Re: 志士の先蹤 / 文天祥
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 22:36 投稿番号: [153 / 735]
◆文天祥(南宋・1236〜1283)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%A5%A5
文天祥は、科挙の最終試験を一位でパスした大秀才だった。
一位合格者を状元とよび、天子から種々の栄誉と殊遇を受ける。
このため、天子のためには命を投げ出しても、という熱い忠誠が生まれた。
文天祥が最後まで節を曲げなかったのは、
ひとつには状元に合格したというプライドにあったようだ。
蒙古軍の総司令官は、名将バヤンである。
彼は、南宋の降將に命じて右翼を衝かせ、南宋軍を牽制しておいて、
アジュを大将とする前鋒軍に中央を突破させて進撃、
揚子江中流最大の要衝、鄂州城(武昌)を占領した。
ここには南宋の多数の軍船が集結していたが、すべて蒙古軍に接収され、
すでに保持していた艦隊とあわせた蒙古水軍は、両岸を進む世界最強の
騎兵隊と呼応して、一路南宋の首都臨安へと向かう。南宋危うし。
江西の州知事をしていた文天祥は、朝廷から勤皇の檄が飛ばされたので、
一万数千の義勇軍を率いて臨安へと救援に赴く途中、蒙古軍と衝突、
たちまち全滅する。
数十騎とともに悄然と都へ着くと、
宰相という栄位が文天祥を待ち受けていた。
高官がみな逃亡したため、
若手の政治家を抜粋せざるをえなくなったからである。
蒙古軍が臨安に迫った時、文天祥はみずから使者を買って出、
バヤンの陣営に赴く。
文天祥の態度は強硬で、バヤンと激論になった。
バヤンは舌を巻いて驚き、かつこんな過激な男を臨安にもどしたら、
面倒な事態になるわい、と腹の中で考え、文天祥を軟禁して帰さない。
間もなく南宋は滅亡した。
文天祥は、南宋の有力者とともに、大都(北京)のフビライ汗のもとへと
護送されていく途中、監視の目をぬすみ数人の部下とともに脱走した。
揚子江北岸のまだ元に陥落していない町を、筆舌につくせぬ苦労を
なめながら転々とし、やがて揚子江口から海路を福建に流れる。
これよりさき、張世傑らの軍人に護られた宋の二人の皇子が、
福建で勢力を固めつつあった。
文天祥もこれに加わろうとしたが、この地を守ることにきゅうきゅうと
している戦略に反発し、江西(本籍)で宋の再興をはかろうとした。
しかし、1278年の末、広東省の北で元軍に捕えられ、数ヵ月後、
宋朝最後の勢力も広東南西の突山で鎮圧されてしまう。
その翌年、文天祥は元の張弘範將軍の手のものに捕えられた際、
服毒自殺をはかったが死ねなかった。
元のフビライ汗は、大都に護送されてきた、南宋人士の期待を一身に
集める宰相で愛国者の文天祥を、それゆえ統治しにくい江南支配に利用
したいと考えて、しきりに帰順を勧誘したが、彼はガンとして聞きいれない。
そのたびに「問答無用だ、早く斬れ」と叫ぶばかり。
三年間の入獄の末、どうしても文天祥の決意をひるがえせないと知った
フビライ汗は、ついに処刑する決意を固める。
文天祥は1282年、12月9日、大都の薬子口刑場の露と消えた。
享年四十九歳。
彼の熱烈な愛国の志を悲しみかつ称えて、後人が刑場址に廟を建てた。
獄中で文天祥が綴った長編の詩「正気の歌」は、亡き祖国を思う
悲憤慷慨にあふれ、人々の心をも激しく打つものがある。
★駒田信二監修・林亮著『中国人物史100話』立風書房
★享年の西暦がわたしの表示したものと一年ずれていますが、これは
一年360日の暦と、一年365日の暦と、ぴったり重なり合うわけがないからです。
おおよそで計算しているか、日にちまで厳格に計算するかでずれが生じます。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%A5%A5
文天祥は、科挙の最終試験を一位でパスした大秀才だった。
一位合格者を状元とよび、天子から種々の栄誉と殊遇を受ける。
このため、天子のためには命を投げ出しても、という熱い忠誠が生まれた。
文天祥が最後まで節を曲げなかったのは、
ひとつには状元に合格したというプライドにあったようだ。
蒙古軍の総司令官は、名将バヤンである。
彼は、南宋の降將に命じて右翼を衝かせ、南宋軍を牽制しておいて、
アジュを大将とする前鋒軍に中央を突破させて進撃、
揚子江中流最大の要衝、鄂州城(武昌)を占領した。
ここには南宋の多数の軍船が集結していたが、すべて蒙古軍に接収され、
すでに保持していた艦隊とあわせた蒙古水軍は、両岸を進む世界最強の
騎兵隊と呼応して、一路南宋の首都臨安へと向かう。南宋危うし。
江西の州知事をしていた文天祥は、朝廷から勤皇の檄が飛ばされたので、
一万数千の義勇軍を率いて臨安へと救援に赴く途中、蒙古軍と衝突、
たちまち全滅する。
数十騎とともに悄然と都へ着くと、
宰相という栄位が文天祥を待ち受けていた。
高官がみな逃亡したため、
若手の政治家を抜粋せざるをえなくなったからである。
蒙古軍が臨安に迫った時、文天祥はみずから使者を買って出、
バヤンの陣営に赴く。
文天祥の態度は強硬で、バヤンと激論になった。
バヤンは舌を巻いて驚き、かつこんな過激な男を臨安にもどしたら、
面倒な事態になるわい、と腹の中で考え、文天祥を軟禁して帰さない。
間もなく南宋は滅亡した。
文天祥は、南宋の有力者とともに、大都(北京)のフビライ汗のもとへと
護送されていく途中、監視の目をぬすみ数人の部下とともに脱走した。
揚子江北岸のまだ元に陥落していない町を、筆舌につくせぬ苦労を
なめながら転々とし、やがて揚子江口から海路を福建に流れる。
これよりさき、張世傑らの軍人に護られた宋の二人の皇子が、
福建で勢力を固めつつあった。
文天祥もこれに加わろうとしたが、この地を守ることにきゅうきゅうと
している戦略に反発し、江西(本籍)で宋の再興をはかろうとした。
しかし、1278年の末、広東省の北で元軍に捕えられ、数ヵ月後、
宋朝最後の勢力も広東南西の突山で鎮圧されてしまう。
その翌年、文天祥は元の張弘範將軍の手のものに捕えられた際、
服毒自殺をはかったが死ねなかった。
元のフビライ汗は、大都に護送されてきた、南宋人士の期待を一身に
集める宰相で愛国者の文天祥を、それゆえ統治しにくい江南支配に利用
したいと考えて、しきりに帰順を勧誘したが、彼はガンとして聞きいれない。
そのたびに「問答無用だ、早く斬れ」と叫ぶばかり。
三年間の入獄の末、どうしても文天祥の決意をひるがえせないと知った
フビライ汗は、ついに処刑する決意を固める。
文天祥は1282年、12月9日、大都の薬子口刑場の露と消えた。
享年四十九歳。
彼の熱烈な愛国の志を悲しみかつ称えて、後人が刑場址に廟を建てた。
獄中で文天祥が綴った長編の詩「正気の歌」は、亡き祖国を思う
悲憤慷慨にあふれ、人々の心をも激しく打つものがある。
★駒田信二監修・林亮著『中国人物史100話』立風書房
★享年の西暦がわたしの表示したものと一年ずれていますが、これは
一年360日の暦と、一年365日の暦と、ぴったり重なり合うわけがないからです。
おおよそで計算しているか、日にちまで厳格に計算するかでずれが生じます。
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これは メッセージ 152 (ajisai110701 さん)への返信です.
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