南京関係 角良晴証言の間違い
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/12/01 14:08 投稿番号: [2083 / 2250]
②《 日本軍入城時、城内には一般住民は一人も居らず、城内での虐殺は無かった。》
角はこの時、蘇州にいて、13日の南京を知らない。
住民は城内の安全区にいた。
③ 《 日本軍来襲以前に、住民二十五万人はすべて下関に集まり、対岸浦口に渡ろうとした。》
12日夜、船を求めて下関を右往左往したのは、中国軍兵士であって住民ではない。
④《 揚子江に面した西側城壁はキレイに取り除かれ、ユウ江門は木の枠だけ残っており、
避難民の城内から下関への通行は自由であった。》
これも、彼が当時を知らなかっただけで、門は通行不自由だった。
⑤《 渡し賃は渡江希望者が殺到して最初の五ドルが十ドルになり、
最後には三十ドルに上って貧乏人には払えなくなった。》
船がないので渡し賃も何もない。
⑥《 結局ほぼ半数、十二、三万の住民が渡江できずに下関で第六師団に捕まった。》
第六師団に捕まったのは南から北に逃げた中国軍第七十四軍の兵士で、
住民は、城内の安全区にいた。
⑦《 十二月十七日朝、第六師団から首都飯店の軍司令部情報課に電話があり、
下関の支那人十二、三万をどうするか、と聞いてきた。
課長・長勇中佐は簡単に
「ヤッチマエ」
と命令した。》
17日朝、方面軍司令部は湯水鎮にあった。
昼からの南京入場式のため移動中で、午前中はまだ南京に来ていない。
さて第6師団が下関に来たのは13日、それも、佐々木隊の何時間か後。
よって、南から追撃していた中国兵以外の捕虜捕獲は無理。
そもそも、第6師団は第十軍所属で、長勇は上海派遣軍の参謀。
井本熊雄の
「支那事変作戦日誌」
の組織表では、
上海派遣軍の参謀となっていて、中支那方面軍の参謀は別にいる。
仮に、この話が十七日夕方であったとしても、
この時は、もう中支那方面軍の参謀が来ているから、
第6師団が上海派遣軍の参謀
「長勇」
にお伺いを立てる事はありえないし、
かつ長勇も第6師団に指図は出来ない。
というわけで、この話はメチャクチャ、信憑性ゼロ。
角は、大量の死体を見て、日本軍がやったと勝手に想像し、
罪の意識から、このような虐殺話を夢想したのだろう。
戦後のいい加減な人の作り話も加えて。
中支那方面軍ができる前は、松井大将が上海派遣軍の司令官であり、
長勇は松井大将の下にいたから、このころの上下関係の記憶が混入したのかも知れない。
また、別の話と交って、混乱している可能性もある。
つづく
これは メッセージ 2081 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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