和文天祥正気歌并序 藤田東湖
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 20:35 投稿番号: [159 / 735]
和文天祥正気歌并序
藤田東湖(1806〜1855)
弘化二年(1845)の作。四十歳。
江戸小梅村(東京都墨田区)の水戸藩下屋敷で幽閉生活を送る中での詩で、
東湖の代表作とされる。
和とは、通常は別人の詩に韻をあわせて(同じ韻字もしくは同じ韻目に
属する字を用いて)詩を作ることをいい、詩人間で詩を贈答するおりに
行われる他、敬愛する古人の作品に和することもある。
ただし、この藤田東湖の和詩は、詩全体の構成において文天祥「正気の歌」
を踏襲することはしているものの、押韻では文天祥の押韻とは全く関係なく
独自な展開をし、したがって一詩の句数も、文天祥の作は六十句であるのに
対して、本詩は七十四句となっている。
もっとも広い意味での唱和の詩ということになる。
文天祥は南宋末の宰相。
二十歳で科挙に第一位の成績で合格。
その後の官僚としての生活は南下する蒙古軍(元)との抗戦に費やされた。
次々と南宋の拠点が陥落してゆく中、勤皇の兵を募って各地に転戦したが、
1278年、蒙古軍に捕えられた。
元では南宋との最後の会戦をひかえた崖山(広東省新会県の南)へ連行して
南宋軍に降伏を勧める文章を書くことを要求したが、堅く拒否した。
南宋滅亡後、元に仕えることも拒み、大都(北京)で獄中に囚えられること
三年、ついに死刑となった(1283年、47歳)。
「正気の歌」は、その獄中での作。
この文天祥は、岳飛とともに南宋滅亡時に節義を全うした殉国の英雄
として、中国では今日に至るまで慕われ続けており、
その詩文は『文文山集』としてまとめられている。
日本でとりわけ広くその事跡が知られるようになるのは、
幕末の志士にもよく読まれていた浅見絅斎『靖献遺言』の巻五に
取り上げられていることによる影響が大きいであろう。
詩の構成は文天祥の「正気の歌」をほぼ踏襲して、
中間には日本の歴史を通じて正気発現の事例を列挙する形を取る。
はじめに添えられた長文の序とともに数節に分かって訳注する。
つづく
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これは メッセージ 152 (ajisai110701 さん)への返信です.
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