入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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リパルスベイ・ホテルの会合3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/05 18:43 投稿番号: [1564 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
281〜283p


《 ディルクセン、トラウトマンという二人の大使や、ドイツ政府が、

日中両国の間に立って、日本側からの新条件をそのまま中国側に伝えたのか、

または別にどういう手を打ったかは、いまだに判らない。

とにかく、東京の情勢は、中国側の回答を誠意なき遷延策とのみ解釈し、

「爾後国民政府を対手にせず」   との日本政府声明となってしまった。



その声明に対しては、陸軍の不拡大派すなわち和平派ともいうべき多田参謀次長、

影佐大佐、今井中佐、堀場   (一雄)   少佐が、この声明発出に最後まで猛反対をやり、

ついには帷幄上奏権までを行使したが、結局、拡大派によって押し切られてしまったのだ。


われわれは遺憾だと思っているが、董君が東京で、中国側には条件如何によって

まだ和平の意思があることを伝えたので、それを知った多田、影佐らは、

ますます和平の意思を固めているということは、絶対に明らかである。

影佐の   「敵将」   に対する二通の書簡は、統帥部の現役の影佐としては、

いわば背水の陣を布いたような決意の証拠だと、真剣に考えてもらいたい、と語った。



そこで、日中両国の和平意思が相互に通ずれば、両国における和平派が、

交互作用によってますます強化される可能性は充分にある

ということには、みんなが同じ見解をもった。


高君は、南京から漢口への船中で、

周仏海   (蒋介石の第二侍従室長兼国民党宣伝部長)   と和平のことを談じ合って、

意気投合したこと、汪兆銘が南京陥落以前から、蒋介石に対し、

早期の和平がほんとうは中国の国益に合するという意見を、

独自に、あるいは直接開陳したり、あるいは書簡をもって蒋に書き送ったり

していること、


周仏海は、胡適や、汪派の陶季聖や、梅思平らとグループ

(後日、周がこのグループを   「低調クラブ」   と名づけていたことが私らにも判った)

を作り、和平を論議し合っていたことなどを、私たちに話し、

漢口の国民政府内部にも和平派が漸次有力化しつつある可能性を示唆した。



私ら三人は、高君の話に少なからざる興味をもち、和平運動の前途に曙光を認めて、

大いに喜んだが、董君は、終始ことば少なく、うなずいていただけであった。

伊藤君が   「総論は解ったが、各論の具体化には、まず影佐書簡を漢口の何応欽と

張群とに届けることが、さしづめの懸案を断行することになるのではないか」  

と叫んだので、その実現方法をいろいろ論議することになった。



董君は単刀直入型であるから、書簡を何応鉄と張群とに手渡ししたら、

自分の責任を果したことになると主張したが、

深謀遠慮の高君は、この書簡を和平運動のために如何に有効的に使用するかのほうが

より大切だといって、譲らない。

董君は、何応鉄や張群は必ず蒋介石に見せるだろうといったが、



高君は、それでは、蒋介石にまでは届かない危険がある。

むしろ周仏海と相談して最善のアプローチを考えるべきだといって、董君に反対した。

二人の間が、いささか険悪になったので、西君は私の発言を促した。私は、

「高君は、蒋介石ら首脳に直言できるのだから、影佐書簡を活用して、

蒋介石を直接に口説くのが上策だと思う。董君も高君も、よく相談して欲しい」

というと、董も、しぶしぶ諒承した。



それで、だいたい会議の結論は出たことになった。

ホテルを出たのは、高君と私との二人であったので、タクシーに相乗りしながら、

「この次は、君が東京に行く番だよ」といって、別れた。》
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