふりおちる涙を拭うすべすらない
できることなら二羽の黄鵠となり
君に連れそうてどこまでも飛んでゆきたいものを
★内田泉之助『古詩源』上, 集英社, 漢詩大系4
つづく
4175
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詩四首(二) 蘇武
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/23 23:27 投稿番号: [174 / 735]
詩四首(二)
蘇武(漢・前142〜前60)
妻に別れを述べる
結髪爲夫妻
結髪
夫妻と爲り
恩愛兩不疑
恩愛
兩(ふた)つながら疑はず
歡娯在今夕
歡娯
今夕に在り
燕婉及良時
燕婉
良時に及ばん
征夫懐遠路
征夫
遠路を懐ひ
起視夜何其
起って夜の何其(いかん)を視る
參辰皆已没
參辰
皆
已に没しぬ
去去從此辭
去去
此れより辭せん
行役在戦場
行役
戦場に在り
相見未有期
相見る
未だ期有らず
握手一長歎
手を握りて一たび長歎すれば
涙爲生別滋
涙は生別の爲に滋(しげ)し
努力愛春華
努力して春華を愛し
莫忘歡楽時
歡楽の時を忘るる莫れ
生當復來歸
生きては當に復た來り歸るべし
死當長相思
死しては當に長く相思ふべし
としごろとなり、そなたと夫婦となってから
互いに愛され、疑う心もなく、今日までくらしてきたが
喜び悲しみも今宵限りとなった
せめてまたなきこの一夜をあだにせず、むつみおうて過ごそう
旅立つわれ、行く先遠い路のりを思い
起ちあがって、夜のようすを見れば
星影はいつか消えて、はや暁(よあけ)に間近い
いざさらば、これより出かけるとしよう
我が身はお役で戦場に赴くことゆえ
また会う日はいつのことやら
かくて去りぎわに妻の手を握り、長く嘆息をもらせば
生き別れのために、涙はしきりに流れる
またいう、気をつけてその若い身そらをいつくしみ
楽しかったこの年月のことを忘れるなよ
命がありさえしたら、きっと再び帰ってくるぞ
もしもあの世に行ったなら、必ずいつまでも思いあおうぞ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
元服して
夫婦(めおと)となってより
互いの愛を疑わなかった
楽しみつくすも今宵かぎり
時をのがさず
睦みあおう
旅立つものは
前途をおもい
起ちあがり
更けゆく夜を伺う
星たちも
もうみな沈んだ
いよいよ今が
別れの時
使いして
戦場へ行けば
再会は
あてにはできぬ
手を握り
深いためいき
生身裂く別れに
涙はしとど
気をつけて
若い日を愛(いとお)しみ
睦みあった日々を
忘れまい
命があれば
帰りもしよう
命がつきても
思い思おう
4171
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詩四首(一) 蘇武
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/23 23:24 投稿番号: [173 / 735]
>在漢蘇武節
漢に在りては
蘇武の節<
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
詩四首(一)
蘇武(漢・前142〜前60)
これを蘇武の作とするには古来異説があり、後人の擬作とするのが定説に近い。
兄弟に別れを述べる
骨肉縁枝葉
骨肉
枝葉に縁(よ)り
結交亦相因
交りを結ぶも亦相因(よ)る
四海皆兄弟
四海皆兄弟
誰爲行路人
誰か行路の人と爲さん
況我連枝樹
況んや
我は連枝の樹
與子同一身
子と同じく一身なるをや
昔爲鴛與鴦
昔は鴛と鴦と爲り
今爲參與辰
今は參(しん)と辰(しん)と爲る
昔者長相近
昔者(むかし)は長く相近づきしに
●若胡與秦
●(ばく)として胡と秦との若(ごと)し
惟念當乖離
惟(ただ)念(おも)ふ
乖離するに當りて
恩情日以新
恩情
日に以て新(あらた)なるを
鹿鳴思野草
鹿鳴きて野草を思ふ
可以喩嘉賓
以て嘉賓に喩ふ可し
我有一尊酒
我に一尊の酒有り
欲以贈遠人
以て遠人に贈らんと欲す
願子留斟酌
願はくは
子
留まりて斟酌し
叙此平生親
此の平生の親を叙せよ
●・・・しんにょう
+
「貌」
バク
兄弟は同じ根から出た枝や葉と同じく
友だちもまたお互い頼りあうもの
古人も四海の内はみな兄弟だといったのであるから
誰でも路傍の人と見なすべきではない
ましてわたしと君とは枝をつらねた樹の如き
肉親の間柄なのだから、なおさらのことである
昔は鴛と鴦とのようによりそうてくらしたのに
今は東西あい隔たる參星(オリオンの三ツ星)と辰星(さそり座アンタレス)の如く遠ざかり
昔はいつも離れずに、あい親しんだのに
今は北の胡(えびす)と西の秦のように、はるか隔たる身となった
いよいよ別れるにあたっては
愛情のいやますを覚える
鹿が鳴いて野の草を求めるのを聞いて、賓客との宴会を思う詩がある
そのようにここで君を嘉賓とみなして、惜別の宴を張ろう
わたしにはここに一樽の酒がある
これをば遠く旅立つ君に贈ろう
君よ、どうぞしばらくとどまってこれを酌みかわし
平素のしたしみを心ゆくまでのべつくしてほしい
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
肉親は
枝と葉のような仲
友人もまた
互いに寄りそう
四海の人は
みな兄弟
誰も路傍の人ではない
まして二人は
枝を連ねた樹
君とは一心同体の間柄
かつては
つがいの鴛鴦だったが
今は參と辰の離れ星に
むかしはいつも
そばにいたのに
胡(えびす)と秦のごと
はるかに隔たる
別れの時に
ひたすらに思う
友情を日々に新たに
鹿は鳴きかわし
野の草を共に食む
そのように
君をお客に別れの宴を
ここにひと樽の酒がある
遠く旅立つ人に贈ろう
いましばらく
留まって酌み
来し方の
仲を語ろう
★解釈、上段は、内田泉之助『古詩源』上, 集英社, 漢詩大系4
★解釈、下段は、伊藤正文・一海知義編訳『漢・魏・六朝詩集』
平凡社, 中国古典文学大系16
>鹿鳴思野草
鹿鳴きて野草を思ふ<
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835412&tid=bbgmdb2vdbffcbeh&sid=1835412&mid=114168
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題楠公圖 南洲西郷隆盛
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/23 23:07 投稿番号: [172 / 735]
題楠公圖
南洲西郷隆盛(1827〜1877)
奇策明籌不可謨
奇策明籌
謨(はか)る可からず
正勤王事是眞儒
正に王事に勤むる
是れ眞儒
懐君一死七生語
懐う
君が一死七生の語
抱此忠魂今在無
此の忠魂を抱くもの
今在りや無しや
作戦は奇抜で戦略に明るい、そうした楠公の大きさは常人には測りがたい
しかも、ひとえに天子のために力をつくす、これこそ真の儒者といえる
楠公兄弟が死に臨んで、「七たび生まれかわっても朝廷につくそう」
と語ったことが偲ばれる
これほどの忠心をいだいている者が、今の世にいるだろうか
★作年未詳。
楠木正茂に批判的な論もあり、それに対する一種の反論とみられる。
★坂田新『志士』江戸漢詩選4, 岩波書店
4007
これは メッセージ 171 (ajisai110701 さん)への返信です.
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櫻井駅圖贊 南洲西郷隆盛
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/23 22:49 投稿番号: [171 / 735]
櫻井駅圖贊
南洲西郷隆盛(1827〜1877)
櫻井駅の圖の贊
慇懃遺訓涙盈顔
慇懃たる遺訓
涙
顔に盈つ
千載芳名在此間
千載の芳名
此の間に在り
花謝花開櫻井駅
花は謝(ち)り花は開く
櫻井の駅
幽香猶逗舊南山
幽香
猶お逗(とど)む
舊南山
楠木正茂は、一子正行に我が死後のことを諄々と教えさとしたが、
その時、顔には涙があふれていた
楠公父子の忠節は、この地に永遠に伝わるものとなった
毎年毎年、桜井の駅に、桜が咲き、桜が散ってゆく
そのほのかな香りは、かつて父子が忠義をつくした吉野山に
今もなお移りただよっているのだ
★作年未詳。
勤皇家として知られた画家菊池容斎の「桜井気楠公父子決別圖」に
書きつけた詩。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%AE%B9%E6%96%8E★坂田新『志士』江戸漢詩選4, 岩波書店
★太平記巻第十六○正成下向兵庫事
S1610
http://www.j-texts.com/taihei/tk16.html正成是(これ)を最期の合戦と思(おもひ)ければ、嫡子(ちやくし)
正行(まさつら)が今年十一歳にて供(とも)したりけるを、思ふ様(やう)
有(あり)とて桜井の宿(しゆく)より河内へ返し遣(つかは)すとて、
庭訓(ていきん)を残しけるは、「獅子(しし)子を産(うん)で三日を
経(ふ)る時、数千丈(すせんぢやう)の石壁より是(これ)を擲(なぐ)。
其(その)子、獅子の機分(きぶん)あれば、教へざるに中(ちゆう)より
跳(はね)返りて、死する事を得ずといへり。
況(いはん)や汝(なんぢ)已(すで)に十歳に余(あま)りぬ。
一言(いちごん)耳に留らば、我教誡(わがけうかい)に違ふ事なかれ。
今度の合戦天下の安否(あんぴ)と思ふ間、今生(こんじやう)にて
汝(なんぢ)が顔を見ん事是(これ)を限りと思ふ也(なり)。
正成已に討死すと聞なば、天下は必ず将軍の代に成(なり)ぬと心得べし。
然りと云共(いへども)、一旦(いつたん)の身命を助らん為に、多年の忠
烈を失(うしなひ)て、降人に出(いづ)る事有(ある)べからず。
一族若党(わかたう)の一人も死残(しにのこり)てあらん程は、
金剛山(せん)の辺(へん)に引篭(こもつ)て、敵寄来(よせきた)らば
命を養由(やういう)が矢さきに懸て、義を紀信(きしん)が忠に比すべし。
是(これ)を汝が第一(だいいち)の孝行ならんずる。」と、
泣々(なくなく)申(まうし)含めて各東西へ別(わかれ)にけり。
.
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獄中作(三首) 橋本佐内
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/23 22:20 投稿番号: [170 / 735]
獄中作(三首)
橋本佐内(1834〜1859)
(一)
苦冤難洗恨難禁
苦冤洗い難く
恨み禁じ難し
俯則悲痛仰則吟
俯しては則ち悲痛
仰ぎては則ち吟ず
昨夜城中霜始殞
昨夜
城中
霜始めて殞(お)つ
誰知松柏後凋心
誰か知らん
松柏
後凋(こうちょう)の心を
全く無実の罪であるのに、その嫌疑を晴らすこともできず、
痛恨の思いを止めがたい
地に俯しても悲痛を嘆き、天を仰いでも胸中の苦しみにうめく日々だ
昨夜は江戸の町にも今年はじめての霜が降りた
寒中の霜を経て他の木々はみな枯れしぼむなかで、
かわらぬ緑をたもち続ける松柏の操を、
誰か分かってくれるものがあるだろうか
★「松柏」は墓木です。
(二)
二十六年如夢過
二十六年
夢の如く過ぐ
顧思平昔感滋多
顧みて平昔を思えば
感
滋(ますます)多し
天祥大節嘗心折
天祥の大節
嘗て心折す
土室猶吟正気歌
土室
猶お吟ず
正気の歌
今日までの二十六年間、歳月は夢のように過ぎてしまった
往時をかえりみれば感慨はいよいよ深い
かねて文天祥の節義には感服してきたものだ
土牢ののなかに囚われの身となっても、
なお昂然と「正気の歌」を吟じていたのだから
★大節・・・元に降伏することなく死刑となっていった文天祥の立派な節義
(三)
欹枕愁人愁夜永
枕を欹(そばだ)てて
愁人
夜の永きを愁う
陰風刺骨拆三更
陰風
骨を刺して
三更を拆(う)つ
皇天憶応憐幽寂
皇天
憶うに応に幽寂(ゆうせき)を憐れむなるべし
一点星華照●明
一点の星華
●(まど)を照らして明らかなり
●
片(かたへん)十五画のまど・れんじまどという字です。
ユウ
愁い深き囚人は、眠られぬまま枕を斜めにして、
夜明けの遠いことにまた愁いを深めている
北風の冷たさが骨に沁みとおる中、三更を知らせる拆(き)が聞こえる
それでも、天はこの囚人の寂しさを憐れんで下さったのであろう
美しい星がひとつ、窓を照らして輝いている
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★安政六年(1859)の作。二十六歳。
この年十月二日、評定所へ呼び出されて尋問を受けた後、
そのまま伝馬町の獄に下ることを命ぜられた。
十月七日、幕府は佐内に死罪を言い渡し、即日処刑が執行された。
佐内は藩主松平春嶽の指示のままに奔走したのであって、
いわば臣下の本分をつくしたということができ、幕閣の多くも死罪に
相当するような罪状ではないと判断したようだが、大老井伊直弼ひとりの
意向に従って処断されたと伝えられる。
幕府の死罪申し渡し状(『橋本景岳全集』所収)では、一倍臣の身で
ありながら将軍後嗣の決定に関して京都の公家たちに説いてまわったことは
「公儀を憚らざる仕方」で不届きであるということであった。
詩は獄中にある数日の間に作られたもの。
★坂田新『志士』江戸漢詩選, 岩波書店
4123
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Re: 和文天祥正気歌并序 藤田東湖
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/23 00:09 投稿番号: [169 / 735]
荏苒二周星
荏苒(じんぜん)
二周星
唯有斯気随
唯だ斯の気の随う有るのみ
嗟予雖万死
嗟(ああ)
予(われ)
万死すと雖も
屈伸付天地
屈伸
天地に付す
生死復奚疑
生死
復(ま)た奚(なん)ぞ疑わん
生当雪君冤
生きては当(まさ)に君冤を雪(そそ)ぎ
復見張綱維
復た綱維を張るを見るべし
死為忠義鬼
死しては忠義の鬼(き)と為り
極天護皇基
極天
皇基を護らん
こうして二年の歳月が過ぎたが
ただこの正気だけが私の身につき従っているのである
藩公を補佐しえなかった私の罪は万死にあたいするが、たとえ死んだとしても
正気よ、汝と離れていられようか
我が身のなりゆきは天地に任せたもの
生きようが死のうが、もはや何の迷いもない
生きてあるならば藩公の冤罪をそそぎ
正気によって世道人倫が再び健全に輝く姿を示さねばならない
もし死を迎えるならば、正気は我が魂に凝(あつま)って忠義の鬼となり
天地の尽きるまで皇国を護持するのだ
★屈伸付天地・・・
東湖の身の上がいよいよ抑圧されるか(屈)、自由になっていくか(伸)、
それを決定する権利は天地に付与した。この先の我が身は、なるに任せた。
★生死復奚疑・・・
文天祥「正気の歌」に「生死安んぞ論ずるに足らん」とあるのと同じ心持ち。
奚は、何と同じ、反語の辞。疑は、ためらい迷うこと。
★復見張綱維
綱も維も、太い綱で、国家を維持する根本となる道にたとえる。
より具体的には、三綱四維として数え上げることができ、
三綱は君臣・父子・夫婦の正しいあり方、四維は礼・義・廉・恥。
ふたたび三綱四維の道が盛大となるのを見るとは、
水戸斉昭の冤罪が晴れる日がきたならば、それは正気のはたらきによって
国家に基本的な道義が恢復することになるからである。
★鬼・・・死者の霊魂であって、日本でいうオニではない。
★極天・・・
通常は大空のいちばん高いところ、どこまでも、の意であるが、ここは
空間的な究極を時間的に転用して、永遠に、いつまでも、の意かと思われる。
★護皇基
皇基とは、国家存立の基盤となる天子による統治の事業をいう。
そこで、皇基を護るとは、国家を護るというに等しい。
★坂田新『志士』江戸漢詩選4, 岩波書店
4119
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Re: 和文天祥正気歌并序 藤田東湖
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/23 00:05 投稿番号: [168 / 735]
承平二百歳
承平
二百歳
斯気常獲伸
斯の気
常に伸ぶるを獲たり
然当其鬱屈
然れども其の鬱屈に当たりては
生四十七人
四十七人を生ず
乃知人雖亡
乃(すなわ)ち知る
人亡ぶと雖も
英霊未嘗泯
英霊
未だ嘗て泯(ほろ)びず
長在天地間
長(とこしな)えに天地の間に在りて
隠然叙彜倫
隠然として彜倫(いりん)を叙(つい)ずるを
孰能扶持之
孰(たれ)か能(よ)く之を扶持(ふじ)す
卓立東海浜
卓立す
東海の浜(ひん)
忠誠尊皇室
忠誠
皇室を尊び
孝敬事天神
孝敬
天神に事(つか)う
修文与奮武
文を修むると武を奮うと
誓欲清胡塵
誓って胡塵を清めんと欲す
一朝天歩艱
一朝
天歩艱(かた)く
邦君身先淪
邦君
身先ず淪(しず)む
頑鈍不知機
頑鈍
機を知らず
罪戻及孤臣
罪戻
孤臣に及ぶ
孤臣困葛●
孤臣
葛●(かつるい)に困(くる)しみ
君冤向誰陳
君冤
誰に向かってか陳(の)べん
孤子遠墳墓
孤子
墳墓に遠ざかり
何以謝先親
何を以てか先親に謝せん
●・・・くさかんむり
+
「田」が三つ
徳川幕府が開かれてより、太平の続くこと二百年
正気は、この間つねに人の世に伸び広がっていった
そうはいっても、時にこの正気も結ぼれて世に現れぬかと見えたことも
あったがその時に、赤穂義士四十七人を生じたのである
かくして、人の肉体は死によって亡びるが
人が宿していた英霊は決して滅びることはない
永遠に天地の間にあって、
隠然として人の世の道義を確立しているのだと知られる
それならば今日、誰が主となってこの正気を支え保ってゆくのか
それは東海のほとりの人傑、水戸斉昭公である
その忠誠のまごころは厚く皇室を尊び
孝敬の誠をつくして天の神につかえている
学問を盛んにするとともに国土防衛の志気を奮い起こし
日本を窺う夷狄の野心を一掃してやろうと誓っている
しかるに、にわかに困難な時運に遭遇して
藩公自身がまず真先に蟄居謹慎を命ぜられてしまったのである
愚かなる私は、その幾(きざ)しを未然に察することもできず
藩公ばかりか我が身までもが罪を獲るにいたった
斉昭公からも引き離された私は、不自由をかこつ閉門のなか
斉昭公の冤罪を誰にむかって訴えたらよいのか
今は父も亡きこの私は、故郷の墓所から遠く離れた江戸での蟄居
亡き父上に詫びようとしても、そのすべさえない
★承平・・・太平を承け継ぐ意で、平和の続くこと。
★二百歳
寛永十五年(1638)に島原の乱が終結して後、もはや大きな戦はなく、
東湖がこの詩を作った弘化二年(1845)まで、ほぼ二百年あまりを経ている。
★清胡塵・・・外国からもたらされる汚れを払う。
胡は、中国西北地域の異民族の総称で、やがてひろく外国をいうに用いる。
この句は、水戸藩主斉昭が攘夷の主唱者であったことを指す。
★弧臣・・・主君から見捨てられたり、遠く引き離されたりしている家臣。
★困葛●・・・葛●は蔓草(つるくさ)。
蔓草にまつわりつかれるように、束縛に困しむ。
★弧子・・・父母もしくは父のない子供。
東湖の父幽谷は文政九年(1826)に没している。
つづく
4118
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Re: 和文天祥正気歌并序 藤田東湖
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 21:43 投稿番号: [167 / 735]
或投鎌倉窟
或いは鎌倉の窟(いわや)に投じ
憂憤正●●
憂憤
正に●●(うんうん)たり
或伴桜井駅
或いは桜井の駅に伴い
遺訓何慇懃
遺訓
何ぞ慇懃たる
或殉天目山
或いは天目山に殉じ
幽囚不忘君
幽囚
君を忘れず
或守伏見城
或いは伏見城を守り
一身当万軍
一身
万軍に当る
●・・・りっしんべん
+
員
正気は、時には鎌倉の土窟に投ぜられて最期を迎える護良親王の思いの中に
凝集し、親王は国の前途を憂憤して悲痛をきわめた
楠木正成は兵庫の桜井の駅まで子の正行を伴ってきたが、
ここでの合戦に死を覚悟して、子の正行には故郷の河内に帰ることを命じ、
教え諭す言葉はいともねんごろであった
戦国時代の末には甲斐の武田勝頼が戦い敗れて天目山に追い詰められて
ゆく時、勝頼に疎まれ幽閉されていた小宮山内膳が、主君を忘れることなく
駆けつけ勝頼に殉じようとし、ついに戦死したこともあった
また、石田三成が徳川家康を討たんと挙兵した時、徳川の老臣鳥居元忠は
僅か一千八百名で伏見城を守っていたが、押し寄せる三万余の大阪勢を
迎えて、みごとに十日間を支えきって討ち死にした
一人の身で万余の敵に当るはたらきであった
すべて正気の発露である
つづく
4115
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Re: 和文天祥正気歌并序 藤田東湖
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 21:35 投稿番号: [166 / 735]
忽揮龍口剣
忽(たちま)ち龍の口の剣を揮い
虜使頭足分
虜使
頭足分かる
忽起西海颶
忽(たちま)ち西海の颶(ぐ)を起こし
怒涛殲妖氛
怒涛
妖氛を殲(つく)す
志賀月明夜
志賀
月明の夜
陽為鳳輦巡
陽(いつわ)りて鳳輦(ほうれん)の巡ると為す
芳野戦酣日
芳野
戦い酣(たけなわ)なるの日
又代帝子屯
又た帝子の屯(ちゅん)に代わる
元が無礼な通告をしてきた時には、正気がたちまち発現して鎌倉龍口にて
忽必烈(フビライ)の使者を斬り捨て、ために使者の五体はばらばらとなった
また、いよいよ元軍が来寇した時には、たちまち戦場となった西海に
台風を巻き起こし怒涛は敵船を呑み込んで胡賊の妖気を殲滅した
北条高時の軍が都に後醍醐天皇を攻めた時には、
藤原師賢は志賀の浦に輝く月を眺めつつ
天子の御輦(みくるま)が比叡山に巡幸したと見せかけて
叡山の僧徒を感奮させた
また、吉野山での激戦の日には、正気の現れは
村上義光が後醍醐天皇の皇子護良親王の身代わりとなって
危難を救うことにもなった
つづく
4112
〔参考〕
★『太平記』巻二「師賢登山の事」
★『太平記』巻七「吉野城軍の事」
http://www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html
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Re: 和文天祥正気歌并序 藤田東湖
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 21:19 投稿番号: [165 / 735]
乃参大連議
乃(すなわ)ち大連(おおむらじ)の議に参じては
侃侃排瞿曇
侃侃として瞿曇(ぐどん)を排す
乃助明主断
乃ち明主の断を助けては
●●焚伽藍
●●(えんえん)として伽藍を焚(や)く
中郎嘗用之
中郎嘗て之を用い
宗社磐石安
宗社
磐石安し
清丸嘗用之
清丸(きよまる)嘗て之を用い
妖僧肝胆寒
妖僧
肝胆寒し
●・・・「陥」のつくり(へん)
+
「炎」(つくり)
すなわち、正気は欽明朝で仏教受容の可否が論ぜられた時、
大連である物部尾輿の仏教排撃論に現れ、堂々と譲ることなく仏教を排撃した
あるいはまた敏達朝では、疫病が流行したのは仏教礼拝の祟りであるとする
物部守屋らの上奏に正気は現れ、明敏なる天皇が仏殿焼却の断を下すのを助けた
炎炎たる火は伽藍を焼き払ったものだ
かつて中臣鎌足はこの正気をもって
大化の改新に参じて国家を磐石の安きに置いた
また和気清麻呂もこの正気をもって、
妖僧道鏡の心肝を寒からしめた
★瞿曇(ぐどん)・・・
釈迦の姓ゴータマ(梵語)の音を写した漢訳。
ひろく仏家、仏教を意味する。
★宗社・・・
宗廟と社稷。宗廟には天子の先祖を祭り、社稷には土地と穀物の神を祭る。
ともに国家にとって重要な祭祀であることから、宗社をひろく国家の意にも用いる。
★清丸・・・
和気清麻呂。神護景雲三年(769)、道鏡が天子の位を窺おうとした時、
宇佐神宮に使いして神託を受け、道鏡の野心を阻止した。
つづく
4109
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Re: 和文天祥正気歌并序 藤田東湖
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 21:16 投稿番号: [164 / 735]
神州孰君臨
神州
孰(たれ)か君臨せる
万古仰天皇
万古
天皇を仰ぐ
皇風洽六合
皇風
六合に洽(あまね)く
明徳祈太陽
明徳
太陽に祈(ひと)し
不世無汚隆
世として汚隆(おりゅう)無くんばあらざるも
正気時放光
正気
時に光を放つ
この日本には誰が君臨しているのか
それは、古来永遠に天皇を主君と仰いできたのであった
天皇による教化は天地四方にあまねく行きわたり
そのすぐれた徳は太陽にもひとしい
それでも時代によって世が栄えたり衰えたりしたことも無いではないが
正気がその時々に顕現して光りを放つのであった
★六合(りくごう)・・・東西南北天地。空間的全世界。
★汚隆(おりゅう)・・・序にも「神州之汚隆繋焉」とあります。
「紫陽花亭日乗」161 です。
神州之汚隆繋焉。
神州の汚隆(おりゅう)、焉(これ)に繋(かか)る。
日本が栄えるか衰えるかに関わっている。
とあります。
つづく
4106
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Re: 和文天祥正気歌并序 藤田東湖
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 21:11 投稿番号: [163 / 735]
天地正大気
天地正大の気
粋然鍾神州
粋然として神州に鍾(あつ)まる
秀為不二嶽
秀でては不二の嶽(みね)と為り
巍巍聳千秋
巍巍として千秋に聳ゆ
注為大瀛水
注いでは大瀛の水と為り
洋洋環八洲
洋洋として八洲を環(めぐ)る
発為万朶桜
発しては万朶の桜と為り
衆芳難与儔
衆芳与(とも)に儔(たぐ)い難し
凝為百錬鉄
凝りては百錬の鉄と為り
鋭利可断●
鋭利
●(かぶと)を断つ可し
○臣皆熊羆
○臣(じんしん)は皆熊羆(ゆうひ)にして
武夫尽好仇
武夫は尽く好仇なり
●・・・かぶと。「鑿」に似た字。
○・・・じん。くさかんむりの下に「盡」。
天地間の正大の気は、
純粋なままに日本に集まっている
高く秀でては富士山となって、
いつの世にも威容を聳えさせている
水となって注げば海原に流れ入り、
はるばると大八洲(おおやしま)を環(めぐ)る
花と開けば万朶の桜となり、
その美しさは他のどの花も及びがたい
鉄に凝集すれば、百たびも打ち鍛えられた日本刀となって、
その鋭さは兜をも断ち切ることができる
こうした正気が人に集まって忠義の臣はみな熊や羆のごとくに健(たけ)く、
武夫(もののふ)はことごとく主君の頼もしき腹心となる
★不二嶽・・・富士山。並びなき山という意味で富士の音を不二と写した。
つづく
4103
これは メッセージ 162 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 和文天祥正気歌并序 藤田東湖
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 21:08 投稿番号: [162 / 735]
〔原文〕
天祥曰、浩然者、天地之正気也。余広其説曰、正気者、道義之所積、
忠孝之所発。然彼所謂正気者、秦漢唐宋、変易不一。我所謂正気者、
亘万世而不変者也、極天地而不易者也。因誦天祥歌、又和之以自歌。歌曰、
〔訓読〕
天祥曰く、浩然たる者は、天地の正気なり、と。
余、其の説を広めて曰く、正気なる者は、道義の積む所、忠孝の発する所なり、と。
然れども彼の所謂(いわゆる)正気なる者は、秦漢唐宋、変易一ならず。
我の所謂正気なる者は、万世に亘(わた)りて変ぜざる者なり、
天地を極めて易(かわ)らざる者なり。
因(よ)りて天祥の歌を誦し、又た之に和して以て自ら歌う。歌に曰わく、
〔解釈〕
文天祥は「雄々しく満ちわたる浩然の気、それが天地の正気である」と言っている。
私がそれを敷衍していえば、正気とは道義の積み重なったものであって、
忠孝もそこから生じてくるものである。
ただし、文天祥のいう中国での正気は、秦・漢・唐・宋と、
王朝が変るたびに現れかたが変化する。
私のいう日本での正気は、万世にわたって不変であって、
天地の週末にいたるまでも変らぬものである。
かように考えつつ、文天祥の「正気の歌」を朗誦し、
さらにこれに和して自らも歌を作った。歌は次の通り。
★秦漢唐宋、変易不一
易姓革命による王朝交代をかさねてきた中国では、たとえば秦朝への忠義は
漢朝への不忠となって、正気の現れかたがそれぞれの立場によって異なってしまう。
つづく
4092
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Re: 和文天祥正気歌并序 藤田東湖
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 20:51 投稿番号: [161 / 735]
〔原文〕
夫天祥値宋社傾覆、身囚於胡虜。実臣子之至変。若彪被幽、則特一時之奇禍。
其事与跡、皆大不同。然古人有云、死生亦大矣。今彪之困阨、既已若此
而人猶或不以慊於意、曰、何不遂賜死。曰、何不早自裁。彪之所以出入於死生間、
亦復如此。而頑乎不変、自信愈厚者、未始不与天祥同也。嗚呼、彪之生死、
固不足道。至於公之進退、則正気之屈伸、神州之汚隆繋焉。
豈特一時奇禍之云乎哉。
〔訓読〕
夫(そ)れ天祥は宋社の傾覆に値(あ)い、身は胡虜に囚わる。実に臣子の至変なり。
彪の幽せらるるが若(ごと)きは、則ち特に一時の奇禍なるのみ。
其の事と跡と、皆大いに同じからず。
然れども古人云う有り、死生も亦た大なり、と。
今、彪の困阨(こんやく)、既に已に此(かく)の若し。
而れども人猶お或いは以て意に慊(あきたら)ずして、曰わく、
何ぞ遂に死を賜わらざる、と。曰わく、何ぞ早く自裁せざる、と。
彪の死生の間に出入する所以(ゆえん)も、亦た復(ま)た此の如し。
而(しか)も頑乎(がんこ)として変せず、自ら信ずること愈々(いょいよ)厚き者は、
未だ始めより天祥と同じからずんばあらざるなり。
嗚呼(ああ)、彪の生死は、固(もと)より道(い)うに足らず。
公の進退に至りては、則ち正気の屈伸、神州の汚隆(おりゅう)、
焉(これ)に繋(かか)る。
豈(あ)に特(ただ)に一時の奇禍とのみ之(これ)云わんや。
〔解釈〕
そもそも文天祥は南宋の滅亡に際会し、その身は胡虜に囚われてしまった。
一国の臣下としては、この上なき変事であった。
自分が幽閉されたことなどは、、単に一時の災難であるに過ぎない。
その状況もその行動も、いずれも大違いである。
しかしながら、古人の語にも「死生は人の大事である」と言い、今のところ、
彪の苦難は上に述べた通りであるが、人々の中にはまだ飽きたらぬとして、
「なにゆえ早く切腹を申し付けられぬのか」、「なにゆえ早く自決せぬのか」と、
言う者もある。
私も死生の間を行き来していることになるというのは、
こうした状況にあるからである。
しかも、その中にあって志をかたくなに変えることなく、
信念をますます強めているのは、まったく文天祥と異なるところはない。
ああ、我が生死などは、もとより言うに足りぬ。
だが水戸公の進退ということになると、これは、正気が伸びるか塞がるか、
日本が栄えるか衰えるかに関わっている。
どうして単に一時の災難に過ぎぬなどと言っておられよう。
つづく
4080
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Re: 和文天祥正気歌并序 藤田東湖
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 20:43 投稿番号: [160 / 735]
〔原文〕
彪年八九歳、受文天祥正気歌於先君子。先君子毎誦之、引盃撃節、慷慨奮発、
談説正気之所以塞天地、必推本之於忠孝大節、然後止。距今三十餘年。
凡古人詩文、少時所誦、十忘七八。至於天祥歌、則歴歴暗記、不遣一字。
而先君子言容、宛然猶在心目。彪性善病。
去歳従公駕而来也、方患感冒、力疾上途。及公獲罪、彪亦就禁錮。
風窓雨室、湿邪交侵、非衣疏食、飢寒並至。其辛楚艱苦、常人所難堪。
而宿痾頓癒、体気頗佳。睥睨宇宙、叨与古人相期者、蓋資於天祥歌為多。
〔訓読〕
彪、年八九歳、文天祥の正気歌を先君子に受く。
先君子、之を誦する毎に、盃を引き節を撃ち、慷慨奮発し、正気の天地に
塞(み)つる所以を談説して、必ず之を忠孝大節に推本し、然る後止(や)む。
今を距(へだ)つること三十餘年なり。
凡(およ)そ古人の詩文、少時誦する所、十に七八を忘る。
天祥の歌に至りては、則ち歴歴として暗記し、一字を遣(わす)れず。
而して先君子の言容、宛然として猶お心目に在り。
彪、性善く病む。
去る歳(とし)、公の駕に従いて来たるや、
方に感冒を患うも、疾(やまい)を力(つと)めて途(みち)に上る。
公の罪を獲(う)るに及びて、彪も亦た禁錮に就く。
風窓雨室、湿邪交々(こもごも)侵し、非衣疏食、飢寒並び至る。
其の辛楚艱苦、常人の堪え難しとする所なり。
而るに宿痾頓(とみ)に癒え、体気頗る佳なり。
宇宙を睥睨して、叨(みだ)りに古人と相期する者は、
蓋し天祥の歌に資(と)るを多しと為す。
〔解釈〕
私は八九歳の時、文天祥の「正気の歌」を亡き父上から教えられた。
父上がこの詩を吟ずるおりには、いつも酒杯を手にして、
一方で拍子を取り、悲憤慷慨していたものだ。
そして、正気が大地の間に充満するわけを説き、
その正気の源は忠孝の大節に由来することに及んで、話が終わるのであった。
今から三十数年も前のことになる。
だいたい、子供のころに読んでいた古人の詩文は、十のうち七八を忘れてしまって
いるが、文天祥の「正気の歌」だけははっきりと覚えていて、一字も忘れていない。
しかも当時の父上の言葉や容貌までが、そのままに今も胸に留まり目に浮かぶ。
自分は生来病気がちで、去年、水戸公(斉昭)のお供をして江戸へ上る時にも、
ちょうど感冒にかかっていたが、病む身をつとめて旅立ったのである。
やがて水戸公が幕府のお咎めを受けることになってしまい、
私もまた閉門蟄居の身となった。
風が吹きこみ雨が降りこむ居室は、じめじめとして澱んだ空気が入りこんで、
粗衣粗食で過ごす身には飢えと寒さが迫り来る。
その艱難辛苦は、常人の耐えがたいところである。
ところが、年来の病はにわかに癒え。体調はすこぶる佳い。
古今東西を昂然と睨み据えて、我が輩は古えの人傑にも
匹敵するのではないかと愚かにうぬぼれたりするのは、
思えば文天祥の歌を吟唱していたお蔭であるのかもしれない。
つづく
4062
.
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和文天祥正気歌并序 藤田東湖
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 20:35 投稿番号: [159 / 735]
和文天祥正気歌并序
藤田東湖(1806〜1855)
弘化二年(1845)の作。四十歳。
江戸小梅村(東京都墨田区)の水戸藩下屋敷で幽閉生活を送る中での詩で、
東湖の代表作とされる。
和とは、通常は別人の詩に韻をあわせて(同じ韻字もしくは同じ韻目に
属する字を用いて)詩を作ることをいい、詩人間で詩を贈答するおりに
行われる他、敬愛する古人の作品に和することもある。
ただし、この藤田東湖の和詩は、詩全体の構成において文天祥「正気の歌」
を踏襲することはしているものの、押韻では文天祥の押韻とは全く関係なく
独自な展開をし、したがって一詩の句数も、文天祥の作は六十句であるのに
対して、本詩は七十四句となっている。
もっとも広い意味での唱和の詩ということになる。
文天祥は南宋末の宰相。
二十歳で科挙に第一位の成績で合格。
その後の官僚としての生活は南下する蒙古軍(元)との抗戦に費やされた。
次々と南宋の拠点が陥落してゆく中、勤皇の兵を募って各地に転戦したが、
1278年、蒙古軍に捕えられた。
元では南宋との最後の会戦をひかえた崖山(広東省新会県の南)へ連行して
南宋軍に降伏を勧める文章を書くことを要求したが、堅く拒否した。
南宋滅亡後、元に仕えることも拒み、大都(北京)で獄中に囚えられること
三年、ついに死刑となった(1283年、47歳)。
「正気の歌」は、その獄中での作。
この文天祥は、岳飛とともに南宋滅亡時に節義を全うした殉国の英雄
として、中国では今日に至るまで慕われ続けており、
その詩文は『文文山集』としてまとめられている。
日本でとりわけ広くその事跡が知られるようになるのは、
幕末の志士にもよく読まれていた浅見絅斎『靖献遺言』の巻五に
取り上げられていることによる影響が大きいであろう。
詩の構成は文天祥の「正気の歌」をほぼ踏襲して、
中間には日本の歴史を通じて正気発現の事例を列挙する形を取る。
はじめに添えられた長文の序とともに数節に分かって訳注する。
つづく
4055
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士爲知己者死、女爲説己者容
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 20:27 投稿番号: [158 / 735]
『史記』刺客列伝第二十六
第三話「豫譲」(よじょう)
前五世紀
豫譲はもと晉の卿である范氏と中行氏に仕えていたが、認められなかった
ので同じ晉の卿である智伯に仕えた。智伯は豫譲を尊敬し厚遇した。
智伯はやがて趙襄子・韓氏・魏氏に滅ぼされ子孫も絶滅せられ領土もなくした。
智伯の頭蓋骨は漆塗りの飲器にされた。
豫譲は山中に隠れた。ここに豫譲のセリフがある。
「嗟乎、士爲知己者死、女爲説己者容」
(ああ、士は己を知る者のために死し、
女は己をよろこぶ者のためにかたちづくる)
豫譲は姓名を変え刑罰を受けた人になりすまし、
趙襄子の屋敷の厠の壁塗りになった。
匕首(ひしゅ)を隠し持ちそこで趙襄子を刺そうというのだ。
趙襄子は厠に行き「心動」(胸騒ぎ)を覚えた。そこで壁塗りを詰問すると
それは豫譲だった。趙襄子は豫譲を義人として許し放した。
しばらくして豫譲は癩病患者を装い、炭を飲んで声をつぶし
誰だかわからないようにして乞食となった。
妻も見てそれと気づかなかった。
趙襄子の外出にあたり、豫譲は沿道の橋の下にひそんだ。
趙襄子がその橋までくると馬が驚きそれと気づいた。
趙襄子ももはや豫譲を許すことができなかった。
豫譲は趙襄子に請うてその衣服をもらい、
剣を抜いて三たびこれを斬り主君・智伯の仇討ちの代わりとし、
その後、剣の上にわれとわが身を伏して死んだ。
その後四十餘年を経て、聶政(じょうせい)の事件があった。
★匕首・・・短剣。「匕」は食物をすくう杓子で、
剣の柄頭(つかがしら)がこれに似ているので「匕首」というそうです。
日本では「あいくち」にこの字をあてますが、それと同じものかどうかは、
どちらも実物を見たことがないのでわかりません。
★「飲器」については、二つの意味があります。「酒器」と「便器」と。
この場合、「酒器」でいいと思います。
織田信長と明智光秀の頭蓋骨の故事を彷彿とさせます。
織田信長は、もしかしたら、この故事にならったのでしょうか。
615
これは メッセージ 157 (ajisai110701 さん)への返信です.
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人固有一死、死有重於泰山,、或輕於鴻毛
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 20:25 投稿番号: [157 / 735]
首相の「脱原発」は鴻毛より軽い
海江田経産相が批判関連トピックス
菅直人原子力発電所参議院選挙.参院予算委で答弁のため挙手する
海江田万里経産相。手のひらに「忍」の文字が書かれていた
=21日午前11時41分、国会内、仙波理撮影
asahi com
「羽毛」より軽い首相の言葉を「忍」の一字でじっと耐える――。
海江田万里経済産業相は21日の参院予算委員会で、こんな心境をのぞかせた。
「内閣で一致した言葉でないなら一私人の言葉だ。
それは『鴻毛(こうもう)』より軽い」。
海江田氏は自民党議員への答弁で中国の歴史家・司馬遷の言葉を引いた。
鴻毛は鴻(おおとり)の羽毛の意で極めて軽いことの例え。
菅直人首相が会見で「脱原発」を表明しながら、
後で「個人的な考え」としたのを批判したものだ。
海江田氏はさらに司馬遷の言葉を用い
「総理の言葉は、内閣が一致しての発言なら『泰山(たいざん)』
(中国・山東省にある山)より重い。総理発言は泰山より重くあって欲しい」。
また首相の対応に不満を募らせ、辞意も固めた海江田氏は左手に
「忍」と書いて質疑に臨んだ。
「国会に平常心で臨むよう自分に言い聞かせるため」という。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★上記のことばは、司馬遷の有名な言です。
「報任少卿書」の半ばより少しあとのほうに記述があります。
人固有一死, 死有重於泰山, 或輕於鴻毛,
人 固(もと)より一死有り、 死は泰山より重く、或いは鴻毛より輕きに有り、
ひとはもとより死ぬるものではあるが、
或いは、その死は泰山よりも重い場合もあるし、
或いはまた、その死は鳥の羽毛より軽い場合もある。
★また、「報任少卿書」のすぐ最初のほうに、
士爲知己用, 女爲説己容。
士は己を知るものの爲に用い、
女は己を説(よろこば)すものの爲に容(かたち)づくる。
とあります。(認知・不認知)
「報仁少卿書」は、衛皇太子による巫蠱の乱に連座して死刑の判決を
受けた仁安からの、とりなし依頼の手紙へのことわりの返信です。
司馬遷が腐刑という、男として最大の屈辱を忍んでまで、
なぜ『史記』を完成させたかったのか、
これらの記述は『史記』を通して流れる二大テーマではないかと思います。
★原文は、『漢書』九, 傳〔三〕, 中華書局,
漢書巻六十二, 司馬遷傳第三十二
より転載。
『文選』に収録されているものと、文章に少し異同があるようです。
つづく
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「台湾 中国領のよう」 中学地図帳、
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 00:54 投稿番号: [156 / 735]
「台湾
中国領のよう」
中学地図帳、交流団体が質問書
産経新聞 7月21日(木)7時55分配信
今年3月に文部科学省の検定を受けた中学社会の地図帳で、台湾が中国領の
ように表記されているのは問題だとして、日台交流を進める民間団体「日本
李登輝友の会」(小田村四郎会長)は20日、表記に至った経緯や見解を求める
質問書を、文科省と発行した東京書籍、帝国書院に提出したことを明らかにした。
両社の地図帳では、台湾と中国の間に国境線などを示す破線などがなく、
中国領のように受け取れる表記になっている。
さらに、東京書籍の地図帳では、日本が昭和20年に台湾を中国に
返還したと記載。世界の大都市人口の表でも都市名の後に「(台湾)」
と付記しながらも、中国の都市として台北と高雄を表記した。
同会では「領土に関する解釈の違いではなく、事実として間違っている。
近隣諸国への配慮から表記しているのであれば、事実を歪曲(わいきょく)
する深刻な事態だ」と話している。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
わたしの学生時代の教科書もその多くが「中国・台湾省」と表記されており
複雑な思いを持っておりましたが、なにぶん学生ですから確固たる議論が
できるほどの知識もなく、何も言えませんでした。
蒋介石ひきいる国民党が台湾に逃げましたが、日本は敗戦で台湾を放棄した
けれど、どこに所属させるとかの明言や記述はないそうですね。
つまり、台湾は台湾人のものだったのを、蒋介石がやってきて占領した。
その蒋介石はあくまでも大陸奪還を目的として、台湾は仮住まいだとして
いた。当時の台湾のあちらこちらには『春秋左氏傳』の記述にある
「キョ(くさかんむりの下に呂)にあるを忘れるな」=「勿忘在キョ=ju3」
というスローガンが貼ってあったそうです。
現在、現実的にそれはもうかないませんが、
李登輝元総統をはじめとする有志は「台湾国」として独立を願っています。
人の心も土地柄も、麗しの国・台湾が、悪辣な中共に飲みこまれないよう
切に切に願っております。
台湾の運命は、日本のあり方にも大きな影響を与えます。
台湾の危機はとりもなおさず日本の危機でもあります。
日本は、台湾はじめ東南アジア各国と蜜に連携しスクラムを組んで
中共の横暴に対抗すべきではありませんか。
.
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Re: 志士の先蹤 坂田新
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 23:05 投稿番号: [155 / 735]
林子平らが三奇士と呼ばれたことは、奇士は奇特の人士の意味で決して
貶めた言い方ではないが、少なくとも多くの人々にとってはその行動は奇矯
であり、誰もが彼らに倣って動くまでにはいたっていないことを示している。
しかし、たとえば高山赤城(1747〜93)は、北は蝦夷地から南は薩摩にいたる
まで、ともに談ずるに足る人物を求めて全国に足跡を残しているが、
幕府の忌諱を逃れきれず、ついには久留米で切腹することにはなるものの、
その死後、頼山陽(1780〜1832)は赤城の伝を作り、水戸藩の藤田幽谷
(1774〜1826)は祭文を作り、津藩の斎藤拙堂(1797〜1865)は墓誌銘を書いた。
三奇士の思想と行動とが、
次第に諸藩の人々の共感を得ていったことが知られよう。
藤田幽谷は、高山赤城と格別の交誼があったばかりか、
やはり水戸を訪れた蒲生君平とも親しく辺防を語りあっている。
もともと水戸藩には藩祖徳川光圀にはじまる『大日本史』編纂の事業が
続けられていて、大義名分論から尊王論へと展開する、
いわゆる水戸学の気分が濃厚に藩内を覆っていた。
これに辺防の議論が加わり、藤田幽谷がその主唱者と目されるようになった。
幽谷の家塾青藍舎からは、会沢正志斎(1782〜1863)、豊田天功(1805〜64)、
そして次子の藤田東湖など、幕末の尊皇攘夷派の中心人物を輩出することに
なり、藩主徳川斉昭(1800〜60)を戴いて諸藩に先駆けて攘夷を鼓吹し始めた。
国事を痛憤する全国の志士たちにとって、一時期、
水戸こそが攘夷論の総本山であった。
★坂田新『志士』江戸漢詩選4, 岩波書店
4054
================================
=
★ついでに・・・・・
文中に、斎藤拙堂は「墓誌銘」を書いた、とあります。
「墓誌」と「墓碑」とはどう違うのでしょうか。
そして「銘」とは何でしょうか。
お墓参りに行って、墓地の中をクルマで通り抜けたとき、道路側に向けて
「墓誌」と書いた真新しい御影石が立てられているのを見たことがあります。
実はこれ、ちょっとおかしいのです。「墓碑」でなければならない。
お墓の横、地面の上にあるのが墓碑で、
棺桶と一緒に地中に埋めるのが墓誌です。
これも昔の中国から伝わってきたものです。
地面の上にあるものはいつかはなくなる。
遺骸が誰のものかわかるように一緒に埋めておくのが確かなのです。
故人の生涯の事績を記したものが「誌」、
最後にまとめの短い韻文をつけたのが「銘」。
「誌」と「銘」がそろったのが「墓誌銘」です。
同じく、墓碑に銘がついていたら「墓碑銘」。
http://www.karitsu.org/news/kentoshi.htm★井真成の墓誌銘の銘は、韻文になっていないようです。
.
これは メッセージ 152 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 志士の先蹤 / 文天祥
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 22:59 投稿番号: [154 / 735]
このように状元が世間にもてはやされるようになると、
状元の責任もまた重くなってきた。
そもそも、天子が進士に空前の栄誉を与えるのは、
いざという時に朝廷のために柱石となって働いてもらいたいためである。
特に状元は他の進士と異なる破格の恩典を賜る以上、状元もまたこの知己の
恩に感激して、惜しからぬ命を天子の馬前に投げ捨てる覚悟がなければならぬ。
南宋がモンゴル族の元のために都を攻め落とされて亡びた時、すでに大勢は
挽回不可能なことがだれの目にもはっきり映っていたにもかかわらず、
状元出身の宰相、文天祥はわずかの手勢をひきつれて各地に転戦し、
漢民族のため、いな宋の天子のために万丈の気をはいたものである。
彼が敗戦中に歌った零丁洋の詩は、よく状元の立場を物語っている。
★宮崎市定『科挙』中公新書
4038
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★>知己<
恩徳で結ばれるのが「知己」
肝胆相照らすのが
「知心」
意気投合するのが
「知音」
であると『今古奇観』では説明しています。
「知音」には、有名な故事がありますが、またそのうちに UP したいと
思います。
.
これは メッセージ 153 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 志士の先蹤 / 文天祥
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 22:36 投稿番号: [153 / 735]
◆文天祥(南宋・1236〜1283)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%A5%A5
文天祥は、科挙の最終試験を一位でパスした大秀才だった。
一位合格者を状元とよび、天子から種々の栄誉と殊遇を受ける。
このため、天子のためには命を投げ出しても、という熱い忠誠が生まれた。
文天祥が最後まで節を曲げなかったのは、
ひとつには状元に合格したというプライドにあったようだ。
蒙古軍の総司令官は、名将バヤンである。
彼は、南宋の降將に命じて右翼を衝かせ、南宋軍を牽制しておいて、
アジュを大将とする前鋒軍に中央を突破させて進撃、
揚子江中流最大の要衝、鄂州城(武昌)を占領した。
ここには南宋の多数の軍船が集結していたが、すべて蒙古軍に接収され、
すでに保持していた艦隊とあわせた蒙古水軍は、両岸を進む世界最強の
騎兵隊と呼応して、一路南宋の首都臨安へと向かう。南宋危うし。
江西の州知事をしていた文天祥は、朝廷から勤皇の檄が飛ばされたので、
一万数千の義勇軍を率いて臨安へと救援に赴く途中、蒙古軍と衝突、
たちまち全滅する。
数十騎とともに悄然と都へ着くと、
宰相という栄位が文天祥を待ち受けていた。
高官がみな逃亡したため、
若手の政治家を抜粋せざるをえなくなったからである。
蒙古軍が臨安に迫った時、文天祥はみずから使者を買って出、
バヤンの陣営に赴く。
文天祥の態度は強硬で、バヤンと激論になった。
バヤンは舌を巻いて驚き、かつこんな過激な男を臨安にもどしたら、
面倒な事態になるわい、と腹の中で考え、文天祥を軟禁して帰さない。
間もなく南宋は滅亡した。
文天祥は、南宋の有力者とともに、大都(北京)のフビライ汗のもとへと
護送されていく途中、監視の目をぬすみ数人の部下とともに脱走した。
揚子江北岸のまだ元に陥落していない町を、筆舌につくせぬ苦労を
なめながら転々とし、やがて揚子江口から海路を福建に流れる。
これよりさき、張世傑らの軍人に護られた宋の二人の皇子が、
福建で勢力を固めつつあった。
文天祥もこれに加わろうとしたが、この地を守ることにきゅうきゅうと
している戦略に反発し、江西(本籍)で宋の再興をはかろうとした。
しかし、1278年の末、広東省の北で元軍に捕えられ、数ヵ月後、
宋朝最後の勢力も広東南西の突山で鎮圧されてしまう。
その翌年、文天祥は元の張弘範將軍の手のものに捕えられた際、
服毒自殺をはかったが死ねなかった。
元のフビライ汗は、大都に護送されてきた、南宋人士の期待を一身に
集める宰相で愛国者の文天祥を、それゆえ統治しにくい江南支配に利用
したいと考えて、しきりに帰順を勧誘したが、彼はガンとして聞きいれない。
そのたびに「問答無用だ、早く斬れ」と叫ぶばかり。
三年間の入獄の末、どうしても文天祥の決意をひるがえせないと知った
フビライ汗は、ついに処刑する決意を固める。
文天祥は1282年、12月9日、大都の薬子口刑場の露と消えた。
享年四十九歳。
彼の熱烈な愛国の志を悲しみかつ称えて、後人が刑場址に廟を建てた。
獄中で文天祥が綴った長編の詩「正気の歌」は、亡き祖国を思う
悲憤慷慨にあふれ、人々の心をも激しく打つものがある。
★駒田信二監修・林亮著『中国人物史100話』立風書房
★享年の西暦がわたしの表示したものと一年ずれていますが、これは
一年360日の暦と、一年365日の暦と、ぴったり重なり合うわけがないからです。
おおよそで計算しているか、日にちまで厳格に計算するかでずれが生じます。
4036
.
これは メッセージ 152 (ajisai110701 さん)への返信です.
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