入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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1939年 ノモンハン27 ビールを飲む連隊長
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/03 18:57 投稿番号: [2088 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
182〜184p
《 午後三時頃であった。悲痛な顔をした須見連隊の将校が、
部隊の危機を訴えるように報告している。
「火焔瓶と地雷を下さい」
声が慄えている。
師団長はたったいま参謀長を失ったばかりのところへ、
またしても前岸の急を訴えられ、苦脳の色がさすがに濃い。
師団参謀は手不足で、前岸に行く余裕は全くなさそうだ。
またお手伝いしようと思って副長に申し出た。異論はない。師団長は柔和な瞳で、
「君、行ってくれるか、御苦労ですが……」
と、心からいたわり、喜んで申し出を承認された。
「護衛兵を連れて行け」
と言われたが、白昼、敵砲弾下を潜るには一人に限る。
敵がどんなに弾薬が豊富であったにしても、
まさか一人の目標に対して大砲を向けることもあるまいと考えながら、
砲弾の合間を縫いながら、再びハルハ河を渡った。
昨日からの渇きを癒
(いや)
すのはただこのときだ。
橋板の上に腹ばいになって水筒で河水を汲み、たちまち二本を飲み干した。
ああこの水を、師団長にも兵にも飲ませてやりたい……。
バラ高地の連隊本部に辿り着いたとき、まだ陽が高いのに連隊長は夕食の最中であった。
不思議にもビールを飲んでいる。
この激戦場でどうしたことだろう、ビールがあるとは……。
飲まず食わずに戦っている兵の手前も憚
(はばか)
らないで……。
不快の念は、やがて憤怒
(ふんど) の情に変わった。
「安達大隊はどうなっていますかッ」
「ウン……安達の奴、勝手に暴進して、こんなことになったよ。
仕方がないねえ……今夜、斥候を出して連絡させようと思っとる」
部下の勇敢な大隊長が、敵中に孤立して重囲の中に危急を伝えているとき、
連隊長が涼しい顔をしてビールを飲んでいるとは
−。
これが陸大を出た秀才であろうか。ついに階級を忘れ、立場を忘れた。
「安達大隊を、何故軍旗を奉じ、全力で救わないのですかッ、
将校団長として見殺しにできますかッ」
傍にいた第二、第三大隊長も、連隊副官も、小声で連隊長に対する不満を述べている。
軍旗はすでに将軍廟に後退させていたのである。
連隊と生死を共にせよとて、三千の将兵の魂として授けられた軍旗を、
事もあろうに、数里後方の将軍廟に後退させるとは何事か。
食事を終わった連隊長は、さすがに心に咎
(とが)
めたらしく、
重火器だけをその陣地に残して、歩兵の全力で夜襲し、
ついに安達大隊を重囲から救出した。
安達少佐以下約百名の死傷者を担いで、夜半過ぎ渡河を開始した。
その最後尾の兵が橋を渡り終わるのを見届けてから、ハルハ河を渡った。》
つづく
これは メッセージ 2086 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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南京虐殺数は重複して数えられている
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/03 18:48 投稿番号: [2087 / 2250]
下関やユウ江門付近の死体は、何度も、別の部隊の戦果、或いは虐殺として
計上されている可能性があります。
この死体は、基本的に、12日夜、中国兵が脱出しようとした混乱のなか、
同士討ちでできたものです。
そして、揚子江に大量の漂流者や死体が流れました。
そのあと、日本軍が来ます。
その時はもう、中国兵は、城内に戻り、安全区に潜伏していました。
捕虜に獲れるとしたら、追いかけていた中国兵だけでしょう。
朝、佐々木隊が来たときには、もう死体の山と、揚子江をながれる死体がありました。
佐々木隊はこれらを戦果として記録します。
そのあと、第六師団が、南から中国兵を追いかけてきました。
だから、彼らが、捕虜に出来るのも、これだけです。
彼等も、下関やユウ江門付近の死体を戦果に入れ、揚子江の漂流死体も数に入れたでしょう。
このあと、海軍が閉塞線を突破して、下関にやって来ます。
その途中、大量の漂流死体や漂流者に遭遇し、これを銃撃して戦果にしました。
また、東の方では、太平門を突破して脱出した中国兵が、
佐々木隊の本体と遭遇し激戦となります。
この時、太平門付近にも、脱出の混乱で出来た、中国兵の死体が大量にありましたが、
これも戦果として計上したでしょう。
次に幕府山では山田支隊が、約一万五千人の捕虜を獲ました。
ところが、民間人が混じっていたのでより分け8千人にします。
16師団に処置を仰いだら
「殺せ」
と言われたが、逆らって殺さなかった。
それが火事で逃げられ4千人
夜中に対岸に逃がそうとしたら、対岸から撃たれ、捕虜が暴れ出し結局射殺。
死体は千人くらい。
この時、処置を仰がれた16師団が上海派遣軍に処置を仰ぐと、
長勇が
「ヤッチマエ」
と言った。
この話を後に角が聞いて、第6師団が
「支那人十二、三万の捕虜の処置を仰いだ」
と勘違いした。
下関には、実際に大量の死体があったので、間違いないと、思った。
しかして幕府山の射殺は千〜二千人。
結局、虐殺と言われている死体の大半は、
12日夜の中国兵脱出による、混乱でできたもので、
これらは、いくつもの部隊に重複して計算されていると考えられます。
これは メッセージ 2085 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年7月 ノモンハン事件25 右岸まで撤退
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/02 16:01 投稿番号: [2086 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
176〜179p
《 一望千里の大草原に、身を隠す一本の樹木さえない戦場で、
姿を発見し得ない敵の重砲と、量を誇る戦車を相手とする我が歩兵の戦闘は、
正午頃からだんだん不利になってきた。
新手を増加した大戦車群は、午後二時頃、ついに大逆襲に転じた。
ハルハ河に架けたただ一本の橋梁に、約三十機の敵の爆撃機が投弾し、
また深く側方より侵入した戦車十数輌が、この橋梁を目がけて殺到しつつある。
朝からの戦いで百輌以上をたたき潰したが、弾薬の補充は多く期待し得ない。
急襲の効果はようやく失われ、陣容を立て直した敵は、
重砲支援の下に数を恃
(たの)
んで、逆襲を反復した。
午後四時頃には、草原の各所で彼我の混戦乱闘が演ぜられ、
残り少ない弾丸で必中弾を浴びせたものの、
ついに質は量を制し得ないような様相を呈してきた。
ハルハ河左岸に進出した我が対戦車火砲は、
速射砲十六門、野砲十二門、山砲八門、合計三十六門であるが、
戦場になお健在する敵戦車は二百輌を超えるのみならず、
これを支援する敵砲兵は、野山砲、重砲を併せて、少なくも四、五十門に達するらしい。
午後の戦闘で、さらに約五十輌を炎上させたが、昨日まで姿を現わさなかった敵空軍は、
ややもすると、我が空中勢力を凌駕するかに見える。
遥かに川又橋梁を俯瞰すると、ハルハ河右岸の戦線も、ようやく膠着の色が見える。
水の補給は全くなく、早朝ハルハ河渡河点で鱈腹
(たらふく)
飲み、
水筒一本を満たしただけだ。朝から灼熱の大地に木蔭とてない戦場で、
激戦苦闘し、一滴も余す者がない。将兵の疲労はその極に達している。
師団長の企図したことは、この一撃で敵砲兵を全滅し、川又付近を遮断して、
右岸の敵を捕捉するにあったが、ようやくその困難なことを自覚しなければならなくなった。
幸いに第一線連隊と砲兵の奮闘によって、第二の大逆襲を撃退し得たが、
恐らく敵は今夜さらに新鋭を増加して、明朝から反撃に転ずるであろう。
第一線はすでに壕を掘り、攻勢から防勢に転じている。
師団長と矢野副長、服部参謀と四人で、第一線の戦況を踏まえ、
明四日以後の戦闘指導について協議した。
副長から、「閣下の御考えは如何ですか」
と口を切ると、
師団長は、「軍の御指示の通りやりたいと思います。
このまま攻撃を続行せよとの御示しならば万難を排して小松台を攻撃しましょう。
また左岸から撤退して右岸攻撃に重点を向けよ、とならば、今夜主力を以て転進しましょう」
副長と服部参謀と著者とで、爾後の指導をどうするかについて研究の結果、
次の理由で主力を右岸に転進させる意見に一致した。
・・・・
やがて副長は師団長に向かって意見を具申した。
「軍は左岸の戦闘を中止し、右岸攻撃に師団の全力を結集使用するを
全般の戦況上有利と判断します」
師団長も師団参謀も内心この意見を希望していたことは察するに難くない。
快く容れられ、即座に各部隊長を集めて、本夜の転進を命令された。
・・・・
せっかく左岸に進出した師団主力が目的を達し得ずに転進することは、
何とも申し訳がない。しかし万一躊躇して、師団を孤立無援の危地に曝してはならぬ。
「まあ、この辺が潮時だろう」
と、あきらめねばならなかった。》
つづく
これは メッセージ 2084 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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南京 長勇のヤッチマエは幕府山の間違いか
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/02 15:51 投稿番号: [2085 / 2250]
14日、山田支隊は幕府山で、婦女子・老人など非戦闘員を含む、
一万四七七七名の捕虜を獲た。非戦闘員をより分け釈放した。
15日、処置をどうするか、師団に問い合わせると、 「始末せよ」
と言われた。
しかし、この 「始末せよ」
は、どうも本当の軍命令ではないようです。
というのは、上海派遣軍の飯沼参謀長は次のように日記に書いているからです。
◇十二月二十一日
大体晴
荻洲部隊
山田支隊ノ捕虜一万数千ハ
逐次銃剣ヲ以テ処分シアリシ処
何日カニ相当多数ヲ同時ニ
同一場所ニ連行セル為
彼等ニ騒カレ
遂ニ機関銃ノ射撃ヲ為シ
我将校以下若干モ共ニ射殺シ
且ツ相当数ニ
逃ケラレタリトノ噂アリ。
上海ニ送リテ
労役ニ就カシムル為
榊原参謀連絡ニ行キシモ
(昨日)
遂ニ
要領ヲ得スシテ帰リシハ
此不始末ノ為ナルヘシ。
軍は、捕虜を上海に送って労役に使うつもりだったようです。
板倉由明著
『本当はこうだった南京事件』
141〜142p
《 榊原氏の証言
(一九八三年7月3日榊原主計氏自宅にて)
では、
捕虜は上海に送って労役をさせることにして、受け入れ準備のため、
上海に出張し、帰って捕虜受け取りに行ったら既に殺されていた、という。
どうも上海派遣軍司令部では、参謀長、副参謀長、担当参謀のいずれも
捕虜殺害の命令を出していないようである。》
では誰がそんな命令を出したのでしょうか?
考えられるのはただ一人、長勇参謀です。
彼には
「ヤッチマエ」
という有名な話があります。
第6師団が、17日に下関で捕まえた支那人十二、三万をどうするか、
と聞いてきたら、殺せと言ったという話です。
この十二、三万には民間人を含んでいます。
しかして、この時期に、
第六師団が下関で十二、三万もの民間人を含む捕虜など、とれるわけがないし、
第十軍の第六師団が上海派遣軍の長勇にお伺いを立てられるわけもない。
長勇も命令できない。
話に辻褄があいません。
しかしこの問い合わせが、第六師団ではなく、第十六師団なら辻褄があいます。
ところで、山田支隊は第十三師団ですが、
第十三師団本体は揚子江の北側にいて、南京にはいません。
山田支隊は、第十六師団の応援に呼ばれていますから、
問い合わすべき師団は第十六師団なのです。
この第十六師団が15日に上海派遣軍に問い合わせたとすれば話が通ります。
場所は下関ではなく幕府山で、日にちも違いますけど、
一万四七七七名を一桁上げれば十二、三万になります。
これには、婦女子・老人も含まれています。
問い合わせたら、長勇が
「ヤッチマエ」
と言った。
長勇の
「ヤッチマエ」
は本当はこうではないでしょうか。
もしそうなら、30万人から、下関の十二、三万人は差し引かなければなりません。
これは メッセージ 2083 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年7月 ノモンハン24 捕虜にタバコを
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/01 14:17 投稿番号: [2084 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
174〜176p
《 敵は、我が陣地に突入することなく、反転して退却した。
そのとき、弾丸は数発を残すのみであった。
一息ついたとき、余りの見事さに、何か褒美をやろうと思ったが、何もない。
ただ、最後まで図嚢の底に取っておいた恩賜の煙草を出して、一本宛分けてやった。
「頂いてよし」
という分隊長の声に、兵はさも美味そうに火をつけた。
機関銃弾や砲弾が絶え間なく飛んでくる中に、ゆっくり吸い終わった兵は、
御紋章のついた吸殻を勿体なさそうにいじっている。
分隊長はそれに気がついたらしい。
「おい、皆、吸殻をポケットに入れてお守りにせよ!」
兵たちは黙って吸殻をポケットに入れながら、
再び突進してきた新手の戦車の第二波に、また必中弾を浴びせた。
激しい戦場の小場面に、在りし日の皇軍の姿が偲ばれる。
捕虜の中尉は、眼を丸くして蟹のように伏せ脅えながらこの情景を眺めていた。
「よし、君にもご褒美にやる、しかし、
そんな恐そうな姿勢だから一本はやれないよ。半分で我慢せい!」
日に約千輌の自動車を以て補給されながら、日本軍よりも遥かに悪い給食で、
外蒙の草原に骨を曝すソ連兵に、一抹の同情を禁じ得ないものがあった。
彼らは出動以来一カ月になるが、酒や煙草の加給品は、何一つ貰ったことがない。
毎日一片の黒パンと岩塩だけだ。水もまた十分でなかっただろう。
我に倍する自動車を使いながら、全力を挙げて弾丸を、ガソリンを、送っていたのである。
一切の贅沢品を作らないで、戦車と飛行機の製造に全国力を傾けている
ソ連の底力には、敬服と驚嘆を禁じ得ない。
このようにしてもなお撃ち漏らした戦車の一部は、砲の間隙から我が歩兵線に突入したが、
火焔瓶と爆薬の肉迫攻撃で止めを刺した。
午後三時頃までに、戦場で炎上させた戦車は、少なくも百輌を下らなかったであろう。
小松原師団長が、第一線連隊の直後を乗用車で前進中、
側方から突進した約十両の戦車に肉迫されて危機一髪のとき、
師団砲兵の先頭中隊が、零距離射撃で数輌を炎上させて、
危機を脱し辛うじて第一線に追及された。
服部参謀はモス機に乗り、超低空で戦場上空を偵察中、
小松台付近で敵弾を受け、バラ高地南方の草原に墜落した。
しかし天祐にも炎上した飛行機中より脱出し、たちまち敵戦車に襲われたが、
師団長を救った砲兵によって危急を脱し、正午頃第一線に進出した。》
つづく
これは メッセージ 2082 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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南京関係 角良晴証言の間違い
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/01 14:08 投稿番号: [2083 / 2250]
②《 日本軍入城時、城内には一般住民は一人も居らず、城内での虐殺は無かった。》
角はこの時、蘇州にいて、13日の南京を知らない。
住民は城内の安全区にいた。
③ 《 日本軍来襲以前に、住民二十五万人はすべて下関に集まり、対岸浦口に渡ろうとした。》
12日夜、船を求めて下関を右往左往したのは、中国軍兵士であって住民ではない。
④《 揚子江に面した西側城壁はキレイに取り除かれ、ユウ江門は木の枠だけ残っており、
避難民の城内から下関への通行は自由であった。》
これも、彼が当時を知らなかっただけで、門は通行不自由だった。
⑤《 渡し賃は渡江希望者が殺到して最初の五ドルが十ドルになり、
最後には三十ドルに上って貧乏人には払えなくなった。》
船がないので渡し賃も何もない。
⑥《 結局ほぼ半数、十二、三万の住民が渡江できずに下関で第六師団に捕まった。》
第六師団に捕まったのは南から北に逃げた中国軍第七十四軍の兵士で、
住民は、城内の安全区にいた。
⑦《 十二月十七日朝、第六師団から首都飯店の軍司令部情報課に電話があり、
下関の支那人十二、三万をどうするか、と聞いてきた。
課長・長勇中佐は簡単に
「ヤッチマエ」
と命令した。》
17日朝、方面軍司令部は湯水鎮にあった。
昼からの南京入場式のため移動中で、午前中はまだ南京に来ていない。
さて第6師団が下関に来たのは13日、それも、佐々木隊の何時間か後。
よって、南から追撃していた中国兵以外の捕虜捕獲は無理。
そもそも、第6師団は第十軍所属で、長勇は上海派遣軍の参謀。
井本熊雄の
「支那事変作戦日誌」
の組織表では、
上海派遣軍の参謀となっていて、中支那方面軍の参謀は別にいる。
仮に、この話が十七日夕方であったとしても、
この時は、もう中支那方面軍の参謀が来ているから、
第6師団が上海派遣軍の参謀
「長勇」
にお伺いを立てる事はありえないし、
かつ長勇も第6師団に指図は出来ない。
というわけで、この話はメチャクチャ、信憑性ゼロ。
角は、大量の死体を見て、日本軍がやったと勝手に想像し、
罪の意識から、このような虐殺話を夢想したのだろう。
戦後のいい加減な人の作り話も加えて。
中支那方面軍ができる前は、松井大将が上海派遣軍の司令官であり、
長勇は松井大将の下にいたから、このころの上下関係の記憶が混入したのかも知れない。
また、別の話と交って、混乱している可能性もある。
つづく
これは メッセージ 2081 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年7月 ノモンハン23 ソ連将校を捕虜に
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/30 18:53 投稿番号: [2082 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
172〜174p
《 太陽が上ると共に、歩兵第七十一連隊の主力が、
次いで歩兵第七十二連隊の主力が、波状隊形で戦場に駆けつけた。
大隊の損害は、ただ一人の大隊長だけであった。
それは全員が掘り終わった壕内に身を隠し、敵の戦車を通過させ、
後方から肉迫したためであった。
捕獲した敵戦車一輌を大隊の自動車運転手が操縦し、日の丸の旗を天蓋に立てながら、
第一線前方を、小松台に向かって突進していった。
大隊長の復仇
(ふっきゅう)
の意気物凄く進んだ。
横田大隊の渡河した場所で、工兵が一本の橋を架け、
それを渡った師団主力は両連隊を併列して南方に深く突進した。
敵は全く奇襲せられたようで、数百輌の戦車が、何らの統制もないように、
二、三十輌毎の群を作って、あるいは前方から、あるいは側方から、
あるいは横隊で、あるいは縦隊で、盲目減法にぶつかってくる。
速射砲と山砲は、四百メートル以内に敵を引きつけて、一弾必中の猛射を浴びせた。
黒煙に包まれ、火を吹く戦車の数は、一々記憶してはおれない。
第一線大隊のすぐ後ろから、戦車の機関銃弾を潜りながら前進していくうちに、
焼け出した戦車の傍を通ると、草原に伏しているソ連の将校がいた。
死んだように見える。近寄ってよく見るとどこにも血痕がない。
偽っているものと判断した。
軍刀を抜いて切尖
(きっさき)
でお尻をつついたら、奇声を上げて飛び起きた。
麻縄でその腰を縛って、第一線に進出した。習ったロシア語が初めて戦場に役立ったのである。
第七十一連隊の散兵線で、第二回目の敵の逆襲を受けたのは、午後二時頃であった。
神妙に、弾丸の中をついてきた捕虜の中尉がだんだん可愛くなってきた。
縄を解いて当番兵代わりに使った。
「何が欲しいか」
「パンと煙草」
「よし、俺と同じ姿勢で、戦さが終わるまで見ていたら褒美にパンと煙草をやるよ」
傍に岡本少尉の指揮する速射砲一門が陣地を占めて、敵の大逆襲を待ち構えている。
「おい、弾丸の補給はないぞ、二百メートルまで近寄せて撃て、一発必中だぞ」
射手は、突進する戦車の大群から撃ち出す機関銃弾を被
(こうむ)
りながらも容易に撃たない。
二百メートル以内に入ったとき突然発射して、先頭車に命中させた。
真っ赤な火が黒煙と共に上がる。
「命中!」
と叫ぶ声が朗らかに聞こえた。
次々に必中弾が浴びせられ、合計七輌を約十分間に炎上させた。
十発の弾である。多くの速射砲でもこの分隊は特別であろう。
約半数をやられた敵は、我が陣地に突入することなく、反転して退却した。》
つづく
これは メッセージ 2080 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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南京関係 角良晴のとんでも証言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/30 18:43 投稿番号: [2081 / 2250]
松井大将の副官角良晴はユウ江門や下関にある大量の死体を見て、
日本軍が虐殺したと勝手に思い込み、戦後とんでもない証言をしました。
それを、板倉由明氏がまとめられていますので、引用します。
『本当はこうだった南京事件』
288〜290p
《 角証言とは、どんな内容であろうか。
角の書簡数通
(昭和五十八年末より)
及び編集長・高橋登志郎氏との問答
(昭和五十九年十一月)
から、簡単に要約してみよう。
①
南京大虐殺は確かにあった。
それは自分の証言するこれ一つだけで、他はすべてウソである。
絶対に他言してはならない。
②
日本軍入城時、城内には一般住民は一人も居らず、城内での虐殺は無かった。
③
日本軍来襲以前に、住民二十五万人はすべて下関に集まり、対岸浦口に渡ろうとした。
④
揚子江に面した西側城壁はキレイに取り除かれ、ユウ江門は木の枠だけ残っており、
避難民の城内から下関への通行は自由であった。
⑤
渡し賃は渡江希望者が殺到して最初の五ドルが十ドルになり、
最後には三十ドルに上って貧乏人には払えなくなった。
⑥
結局ほぼ半数、十二、三万の住民が渡江できずに下関で第六師団に捕まった。
⑦
十二月十七日朝、第六師団から首都飯店の軍司令部情報課に電話があり、
下関の支那人十二、三万をどうするか、と聞いてきた。
課長・長勇中佐は簡単に
「ヤッチマエ」
と命令した。
⑧
角は事重大と判断して松井大将に報告、松井は長に解放を命じた。
⑨
一時間後、再び同じ内容の電話があり、長は再び
「ヤッチマエ」
と命じた。
角には再度松井に止めてもらう勇気がなかった。
⑩
十七日、十八日、十九日と角は三度下関を視察したが、ユウ江門から揚子江に出て
(中山碼頭)
右折し、五十メートルから下流二キロにかけて幅三百メートル、
ギッチリじゅうたんのように詰まった数万を下らない死体があった。
⑪
二十日、松井軍司令官と角は自動車で下関に行き、
右折して河岸道の死体の上を静かに二キロ往復した。松井はホロホロと涙を流した。
⑫
最初の電話は第六師団参謀から、二度目は殺害命令を不審に思った
下野一霍参謀長からと思う。下野の回想録
(未発見)
には
「下関の大虐殺は軍命令で師団長の意向ではなく、
このことで谷寿夫師団長の死刑は間違いである」
と述べられているはずである。》
*
これらの間違いは、これまで私が書いてきた事を読んでおられる方には
一目瞭然でしょうが、
一応、次で、その間違いについて指摘します。
つづく
これは メッセージ 2079 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年7月 ノモンハン事件22 ハルハ河渡河
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/29 18:47 投稿番号: [2080 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
169〜171p
《 部隊は再び起ち上がった。
重い舟に汗だくになった兵を叱咤しつつ、静粛行進どころではない。
走るように河岸に突進した。
間もなく高さ約三十メートルの断崖にはばまれた。
やや躊躇の色が見えたとき、
「鵯越
(ひよどりごえ)
の逆落
(さかお)
としだ、舟を辷
(すべ)
らせッ、兵も一緒に!」
と大隊長は命令し、十隻の折畳舟
(おりたたみぶね)
は将兵と共に、
高い断崖を辷り、否
(いな)
転がり降りた。
偶然にもそこはハルハ河の岸に近い道路の傍
(かたわら)
である。
ホッとして工兵が、素早く舟を水上に浮かべた。
折から珍しく小雨か霧雨が降ってきた。
大隊は十隻の小舟で、五十メートルばかりの河を漕ぎ渡った。
流速は思ったより速く、水深も深い。
しかし幸いにして前岸には敵はいなかった。
将兵は貪
(むさぼ)
るように河水を飲んだ。
昨日から灼熱の砂漠で、水に困り抜いていた将兵だ。
戦いも忘れるように貪り飲んだ。
大隊長は早くも各中隊を掌握し、夜襲の隊形を部署した。
大隊長自ら斥候を兼ね、教導を兼ねて、
ただ一つの夜光磁石によって、真南に進んだ。
約一時間以上も、無言のままただ南へ南へと直進した。
敵陣地は河岸からそんなに遠くないはずだ。
大隊長は真っ先に突入する覚悟であろうが、不思議にいつまで待っても
軍刀を抜かなかった。ただ一本の鞭を持ったままである。
もう敵とぶつかりそうだ。軍刀を幾度か抜こうと思ったが、
隣りの大隊長が抜かない前に抜いたら、笑われるだろうと我慢して進んだ。
赤土の色が直前に見える。確かに敵の第一線だ。
「突っ込め!」
という大隊長の力強い声と共に突入した。だが、この陣地はもぬけの殻であった。
がっかりした。さらに約五百メートル南方の第二線に突入した。
ここにもまた敵はいなかった。
数日前
「モス」
で低空から偵察した通りどの陣地も皆、戦車の掩体であった。
だが数百メートル前方に微かに光がある。懐中電燈らしい。
「辻君、変だね、居らんぞ」
「横田さん、この辺で陣地を作りましょう。余り進み過ぎると架橋の掩護になりません」
大隊長はこの意見を容れて、全大隊を以て円形陣地を作らせた。
夜が明けたら、どこからやられるかわからない。
全周に約半時間で、立射散兵壕を掘り終わった。
その直後、突然激しい銃声が、続いて砲声が南に起こった。
夜光を曳く弾道が明らかに敵の数を現わしている。
「戦車だッ」
と叫ぶ声。
「壕に入れ、肉迫攻撃準備!」
と隣りに立っていた横田大隊長が怒鳴った瞬間斃
(たお)
れた。頭部貫通だ。
右から、左から、正面から十数輌の敵戦車が、大隊の陣地に突入してきた。
静寂だった戦場はたちまち修羅場となり、各所に手榴弾が、機関銃弾が飛んだ。
真っ赤な火焔が上がった。一輌、二輌と、続いて火を発した。
この戦闘は約三十分の後止んだ。
戦車二輌を火焔瓶で焼き、一輌を砲塔に飛び乗って捕えた。
大隊長を失ったことは限りなく残念であった。その位置には、未だ壕が掘ってなかった。
中央に突っ立ったまま大隊全員にまず壕を掘らせた大隊長であり、
軍刀も抜かず鞭を握ったまま斃れた。惜しい先輩を惜しいところで失った。
この責任もまた当然、自分の負うべきものである。》
つづく
これは メッセージ 2078 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月21日 松井大将中国兵の死体に涙
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/29 18:33 投稿番号: [2079 / 2250]
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
142〜143p
《 松井方面軍司令官が下関とユウ江付近を視察したのは、十二月二十一日朝十時である。
下関やユウ江付近及び市内視察は十八日に予定していた。
しかし、角は
「治安が悪く警備に責任がもてない」
と偽って、外に出さなかった。
本当は市内に沢山の死体が遺棄されていて、松井に見せたくなかったのである。
二十一日になって、業をにやした松井はついに怒り、
「おれは一人でも行く。車を用意せよ!」
と副官の角に命令した。
やむなく車を出して乗せるが、角はなるべく死体が見えない位置に座って同行した。
それでも死体が見える。そのとき、角は傍にいる松井方面軍司令官のようすに気づいた。
彼は遺稿集の中で、
「総司令官は、モノを言わず、ただ泣いておられた。
下剋上の思想が、このような事態になったと思う」
と書いている。
また、松井は二十一日の日記の中に、視察した感想をこう記している。
「狼藉の跡のままにて死体などそのままに遺棄せられ、今後の整理を要するも、
一般に家屋の被害は多からず、人民もすでに多少ずつ帰来せるを見る」
松井がつぎの作戦のため南京をはなれることになるのは二十二日である。
入城したのが十七日で、わずか五日間の滞在だった。
あとは派遣軍が治安にあたった。
特務部や領事官たちに政治工作、治安工作を頼んでいる。》
*
松井大将も角副官も勘違いをしている。
彼らは、ユウ江門や下関にある大量の死体を日本軍が殺したものと思い込んでいるが、
本当は中国兵が脱出の時の混乱で殺しあって出来たもの。
彼らは事実を知らないから、てっきり日本軍がやったものと思い、
「下剋上の思想が、このような事態になったと思う」
と決めつけている。
角副官はこの勘違いから、戦後とんでもない証言をしてしまう。
つづく
これは メッセージ 2077 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年7月2日 ノモンハン事件21 渡河準備
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/28 18:51 投稿番号: [2078 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
167〜169p
《 七月二日、昼間はフイ高地を確保して
ハルハ河右岸に残っている敵を攻撃しながら、渡河の準備を整えた。
歩兵第七十一連隊を第一線渡河部隊とし、その第一大隊をまず舟で渡して、
前岸に拠点を占領し、その掩護下に工兵連隊で架橋する計画であった。
矢野副長と服部参謀と共に、旅団司令部付近の壕内に、
うだるような暑さを耐え忍んでいたとき一人の大隊長が懐かしそうに近づいてきた。
どこかで見覚えのある顔だと思っていると、服部さんの同期生、横田千也少佐である。
横田さんから声をかけられた。
「やあ、辻君、お久しう、長城線ではいろいろお世話になったねえ」
「あっ、あのときの横田さんですか、御無沙汰しました。今夜はまた第一線ですか」
「うん、また面白い任務を貰ったよ、第一回の渡河掩護部隊ですよ」
横田大隊長は七・七事件の直後、板垣兵団の歩兵第四十二連隊の中隊長として、
長城線の突破に殊勲を樹て、重傷を負った顔馴染の勇士であった。
あれから二年経った今日、大隊長としてまたもや激戦場に、
晴れの重任を引き受けたのである。
「お伴しましょう」
この懐かしい先輩に、何とかお手伝いしようと思った。
別に命令された訳でもないが、横田大隊の行動は、
師団全般の運命を左右するものである。願ってもないことだ。
文字通り咫尺
(しせき)
もわからぬ暗夜であった。
昼間さえ方向維持に迷う砂丘地帯を、配属された工兵小隊長を先導に、
重い舟を兵の肩に担がせながらハルハ河の岸に向かった。
約二時間の行進を終わったとき、
「大隊長殿、渡河準備終わり」
という工兵小隊長の報告を聞いた。
よくも手際よくやったものだと感心しながら、案内されて河岸に出た。
暗夜とはいえ、余りにも河幅が広く見える。
「おかしいなあ」
ハルハ河はせいぜい幅五十メートルのはず、流速は一メートル以上もあるはずだが、
暗
(やみ)
の水面には小波も立っていない。
「これはおかしいぞ」
と感じ、携帯天幕を頭から被りながら、
懐中電燈で、地図と現地とを丹念に対照すると、これはイリン湖にちがいない。
「まちがった!」
折から進出された小林少将にその旨を報告し、善後策を考えているところへ、
師団長と矢野副長と服部参謀が追っついて来られた。
横田大隊長はひどく責任を感じているらしい。
ハルハ河まではまだ五百メートル以上もある。全く準備ができてない。
一晩延ばすのが常識であろう。しかし、大隊長の眉宇には激しい決意が浮かんでいる。
「いや、必ず夜半までに渡ります」》
つづく
これは メッセージ 2076 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月21日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/28 18:42 投稿番号: [2077 / 2250]
《 午後二時、ドイツ人やアメリカ人全員
−
つまり外国人全員が鼓楼病院前に集結して、
日本大使館ヘデモ行進を行った。
アメリカ人十四人、ドイツ人五人、白系ロシア人二人、オーストリア人一人。
日本大使館あての手紙一通を手渡し、その中で人道的立場から以下の三点を要求した。
一、街をこれ以上焼かないこと。
二、統制を失った日本軍の行動をただちに中止させること。
三、食糧や石炭の補給のため、ふたたび平穏と秩序がもどるよう、
必要な措置をとること。
デモ参加者は全員が署名した。
われわれは日本軍の松井石根 (いわね) 司令官と会談し、全員が彼と握手した。
大使館では私が代表し意見を言い、田中正一副領事に、
日本軍は町を焼き払うつもりではないかと思っていると伝えた。
領事は微笑みながら否定したが、
書簡のはじめの二点については軍当局と話し合うと約束してくれた。
だが第三点に関しては、耳を貸さなかった。
日本人も食糧不足に苦しんでいるので、
われわれのことなど知ったことではないというのだろう。
そのあと、まだ日本大使館にいるときに、海軍将校からローゼンの手紙を受け取った。
彼は南京に非常に近いところに停泊しているイギリス砲艦ピーに乗っているのだが、
まだ上陸を許されていない。
これ以上多くの人間に事情を知られたくないのだろう。
ローゼンはじめ、シャルフェンベルク、ヒュルターの両人が
どうしてピーに乗っているのかわからない。
福田氏にそのことをいうと、ジャーディン社の船が爆撃されて、
沈没したのではないかと心配していた。
ローゼン書記官よりジョン・ラーベあての手紙
南京を目前にして、一九三七年十二月十九日
イギリス砲艦ピー船上より
親愛なるラーベ氏、
昨日から南京市を目の前にしながら上陸することができません。
皆さんのご様子、それからドイツ人の家が無事かどうか、お知らせください。
なお、ここからは大使あてに無線で連絡がとれます。
当方にもいろんなことがありました。このことはいずれお目にかかった折にお話しします。
この手紙が日本軍を介して貴君に届くかどうかわかりませんが、
とにかくやってみます
(願わくは私への返事もうまくいくといいのですが)。
よろしく。ハイル・ヒトラー!
敬具
ローゼン 》
これは メッセージ 2075 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年7月 ノモンハン事件20 フイ高地占領
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/27 18:49 投稿番号: [2076 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
164〜167p
《 七月一日三時、満を持していた一万五千の将兵は、暁闇を利用して動き出した。
左岸攻撃縦隊の先頭には、小林少将が乗馬で誘導している。
闇の砂漠はともすれば方向を誤りそうである。
夜が明けると、冷涼の砂漠はたちまち酷熱の砂漠に変わった。
正午頃ようやく、フイ高地の正面に先頭が到着したとき、突然縦隊の先頭に
数発の砲弾が落下した。弾着は正確である。
縦隊に若干の死傷を生じたとき、小林少将は一鞭あてて馬を前方の高地に駆け上がらせた。
「命令受領者、前へ」
と命じながら、双眼鏡を取って自ら敵陣地を偵察し、
現地を指さして、各部隊に攻撃命令を下した。沈着大胆なこの指揮ぶりに、
縦隊は一糸乱れず展開し、あたかも秋季演習の遭遇戦を思わせるものがある。
正体不明の敵砲は、やがて戦車から撃ち出すことがわかった。
精良な双眼鏡で凝視すると、前方約二千メートルに砂丘の間から、
僅かに数個の黒点が地平線に浮かび上がった。
お椀を逆さまに伏せたような形の砲塔だけが六、七個見える。
砲兵は、素早くこの目標に必中弾を浴びせると、その中の一輌が火を発し、
続いて二輌が黒煙を上げた。
歩兵は綱を放たれた猟犬のように、砂丘の間を突進していった。
緒戦は鮮やかな勝利であった。
肉迫する我が第一線が約千メートルの距離に達したとき、
四、五輌の敵戦車は慌しく南方に退がった。
フイ高地の一角は、このようにして我が手に入った。
小林少将は、フイ高地北側の砂丘に部隊を集結し敵状捜索の部署を命じた。
夜十二時を期して右岸の敵を夜襲することにして準備を命じたが
所望の敵状はさっぱりわからない。しかし、七月二日には渡河しなければならぬ。
是が非でも本夜中に、フイ高地一帯を占領しなければならなかった。
小林少将は夜半、両連隊を夜襲の部署につかせた。
鼻をつままれてもわからぬ真の闇夜である。
そのとき、旅団副官の少佐が、昼の戦闘で疲れ切ったか、死んだように寝ていた。
いよいよ出発準備を整えたが、この副官だけは呼べども答えがない。
時刻は遅れがちで、一同心配して副官を探し回り、ようやく壕の一隅に見つけ出したのだった。
普通の部隊長ならばたちまち怒鳴り散らすところであろうが、
小林少将は可愛い子供をいたわるように、
「疲れたのだろう、準備はできたよ、さあもう一息だ」
と、
恐縮に堪えない副官を、かえっていたわりながら、
部隊の先頭に立って、敵陣地とおぼしき方向に進んでいった。
幸いに敵は夜に入ると共に退却したため、戦わずに所望の目標を占領し得たが、
昨日からの小林少将の沈着剛胆な指揮ぶりと、
部下の過失を寛容する人となりに、しみじみ頭が下がる。》
つづく
これは メッセージ 2072 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月21日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/27 18:39 投稿番号: [2075 / 2250]
十二月二十一日
《 日本軍が街を焼きはらっているのはもはや疑う余地はない。
たぶん略奪や強奪の跡を消すためだろう。昨夜は、市中の六カ所で火が出た。
夜中の二時半、塀の倒れる音、屋根が崩れ落ちる音で目が覚めた。
わが家と中山路の間にはもう一ブロックしか家が残っていない。
もうすこしでそこに燃え拡がるところだったが、運良く難をのがれた。
ただし、火花が舞い、飛び散っているので、藁
(わら)
小屋とガソリンはますます危険な状態だ。
気が気ではない。何としても、ガソリンだけはどこかほかへ移さなくては。
アメリカ人の絶望的な気分は次の電報をみるとよくわかる。
南京、一九三七年十二月二十日、在上海アメリカ総領事館
御中。
重要な相談あり。アメリカの外交官、南京にすぐ来られたし。
状況は日々深刻に。大使および国務省に報告乞う。マギー、ミルズ、
マッカラム、スマイス、ソーン、トリマー、ヴォートリン、ウィルソン。
一九三七年十二月二十日南京日本大使館
御中。
海軍基地無線を通じて転送を要請します。
M・S・ベイツ
ほかに方法がないので、日本大使館に頼んでこの電報を送ろうというのだろう。
だがこれでは何もかもつつぬけだ。日本は承知するだろうか?
それにしても、アメリカ人は非常に苦労している。
私の場合は、ハーケンクロイツの腕章やナチ党バッジ、
家と車のドイツ国旗をこれ見よがしにつきつければ、いちおうのききめはあったが、
アメリカ国旗となると日本兵は歯牙にもかけない。
今朝早く、日本兵に車をとめられたので怒鳴りつけて国旗を示したところ、
相手はすぐに道を空けた。それにひきかえ、
トリマーやマッカラムはなんと鼓楼病院で狙撃されたのだ。運良く弾はそれた。
だが、我々外国人に銃口が向けられたということが、そもそも言語道断だ。
これでは、アメリカ人の堪忍袋の緒が切れてしまうのもむりはない。
しかもかれらは何千人もの婦女子を自分たちの大学に収容して面倒を見ているのだ。
昨日、スマイスはこんなことをいっていた。
いったいいつまで、ハッタリをきかせていられるのだろうか。
その気持ちはよくわかる。われわれの収容所にいる中国人のだれかが、
妻か娘を強姦されたといって日本兵を殴り殺しでもしたら、一巻の終わりだ。
安全区は血の海になるだろう。
つい今しがた、アメリカ総領事館あての電報が
日本大使館から打電を拒否されたという知らせが入った。
そんなことだろうと思っていた。》
*
ラーベは日本軍が街を焼きはらっていると思い込んでいるが、
日本兵はもうそんなにいない。
南京からは、殆どの兵が去って、居るのは警備の第16師団と、
安全区掃蕩の任務がまだ解除されていない第9師団歩兵第7連隊と、
これから去る部隊のみ。
夜中に放火して、日本軍に何の利益があるだろうか?
ラーベ達の思い込みは激しい。
*
>トリマーやマッカラムはなんと鼓楼病院で狙撃された<
日本軍が外国人を狙撃して何の意味があるのか?
日本兵が少なくなったから、便衣兵が活動しやすくなったのでは?
これは メッセージ 2067 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年6月30日 TV受像機展覧会
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/26 18:42 投稿番号: [2074 / 2250]
〔昭和14年7月1日
東京日日〕
受像機合戦、電気展覧会で三者競演
一日から特許局で開催される電気展覧会に、
放送開始近しと見て各製作者から俄然テレヴィジョン受像器の出品が集まり、
図らずも日本で始めてのテレヴィジョン競演の盛観を呈することになり、
開会を控えて三十日午後、出品が全部出揃って早くも実験競争が開始された。
従来有名だったのは放送協会高柳式を始め
早大式、東京電気式、逓信省電気試験所式などであったが、
今度の展覧会には高柳式が実験の都合で参加を見合わせ、
早大式、電気試験所式はその後大した変わりもないので出品せず、
結局十余年間沈黙を守っていた安藤博氏が大きな抱負を以って
新たに製作した軽便な家庭用セットと、
新顔の日本電気、松下無線の家庭用セットが顔を合わせることになった。
安藤式は安藤氏の真空管研究で真空管の能率がよくなったため、
セットに使ってある真空管は全部で九球、形も幅二尺、高さ一尺、
奥行き三尺くらいで一番小さい。
松下無線のものは一番大型でオルガンくらいの大きさがあり、
球数は二十三球、そのかわり映像の映るブラウン管の底の面積が
幅二十四センチ、長さ十八センチで、安藤式の二倍ほどの大きさである。
日本電気式は球数が一番多くて二十九球、松下無線のものと同様
電気蓄音機の蓋のような蓋の裏が鏡張りとなっていて、
ブラウン管に映った像を反射して観るようになって居り、
仕上げはともに商品として恥かしくない堂々たるものである。
この三機は放送協会の標準に従って走査線四百四十一本の設計になっているので、
実験放送の波さえ出ていれば高柳式の放送を簡単にキャッチ出来るので、
会期中に受像競争を行う計画で交渉が進められているが、
会場には別に安藤式の送像機も搬入されているので、
これで特許局庁舎の窓から屋外の風景を写して送り、
毎日午前十一時、午後二時、四時の三回実験して一般に公開することとなった。
三十日、器械を運び込むと早々実験を始めた安藤氏は語る。
ここの電圧が低いので、まだ像は幾分暗いようですが、明日の朝までにすっかり直します。
私のが一番小さいが、鮮明度では決して他のものに負けないつもりです。
これは メッセージ 2007 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月20日 陸海軍の動き
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/26 18:34 投稿番号: [2073 / 2250]
陸軍
第十軍の杭州作戦
《 第百一師団、・・・・師団長は歩兵一大隊から成る捜索隊をして、
二十日湖州を出発してシンガー山付近を捜索させ、
主力を二縦隊及び左側支隊に区分・・・》
幕府山の山田支隊
浦口へ移動
両角業作
手記
《 二十日
晴
九時半出発下関を経て浦口に渡河。》
山田メモ
《 二十日
下関より浦口に向う。
途中死体累々たり、十時浦口に至り国東支隊長と会見。》
(鈴木明著
旧
『「南京大虐殺」
のまぼろし』
195p)
*
下関より浦口に向う途中の累々たる死体は、山田支隊が関与していない事は、明白。
勘違いしている者は、山田支隊が、下関から浦口へ、捕虜を送ろうとして、
国東支隊に撃たれて、下関で虐殺した、としている。
が、だったら、山田旅団長はこんな書き方をしないだろう。
第一、彼らは、前日死体を片づけている。
この死体は、基本的に中国軍の同士討ちによって生じたもの。
海軍
『ドイツ外交官が見た南京事件』
114pより
ドイツ外務省
(ベルリン)
宛、発信者
----
ローゼン
(署名)
一九三八年一月二〇日付南京ドイツ大使館分館第二号
(略)
《 12月18日から20日にかけて、
われわれが南京城手前の英国軍砲艦ビー号に乗船していたおり、
日本海軍の近藤少将が英国軍ホールト提督にたいし、
「南京から長江を下った先の大きな中州
(八卦洲)
にまだ3万人の中国兵がおり、
かれらをこれから一掃せねばならない」
と通告してきた。
日本側が
「一掃」
ないし
「掃討」
と称するこの行為は、
武装解除された敵の殺害を指しており、人道的な戦争遂行の原則に反する。》
*
海軍の中州掃蕩は、恐らく、山田支隊が17日夜、幕府山北岸から八卦洲へ
中国人捕虜を逃がそうとして、対岸から撃たれた事から、
武装中国兵の存在を知り、検討されたのだろう。
武装解除されてない敵の掃蕩だから、戦闘行為であり、
人道的な戦争遂行違反とは関係ない。
これは メッセージ 2063 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年6月 ノモンハン事件19 攻撃の準備
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/25 14:26 投稿番号: [2072 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
160〜162p
《 植田将軍の知遇に感じた小松原師団長は、
自ら陣頭に立って雌雄を決しようとの決意が固く、
軍命令に基づいて部隊を将軍廟周辺地区に集中し、攻撃の準備に余念がなかった。
この集中が、何ら敵機の妨碍を受けることなく完了したのは、
二十二日から全力を以て敵機を迎撃した飛行隊の戦果である。
とくに二十七日、タムスクに敵主力を撃破した後においては、
戦場の上空にはほとんど敵機を見ないまでに、完全に制空権を我が手に収めていた。
その一撃が、敵にどのくらいの痛手を与えたかを知ることができるであろう。
空中の優勢に反して、地上においては敵は
衆を恃
(たの)
んで、さらに深く満領内に突進し、
将軍廟に陣地を占領していた小林部隊を戦車と重砲で強襲したが、
小林恒一少将の指揮する第一線は、陣地付近の近距離に敵を迎えて、
これに打撃を与え、七十輌のうち十三輌を炎上、破壊、
六月二十八日には、攻撃実施の命令を待っていた。
・・・
飛行第二集団が空中写真によって偵察したところ、
敵の主力は小松台
(*
「小松」
原より命名)
を中心とし、
バラ高地
(*小松
「原」
より命名)
を左翼の拠点として、
堅固に陣地を占領しているようである。
敵の後方状況は明らかではないが、毎日のべ約千輌の自動車が、
軍隊、軍需品を輸送しているようである。
一望千里の大草原にもかかわらず、偽装が徹底しているために、
何がどこに降ろされているか全く見当がつかなかった。
地上から偵察した結果による敵の兵力配置もまた、空中写真と符節を合するようであり、
敵はハルハ河両岸に跨
(またが)
って頑強に抵抗するであろうことは、
一点疑問の余地はない。
師団長は、各部隊から選定した豪胆で遊泳の上手な将校斥候数組を、
夜間秘かにハルハ河を泳いで敵中に潜り込ませ、
直接河川や陣地の状況を偵察させながら攻撃の策案を練っている。
関東軍は作戦計画の立案当時、
できたら上流河谷からハルハ河を渡って、左岸の敵を攻撃する計画であったが、
これは第七師団をハンダガヤ方面に使用することが前提で、
第二十三師団が将軍廟に集中した現在では、
必ずしも師団長に強要する筋合ではなかった。
その後、斥候の報告や飛行機の偵察などを総合すると、
師団長の考えは、フイ高地
(*バラ高地対岸)
方面から渡河したいように思われる。
しかしバラ高地は、空中写真の結果から見ると、敵の最も堅固な正面で、
陣地は三線に構築されている。師団長の考えと全く矛盾する敵情である。
矢野副長と服部参謀と三人で、師団の攻撃にお手伝いに出て行き、
これらの情況を知ると共に自ら飛行機で偵察しようと決心した。
モス機に一人乗って超低空でハルハ河上空を飛んだ。
速力のすこぶる遅いこの旧式小型機では、地上からの小銃弾にひとたまりもない。
幸いに雨雲が低く垂れていた好機を利用して敵の眼を避けながら、
バラ高地の上空をスレスレに飛んだ。
飛行集団の高空からの偵察では、三重の堅固な陣地と思われたのに、
実際は全く異なって、単に戦車の入る掩壕
(えんごう)
が
蜂の巣のように作られているばかりで、歩兵の陣地らしいものは
どこにも見当たらない。
「しめた、これなら必ず成功する」
と、喜んで帰った。》
これは メッセージ 2070 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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南京関係 中国人の訴えを信用するな2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/25 14:11 投稿番号: [2071 / 2250]
つづき
《 衆怨が沸騰するに及んでは、則ち一面の詞
(ことば)
を摂
(と)
りて、
教士
(せんきょうし)
を慫慂
(そそのか)
して官に謁
(めんかい)
して
剖白
(べんめい)
せしめ、あるいは情節を添砌
(つみかさ)
ねて
教士に
(官に)
手紙で申し送るよう求めるのである。
教士は性直にして、詭譎
(あやしげ)
な情形を知らず、
教民が実在
(じっさい)
にいじめられたと思って、遂に地方官と難を為す。
そのじつ、ひとたび対質
(といただし)
を経れば、事みな虚無なり、》
とあります。 ようするに、官憲は
「宣教師は、心が素直なので、中国人の嘘・デタラメが分らず、
それを信じて、役所に言いつける、困ったものだ」
とまー、こう言っているわけです。
この宣教師を
南京のラーベたちに、置き換え、
訴えているキリスト教徒を
南京の中国人に
何とかしろと言われている清国官憲を
日本軍当局に
置き換えて見れば、全く同じパターンだという事が判ります。
清国官憲は
訴えているキリスト教徒
(中国人)
は
嘘つきだから
信用するな、 と言っているわけです。
同様に考えると、ラーベたちに訴えている南京の中国人の言も
信じてはいけない、 ということになります。
現在の日本人も性直で善人心満載ですから、疑うことを知りません。
清国の官憲ですら、 「信じるな」
と言っていた事を、
信じて、未だに間違いを繰り返しているわけです。
「嗚呼!」
かくして、宣教師が正しいと思って
「悪いキリスト教徒」
を庇い、
本当の被害者を処罰させたりした事が、一般民衆の恨みを買い、
被害者らが反キリスト教団体を結成し、
それが拡大して義和団へと発展して行ったのです。
これは メッセージ 2069 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年 ノモンハン18 参謀本部からの命令
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/24 14:55 投稿番号: [2070 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
155〜158p
《 六月二十九日夜、次の命令と指示を受領した。
軍司令官宛
参謀総長
本二十九日大陸命
(*大本営陸軍部命令)
第三二〇号発令せらる。
一、関東軍司令官は満州国及関東州の防衛に任ずべし。
満州国中その所属に関し、隣国と主張を異にする地域及兵力の使用
不便なる地区の兵力を以てする防衛は状況により行わざることを得。
国境紛争の処理に方
(あた)
りては事態を局地に限定するに努むるものとす。
二、細部に関しては参謀総長をして指示せしむ。
大陸指
(*大本営陸軍部指示)
第四九一号
大陸命第三二〇号に基づきノモンハン事件の処理に関し左の如く指示す。
一、地上戦闘行動は概してボイル湖以東に於ける満州国、
外蒙古間境界地区に限定するに努むるものとす。
二、敵の根拠地に対する空中攻撃は、これを行わざるものとす。
次いでさらに参謀次長よりその要旨を敷衍
(ふえん)
した次の電報を受領した。
軍参謀長宛
一、今次国境事件に関連し、大陸命第三二〇号、大陸指第四九一号を出されたるは、
貴軍の実施せるタムスク及サンぺーズ空中攻撃が
純然たる国境外に於ける作戦行動たる故、
大権の範囲として
その実施に当りては御允許
(ごいんきょ)
を仰ぎ奉るを至当とする見解の下に
関東軍司令官の任務に遡り
国境紛争処理の根本方針に関する大命を拝し、
之が細項に関し
参謀総長の権限を明かにせられたるものにして
貴軍に於ては
右大陸指に基き自今敵の根拠地に対する空中攻撃を
中止せらるるの要あるを示されたるものなり。
二、大陸命に於ける関東軍司令官の任務は、
臨参命第二五号及関東軍勤務令と精神に於て同一にして
且貴軍従来の任務達成の方針と合致しあるものなり。
三、関作命第一四八八号別冊
「満ソ国境紛争処理要綱」
中、
一時国境外に行動することは、関東軍司令官の防衛任務に伴う常続的権限として
御裁可を仰ぎ得ざるを遺憾とするも、各国境紛争の特性に応じ、
万己むを得ざる場合に於ては、
御委任の範囲内に於て右行動の実施を可能ならしむる如く配慮する所存なり。
大陸指第一項は右の意味に於て近く貴軍の企図せらるる地上作戦を
容易ならしむる趣旨のものなり。
右命に依り。
関東軍が、また何を仕出かすかわからないとの不信任によって、
字句の解釈に積極的余地がないように、手と足を縛ってきたものである。
敵は刻々兵力を増強し、虎視眈々として侵攻を準備しているとき、
我は手足を鎖で縛られて、強敵との喧嘩をしなければならなくなったのである。》
つづく
これは メッセージ 2068 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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南京関係 中国人の訴えを信用するな1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/24 14:40 投稿番号: [2069 / 2250]
12月19日のラーベの日記には、難民からの訴えが載っていました。
こういうのを見ると、我々日本人や西洋人は素直に信じます。
同じ様な訴えは義和団事件の前にもありました。
キリスト教徒が、 「酷い目に遭わされています、助けて下さい」
と
宣教師に訴え、宣教師が地方の役人に談判して、キリスト教徒を助けようとします。
ところが、調べてみると、事実は逆だったのです。
佐藤公彦著
『義和団の起源とその運動・中国民衆ナショナリズムの誕生』
の
342〜343Pによりますと、
《 宣教師のビュッカーは、エン城県で衆人五百余が掲帖
(ビラ)
を貼り出して
教会を襲い、教民を拉致殴打し、物品を破壊、掠奪して、教民に圧迫を加え、
婦女には自殺する者まで出た、
沂水県王荘教会
(フライナデメッツ、バーテルス担当)
も
以前に被害に遭っているが、ここにも不穏な動きがある、と訴えてきた。
官側が調査をしてみると、こうした事実はなく、むしろ中国人教民の側が、
賭博のかたに相手の息子の嫁を取ろうとして、この女性を自殺に追い込んだり、
作物や物品が失くなると、平民に罪をきせて銭を罰したりしていて、
平民と教民との間の怨念が積もり積もっていたこと、
それで平民側が、 『天主教はエン邑北郷の荘家店などの処で教堂を設立し、
妖言をもって衆を惑わし、勢を倚
(かさに)
きて人を訛
(あざむ)
いている。
(やつらは)
倫常ともに無く、男女
(の間)
は混乱している。
おのおの団練義勇を興して賊窩を剿除し、もって妖気を靖んじよう』
という掲帖を出しただけであった。
こうした事態が、「通事
(つうやく)」
によって歪曲増幅されて
ドイツ人宣教師の耳に伝えられ、ビュッカーによる前述の如き訴えになったらしい。
官側の言い分によると、これらはみな
「通事と教民がひとたび西教
(カトリック)
に入るや、目に官・長も無くなり、
中より洋人を播弄
(まるめこん)
で官と難を為さしめ、
以てその勢力をかさに着て人を欺く計りごとを遂げ」
るためである。
「民人がひとたび洋教に入るや、……およそ戸婚・田産・銭債の細故で、
たまたま一度その欲を遂げざることがあると、司に告げずして通事に告げるのである。
通事はまたまた本国の民人に係るが、洋人をもって護符となし、
ただちに出でて平民を恫嚇
(おど)
し、必ずや教民の欲を遂げて
而してのちやむのである。
これをもって強者はあるいは言に怒り、懦者はあるいは色に怒る。》
つづく
これは メッセージ 2067 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年 ノモンハン事件17 激怒する参謀本部
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/23 14:56 投稿番号: [2068 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
153〜155p
《 偉大な戦果を収め得た感激は蔽
(おお)
い得ないものがあった。
早速東京を電話で呼び出し、寺田参謀が
参謀本部作戦課長稲田大佐に直接戦果を告げたとき、 「馬鹿ッ、戦果が何だッ」
と怒号する東京の声が、甲高く漏れ聞こえた。
受話機を持った寺田参謀の手は慄
(ふる)
え、顔面には青筋が立っている。
死を賭して敢行した大戦果に対し、しかも明らかに我は報復行為に出たのに対し、
第一線の心理を無視し、感情を蹂躪して何の参謀本部であろう。
中央部に事前に連絡せず、否むしろ故意に秘匿して奇襲した点は、
幕僚勤務としては確かに妥当でないことを内心秘かに申し訳ないと感じていたのである。
もしもこの際、 「やあ、おめでとう。しかし、この次からは連絡に注意してくれよ……」
とでも言われたら、お詫びの電報でも出したであろうに。
参謀本部作戦課長のこの電話は、関東軍と中央部とを、決定的に対立させる導火線になった。
稲田大佐は実戦の経験は全くなかった。
寺田大佐とは同期生であり、しかもかつて机を並べて共に勤務した仲である。
余りと言えば無礼の一言だ。大戦果の蔭に散った英霊に対し、許し得ない。
この憤激は全幕僚の声であった。
その夜、次のような電報に接した。
軍参謀長宛
参謀次長
関作命甲第一号航空部隊を以てする外蒙内部に対する爆撃の件、本日初めて承知し、
従来当部の諒解しある貴軍の処理方針と根本に於てその主旨を異にし、
事前に連絡なかりしを甚だ遺憾と感じあり。
本問題に関しては申すまでもなく、その影響するところ極めて重大にして、
貴方限りに於て決定せらるべき性質のものに非ず。
当部としては今後と雖
(いえど)
も依然断乎として従来の主義を
厳守せらるべき方針なるにつき、右企図の中止方至急御考慮あり度。
右命に依り。
興奮し切っていた作戦室では、即刻次の返電を起案して発信した。
次長宛
軍参謀長
国境事件処理の根本方針として当軍の堅持しあるところは彼が蠢動
(しゅんどう)
を
未然に封殺し、またはその不法行為を初動に於て痛撃破摧
(はさい)
し、
彼を情伏せしめ、北面の備えを強化しつつ、支那事変の根本的解決に貢献せんとするにあり。
ただ現場の認識と手段に於ては貴部と聊
(いささ)
かその見解を
異にしあるが如きも、北辺の些事
(さじ)
は当軍に信頼して安心せられ度。》
つづく
これは メッセージ 2066 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月19日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/23 14:45 投稿番号: [2067 / 2250]
十八時
《 日本兵が六人、塀を乗り越えて庭に入っていた。
門扉を内側から開けようとしている。
なかのひとりを懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。
だが、大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、
すぐにひっこめた。全員また塀を乗り越えて戻っていくことになった。
おまえらにはそれで十分だ。なにも扉を開けてやることはない。
わが家の南も北も大火事になった。水道はとまっているし、
消防隊は連れていかれてしまったのだから、手の打ちようがない。
国府路ではどうやら一ブロックがそっくり燃えているようだ。
空は真昼のように明るい。
庭の難民は、三百人だか四百人だか正確にはわからないのだが、
筵
(むしろ)
や古いドア、ブリキ板で掘ったて小屋をつくって、
少しでも雪と寒さを防ごうとしていた。
だがこまったことに、なかで料理をはじめてしまったのだ。
火事が心配だ。禁止しなければ。
大きい石油缶が六十四個もおいてあるので、気が気ではない。
けっきょく二カ所だけ、料理をしても良い場所をきめることにした。》
*
「懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した」?
はて?
日本兵はピストルを持っていないのだが?
日本軍は、ピストルなど支給していない。
将校は自決用に持っているが、これは、自前だから弾を無駄に使えない。
日本軍の弾薬はピストル用ではない。
*
大量の日本兵が、今、去って行っている最中だというのに、
南京では、不埒な
“日本兵”
が沢山徘徊しているとは。
実に不思議な事だ。
果たして、この
“日本兵”
は本当に日本人なのか?
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1939年 ノモンハン事件16 タムスク爆撃2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/22 18:56 投稿番号: [2066 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
149〜151p
《 すっかり見とれているうちに思わず我に返った。
操縦席には若い少尉が身動きもしないで、操縦桿を握り、
爆撃手は双眼鏡で地上を凝視し、機銃手は上空を鷹のように睨んでいる。
少尉の肩をたたいた。
「おい……墜ちる……墜ちる、敵が墜ちるぞ」
興奮の余り、少尉に話しかけた。
だがこの少尉は振り向きもしないで、 「敵か、味方かわかりません」
つっけんどんに答えた。
おー、そうか、これが確かに空中勤務者の心理であろう。
いつか我が身に降りかかる運命を胸に浮かべて、
墜ち行く敵に一滴の涙をそそいでいるのではなかろうか。
たちまち機内にケタタマしい機関銃声が起こった。
窓から顔を出して上空を覗くと、
ソ連の戦闘機が二機、三機、後方の上空より我が搭乗機に向かって、
頭をぶつけるかと思われるほど迫っては体を交わしている。
代わる代わる反復する攻撃であるが、幸か不幸か敵の撃ち出す銃声は、
我がエンジンの爆音に打ち消されて、少しも聞こえない。
ただ、我の撃ち出す機関銃声だけが勇ましく聞こえる。
アーッという声と共に、隣り合わせに坐っていた准尉が右腕を撃ち貫かれた。
血だらけになって伏せる。続いて二発、三発、胴体に命中したらしい。
高い金属音が心臓まで響くようである。冷汗が流れる。
爆撃を終わって帰路についた編隊は、いま、数十機の敵戦闘機に襲われたのである。
たちまち後方上空に待機していたらしい我が戦闘機群が敵戦闘機に挑みかかり、
間近において激しい空中戦を展開した。
このときばかりは墜落するものは明らかに敵機であることが確認された。
この戦闘に見とれているうちに、突然機体が周囲の空気と共に、
上空に跳ね上げられるような震動を感じた。
直下を見下ろすと、古いボロ綿をちぎって投げ出したかと思われるような、
一塊の砲煙が、あちらにもこちらにも、縁日の
「しゃぼん玉」
のように上がってきた。
地上から撃ち出した敵高射砲の弾幕射撃であった。
いま少し高度を下げるか敵が射程を延ばしたら全弾が命中しそうである。
飛行機の速度が遅くて堪らないような気持ちがする。尻がムズ痒い。
これらの感覚は数分、多くも十数分の短い時間であった。
大編隊はついに崩されないで、出発当時の隊形を保ちながら、再び満領上空に入った。
やれやれ助かった。見事な戦果であった。
夢のような感慨に耽
(ふけ)
っているとき、宝蔵寺少将搭乗機から無線電話があった。
「爆撃成功せり」
すぐに答えた。
「御成功を祝す」
少将の太い髭の顔が、隣りの機の窓から見える。
ニコニコ笑いながら、大きな掌でしきりに窓を撫で回している。
重任を果たした喜びの顔であった。》
つづく
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1937年12月19日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/22 18:46 投稿番号: [2065 / 2250]
十二月十九日
《 わが家では静かに夜が更けていった。
寧海路にある本部の隣の建物には防空壕があって、二十人ほどの女性がいたが、
ここへ日本兵が数人暴行しに侵入してきた。
ハッツは塀を乗り越え、やつらを追い払った。
広州路八十三〜八十五号の難民収容所からは助けを求める請願書が来た。
南京安全区国際委員会
御中
ここに署名しました五百四十人の難民は、広州路八十三〜八十五号の
建物の中にぎゅうぎゅうに押しこまれて収容されています。
今月の十三日から十八日にかけて、この建物は三人から五人の
日本兵のグループに何度も押し入られ、略奪されました。
今日もまたひっきりなしに日本兵がやってきました。
装飾品はもとより、現金、時計、服という服、何もかもあらいざらいもっていかれました。
比較的若い女性たちは毎夜連れ去られます。
トラックにのせられ、翌朝になってようやく帰されるのです。
これまでに三十人以上が暴行されました。
女性や子どもたちの悲鳴が夜昼となく響き渡っています。
この悲惨なありさまはなんともいいようがありません!
どうか、われわれをお助けください!
南京にて、一九三七年十二月十八日
難民一同
いったいどうやってこの人たちを守ったらいいのだろう。日本兵は野放し状態だ。
これでは発電所を復旧しようにも、とうてい人手が集まらない。
今日そのことでまた菊池氏がやってきた。私はいってやった。
「作業員は逃げてしまいましたよ。そりやそうでしょう、私たちヨーロッパ人さえ
ひどい目にあっているというのに、自分たちが安全なわけがないと思ってるんですよ」
すると菊池氏はいった。
「ベルギーでもまったくおなじ状態でした!」》
*
略奪の品で、 「現金・時計」
は、まーいいとして、 「装飾品や服」
は何に使うのだろう?
兵隊は軍服しか着られないのだが。
つづく
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1939年ノモンハン事件15 タムスク爆撃
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/21 18:51 投稿番号: [2064 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
146〜148p
《 編隊の最外翼の機に同乗して、離陸したのは午前四時半頃であろう。
東天には微かに紅を呈してきた。天候は幸いに快晴である。
タムスク飛行場には、前日夕刻の司偵の偵察で約二百機の敵が集結して
いることは確実である。素晴らしい戦果が期待される。
百三十数機の大編隊がハイラル上空で集合するのに約三十分を費やし、
午前五時、進攻態勢を整えて、直路南に向かった。
前方上空には、数十機の戦闘機が掩護し、後方上空にも十数機が護っている。
その圏内に抱かれるように、重爆の巨体が一糸乱れない編隊を構成し、
爆音も高く暁のホロンバイル上空を南を指して進んだ。
第七飛行団(長、宝蔵寺少将)
重爆二十機
第九飛行団(長、下野少将)
重爆二十七機
軽爆十機
第十二飛行団(長、東少将)
戦闘約八十機
世界の戦史に未だかつてなき大編隊は、あたかも隼の大群が空を掩うようである。
午前六時、地上を見下ろすとボイル湖の水面が旭光を浴びて、
無数の金波銀波をたたえている。
ついに国境上空を越えた。
六時二十分、約三千メートルの高度を以て、目指すタムスク基地の上空に達した。
地上を凝視すると、無数の敵機が銀翼を太陽に輝かせながら離陸している。
そのさまはあたかも若鮎の群が波間にはね返るようであった。
重爆を掩護していた数十機の戦闘機群は、敢然として離陸する敵機の大群に、
高空から挑みかかってゆく。
敵飛行場の上空に達したとき、どうした訳か爆撃の命令が出ない。
その上空を素通りして、少し行き過ぎてから百八十度方向を変換し、
帰路についたとき初めて、爆弾投下の命令が伝えられた。
数十機の重爆から一時に投下する爆弾が、次第に小さい黒点になり、
水滴の滴り落ちるように見えるかと思う間もなく、
タムスク飛行場の半分がモクモクと拡がる爆煙に蔽われた。
爆音は全く聞こえない。
ただ黒煙が入道雲のように、渦巻きながら拡がってゆく。
その煙の中から離陸する敵機の数は数え切れないほどであった。
眼を中空に転ずると、烏の大群が入り乱れて戦うかと思われるばかり、
彼我の戦闘機は混戦乱闘の渦中に巻き込まれている。
黒煙に包まれ尾を曳いて草原上に落下するもの、真っ赤な焔の塊となって
ボイル湖上に墜落するもの等々、その数は到底数え切れない。
草原の上に、幾つかの黒煙が立ち上っているのは、
墜落した敵機の燃え上がる姿であろう。おびただしい数だ。》
つづく
これは メッセージ 2062 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月19日 陸軍移動と幕府山後始末
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/21 18:39 投稿番号: [2063 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
244p
《 以上
(慰霊祭終了)
−で、南京占領の儀式は終了し、
上海派遣軍も第十軍も、翌
(19) 日から南京をはなれはじめ、
十二月二十二日には、南京の日本軍は警備担当の第十六師団だけとなった。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
430p
《 十九日、軍は、第十八師団は安吉−余坑道方面から、
第百一師団は武康、徳清方面から、第一後備歩兵団は嘉興
−
杭州道方面から、
杭州に向かい攻撃するよう命令を下達した。》
431p
《 第百一師団主力は、十九日湖州付近に集結した。》
幕府山の山田支隊
鈴木明著
『「南京大虐殺」
のまぼろし』
194p
《 十九日には、山田旅団は浦口に移動せよとの命令が届いた。》
山田メモ
鈴木明著
『「南京大虐殺」
のまぼろし』
195p
《 十九日
捕虜の件で出発を延期、午前、総出で始末せしむ、
軍から補給あり、日本米を食す。》
山田支隊第65連隊大寺上等兵の陣中日記
[12月19日]
《 午前七時半整列にて清掃作業に行く。
揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に驚く。
石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、
午後二時までかかり業を終わる。昼食は三時だ。」
*
南京大虐殺の写真で、捕虜を焼き殺した云々の、死体黒焦げ写真は、
案外、こういう写真かも知れない。
両角業作
日記
《 昭和十二年
十二月
十九日
次期宿営地への出発準備 》
これは メッセージ 2038 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年ノモンハン事件14 中央に秘密の策戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/20 18:52 投稿番号: [2062 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
142〜145p
《 その結果に基づき、また全般の空中戦と、第二飛行集団長の意見具申によって
下されたタムスク基地急襲の軍命令は、次の通りである。
関作命
(*関東軍作戦命令)
甲第一号
六月二十三日十時
於新京
一、軍は速に外蒙空軍を撃滅せんとす。
二、第二飛行集団長は好機を求めて、速にタムスク、マタット、サンペーズ付近
敵根拠飛行場を攻撃し敵機を求めて之を撃滅すべし。
この軍命令は実に重大であって、一歩誤れば、中央をも敵にしなければならぬ。
しかし、敵がすでに我より先んじてカンヂュル廟とハロンアルシャン付近を越境爆撃
した以上、報復として外蒙領内の敵基地を爆撃することは当然許さるべきである。
任務達成上の戦術的手段として、軍司令官の権限に属するもので、
別に大命を仰ぐべき筋合ではないと判断したのであった。
むしろ、中央部には黙って敢行し、偉大な戦果を収めてから、
東京を喜ばせてやろうというような茶目っ気さえ手伝ったのである。
殊に事前の漏洩を恐れて、第二飛行集団長に対しても口頭や電報を避け、
筆記命令を幕僚が携行し、直接交付するような注意さえ払った。
東京に対してはたまたま事務連絡で上京する島貫参謀に、
筆記命令を携行して呈出させることにされた。
地上作戦は、七月一日頃と予想している。
この時期の直前に、タムスクを衝
(つ)
くことが望ましい。
寺田、服部両参謀は、飛行集団長に進攻作戦の命令を伝えると共に、
実行日を飛行集団と協定するためにハイラルに出張した。
その結果は地上決戦の一、二日前に決行することとなったが、
天候の関係もあるので、時機の選定は飛行集団長に一任することにした。
東京に報告したら、必ず反対されるであろう。
「島貫参謀が着京するまでに、できたら決行しなければならぬ」
と
時を待っていたところ、突然全く予期しない電報が来た。
軍参謀長宛
参謀次長
一、満領内に侵入せる敵を撃退する西方面作戦間、その他の正面の国境紛争は
極力之を避けること、並に西方面外蒙内部の爆撃を実施せざることは、
中央に於ける国境紛争の拡大防止上必要とすることにして、
右、貴軍従来の方針と合致しあるものと考う。
特に内部爆撃は彼我逐次之を内部に及ぼすに至るべく、事件を却って
長引かしむるものにして適当ならずと考えあり。
為念。
二、作戦上の連絡のため明二十五日有末中佐を飛行機により派遣す。
島貫参謀はまだ着京しないはずだ。誰か事前に漏洩したにちがいない。
調査の結果、関東軍第四課片倉参謀が寺田課長より絶対極秘として打ち明けられたことを、
事務連絡のため上京して、軍事課長岩畔
(いわくろ)
大佐に洩らし、
次いで参謀本部に漏れたものであった。
いまや中央は、進攻作戦に反対であることが明瞭である。
もし実行を延ばすと、必ず正式に中止命令が来るであろう。
有末中佐が止めに来る前に決行したいと考えて、
第二飛行集団長に可能の限り繰り上げて実行すべく指導された。》
つづく
これは メッセージ 2058 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年12月18日ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/20 18:39 投稿番号: [2061 / 2250]
十二月十八日
《 最高司令官がくれば治安がよくなるかもしれない。
そんな期待を抱いていたが、残念ながらはずれたようだ。
それどころか、ますます悪くなっている。
塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様だ。
なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやにおさめた。
私が家にいるかぎりは、問題はなかった。
やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。
だが、中国人に対してはそうではなかった。
兵士が押し入ってきた、といっては、絶えず本部に呼び出しがあった。
そのたびに近所の家に駆けつけた。日本兵を二人、奥の部屋から引きずり出したこともあった。
その家はすでに根こそぎ略奪されていた。
日本人将校と発電所の復旧について話し合っていたとき、目と鼻の先で
車が盗まれたこともあった。何とか苦労して取り戻すことができたが。
将校の言うことになど、兵士たちはほとんど耳を貸さないのだ。
中国人が一人、本部に飛びこんできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたという。
言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで!
私は発電所の復旧の件で話し合っている将校に、なんとかしてくれと申し入れた。
するとその将校は日本語で書かれた札をくれた。
さっそくそれをドアに貼ることにして一緒に家に戻った。
家に着くと、ちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。
すぐに彼は将校に追い払われた。そのとき近所の中国人が駆けこんできた。
妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で四人だということだった。
われわれはただちに駆けつけ、危ないところで取り押さえることができた。
将校はその兵に平手打ちを食らわせ、それから放免した。
ふたたび車で家に戻ろうとすると、韓がやってきた。
私の留守に押し入られ、物をとられたという。
私は身体中の力がぬけた。車から降りて、私はその将校にいった。
「一人で先にいってください」。
次から次へと起こる不愉快な出来事に、実際に気分が悪くなってしまったのだ。
しかし将校はそうはしなかった。私にあやまり、きっぱりといった。
「今日のことで、あなたがたの言うことが誇張ではないということがよくわかりました。
一日も早くこの事態を改善するよう、精一杯努力します」
十八時
危機一髪。日本兵が二人、塀を乗り越えて入りこんでいた。
なかの一人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣をほうり出し、難民の少女におそいかかっていた。
私はこいつをただちにつまみ出した。
もう一人は、逃げようとして塀をまたいでいたので、軽く突くだけで用は足りた。
夜八時にハッツがきた。
日本の警部といっしょだ。かなりの数の警官をトラックにのせてつれてきている。
金陵大学にある難民収容所を夜間見張るためだという。
日本大使館での抗議が早速いくらか役に立ったようだ。
・・・・
もらった貼り紙はあまり役に立たない。兵士たちはほとんど気にしないのだ。》
* この日は慰霊祭をやっているというのに、
勝手に出回って悪さをしている日本兵がいるとは、実に不思議なことだ?
翌日から、第十軍も上海派遣軍の大部分も南京を去らなければならない。
その準備をしなければならないのに、悪さをしてる暇があるとは?
犯行をやってる奴は移動命令とは無縁の者だろう。本当に日本人なのか?
これは メッセージ 2030 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年6月 天津租界で中国法幣の流通禁止
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/19 18:43 投稿番号: [2060 / 2250]
児島襄著
『日中戦争5』
215~216p
《 日本側が任命した天津海関監督程錫庚が暗殺され(四月九日)、
北支那方面軍が犯人引渡しを英国側に要求したことに、はじまる。
英国側は拒否回答をおこない、
次いで第三国代表をふくめた特別法廷での容疑者審理を提案した。
日本側は反対し、六月十四日、英租界を封鎖するとともに、
同二十三日、天津市長温宗堯を通じて、租界における中国法幣の流通禁止、
現銀の搬出などを要求した。
法幣すなわち国民政府の通貨であり、天津租界問題の焦点は、じつは、そこにあった。
法幣の価値の下落は、そのまま国民政府の信用と経済基盤の崩壊につながり、
抗戦力の低下を招来するからである。
現に、日本側は臨時政府により円系通貨で法幣を回収し、
また香上銀行の外貨売り停止などによって、
六月上旬には一元・六ペンス台に暴落させていた。》
これは メッセージ 2046 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年の慰霊祭後の涙の訓示はなかった6
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/19 18:38 投稿番号: [2059 / 2250]
板倉由明著
『本当はこうだった南京事件』
306〜308p
《 言うまでもなく、松井大将は昭和二十三年十二月二十三日に処刑されており、
『上海時代』
の出版はその二十数年後のことである。
順序で言えば松本氏の錯覚は、松井大将の錯覚から誘導された可能性もある。
つまり松井大将自身が慰霊祭を一回だけ、と錯覚
(半ば故意?)
していたのかもしれない。
その最大の原因は、東京裁判対策の誤算であろう。
松井大将は裁判に出頭する前に弁明資料として
「支那事変日誌抜粋」
を書き、
基とした日記を始末したという。
しかし、この日記の中で、なぜか残った昭和十二年十一月一日以後の分は、
田中正明氏が発見されて、御殿場の自衛隊に保管されている。
「日誌抜粋」
は戦後の執筆で、申し開きの目的で書かれたものであるから、
南京事件解明には直接役にたたない。
しかし東京裁判に臨むにあたっての、松井大将の
「傾向と対策」
を
探る上での資料としては貴重である。
この中で最も力点の置かれているのは、第三国権益の侵害に対して
松井大将のとった措置の弁明で、量として約四十%を占めている。
つまり松井大将は、裁判に於いてここが最も攻撃目標にされると考えたのであろう。
中国人に対する日本軍の非行としては、 「暴行・掠奪」
が、ぐっと減って
十五%程度に落ちるが、 「虐殺」
に至っては全く無いといってよい。
・・・
その
「日誌抜粋」
の
「五、我軍ノ暴行、奪掠事件」
の中では次のようになっている。
「因
(よっ)
テ予ハ南京入城翌日
(十二月十七日)
特ニ部下将校ヲ集メテ
厳ニ之ヲ叱責シテ
善後ノ措置ヲ要求シ、犯罪者ニ対シテハ
厳格ナル処断ノ法ヲ
執ルヘキ旨ヲ
厳命セリ。」
・・・この括弧内の日付は一日違う。・・・
推理すれば、全くの記憶違いでなければ、
この部分は自己の処置に手抜かりが無かったことを強調するため、
二月の慰霊祭後の訓示を流用したものと考えられる。
実際にはこの時南京で悪い印象は持たずに、
ご機嫌で二十一日に上海に帰っていることが日記からも察せられる。
松井大将としては、部下の非行に対し ごく早い時期に厳重な注意や処置を
講じていたことを立証して責任を免れるためには、
「訓示」
は十二月の慰霊祭後に行ったことにする必要があったのであろう。
無論、二月に諭した
「非行」
が
「大虐殺」
でなかったことは後述のように明瞭である。
しかし、この錯誤は定着し、その
「意味」
は当初の松井大将の意図と逆に、
あたかも
「大虐殺」
の存在証明と》
されてしまったようです。
これは メッセージ 2057 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年 ノモンハン13 タムスク攻撃計画
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/18 15:22 投稿番号: [2058 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
141〜142p
《 敵は六月十八、十九日、大編隊を以て
カンヂュル廟とハロンアルシャン方面を爆撃したのにもかかわらず、
手綱を引き緊めて敢えて進攻を許さなかったのは、
ただ中央部の不拡大方針に忠実ならんとする関東軍司令官の意図からであった。
地上においても述べたような徹底した兵力で、敵を撃破しようと決心した以上は、
空中においても先制急襲によって、制空権を我が手に収める必要が当然考えられる。
進んでタムスク飛行場を攻撃する考案が立てられた。
六月二十日、小松原師団長に作戦命令を伝えた後、敵の再度の越境を確かめるべく、
四たびハイラルに出張した。飛行集団に交渉し、司偵機に搭乗して、
タムスク根拠飛行場を偵察するため、南に飛んだ。
操縦士は曹長であり、酸素吸入の準備が間に合わないため、
高度を四千メートルに取って、ボイル湖上空からまっすぐタムスクの上空に突進した。
曹長は敵の戦闘機を心配したのであろう。
ついに五千メートルまで高度を上げたため呼吸は段々苦しくなった。
「おーい、苦しいぞ、少し下げてくれ」
悲鳴を上げたがなかなか首肯(き) かぬ。ああ、秋山少尉が欲しい。
タムスクの上空で旋回し、地上を見下ろすと、草原の上に数十条の轍痕が
鮮やかに残っている。しかし、飛行機らしいものはさっぱり見当たらなかった。
ただ、灰白色の袋状をしたものが、無数に積まれてある。
「何だろう、得体の知れないものだ」
低空に降下して正体を確かめようとしたとき、敵戦闘機の一群を前方の雲の間に発見した。
曹長は急旋回して東に飛んだ。残念だが仕方がない。
秋山少尉ならば必ず偵察の目的を達したであろうに
−。
夕刻、新京に着陸した。
前作戦課長安倍克己大佐は、飛行戦隊長として、新京飛行場に迎えてくれた。
転任してからまだ三、四カ月も経たぬ間に、立派に部下を掌握し、
偵察戦隊を使いこなされている。
この大佐は、元編制動員の主任として参謀本部に重きをなし、
次いで関東軍作戦課長に転じ、約二年にわたる対ソ作戦準備に偉績を収めた人材である。
余りに切れて、余りにも烈しかったため、
味方の中に敵を作ったことも転任の一因ではあろうが、
しかし大佐はこの第一線勤務に喜んで転出したのであった。
タムスク偵察の報告を聞いて、
灰白色の堆積は恐らくガソリンであろうと判断を下された。
その結果に基づき、また全般の空中戦と、第二飛行集団長の意見具申によって
下されたタムスク基地急襲の軍命令は、次の通りである。》
つづく
これは メッセージ 2056 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年の慰霊祭後の涙の訓示はなかった5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/18 15:13 投稿番号: [2057 / 2250]
松本氏自身が不思議がるように、どうしてこんな間違いが生じたのだろうか。
板倉由明著
『本当はこうだった南京事件』
305〜306p
《 よく読めば
『上海時代』
での慰霊祭の描写には十二月のものと
二月のものが混合している。松本氏が出席していない十二月の描写は、
前田氏など出席した同盟記者からの伝聞であろう。
その前田氏の
『戦争の流れの中に』
には、日記にもないこの場面が、
同様に、見てきたように記されている。
ジャーナリストの面目躍如だが、同盟系記者の錯誤だけを責めてはいけない。
張本人の松井大将自身が両者を混同しているのである。
昭和二十三年十二月九日、巣鴨拘置所で処刑を控えた松井大将は
教諭師・花山信勝氏に次のように語ったという。
「慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍司令官として泣いて怒った。
そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、せっかく、
皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまったと。
ところが、このあとでみなが笑った。はなはだしいのは、ある師団長の如きは
『当り前ですよ』
とさえ言った。」
(花山信勝・『平和の発見』)
この文の中での間違いは、二月には柳川中将など第十軍関係者は参列しておらず、
「ある師団長」
とは巷間中島中将と目されているが、すでに北支に移動しており、
これは一月二十四日、上海での転進挨拶の際の暴言の混同であろう。
もっとも松井大将と中島中将の関係は良くなく、
正月に南京を視察した陸軍省の阿南
(惟幾・少将)
人事局長に、
その乱暴な指揮ぶりを訴えている位である。
いずれにしても飯沼日記その他から推測して、宮殿下も恐縮して叱責されている面前で、
暴言はもとより、少なくとも「笑う」ような雰囲気ではなかったはずである。》
つづく
注
:
柳川中将など第十軍は12月の慰霊祭のあと、
杭州に向け出発したので、2月には南京にいない。
これは メッセージ 2055 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年6月 ノモンハン事件12 態度を検討
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/17 15:37 投稿番号: [2056 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
130〜132p
《 第二十三師団は、 「防衛の責任上進んでさらに徹底的に膺懲したい」
との意見を具申してきた。
たたくべきか、黙殺すべきかを決せねばならぬ。
作戦室には寺田高級参謀以下作戦参謀全員集合し、軍の採るべき態度について研究した。
寺田参謀はおもむろに口を開いた。曰く、
「関東軍司令官が防衛上の責任においてこれを撃破駆逐するのは当然であるが、
シナ事変を処理するに最も重大影響を持つものは対英処理である。
いまやこの根本問題が順調に軌道に乗ろうとしているとき、
満州でソ連との間に大規模の紛争を起こすことは、中央部の気分をこの方面に牽制し、
対英処理を不徹底に終わらしめる原因となるおそれがある。
既往の経験より見ると、張鼓峰事件は、漢口作戦の最も重要な時期で
あったにかかわらず、中央部全部、とくに作戦関係は
上下すべて張鼓峰に牽制せられシナ作戦はお留守になった。
であるから、ノモンハンの始末は対英処理がある程度進捗した時機に選定してはどうか」
まさに穏健妥当、一理ある所論であった。
著者の意見はこれと全く反対であった。
「不拡大を欲せば、侵犯の初動において、徹底的に殲滅することが必要であり、
相手は我が譲歩で満足するような良心的な敵ではない。
日英会談を効果的ならしめる方法はむしろ、不言実行の威力である。
万一ノモンハンで明瞭な敵の挑戦を黙視せば、必ずや第二、第三のノモンハン事件が、
さらに重要な東正面あるいは北正面においても続発し、
ついに全面衝突に至るおそれなしとしない」
と、徹底膺懲を主張した。
三好、服部両先輩も、大体において、著者の意見に同意を表され、
さらに慎重審議の結果、寺田参謀以下全員積極論に一致し、
次いで第二、第三課長も合同して、寺田参謀よりの説明企図を諒承し、
対外蒙作戦要綱を立案したのであった。
この半日の検討は、ノモンハン事件処理を左右する重大な意義がある。
もし、素直に寺田参謀の意見を採用し、攻勢時期を日英会談終了後に延期したら、
当然秋となり、間もなく冬を迎えるから、
第二次ノモンハン事件は、あるいは翌年に持ち越され、
または欧州情勢の変化で立ち消えになったかも知れない。
しかし、それはスターリンの意志によってのみ決定し得たであろう。
第一次ノモンハン事件の処理において、
関東軍が如何に慎重に不拡大方針を堅持したかは、前にも述べた通りである。
山縣支隊を不徹底な打撃のまま撤退させたとき踵
(きびす)
を接して再侵犯し、
しかも満領内の二要点
(カンヂュル廟と温泉)
に大規模の爆撃を
加えてきたソ連の動向を見究めると、
このまま温順
(おとな)
しく引き退がる相手ではない、と断じたのであった。》
つづく
これは メッセージ 2054 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年の慰霊祭後の涙の訓示はなかった4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/17 15:25 投稿番号: [2055 / 2250]
板倉由明著
『本当はこうだった南京事件』
301〜304p
〈①
十二月十七日の入城式には参列していない。
②
そのころ南京へ行ったのは一回だけ。
③
汽車で往復した。
④
参列者は五百人から一千人くらい。
①はジャーナリストがメインイベントたる入城式を抜かして、
慰霊祭だけ参列するはずがない。・・・
②は前田日記によれば二月七日の確証がある。
松本は慰霊祭前に、同盟支局で支局員たちに会えなかった、と
「上海時代」
に記しているが、これは翌日から発行の
『南京新聞』
の準備に忙殺されていたのである。
③は汽車の開通は鎮江のトンネルが不通のため十二月二十二日からで、
入城式、慰霊祭参列の人々は、海軍艦艇に便乗して揚子江を遡行して
下関から上陸した。
④の参列者数は十二月十八日には三千人以上は確実だが、
二月七日は各部隊が長以下数名の代表で参列したため
ほとんどが将校で、五百人程度であった(石松政敏氏談)。
しかし決定的な確証は、防衛研究所戦史部・原剛氏によってもたらされた。
原氏が発見した二月八日の
『ノース・チャイナ・デイリーニューズ』
『チャイナ・プレス』
には正に相当する同盟配信の記事があったのである。
《
「松井将軍軍紀引き締めを命令
日本軍兵士の行為についての非難に直面して厳命」
(南京
二月七日=同盟)
戦死した日本軍将兵追悼式後の厳粛な雰囲気の中で、中支那派遣軍(ママ)
総司令官松井石根大将は、本日、部下指揮官に対し「帝国陸軍の威信を高めるために」
各自の指揮下部隊における軍紀を引き締めるよう訓示した。
風吹きさらす南京練兵場で訓示を受けた高級士官の中には、
皇族の朝香鳩彦王中将宮殿下がおられた。
戦争状態の長期化が予想されるため、
日本軍部隊の決意に関して長い時間をかけて語った松井将軍は、
部下将兵に対し、日本軍部隊の威信に影響を与えている種々の報道に
終止符を打たせる必要性について注意を喚起した。
日本陸軍の歴史上未曾有と言われる将軍のこの訓示は、
日本軍部隊の報道された軍紀違反について不利なコメントが
繰り返される事態に直面して行われたものである。》
・・・・
昭和六十二年三月十六日、この新聞コピーを持参しての再度の訪問で、
松本氏は
「間違いなくボクの記事だ」
と記憶違いを率直に認められた。
しかし、松本氏自身が不思議がるように、
どうしてこんな大きな間違いが生じたのであろうか。〉
*
ここで、松井大将の訓示は12月には無かったけど、
2月に有ったことが判ります。
つづく
これは メッセージ 2053 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年6月 ノモンハン11 また攻撃される
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/16 18:56 投稿番号: [2054 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
128〜130p
《 愚にもつかぬ砂漠の一隅で、これ以上血を流すべきではない。
むしろ主力の対峙する東部正面と、危機を孕む北部正面との作戦準備を強化しなければならぬ。
ノモンハンの僻地
(へきち)
で事を起こしたのは、シナ戦線の作戦を牽制するソ連の謀略である。
彼にして真に本格的侵略を考えているとせば、
ノモンハンに我が兵力をできるだけ吸収した後に、東または北正面から攻勢を取るであろう。
北正面では、第四軍司令部が編成されたばかりであり、
その方向を与えるために六月中旬、植田軍司令官に矢野参謀副長、
寺田、服部、村沢、辻の各参謀が随行して、孫呉
(そんご)
に出張した。
第四軍司令官中島中将の情況報告が終わり、軍司令官統裁の兵棋演習を検閲した後、
植田将軍は一部の随員と共に北安
(ほくあん)
に、
幕僚主力は黒河方面の国境守備隊を視察して、十八日、新京に帰った。
当時天津においては、日英会談が進行中であり、
現地軍が相当強硬態度で租界
(*イギリス)
封鎖を強行しているニュースがあった。
シナ事変の処理、欧州情勢の緊迫など内外多端の折柄、
ノモンハン方面で兵力を牽制されることは好ましくない。
「適当に、できることなら頬被りして相手にすまい」
と考えながら、
別にハイラル方面に増兵する考えもなく、
むしろ何とかしてシナ事変の解決に関東軍として策応すべき方策は
ないものかと思案しているとき、
現地からの報告は、 「外蒙及びソ連軍に何ら慎重な態度が見えず、
大規模に兵力を増強し、戦備を強化しているらしい」
というものだった。
明らかにシナ事変を牽制するための政略的意図を持っているにちがいない。
計画的侵犯の兆候はますます濃化してきた。
六月十九日朝、小松原師団長から軍機電報が来た。その内容は、
一、ノモンハン方面の敵は逐次兵力を増強し、有力なる戦車を伴う敵は、
昨朝満軍を蹂躙駆逐せり。
二、約十五機の敵爆撃機は昨日温泉方面を攻撃し、人馬に相当の損害を与えたり。
三、約三十機の敵爆撃機は、同日朝カンヂュル廟附近を攻撃し、
同地に集積しありしガソリン五百缶を焼却せり。
事態はまさに容易ではない。
従来相互に空中越境したものの、それはいずれも単機偵察の範囲を出でなかった。
にもかかわらず、大編隊の爆撃機を以て、深く国境を越え、
カンヂュル廟と温泉に盲爆を加えるとは、本格的挑戦であると断ぜざるを得ない。
このまま見逃せば、ハイラルやチチハルを爆撃するであろう。
左の頬をたたかれて、さらに右頬をたたかすか、
あるいは断乎として敵の出鼻を挫き、白熊の巨手を引っ込めさすかの判断に迷った。》
つづく
これは メッセージ 2021 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年の慰霊祭後の涙の訓示はなかった3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/16 18:47 投稿番号: [2053 / 2250]
板倉由明著
『本当はこうだった南京事件』
299〜302p
《 ところで、慰霊祭はもう一回あった。
翌昭和十三年二月七日の上海派遣軍慰霊祭 (十二月の慰霊祭の五十日祭にあたる) である。
松井日記は次のように記す。
「嚢
(さき)
ノモノハ
戦勝ノ誇ト気分ニテ
寧
(むし)
ロ 忠霊ニ対シ
悲哀ノ情少カリシモ、
今日ハ只々悲哀其
(その)
物ニ
捉
(とら)
ハレ
責任感ノ太ク胸中ニ
迫ルヲ覚エタリ。
蓋
(けだ)
シ
南京占領後ノ軍ノ諸不始末ト
ソノ後地方自治、政権工作等ノ
進捗
(しんちょく)
セサルニ起因スルモノナリ。
仍
(よっ)
テ 式後参集諸隊長ヲ集メ
予ノコノ所感ヲ披露シテ
一般ノ戒飭
(かいちょく)
ヲ促セリ。」
この訓示は相当のショックを朝香宮司令官を始めとする参列者に与えた。
国際委員会公文書、上村
(利通、上海派遣軍参謀副長・大佐)
日記にも記されているが、
飯沼日記によればその内容は
「南京入城ノ時ハ
誇ラシキ気持ニテ
其翌日ノ慰霊祭
又
其気分ナリシモ
本日ハ悲シミノ気持ノミナリ。
其レハ此
(この)
五十日間ニ幾多ノ忌
(いま)
ハシキ事件ヲ起シ、
戦没将兵ノ樹テタル功ヲ
半減スルニ至リタレハナリ。
何ヲ以テ
此英霊ニ見
(まみ)
へンヤ」
という趣旨であった。 しかし、この訓示に対する軍人一般の評判はあまり良くなく
「凱旋気相当ニ横溢シアルハ怪シカラヌトノコトモアリ」
といった批判があり、その夜の晩餐会での
「宣撫ハ
兵十人ニ
一人ノ支那人ヲ
難有ク思ハセヨ」
という要望にも、「日本兵より支那人が可愛いのか」 という声があったようである。
・・・・
この日、松本氏が深堀
(遊亀、上海派遣軍報道部長)
中佐と南京に居たことは、
『南京新聞』
発行と関連して、前田雄二氏の日記及び
『戦争の流れの中に』
に記されている。
「南京戦史」
の編集メンバーが初めて松本氏に会ったのは昭和六十一年暮であった。
このとき確認したのは次の四点である。
①
十二月十七日の入城式には参列していない。
②
そのころ南京へ行ったのは一回だけ。
③
汽車で往復した。
④
参列者は五百人から一千人くらい。
これでほぼ二月説が立証されたとみてよい。》
つづく
これは メッセージ 2051 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年 裏切られた汪精衛
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/15 18:58 投稿番号: [2052 / 2250]
胡蘭成著
『日本及び日本人によせる』
日月書店
57p
《 汪精衛はまず周仏海等を従えて渡日し、
東京で近衛首相と会ってその真意を確かめてから上海に帰り、
蒋介石軍事委員長に打電し、近衛声明の線に沿って講和の緒口をさぐり出した。
汪精衛は蒋介石に
「これで私の役は終わった。本場所は貴方に頼む。
あなたがやれば、まず両者が即時停戦できる」
と勧めた。
しかし、その間に事情は既に違っていた。
米国は中国に対して軍事物資の援助を開始することを明らかにした。
ソ連も中共にだけ軍事援助を進めてきた。
蒋介石も長期抗戦を決意した。理由は日本軍の攻勢はいま、既に峠を越した。
抗戦は米国の援助によって続けることが出来る。
もし国民政府が講和をしても、中共軍は承知しないで国民を分裂させる恐れがある。
そして戦後破れた経済を修復する為に、
更にまた戦後ソ連の後見を得た中共と内戦にでもなければ、
米国に頼むこともあり得るから、
米国の意向を無視して講和すべきではないというのであった。》
*
というわけで結局汪精衛は裏切り者にされました。
米国は日中戦争をやめさせたくなかったようです。
この米国の行動が戦争を終わらせなくさせ、仏印進駐、大東亜戦争へと進ませます。
*
ここで、文章では
「東京で近衛首相と会って」
となっていますが、
近衛氏は、もう、首相を辞めていますので、元首相と言うべきでしょうが、
米国などでは、元大統領も
「大統領」
と言うそうですから、
案外、間違いではないのかも知れません。
これは メッセージ 2050 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年の慰霊祭後の涙の訓示はなかった2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/15 18:51 投稿番号: [2051 / 2250]
飯沼守少将日記の原文は
《◇十二月十八日
午前二・〇〇より首都飯店にて参謀長会同。
殿下より方面軍参謀長に伝へよとのこと、
師団長と共に訓示を与へらるることの其内容如何に依りては軍司令官の顔立たす。
(伝ふ)司令官より老婆心として談話。
「 今後更に奥地に敵を窮迫すへきか否やは大本営の指示に依るものにて
不明なるも我個人の考にては現在の命令範囲にては不十分。
江北、浙江省方面にも軍の地歩を広く獲得するは
支那人に新らしき決心を催する必要なりと考へあり故に意見を具申し度思ひあり
故に一時後方に移駐する師団も更に前進する機会あるを考へあるを要す。
要は武威に懼服せしむると共に皇軍に心服親和せしめ日支一体の必要を
感せしむる以外出征の目的達成の途なし。
(中略
全文は
「1937年12月18日
慰霊祭と訓示」
を参照のこと)
国際関係に対する自分の信念としては
支那人には和く親切に英米其他諸外国に対しては正しく言ふに在り、
外国人に対し日本か恐れすと認めしむるか支那人を反省せしむる途なりと考へあり、
但し徒に感情的に諸外国に不快の観念を与ふるは不可なり。
英米政府は極東に於ける日本の勢力を認識しあり。
従て彼等は日本と協調的方針を採るへしと見透しあるも
彼等の国民に対する政策上其通り実行し得さる点あり。殊に英国政府然り。
大国の襟度を以て裕々迫らさる態度にて接するを可とす。」
以上将校には伝へられたし。
次に塚田参謀長より書類の朗読的説明、
原田少将より治安及宣撫工作に就て若干の説明ありたり。・・・・》
となっていまして、 「
」
の部分が例の “訓示” と同じ文章です。
これは、朝香宮殿下が飯沼参謀長に、
「師団長と一緒に訓示を与えられたら、内容次第では軍司令官の顔が立たん」
と、
中支那方面軍参謀長に伝えてくれ、と言ったという話です。
「方面軍参謀長に伝えよ」 、ということは、
中支那方面軍参謀長より松井大将に伝えてくれ、ということです。
要するに、殿下も松井大将もこの場にいないのです。
その後に
「(伝ふ)司令官より老婆心として談話」
と来れば、
ここでの司令官は、朝香宮上海派遣軍司令官となります。
「次に塚田参謀長より」
とありますが、この人が方面軍参謀長で、
松井大将直属の参謀長です。
従って、先の談話が、塚田参謀長より伝達されたのなら、松井大将の談話
となりますが、飯沼参謀長が伝達したのですから、朝香宮の談話です。
これは、早瀬氏が、先入観から、松井大将の訓示と勘違いしたのでしょう。
つづく
これは メッセージ 2049 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1939年 汪精衛の訪日は蒋介石との密約
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/14 19:02 投稿番号: [2050 / 2250]
胡蘭成著
『日本及び日本人によせる』
日月書店
54p
《 汪精衛は
「自分は敵陣に入って講和を提案する。
そうしたらば敵の攻勢をいささかでも緩めることができよう。
講和は平等の立場で出来ると思うが、もし失敗したなら自分は国賊にされても、
蒋さん、あなたには名誉の抗戦に努めてもらいたい」
と
蒋介石との間に極秘の打合わせをし了解を得たものと思われる。
当時私は汪精衛の側近にいたが、このことは確かめてみなかった。
戦後三十年を経た一昨年のことであるが、
私は台湾で、中国文化学院の同僚K教授から次の話を聞いた。
K教授がかつてメキシコにいた時、元重慶政府の外務省旅券課長金庸寿から
親しく聞いた話である。
「あの日、汪先生は秘書を通じて出国旅券を求めてきた。
戦時中、勅任官以上の出国には蒋軍事委員長の許可が必要であった。
しかし、汪先生は国民党の副総裁である。金課長は外務大臣王寵恵にこのことを伺った。
王寵恵は即時電話で直接蒋委員長に伺ったところ
『よろしい』
との
返事を得たのである」と。
これでこの間の事情は明らかであろう。》
56p
《 この
(近衛文麿の)
呼びかけに応じて、
汪精衛は脱出と見せかけて重慶から講和に向かわれたのである。
汪精衛は安南のハノイに着くと、重慶派遣の特務に襲われ、
同志の曾仲鳴が射殺された。
そして重慶では汪精衛は国に謀叛したと発表され、国民党の籍を刺奪された。
暗殺を指揮した特務主任陳恭ジュは後年上海で次のように語った。
「あの晩、汪先生は辛うじて難を逃がれたというのではなく、
上からの極秘命令で、射つなといわれたからである。」
しかし、擬装の襲撃といいながら、曾仲鳴の射殺はひどかった。
偽装という意味は、
汪精衛が交渉の相手でなくては日本側は全面講和の相手にしてくれない。
しかし、全面講和というと重慶側の抗戦の士気を挫く恐れがあるので、
講和が成功する時まで蒋介石は講和に同意したのではないというふうに
しておきたかったのである。》
つづく
これは メッセージ 2048 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年の慰霊祭後の涙の訓示はなかった1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/14 18:53 投稿番号: [2049 / 2250]
多くの本が、松井大将が慰霊祭のあと、
「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、
一部の兵の暴行によって、一挙にして、皇威を墜してしまった」
と
泣いて叱ったと書いています。
そして、 「ある師団長などはせせら笑った」
とも。
こういう記述から、「松井大将はこの時期、南京大虐殺を知っていた。」
として、大虐殺の根拠にされているわけです。
ところが、板倉由明氏の調べによると、これは間違いだそうです。
彼は、その著
『本当はこうだった南京事件』
日本図書刊行会
で
慰霊祭後の松井大将の
「涙の訓示」
は無かった。と言っています。
同書299p
《 しかし不思議なことに、参列者の記憶や一次資料によればこの日、
慰霊祭の後に訓示は無い。
例えば
「次イテ軍司令官以上ノ玉串奉奠ヲ以テ式ヲ終ル。時ニ午後二時四十五分頃ナリ」
(第十軍参謀・山崎正男少佐日記)
と泣くも泣かぬもない至極アッサリしたものである。
ご本人の書いた松井日記はもちろん、派遣軍参謀長・飯沼守少将日記、
参謀副長上村利道大佐日記、その他すべて集めた限りの日記に
この
「訓示」
は無い。
また、掲載されたはずの英字新聞も、
松本氏が
「絶対にあるはず」
とはいうものの、今まで発見されていなかった
と書いています。
「チョット待て、お前の書いた
『2042
1937年12月18日
慰霊祭と訓示』
の中に、
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
140〜142p
の引用として、
“飯沼守参謀長は、この朝の松井訓辞を、日記にこう記している。”
とあるではないか。」
と言われるかもしれません。
ところが、飯沼守少将日記を子細に調べてみると、
これは午前二時の参謀長会議での話であって、慰霊祭後の話ではないのです。
かつ、これは、松井大将の言葉か、どうかも、判りません。
つづく
これは メッセージ 2047 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/2049.html
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