入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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1938年6月 高宗武との香港会談2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/13 15:34 投稿番号: [1641 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
292〜294p
《 この時は、高君にとっては、全く耳よりの話であったので、
高君は、五月下旬、漢口に出て、周仏海と陶希聖と汪兆銘とに報告するとともに、
四人で、いろいろ協議した。ときには、それに梅思平も加わった。
周仏海と汪兆銘とは、従前はとくに親しい間柄ではなかった。
しかし、南京陥落以前から、上段に述べたごとく、周・陶・梅と胡適とは、
長期戦は中国のためならずという点で一致していた。
陶は、経済史専攻の学者であるが、汪兆銘派の直系であり、
汪が行政院長のとき、行政院参議となった人である。
その汪の仲介で、周仏海は、和平論議を通じて汪兆銘と相許す仲になったのであった。
梅恩平は、周とともに旧くよりCC団の仲間であり、江寧県の模範県長として、
蒋介石にその人物、実績を認められた人であった。
五月末になると、西君が噂したことのあった近衛内閣の大改造が断行された。
広田に代って宇垣が外相になったことにつき、高君と周君とはいろいろ推測を
逞
(たくま)
しゅうしたが、 「国民政府を対手にせず」
との路線を
変更しようとする可能性が、少なからずあるとの推断に、二人は一致した。
そこで、周君が高君に対し、 「東京へ行ってはどうか」
と、しきりに勧説した。
高君も食指大いに動き始めたころ、蒋介石は、高君が香港に行くことに
反対の意向であるということを、陳布雷が内々に高君に知らせてきた。
進退谷まった高君が、周君に相談に行くと、
「蒋さんのほうは僕が引き受けるから、断然東京に行くべし」
との
意見であったので、高君が六月十日ごろ香港に出てきたのだという経緯が私に判った。
私が高君に
「宗武、よく事情が判った。君の勇気を買うが、君は、
蒋さんと汪さんとの間に挟まって、困っているのだろうね」
というと、
高君は、 「そのとおりだよ。これが僕の運命なのかも知れないね。
今までも、そうだったが、
これからは、ますます両先輩の間に立って苦しまねばならぬように思える。
両先輩の意見が、ますます離隔してゆくようだから、
僕の苦しさも、いよいよひどくなるだろう。
日中和平の大義については、私の信念からいえば、汪さんのほうに味方せざるを得ない。
戦禍が拡がるにつれ、国民はたまったものじゃないからね。
蒋さんは冷たいが、汪さんは温かい」
という。
「宗武、私が伊藤君から聞いたことだが、このあいだ、六月十四日に、
香港ホテルで西君と君とが覚書を取り交したという話だが」
と尋ねると、
「別に格式張った覚書を取り交したわけではなかったが、
西君との話合いで同意したポイントを、西君が、相互誤解のないようにと書き出し、
私も、一読して、異議はないといったものだ。西君は難しいことばが好きで、
『和平仲介の第三勢力の結集』
とか
『日本帝国主義の放棄と両国平等の立場とが和平実現の絶対条件である』
とかいうことばをつかうが、その意味は、そのとおりなので、
別に反対はしなかったのだ」
と、高君が説明した。》
つづく
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1937年 杭州湾上陸作戦の立案
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/12 15:16 投稿番号: [1640 / 2250]
追加の三ケ師団が九月下旬から十月上旬にかけ、逐次、呉淞、上海間に上陸し、
戦局は少しは進展しましたが、まだ、はかばかしくありません。
井本熊男著
『支那事変作戦日誌』
153p
《 特設師団を動員することに関しては、種々の問題があった。
…特に東京で動員する第百一師団が問題となった。
・・・
動員完結の日、私は歩兵第一聯隊の営庭で行われた第百一聯隊の軍装備検査を
視察した。なるほど、これは年よりの集りだというのが第一の印象であった。
皆一家の主人で、家庭を支えている大黒柱の年配である。
訓練は長年ほとんどしていない。
指揮官にも現役はほとんどいない。
これでは当分戦力は出まいと思った。》
153p
《 対ソ関係を考えて検討すると、そう精鋭師団ばかり出すわけには行かないので、
遂にこの決定となったのである。》
*
これでは戦争は中々終わりそうにありません。
一方、9月28日、
下村定少将が石原少将のあとを受けて作戦
(第一)
部長に就任しました。
155p
《 下村新第一部長は、支那事変を始めた以上、敵に対し有効な打撃を与えるまで、
積極的に作戦を遂行すべきであるという思想を抱いていた。
上海の戦況を打解するためには、
戦略的に効果の大きい杭州湾上陸作戦を行う必要のあることを始めから考えていた、
と自ら回想している。
結局杭州湾上陸は、下村第一部長がその気運を醸成して
発動することになったのである。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
385p
《 10月4日
部長統裁のもと第二・第三課長以下の関係部員が参集して・・・研究した。
作戦当事者は
「上海は・・・、兵力は五個師団で大体いいのではないか」・・・
しかし部長は
「上海方面をそのままにしておいたのでは戦局の終結が求められない。
この方面で積極的に行動し所望の戦果を獲得するのが急務」
と述べ、
部内の意見を統一した。
当時、参謀本部は、ソ連が対日攻勢に出るとすれば、
11、12月の晩秋初冬のころであろうと判断し、この時期戦線膠着状態であれば、
ソ連に対日攻勢の好機を与えることを憂慮し、
それまでに戦局を打開することを企図していたのである。》
*
結局、下村新第一部長もソ連が心配で、
中国との戦争を早く終わらせたかったわけです。
彼は拡大派の部類に入ってますが、
けっして支那事変を拡大したかったわけではありません。
強い力で叩いて、早くやめさせたかっただけです。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
384p
《 一、上海方面
(2)
第十軍ヲ以テ
杭州湾北岸ニ上陸セシメ
上海派遣軍ノ任務達成ヲ
容易ナラシム
十一日、「今後ノ作戦ニ関スル件」
につき検討し、次のような状況判断を行い、
十二日次長の決裁を得て総長に報告した。》
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1938年6月 高宗武との香港会談1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/12 15:06 投稿番号: [1639 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
290〜292p
《 六月十七日ひる前に、私はふたたび香港に来た。
伊藤君が船着場まで迎えに来てくれた。
香港ホテルまで、いっしょに車で来てくれた伊藤君の話によると、
彼は五月中旬から、そして西君は五月二十日ごろからずっと香港に来ていて、
しばしば高君と会ってきた。その結果、二人の勧めによって、
高君も日本行きをだいたい決意しているらしいが、
「五郎」 (松本)
が賛成すれば、最終的に、そこで決めるという気持らしい。
だから、大勢で話をするより、 「五郎」
と高君とで一対一の懇談をして欲しい。
東京行きと定れば、自分
(伊藤)
が東京まで同道する。
西君は明日か明後日に日本へ向けて出発する予定だ。
高君はグロスターハウス・ホテルにいるが、僕はやはりリパルスベイ・ホテルで、
私
(松本)
の電話を待っている。慎重な四郎
(高)
のことだから、
少なくも三、四日はかかるだろうが、云々ということであった。
・・・
グロスターハウス・ホテルの高君に電話をかけた。
「シゲちゃん、よく来てくれたね。午後四時に僕の部屋で会いたいがね」
との高君の声だ。
それから高君とは何回会ったか、今でははっきりしないが、
少なくも四回は会って懇談した。
私は、伊藤君から聞いた高君の東京行きの件について話をする前に、
漢口の情勢が聞きたかった。
とくに、影佐書簡の後始末や東京での内閣改造に対する反響が聞きたかった
からである。高君との話で判ったことは、大要左のとおりであった。
去る三月末に高君は董君と相前後して漢口へ飛んだが、まず董君を説得して、
影佐書簡の取扱いにつき高君一任と定った。
高君は、誰よりもさきに周仏海にこの書簡を見せて相談した結果、
汪兆銘に見せることにした。汪兆銘は、
「これは重要な日本側の意思とみるべきであるから、蒋介石にも見せたがよい」
ということになり、陳布雷を通じて、問題の書簡を蒋に見せたが、
蒋は一読しただけで、怒りはしなかったが、別に何のコメントもいわなかったという。
しかし、周仏海は、西・伊藤・松本三氏が信頼しているといわれる影佐大佐が
異例の書簡を書くには、尋常一様の決意だけではないはずだと感じ、
高君と相談のうえ、日本陸軍中央の有力な一部には、
早期和平の空気があるものと推定し、したがって、
影佐を通じての漢口と東京との連絡を絶つべきではないとの結論に達した。
そこで、四月中旬、高君は香港に出て、待っていた西君と会談し、
蒋介石が従来堅持してきた条件ならば和平の用意ありとする蒋の心裡を、
高君が理解するままに、西君に話し、影佐大佐への返事として伝えてもらいたいと述べた
(西義顕著
『悲劇の証人』
一三四−一七四ページ参照)。
西君は東京へ帰ったが、東京は、徐州作戦の準備に忙殺されていて、
影佐大佐すら、すぐには話に乗ってこないほどであった。
西君は、暫く時機を待つほかはないと考え、五月中旬、また香港に帰ってきて、
高君に対し、東京の実状を、隠さず率直に報告し、かつ、確報ではないが、
近衛内閣の改造の噂がちらほらとある、とも附言した。》
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1937年 三コ師団増派とその進捗
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/11 19:04 投稿番号: [1638 / 2250]
井本熊男著
『支那事変作戦日誌』
152〜155pより
《
三ケ師団は第百一、第九、第十三の順序に
九月中旬末から下旬にわたり、神戸、大阪から出発し、
九月下旬から十月上旬にわたり呉淞、上海間に上陸させることになった。
増加兵団の動員下命から上海に到着するまでの約一ケ月間、
現地ではさらに苦戦の連続であった。
しかしこれ等の兵団が逐次到着して、戦線に加入することによって、
戦況に一つの転機を作った。
重藤支隊は九月十八日頃、羅店鎮北方川沙河口附近に上陸し、
急速に西進して九月二十日には羅店鎮西方約三キロに進出して、
西面して敵陣地に相対し、第十一師団の右側背を掩護する態勢をとった。
第十一師団は前記の如き天谷支隊の進出により、師団の主力をまとめることができ、
九月三十日には重藤支隊の左翼に連接して、西南面して約四キロの正面を保持した。
これで、一ケ月以上苦闘した羅店鎮周辺から、
一キロ乃至二キロ前進したことになったのである。
第三師団は、前記九月十七日の進出線から連続不断の力攻を続け、
約二週間の後に右翼方面は約二キロ前進し、
十月一日劉家行北方約二キロの張家角から、
劉家行、○ (厄+頁) 家宅を連ぬる堅固な敵陣地を攻略した。
第百一師団は九月二十日頃から呉淞附近に上陸して、薀藻浜クリーク北側地区を
攻撃前進し、九月三十日、その主力は第三師の左に連接して、
薀藻浜北岸に近く進出した。上陸点から約六キロの前進である。
第百一師団の谷川支隊は、上陸後第三師団の片山支隊と交代して
江湾鎮敵陣地に対し、片山支隊は九月末、第三師団主力に復帰した。
第九師団は九月二十三日頃から呉淞附近に上陸し、
九月三十日、主力を以て第十一、第三両師団の後方近く進出した。
第十三師団は九月下旬半頃から呉淞附近に上陸し、
十月十日頃主力を月浦鎮附近に集結した。
ここで戦況を大まかに振りかえって見ると、
八月二十三日、第三、第十一両師団の先遣隊が上陸して以来、上海派遣軍は、
薀藻浜クリーク以北の地域を攻撃正面として、
西方に向って力攻したがその戦況はあまり進捗しなかった。
九月下旬の兵力増加により、前記の如く一段の進捗を見て、
十月一日現在においては、東西に通ずる薀藻浜クリークと、
それに直角に南北に通ずる楊芤クリークで挟む、
直角の地域の大部分を攻略したことになった。
敵は依然楊芤の線に東面し、また薀藻浜の線に北面して重畳する
数線の陣地を占領して、わが攻撃を阻止している。
上海派遣軍はここにおいて、今までの西向きの主攻撃を南に向け、
まず大場鎮を攻略する戦闘指導の方策を立てた。
そこでこの方策を遂行するため、第三師団を左旋回の軸とし、
その右に第九師団を進出させ、この両師団を大場鎮に向わせるように指導した。
この際、第九師団の右には第十三師団を加入させ、その右に第十一師団、
重藤支隊と連接し、第十三師団より右は、依然西面して、敵陣地に対していた。
第百一師団は、戦況の進むに伴って、第三師団の左後方を前進させることにした。》
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1938年6月16日 松本氏船で楊雲竹と遇う2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/11 18:55 投稿番号: [1637 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書 289〜290p
《『兵を按じて動かず』
という意味だ。
東京を去る数日前、日本陸軍中央は、とうとう漢口攻略戦に踏み切ったと聞いた。
徐州作戦では、李宗仁の部隊が板垣部隊を一時は相当苦しめたそうだが、
日本軍による南北からの挟撃で、中国軍もついに五月中旬からは撤退を始めた。
次は武漢三鎮が問題になっているようだ。漢口の攻略には、大別山脈の峻険もあるし、
三、四カ月はかかるだろうが、いずれは既定の事実になるだろう。
そこで、その際、日本軍が漢口に近づいたとき、兵の進め方をぴたりと止めて、
あらかじめお互いに準備しておいた和平運動を一挙にやることだ」
「そういう場合、蒋介石は、はたして和平を受け納れる可能性があるものだろうか?」
「松本さん、蒋介石は、漢口をとられてしまえば、和平を放棄し、
長期抗戦に徹すること以外は考えないことになるだろう。
漢口以前ならば、日本の和平条件如何によっては、考え直す余地は充分あると、
私は信じている。
去年、十二月初旬、トラウトマン独大使と蒋介石とが会見した際でも、
日本が大乗的な条件を出せば、協議に応ずる用意あり、といっていた。
ただ、蒋介石の絶対的な条件は、主権、領土の完整のほかに、
交渉の前にまず日本軍が停戦することを極力要求したのであった。
この点が、どうも、日本側に充分に徹底的に伝えられなかったことが、
遺憾に思われるのだ。僕の意見としては、要するに、漢口攻略直前に
『按兵不動』
を日本が実行し、日本側の和平条件が大乗的なものであるならば、
和平のチャンスは大いにあるのだ。松本さん、この中国側の心理が日本側に
解らないことが僕にとって痛恨の極みである。
この点、あなたの努力で近衛さんはじめ日本側を啓蒙してもらいたいものだ」
「楊君、僕には、君のいうことはよく解るよ。微力ながらやってみよう。
だが、徐新六が僕によくいったことだが、日本人は、 『心理学に弱い』、
つまり、対手の心理が読めず、適宜の措置を適宜の時機にやれないのだ。
日本人が譲歩的態度を示せば、中国人はすぐつけあがる、という偏見が、
今の日本では一般に行われている。
大局を把握して、考え方の次元をもっと高いところに置くべきことに、
日本側が気がつきさえすれば、万事はうまくゆくのだがね。
君の
『按兵不動』
案は、僕がひそかに考えていることに相通うものであり、
僕にも大いに参考になるね。どうもありがとう。・・・》
*
中国人は身勝手な理屈を並べ、松本氏はそれにコロッと騙される。
「日本軍が漢口に近づいたとき、兵の進め方をぴたりと止めて…」
と言っても、
中国軍は、必ず、その時攻撃をかけてくる。これは、済南事件でも
盧溝橋事件ででも経験済み、だから、この提案は無意味。
「日本が大乗的な条件を出せば、協議に応ずる用意あり」
通州虐殺事件のあと、恐ろしく譲歩した案を出したのに、
大山中尉を虐殺して和平会談をぶち壊したのは中国。
上海解放の後、大乗的な条件を出したけど、それを蹴ったのも中国。
「蒋介石の条件は、主権、領土の完整のほかに、まず日本軍が停戦すること」
日本は、中国の主権、領土は認めている。
日本が協定を守って停戦している所を、中国軍が安心して攻撃してくるから、
戦争が続き、こうなった。
日本が停戦しても、中国が攻撃してくるから、楊雲竹の言葉は単なる妄言となる。
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1937年9月 連盟 日本の空襲予告を非難
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/10 18:51 投稿番号: [1636 / 2250]
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1938年6月16日 松本氏 船で楊雲竹と遇う1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/10 18:44 投稿番号: [1635 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
286〜287p
《 香港にあった西君から、六月十四日附の電報で、
「『四郎』
が希望しているから、すぐ香港へ来てくれ」
とのことであった。
私は、この電報を読んで、
「四郎」(高宗武)
が、あるいは東京行きを真剣に考え始め、
それについて私の意見を知りたいのではないかと感じた。
それならば、一切の事務は、一時、棚上げしても、即時、南下すべきだと決意した。
私は、十五日夜上海出発のエンプレス・オヴ・カナダ号に乗船し、香港に向った。
翌朝、朝飯を済ませてから、十時ごろ、デッキを散歩して、
「東シナ海」
の
新鮮な空気を味わっていたところ、走り寄って私に握手を求める夫妻がいる。
「松本さん」
といわれて見ると、思いがけなくも中国の駐日参事官の楊雲竹夫妻である。
「イヤ、これは、奇遇だね、おそろいで。お元気かね。
とにかく、楊君とは、いいところで会えたものだね」
と、私が喜んでいうと、楊君も、
「実は、会いたいと思っていたのだが、今の日中関係では、上海に上陸して、
松本さんに会いに行けば、人目に立ちすぎる。
あなたに会わずして上海を素通りすることは心残りになる。
あなたが同船してくれたのは、天の配剤のようだ。ゆっくり話をしましょうや」
と応える。
話が政治のことに触れてきたので、楊夫人は、辞を設けて、私たちを二人だけにしてくれた。
「香港から漢口へ行くのだろうで
何か重大な使命を帯びてだろう?」
と
尋ねると、楊さんは、「 漢口まで行くのはほんとうだが、僕はくびだよ。
近衛内閣が変な声明を出すものだから、許
(世英)
大使はいち早く去り、
僕一人で東京の大使館を閉めなければならぬというわけで、今まで残務整理に忙殺され、
やっと終えて、これで、お役目済みになったというわけだ。
重大使命なんかを、誰が今の私なんかに頼むでしょう?」
という。
そういわれると、少なからず気の毒に思えた。
「楊君、兄貴ぶったことをいうようだが、お互いに、人生にはいつでも
『晴』
ばかりが続くわけにはゆくまい。しかし、 『到る処、青山あり』
だ。
われわれはまだ三十代じゃないか。元気を出そうや」
といった。
楊雲竹君は、私とは一高・東大での後輩であるが、今は、れっきとした立派な外交官である。
彼が東京で参事官をやっていたころ、私が上京すると、しばしば官邸に招んでくれて、
日中間題について、お互いに開けっ放しの話をし合った間柄であった。
夫人も、たしか東京のどこかの女子医専で勉強しており、
なかなかよく気のつく女性で、日本語も、楊君ほどではないが、
かなり達者になっていた。お互いにデッキの欄干にもたれかかりながら、
ときどき海面を眺めつつ一時間半ばかりの立ち話をした。
「楊君、いったい日本はどうしたらいいのかね。君の率直な意見を聴きたいね。
何もしなければ、両国とも疲れ果てるに定っている。
過去は過去として、これからが問題だ。
盧溝橋事件だって、ほんとの張本人は誰だか判らぬのだが、
はっきり判っているのは、長期戦で苦しむのは、両国の国民だということだ。
何か智恵はないかね」
と水を向けると、楊君は、
「ないことはないよ」
「じゃ、どうすればよいんだ?」
「松本さんは、 『按兵不動』
ということを知らないかね。」
つづく
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1937年 杭州湾上陸作戦発案
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/09 17:19 投稿番号: [1634 / 2250]
石原少将の後任にすわった、下村定少将は
気運を醸成して杭州湾上陸作戦案を作成しました。
彼は、石原少将のように穏健派ではありません。
一般に歴史では、軍部には拡大派と不拡大派とがあって、
この両者のせめぎ合いがあったと言われていますが。
この
「拡大派」、 「不拡大派」
という名称は実態を表わしていません。
「不拡大派」
とは、 「まず話し合いで行きましょう」
というグループで、
「拡大派」
とは、そんな甘っちょろい事では駄目だ。
中国人は詭弁・嘘・欺瞞の天才だ。やさしくしてると、騙される。
「まず、ガツーンとやってから、話し合うべきだ」
というグループなのです。
つまり、 「不拡大派」
とは穏健派の事で、今の平和主義者のようなもの、一方で、
「拡大派」
は強硬派ですが、別に戦争を拡大しようとしているわけではありません。
交渉するにしても、どういうアプローチを取るかで異なっていただけです。
現在の餃子事件やコピー品でも明らかなように、こちらが優しくしてると、
ウヤムヤにされますし、尖閣事件のように譲歩すると、
尚でも嵩 (かさ) に掛かってきます。
当時も穏健派が、優しく対処しようとした結果、
戦争にされ、それを拡大されてしまったのです。
だから、戦争を拡大させたのは
「不拡大派」
とも言えます。
下村新第一部長は、事変早期解決のために杭州湾上陸作戦を考えました。
『支那事変作戦日誌』
155pには
《下村新第一部長は、支那事変を始めた以上、敵に対し有効な打撃を与えるまで、
積極的に作戦を遂行すべきであるという思想を抱いていた。
上海の戦況を打解するためには、戦略的に効果の大きい杭州湾上陸作戦を
行う必要のあることを始めから考えていた、と自ら回想している。》
とあります。
これは メッセージ 1632 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年6月松本氏ティンパーレの本を読む
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/09 17:15 投稿番号: [1633 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
249〜250p
《
四月になって、ジャキノ難民区でともに働いたティンパーレー君が
総局事務所にやってきて、 「中国における日本軍の残虐行為
(ジャパニーズ・アトロシティーズ・イン・チャイナ)」
なる書物を編集、発行することになったことを報告した。
・・・・
それから六月ごろになって、その本を買い求め、通読しようとしたが、
読むに堪えない事実の羅列なので、半分ぐらいでやめてしまった。
聞けば、本書は、ロンドンでの発行と同時に、
中国においても中国語に翻訳、刊行された。》
*
〉読むに堪えない記事の羅列〈
ここで松本氏は
「事実」
と書いていますが、「記述」 とすべきでしょう。
民主党の原口氏が大臣だったころの口ぶり風に言えば、
「伝聞であって事実と証明されていない。
確たる証拠を持って来て
『事実』
と言いなさい」
となるでしょう。
ティンパーレーは虐殺を目撃したわけではありません。
南京事件があったとされる頃、彼は、南京には行っていないのですから。
*
ロンドンと中国と同時に刊行されたという事自体が、
ティンパーレが国民党の工作員だったことを証明しています。
外国人が書いた場合、普通は英文出版された後から、翻訳されるものです。
これは メッセージ 1580 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 トラウトマン工作の発端
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/08 18:41 投稿番号: [1632 / 2250]
トラウトマン工作は石原第一部長の辞任から始まります。
参謀本部の作戦部長を辞任した石原少将は9月27日、満州に転出しました。
その前に部下の馬奈木中佐に、和平工作を依頼していきます。
松本重治著
『上海時代・下』
224〜225p
《 九月二十七日附で、不拡大派の総帥であった参謀本部第一部長石原少将は
中央を追われ、関東軍参謀副長に補せられてしまった。
東京を発つ数日前に、部下の馬奈木 (敬信) 中佐に対し、
「イギリスの調停は、あまり好かなかったが、それがだめとなったから、
どうしてもドイツに調停を頼んで欲しい。
君はドイツ通だから、オットー大使館附武官と相談して、
何とかして、やって欲しい」
と、
局面の収拾のためのいわば遺言のようなものを残して、満州に赴任した。
これが、トラウトマンの仲介交渉の発端であった。 》
井本熊男著
『支那事変作戦日誌』
192p
《 十二年九月、石原第一部長の転出直前、当時第二部部員であった馬奈木中佐は
会食懇談の席上で
『今度支那の大使に着任したトラウトマンはベルリソで補佐官をしていた時代の
友人である』
と話したところ、
石原第一部長は
『それは願ってもないことだ。すぐ支那に行って
トウラトマンと会い、日支和平工作に関する手がかりを作ってくれ』
と云い出した。
結局馬奈木中佐は在京のドイツ武官オットー大佐と同道して上海に赴き、
オットー大佐がトラウトマンと会談する橋渡しの役をしたというのである。 》
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1938年 中国堤防破壊を日本がやったと宣伝
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/08 18:33 投稿番号: [1631 / 2250]
〔昭和13年6月16日
東京朝日(夕刊)〕
中国側の逆宣伝に軍当局反論
〔上海特電十五日発〕(上海軍当局談)
支那側は目下しきりに黄河堤防決演は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、
決潰地点と称される京水鎮にはまだ日本軍は進出して居らず、
また支那側は日本が爆撃により堤防を破壊したと称しているが、
幅三百メートルもある堤防は到底爆弾では破壊し得るものではなく、
その虚構なること明らかである。
目下氾濫せる水流は京水鏡より中牟を経て開封西南方の朱仙鎮方面に向かいつつあり、
このため開封附近ではかえって減水を見つつあり。
しかし中牟附近における水深は二メートルで人の丈が立たず、
水速は毎秒一メートル五十という有様で、皇軍将士の困難はもとよりであるが、
支那農民の蒙りつつある損害は言語に絶するものがある。
この堤防破壊は支那側の計画的行為に出ずるものであること明らかであって、
さきに徐州戦前、支那側スポークスマンが、
「いざとなれば支那は黄河堤防を破壊して日本軍追撃を阻止すべし」
と言明せることによっても察すべきであり、
国民の損害を顧みない行為は鬼畜にひとしき行為である。
なお支那側は日本の機械化部隊の大部隊が水害のため殲滅したというような
宣伝をしきりに行いつつあるが、これは全く虚構な事実で、
皇軍将士が氾濫のため多少の困難は受けつつあっても、
これにより我が漢口進撃に支障をうけることは全然ありえない。
これは メッセージ 1629 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 膠着状態の上海戦線2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/07 18:51 投稿番号: [1630 / 2250]
井本熊男著
『 支那事変作戦日誌 』
芙蓉書房出版
150〜151p
《 第三師団の先遣隊は、上陸後全面に数線の敵陣地があって、
戦況は激しさを加えるのみで、なかなか進まない。
第十一師団先遣隊は、上陸後約五日間で約六キロ南方の羅店鎮を占領したので、
戦況は有利に進捗
(しんちょく)
するかに見えたが、
それから後約一ケ月の間、主力が到着加入しても戦線は膠着
(こうちゃく)
して
ほとんど動かず、かえって敵の攻勢に対応するのに苦労する戦況であった。
その後第三師団方面は、ウースン・クリーク以北においては
九月九日までに上陸江岸から僅かに約三キロ前進して、
宝山城からその西方を南北に走る泗塘クリークの西岸に進出した。
ウースン・クリーク以南においては、兵站
(へいたん)
部隊が
黄浦江岸から二キロの泗塘クリークの線に進出した。
上海共同租界に近い黄浦江岸には、始め第三師団の飯田支隊が上陸したが、
支隊長は間もなく戦死した。
次いで同師団の片山支隊は飯田支隊を併せ指揮して九月十三日、
江湾正面に進出して近く敵陣地と相対した。
この線は、黄浦江岸から僅かに四キロばかり前進した位置である。
九月二十八日、片山支隊は第百一師団の谷川支隊と交代して第三師団主力に復帰したが、
以後十月二十五日まで谷川支隊はその位置から動くことはできなかった。
すなわち我方は、江湾の敵陣地の前に、二ケ月間膠着していたのである。
海軍陸戦隊は共同租界の周囲にへばりついたまま、
上海戦の最後まで動くことができなかった。》
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1938年 黄河決壊で中国人を救助する日本軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/07 18:46 投稿番号: [1629 / 2250]
同盟ニュース
《 濁流渦巻く水禍の中に
皇軍必死の救助作業続く
非人道極まる黄河堤防決壊による水禍は皇軍勇士の必死の努力にも係らず家を奪はれ、
食を奪はれ或は生命さへ奪はるるもの約十萬、
惨憺たる阿鼻叫喚の巷
活地獄と化しつつあり、
我が皇軍の適切なる救済処置に支那良民を敵とせずとの心情を眼のあたり見た土民達は
感謝の瞳を以て皇軍に協力している。写真は水魔と戦ふ皇軍勇士。》
その写真は
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4274.htmlで見て下さい。
そこには國史図書刊行会編
『支那事変』
の写真も載っています。
新聞記事
〔昭和13年6月15日
東京朝日〕
《 敗戦支那は徐州、開封の大敗に自暴自棄になって、
鄭州においてはすでに焦土化を図り、城内の民家を自爆せしめていたが、
今回はさらに増水期の大黄河堤防十数カ所を破壊して河南省内に氾濫を来し、
皇軍の南進を阻止せんとの暴挙に出ている。
濁流滔々として河南省の民家は流され、良民の溺死する者算なく、
その非人道的暴虐行為は天人ともに許さざるところであるが、
右につき我が大本営陸軍部は十四日、左のごとき当局談を発表した。
〈大本営陸軍部当局談〉
鄭州の占領並びに漢口方面に向かう我が軍の進撃を極度に恐れた支那軍は、
ついに自国良民の利害休戚を顧みる遑
(いとま)
なく、
かねて計画せし通り開封西北方鬧市口、蒲灘間十数カ所及び鄭州北方許家堤
附近数カ所に於いて黄河の堤防破壊を決行した。
我が軍は該地附近堤防の決境が過去に於いて河南、安徽、江蘇三省の住民に
恐るべき水禍を齎
(もたら)
した事実を知悉しあるがため、
迅速なる作戦行動により災害を未然に防止せんとしたが、
蒋政権の非人道的行為ついにここに至ったのは、かえすがえすも遺憾な事である。
これがためわずかに戦禍を免れ得た三省の沃野幾百里、住民幾千万が
永きに亘り蒙らんとする痛苦と損害はいかばかりか、測り知るべからざるものがある。
かねて
「焦土」
戦術、或いは
「清野」
の策に名を借りて
あらゆる暴行の限りを尽くした蒋介石軍として、
自国良民を水災苦に陥れるがごときはなんら意に介せざる所であろうが、
広東空襲によるわずかなる民衆の犠牲を、第三国の同情に訴えんがため
誇大に吹聴しある事実と併せ考慮すると、矛盾もまたはなはだしと言わねばならぬ。
我が軍の一部は今や濁流滔々たる黄河河畔において必死の作業を継続し、
神人ともに許さざる蒋政権の大暴虐より無辜(むこ) の支那民衆を
救済せんとして懸命に努力中である。
由来蒋政権側はあらゆる非人道的行為を日本軍の所行として中外に宣伝する
常習者なるを以って、右に関しても牽強附会
(けんきょうふかい)
の宣伝に
努むる虞
(おそ)
れがあるが、
我が軍が聖戦の意義に徹して破壊箇所の修復に全力を傾注しているという
厳然たる事実の前には、蒋軍一流の虚構も全然無力であると言わねばならぬ。》
これは メッセージ 1627 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年 松本重治氏の和平工作
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/06 15:39 投稿番号: [1628 / 2250]
松本重治氏著
『上海時代 (下)』
中公新書226〜228p
《 九月の十八、九日だったかと思うが、久しぶりに、ホール=パッチからの電話である。
「ヒューゲッセン大使の事件の当夜、ロヴァット・フレイザー少佐と君と
三人で会ったとき、君は、あまりに恐縮してしまって、よく話もしなかったが、
事件があったとて、君との友情は変らない。
数日中には、東京で、事件の正式解決がみられるらしい。
シゲ、近いうちに、一夕、語ろうじゃないか」
云々の話。
私は、 「 エドモンド、それはありがたい。
君と二人で語り明かすのもいいが、実は、戦争が始まって、
中国人の誰とも没交渉になってしまった。
で、誰か、しかるべき人物を一人交えて、いっしょに話をしようじやないか」
というと、 「そうねえ、誰がいいだろうかね」
と、ちょっと考えたあげく、
「徐新六
(シューシンロー)
を招ぼう。君はどう思う?」
「それはいい。IPRの会議以来、私は、ひそかに徐さんを尊敬しているんだ。
浙江財閥のうち、ほんとに英国やフランスでみっちり勉強をしたのは、
徐さんだけだからね。それに、何といっても、人間がいいよ。
胡適も、高宗武なんかも、徐さんの識見と人物とを高く評価しているんだ」。
五、六日経って、ホール=パッチのアパートで晩餐を共にするため
三人が集まったのは、九月二十三日 (金) であった。
私は、徐さんを相手に、一九三一年の上海・杭州での太平洋会議のことから話を始めた。
徐さんもあの当時のことどもを懐しげに語った。
ホール=パッチのご馳走は甘いには違いなかったが、
大場鎮を主たる根拠地としていた中国軍と日本軍との死闘が行われていた最中で、
葡萄酒の酔いが廻らないのが自然であった。
食後、徐さんが、戦争前の船津 (辰一郎) さんの和平努力を評価しながら、
「松本さんは仕事に忙しかろうが、戦況にかかわらず、誰か、日本人の方で、
私なんかと連絡をとる相手はないだろうか。秘密を守れる方で」
というと、
ホール=パッチは、 「それには松本君がいちばんいいよ」
と即座に提案した。
私が、 「こちらも徐さんのような方と定期的に連絡したいと考えていたのです。
微力ではありますが、私でよければ、何かのお役に立ちたいと思います」
と、
私の意中をもらすと、徐さんは、 「あなたのことは、周作民さんからも、
呉鼎昌さんからも、高宗武さんからも、始終うかがっています。
あなた自身がご承知くだされば、何よりありがたい」
といった。
そこで、ホール=パッチは、 「お二人の連絡場所はどうするつもりかね。
毎週の何曜日かに定めてくだされば、その日は、僕のアパートを空けておきましょう」
と好意的にいってくれた。私が、徐さんに、 「まだ、カセイ・ホテルでも、
お会いできるでしょう。毎週金曜日のランチは如何でしょう?」
というと、
徐さんは、 「そう、かえっておおっぴらでやってもまだ大丈夫でしょう。
毎金曜日の十二時十五分ごろカセイでお会いしましょう」
と応諾した。
私は徐さんが私を信用してくれた気持を、少なからず嬉しく思った。
次の金曜日 (九月三十日) からカセイ・ホテルでのランチの定期会合が始められた。》
つづく
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1938年 中国人の本に見る黄河決壊事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/06 15:30 投稿番号: [1627 / 2250]
趙無眠著
『日中戦争中国も同罪だ』
文藝春秋
2006年11月号
183〜184p
《 一九三八年六月九日、日本軍の中原からの西進を阻むため、
国軍は河南の鄭州の東北部にある花園口で黄河を決壊させるための爆破を行った。
堤を破った大水は、凄まじい勢いで東へと流出、
歴史上最も悲惨ともいわれる大洪水となった。
河南、安徽、江蘇、の三省四十四県・市、一万三千平方キロメートルが水没し、
被害人口一千二百五十余万人のうち三百九十万人以上が行方不明、
九十万人が死亡するという惨事は、
損害額の総額が大きすぎて計算できないほどの規模に達したのだった。
では、人々をこれほど大きな悲劇に巻き込んだことによる
作戦の〝戦果〟 はどうだったのだろうか。
日本軍の土肥原第十四師団の一部は山東省で一時的に足止めを余儀なくされたが、
工兵の援助により三日後には開封に集結していた。
また中島率いる第十六師団二万弱の隊は黄河決壊による水没地区にあったが、
航空隊の空からの援助物資の投下などにより危機を脱した。……それだけであった。
黄河の人為的洪水は、歌のなかで歌われているように
「憤怒の雄叫びを上げて侵略者たちを飲み込んでしまった」
というような結果はもたらさなかったのである。
黄河の水量は決して十分ではなく、珠江に比べればたったの八分の一に過ぎない。
黄河が飲み込めるのは、航空隊や工兵隊の援助を受けられない中国の民衆だけだった。
一つの失策が生み出したのは九十万人という犠牲者である。
これは、南京大虐殺で虐殺された犠牲者数の三倍である。》
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1937年9月 南京空襲の予告
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/05 14:31 投稿番号: [1626 / 2250]
公大飛行場を確保した長谷川長官に、海軍中央部から、
中国に引き渡し予定の英国機九機が九龍付近で組み立て中、
ソ連機数十機南京着、
9月15日上海方面空襲の算ありとの情報が入りました。
しかし九龍は、英国の領域ですので、手が出せません。
代わりに、輸送中継地である広東が攻撃目標になりました。
長谷川長官は、二連空に上海付近の敵飛行場の偵察を命じました。
しかし、敵機は見つかりませんでした。
「奥地に移動したか」
ということで、南京、広東、漢口、南昌への空襲が決まります。
ただし南京空襲には、外国からの非難があっていましたので、事前に予告しました。
戦史叢書
『中国方面海軍作戦 〈1〉』
407p
《 南京空襲実施にあたり、長谷川長官は戦禍が第三国人及び一般市民に及ぶのを
避けんがため、九月十九日岡本上海総領事を通じ在上海各国総領事あて、
南京空爆の予告を通告した。
更に二十日付、中国非戦闘員に対し避難を勧告する宣言を発した。 》
〔昭和12年9月20日
大阪毎日(号外)〕
《
長谷川長官の通告正文〔上海二十日発同盟〕
第三国に対する通告
支那軍の敵対行為を終息せしめ、もって時局の迅速なる収拾をはかることは
我が軍の作戦の目的とするところにして、南京は支那軍作戦の中枢なりと認め、
我が海軍航空隊は九月二十一日正午以後、南京市およびその附近における支那軍隊、
ならびに作戦および軍事などに関係あるいっさいの施設に対し、
爆撃その他の加害手段を加えることあるべし。
右の場合においても、
友好国の船舶および国民の生命財産はこれを尊重する意向なること勿論なるも、
日支交戦の結果、万一にも危害がおよぶことなきを保しがたき状況なるに鑑み、
第三艦隊長官においては南京市および附近に在住する友好国官憲および国民に対し、
自発的に適宜安全地域に避難の措置をとられんことを強調せざるを得ず。
なお揚子江上に避難せらるる向きおよび警備艦船は、
下関上流に避泊せられんことを希望す。》
*
しかし、この予告は逆効果になりました。
中国は、国際連盟に訴えたのです。
つづく
これは メッセージ 1614 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年6月 中国軍の黄河堤防破壊4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/05 14:22 投稿番号: [1625 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
391〜393p
《 黄河の氾濫の勢威は、六月十三日になると、ますます強まった感じで、
三劉寨の破壊口は約二百メートル、第二堤防の決潰個所も幅約五百メートル
に拡大された。
ほぼ中国側の計算どおりの結果といえよう。
河水は幅約二十四キロ、長さ約八十キロの形で南に流れつづけ、
中牟では、水圧のために城壁の東北角がくずれた。
城壁をあらう水面は、一時間に約二センチの割合いで水位を増し、
日本軍は城門を閉鎖した。
第二軍司令部は、中牟の第十四師団第二十七旅団が水中に孤立した状況を知り、
工兵四個中隊その他を救援に派遣した。
氾濫は、しかし、六月十四日になると、さらに広範囲におよび、
三劉寨の決潰部分も、第一堤防が約三百メートル、第二堤防が約一キロにもひろがり、
冠水地区は東西約二十キロ、南北約百二十キロとなり、
尉氏方面の第十六師団も水にかこまれて孤立した。
気球の観測によると、長大な氾濫地域の中に約二十メートル平方の小島と
約一キロ四方の中洲が出現しているのが、みえた。
中牟では、部隊の一部の避難が開始され、
この夜、救援にかけつけた工兵の鉄舟で離脱した。
この日、第二軍は第十六師団にも工兵を派遣して撤退作業を開始させた。
そして、この日の氾濫地域の最大幅は約二十八キロにおよび、
三劉寨と京水鎮の破壊口から流出する黄河は賈魯河を氾濫させる形で、
その流れの両側にひろがりつつ、南下していた。
これまでに水没した部落は約二千、行方不明の中国人住民は五万余人と、報告された。
翌日、六月十六日になると、その数字は
「水没部落約三千、罹災民約五十万人、
行方不明七万余人」
と修正されたが、氾濫は、やや減水の兆候を見せだした。
・・・・
中牟では、なおも周囲の水位は上昇し、第五十九連隊主力が撤退したときには、
城壁頂上まであと一メートルのところに、水面がせまっていた。
だが、一夜明けると、事態は一変した。
流水の先端は、尉氏のはるか南方の周家口に達していたが、
冠水地域は急速に減水しはじめた。》
394p
《 中国側の調査では、被害は結局は
「水没部落約三千五百、
罹災民約六十万人、行方不明約十二万人」
におよんだ、という。》
これは メッセージ 1623 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年9月膠着状態の上海戦線1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/04 14:13 投稿番号: [1624 / 2250]
井本熊男著
『 支那事変作戦日誌 』
芙蓉書房出版
151〜152p
《第三師団主力は九月十七日までに、
前記九月九日の位置から右翼方面は約六キロ、左翼方面は約四キロ前進した。
一日四百メートル乃至は百メートルの前進である。
連続不断の激闘で、一面の敵陣地を、一枚一枚鱗を剥ぐように奪取しての前進であった。
第十一師団の天谷支隊は、大連に上陸することなく、
八月下旬青島東方の洋上で待機させられていたが、
青島上陸は行わないことに決定せられたため、
九月一日の大命で上海に向った。
同支隊は九月四、五日頃呉淞に上陸し、師団主力に復帰するため、
宝山城附近を経て前進中、九月七、八日頃月浦鎮周辺において、
頑強に抵抗する数線の敵陣を攻撃して多大の損害を出しつつ、
九月十七日、羅店鎮東南地区において第十一師団主力の左翼に近く進出した
(後に軍作戦主任参謀西原大佐の言によれば、
天谷支隊は上海上陸後十日間に三千四百名の兵力が九百名となった)。
その他第三、第十一師団主力においても、右九月十七日までの戦闘において
莫大な損害を出した。
上海の陣地攻撃間に、この両師団の歩兵は当初出征したものは
殆ど全部死傷し、補充員によって置き換えられた程であった。
これは日露戦争後、経験のない大損耗であった。
筆者の同期生で、中隊長として参戦した八名は、全員この戦闘で戦死した。》
*
天谷支隊が青島に上陸しなかったのは、居留民が引揚げたため、
上陸の必要性がなくなったから。
*
そして、上海の犠牲の多さは、派出した人数が余りに少なすぎた為と言えます。
これは メッセージ 1620 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年6月 中国軍の黄河堤防破壊3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/04 14:01 投稿番号: [1623 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
389〜391p
《 新編第八師の堤防爆破は、六月九日に実施されたが、
二カ所の破壊口の効果は、三劉寨の場合よりも少ないと判断された。
このころ、開封では、中国軍が黄河の堤防を決潰した、
雨期の増水で開封を水びたしにする作戦だ、との噂がながれたが、
格別には日本側の注意をひかなかった。
−
だが、六月十一日、
この日は未明から大雨がふりつづいたが、夜になると黄河の水位はあがり、
午後十時ごろ、水流は三劉寨の破壊口からあふれでた。
「夜間河水大漲、黄河主流向趙口貫注、水頭高的丈余、
決口拡大至六十公尺、水流急湍、勢甚 キョウ (サンズイ+凶)
湧」
中国側
「抗日戦史」
は、そう記録しているが、
第十四師団司令部につたえられた報告も次のように述べている。
「大雨増水ノ為、奔流ハ河床ヨリ約十メートル低キ地盤ニ向ヒ
猛烈ナル勢デ流出シツツアリ」
翌日、六月十二日午前十時の気球観測によると、
前日にそれぞれ約二十メートル幅とみられた三カ所の破壊口は、
いずれも約四十メートルにひろがり、堤防をこえた河水は、
滔々という形容そのままに南に氾濫していた。
決潰区域には、破壊された堤防の南約八百メートルに第二堤防がきずかれていたが、
両堤防の間にあった部落はすでに水没し、第二堤防も五カ所で崩壊したため、
その南側の部落約五十が水面に浮ぶ形になっている。
第十四師団長土肥原中将は、工兵第十四連隊
(岩倉卯門大佐)
と
第四兵端自動車隊
(中村肇中佐)
を派遣し、
埋防修理と水難にあった中国人住民の救助にあたらせた。
氾濫した河水は南下して、中牟にせまった。
中牟では、七日に攻略していらい、第二、第五十九連隊が城内外に布陣し、
兵端線の回復とともに支給された白米、菓子、タバコなどの味を楽しむ日を、
おくっていた。すると、この日、十二日午後三時、第二十七旅団命令が下達された。
「黄河ノ堤防敵ノ為ニ決潰サル。濁水氾濫スルヤモ知レズ。
何時デモ避難出来ルヨウ準備シ置クベシ」
つづいて、夕食後の歓談がはじまった直後、午後八時ごろ、緊急命令が伝達された。
「濁水迫ル。速ニ避難セヨ」
中牟にせまったのは、三劉寨堤防からの河水だけではなかった。
新編第八師が決潰させた京水鏡付近の堤防をこえた水流は、
賈魯河に流れこんでいたが、
中牟北方であふれて三劉寨からの流れと合体して、中牟におしよせてきたのである。
城外にいた部隊は城内に緊急避難したが、城壁にのぼって眺めていると、
やがて北方から濁水が襲来した。
地平線いっぱいに赤茶けた濁水の壁が、白泡をたてながら接近してくる。
怒涛や津浪とはちがい、ザワザワと低い音をたてるだけだが、そのくせ、
静かに着実に生いしげった高梁、粟、麦畑をおおいかくしてくる様子は、無気味である。
濁水はさっさと城壁下をとおりすぎたが、見わたせば四周は巨大な湖と化し、
城壁下にざわめく水位は少しずつ上昇している。》
つづく
これは メッセージ 1615 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年9月12日 中国、連盟に日本を提訴
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/03 14:22 投稿番号: [1622 / 2250]
『 近代日本戦争史第3編
満州事変・支那事変 』
奥村房太
監修
河野収
編集
同台経済懇談会刊行
300p
《 九月十二日、中国は、正式に事変を国際聯盟に提訴した。
聯盟はこの問題を諮問委員会に付託した。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
311p
《 中国が正式に事変を国際連盟に提訴したのは九月十二日で、
翌日から第十八回国際連盟総会が開かれた。》
*
何と言う事でしょうか。
自分の方から、戦争を仕掛けておきながら、臆面もなく、
「侵略された」
と訴えているのです。
これまでの流れで明らかなように、
日本は
和平や停戦を提案していました。
それを踏みにじって、無理やり戦争を続けているのが中国です。
日本人は、自分がやっていなくても
「相手がああ言っているのだから、取り敢えず謝っておこう。
それで相手の気が済むなら」
とやりますが、
中国人の場合は、まったく逆で、自分が加害者のくせに、平然と被害者を
よそおって、本当の被害者を加害者に仕立てて、訴えるのです。
まー、中国のこういう態度は、皆さん、もう、尖閣事件で、御存じでしょうが。
昔だったら、こういう事を言うと、極悪非道の右翼が、
可哀そうな中国に罪を着せていると、とられました。
上陸した陸軍は、進撃どころか、大量の中国軍に苦戦し、
大変な被害を出している最中でした。
そして、追加の三ヶ師団は9月10日に動員が決定されたばかりで、
まだ当分来れません。
日本人を殺し放題のときに、侵略されてるとホザいているのです。
上海にいる、外国人は実情を知っていますが、
遠くの欧米にいる人には分かりません。
だから中国が、 「強い日本が弱い中国をいじめている」
と訴えれば信じてしまうわけです。
こうやって、 「日本悪者」
宣伝工作が着々と進んで行きます。
なお、日本は、
これより先九月二日、臨時閣議で
「北支事変」
を
「支那事変」
に改称しました。
これは、戦争が北支だけでなく、中支に拡大したため、
「北支事変」
では不都合になったからです。
そして、追加の三ケ師団の動員が九月十日に決まった時点で、
石原第一部長の支那事変に対する、作戦構想は破綻しましたので、
石原部長は辞任を申し出ました。
つづく
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1938年6月10日 満ソ境界線の視察2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/03 14:11 投稿番号: [1621 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
35〜37p
《 十八号界標は、東寧と綏芬河の中間に位する戦略上の要点である。
その最高地は地図上では満領になっているが、ソ連兵はしばしば越境して、
境界石を西に移している形跡が窺われる紛争の地点であった。
「明日はぶつかるかも知れんから十分覚悟して、精兵四、五名だけを軽装で準備し、
軽機一挺と、三挺の小銃と、各人五個の手榴弾を準備するように」
と注意を与え、夜更けるまで天幕の内で語り続けた。
敵と、僅かに二、三百メートルを隔てて相対峙している守備隊将兵は、
一日として戎衣
(じゅうい)
を解く暇がない。
緊張の長い連続ではかえって弛緩
(しかん)
を来たすのではなかろうか、
とさえ感ぜられるところがある。
六月十日の朝、どんより曇った空は雨を含んでいる。
若月少尉に指揮された一分隊の兵はさすがに緊張そのものであり、鉄兜に
身を固めている。糧食は二食分だけであるが弾丸だけは十分に携行していた。
「今日は紛争地点の偵察である。十分注意して決して声や音を立ててはならぬ。
命令するまでは絶対に撃つな」
と注意を促して、降り出した雨の急坂をよじ登った。
丈余の草を掻き分けながら潅木
(かんぼく)
の繁った険しい坂を息を殺しつつ、
ソ連の歩哨線に歩一歩近づいて行く中にすっかり全山が濃霧に包まれてきた。
困ったことだ。
この霧の中で進路を見失って深入りしてはならぬと用心しながら登り着いたとき、
偶然か天柘か、墓標に似た高さ三尺くらいの界標石を高地の上に見つけ出した。
表面の刻字はロシア語で書かれ、
裏面には
「一九〇三年」
の文字が深く彫り込まれている。
土中に深く埋められてあるべきはずなのに、倒れたままであり、
新しい土さえ付いている。最近掘り起こして位置を動かしたものと断定を下した。
図上の国境線よりも約二百メートル西方に捨てられている。
ソ連兵の仕業
(しわざ)
にちがいない。
雨は段々激しくなってきた。霧のため百メートル前方は見透しがつかぬ。
これは何よりの幸いであった。
「どっこいしょ」
と両手でこの界標石を肩に担ぎ上げた。
なかなか重いが兵隊たちの手前、下ろす訳にはいかぬ。
肩に喰い入る重みを両脚で支えながら、高地の尾根伝いに東の方に忍び足で進んだ。
虎の尾を踏むような気がする。ソ連の歩哨が眼の前に見えそうだ。
咳一つする者もなく、軽機を肩から下ろし、腰だめ射撃の用意をして
石を担いだ参謀の両側に散開した六名の将兵が、全部の神経を前方に集めながら
雨の中の章を分けつつ進んだとき、突然一人の兵が大声で、
「ガース!」
と叫んだ。
敵前至近の距離だ。何という不謹慎であろう。
誰も瓦斯面
(カスマスク)
は持って来なかった。
「ガース」
と叫んだ兵にただしてみたら鼻をつまみながら顔をしかめている。
「変なにおいがします。臭いです」
正体はたちまちわかった。
参謀殿が肩の重い石に圧
(おさ)
えられて放屁したのである。
音を立てないようにと我慢しながら発散した瓦斯だ。
「確かに瓦斯にちがいない。しかし、この瓦斯は害にはならぬよ」
瓦斯の正体を初めて明らかにしたが、平常なら爆笑が起こるであろうに、
敵前至近の距離で苦しそうに口を押さえ腹を抱えて笑い声を殺している。
幸いにして敵の歩哨に見つけられることなく、
界標石を約二百メートル東方に移して埋めた。
図上の国境線を現地で標識したのである。
雨と霧とのおかげで、この敵前作業は犠牲と紛争を起こすことなく終わった。》
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1937年9月上陸部隊にコレラ発生
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/02 18:44 投稿番号: [1620 / 2250]
陸軍上陸部隊は大量の敵になやまされていましたが、
もう一つ別の敵がいました。それはコレラです。
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
光人社
59p
《 不運はもう一つ重なった。
それは食糧不足の第11師団の20名がコレラにかかったとのしらせである。》
62〜63p
《9月10日の日、コレラの原因が、クリークの水を飲んだためと判明。
コレラ患者は青島から2日に呉淞錨地に到着した天谷支隊に多い。
患者数は百名で、死者30名を出した。松井は軍医部長に患者の感染地を消毒させる。》
63〜64p
《10日午後、日高信六郎南京大使館の参事官が司令部のある水産学校を訪れ、
松井と会談した。松井は日高に
「何とか水を運んできてほしい」
と頼む。
水不足は予想外のことだった。
それに、コレラ保菌者も多く、このままでは戦意にかかわる。
その後もコレラ患者は増え、第三師団でも十二日の時点で、
三十名の患者を出し、うち四名が死亡していた。
コレラ患者はその後も増えつづけ、二十日、藤田部隊片山支隊にも発生する。
二十一日には患者数三百余名、死亡者九十名に及ぶ。
しかし、病院が不足して患者の隔離に苦悩した。
給水船を操って飲料水を運んだのは、上海の岡田酉次ら武官府だった。
岡田は
『日中戦争裏方記』
の中で、
当時の給水船とコレラ患者のようすを、こう記している。
「八月二十五日ごろには、無数の日本軍輸送船が呉淞沖に到着していたが、
敵の妨害で砲弾の補給準備にもこと欠き、
ましてや一般軍需の揚陸などは見込みさえ立て得ない。
そのうえやっと岸辺に取りついた部隊からは、不幸にも伝染病患者まで発生し、
惨状見るに忍びざる苦戦を繰り返した。
そこで、せっかく、武官府であらかじめ準備した軍需品
(医薬品を含む)
を、
黄浦江を下って揚子江本流への出口にあたる呉淞鎮付近までいかに補給するかが、
武官府に課せられた声なき至上命令となった。
さいわい暗夜を利用して敵の抑留から引き出してきた数隻の小艇に、
鉄板で防弾装置をほどこし、敵弾雨下の中を運航してやっと上陸し、
水際に平伏している兵隊から歓呼して迎えられたのである」
水上補給に使用した艇は、三井物産上海支店所属の
「梅丸」
が主力で、
三井物産上海支店の梶山幹六
(のちに宇徳運輸社長)
の決死行動で、
何度も上海と上陸地点との間を往復している。
「江岸水際にて上陸兵と共に夜を徹したことも少なくなかった。
上陸部隊がやっと大場鎮に達したころ、部隊の中からコレラ患者が多発しだした。
当時なお上陸部隊では、これが治療薬剤にもこと欠き、いたずらに患者を
敷ワラの上に横臥せしめるのみで、ほどこすすべも持たない有様であった。
また、重傷患者の手術をしようにも、消毒薬や麻酔薬が揚陸できない窮状で、
部隊付軍医による医薬品の現地入手が、人道問題とまで考えられてきた。」》
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1938年6月 満ソ境界線の視察1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/02 18:35 投稿番号: [1619 / 2250]
辻正信著
「ノモンハン秘史」
毎日ワンズ
32〜34p
《 空からの侵犯はソ連の先手で始められ、我もこれに対抗したが、
お互いに証跡を残さないのに反し、地上での越境は尺土
(せきど)
といえども
見逃されなかった。
頻々
(ひんぴん)
としてソ連歩哨や斥候
(せっこう)
巡察の満領内侵入が
第一線から報告せられ、その都度、我が監視隊との間に小競り合いが演ぜられた。
地図と現地との境界不明瞭な方面も少なくはなかった。
紛争は例外なしに、この不明瞭な、主張を異にする地域で起こっている。
東部正面が彼我主力の決戦と見られていただけに、界標の設置も他の正面よりは
厳格に行われていた。しかし、この界標は簡単な石標で地面を少し掘って
埋めた程度に過ぎないために、人力で軽易に動かし得るものも少なくなかった。
綏芬河と東寧は東正面の両方の玄関であり、それを繋
(つな)
ぐ意味において
中間の十八号界標が要点と見られていた。この方面の境界を直接点検する目的で、
綏芬河から東寧に至る距離を地図と磁石とを頼りに、
一直線に北から南へ踏破する計画を樹
(た)
てたのは、
空中から報復越境した直後であった。 現地の守備隊には偵察行動の概要を伝え、
掩護兵を出すようにと関東軍参謀長から電報してあった。
昭和十三年の六月上旬である。 単身まず綏芬河に行き、
駐屯する日本軍に連絡したところ、その連隊では何らの準備もできていない。
「連隊付の某中佐が
『辻という参謀は何を仕出かすかわからない。
あんな男に兵隊をつけてやると巻き添え喰うから知らん顔をしとれ』
と言って、関東軍からの電報を黙殺し、掩護兵一名さえも出さない」
とのことであった。
「よし。それなら結構だ。かえって五月蝿
(うるさ)
くなくてよい。
一人でいまから予定の通り地図上の国境線を一直線に南に向かっていく」
と電話で伝えた。
事が万一起こった場合、兵隊さんを射たれたり、怪我させたりすると始末が悪い。
このような荒仕事は一人に限ると、ほくそ笑みながら、一枚の地図と磁石を頼りに、
綏芬河から山を越え谷を渡り、林を潜
(くぐ)
りながら嵐を孕
(はら) む
国境線の直線コースを跋渉
(ばっしょう)
した。
道路を歩くなら訳はない距離であるが、路外の直線行進は容易なことではない。
一キロメートルを一時間もかかって、
その夜ようやく十八号界標西側の守備隊に一人で辿り着いた。
隊長は驚いていた。
「どうして一人で来られましたか」
と、さも不思議そうである。
「いや、第一線に信用がないもんですから掩護兵を出してもらえなかったのですよ。
一人がかえって気楽でいいですよ。明日もまた一人で行きましょう」
と、大笑いした。》
つづく
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1937年9月10日増員要請に応じない参謀本部
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/01 18:48 投稿番号: [1618 / 2250]
上陸した陸軍は、待ち構えている敵に苦戦しますが、
敵は前だけではありませんでした。後ろにもいたのです。
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
58p
《 松井は、少なくとも五師団は必要と思い、第三艦隊長官と川越大使に通報 》
61〜62p
《 9月10日の朝、参謀本部からの電報が届いた。
その電報は松井をびっくりさせるものだった。
電文は
「新たに第九、第十三、第百一師団を一時的に増加するが、
十月までに二師団だけ残し、他の主力を北方に転用する予定」
という内容のものである。
この朝の松井の無念さが、日記の行間に読みとれる。
「遅くも十月末までに二師団
(うち一つは特設師団)
だけ残し、
主力を北方に転用する予定なりと知り吃驚せり。
かくのごとくして軍の攻撃ははなはだ不徹底となり、
敵軍攻撃の半途にしてこれを打ち切り、
上海北方に小さく二コ師団をもって防守せんなどはとうてい
上海確保、人民安護の所以
(ゆえん)
にあらず。
かつ皇軍の威信を傷つくること絶大なりと考えられ、憂慮に禁ぜず。」》
*
兵隊をほとんど増やさず、増やしても一時的で、すぐよそに回すと言うのです。
石原参謀本部第一部長は、ソ連が参戦してきたら困るから、
その防備に必要という考えで、対中国戦は、あまり重要視していませんでした。
これで、「戦争やれ」
と言われても、言われた方が困ってしまいます。
こんな状態なのに、中国侵略などと言われるのですから、何をか言わんです。
つづく
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1938年6月8日 ドイツ顧問団引上げ交渉2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/01 18:37 投稿番号: [1617 / 2250]
阿羅健一著
『日中戦争はドイツが仕組んだ』
小学館
236〜237p
《 六月八日には顧問団の帰国を中国政府からとりつけるよう、
六月十日には帰国の期日をはっきりさせるよう、トラウトマン大使に命令が来た。
軍事顧問団の働きを高く評価していた蒋介石も素直には従わなかった。
ファルケンハウゼンだけはもう少し残れるように、
あるいは帰国するのは数人ですむよう、ベルリンで工作させた。
リッベントロップ外相はこれも拒否した。
「蒋介石が顧問団の帰国に反対するなら、
即座に駐華大使を引き揚げることを考慮している」
と通告した。
それでも蒋介石はもう少し何人かを残しておこうとした。
ファルケンハウゼンは、前年暮れ、
「本国から召喚命令を受けても、一市民として中国を援助する」
と中国にとどまる覚悟を明言し、蒋介石たちを感動させていて、
このときも、中国国籍を取り、残留することまで考慮した。》
つづく
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1937年9月 軍工路の開放
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/30 14:39 投稿番号: [1616 / 2250]
西岡香織著 『報道戦線から見た 「日中戦争」』 芙蓉書房出版
84〜86p
《「九月六日、飯田支隊は軍工路の開放、公大飛行場確保という
特別の任務を以て、滬江
(ここう)
大学北方地区に於て攻撃を開始した。
この戦闘は上海市街揚樹浦に接近して行われたので、
新聞記者も親しく目撃したものが多いのである。
私も三回程、従軍記者を伴い滬江大学の楼上から眼下の戦闘を観たが、
彼我二三百米に接近し、森原部隊の突撃や敵の逆襲に手に汗を握った。
温厚な飯田部隊長の戦闘指令所で、指揮の合間に記者を紹介した。
『〔軍報道都九月八日午後二時発表〕
飯田部隊は本朝来、陸海砲兵射撃並に
海軍機の協力の下に当面の敵に対し攻撃を再開せり。
同部隊左第一線の森原部隊は午前十一時、界浜港クリークに接近せる
第一及び第二トーチカ陣地を突破し、
軍工路西方約一千米の沈家巷鎮を占領し、目下当面の敵と対峙中なり』
此の発表文は滬江大学の楼上で戦闘を目撃しながら、記者に発表したものだ。
其の翌朝未明に飯田部隊長戦死の報を得、驚いて戦場に駆けつけた。
同盟の奥宮君外数名が続行した。
飯田少佐は昨日私と訣
(わか)
れてから、戦闘指令所を前方、
キュウ江碼頭職員官舎に移したのであるが、
中村大尉、梅田大尉、山本大尉等を初め、中隊長、小隊長相次で斃
(たお)
れ、
一番損害を多く蒙った小隊の守備する碼頭の、
之も戦死傷者を収容している所に夜襲をかけられたので、
部下の止めるのも肯かず、大隊本部を出て現場に赴援し、
格闘して遂に斃れたのである。副官森田少尉之に殉じ、
旅順港口の広瀬中佐、杉野兵曹長を再現した。
私は小銃弾乱れ飛ぶキュウ江碼頭に到り、飯田少佐以下多数の
戦死将兵の遺骸に額き、昨日に変る姿に涙を絞ったのである。
飯田支隊生存の中隊長は第一トーチカに突入した森原大尉一名となった。
死を誓った部下とは断じて離れない、と云っていた森原大尉も大隊長戦死と聞き、
涙を奮って支隊戦闘司令の位置に就き、九、十、十一、十二、十三日と死闘を続けて、
遂に軍工路を突破し、市政府に進入した。
支那特有の豪華な建物で、朱緑の甍
(いらか)
燦然
(さんぜん)
と
大陸の残照に映えている。
キリッと鉄兜の緒を締めて、附近の綿畠
(わたばたけ)
を蹴散し、
飯田部隊長の弔合戦をする森原大尉の奮戦振りは、全く武者絵そのままであった。
好漢惜しいかな、大別山麓の華と散った。
飯田部隊の死闘によって軍工路が突破され、公大飛行場は確保され、
陸上機の活動が茲
(ここ)
に初めて可能となった。
軍工路の開放によって、従軍記者もドロンコの徒歩連絡から、自転車となり、
やがて自動車も使用されるようになった」
(馬淵『報道戦線』)》
つづく
これは メッセージ 1614 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年6月 中国軍の黄河堤防破壊2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/30 14:29 投稿番号: [1615 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
388〜389p
《
−
ところが、
一時間たち、二時間たち、さらに夜空が白みはじめても、
予想された奔流の水音は聞えず、堤防の大幅決潰の気配もない。
爆破個所に近づいてみると、たしかに堤防は上部と河にそう側面が
えぐりとられているが、黄河は氾濫する様子がない。
黄河は、既述したように、第十四師団が補給地点にえらんだ蘭封北西の
陳留口付近では、急角度に北にわん曲している。
その南岸の堤防を爆破すれば、岸にぶつかる水流の勢いも激しいので、
たちまち氾濫したにちがいない。
この三劉寨付近は、しかし、流れはほぼ直線的である。
むろん、その点は考慮され、爆破口は河床より低い位置に設定された。流速を
利用しないでも、水圧そのもので堤防の下部に破孔を形成させようとしたのである。
だが、実際には、爆破は、平野部より約十メートルも高い河床の泥土の一部を
吹きあげたものの、その破孔には横から泥土が流れこんでふさいでしまい、
水位と水流には変化をもたらさなかったのである。
三カ所の破壊口では、いずれも河流が小さな渦をまき、
じわじわと埋防の土をくずしているようにみえるが、
「決潰」「氾濫」という単語を連想させるにはほど遠い状況であった。
「………」
第三十九軍長劉和鼎が、憮然として黄河を凝視していると、
同行した新編第八師長蒋在珍は、さらに西方の賈魯河との合流点に近い
京水鎮部落の東の花園口堤防を決潰する旨を述べ、現地に急行した。》
つづく
これは メッセージ 1613 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年9月 公大飛行場の確保
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/29 15:39 投稿番号: [1614 / 2250]
日本海軍は楊樹浦
(ヤンジッポ)
の東の方に公大飛行場を建設中でしたが、
中国軍の攻撃を受けてなかなか進みませんでした。
そこで、陸軍の一部を上海に回してもらって陸軍部隊と協力して、
周囲の敵を排除することにします。
戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈1〉』
397〜398p
《 九月上旬我が東部支隊右翼隊は陸軍部隊の前進に呼応して、
キュウ江碼頭及び付近地域に対し単独作戦中であった。
付近に公大航空基地を建設中であったが、敵陣地からの銃砲火にさらされ、
航空機の進出が困難であった。
このため陸軍飯田支隊
(飯田七郎歩兵少佐の指揮する歩兵一コ大隊基幹)
が
主として同方面の攻撃に当たることとなり、
海軍側は東部支隊、火砲によりこれに協力することとなった。
陸軍中村中隊
(飯田支隊の先遣隊)
の乗艦する
「栂」
は六日
02:00
上海発、
下江し同
03:05
キュウ江碼頭に横付けし陸兵揚陸を開始した。
ところが同倉庫によっていた敵から頑強な抵抗を受けたため、一たん揚陸を中止、
「栂」は横付けを離し、「刈萱、安宅、堅田、夕月、芙蓉、勢多」
などの掩護艦と共に、夜明けまで同倉庫付近を猛撃制圧し、
07:30
碼頭下流江岸に揚陸を完了させた後、午後戦死傷者を収容し上海に帰投した。
なお旗艦出雲も六日
03:50
上海発、主砲
(二十糎 (センチ) 砲) をもって
本上陸掩護射撃に加入の上、 08:00
上海に帰着した。
かくて上陸した飯田支隊は滬江大学から進撃し、
何家宅以南の軍工路の線に進出して八日ほぼその目的を達成したが、
九日未明の戦闘で飯田支隊長以下幹部多数が戦死するに至った。》
402〜403p
《 事変勃発当初、周水子基地 (大連) で陸軍部隊の北支海上輸送警戒に
従事していた第二聯合航空隊は、上海方面への急速な進出が望まれていたが、
同方面陸上基地は未整備であった。
しかし陸軍部隊上海派兵の結果、かねて建設中であった公大基地の使用が
可能となり、同隊は九月十日この基地に進出した。
公大基地は元来ゴルフ場を急速造成したもので、同隊進出直後、
天候不良のため滑走路がどろだらけとなり、昼夜兼行の修理にもかかわらず、
最初の一〇日間に九六式艦戦約一一機が発着の際大中破した。
また敵機の来襲もしばしばであったが、おおむね夜間攻撃で我に被害なく、
付近敵陣地からの砲撃もその都度反撃した。
この一〇日間が実に第二聯合航空隊にとり最大の危機であった。》
*
これまで、日本軍は、上海方面に、陸上の飛行機基地を持たず、
航空母艦から小さな複葉機を飛ばすか、
済州島や台湾から、96式陸攻を飛ばすしか出来ませんでしたが、
公大基地が確保できたお陰で、陸上から、南京やその他、
遠くの敵基地を攻撃する事が可能となりました。
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1938年6月 中国軍の黄河堤防破壊1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/29 15:28 投稿番号: [1613 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
386〜388p
《 六月六日、北支那方面軍は、第十六師団と第十師団にたいしては
前日の進出位置での停止を命じ、
第十四師団には、予定どおりに中牟への前進を下令した。
第十四師団長土肥原中将は、それまで師団予備であった第五十九連隊を
第二十七旅団に復帰させ、旅団長豊嶋少将に中牟への
「追撃」
を命令した。
師団の開封入城式は、六日午後五時、北門からおこなわれたが、
同時刻、
追撃隊である第二、第五十九連隊は、豊嶋少将の指揮の下に西門を出て追撃した。
開封の陥落と第十六師団の尉氏西方への進出は、より一層に中国側の危機感を強めた。
漢口では、市民と政府機関の一部が避難を開始し、
蒋介石は、予東兵団総司令薛岳に電話で指示した。
「趙口決堤、着第三十九軍長劉和鼎負責、所有決堤部隊、統帰劉軍長統一指揮、
応立即加強力量、限於本(六)日二十時前達成任務、並派新編第八師長蒋在珍前往協助」
第三十九軍長劉和鼎に午後八時までに黄河を決潰させよ、
新編第八師
(蒋在珍)
を協力させる
−
というのである。
第三十九軍長劉和鼎は、総司令薛岳から蒋介石の命令をうけると、
ただちに現場にむかい、すでに作業中の第百三十師第七百六十六団と
第五十六師第三百三十一団を督励した。
堤防の破壊は、直径約十メートル、深さ約十五メートルの穴をいくつか掘り、
その底部を横穴で連結して爆砕する方法を採用していた。
このやり方なら、同じ爆薬量でも、一カ所よりも広い破壊口をつくれるからである。
だが、直径十メートル、深さ十五メートルの穴掘りは、簡単な工事ではない。
しかも、数カ所に掘って横穴でむすばねばならぬ。
第三十九軍長劉和鼎は、しきりに督促したが、蒋介石が指定した午後八時には、
なお爆破準備はととのわなかった。
第十四師団の追撃隊・第二十七旅団は、六月七日午後、容易に中牟を占領した。
中国軍の抵抗は弱く、日本側に死傷者はなかった。
その夜、中国側の三劉賽部落に近い黄河堤防の破壊準備が完了し、
第三十九軍長劉和鼎の指示で爆破スイッチがおされた。
夜空に鈍い爆音がひびき、黄河堤防に三本の爆煙がたちのぼった。
用意した三カ所の爆破口は、それぞれ二本のたて坑を連結させ、
約百メートルの間隔をおいていた。
計算では、一カ所約二十メートルの堤防が決潰し、やがて水圧で破壊口の
中間の土堤もくずれ、約二百メートルの破孔が形成されるみこみである。
夜空にたちのぼった三本の爆煙は、その計算の現実化を予告するものと思われ、
第三十九軍長劉和鼎は、作業部隊に退避を命じた。》
つづく
これは メッセージ 1611 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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9月6日陸軍増派に関する陸海軍の交渉2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/28 15:25 投稿番号: [1612 / 2250]
これは1937年9月の上海戦の話
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
296p
《 九月六日午前、軍令部総長は海軍の用兵について奏上した際、
「上海の陸上戦闘は遅々として進まず、陸軍兵力の増強が必要である」
旨を上奏した。
よって、直ちに参謀総長を召された。参謀総長は、参謀本部で検討ののち、
十五時参内し、 「上海に、第九・第十三・第百一師団及び台湾守備隊を
増派することに内定、後備歩兵四コ大隊を派遣」
する旨上奏した。
九月七日、台湾軍の台湾守備隊を応急動員により、
海軍艦艇で上海に急派することになり、臨参命第九十七号により、
重藤支隊
(長
守備隊司令官重藤千秋少将−18期)
として
上海付近に派遣すべき命令が出された。
これと同時に、臨参命第九十六号をもって、北支那方面軍から、後備歩兵一〇コ大隊、
同砲兵二コ中隊、同工兵二コ中隊、野戦重砲兵第十聯隊の一大隊、
高射砲隊 (乙) 五隊を上海に転用する命令が下達された。》
しかし、石原部長はまだ頑張ります。
296〜297p
《 注一
陸軍中央部内においても、上海方面の兵力が過少であるとして、
作戦部を非難する声が相当に強かった。
石原作戦部長は、増兵しても焼け石に水だからと言って容易に同意せず、
陛下が出せと言われれば別だが、そうでなければ出さぬと頑張っていた。
しかし上海方面の悲惨な戦況を打開する必要があるので、
ついに増兵に同意せざるをえなくなった。》
297p
《九月十日、石原部長は、第一部各課長に対し次のように意図を示した。
(1)
上海派遣軍は増兵されても任務は変わりない。南京の攻略戦は実施しない。
(2)
上海に一撃を加えたのちは二〜三コ師団をもって上海周辺を占拠させ、
じ余は満州に転用する。》
*
この期に及んでも、石原部長は、なお、支那事変には消極的だったのです。
南京進撃どころか、上海が片付いたら兵を満洲に移すと言っていたのですから。
これで、中国侵略などと言うのは、歴史を判らぬバカです。
尤も、中国は最初から、嘘を並べているだけですから、バカではありませんが。
これを信じる日本人がバカなのです。
これは メッセージ 1604 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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5月27日 中国軍黄河堤防決壊を提案
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/28 15:16 投稿番号: [1611 / 2250]
これは、1938年5月の徐州作戦の続きで、漢口作戦へと移って行く間の話
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
373〜374p
《 五月二十七日
中国側の攻撃は、この日も三方からおこなわれたが、いずれも成功しなかった。
漢口では、蒋介石が、文字どおりに憤怒していた。
参謀本部第二庁長何成璞は、黄河の
「冲力最猛」
とみられる
「蘭封屈折部」
を決潰するよう、蒋介石に進言した。
黄河決潰については、すでに軍事委員会副官処長姚蒴、第四十一師副師長
黄新吾その他からも献策されていたが、第二庁長何成璞は、
とくに蘭封地区を攻めあぐむ予東兵団を支援するだけでなく、
次のように戦局に広汎な効果をおよぼすことができる、と強調した。
「則黄水即循
旧黄河道直奔
徐州、不特大地泛濫、使敵機械化部隊
失其効能、抑且足以摧毀其戦力、使其打通津浦路企図、仍帰泡影」
だが、蒋介石は、河水にたよらなくても日本軍第十四師団を撃破できるはずだ、
とテーブルをたたき、再び各軍長に電報した。
動員されている兵力は五個軍、一個軍団、計十二個師におよぶのに、
わずか一個師団の敵を
「徹底解決」
できないのは、なぜか。
「言之痛心、各該軍長等指揮無方、行動復懦、以致士気不振、畏縮不前、
将如何対国家付託之重、如何以対民族企望之殷、知廉恥者、不至如此……」
お前たち指揮官は無能で臆病で恥知らずだ、ときめつけているわけだが、
これは酷評にすぎる。
第十四師団暗号班麻生軍曹がいうように、中国軍将兵は勇敢であり、
しばしば日本軍陣内に突入し、軍曹も、その中国語を耳にするほどであった、
と回想している。
だが、蒋介石にしてみれば、わずか一個師団の日本軍を撃滅できないのは、
指揮官が
「弱将」
だから兵も
「弱卒」
になっているとしか、思えない。
論評につづいて、蒋介石は、厳命した。
「限本月二十八日以前厳督所部、将敵完全殲滅、以贖前愆、如再敷衍、
玩忽因循、決不姑寛……」
蒋介石は、敗戦の責任を追及し、
「抗命」
または
「怯懦」
が明らかになった指揮官は銃殺している。
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1937年9月 各地で居留民引き揚げ2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/27 19:06 投稿番号: [1610 / 2250]
新聞記事
香港も抗日気分強まり、婦女子引き揚げ
〔昭和12年9月4日
中外商業(夕刊)〕
《 三日、水沢香港総領事より外務省に到着した報告によれば、
わが空軍の広東爆撃以来香港の邦人に対する空気は俄然悪化し、
ために七日香港出港の郵船浅間丸で取り敢えず邦人婦女子百名を
引き揚げさせることに決定した。
すなわち二日午後一時半ごろ、湾仔にある邦人経営浜田洋行に
支那人五百名押し寄せ口々に、 「日本人を焼き殺せ」
とわめき立てて
暴行を働き、政庁より警官多数急行してようやく事なきを得た。
また同日、一邦人が内地引き揚げのために家財をまとめ苦力
(クーリー)
に
運ばせたところ、その苦力は
「日本人のために仕事をした漢奸だ」
と
仲間から罵られ袋叩きにあうなど、邦人に対する人気は極度に険悪となってしまった。
最近支那人が日本人と誤られ殴打されたことが再三あり、
八月三十一日には
川田商店事件があったので、
水沢総領事は総引き揚げを決意するに至ったものである。
なお香港は英国領なるため支那の他地方と異なり、わが総領事が引き揚げ命令を
出す訳に行かず、各自自由に帰国という形式を取っている訳で、
残留邦人千二百名は旅館千歳館と小学校及び台湾銀行社宅に集まり
引き揚げ待機の姿勢にあり、近く全面的引き揚げのやむなきに至る形勢である。》
*
広東爆撃はドイツや英国からの武器が広東方面から中国に送られるので、
その輸送を断つためのものであって、市民爆撃が目的ではありません。
一応、断っておかないと、すぐ市民爆撃にすり替えられるから。
*
よく、中国人や善良な日本人は、日本兵が中国人を虐殺したと言いますが、
日本国内で戦争中
中国人が大虐殺されたという話は聞きません。
日本人が虐殺を好む民族なら、日本本土でこそ、起こるべきです。
しかるに、日本では起こらず、中国で日本人が虐殺されたりしています。
だから、逃げ出しているわけです。
揚子江流域の日本領事館員は逃げざるを得ない状況に追い込まれましたが、
駐日中国大使館参事官揚雲竹以下一部の館員は、迫害も何も受けず、
昭和13年6月11日まで日本にいました。
(戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』479pに書いてあります)
彼らの安全はずっと保障されていました。
彼らが引揚げた理由は、日本が出した和平案に中国が返事をせず、
怒った近衛首相が、昭和13年1月16日
「爾後、国民政府を対手とせず」
とやり、
事実上国交断絶になったからです。
それでも6月まではいました。
つづく
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1938年5月26日 宇垣氏 外相に入閣
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/27 18:50 投稿番号: [1609 / 2250]
井本熊雄
著
『支那事変作戦日誌』
292p
《 近衛首相は一月十六日の
「蒋介石対手にせず」
の声明以後、
国民政府動揺の色が看取されない情勢に処し、右の声明が間違っていたことを痛感し、
国民党政府を相手に和平方策を探求することの必要性を感じていたようである。
これは、各方面からの示唆によることが大きく原因していたようであるが、
右の反省から政府が戦争指導の主動権を振り、事変の早期解決を図ることを
目指したことが五月、内閣の改造に踏切った大きな理由であったと思われる。
宇垣外相は入閣条件として、
①閣内の一致結束の強化、
②速やかに対支和平方針決定、
③蒋政権対手にせずに深く拘泥せず等を出し、
事変解決については、かなり強い意欲を示していたようである。
陸軍としても板垣陸相就任当時は、北支、蒙疆に対する方針は変らないが、
中、南支に対しては、英国の権益を好意的に考え、
中支の開発は列国と並存的に実施する等、やや柔軟性を見せていた。
当時外務省の石射東亜局長は、支那の主権に制限を加えず、
内政に干渉せず、蒋介石の下野、国民党の解消を要求しない等、
思い切って寛大な平和条件を構想し、
宇垣外相は原則的にこれに同意していたらしいが、
ただ蒋介石が責任をとって下野することは、結局必要であるとしていたようである。》
これは メッセージ 1588 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年8月 中国軍機、米汽船を爆撃
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/26 18:41 投稿番号: [1608 / 2250]
中国空軍機は、今度はアメリカの汽船に爆弾を投下しました
以下は新聞記事です。
《 〔昭和12年8月31日
大阪毎日〕
〔上海三十日発同盟〕
支那軍飛行機一機は三十日午後五時頃、
呉淞
( ウースン)
港外に仮泊中のダラー汽船プレジデント・フーヴァー号に爆弾を投下、
一弾は船体に命中し、外人客ならびに船員に負傷者を出した模様である。
〔上海三十日発同盟〕
三十日午後七時半、P・フーブァー号より
帝国海軍への公信によれば、爆弾は当時上空飛行中の支那飛行機より投下され、
フーヴァー号の舷側で炸裂したものである。
当時附近一帯の近距離にあった日本軍艦〇〇と〇〇の二隻は、
直ちに支那飛行機に対し猛烈に高角砲を発射し、これを撃退するとともに
救援のためフーヴァー号に近づき、乗組員二名を同船に派遣、救護に
当らしめんと申し出でたが、フーヴァー号は日本海軍の好意ある態度に
深甚なる謝意を表するとともに、被害軽微のため日本側の救護申し入れを辞退した。
わが機、爆撃の一機を撃墜
〔上海本社特電三十日発〕
(三十日午後十時第○艦隊報道班発表)
三十日午後五時三十分頃、
軍艦〇〇の〇〇機二機は揚子江口のライト・シップ附近にて、
米国ダラー汽船プレジデント・フーヴァー号を爆撃せる支那空軍の
カーチス・ホークス機三機を認め、これを追撃、その一機を撃墜せり。》
*
カーチス・ホークスはアメリカ製の飛行機
米国の汽船が米国製の飛行機で攻撃されてりゃ世話ない。
おまけに、この中国空軍を指揮しているのが、元米空軍のシェノールト。
しかしこれでも、米国は中国の味方をやめない。
つづく
これは メッセージ 1596 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年5月20日 ドイツ顧問団引上げ交渉1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/26 18:33 投稿番号: [1607 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
406p
《 A・ファルケンハウゼン中将を中心にするドイツ軍事顧問団については、
日本側からたびたびドイツに引き揚げをもとめ、
五月二十日には、駐支大使 0 ・トラウトマンが、
正式に中国側に顧問契約の解除を申しいれた。
顧問団は、形式としては、各個人が中国政府と契約をむすんでいたからである。
「余不願
貴国国民為
中国関係而違反
其政府命令、
故対
解除顧問契約
一事、允了考慮」
蒋介石は、そうは応えたものの、なにぶんにもドイツ人顧問は有能である。
現に、中国軍の
「台児荘戦」
における勇戦は、
たぶんに顧問団長ファルケンハウゼン中将の指導による。》
これは メッセージ 1592 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1937年8月 中国各地で居留民引き揚げ1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/25 19:01 投稿番号: [1606 / 2250]
上海戦がはじまり、中国の他の地域でも不穏な情勢になってきましたので、
居留民に引き上げ命令が出ました。
以下は新聞の記事です。
青島居留民に正式引き揚げ命令
〔昭和12年8月28日
大阪毎日(夕刊)〕
〔青島本社特電二十七日発〕
《 外務省よりの青島在留民正式引き揚げ命令は二十六日深更、
総領事館に到着したので、二十七日早朝、
大鷹総領事は正式引き揚げ命令を民団参事会に申し渡し、
また同九時から第一小学校で開催した居留民会が発表した。
これによって約三千三百名の居留民と済南避難民約百名は本月末までに大連
または内地に引き揚げ、日独戦争以来の総引き揚げが行われることになった。
しかし青島および済南の両総領事館員、税関、市政府、鉄道、電信局の
日本人役員は最後まで残るのである。(中略)
邦人財産、支那側で保障 〔青島二十七日発同盟〕
引き揚げ後における邦人財産保護に関しては、二十六日以来大鷹総領事と
沈鴻烈市長および市政府当局との間に交渉が進められていたが、
二十七日朝にいたり両者の間に完全なる諒解が成立、
支那側は全責任をもって邦人財産保護にあたることを確約した。》
廈門の総領事館も閉鎖、全員引き揚げ
〔昭和12年8月30日
大阪毎日〕
《 廈門 (アモイ) における邦人の危険なる状態が報道されているので、
海軍省は二十九日午前十一時、廈門の状況に関し左の副官談を発表した。
(海軍省副官談)
南支方面において従来比較的平静なりし廈門は、去る二十七日、
第百五十七師の一団侵入し廈門要港司令、同参謀長を監禁し、
支那海軍陸戦隊の武装解除を行い砲台、兵営などを占領し、
果敢に抗日気勢をあげた結果、形勢とみに不安を加え、
加うるに同夜、支那便衣隊は帝国総領事館を包囲し形勢不穏となったため、
二十八日、所在帝国官憲は在留邦人残留員全部の引き揚げを決し、
帝国海軍部隊警戒のうちに総領事館を閉鎖し、邦人全部を長沙丸に収容し、
軍艦〇〇および〇〇駆逐隊護衛のもとに無事引き揚げを終わった。》
これは メッセージ 1604 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年5月20日中国軍機、日本空襲
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/25 18:51 投稿番号: [1605 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
356〜358p
《
−
五月二十日、
午前四時十分ごろ、熊本県球磨郡黒肥地村須山の農家の庭先きで、
住民源島義治が顔をあらっていると、空から紙片がふってきた。
粗末な菊判大のザラ紙に、五号活字で文字が印刷されている。
「日本労働者諸君に告ぐ」
−
という冒頭の一行を読むと、源島義治は、
なんとなく
「アカ」 (共産主義者)
の仕業ではないかと直感し、
村の駐在所に、ひろい集めたビラをとどけた。
駐在所から連絡をうけた人吉警察署では、すでに問題のビラについての警報をうけていた。
届出がある少し前、午前四時ごろ、熊本、宮崎両県の上空を
「国籍不明機一機」
が高度四千メートルで通過した。
そして、その航路にあたる熊本県芦北郡水俣町、球磨郡四浦、多良木村、
宮崎県椎葉山、冨島付近にビラが散布されていた。
黒肥地村も、〝怪飛行機〟
のコースにあたる。
ビラは各警察が押収して内容は発表されなかったが、新聞報道によれば、
「日本農民大衆に告ぐ」 「日本労働者諸君に告ぐ」 「日本商工業者に告ぐ」
「日本各政党人士に告ぐ」
などの種類があり、それぞれ
「中華民国農民協会」
「中華民国総工会」 「中華民国総商会」 「中華民国外交協会」
と署名されていた。
熊本、宮崎両県の警察本部特高課は、西部防衛司令部と連絡をとり、ビラの署名から
〝怪飛行機〟が中国機らしいと推定する一方、秘密工作員の落下潜入の有無を捜査した。
しかし、その気配はなく、〝怪飛行機〟 を目撃した住民たちの証言も、
機数は一機で
「白色のダグラス型」
らしい、とのことであった。
実際には、〝怪飛行機〟 はまさに中国機であったが、
中国側によれば、ボーイングB10型爆撃機であり、機数も二機であった、という。
日本への飛行は蒋介石の特命によるもので、そのねらいは、
「蓋倭人夜郎自大、自以為三島神州、断不被人侵入、此等迷夢、吾必促之覚醒也」
つまり、神州不可侵とうぬぼれている日本人の眼をさまさせてやろう、というのである。
準備は四月中旬からおこなわれていて、
中国空軍第十四轟炸
(爆撃)
隊長徐喚昇、副隊長トウ彦博がそれぞれ
操縦する二機が、五月十九日午後三時二十三分、漢口飛行場をとびたった。
「迷夢覚醒」
が目的なので、両機は爆弾をつまず、
かわりに二十万枚の伝単
(宣伝ビラ)を搭載した。
蒋介石によれば、ビラの内容は、
「中日両国有同文同種、唇歯相依的親密関係……希望日本国民、喚醒軍閥放
棄進一歩侵華迷夢、迅速撤回日本本土」
と、呼びかけたものである。
二機は、中国側記録では、二十日午前二時四十五分に九州に達し、
「長崎、佐世保、福岡、久留米、佐賀」
にビラを散布し、正午前に漢口に帰着した。
蒋介石は、この飛行で日本は有史いらいはじめて
「他国飛機之威脅」
をうけ、
また、日本機が中国を爆撃しているのにたいして、中国側は
「紙弾」
でむくいた、
と指摘し、次のように自讃している。
「故世称為
『人道飛行』、敵我仁暴之別、於此灼然可見」
現実には、この日、漢口では、『人道飛行』
とは発表されず、ラジオは、
「中国空軍が九州、瀬戸内海を経て神戸、大阪に大爆撃をおこない、
大損害を与えた」
と放送し、市民は、爆竹をならして祝賀した。》
注
: トウはニンベン+冬の字
これは メッセージ 1603 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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陸軍増派に関する陸海軍の交渉1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/24 18:50 投稿番号: [1604 / 2250]
これは1937年の上海戦の話
陸軍は上陸したけど、人数が少なくて犠牲が大きかったので増派を要請しました。
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
294〜295p
《 二十四日、中央部は、臨参命第七十八号により、
独立重砲兵第二・第三大隊及び独立攻城重砲兵隊を動員派遣した。
三十日、軍令部福留第一課長は上司の命を受け、参謀本部武藤第三課長を訪ねて、
上海に陸軍部隊を増派し速やかに敵を撃破するよう交渉した。
・・・
翌三十一日、石原第一部長は軍令部の近藤信竹第一部長を訪ね、
次のような申し入れを行った。
上海方面には兵力をつぎ込んでも戦況の打開は困難である。・・・
陸軍統帥部としては、何かのきっかけがあれは、なるべく速やかに平和に進みたく、
ついては平和条件を公明正大な領土的野心のないものに決めておきたい。
・・・
九月一日、近藤第一部長は石原部長に対し上海増派を督促した。
これに対し、石原部長は次のように回答した。
対ソ戦準備及び兵団の編制装備上、上海方面の作戦に適する兵力はない。
・・・なるべく速やかに講和をしたい。
・・・しかしせっかくの要望であるので更に研究する。》
*
石原部長は、「なるべく速やかに講和をしたい」
「条件を領土的野心のないものに」
といっていたのです。
世間でいう侵略戦争とは大違いです。
日本人の危機にも関わらず、兵を出し渋っていますが、
そうも言っておられなくなりました。
296〜297p
の注1
《 陸軍中央部内においても、上海方面の兵力が過少であるとして、
作戦部を非難する声が相当に強かった。
石原作戦部長は、増兵しても焼け石に水だからと言って容易に同意せず、
・・・頑張っていた。しかし上海方面の悲惨な戦況を打開する必要があるので、
ついに増兵に同意せざるをえなくなった。》
295p
《九月一日、第五次動員として、かねてから準備中の第百一師団、
独立工兵第十一聯隊(丁)、野戦高射砲隊(甲)一隊などに対する
動員が下命された。》
つづく
これは メッセージ 1602 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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1938年5月19日もぬけの殻だった徐州
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/24 18:42 投稿番号: [1603 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
351〜354p
《 −
五月十九日、
午前四時、立花将校斥候は無事に帰ってきて、
西門付近には
「大ナル敵影ナシ」
と報告した。
つづいて、午前五時ごろ、第二大隊の臥牛山占領の報告がとどいた。
・・・・・
第六十五連隊長両角大佐は、午前七時、
小山子部落で第一大隊長渡辺多粮少佐に命令を下達して進発させ、
午前八時には、臥牛山を攻略した後藤常治少佐の第二大隊にも、
徐州東停車場への進出を命じた。
第一大隊と岩仲戦車隊は、徐州の手前約二キロに接近したが、望見する徐州は、
日本軍の砲撃による黒煙を吹きあげるだけで、応戦している気配がうかがえなかった。
シンと、静まりかえっている様子である。
とにかく行ってみよう、と、第一大隊は戦車隊をはさんで前進したが、
午前八時三十分、徐州市内にすらすらとはいりこんだ。
徐州は、区画整理のために城壁がとりはらわれていたが、
城壁のない中国都市は当時としては異様である。
敵兵の姿も、ない。
砲爆撃で建物はこわれているが、街路は、清掃されたようにきれいである。
住民の影もなく、民家はいずれも無人である。
−
これが徐州か。
−
これが、陥落すれば戦争も終るといわれ、五十個師が死守しているという徐州か。
第二大隊と戦車隊は、文字どおりに
「キツネにつままれた」
気持ちで行進し、
市街のほぼ中央に位置する旧西門にたどりついた。
「江北第一関」
−と、扁額の文字は読める。
第一中隊長高橋義雄中尉が、鉄帽の内側にたたみこんでいた日章旗をとりだし、
民家の障子の桟を旗竿代りにして、楼上にかかげた。
・・・
にわかに砲声と爆撃の轟音がひびいた。
やはりワナか、と両角大佐は、口中のうめき声をかみしめたが、
砲爆撃は、中国軍のものではなく、日本側の攻撃であった。
すでに味方が進出しているとは知らず、城内制圧のための砲撃と
海軍機十八機の空襲がおこなわれたのである。
たちまち、第百四連隊第三大隊に死者二人、重傷者六人の損害が生じ、
第二大隊は伝騎の指示伝達によりひきあげ、第一大隊は中国軍の壕に避難した。
赤布と白布で大型の日章旗を急造して合図し、必死に無電で存在を急報した。
「日本軍、ココニ在リ」
「両角部隊、徐州城内ニ在リ」
砲爆撃はやみ、徐州は
「空き城」
であることが報告されると、
中支那派遣軍司令官畑俊六大将は、打電した。
「十九日九時十分、萩洲部隊ハ徐州ノ一角ヲ占領ス」》
これは メッセージ 1601 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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鉄壁の布陣で待ち構える中国軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/23 18:47 投稿番号: [1602 / 2250]
これは1937年の第二次上海事変の話
陸軍は何とか上陸はしましたが、非常に苦戦します。
敵は鉄壁の布陣で待ち構えていたからです。
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
には
54p
《 この両師団の上陸は、ドイツ軍事顧問の指導で構築された
中国軍のトーチカからの抵抗に苦戦した 》
55p
《中国軍側の配備は、上海北側地区に三十万、浦東に二万、上海西部地区に十万、
北翼羅店鎮に十八万の最精鋭中国軍が、トーチカなどで陣地を造っていた 》
57p
《馮玉祥総指揮の下に、張治中の十万、のちに台湾の国民党の台湾主席となる
陳誠が指揮する十八万、張発奎指揮の二万と判明する。
空軍の飛行機はほとんどがソ連製の飛行機だった。
トーチカなどに構築された高射砲はドイツ製。機関銃はチェコ。
それにアメリカ製のカービン銃が見つかる。》
58p
《第十一師団の長勇参謀が旗艦
「由良」
に帰ったさい、
羅店鎮の正面に中国軍は約二万人、さらに嘉定方面より増援があり、
近々、第十一師団に反撃してくる姿勢がうかがえると報告がある。
・・・
中国軍は呉淞砲台、商船学校付近から西方の大金家村付近に及ぶ線を守っている。
指揮官は陳誠で、兵の数約十五、六師団であることが判明する。
日本軍の一師団と、ドイツ顧問団に指導された十五、六師団との睨み合いである。》
とあります。
とんでもない大軍と堅固なトーチカ、優れた外国製の武器が待ち構えていたのです。
これにたった二個師団で太刀打ちできるはずがありません。
かつ敵は地の利を活かしています。
55p
《
十一師団が上陸した辺りの稲の中には身を伏せて待ち伏せし、
日本軍を狙撃したり、また飛行機に連絡するなど、訓練された中国兵に苦戦する。
軍の参謀、下坂正男歩兵中佐が狙撃されたのは、稲の中からの中国軍による。
このときの十一師団の損害は、二十三、二十四日の二日間だけで、
下坂参謀以下戦死十五名、負傷兵五十余名に及ぶ。》
60p
《 難敵は縦横に走るクリーク(川)である。
橋は落とされていて、日本軍は前進できずにいる。》
つづく
これは メッセージ 1593 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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