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1938年6月 高宗武との香港会談2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/13 15:34 投稿番号: [1641 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
292〜294p


《 この時は、高君にとっては、全く耳よりの話であったので、

高君は、五月下旬、漢口に出て、周仏海と陶希聖と汪兆銘とに報告するとともに、

四人で、いろいろ協議した。ときには、それに梅思平も加わった。

周仏海と汪兆銘とは、従前はとくに親しい間柄ではなかった。

しかし、南京陥落以前から、上段に述べたごとく、周・陶・梅と胡適とは、

長期戦は中国のためならずという点で一致していた。



陶は、経済史専攻の学者であるが、汪兆銘派の直系であり、

汪が行政院長のとき、行政院参議となった人である。

その汪の仲介で、周仏海は、和平論議を通じて汪兆銘と相許す仲になったのであった。

梅恩平は、周とともに旧くよりCC団の仲間であり、江寧県の模範県長として、

蒋介石にその人物、実績を認められた人であった。



五月末になると、西君が噂したことのあった近衛内閣の大改造が断行された。

広田に代って宇垣が外相になったことにつき、高君と周君とはいろいろ推測を

逞   (たくま)   しゅうしたが、 「国民政府を対手にせず」   との路線を

変更しようとする可能性が、少なからずあるとの推断に、二人は一致した。

そこで、周君が高君に対し、 「東京へ行ってはどうか」   と、しきりに勧説した。



高君も食指大いに動き始めたころ、蒋介石は、高君が香港に行くことに

反対の意向であるということを、陳布雷が内々に高君に知らせてきた。

進退谷まった高君が、周君に相談に行くと、

「蒋さんのほうは僕が引き受けるから、断然東京に行くべし」   との

意見であったので、高君が六月十日ごろ香港に出てきたのだという経緯が私に判った。

私が高君に   「宗武、よく事情が判った。君の勇気を買うが、君は、

蒋さんと汪さんとの間に挟まって、困っているのだろうね」   というと、



高君は、 「そのとおりだよ。これが僕の運命なのかも知れないね。

今までも、そうだったが、

これからは、ますます両先輩の間に立って苦しまねばならぬように思える。

両先輩の意見が、ますます離隔してゆくようだから、

僕の苦しさも、いよいよひどくなるだろう。

日中和平の大義については、私の信念からいえば、汪さんのほうに味方せざるを得ない。

戦禍が拡がるにつれ、国民はたまったものじゃないからね。

蒋さんは冷たいが、汪さんは温かい」   という。



「宗武、私が伊藤君から聞いたことだが、このあいだ、六月十四日に、

香港ホテルで西君と君とが覚書を取り交したという話だが」   と尋ねると、

「別に格式張った覚書を取り交したわけではなかったが、

西君との話合いで同意したポイントを、西君が、相互誤解のないようにと書き出し、

私も、一読して、異議はないといったものだ。西君は難しいことばが好きで、

『和平仲介の第三勢力の結集』   とか

『日本帝国主義の放棄と両国平等の立場とが和平実現の絶対条件である』

とかいうことばをつかうが、その意味は、そのとおりなので、

別に反対はしなかったのだ」   と、高君が説明した。》


つづく
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