Re: 志士の先蹤 坂田新
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 23:05 投稿番号: [155 / 735]
林子平らが三奇士と呼ばれたことは、奇士は奇特の人士の意味で決して
貶めた言い方ではないが、少なくとも多くの人々にとってはその行動は奇矯
であり、誰もが彼らに倣って動くまでにはいたっていないことを示している。
しかし、たとえば高山赤城(1747〜93)は、北は蝦夷地から南は薩摩にいたる
まで、ともに談ずるに足る人物を求めて全国に足跡を残しているが、
幕府の忌諱を逃れきれず、ついには久留米で切腹することにはなるものの、
その死後、頼山陽(1780〜1832)は赤城の伝を作り、水戸藩の藤田幽谷
(1774〜1826)は祭文を作り、津藩の斎藤拙堂(1797〜1865)は墓誌銘を書いた。
三奇士の思想と行動とが、
次第に諸藩の人々の共感を得ていったことが知られよう。
藤田幽谷は、高山赤城と格別の交誼があったばかりか、
やはり水戸を訪れた蒲生君平とも親しく辺防を語りあっている。
もともと水戸藩には藩祖徳川光圀にはじまる『大日本史』編纂の事業が
続けられていて、大義名分論から尊王論へと展開する、
いわゆる水戸学の気分が濃厚に藩内を覆っていた。
これに辺防の議論が加わり、藤田幽谷がその主唱者と目されるようになった。
幽谷の家塾青藍舎からは、会沢正志斎(1782〜1863)、豊田天功(1805〜64)、
そして次子の藤田東湖など、幕末の尊皇攘夷派の中心人物を輩出することに
なり、藩主徳川斉昭(1800〜60)を戴いて諸藩に先駆けて攘夷を鼓吹し始めた。
国事を痛憤する全国の志士たちにとって、一時期、
水戸こそが攘夷論の総本山であった。
★坂田新『志士』江戸漢詩選4, 岩波書店
4054
================================ =
★ついでに・・・・・
文中に、斎藤拙堂は「墓誌銘」を書いた、とあります。
「墓誌」と「墓碑」とはどう違うのでしょうか。
そして「銘」とは何でしょうか。
お墓参りに行って、墓地の中をクルマで通り抜けたとき、道路側に向けて
「墓誌」と書いた真新しい御影石が立てられているのを見たことがあります。
実はこれ、ちょっとおかしいのです。「墓碑」でなければならない。
お墓の横、地面の上にあるのが墓碑で、
棺桶と一緒に地中に埋めるのが墓誌です。
これも昔の中国から伝わってきたものです。
地面の上にあるものはいつかはなくなる。
遺骸が誰のものかわかるように一緒に埋めておくのが確かなのです。
故人の生涯の事績を記したものが「誌」、
最後にまとめの短い韻文をつけたのが「銘」。
「誌」と「銘」がそろったのが「墓誌銘」です。
同じく、墓碑に銘がついていたら「墓碑銘」。
http://www.karitsu.org/news/kentoshi.htm
★井真成の墓誌銘の銘は、韻文になっていないようです。
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貶めた言い方ではないが、少なくとも多くの人々にとってはその行動は奇矯
であり、誰もが彼らに倣って動くまでにはいたっていないことを示している。
しかし、たとえば高山赤城(1747〜93)は、北は蝦夷地から南は薩摩にいたる
まで、ともに談ずるに足る人物を求めて全国に足跡を残しているが、
幕府の忌諱を逃れきれず、ついには久留米で切腹することにはなるものの、
その死後、頼山陽(1780〜1832)は赤城の伝を作り、水戸藩の藤田幽谷
(1774〜1826)は祭文を作り、津藩の斎藤拙堂(1797〜1865)は墓誌銘を書いた。
三奇士の思想と行動とが、
次第に諸藩の人々の共感を得ていったことが知られよう。
藤田幽谷は、高山赤城と格別の交誼があったばかりか、
やはり水戸を訪れた蒲生君平とも親しく辺防を語りあっている。
もともと水戸藩には藩祖徳川光圀にはじまる『大日本史』編纂の事業が
続けられていて、大義名分論から尊王論へと展開する、
いわゆる水戸学の気分が濃厚に藩内を覆っていた。
これに辺防の議論が加わり、藤田幽谷がその主唱者と目されるようになった。
幽谷の家塾青藍舎からは、会沢正志斎(1782〜1863)、豊田天功(1805〜64)、
そして次子の藤田東湖など、幕末の尊皇攘夷派の中心人物を輩出することに
なり、藩主徳川斉昭(1800〜60)を戴いて諸藩に先駆けて攘夷を鼓吹し始めた。
国事を痛憤する全国の志士たちにとって、一時期、
水戸こそが攘夷論の総本山であった。
★坂田新『志士』江戸漢詩選4, 岩波書店
4054
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★ついでに・・・・・
文中に、斎藤拙堂は「墓誌銘」を書いた、とあります。
「墓誌」と「墓碑」とはどう違うのでしょうか。
そして「銘」とは何でしょうか。
お墓参りに行って、墓地の中をクルマで通り抜けたとき、道路側に向けて
「墓誌」と書いた真新しい御影石が立てられているのを見たことがあります。
実はこれ、ちょっとおかしいのです。「墓碑」でなければならない。
お墓の横、地面の上にあるのが墓碑で、
棺桶と一緒に地中に埋めるのが墓誌です。
これも昔の中国から伝わってきたものです。
地面の上にあるものはいつかはなくなる。
遺骸が誰のものかわかるように一緒に埋めておくのが確かなのです。
故人の生涯の事績を記したものが「誌」、
最後にまとめの短い韻文をつけたのが「銘」。
「誌」と「銘」がそろったのが「墓誌銘」です。
同じく、墓碑に銘がついていたら「墓碑銘」。
http://www.karitsu.org/news/kentoshi.htm
★井真成の墓誌銘の銘は、韻文になっていないようです。
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これは メッセージ 152 (ajisai110701 さん)への返信です.
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