1937年の慰霊祭後の涙の訓示はなかった5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/18 15:13 投稿番号: [2057 / 2250]
松本氏自身が不思議がるように、どうしてこんな間違いが生じたのだろうか。
板倉由明著
『本当はこうだった南京事件』
305〜306p
《 よく読めば
『上海時代』
での慰霊祭の描写には十二月のものと
二月のものが混合している。松本氏が出席していない十二月の描写は、
前田氏など出席した同盟記者からの伝聞であろう。
その前田氏の
『戦争の流れの中に』
には、日記にもないこの場面が、
同様に、見てきたように記されている。
ジャーナリストの面目躍如だが、同盟系記者の錯誤だけを責めてはいけない。
張本人の松井大将自身が両者を混同しているのである。
昭和二十三年十二月九日、巣鴨拘置所で処刑を控えた松井大将は
教諭師・花山信勝氏に次のように語ったという。
「慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍司令官として泣いて怒った。
そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、せっかく、
皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまったと。
ところが、このあとでみなが笑った。はなはだしいのは、ある師団長の如きは
『当り前ですよ』
とさえ言った。」
(花山信勝・『平和の発見』)
この文の中での間違いは、二月には柳川中将など第十軍関係者は参列しておらず、
「ある師団長」
とは巷間中島中将と目されているが、すでに北支に移動しており、
これは一月二十四日、上海での転進挨拶の際の暴言の混同であろう。
もっとも松井大将と中島中将の関係は良くなく、
正月に南京を視察した陸軍省の阿南
(惟幾・少将)
人事局長に、
その乱暴な指揮ぶりを訴えている位である。
いずれにしても飯沼日記その他から推測して、宮殿下も恐縮して叱責されている面前で、
暴言はもとより、少なくとも「笑う」ような雰囲気ではなかったはずである。》
つづく
注
:
柳川中将など第十軍は12月の慰霊祭のあと、
杭州に向け出発したので、2月には南京にいない。
これは メッセージ 2055 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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