1938年6月 中国軍の黄河堤防破壊3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/04 14:01 投稿番号: [1623 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
文春文庫
389〜391p
《 新編第八師の堤防爆破は、六月九日に実施されたが、
二カ所の破壊口の効果は、三劉寨の場合よりも少ないと判断された。
このころ、開封では、中国軍が黄河の堤防を決潰した、
雨期の増水で開封を水びたしにする作戦だ、との噂がながれたが、
格別には日本側の注意をひかなかった。
− だが、六月十一日、
この日は未明から大雨がふりつづいたが、夜になると黄河の水位はあがり、
午後十時ごろ、水流は三劉寨の破壊口からあふれでた。
「夜間河水大漲、黄河主流向趙口貫注、水頭高的丈余、
決口拡大至六十公尺、水流急湍、勢甚 キョウ (サンズイ+凶) 湧」
中国側 「抗日戦史」 は、そう記録しているが、
第十四師団司令部につたえられた報告も次のように述べている。
「大雨増水ノ為、奔流ハ河床ヨリ約十メートル低キ地盤ニ向ヒ
猛烈ナル勢デ流出シツツアリ」
翌日、六月十二日午前十時の気球観測によると、
前日にそれぞれ約二十メートル幅とみられた三カ所の破壊口は、
いずれも約四十メートルにひろがり、堤防をこえた河水は、
滔々という形容そのままに南に氾濫していた。
決潰区域には、破壊された堤防の南約八百メートルに第二堤防がきずかれていたが、
両堤防の間にあった部落はすでに水没し、第二堤防も五カ所で崩壊したため、
その南側の部落約五十が水面に浮ぶ形になっている。
第十四師団長土肥原中将は、工兵第十四連隊 (岩倉卯門大佐) と
第四兵端自動車隊 (中村肇中佐) を派遣し、
埋防修理と水難にあった中国人住民の救助にあたらせた。
氾濫した河水は南下して、中牟にせまった。
中牟では、七日に攻略していらい、第二、第五十九連隊が城内外に布陣し、
兵端線の回復とともに支給された白米、菓子、タバコなどの味を楽しむ日を、
おくっていた。すると、この日、十二日午後三時、第二十七旅団命令が下達された。
「黄河ノ堤防敵ノ為ニ決潰サル。濁水氾濫スルヤモ知レズ。
何時デモ避難出来ルヨウ準備シ置クベシ」
つづいて、夕食後の歓談がはじまった直後、午後八時ごろ、緊急命令が伝達された。
「濁水迫ル。速ニ避難セヨ」
中牟にせまったのは、三劉寨堤防からの河水だけではなかった。
新編第八師が決潰させた京水鏡付近の堤防をこえた水流は、
賈魯河に流れこんでいたが、
中牟北方であふれて三劉寨からの流れと合体して、中牟におしよせてきたのである。
城外にいた部隊は城内に緊急避難したが、城壁にのぼって眺めていると、
やがて北方から濁水が襲来した。
地平線いっぱいに赤茶けた濁水の壁が、白泡をたてながら接近してくる。
怒涛や津浪とはちがい、ザワザワと低い音をたてるだけだが、そのくせ、
静かに着実に生いしげった高梁、粟、麦畑をおおいかくしてくる様子は、無気味である。
濁水はさっさと城壁下をとおりすぎたが、見わたせば四周は巨大な湖と化し、
城壁下にざわめく水位は少しずつ上昇している。》
つづく
389〜391p
《 新編第八師の堤防爆破は、六月九日に実施されたが、
二カ所の破壊口の効果は、三劉寨の場合よりも少ないと判断された。
このころ、開封では、中国軍が黄河の堤防を決潰した、
雨期の増水で開封を水びたしにする作戦だ、との噂がながれたが、
格別には日本側の注意をひかなかった。
− だが、六月十一日、
この日は未明から大雨がふりつづいたが、夜になると黄河の水位はあがり、
午後十時ごろ、水流は三劉寨の破壊口からあふれでた。
「夜間河水大漲、黄河主流向趙口貫注、水頭高的丈余、
決口拡大至六十公尺、水流急湍、勢甚 キョウ (サンズイ+凶) 湧」
中国側 「抗日戦史」 は、そう記録しているが、
第十四師団司令部につたえられた報告も次のように述べている。
「大雨増水ノ為、奔流ハ河床ヨリ約十メートル低キ地盤ニ向ヒ
猛烈ナル勢デ流出シツツアリ」
翌日、六月十二日午前十時の気球観測によると、
前日にそれぞれ約二十メートル幅とみられた三カ所の破壊口は、
いずれも約四十メートルにひろがり、堤防をこえた河水は、
滔々という形容そのままに南に氾濫していた。
決潰区域には、破壊された堤防の南約八百メートルに第二堤防がきずかれていたが、
両堤防の間にあった部落はすでに水没し、第二堤防も五カ所で崩壊したため、
その南側の部落約五十が水面に浮ぶ形になっている。
第十四師団長土肥原中将は、工兵第十四連隊 (岩倉卯門大佐) と
第四兵端自動車隊 (中村肇中佐) を派遣し、
埋防修理と水難にあった中国人住民の救助にあたらせた。
氾濫した河水は南下して、中牟にせまった。
中牟では、七日に攻略していらい、第二、第五十九連隊が城内外に布陣し、
兵端線の回復とともに支給された白米、菓子、タバコなどの味を楽しむ日を、
おくっていた。すると、この日、十二日午後三時、第二十七旅団命令が下達された。
「黄河ノ堤防敵ノ為ニ決潰サル。濁水氾濫スルヤモ知レズ。
何時デモ避難出来ルヨウ準備シ置クベシ」
つづいて、夕食後の歓談がはじまった直後、午後八時ごろ、緊急命令が伝達された。
「濁水迫ル。速ニ避難セヨ」
中牟にせまったのは、三劉寨堤防からの河水だけではなかった。
新編第八師が決潰させた京水鏡付近の堤防をこえた水流は、
賈魯河に流れこんでいたが、
中牟北方であふれて三劉寨からの流れと合体して、中牟におしよせてきたのである。
城外にいた部隊は城内に緊急避難したが、城壁にのぼって眺めていると、
やがて北方から濁水が襲来した。
地平線いっぱいに赤茶けた濁水の壁が、白泡をたてながら接近してくる。
怒涛や津浪とはちがい、ザワザワと低い音をたてるだけだが、そのくせ、
静かに着実に生いしげった高梁、粟、麦畑をおおいかくしてくる様子は、無気味である。
濁水はさっさと城壁下をとおりすぎたが、見わたせば四周は巨大な湖と化し、
城壁下にざわめく水位は少しずつ上昇している。》
つづく
これは メッセージ 1615 (kir**gotowa**me さん)への返信です.