1938年6月 中国軍の黄河堤防破壊4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/05 14:22 投稿番号: [1625 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
391〜393p
《 黄河の氾濫の勢威は、六月十三日になると、ますます強まった感じで、
三劉寨の破壊口は約二百メートル、第二堤防の決潰個所も幅約五百メートル
に拡大された。
ほぼ中国側の計算どおりの結果といえよう。
河水は幅約二十四キロ、長さ約八十キロの形で南に流れつづけ、
中牟では、水圧のために城壁の東北角がくずれた。
城壁をあらう水面は、一時間に約二センチの割合いで水位を増し、
日本軍は城門を閉鎖した。
第二軍司令部は、中牟の第十四師団第二十七旅団が水中に孤立した状況を知り、
工兵四個中隊その他を救援に派遣した。
氾濫は、しかし、六月十四日になると、さらに広範囲におよび、
三劉寨の決潰部分も、第一堤防が約三百メートル、第二堤防が約一キロにもひろがり、
冠水地区は東西約二十キロ、南北約百二十キロとなり、
尉氏方面の第十六師団も水にかこまれて孤立した。
気球の観測によると、長大な氾濫地域の中に約二十メートル平方の小島と
約一キロ四方の中洲が出現しているのが、みえた。
中牟では、部隊の一部の避難が開始され、
この夜、救援にかけつけた工兵の鉄舟で離脱した。
この日、第二軍は第十六師団にも工兵を派遣して撤退作業を開始させた。
そして、この日の氾濫地域の最大幅は約二十八キロにおよび、
三劉寨と京水鎮の破壊口から流出する黄河は賈魯河を氾濫させる形で、
その流れの両側にひろがりつつ、南下していた。
これまでに水没した部落は約二千、行方不明の中国人住民は五万余人と、報告された。
翌日、六月十六日になると、その数字は
「水没部落約三千、罹災民約五十万人、
行方不明七万余人」
と修正されたが、氾濫は、やや減水の兆候を見せだした。
・・・・
中牟では、なおも周囲の水位は上昇し、第五十九連隊主力が撤退したときには、
城壁頂上まであと一メートルのところに、水面がせまっていた。
だが、一夜明けると、事態は一変した。
流水の先端は、尉氏のはるか南方の周家口に達していたが、
冠水地域は急速に減水しはじめた。》
394p
《 中国側の調査では、被害は結局は
「水没部落約三千五百、
罹災民約六十万人、行方不明約十二万人」
におよんだ、という。》
これは メッセージ 1623 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1625.html