入って中国人に南京事件真相議論しましょう

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

1938年6月 高宗武との香港会談1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/05/12 15:06 投稿番号: [1639 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
290〜292p


《 六月十七日ひる前に、私はふたたび香港に来た。

伊藤君が船着場まで迎えに来てくれた。

香港ホテルまで、いっしょに車で来てくれた伊藤君の話によると、

彼は五月中旬から、そして西君は五月二十日ごろからずっと香港に来ていて、

しばしば高君と会ってきた。その結果、二人の勧めによって、

高君も日本行きをだいたい決意しているらしいが、

「五郎」 (松本)   が賛成すれば、最終的に、そこで決めるという気持らしい。



だから、大勢で話をするより、 「五郎」   と高君とで一対一の懇談をして欲しい。

東京行きと定れば、自分   (伊藤)   が東京まで同道する。

西君は明日か明後日に日本へ向けて出発する予定だ。

高君はグロスターハウス・ホテルにいるが、僕はやはりリパルスベイ・ホテルで、

私   (松本)   の電話を待っている。慎重な四郎   (高)   のことだから、

少なくも三、四日はかかるだろうが、云々ということであった。

・・・


グロスターハウス・ホテルの高君に電話をかけた。

「シゲちゃん、よく来てくれたね。午後四時に僕の部屋で会いたいがね」

との高君の声だ。

それから高君とは何回会ったか、今でははっきりしないが、

少なくも四回は会って懇談した。



私は、伊藤君から聞いた高君の東京行きの件について話をする前に、

漢口の情勢が聞きたかった。

とくに、影佐書簡の後始末や東京での内閣改造に対する反響が聞きたかった

からである。高君との話で判ったことは、大要左のとおりであった。



去る三月末に高君は董君と相前後して漢口へ飛んだが、まず董君を説得して、

影佐書簡の取扱いにつき高君一任と定った。


高君は、誰よりもさきに周仏海にこの書簡を見せて相談した結果、

汪兆銘に見せることにした。汪兆銘は、

「これは重要な日本側の意思とみるべきであるから、蒋介石にも見せたがよい」

ということになり、陳布雷を通じて、問題の書簡を蒋に見せたが、

蒋は一読しただけで、怒りはしなかったが、別に何のコメントもいわなかったという。



しかし、周仏海は、西・伊藤・松本三氏が信頼しているといわれる影佐大佐が

異例の書簡を書くには、尋常一様の決意だけではないはずだと感じ、

高君と相談のうえ、日本陸軍中央の有力な一部には、

早期和平の空気があるものと推定し、したがって、

影佐を通じての漢口と東京との連絡を絶つべきではないとの結論に達した。



そこで、四月中旬、高君は香港に出て、待っていた西君と会談し、

蒋介石が従来堅持してきた条件ならば和平の用意ありとする蒋の心裡を、

高君が理解するままに、西君に話し、影佐大佐への返事として伝えてもらいたいと述べた

(西義顕著   『悲劇の証人』   一三四−一七四ページ参照)。



西君は東京へ帰ったが、東京は、徐州作戦の準備に忙殺されていて、

影佐大佐すら、すぐには話に乗ってこないほどであった。

西君は、暫く時機を待つほかはないと考え、五月中旬、また香港に帰ってきて、

高君に対し、東京の実状を、隠さず率直に報告し、かつ、確報ではないが、

近衛内閣の改造の噂がちらほらとある、とも附言した。》
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)