入って中国人に南京事件真相議論しましょう

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

7月26日 郎坊事件4 鯉登連隊の出撃

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/19 18:39 投稿番号: [641 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
303〜304p

《 午前二時半から機関の応接室で緊急会議が始められた。
中国側当局や陸軍武官室、天津軍司令部に電話はつぎつぎとかけられた。

午前三時、豊台の佐藤中尉からの電話

「前線は鎮静しました。しかし救援部隊は未だ到着しておりません。
依然楽観を許さない状態を持続しております」

「我々軍事顧問が一人、至急、郎坊に行く事にしましょう。   中国側から周参謀かだれか
を一緒に連れて行って、現地の中国軍を押えない事には、とても解決はつきやしません」

発言したのは中島顧問だった。桜井顧問が

「郎坊に行くんだったら私が行きましょう。私はこの間張自忠と一緒にあそこの部隊を
検閲して、兵が残らず私の顔を知っとるから、交渉にはかえって好都合です」

そこで早速北寧鉄路局に掛け合って列車を準備させる。また二十九軍にも交渉して
代表者二名を差し出させる事とし、桜井顧問が一緒に現地に向って出発する事になった。



一方、天津海光寺の軍司令部では、・・・
軍の総予備だった鯉登連隊を郎坊に急派する事に一決した。

連隊は第一梯団と第二梯団とに分れ、二列車編成で天津東站を出発する事になった。
第一列車には、触登連隊長自ら軍旗を捧じ、連隊主力と共にこれに搭乗、

第二列車には、配属砲兵、並びに北京救援の任務を併せ有する天津軍の広部大隊が搭乗した。
いつ敵前下車を敢行しなければならぬかわからないので、列車はことごとく無蓋貨車。

午前三時二十分、まず先頭梯団の列車が発車した。夜はほのぼのと明けて来た。
さわやかな暁の冷気を衝いて蒼穹高く、日本空軍戦爆連合の勇壮な飛翔。

空軍も同じく郎坊さして馳せ向うのだ。



救援列車が郎坊近くに差しかかったのは、六時過ぎだった。
空軍は郎坊の中国軍めがけて爆弾の雨を降らせている。

灰色をした郎坊の家々が、緑の木の間にクッキリと見え始めて来た。
前方、郎坊の森から白煙が挙った。

轟然たる音響と共に、敵の迫撃砲群が列車の側方高梁畑に落下した。
すさまじい土塊と高梁の幹が空中高く巻き上げられる。

「全員下車!」   指揮官搭乗車から命令の下達。
兵は列車から跳び下りて、線路両側の高梁畑の中に姿をかくした。



部隊は、あらかじめ指示されていた通りに当面の敵に対して展開を完了。
続いて、攻撃前進の声に応じ、高梁畑の間を縫って中隊ごとに一進一止、

郎坊めがけて前進を起した。銃声と、大隊砲の発射。
三輪寛少佐の指揮する友軍戦闘機隊は美事な急降下を敢行して、

中国軍の集中している森目がけて対地攻撃の反覆。地上部隊はぐんぐん突き進んだ。
やがて郎坊の駅がすぐ目の前に見え始めて来た。

T字形の駅標が朝の陽ざしに白くクッキリ浮び上っている。
シグナルが見える。駅舎が見える。土嚢らしいものも見える。


その土嚢の上に、何やら白いものがヒラヒラしている。
日章旗だ。日章旗を打ち振っているのだ。

「友軍はあそこに頑張っているぞ」救援隊は一気に、郎坊駅へ突き進んで行った。
駅では五ノ井淀之助中隊以下が、血達磨になって昨夜から孤軍奮闘を続けていた。

戦死者の屍がそのままに、駅舎の電報室に横たえられている。
敵は先程の爆撃に耐えられず、主力は追走してしまったらしく、

あたりにはその影を留めていなかった。
連隊は直ちに駅付近の警備に就くと共に、部落内の掃蕩戦にかかった。》

(このあとは   大した事書いてないので   省略)


つづく

7月26日 広部大隊北京居留民護衛決まる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/18 18:30 投稿番号: [640 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
314〜315p

《 事変勃発以来刻々迫って来る北京の危機、日本大使館はとうとう、居留民に
対して内地引き揚げの勧告まで、発しなければならぬようになってきた。

そこで居留民の多くは、内地へ、朝鮮へと引き揚げて行き、七月の下旬ごろ、
北京に留っている邦人の数は、事件前の約半分、およそ二千人に減っていた。



ところが城内に在って、この二千人を保護すべき日本軍兵力は、
歩兵わずか二ヶ中隊である。

これに対し、北京城内に充満している中国兵は、
実に三ヶ旅というおびただしい数だった。

北京の留守警備隊長岡村勝実中佐に与えられた居留民保護の責務はいかなる
戦術判断をもってしても、まったく不可能に近い問題だといわなければならなかった。

単身特務機関を訪れて来て、情報を交換していく岡村中佐の立場こそ、
悲壮そのものというべきだった。

松井機関長や今井武官は、岡村中佐の姿を見る毎に、留守隊長の心情に同情していた。



もちろん、天津の軍司令部も北京のこの情勢は十分わかっている。
しかし北京増援の兵力を他から捻出する事は、不可能に近い状態だった。

郎坊事件が勃発したとき、朝鮮から駆けつけた鯉登連隊を、
郎坊の戦線に注ぎ込まねばならぬ実情だったのである。

だが、事態がこれほどまで悪化した以上、北京城内にいつ飛び火しないとも限らない。

ひとたび城内の中国軍が蹶起したら、尼港 (にこう) 事件の残虐が
再現されるだろう事は必至だった。

七月二十六日、午前一時過ぎ、香月軍司令官はこうした事態に対処すべく
軍の総予備としていた、天津駐屯歩兵第二連隊第二大隊に対して、

次の要旨の命令を下した。 「貴大隊は直ちに天津を出発、一路北京に急進し、
北京警備隊長岡村中佐の指揮下に入り、居留民の保護に任ずべし」



二十六日の黎明五時三十分、天津海光寺の兵営を出発した
広部広少佐の大隊は、東站停車場から乗車した。

この報に北京二千の居留民達は、 「救援隊来たる」   と手の舞い足の踏むところ知らなかった。

二十六日午前八時、北京特務機関の応接室では、松井機関長を中心として、
岡村中佐、今井武官、桜井、笠井両軍事顧問、赤藤憲兵少佐、大木良枝参謀、

小別当海軍武官、補佐官の私の合計九名が額を集め、
広部大隊北京入城の具体的方法について協議した。



当時の情勢下における、城外部隊の北京入城法、といえば、その経路が二つあった。
一つは豊台から列車に乗ったまま、北京前門 (チェンメン) 駅に乗りつける方法、

一つは豊台から自動車に乗り換えて、広安門経由、公使館区域に入る方法である。

ところが列車による経路を考えてみると、まず北京城外永定門駅に、
中国軍の歩兵一ヶ連が常時頑張っている。

事変以来、ここを往き来する日本人が、列車の中で銃剣と青竜刀で威嚇され、
ほとんど裸体にされるほどの峻烈な取調べをうけた事は一再ではない。

列車がさらに城内に進むと、南欠口、東辺門、あるいは哈達門 (ハーターメン)、
前門という要所要所に、それぞれ一ヶ連宛の兵が同じように頑張っていて、

城壁上からは絶えず列車をにらみ下している。



それに比べると広安門の方は、同じように一ヶ連の中国兵がいるとはいうものの、
難関といっては、ただこの一ヶ所だけである。

交渉の仕方によっては、それほど困難という情況ではない。
盧溝橋事件勃発以来、一、二ヶ分隊くらいの日本兵は、連絡だとか何だとかの名目で、

ちょくちょくここを出入りしている。現に二十二日には、軍旗さえここを脱出する
ことに成功しているではないか。会議の結論は、広安門経由入城だった。》


つづく

7月26日 郎坊事件3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/17 18:45 投稿番号: [639 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
35〜37p

《 報告をうけた支那駐屯軍司令官香月清司中将は、こと重大と判断した。

「渤海湾港ヨリ   北京ニ至ル間ノ   交通線ヲ確保シ、 且   同地方ニ在ル

我ガ居留民ヲ   保護スル」

というのが、支那駐屯軍に与えられた使命である
郎坊での交戦は、中国側による

「渤海湾港ヨリ   北京ニ至ル間ノ   交通線」   すなわち北寧鉄道の遮断、

さらには北京の孤立、沿線各地の日本人居留民の危機を容易に招来するはずである。



中将は、また、舌うちする想いにもおそわれた。
即座に必要兵力を派遣して郎坊の中国軍を撃破すべきだが、既述したように、

十四日付の   「事変処理ニ関スル方針」   は、兵力使用は事前に   「中央部ノ承認」
を得るよう指示している。

そんなことで 〝急迫不正〟 の攻撃をうけた場合にまにあうのか   と、
中将は、東京からきた参謀本部総務部長中島鉄蔵少将にも指摘していた。

はやくもその懸念が現実化した感じであり、香月中将が表情をしぶくしたゆえんで
あったが、中将は、東京に兵力使用の要請電を発信するとともに、独断派兵を決心した。



郎坊に鯉登大佐指揮の二個大隊をさしむけるとともに、
北京にも、支那駐屯軍の第二連隊第二大隊 (広部広少佐) を急行させる……。

北京には、その外には日本軍部隊がいても、市内の兵力は岡村勝美中佐の警備隊二個中隊
にすぎず、中国側の市内兵力約三個旅にくらべれば、あまりにも手薄だからである。



   −   東京では、
香月中将の心配とは裏腹に、反応は迅速であった。

「午前一時」   と、陸軍省軍事課長田中新一大佐は記述しているが、
そうだとすれば、香月中将の郎坊事件報告電が到着した直後であろうが、

大佐は、課長室で仮眠中を参謀本部からの電話で起された。
相手は、参謀本部第一部長石原莞爾少将であり、事件を告げたあと、

「もう内地師団を動員する外ない。遷延は一切の破滅だ。至急処理してくれ」
そう、「せき込みながら」   語った、という。



そして、石原少将は、支那駐屯軍参謀長橋本群少将にも、急電している。

「徹底的ニ   膺懲セラルベシ。上奏等 一切ノ責任ハ   参謀本部ニテ負フ……」

  少将の   「不拡大希望」   に変化はなかったにせよ、少将もまた、
北寧線という北支における日本側の   「戦略的動脈」   と日本人居留民が

危機にさらされ、その解消のためには相当兵力による   「一撃」   が必要だ
との判断に到達したのである。

天津からは、午前三時二十分、鯉登部隊をのせた列車が出発し、
午前五時三十分には広部少佐の第二連隊第二大隊が進発した。》


  つづく

7月25〜26日 郎坊事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/16 18:39 投稿番号: [638 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
301〜302p

《 私のかたわらにいた愛沢通訳生が一応軍司令部に確めることになった。
天津の司令部に連絡をとると

「情況は不明だが、郎坊付近の電線修理、並びに鉄道保護の目的をもって派遣された
一ヶ中隊が、宿舎の問題で夕刻以来中国側と交渉中で、いまだに話はまとまらぬらしい」

という簡単な返事だった。そこでその旨を直ちに陳覚生に伝達した。



この通告が終って、五分もたたないころだった。 豊台の連隊副官河野少佐からと、
旅団の情報将校浅野少佐から同じ情報が別々の電話で送られて来た。

内容は   「郎坊の中国軍は日本軍に対して包囲の態勢をとり、
午後十一時三十分、 ついに軽機関銃射撃を浴せてきました。

日本軍はいまのところ、一発も応射はしておりません。
目下のところ、事態は一応おさまっている模様です」



愛沢通訳生は舌打ちしながら電括で張自忠師長を直々に呼び出し、談じ込んだ。
通訳生はこの五月、二十九軍首脳部の日本見学旅行に同行し、

張自忠とは仲よしになっていたので、その気安さから鼻息も荒く
「張さん、なんでもいいから早く部下に命令を下す事が先決ですよ。

宋委員長のいわゆる、摩擦を避けよという訓示をこの際徹底的に強調するんですね。
あなたの部隊に限って、絶対こんな事は仕出かさないと、

いままでだれだって信じ切っていたんじゃないか。

停戦協定調印の責任者という立場からも、あなたは身をもって事件の拡大を
防ぐ義務がある。大至急電話で命令を下しなさい」



補佐官室の横のソファーでは、軍事顧問が額を集め、協議を重ねていたが、
この情報を聞くとこの分なら大した事もないだろうと、

中島顧問はボーイに蚊いぶしをたかせ、ソファーの上に横になってしまった。
あとはまだ睡りもやらぬ機関員連が、戦局雑談に花を咲かせている。

交通顧問部の河端誠二秘書はこの日電鈴当番だったので、軍用電話を前にして、
宣伝ポスターの裏にしきりに習字の稽古をしていた。

私は腕時計をみた。午前二時である。

その後の状況を知るため豊台の司令部に電話をかけさせた。
二、三問答していた河端は、受話器を握ったまま私の方をふり向いた。



「浅野少佐が出られまして、郎坊では午前零時半、中国軍がまたまた射撃を開始し、
日本軍も応戦していま猛烈な射ち合い中だそうです。

中国軍は迫撃砲まで持ち出しており、日本軍の損害は重傷二、軽傷四、合計六名です」

私は奪うように受話器を取り上げた。
「旅団として、もしくは軍として、この事件の対策は何も講じないんですか」

「それをいうのを忘れていました。天津から連隊長の指揮する歩兵二ヶ大隊が、
直ちに救援に出かけるそうです。連隊長は鯉登行一大佐です。

朝鮮から来た部隊ですね」
「連隊長の指揮する二ヶ大隊ですか。こりゃあ一いくさまぬかれませんね」

眠っていた機関員は、あちこちからムクムク起き出して来た。》



児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
35

《 五ノ井中隊は駅で夜を明かすことにしたが、
修理班だけでなく戦闘部隊の進出で刺戟 (しげき) されたらしく、

中国兵は、午後十一時三十分、突然、小銃、機銃を乱射してきた。

五ノ井中隊は応戦せずにいたが、七月二十六日午前零時すぎ、
中国側の迫撃砲も砲撃をはじめた。

たちまち、重傷二人、軽傷四人の損害をうけ、五ノ井中尉も反撃を下令し、
天津に急報した。》


つづく

7月24日〜25日 郎坊事件 1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/15 18:42 投稿番号: [637 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
34〜35p

《 郎坊   −   という北寧鉄道の小駅がある。

北京と天津のほぼ中間に位置していて、正確には北京から七十二キロ、
天津からは六十七キロの地点である。

駅の近くに、中国軍第三十八師第百十三旅第二百二十六団の兵営がある。

第三十八師長兼天津市長張自忠は、いわば親日派とみられていたので、
日本側にとっては、この郎坊部隊は危険な存在とは思われていなかった。



だが、その雰囲気も急変した。

北京で宋哲元が、涼しくなってから撤兵する、と、トボけた態度を示した
七月二十四日、佐藤美彦中尉が指揮する電話線修理班が郎坊に到着した。

この付近ではしきりに電柱がきり倒されたり、電線が切断されたりの通信妨害が
おこなわれていたが、この日も電線が切られたので、北京から補修にやってきたのである。

ところが、これまでとちがい、駅の周囲には陣地が構築され、中国兵が、
修理なら武装をといてやってくれ、と要求したり、ときに銃口をむけたりした。



佐藤中尉は   「不吉な予感」   におそわれ、 「最後の肚 (はら)」   をきめねば
ならぬか、と思ったが、ともかくも無事に修理を終えて帰隊した。

すると、翌日、七月二十五日   −
また、郎坊付近で通信線が切断された。

佐藤中尉の報告で現場の空気が険悪とみられるので、こんどは、
天津から修理班と護衛兵を派遣することになった。



支那駐屯軍は、既述したように、応急動員で派兵された関東軍、朝鮮軍の一部の
戦略配置の完了とともに   「作戦」   を開始する計画をたてている。

そして、その配置は、すでに終り、朝鮮軍第二十師団の主力は天津、唐山、
山海関に分駐していた。

支那駐屯軍司令部は、天津に進出した第七十七連隊 (鯉登行一大佐) の
第十一中隊 (五ノ井淀之助中尉) を護衛部隊として派遣した。

修理班と五ノ井中隊が郎坊に到着したのは、午後四時すぎである。

修理は手間どり、五ノ井中隊は宿舎の提供を中国側に要請したが、
第一一三旅長劉振三は拒否した。》



寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
301

《 夜十一時やや過ぎである。電話が鳴った。
「僕、陳覚生です。時にこんな事を聞いたんです。

今日午後四時半ごろ、郎坊の駅に日本の兵隊さんが一ヶ小隊ばかりやって来て、
宿舎を貸せとか貸さぬとかいって、中国軍と睨み合いを始めたんだそうです。

何かそんな情報、あなたの方に入っていませんか」
「知らんですよ。それは初耳です」

「困りましたなあ、もしわかりましたら僕は今晩、
ズッと張自忠師長の宅に居りますからお電話いただけませんか」》


つづく

7月24日 宋哲元の態度に変化

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/14 15:08 投稿番号: [636 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
32〜33p

《 七月二十四日、
蒋介石は、北京の宋哲元と参謀次長熊斌にたいし、

北京は必ず守れ、防備を急速に完成させよ、
日本軍は   「一週間以内に大規模行動に出る」   可能性がある、と電報した。

この日、かねて北上を指示されていた政府軍部隊は、
次のように続々と所定の地点に集結した。


▽第二十七師=保定、方順橋、干家荘

▽第三十一師=望都

▽第四十軍先頭部隊=滄県

▽第八十四師=折口の北方の原平鎮

▽第百三十師第三八八旅=琉璃河

▽第十師、第百四十二師=石家荘

▽砲兵第七団=保定


そのほか第四十軍の主力と第八十三師が、鉄道輸送中である。
北京では、前述したように、第三十七師各部隊の撤退が不履行になったほか、

新たに第百三十二師(趙登禹)の二個師団が、城内にははいらないとの
通告があったにもかかわらず、天塩と緑米倉に進駐した。



特務機関長松井太久郎大佐は、たまりかね、かつ憤然として宋哲元をたずねた。
天津から出張してきた支那駐屯軍参謀池田純久中佐、武官補佐官今井武夫少佐が同行した。

宋哲元は、しきりに戦争回避と平和を強調したが、松井大佐が、約束した撤兵を
「数日中」   に実行してもらいたい、というと、

まだ撤兵計画ができあがっていない、と、宋哲元はこたえた。
「では、撤兵の時期はいつになるか」

「概ね一カ月後」
宋哲元は、肥腹をウチワであおぎながら、泰然として返事した。

これまでの宋哲元とはちがう様子に意外感をおぼえながら、
今井少佐が、なぜ一カ月後なのか、と質問すると、

「いまは暑い、涼しくなったら   (撤兵を)   実行する」

宋哲元は、平然と述べ、唖然としている日本側の三人に、
パタパタとウチワの風をおくった。》


つづく

回帰不能地点に近づく

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/13 15:06 投稿番号: [635 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 中公新書
160〜162p

《 七月二十三日朝、上海で   「出兵再度の中止」   という東京からの報道を知った私は、
いささか愁眉を開いた。

そのころ、近衛さんの努力はまだ知らなかったが、少なくも橋本参謀長と
陸軍中央の不拡大派の努力には、衷心から尊いものを感じた。



かつて伊藤博文が、「難しいのは軟論を主張することだ」   と、口癖のようにいっていたと、
私は、滞米留学中に当時のニューヨーク総領事の斎藤博さんから聞いたことがあった。

そのときは、 「軟論がそんなに難しいものかなあ」   と怪しんだが、
上海で日中関係を真剣に考えるようになった私としては、

伊藤のことばの意味が骨身に沁みて解るようになった。

事ついに成らずとしても、橋本参謀長らが、盧溝橋事件突発以来二週間のあいだ、
よくも   「軟論」   を主張しつづけたものと、頭が下った。

橋本参謀長が、現地にありながら軟論をひっさげて東京をリードし、
関東軍などを抑えてきたその勇気と労苦を、

この回想録にいささか記録しておきたいと思って、
私は、上段、随処に触れたのであった。



盧溝橋事件当時の情勢は、大観すれば、歴史上の大きな力と力とが
ぶつかり合わんとするものであった。

それは、橋本個人の力などでは、所詮、処置し得ないものであった。
橋本参謀長が中国側から一片の誓約書をとりつけても、

抗日風潮の極度の昂揚の下にある、第二十九軍の将兵すべてを、
誓約のままに行動せしめることを期待するのは無理であった。

誠実な人だけに、約束違反の大小の事件が相手方に続出するとなれば、
その怒りも真剣たらざるを得なかった。

また、北平 (北京の事) の日本居留民も、戦々兢々としていたので、
橋本参謀長としても、北平に増兵する必要を感じないわけにいかなかった。

七月二十四日になると、豊台発の左のごとき気になるような同盟電が入った。



「確報によれば、馮治安の第三十七師の撤退は依然はかばかしからず、
五列車によって輸送された兵力は約一団(連隊相当−松本註)に過ぎない。

また盧溝橋対岸には明らかに約二箇営の馮治安軍があり、
左岸盧溝橋に入る形勢を示している。

さらに八宝山、衛門口後方の田村附近に相当の部隊が集結し、西苑に入るのを肯じない。

一方、わが天津〜豊台間の軍用電話線は頻々として切断されるのみならず、
保線のため出動した部隊に対し、包囲姿勢をとり威嚇するなど、

中国軍の不信行為はふたたび激化の兆があるので、わが軍は冷厳な決意を固めている。」
(『同盟旬報』第一巻四号、10ページ所収)



この電報は、現地の状態が、円満収拾どころか、一転急変して、俄然、
回帰不能地点に日一日と近づきつつあることを報じたもののごとくであった。》


*   伊藤博文が、 「難しいのは軟論を主張することだ」   と言っていたとあるが、
   チャンとした軍隊があり、かつ、強い時は   それは正論であろう。

   しかし、今のように、平和憲法で軍隊が否定されている時は、 「軟論」   しか許されない。
   今の日本では   「硬論を主張する」   方が難しいのだ。

   「憲法を改正して、軍隊を」   等と言えば、悪魔のように見なされる。

7月23日 中国 撤退と見せて増兵2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/12 18:20 投稿番号: [634 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
292p

《 停戦協定の細目に基いて今少し積極的に弾圧を加え、
日本側に対して誠意を示されたらどんなもんです」

「昨日と今日とにわたって二名、処分しました。
今後もご趣旨に従って厳重注意致しましょう」

「居留民の奈良教文というのが阜城門付近で行方不明になったまま、
スッカリ消息を絶ってしまいました。

また朝鮮人で綏靖公署や牢獄に監禁されているものが大分あるようです。
即時釈放するよう手配して下さい」

「貴意に副うよう努力いたします」



会談は終った。
しかし彼の回答は総じてノラリクラリで、如何せん誠意のつかまえどころがない。

こういった状態で協定の実施は一向捗 (はかど) らず、
いたずらに一日一日が経過して行くばかりだった。

軍の経済参謀から、作戦参謀に変ったばかりの池田紀久中佐が、
二十四日、事変以後初めて北京に姿を現した。

そして松井機関長、今井武官同道、進徳社に行って午後三時から宋哲元と会見した。

参謀は宋哲元の意向打診を目的としていたが、このころの宋哲元には、
すでに完全に秦馮ブロックというヴェールがかかっていた。

いや、むしろ冀察総帥の座からなかば引ずり下された形になっていた。
だから彼を相手の交渉で、果して何が掴めるかはすこぶる疑問とするところだった。



会談は一時間余りに及んだ。しかし内容は三十七師の撤退を除くの他、
おおむね原則論に終始し、現況打開の具体案といった緊急問題は、

とうとう最後まで語らずじまいになってしまった。

「とにかく戦争は絶対に避けましょう。両国が相争うことは東亜民族の悲劇であり、
また第三国に漁夫の利を占めさせるばかりです」

そういった外交辞令的結論を最後に、一行は午後四時半進徳社を退出した。》


つづく

7月23日 中国 撤退と見せて増兵1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/11 18:38 投稿番号: [633 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
290〜292p

《 二十三日は午前中に三ヶ列車二千名が西站 (駅) を出発した。
これで三十七師の二百十八団は完全に永定河以西に撤退したわけである。

しかしこの部隊は事変発生以後、新たに北京に増加されたものであって、それが
ことごとく撤退したからといっても、単に戦前の態勢に復したというに過ぎなかった。

従来から北京に駐屯している劉自珍の百十一旅は、依然としてまだ城内に留まっており、
撤退はおろか、その準備さえしている様子は見られなかった。

そればかりではない。
二十二日には趙登禹の百三十二師の二ヶ団が、

日本側に無断で城内に潜入して来たのだから、
実際面から見たら、城内兵力はこれまで以上に増強された形である。

一日中、自動車をとばして三十七師の撤退情況を視察して来た桜井顧問は、
午後四時ごろ汗を拭き拭き特務機関に戻って来た。そして報告した。



「私はまず、西苑の三十七師司令部に行きました。
まだ何も撤退の準備はしていません。

将校をつかまえていろいろ聞いてみましたが、
撤退の話なんか、まだ全然耳にした事もないらしいんです。

次に田村、磨石口に行って、何基レイの百十旅を見て来ました。これまた八宝山、
衙門口から引き退ったままの態勢で、スッカリそこに腰を据えていました。

旅長の何基レイなんか、田村で昼寝している始末です。百十二旅の張凌雲は
門頭溝に兵を集結しただけで、これまた全然移動はしていません。

盧溝橋を引き起した吉星文の二百十九団は、今なお永定河の西岸、
長辛店にがんばっている事を西苑の司令部で確かめて来ました。

総てがこういった状態でして、とにかく完全に日本側をなめてかかってますね。
もう一遍秦徳純に拍車をかけとかにゃいかんです」



この報告を聞いた機関長は、即座に決心して午後四時三十分、
進徳社に秦徳純を訪ねて行った。

「撤退問題は一体全体どうなったんです?」
「ただ今京漢線で盛んに輸送を実施中です」

「今日の午前中は確かにやっていた。それは知っています。しかし午後は
パッタリ止まって、今もう一般旅客の輸送なんか始めてるじゃありませんか」

「輸送計画は一切交通処の方に委せていますので、
その辺のところがどうなっているか確かめてみましょう」

「田村、磨石口に集結している百十旅はどうするんです。
至急西苑に移動させるか、それとも徒歩で長辛店にやってしまわなけりや、

宋委員長が我々と結んだ協定は、あなたがた自らがこれを破る事になるじゃないですか」
「誠に何とも……、早速宋委員長の命令を仰いで処置いたします」



「次に新聞や雑誌の内容ですが、排日記事が依然として跡を絶たない。
ことに林耕宇の主宰している亜州日報なんかどうです。

日本軍を指して事もあろうに非人軍というような言葉で表現してますよ。
日本の新聞紙は、今はまだ国と国との戦争じゃないからというので、

敵と云う言葉を使うのも差し控えて、中国軍というふうに書き現わし、
あくまで紳士的態度に出ているのです。》


つづく

7月23日 中国側の戦争準備

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/10 18:31 投稿番号: [632 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫   32p

《 宋哲元は、七月二十三日、あらためて十一日の〝北京の合意〟 内容を蒋介石に報告した。

蒋介石は、宋哲元の   「単独進行」   にたいする懸念が解消し、挙国一致の
「抗日戦体制」   が確立されたので、戦備の促進に拍車をかけた。

軍事委員会弁公庁主任除永富を、石家荘行営主任に任命し、滄県から石家荘に
いたる防禦ラインの工事をいそがせ、第十、第八十三師に北上を命令した。

北京の雰囲気も、変化した。

撤退するはずの第三十七師は、第一一〇旅、第一一二旅がいずれも移動準備をやめ、
撤退部隊を輸送する軍用列車の編成もとかれ、一般の旅客輸送にふりむけられた。》



『蒋介石秘録下』   サンケイ新聞社刊   207〜208p

《 日本軍はさきに〝現地協定〟によって撤兵の約束をしたにもかかわらず、
二十三日になっても慮溝橋、宛平県城東側、大井村一帯から撤退しなかった。

そればかりか場所によっては逆に増兵し、陣地の構築を強化した。

日本軍の作戦遂行は極度の秘密を保たれていたが、中国側が得た情報によれば、
すでに八個師団、約十六万人が北平、天津に向けて集結ないし輸送中であった。

山海開からは戦車、重火器、弾薬などを満載した列車が連日、河北へ入り西進を続けた。
『ここ数日来、軍事と外交を運用し、全心全力を費やした。

しかし、倭冠 (日本軍) のわれわれにたいする圧迫は、形勢険悪で、
この一両日はとくにめだつ。

日本は、宋哲元が約束した条件に私 (蒋介石) が反対することを恐れ、
撤兵しようとしないのだ』(七月二十四日の日記)


   ▼日本側によると、この時点での動員(第一次、七月十一日決定)は関東軍の
   一個旅団と在朝鮮の第二十師団、および航空隊十八個中隊で、

   中国側の推定する八個師団をはるかに下まわる。
   第二次動員 (七月二十七日) では内地から三個師団が派遣されている▲》


*   蒋介石のこの理屈はおかしい。
   宛平県城の軍が永定河の西側に撤退しても、

   別の軍を宛平県城の近くに出没させ、チョコチョコ襲撃させているから、
   盧溝橋近辺の日本兵が撤兵できないのであって、言うことが逆さまになっている。

   次に、関東軍の増兵部隊は山海関に止め置かれ、朝鮮軍の増援部隊は唐山に
   止め置かれている筈だが、それ以後の記述がないので判らない。

   しかしそれほど奥には入っていないと思われる。
   入ってたら、記述せざるを得ない事が起こるから。


  注の記事
   「第二次動員(七月二十七日)では内地から三個師団が派遣されている」
   の書き方もおかしい。

   ここの日づけは   23日だから、まだ派遣されていない。
   この後の、中国側の武力攻撃が原因で、派遣されるのであって、順番が逆。

   こういう書き方をすると、
   日本が先に増兵したので中国が攻撃したかのようにとられてしまう。

7月23日 秦徳純、趙登禹を面罵す

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/09 18:32 投稿番号: [631 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
297〜299p

《 趙登禹は直ちに鉄獅子胡同 (ティエシーズホートン)、進徳社に車をとばせた。

進徳社の大広間では、二十九軍軍長宋哲元、副軍長秦徳純、軍参謀長張越亭、
三十七師長馮治安等が出席し、最高首脳部会議の最中だった。

秦徳純が尋ねた。
「寺平補佐官、何かいってましたか」

「私の部下で今緑米倉に入っている六百八十一団を
即時城外に撤退させて欲しいと要求しております」

宋哲元は黙々として聞いている。
馮治安は顔をあげて、趙登禹の次の言葉を待ちうけている様子だった。

突然、秦徳純が眼をいからせて起ち上り、難詰し始めた。



「貴官は百三十二師統帥の責を持つ師長である。
一途に宋軍長の命を奉じ、部下の指揮統帥に当っておればそれでよろしい。

いったい何の用があって日本特務機関の補佐官なんかと会見するんだ。
我々の肚はすでに決まっている。

しかるに貴官は彼等の口舌に丸められ、北京警備の任についたばかりの二ヶ団に対し、
即時城外撤退という重大問題を軽々しく受諾するとは。

いったい二十九軍の威令はどうなったって構わないと思っておられるのか」
扇子で卓をたたきながら詰め寄った。 続いて馮治安が起った。



「趙師長がどの辺まで受諾したか、私にはわからない。
しかし守土抗敵は我が二十九軍の信条である。

喜峰口の一戦以来、我が軍の赫々たる武勲はすでに天下に喧伝されている。
趙師長、軍長以下の気持も解せず、このような屈辱極まる撤兵を

もし受諾したとするならば、今次盧溝橋の一戦に、頑として敵の襲撃に抗して起ち上った、
我が二十九軍の愛国的熱誠は、ことごとく地に堕ちてしまうではないか」

「そうだ」
秦徳純が合槌を打った。


「まだ確約はしていません。ただ、肚はすでに決まっているというただいまのお言葉、
ここで初めて伺ったばかりです。

私は、一意、軍長の意図を奉戴 (ほうたい) し、情勢の安定化、即ち正面衝突の回避、
事件の不拡大、という方針のみに徹して一切の行動を律してきました。

こうした根本方針の変更を、なぜもっと早く私の部隊に知らせて下さらなかったんです」



秦徳純、馮治安の述べるところもさる事ながら、趙登禹の言い分にも道理があった。
決戦か、不拡大か、この二つの方針をめぐって宋哲元は先日来、ひとり深く悩み続けていた。

今日の気拙 (きまず) いこの激論も、畢竟するに自分自身の優柔不決断が、
趙師長をこれほどまでに苦しめているのだ。

先日南京から蒋主席の特使、熊斌 (ゆうひん) 将軍がやって来た。
そして秦徳純の妻子を、人質的に南京に拉し去って行った。

秦徳純、馮治安、この二人は完全に南京側に組し自分の意図を汲む真の協助者ではない。

事茲 (ここ) に及んでは、自分が今、日本側の意志に従ってみたところで、
この冀察政権はあといつまで続けて行く事が出来るだろう。

冀察政権が樹立されてから、一年余にしかならないのに、
早くももう先が見え始めている。



沈黙を破って馮治安が叫んだ。
「趙師長、盧溝橋の問題にしろ今日の問題にしろ、

撤退すべきは我々ではなくってむしろ日本側である。彼等の要求は即刻、
断乎排撃されよ!」   趙登禹は心持ちうなずいただけで静かに起ち上った。

宋哲元以外の一同は、冷たい眼でジーッとそれを見送っていた。
気のせいかその時の趙師長の後姿には薄暗い影が漂っていた。》


つづく

7月23日 趙登禹部隊勝手に入城 抗議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/08 18:33 投稿番号: [630 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
296〜297p

《「 さきほど謝委員からあなたに連絡していただきましたが、
一昨日松井機関長から、あれほど入城を待ってくれとお話したにもかかわらず、

すでに入城、しかも二ヶ団も入れたのは、どういう理由ですか?」

「実は私もそれで因っているのです。
入城を差し控えよといわれたので早速手配したのですが、その時、

部隊はすでに高米店 (カオミーティェン) から城内に向って行動を起していたので、
部下に伝達する方法がなく、遂に入城してしまったような次第でして   −。

現在入ってしまった部隊は何ですが後続部隊は絶対に入城させません。
どうぞご了承を願います」



「謝委員から日本側に正式に通告があったのは一ヶ団だけです。
だから後の一ヶ団は日本側には無断入城という事になります」

私の方としては緑米倉 (ルーミーツァン) にいる一ヶ団だけを、
今晩中に撤退させる事を、ここで承諾していただきたいのです」

「承知しました。もともと二ヶ団同時に入城させたのは宋軍長の命令ですから、
その方の了解をとげた上で、早速ご返事を申し上げましょう。

なお、撤退に関する打ち合せや準備などもありますから、
今晩すぐという事はちょっとむつかしいかも知れません。

明日の正午までご猶予をいただけませんでしょうか?」
「では明日の正午を限って、撤退していただきます」



私は謝呂西に向って話しかけた。
「京漢鉄路はいったい何してるんです。保定方面に三十七帥を送るというので、

電線の修理や列車の運行など、いろいろ便宜を計ったのに、
昨日と今日の午前、四ヶ列車、総計二千六百名を送っただけで、

今日の正午以後またまた輸送がストップされています。

今日の午後から京漢線のダイヤはすでに旧に復して、
旅客列車を四つも南方に送ってるじゃありませんか。

現在の情況は準戦時態勢にあるんでしょう。
それなのに旅客列車を先に出して軍用列車を後回しにするなんて、本末転倒ですね。

今日交通処長に連絡したところ、軍事輸送は当分中止、
先の計画はまだ何も出来ていないとの事です。

こうなると三十七師の撤退なんかいったいいつになる事やらわかりゃしません。



こういうやり方は誠意がないというよりも、むしろ挑戦的に受け取れますが、
あなたはどう思います?」

「…………」
「天津軍司令部に電話したところ、幕僚達カンカンになって怒っちゃいましたよ。

数々の不信行為に対しては、これ以上の容赦は出来ぬ。
明日にでも徳川飛行集団の有数十機を北京上空に飛来させ、

厳重二十九軍の行動を監視する、とまでいっているんです。
不拡大には殆んど失望してしまった形です。

私は不拡大方針を放棄してしまいたくありません。
貴国側の反省と自発的善処を促す次第です」

招待所での会見は終った。玄関先の大輪の日回り草の下に立って、
手を振りながら私の車を見送ってくれた趙登禹将軍の姿、

これが彼との永遠の別れになろうとは、夢にも思いかけないところだった。 》


つづく

7月22〜23日 趙登禹部隊勝手に入城

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/07 14:47 投稿番号: [629 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
294〜296p

《 二十二日午前十時半、私が北京にあった軍旗を前線の牟田口連隊に護送する
任務を終って広安門から帰って来るとすぐ、機関長から呼ばれた。

「補佐官、趙登禹部隊入城の件について、命令の徹底化という点で、
もう一度二十九軍側に念を押しておく必要がある。

今日桜井顧問と一緒に斉燮元のところに行って、警告を発しておいてくれ給え」
そこで桜井顧問と共に、進徳社で斉燮元と会見、これを申し入れ、了承を得た。

そのさい、機関としては、百三十二師が交替入城する場合、
その兵力は差し当り一ヶ団以下である事を希望した。



ところが翌二十三日の朝方、斉燮元の代理の者が機関側を訪れ、
趙登禹の歩兵二ヶ団が昨夜北京に入城した事を通知して来た。

機関側はあぜんとして、二の句がつげなかった。一昨日は趙登禹自身に、
また昨日は斉燮元に、あれほど堅く約束したばかりではないか。

その舌の根も乾かぬ中にもう裏切り行動をとっている。
しかもこの裏切り行為たるや、代理の者が帰った後、一層皮肉な現実を表わして来た。


それは、機関の密偵二名の情況報告によると
「昨夕六時前後、趙登禹部隊の二ヶ団が永定門から入城しました。

うち一ヶ団は天壇に、他の一ヶ団は緑米倉 (ルーミーツァン) に集結し、
昨夜はそこで宿営しました」   というのだ。

密偵たちは   「これは決して人から聞いた情報じゃありません。
私達この眼でハッキリ見て来たんです。

私達は部隊と一緒に行動し、天壇に入った部隊は独立歩兵第二十七旅の六百七十九団、
緑米倉に入った部隊は同じく六百八十一団という事まで確かめてきております」


北京城内の三十七師はまだ一ヶ団しか撤退していないというのに、
新たにまた二ヶ団も入って来たら、結局城内兵力は増強ではないか。

秦馮ブロックには明らかに戦意がある。
彼等は増兵の策謀を隠蔽せんがため、日本側との折衝責任者として、

特にロボット的存在の斉燮元を選んだのではなかろうか。
機関としては、一刻も速やかにこの撤兵交渉を強行する必要に迫られてきた。



この日午後四時、私は東城煤渣胡同 (メイチャーホートン) の北寧鉄路局招待所に、
斉の代理者の謝呂西委員を訪ね、事実をただした。

驚いた謝はすぐさま趙師長に電話した。趙師長は二ヶ団入城させた事を率直に認めた。
謝は憤慨したがそれを押えて、趙師長にすぐ北寧鉄路局招待所までやって来るよう促した。

斉燮元に連絡すると二ヶ団も入ったという話は寝耳に水だと云う。

二十分ほどたったころ、趙登禹が悠然として入って来た。
別に駭 (おどろ) いてもおそれてもいる様子がない。》


つづく

7月22日 熊斌 宋哲元を説得し翻意させる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/06 14:41 投稿番号: [628 / 2250]
『蒋介石秘録下』   サンケイ新聞社刊    207p


《〝現地解決〟に引きずられる宋哲元にたいし、中央の意志を伝えるため、

参謀次長・熊斌 (ゆうひん) がひそかに北平に派遣された。

熊斌は七月二十二日、天津にいた宋哲元を北平に呼び、主権と領土を守るためには、

日本軍の甘言にまどわされず、抗戦を決意しなければならないと説いた。

宋哲元も、この説得によってようやく中央の堅い決意を理解し、抗戦の心をきめた。》



児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
31p

《宋哲元が指揮下の部隊の撤退、北京市内の防禦工事の撤去をはじめたことを知り、

この日、極秘に参謀次長熊斌を北京に派遣した。

次長熊斌は、政府が対日戦争を決定している事情を告げた。

宋哲元は、はじめて中央の幹部から説明をうけて政府の 「真意」 を理解し、

蒋介石の指示にしたがって行動する、と明言した。》


*   『蒋介石秘録』に

   「熊斌は七月二十二日、天津にいた宋哲元を北平に呼び、」   とあるが、

   宋哲元は19日に、天津から北京に移動している。

   蒋介石の秘録   もかなり   杜撰のようだ。


つづく

7月22日 三十七師の一部撤退

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/05 18:39 投稿番号: [627 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
289〜290p

《 三十七師を撤退させるため必要な条件の一つとして、
京漢鉄路の開通という問題があった。

何といってもこの鉄道は、盧溝橋の戦線の真ッ唯中を突ッ走っているので、
事件以来バッタリその運行が止まってしまい、また電線もあちこちで

切断されていたので、まずこれを修理する事が先決問題だった。
「日本側のご協力がいただけたら、早急に京漢鉄路の復旧を計り、

これによって三十七師をドンドン保定方面に輸送致しましょう」
そういう秦徳純かちの申し出でに対し、機関長は直ちにこれに同意を与えた。



七月二十二日朝六時半、北京を出た修理列車は盧溝橋の駅に着くまでに
丸々三時間もかかるノロノロ運転だったが、

駅のホームには牟田口連隊の小岩井中尉が待っていた。
これと連絡して付近一帯の電線修理にとりかかり、

午後四時半ごろまでに一通りの補修作業を完成した。
北京及び長辛店の駅に連絡したところ、通話状態はまず満点である。

この修理に同行した笠井顧問が一休みしているところへ、
北京西站から電話がかかって来た。先方はまがいもなく周参謀の声だ。

「鉄道も電線も全部修理が出来ましたね。ご苦労様でした。
そこで笠井顧問、今から兵の輸送を始めますが差し支えないでしょうね。

部隊は歩兵二百十八団の一ヶ営と、迫撃砲連を第一回に下らせます。
私もそれに乗って一緒に行きます」



修理列車に同行の関係者が待っているうち、静かな平原のかなたから、
汽笛の音が長く尾を引いて聞えてくる。

来た、来た、撤退兵を満載した三十輌の無蓋車が、
高い路盤の上を蜿蜒 (えんえん) として走って来る。

驀進 (ばくしん) して来る機関車の把手 (とって) につかまって、
白旗を振っているのは、まがいもなく周思靖参謀である。

笠井顧問も広瀬秘書も、そして周永業も、みんな帽子を振ってこれに合図した。
ギッシリ詰め込まれた中国兵は、不安そうな顔付きをしてしきりにこちらを見守っている。



無蓋車の上には土嚢が積み重ねられ、機関銃を据え、
また小銃を擬していつでも応戦出来る態勢が整えられていた。

中には青竜刀まで抜いている兵もあった。
「まるで武装した葬式みたいですなあ」 と広瀬秘書がつぶやいた。

「しかし日本軍の精鋭が頑張っている真ッ唯中を突っ走るのだ。
三十七師ならずとも、余りいい気持のするもんじゃあるまいぜ…」

列車は盧溝橋の駅には停まることなく、そのまま緑なす平原を、
永定河の鉄橋さして走り去って行った。

去り行く彼等の心情に想到すると、胸中一抹、
憐憫 (れんびん) の情が湧いてこないでもない。

周参謀の振る白旗は次第次第に小さくなって、
とうとうそれも見えなくなってしまった。



そのころ北京の西站では、続いて第二第三の輸送を続行すべく、
兵はすでに集結を終っていた。

しかしこれは車輌の準備が整わないという理由から、
とうとう翌二十三日の早朝に延期されてしまった。

笠井顧問の一行は、間もなく北京に引あげて来た。列車が西站に着くと、
そこには三十七師の撤退兵がワンサと詰めかけていて、時ならぬ雑踏を呈していた。

手鍋をさげた兵、唐傘を背負った兵、毛布を抱えた兵等、
ちょっと日本の軍隊では想像もつかない異風景である。》


つづく

Re: 謙虚な姿勢が大切!

投稿者: tigerubud 投稿日時: 2010/11/05 11:02 投稿番号: [626 / 2250]
中国共産党にそんなことが通用するか。
全く論外。
大虐殺の事実もない。朝日の捏造記事が一人歩き。
させたのも中国共産党。
これに乗る日本人はただのあほ。

7月22日 共産分子の策動4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/04 18:33 投稿番号: [625 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
286〜287p

《 密偵は憲兵の指図に従って高梁畑の中に身をひそめた。
今日は満月らしく、やがて東の空がボーッと赤味を帯び始めてきた。

と、住民がいった通り、八時ごろになると、十名余りの便衣が一列の縦隊で
部落の陰から姿を現わし、黙々、落花生畑の方に進んで行く。

やがて彼等は畑の真中で一塊りになって、何やら支度にとりかかった。
そして用意が整うと、指揮者らしい男の合図に従って、間もなく爆竹が点火された。

パンパンパンパン……けたたましい響と共に発する閃光!   鼻をつく煙硝のにおい!
おびただしい白煙が濛々 (もうもう) として地を這った。



この時、密偵は高梁畑の中から一斉に姿を現わし、たちまちその数名を逮捕した。
彼等は密偵を二十九軍側の便衣とでも感違いしたらしく、リーダー格の一人が

極めて率直に 「我々は学生です。救国のためにこうして日本軍の側面を
脅威してるところです。許して下さい」 と弁解した。

彼等は北京の西北、万寿山街道にある清華大学の学生を中心とし、
共産系の指導の下に、日華両軍交戦地帯の真っ唯中に潜入し、

土炮や爆竹で両軍を刺激する事によって、
事変の拡大を企てていた事がハッキリした。

彼等の背後関係には、共産党の全国総工会書記、
中共北方局主任、劉少奇などが采配を振っている事も判明した。



「七月十三日、大紅門事件の起った日の真夜中すぎ、永定門外で
ドンドンパリパリやったのも、やっぱりお前達の仕業だろう?」

との問いに対し、彼等自身ではなかったが、同類がやった事も白状した。
赤藤分隊長は電話で私に   「日本軍も二十九軍も、

どうやらこうした共産系に踊らされている感が多分にありますね。

これを放ったらかしておいたら、いくら不拡大だの停戦交渉だのいったって、
片っ端からみんな突き崩されてしまいます。

この際何とか一つ、抜本的対策の手を考え出さんといけませんな」   と語った。
事実、事変対策としては、責任者の謝罪や処罰、そういった形式的の問題よりも、

今や潜行的に抗日工作を展開している、赤色策動の摘発弾圧、これこそより以上
優先しなければならぬ、極めて重要な措置ではないかと痛感させられるのだった。



中間策動の実証を握った特務機関は、二十三日朝、
直ちに中島顧問を秦徳純のところに遣って警告を発した。

「承知しました。私の方でもこの点は、前々から気をつけてはおりましたが、
事変の主役は、北京天津間に駐在する藍衣社第四総隊じゃないかとも思うのです。

総隊は軍事部長が李杏村、社会部長が斉如山、それから教育部長馬衡、
新聞部長成舎吾、そういった面々でして、

これにさらに西安事変当時西安におった第六総隊の一部を参加させ、
日本軍が最も頻繁に演習する盧溝橋を中心に、

巧みに日本軍と二十九軍とを衝突させようと画策していたらしいですね。

七七事件はつまり、三十七師が全く彼等の術中に陥った結果、
惹き起されたとみるのが至当でしょう」》


つづく

7月22日 共産分子の策動3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/03 18:37 投稿番号: [624 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
285〜286p

《 私は電話を聞きながら、まるで狐につままれてるみたいで、
どうにもこうにも解釈のつけようがない。

とりあえず十万分の一の地図を広げて、八宝山と盧溝橋駅とを探し出して見た。

八宝山の南南東三キロ、そして盧溝橋駅の北北東三キロ、定規で図上に線を引っ張って、
交会法によって砲声の起った場所を探してみた。

そのあたりには曹家墳だとか古子墳だとか小さな部落が点在して、
ちょっと方向が狂うとどれが本当なのか見当がつけられない。

ウーム、大体このあたりだとすると、これは日本軍でもなければ中国軍でもない。
何か中間でいやがらせ的に策動している者があるんじゃなかろうか?

私はすぐさま電話をとり上げ、八宝山にいる中島顧問に連絡した。



「今の不法射撃の件ですがねえ。
日本軍の第一線はあんなところまで伸びてはいませんよ。

また周参謀からの電話によれば、これはハッキリ中国軍の仕業だといって
謝まってきているのです。

いろんな情況から判断すると、これはどうも中間策動者か何かが
あるんじゃないでしょうか?

今から早速、その方の調査に取りかかりますが、八宝山の中国側部隊は、そんなものには
拘泥する事なく、命令通りドシドシ撤退させるよう、顧問の方から指導して下さい」

何基レイは、中間に得体の知れない策動者があるという事を聞くと、
それで一切が釈然としたらしく、早速部下に集結命令を下した。

今晩はもう大分遅いので、一応黄村付近まで下って宿営し、
爾後の行動は明日また、改めて命令するよう副官に指示した。

この日の撤退兵力は第一線の五ヶ中隊と予備の三ヶ中隊、合計八ヶ中隊であった。



私は中島顧問に連絡を終るとすぐ、憲兵分隊長赤藤 (しゃくどう) 少佐に電話した。

それから二十分ばかりの後、私と赤藤少佐とは、先程の地図を中にはさんで、
亡霊射撃の正体について話し合っていた。

「図上判断でいくとこの曹家墳付近一帯の部落ですね、この辺がどうも臭いと思うんです。

早速密偵でも張り込ませて、銃声砲声の真相を探らせたいんですが、
特務機関の密偵にはそうした戦術能力のあるやつがありません。

憲兵隊の方から一つ、有能な下士官兵数名を、便衣で現地に遣っていただけませんか」



二十二日の午後、便衣をまとった十名ばかりの密偵が、北京城広安門を出た。
彼等は赤藤分隊長から示された経路を、問題の中間地区に向って進んで行った。

これら密偵の報告を綜合すると、彼等は薄暮ごろ現地に着いて、
早速付近の住民から情報を集めた。すると、銃声砲声の正体というのは。

「日が暮れると、このころ毎晩のように、便衣をつけた青年十名ばかりが
この部落に入り込んで参ります。そして村はずれの落花生畑で、

土炮 (どほう) と爆竹を盛んにパンパンやり始めるのです。
なんの目的であんな騒ぎをやるのか、私共には皆目見当がつきません。

今日もやがて、もうボツボツ集って来るころでしょうよ」》


つづく

7月22日 共産分子の策動2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/02 18:27 投稿番号: [623 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
283〜285p

《 顧問が私との電話の内容を何旅長に説明していると、ちょうどその時、
またもやその不法射撃というのが始まった。

今度は七発の砲声、そしてその後引き続いて断続する機関銃の銃声。
「ホラホラ、顧問!   また始まりました。あれですよ。

昨日も今日もあの方向、あの距離です。どうです。
だれが何といったって、あれが私の部下だといえますか?

日本軍なる事間違いないでしょう。だから日本軍の横暴には困るといってるんです」
何基レイはそれ見よがしの態度で、得意満面である。



顧問はウンともスンとも答えず、直ちに電話に噛 (かじ) りついた。
そして私を呼び出して、一部始終を語気も荒々しく報告した。そしていった。

「私は今日くらい、赤恥かかされた事はありません。面子丸潰れです。
日本軍は相手を中国軍とあなどって、毎日毎日自分で射撃しときながら、

責任を中国側になすりつけていた事明瞭です。
さっきの君からの電話なんか、日本側のこじつけですよ。

卑怯ったらありゃしません。私はもう、これ以上二十九軍の顧問なんかつとまりません。
ご免こうむります。すぐ盧溝橋に電話して、牟田口さんか河辺さんに

喧 (やか) ましくいって下さい。
こんな事じゃ三十七師は、何時までたっても退りやしませんぞッ!」



私は何といって中島顧問を慰めていいかわからなかった。
何はさておき、日本軍に厳重警告する事が先決問題だ。

私は早速、電話で盧溝橋駅を呼び出した。電話は驚くほど早く通じた。
いや、ちょうど先方からこちらにかけてきたのとブツかったらしい。

「補佐官殿ですか。ちょうどよかった。私、周参謀です」
私は − しまった − と思った。

周参謀、きっとカンカンになって日本軍の不信不義をなじってくるに
違いない、と判断したからである。

私は受話器を耳にあてがいながら、一切を観念して目をつぶった。



「周ですがね。タッタ今、五分ばかり前、盧溝橋駅の東北方で七発の砲声、
それに続いて断続する機関銃の銃声が起りました……」

私は、俎上にのせられた魚みたいなものだった。

「今日はこれで二度目だそうでして、距離と方向から判断して、
明瞭に中国軍がやった事に間違いありません」


私は自分の耳を疑った。今のは周参謀の言い間違いじゃないかとさえ考えた。覚えず
「やったのは中国軍なんですね。日本軍じゃないんですね」と念を押した。

「そうです。残念ですけれど私の方でした。日本軍の将校に聞いてみたら、
昨日と一昨日聞えて来たのも、やッぱり今のと同じ方向だったそうです。

どうも本当に申し訳ありません。私これから北京に帰って軍にも報告し、
以後、絶対こういう事をさせないよう、厳重取り締らせます。

今日のところはどうぞお許し下さい」


私は電話を聞きながら、まるで狐につままれてるみたいで、
どうにもこうにも解釈のつけようがない。》


つづく

7月22日 共産分子の策動1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/01 18:40 投稿番号: [622 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
282〜283p

《 中島顧問がふたたび八宝山に出かけようとしているとき、周参謀がやってきた。
「あ、補佐官殿、ちょっとご相談があるんですが。

実は宋委員長が帰って来られてから、第一線には特別やかましく命令して、
絶対射撃をさせないよう取り締っているんです。

この点日本側だってもちろんご同様なんでしょう。ところが昨日も一昨日も、
日が暮れるとどっちからかわからないが銃声砲声が聞えて来て、

日本側からは二十九軍がけしからんといってお小言をいただくし、中国側第一線では、
あれは明瞭に日本軍の射撃だと頑強に言い張るんです。それで……」



「イヤ、こいつは私も何とか早く、責任の帰趨をハッキリさせたいと思ってた
ところなんです。幸い今日は、中島顧問がこれから八宝山に出かけるところです。

この際一つ中国側に対するお目付役として、
その原因不明の射撃が中国軍のものであるかどうかを監視してもらいましょう。

同時に日本軍に対しては、周さん、あなた一つお目付役として、
これから盧溝橋の日本軍連隊本部に行ってくれませんか。

そうすれば正真正銘のところ、どっちが不法射撃をやったか、
確実なところが突止められると思うんです」

「ようございます。それじゃあ中島顧問!八宝山の方はどうぞよろしくお頼みしますよ」

「引き受けました。しかし監視もまあ精々前半夜くらいですなあ。
もし音がしなかったら、適当な時期に切り上げて帰って来ますよ」



中島顧問と周永業とが、宋哲元の命令書を携えて八宝山に着いたのは、
午後の八時を大分過ぎていた。

山際のアカシヤの林の中を、中国兵があわただしく行ったり来たりして、
昼間の空気とは、大分変ったザワめきが感ぜられた。

あちこち尋ね回ってようやく何基レイを見つけ出し、
携えて来た命令書を突き付けてその撤退を促したところ、彼は

「ちょうど七時二十分ごろでしたかね。
宋委員長からこの撤退命令が伝えられてきました。

命令さえあれば我々は即時実行です。
早速兵を取りまとめにかかったところ、十五分ばかりたった時、

この八宝山の南南東三キロばかり、日本軍の第一線方向から、
六発の砲撃をうけました。そこで私は独断、兵の集結を中止させました。



いったい日本軍は、どういうわけでああした挑戦行動をとるんですか?
その理由についてまずご説明を承りましょう」   と鼻息当るべからざるものがある。

そこで中島顧問 「弾はどの辺に落ちました?」
「幸いにして弾はこの陣地までは飛んで来ませんでした」

「よござんす。早速その理由、日本軍に問い合せてあげましょう」
顧問は電話で、日本軍発砲の理由を特務機関に照会して来た。



これより先、私は豊台の浅野少佐から、次のような電話をうけていた。
「午後七時三十五分、盧溝橋駅の北北東三キロあまり、

ちょうど八宝山と覚しき方向から六発の砲声が聞えました。
昨夜とまったく同じ方角なんです。弾はとんでは来ませんでした。

この事について、中国側に喧 (やか) ましく警告を発して下さい。日本軍は
今日は一日、全線にわたって極めて静粛で、小銃一発射っていないのです」



そこで私は中島顧向からの電話に対し、すぐその場で以上を説明し
「どうもおかしいですねえ。今日で丸三日、得体の知れない銃声、砲声に対して、

目撃両軍責任のなすり合いですよ。どうせ、どちらかがやった事には間違いない
でしょうが、お目付役の現地到着が今日は少少遅かったですねえ」》


つづく

7月21日 趙登禹将軍の北京入城

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/31 15:56 投稿番号: [621 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
293〜294p

《 七月二十一日、午前十一時過ぎである。
黒塗りのドッジブラザーが砂利の音も軽く、特務機関の玄関口に入って来た。

取次ぎに出た給仕に渡された名刺には、
第二十九軍百三十二師中将師長   趙登禹と記されてある。

車から降り立った趙登禹将軍は痩身長躯、四十がらみの年配で、
眼は一種異様の光を帯びており、慓悍 (ひょうかん) といった感じだった。

灰色の大衣をまとい、大型の扇子を持っていた。随員二人を連れていた。
機関の大応接室では、松井機関長、和知参謀、それに私と武田嘱託とが席に連なった。



「私は百三十二師の師長、趙登禹であります。このたび宋軍長の命をうけ、
部隊を北上させる事になり、近日中に北京に入城する運びとなりましたので、

本日はご挨拶のためお伺い致しました。
今後いろいろご厄介になる事と思いますが、何分よろしくお願い申し上げます」

彼の言葉は身体に似合わず低い声だった。
松井機関長がこれに応えた。



「それはわざわざご丁寧なご挨拶で痛み入ります。
お話によれば、貴下の部隊はただいま北上中との事ですが、

もともと二十九軍も日本軍とは、いわば兄弟みたいな間柄ですから、
北上される事については何等異存はありません。

ところが現在北京城内に在る馮治安の三十七師、
これは保定方面に移動させるという事に宋委員長との間に話がまとまり、

現在撤退中との知らせを受けました。
しかしご覧の通りまだすっかりは完了しておりません。

これに代るべき貴部隊の北上については、
先に委員長からも一応のご連絡はいただきましたが、

北京入城という事についてはまだ具体的のお話を取り交すまでに至っておりません。
そこでこれが決定をみるまで、いましばらく、お差し控えいただきたいと思います」



  −   会談は三十分ばかりで終った。
「承知致しました。

私は逐一宋軍長の命に従って行動する考えでおりますので、この点は一応委員長とも
相談の上、双方の交渉がまとまるまで、入城は見合せる事に致します。

なお今後、軍事に関する一切の交渉は、どうか斉燮元老先輩を通じて
ご連絡下さいますようお願い申し上げます」

ここで、私は機関長の言葉に一言補足した。
趙登禹部隊の原駐地は、河北省中部の任邸だった。

しかし事件の勃発と同時に、軍命令に基いて北上を開始、七月十五日には固安、
十八日には北寧鉄路上の黄村に達し、引き続き北京南郊の警備を担当する事となった。



特務機関としては、北京城内の治安維持だけなら、保安隊と警察隊で十分である、
と考えていたが、天津軍司令部としてはすでに宋哲元に対し

「趙登禹部隊の北京入城はこれを承認する。ただし入城に関する細部の事項は、
北京特務機関と緊密に連絡をとった上で実行するように」 との一札を与えていた。

そこで機関は、入城を許すとしても、目下の情況だったら精々一ヶ団くらいと肚を決め、
その時期については三十七師の撤退情況、その他の情勢と睨み合せた上、

改めて連絡すると云う腹案を持っていた。》


つづく

7月21日 松井機関長、秦徳純を面責

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/30 15:35 投稿番号: [620 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
279〜281p

《 午後五時、両顧問は今日の情況を交々機関長に報告した。
・・・・・
機関長はそれを聞き終ると

「・・・・オイ補佐官! 電話で斉燮元と今井武官に、
大至急おいでを願いたいと連絡してくれ」

間もなく今井武官が駆けつけて来た。次で斉燮元もやって来た。
機関長は今日の経緯を逐一説明した後

「ともかく、私は今から進徳社に、冀察首脳部の背信行為を詰問しに出かけます。
斉さん!   それから中島顧問も問題の証人だ。私と一緒に付いて来て下さい」

機関長の顔は決意に引き緊っていた。 今井武官は 「それじゃ私も一緒に
お伴しましょう。私は他にも一、二連絡の要件を持ってますから」



午後五時四十五分、一同は自動車三台を連ねて進徳社に向って急行した。
進徳社の大広間では今の四人、それに秦徳純、張越亭を交えて、

撤退問題に関する息詰まるような交渉が展開された。
松井機関長は鋭い眼でギロリ、中国側を見渡した後、重々しい口調で語り始めた。

「我々は今日まで、日華親善と東亜の和平を念願し、このため少なからざる努力を
傾倒してきました。それにも拘らず冀察側最近の態度はいったい何です。

我々の意のあるところを少しも解せず、誠意の見るべきものが全然ないじゃありませんか。
その行動たるや協調性を欠き、むしろ日本側をペテンにかけて、

故意に事を荒ら立てようとする態度さえ見うけられる」
秦徳純、張越亭はいかにも困ったという表情を面に浮べてこれにうなずいた。



部屋の中はシーンとして、ただ、機関長の声だけが大きく響いてくる。

「昨日宋委員長がこの私と、直接協定した三十七師の撤退命令、それが衙門口には
達したけれど八宝山には届いていない。これはいったいどういうカラクリです。

八宝山あたりの空気は撤退どころか、かえって敵対意識極めて旺盛ですぞ。
今、私の述べた言葉が、日本側の作為的報告だと思われるなら、

我が軍事顧問と一緒に現地に行ったあなたの方の責任者、
周副処長、周参謀をここに呼んで来て聞いてみられるがいい」



「…………」
「宋委員長は確かに命令を下した。当の何旅長は全然これを受け取っていない。

いったいだれがこの命令を中間で握りつぶしてしまったんです。
こういう行動こそ両国の親善を根本的にブチ毀す、非常に大きな癌なのです。

日本側はいかにお人よしだとはいえ、これ以上の隠忍はもう出来ません。今から
我々は、我々の信念に基いて、独自の行動をとる事にします。左様ご承知おき下さい」

機関長は興奮した面持でここまで話すと、後はもう用はないといわんばかりに、
決然、席を蹴って立ち上った。



冀察側はその言葉、その態度にスッカリ狼狽して、・・・・  
彼はあわてて機関長を押しとどめた。

「まあちょっと待って下さい。そういわれずにちょっと待って下さい。
部隊は必ず撤退させますから!」

それでもなお立ち去ろうとする機関長を、秦徳純はむりやり席に戻らせて、張越亭を
別室に招き、二、三何事か相談したらしかったが、やがてまたもとの席に戻って来た。

「誠に申し訳ありません。八宝山付近の三十七師は、今夜八時までに必ず撤退させます。
また西苑や城内に在る三十七師は、明二十二日、京漢線の開通を待って、

直ちに保定に向って撤退させます。なにとぞご承諾を願います」
と嘆願するように申し出た。》


つづく

7月21日 八宝山部隊撤退せず

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/29 18:43 投稿番号: [619 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
277〜279p

《 七月二十一日、三十七師が撤退を開始すべき日がやって来た。
中島、笠井両顧問は、約束通り早朝八時、航空署街の秦徳純邸に向った。

そこにはすでに、二十九軍参謀長の張越亭、保安隊第一旅長の程希賢、
交通副処長周永業、それに軍参謀の周思靖などが来合せていた。

一同は秦徳純を囲んで、撤退に関する細部を打合せたうえ、中島顧問と笠井顧問、
周参謀と周副処長、それに程希賢旅長を加えた一行は、ドヤドヤ自動車に乗り込んだ。

軍事顧問部の斉藤、広瀬両秘書や、朝日新聞の常安特派員等がこれと同行する事になった。



秦徳純は門のところで笠井顧問を呼び止めて

「今日の撤退は宋委員長の自発的意志に基き、松井機関長、今井武官、
和知参謀とも協議の上、いよいよ実行に移す事になったわけです。

どうかこれがスムーズに完了するよう、ひとえに顧問のお骨折りをお願いします」
とくれぐれも頼んだ。



午前八時半、秦徳純邸を出発した一行は、阜城門を出て八里庄、
半壁店を過ぎ、午前九時、田村に到着した。

今日の撤退部隊、第百十旅長何基レイ少将がここに一行を出迎えた。
そして旅長も一緒にさらに進んで、黄村、楊家村に達したが、

この付近は道路がひどいぬかるみのため、
とうとう車を乗り捨てて歩かなければならなかった

そのため、予想以上に時間を食い、目的地の衙門口 (ヤーメンコー) に
到着したのは、十一時半を回っていた。


部落の入り口で小憩した後、何旅長の案内で部落東南端の第一線陣地を視察したが、
守備についている兵一人一人について訊問した結果、

それがことごとく冀北辺区保安隊である事が確認された。
この兵力は、程旅長の話によると四百名だとの事である。

しかし実際はもう少し多いのではないかと思われた。

何基レイの部隊約一ヶ大隊は、午後一時すぎ、磨石口に向って撤退を開始したので、
顧問達は確実にこれを見届けた後、互に打ちくつろいで昼食にとりかかった。



ところがこの休憩中、部隊の撤退をめぐって一悶着が持ち上った。
中島顧問が何気なく 「衙門口はこれでよしと、次は八宝山の部隊点検だが、

経路はどの道を通って行きますかな」 すると何旅長
「衙門口の部隊は撤退命令をうけたから、今こうして引き揚げさせたのですが、

八宝山の部隊は何にも命令は受けていませんよ。
だからこれは撤退させるわけには参りません」 と突ッぱねて来た。

「こりゃおかしい。私は宋委員長から、八宝山も盧溝橋も、三十七師に対しては
全部撤退命令を下すというふうに聞いてきたのだが、

話がこうチグハグじゃ、てんで問題にならんじゃないか。
ところで盧溝橋の西岸にいる、吉星文の二百十九団、

あれはやっぱり、あなたの部下なんでしょう。
移動させるのですか、させないんですか?」



「あれは隷属系統は確かに私の部下に間違いありません。
しかし今は馮師長の直轄指揮に入っているんです。

だから宋軍長または馮師長の命令がない限り、私がこれを動かす事は出来ません」

「しかし考えてもご覧なさい。   衙門口のタッタ一ヶ大隊だけを撤退させるために、
こんなに大勢で物々しく視察に来るなんて、馬鹿馬鹿しくて話にならん。

ことに宋委員長の命令は、斉燮元さんが直き直き特務機関に伝え、
また機関長も宋委員長に会って、双方完全に了解が出来ていたんですぞ。

それでも旅長は動かさんといわれるのですか?」
「北京における協定がいかなるものであれ、直接私に命令が来ない限り、

独断で撤退させる事は断じて出来ませぬ。
貴官に対してはまことにお気の毒ですが何分共にあしからず」》


つづく

7月20日 29軍北京撤退の詰め

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/28 18:29 投稿番号: [618 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
270〜272p

《 七月二十日午前九時、斉燮元 (さいしょうげん) が特務機関を訪れて来た。
松井機関長と私とは、大応接室でこの冀察の元老と会見した。

「   −   そこで今日中し上げます件は、例の停戦協定条項の実施についてですが、

まず第一の遺憾の意表明、ならびに将来に対する保障、これは宋委員長自ら、
すでに天津で済ましてこられましたので、ご了承願います。

また、当の着任者だった二百十九団第三営長金振中、
これは七月十二日付、罷免してしまいました」


「エッ?金振中営長をですか?」
私は覚えず声を挙げてしまった。

身に数創を負いながら、なおかつ毅然として、是は是とし、
非は非とし、一意不拡大の信念に徹底して来た金振中   −。

しかし立場は立場、事件の責任者たる事に間違いはないのだ。
彼の罷免は当然まッ先に採り上げらるべきであったかも知れない。

だが私にいわせれば、師長馮治安の処罰こそ、より以上必要なのではなかったか。

宋哲元の出迎えにさえ行かぬという、それ自体、
すでに自分の心に疚 (や) ましい点があったからだと考えられる。



斉燮元は更に言葉を続けた。

「昨十九日の夜、天津で締結されました細目協定、これは本日から早速手分けして、
全面的の取り締りと弾圧に乗り出す事になりました。

次に部隊の撤退に関してですが……」
彼は中国服の内ポケットから手帳をさぐり出し、パラパラッとページをめくって、

「宋委員長は今日明け方の五時、三十七師の撤退に関して次のような命令を下されました。

一、北京付近に在る三十七師は、本二十日西苑に集結を開始し、

   明二十一日これを完了すべし。

二、右集結中、警戒のため、石友三部隊は一部を八宝山付近に位置せしめ、

   三十七師の集結完了後、翌二十二日これを撤退すべし。


委員長は私がこちらにあがる前、以上は第一段階の措置である。第二段階としては、
さらにこれを永定河の西側に移動させるのだという事も付け加えて申されました」



機関長は
「問題は馮治安が唯々諾々としてこれに従うかどうかですなあ!」

「軍長の命令ですからねえ。いくら馮治安でもこれに楯突くわけにはいかんでしょう。
しぶしぶながらでも動かすだけは動かさなくっちゃ。

それについてですね。撤兵の状況を確認するため、
軍事顧問は明二十一日午前八時、戒厳司令部に来ていただいて、

秦市長と打ち合わせの上、周永業処長、周思靖参謀も同道し、
この撤退に立会っていただきたいと、宋委員長直々のお話なんです。

前線の撤退は、午前十時から十二時ごろまでの間に実行するとの事でした」
「しかし今朝五時の命令というと、宋委員長もお帰り早早なかなかのご勉強ですなあ」

「ハア、委員長はいま、政務や軍務が山積していましてね。
昨夜は報告を聞いたり、会議に顔を出したりで、ほとんど徹宵だったようでした。

委員長は実にハッキリした不拡大主義者ですね。
馮治安なんか、昨夜随分耳の痛くなるようなお説教を聞かされていましたよ」》


つづく

7月20日 宛平城での砲撃戦再開

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/27 18:42 投稿番号: [617 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
274〜276p

《 宋哲元公館で、和平不拡大を話合っていた午後三時、
盧溝橋の原では数日来の鎮静を破って、またまた変事が勃発していた。


午後二時四十分、宛平城の城壁上に、ポッカリ灰色の中国兵の姿が見え始めてきた。

「オヤッ!   あいつは中国兵じゃないか。どう見たって保安隊とは服の色が違うぞ。
また図々しくあんなところに出しゃばって来やがって、これは明瞭に停戦協定違反だ!」

「そうだ!   確かに中国兵だ。しかし彼等は宋哲元の命令で、ここ一両日中に
全部撤退しなきゃならんもんだから、わざわざマルコポーロ橋を渡って、

この古戦場に名残りを惜しみにやって来たんだろうぜ。
中国兵の中にも、あれで案外風流を解するやつもあるだろうからなあ!」



我が第一線は極めて軽くそれをあしらっていた。
ところが中国兵は、一人、二人、三人、四人、だんだんその数がふえて来る。

突如、彼等は我が第一線めがけて、小銃、軽機関銃による一斉猛射を浴せかけてきた。
どうやら撤退を前にして、悔し紛れの仕返しらしい。

盧溝橋の駅舎にあった牟田口連隊長は、眼鏡でジーッと宛平城を睨んでいたが
「やむを得ん。せっかく停戦協定まで結んだのに、彼等自らこれを無視し、

蹂躪 (じゅうりん) しようというのなら、こちらは懲らしめの砲火をもって酬いよう。
重砲および連隊砲、直ちに宛平城の城壁に対して砲撃開始!」

大瓦ヨウ部落の森陰に放列を布き標定まで終って待機していた連隊砲および
一文字山に陣地進入した十五センチ榴弾砲は、一斉に急襲射撃の火蓋を切った。


榴弾は城壁上各所に閃光を発して炸裂し、東北角および西北角の堅固な城壁が、
次々に打ちくだかれていく。

宛平城一帯はまたたくうちに濛々 (もうもう) たる砲煙に包まれ、
さきほどの中国兵はたちまち沈黙を守ってしまった。



旅団長河辺少将は、この時、戦闘司令所を豊台から西五里店に推進させた。
ところが永定河西岸の三十七師は今度は一文字山に向って迫撃砲火を集中し始めた。

戦闘司令所至近の距離にその十数発が落達し、
我が方では即死一、負傷一の犠牲を生じてしまった。

執拗な中国兵はこれに力を得て宛平城の東の城門からも、
一文字山に向って小銃弾を注ぎ始めた。

我が重砲が、城壁および永定河西岸の敵に対し、
第二回目の膺懲射撃の火蓋を切ったのはこの時である。

時正に午後七時。こんどの砲戦はさきほどのそれにも増して激しかった。
夕陽はまさに大行山脈のかなたに没せんとして、

盧溝橋一帯の原はいま、燃え立つばかり赫々 (かくかく) としている。



パノラマに見るような薄暮の砲戦を、終始息を凝らして見守っていた第一線の将兵達は、
その砲煙が薄れてゆくと共に、ついいまさきまで、

東の城壁上に巍然 (ぎぜん) として吃立 (きつりつ) していた二層の楼門が、
跡形もなく吹ッ飛んでいるのを見て、あちらからもこちらからも、

たちまち万歳の喚呼 (かんこ) が湧き起った。
連隊長はやおら駅のホームに立ち上った。

そして副官河野又四郎少佐をふり返り
「砲撃の威力は、物凄いもんだなあ!   楼門を吹ッ飛ばされた宛平城の姿はどうだい。

まるで兜を脱いださむらいといった格好じゃないか」 「そうですなあ。実に痛快に
やっつけましたなあ。これで中国兵もスッカリ度胆を抜かれた事でしょう」》


つづく

7月19日 宋哲元と蒋介石の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/26 18:45 投稿番号: [616 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
25〜27p

《   −   七月十九日、

宋哲元は、支那駐屯軍司令官香月中将との約束をはたすべく、
午前七時三十分、専用列車で天津を出発した。

北京に到着すると、ただちに、第三十七師 (馮治安) が市内各所に敷設していた
土嚢陣地を撤去させ、参謀次長熊斌に打電した。

「本人始終站在国家立場、国民地位、本中央意旨処理、希望中央忍耐……」

政府の意思にそって事件処理にあたるから、しばらくみていてほしい、との趣意であり、
日本側との交渉の間は中央軍の北上をひかえてほしいとの含意も、うかがえる。



蒋介石は、懸念した。

宋哲元は、既述したように、十一日の〝北京の合意〟について報告しなかったが、
十四日の支那駐屯軍の七項目要求も、蒋介石には連絡していない。

南京では、この日、外交部日本科長董道寧が参事官日高信六郎にたいして、日中両軍の
同時撤兵を提案するとともに、事件の 「地方的解決」 は認められない、と強調した。

宋哲元にたいする牽制であるが、蒋介石は、十七日に廬山でおこなった演説を
公表することにして、午後六時、ラジオで放送させた。

いわゆる 『生死関頭』 演説であり、蒋介石は次のように強調している。


「如果盧溝橋可以受入圧迫強○(ニンベン+占)、那末我們五百年故都、

北方政治文化的中心   与軍事重鎮的北平、就要変成瀋陽第二!」

(もし盧溝橋が 〔日本の〕 圧迫によって強制的に占領されれば、
わが五百年の古都、北方の政治文化の中心で軍事上の重鎮である北京が、

第二の奉天にならぬと断言できるだろうか)


「今日的北平、若果変成昔日的瀋陽、今日的冀察、亦将成為昔日的東四省。

北平若可変成瀋陽、南京又何嘗変成北平!」

(今日の北京が、もしかつての奉天になれば、今日の冀察地方 〔河北省、チャハル省〕 は、
かつての東北四省 〔満州〕 になるであろう。

北京が奉天になるのであれば、南京が北京にならないとは、誰が保証できるであろうか)


「所以盧溝橋事変的推演、是関係中国国家整個的問題、此事能否結束、

就是最後関頭的境界」

(ゆえに盧溝橋事件の推移は全国的問題であり、
その収拾の能否は最後の関頭の限界である)



  そして、蒋介石は、盧溝橋事件解決のための最低条件として、次の四点を指摘した。

「一、任何解決、不得侵害中国主権与領土之完整

  (いかなる解決も、中国の主権と領土保全を侵害しない)

二、冀察行政組織、不容任何不合法之改変

  (冀察の行政組織冀察政務委員会の非合法改変を容認しない)

三、中央政府所派地方官吏、如冀察政務委員長宋哲元等、不能佳人要求撤換

  (冀察政務委員長宋哲元のような中央政府派遣の官吏の罷免、更迭要求は認めない)

四、第二十九軍現在所駐地区、不能受任何的約束

  (第二十九軍の現駐留地にかんする要求はうけいれない)」


この四条件は、支那駐屯軍の七項目要求を念頭においたものとみられる。
しかし、日本側は、宋哲元の排除は要求していない。》


つづく

7月19日 停戦協定細目調印

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/25 18:31 投稿番号: [615 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
267〜268p

《 一方、天津では、宋哲元が出発してしまった後、
張自忠、張允栄とが額を集めて、停戦協定第三項の細目を研究した。

そして十九日午後十一時、橋本参謀長との間に、
次のような取り決めが成立し、これに円満調印をおわった。


    停戦協定第三項細目

七月十一日調印した協定の第三項を実現するため、次の通り実行する事を約束する。

一、共産党の策動を徹底的に弾圧する。

二、双方の合作に不適当な職員は、冀察 (きさつ) において自主的に罷免する。

三、冀察の範囲内に、他の方面から設置した各機関の排日色彩を有する職員を取り締る。

四、藍衣社、CC団のような排日団体は、冀察においてこれを撤去する。

五、排日的言論、及び排日的宣伝機関、並びに学生、民衆等の排日運動を取り締る。

六、所属各部隊、各学校の排日運動を取締る。

    中華民国二十六年七月十九日

   第二十九軍代表   張   自   忠   印

   第二十九軍代表   張   允   栄   印


こういう調子で、宋哲元の北京入りは、
日華両国の間に介在する一切のわだかまりをときほぐし、

事変勃発以来二週間目にして、ここに漸 (ようや) く
和平解決の曙光が兆 (きざ) し始めたのである。

戒厳司令部に連絡に行った軍事顧問部秘書の話によると、
百十一旅長劉自珍少将は、これでやっと重荷を下したといわんばかりの表情で

「明日以後、市内の警備は公安局、保安隊、及び憲兵に一任し、
二十九軍は時折り隊伍を整えて市中を巡羅する程度に穏和される。

そしてまた、諸般の残務整理が終わったら、この戒厳司令部も近々のうちに
撤廃されるはずだ」   と極めて朗らかにハシャギ回っていたそうである。》


つづく

7月19日 宋哲元の北京入り

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/24 15:55 投稿番号: [614 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
263〜265p

《 宋哲元は、翌十九日午前七時半、少数の護衛兵を従え特別仕立の列車に乗り込み、
天津総站 (駅の事) を出発、久々ぶりの北京に向った。

車窓見波す限り生い繁っている高梁の畑には、真夏の陽光が燦々として降り注ぎ、
今日もまた暑いぞといわんばかりに照り返していた。

楊村を過ぎたころ、蒸しタオルと、何杯目かの香り高いお茶を取りかえた宋哲元は、
突然、思い出したように同席の陳覚生に話しかけた。

「この方面には、今年はまだ余り蝗の群は見かけないようだね」
彼の郷里、山東地方は、年々歳々莫大な蝗群 (こうぐん) の害を蒙り、

時として高梁の収穫皆無というような事も、決して珍しくなかったのだ。
したがって民生を念ずる為政者としては、これは非常に重大な関心事だったのである。



陳覚生は車中徒然 (つれづれ) の当意即妙

「ハア、今年は皇軍 (ホワンチュン) が沢山やって来ましたのでね。
蝗群 (ホワンチュン) はみんなどこかへ影を潜めてしまったのでしょう」

宋哲元はにわかに目を細くして微笑みを浮かべ
「オオ!   皇軍(ホワンチュン)!   蝗群(ホワンチュン)!」

彼は口の中でこの言葉を繰り返し、その言い回しの面白さを、
ひとりで反芻 (はんすう) しているみたいだった。

ちょうどそのころ、灰色の大城壁を背景に持つ、北京正陽門東停車場では、
いよいよ宋委員長が帰って来るというので、

冀察の要人、財界の大物、ないし灰色の軍服に皮帯 (ピータイ) 姿いかめしい、
二十九軍の高級幹部が、早朝から続々詰めかけて来て、

プラットホーム一杯にひしめき合っていた。その数五百といわれている。



やがて列車は哈達門 (ハーターメン) の踏切に姿を現わした。
ホームの北側、アカシヤの樹陰に、隊伍整然、堵列 (とれつ) していた

綏靖公署軍楽隊は、この時一斉に楽器をとりあげた。
タクトを執った楽長の白い手袋が、頭上に高く振り上げられる。

そしてそれがサッとふり下された瞬間、極めて急テンポなメロディーをもって、
「栄光の曲」   が演奏され始めた。

いままでバタバタあおいでいた、要人達の白い扇子が次第に影をひそめていく。
やがて列車は音もなく、緩やかにホームに滑り込んで、出迎えの人々の前で静かに停まった。

真っ先に列車から降り立ったのは、鉄路局長の陳覚生である。
続いて総帥宋哲元が、悠々その巨躯を一同の前に現わした。

五月ごろよりも一層陽焦 (ひや) けして、脂ぎった彼の顔色は、
とりわけ印象的だった。



出迎えの人達は、手に手に帽子を打ち振って彼を迎えた。
まず秦徳純が進み出て、真ッ先に宋哲元と握手した。

双方共ニコニコしているが、万感を胸にこめての堅い堅い握手である。
張維藩もいる。張越亭もいる。石友三もおれば阮玄武もいた。

賈徳耀、李思浩、魏宗翰、そういった冀察の要人が綺羅星 (きらほし) のように
並んでいる前を、宋哲元はあたかも閲兵でもするように、一々答礼しながら歩みを進めた。

日本側顧問団の前まで来ると、彼はにわかに立ち停まった。
そしてその一人一人と、丁重な握手を交わした。

彼の自動車はすでにホームの入口まで、持ち込まれていた。彼はふり返って、
もう一遍全部の人々に会釈すると、やがて京終鉄路局長兼総参議張維藩と一緒に、

その大型自動車中の人となった。》


つづく

7月18日 北上する中央軍との銃撃戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/23 16:17 投稿番号: [613 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
269〜270p

《 諜報というものは、動的と静的とに大別する事が出来る。

動的諜報というのは、いわゆるスパイ網を張りめぐらし、これを活発に働かせ、
相手の秘密、機密をすッぱ抜いてしまおうというもので、

二十九軍作戦会議の内容が、筒抜けに特務機関に洩れてきたり、また、
宋哲元が自動車の中で話した事が、我々の耳に伝わってきたりするのがそれである。

静的諜報は、無電によって相手の電波をキャッチし、入手した暗号を解読する。
今次事変においても軍直轄の特殊情報班は、よく遠隔地の中国軍の動向を、

実に巧みに掴んでくれたものである。


だから我々は、これによって中央軍が、京漢線や津浦 (しんぽ) 線を北上して来る情況を、
あたかも掌に指すように、知る事が出来た。

ことにさきに梅津・何応欽協定によって、華北を追われた中央直系軍、関麟徴の二十五師が、
協定に違反し、十三日夜、兵一千五百を保定に進めたという傍受電報は、

我々の神経を少なからず刺激したものであった。

この種の情報は、東京参謀本部特情第十八班においても、キャッチしていたのだから、
軍中枢の情勢判断が、これによって常に正しく行なわれていた事は、いうまでもない。



七月十八日午前十時半、我が偵察機が一機、天津の飛行場から西南の空に飛んだ。
これは特情に基く中央軍の北上輸送を確認するため、

京漢線に沿って、河南省境までの空中偵察に向ったものであった。

一望千里、見波す限り坦々として、緑の毛氈を敷きつめたような大平原、
その沃野の真っ唯中に黒く一線を引くもの、これすなわち目ざす京漢鉄路である。

一千五百メートルの高度を保って邯鄲 (かんたん)、磁州、順徳と次第に進み、
午前十一時二十分、ショウ (サンズイ+章) 河の上空にさしかかったころ、

ポッカリ白い煙を吐いて北上する、一ヶの列車を発見した。
機はその内容を確かめようと急角度に降下した。

彼我の距離がグングン接近してくる。

列車は有蓋車と無蓋車とを雑然と連結し、その数四十輌余り。
それに灰色の軍服を着た中国兵がギッシリ一杯、詰まっているのがはっきりわかる。



突如、中国兵は我が機めがけて、小銃、機関銃を乱射し始めた。列車の最後尾からは
高射砲が射撃を始め、ドーナツのような煙の輪が、機をめぐって前に後に開き始めた。

偵察機の機関銃が直ちに火を吹いた。銀線のような細い煙が列車めがけて、
降り注いで行く。百五十発の機関銃弾が、中国兵の上に浴せかけられたのである。

列車はガックーン!   大きく動揺して急停車した。
車上の中国兵は蜘蛛の子を散らしたように、高梁畑の中に逃げ散った。

中国側の公表するところによると、このとき彼は死者二名、
重軽傷者十数名を生じたとのことである。

偵察機は機首を北に向けると、さらに石家荘、保定、タク (サンズイ+薰−石) 州、
琉璃 (るり) 河方面の中央軍配置状況を偵察し、反転、天津に引き返していった。



この戦闘は極めて短時間のものであったが、中央軍と、増加日本軍との初顔合わせ
という意味において、特筆されるべき性質のものだった。

中島顧問をしていわしむれば、 「子供の喧嘩に親が出たキッカケ」
という事にもなるであろう。

北からは関東軍が、また東からは我が朝鮮軍が、一日一日盧溝橋の戦場に近づきつつある。
一方南からは蒋介石の中央軍が、いま、この戦場に向って極めて緩やかではあるが

逐次近迫して来つつあるのだ。》


つづく

7月18日 宋哲元の謝罪

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/22 18:32 投稿番号: [612 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』   文春文庫
22〜23p

《 七月十八日、宋哲元は、午後一時十分すぎ、
天津市宮島街の借行社で支那駐屯軍司令官香月中将と会見した。

「濃紺の長衫と黒の馬掛子にでっぷり肥えた体をつつみ、
頭はてらてらに禿げ上って、見るからに精力的な風体である」

と、『東京朝日新聞』   特派員岡部孫四郎は描写している。
この日、天津は摂氏四十五度をこえる猛暑にみまわれていた。

それだけに、肥大漢なのに格別に暑さに苦しむ風情をみせぬ宋哲元の様子に、
岡部記者は格別の印象をうけたらしい。


宋哲元は、第三十八師長兼天津市長張自忠が通知したとおり、
まず丁重に謝罪の意を表明した。

「今回の事件発生は、誠に遺憾に存じます」
支那駐屯軍司令官香月中将は、諒承する旨をこたえ、

また、第一次世界大戦が   「セルビヤ国内の一発の銃声に導火せられたる事」
を指摘し、 「挑戦的行動」   をさけてほしい、と述べた。

宋哲元は、北京に帰任したら第二十九軍の撤退を実行する、
将来の保障についての細目は第三十八師長兼天津市長張自忠と

冀察政務委員張允栄に策案させる、といい、午後一時三十五分、辞去した。



寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
262〜263p

《 陳覚生の言葉の通り、宋哲元は七月十八日、正式に日本軍司令官を訪問した。
香月中将はこの日午後一時、天津宮島街の偕行社、

即ち上海市長呉鉄城から譲り受けた洋館建ての倶楽部で、宋哲元と会見した。

張園の軍司令官官邸は、前司令官田代皖一郎中将が、十六日午前十時五十分、
そこで亡くなったばかりなのでゴッタ返していて使用出来なかったからである。

宋哲元は、張自忠、張允栄   陳中孚、陣覚生等を帯同し、
悠揚迫らざる態度で車から降り立った。

軍司令官は橋本参謀長はじめ、和知、大木、塚田等各参謀を侍立させ、
この冀察の重鎮と握手した。

双方共、いずれ劣らぬ貫禄のある、ドッシリしたタイプで、この会見こそ、
実に、本場所における東西両横綱の立合いといった感が深かった。


会談はまず、初対面の挨拶、前司令官の病没に対する悔みの言葉、
それに引き続いて盧溝橋を中心とする時局問題に入って行った。

宋哲元はまず、身をもって停戦協定条文の第一項、日本軍に対する遺憾の意表明を、
いとも丁重厳粛な態度でやってのけた。

また第二項、二十九軍撤退の件は、北京帰任後責任をもってこれを実行に移すべき事を
確約した。第三項、反動分子取り締りの件は、さらに細目の協定を必要とするので、

その場において張自忠と張允栄に命じ、
具体案を作製して橋本参謀長に提出し、妥結を見るよう指示した。》


つづく

7月17日 宋哲元の謝罪決意

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/21 18:25 投稿番号: [611 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫   21〜22p

《 宋哲元は、和平を決意した。・・・
その夜、第三十八師長兼天津市長張自忠は、支那駐屯軍参謀長橋本群少将に

たいして、翌日、宋哲元が司令官香月清司中将に 「謝罪訪問」 をする、
と、つたえるとともに、次のような〝解決案〟を提言した。


一、盧溝橋事件の責任者の営長(第三十七師第一一〇旅第二一九団第三営長金振中)
   を処罰する。

二、将来の保障についでは、宋哲元が北京に帰ってから実行する
   (以上の二項は文書にする)。

三、排日要人も罷免するが、文書にはしない。

四、北京には宋哲元直系の衛隊だけを駐留させる。


宋哲元の謝罪とあわせ、とくに北京からの撤兵もふくめて、
支那駐屯軍の七項目要求をほぼ全面的に受諾した、といえる。

北京特務機関補佐官寺平忠輔大尉によれば、
午後十時ごろ、北寧鉄路局長陳覚生が電話してきて、

宋哲元は、特務機関が北京市長秦徳純に提示した要求のうち、
第二十九軍にたいする 「対日無抵抗」 命令の発出に同意した、と述べた。

ただし、「無抵抗」 という表現は刺戟 (しげき) 的なので、日本軍との 「摩擦禁止」
としたい、とのことであった。

どうやら、宋哲元は、日本側のどの筋からの要求も、
主要なものはすべてのむつもりらしい。》



寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
261〜262p

《 その晩十時すぎ、北寧鉄路局長陳覚生から、突然私のところに電話がかかってきた。
「寺平さん!   お元気ですか?   僕、陳覚生です。いま天津からお電話しているんですよ。

  今日宋委員長のところに行って、いろいろ時局対策について話し合ったんですがね。
その際委員長は、日本側に対して絶対無抵抗という方針を打ち出されました」

「結構ですね」

「これは何でも中島顧問からの申し出で事項を、秦市長が天津に電話して
きたらしいんですが、それに全面的に賛同された訳なんです」

「成る程」


「唯、その中に、二十九軍に対して対日無抵抗を命令せよという一項が
あったんですがね。委員長はこれをいろいろ検討された結果、

日本軍との摩擦を厳禁するという言葉に改められました。
そのわけは、この内容を外部に発表する場合・…‥」

「よくわかっています。委員長に肚を決めていただきたいのが、
こちらの意向だったんですから、それだけのご返事がいただけたらもう結構です。

次は実行という段取りですな」

「そうです。差し当り私のところは、列車の運行という点で、またなにかと
特務機関のご厄介にならなくちゃなりません。何分よろしく……」



「それで宋委員長は、いつ北京に帰って来られるんです?」

「まだ確かな見通しはついていませんが、明十八日は、日本軍司令官のところへ
ご挨拶に上る予定になっていますから、もう一両日遅れる事は確かです」

「とにかく、一日も早く帰って来て時局を収拾されるよう、
貴方からも勧めて下さい。」》


つづく

7月17日 蒋介石の関頭宣言2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/20 18:39 投稿番号: [610 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 中公新書
150〜152p

《 ……われわれは弱国であるし、また和平を擁護するのがわれわれの国策なのだから
〔こちらから〕 戦いを求めていくべきではない。

(しかし) われわれはもとより弱国ではあるが、わが民族の生命を保持せざるを得ないし、
祖宗・先人がわれわれに残してくれた歴史上の責任を背負わざるを得ない。

したがってどうしてもやむを得ないときには、われわれは応戦せざるを得ないのである。
すでに戦端が開かれたのちには、弱国であるからといっても、もはや妥協の機会はないのである。

もしわずかな土地、わずかな主権であれ、それを放棄するものは、それこそ、
中華民族永劫の罪人となるであろう。

そのときには、民族の生命を賭して、われわれの最後の勝利を追及するだけのことである。



盧溝橋事変を中日戦争にまで拡大させないようにできるかどうかは、まったく、
日本政府の態度如何にかかっており、和平の望みが断たれるか否かの鍵は

まったく日本軍隊の行動如何にかかっている。和平が根本から絶望になる一秒前まででも、
われわれは、やはり和平的な外交の方法によって、

盧溝橋事変の解決をはかるよう希望するものである。

われわれの立場は、きわめてはっきりした次の四つの点である。

(1)   どんな解決 〔策〕 であれ、中国の主権と領土の完璧性を侵害する
   ものであってはならない。

(2)   冀察 〔河北・察哈爾地区〕 行政組織に対するいかなる不法な変更も許さない。

(3)   冀察政務委員会季員長の宋哲元などのような、中央政府が派出した地方官吏
   については、何人とも、その変更を要求することはできない。

(4)   第二十九軍が現在駐留している地区については、如何なる拘束も受けない。

この四つの立場は弱国外交の最低限度のものである。
もし相手 〔国〕(日本の意味 ― 松本註) が立場を替えて考え、

東方諸民族の一つの遠大な見通しに立つならば、
また、両国関係を最後の関頭まで追い込もうなどとは考えず、

中日両国の子々孫々までの仇敵関係を造り出すことなどを望まないならば、
われわれのこの最低限度の立場を、相手 〔国〕 は、これを軽視すべきではない。

要するに、政府は盧溝橋事変については、終始一貫した方針と立場を、
すでに確定しており、そのうえ必ず全力をあげてこの立場を固守するものである。

われわれは和平を望むが、それは一時の安穏をむさぼるものではない。
また用意を整えて応戦するが、決して戦争を自ら進んで求めるものではない。



われわれは、全国が応戦した後の情勢が、すべてのものを犠牲にする以外になく、
そこには僥倖を願ういささかの余地もないのを知っている。

もしひとたび戦端が開かれれば、それこそ地域的には南北の別なく、
年齢的には老幼の別なく、なにびとをも問わず、

すべての人びとに国土を防衛し抗戦する責任が生ずるのであり、
すべての人びとが一切を犠牲にする決意をしっかりと抱くべきである。

それゆえ、政府は必ず慎重にこの大事変に臨むべきであり、
全国の国民もまた必ず厳粛かつ沈着に自衛の用意を整えなければならない。

まさにこの安定と危機の境目にあっては、ただただすべてのものが挙国一致し、
規律に服従し、秩序を厳守することにかかっている。……」

(日本国際問題研究所中国部会編『中国共産党史資料集』9四六八〜四七一ページ。)》


つづく

7月17日 蒋介石の関頭宣言1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/19 18:41 投稿番号: [609 / 2250]
廬山では会議が開かれていた。

松本重治著 『上海時代・下』 中公新書
148〜149p

《 第二日日の十七日には、冒頭に、汪兆銘が、三中全会以来の一般報告を述べたが、
つづいて、真打の蒋介石が、沈痛な語調で、有名な一大演説をぶった。

その要旨は、左のごとく、できるだけ原文をここに載録することにする。



「……われわれは、弱国である以上、もし最後の関頭に直面すれば、
国家の生存をはかるため全民族の生命を賭するだけのことである。

そのときには、もはやわれわれは中途で妥協することを許されない。
中途での妥協の条件としては、全面的投降・全面的滅亡の条件しかないからである。


全国国民は最後の関頭なるものの意味をもっと明瞭に認識し、
ひとたび最後の関頭にいたれば、われわれは 〔あらゆるものを〕 徹底的に犠牲にして、

徹底的に抗戦するほかはない。
犠牲の決意を固めてこそ、最後の勝利をかちとることができるのである。

もし 〔その決意がなく〕 さまよい歩き、一時の平安をむさぼろうと妄想しようものなら、
それこそ民族を永劫に再起不能の状態に陥れることになるであろう。



……今回の 〔盧溝橋〕 事変の経過から見て、〔われわれには〕 他国
(日本のこと − 松本註) が急いでわが国 (中国のこと − 松本註) を

陥れようといかに大急ぎで苦心惨憺しているか、
また、和平はもはや容易には獲得できそうにないことがわかるのである。

いまもし平安無事を求めるとすれば、
それは他国の軍隊が無制限にわが国土に踏み入るのを許すことになり、

同時にわが国の軍隊がわが国の土地におりながら、
自由に駐留できないように制限されてしまうこととなり、

また、他国の軍隊が中国の軍隊に発砲するのを許しながら、
われわれはこれに返砲することもできなくなるであろう。


いいかえれば、それは、他国が包丁とまないたとなり、
わが方が魚肉になることである。

われわれは、こうした悲惨な状態にいまにも陥ろうとしているのである。
これは、少なくとも人格をもった民族なら、とうてい認受し得ないものである。



わが東北四省が占領されて、すでに六年もの永きに及んでおり、つづいて 『塘沽協定』 が
結ばれ、いまでは衝突地点は、すでに北平の入口である盧溝橋にまで来ている。

もし盧溝橋までが他国から圧迫され、占領されてもかまわないというのなら、
わが五千年来の古都であり、北方の政治・文化の中心であり、軍事上の重要地点である

北平は、第二の瀋陽になってしまうであろう。
今日の北平が、もし、昔日の瀋陽になるとすれば、

今日の河北・察哈爾 (チャハル) もまた昔日の東北四省になってしまうであろう。
北平が、もし、瀋陽になるとすれば、南京が、また、どうして、北平の二の舞を

演じないわけがあろうか。したがって盧溝橋事変の推移は、中国の国家全体の問題に
かかわるのであり、この事変をかたづけるかどうかが、最後の関頭の境目である。》


つづく

*   ここで蒋介石は   日本が侵略を始めたかの如く妄想している。
   だから、日本が、いくら和平を提案しても聞く耳をもたない。

   そして 「ひとたび最後の関頭にいたれば、われわれは 〔あらゆるものを〕
   徹底的に犠牲にして、徹底的に抗戦するほかはない。」 と言っている。

   蒋介石が 「あらゆるものを徹底的に犠牲にして戦う」 と決め、日本側の
   和平提案を踏みにじって戦争を続けた以上、その責任は中国にある。

   被害云々する資格はない。
   これは日本が仕掛けた戦争ではないのだから。

7月17日 日本と中国の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/18 18:41 投稿番号: [608 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
19〜21p

《 翌日、七月十七日午前十一時からの五相会議では、はたして外相、海相、
蔵相から異論がでたが、最終的には以上の陸軍の方針が承認され、

ついでに、南京においても   「七月十九日」   を期限とする交渉をすることになった。

訓電をうけた支邦駐屯軍では、むろん、中国側との折衝を開始したが、
参謀長橋本少将は、首をかしげた。

「こちらでは、戦さをせんでも済むという考えで、
非常に友好的な気分をもって片端から交渉が進み……

向こうが相当譲歩してきている最中だから、十九日までという
期限をつけて要求するということは、甚だ不自然だった」



宋哲元も、困却した。

この日、宋哲元は、前日に官邸で死去した前支那駐屯軍司令官田代皖一郎中将の
霊前に香をたき、弔花をささげた。

中将は、重症のために日本内地にはこぶこともできず、官邸で息をひきとったのである。

宋哲元は、中将夫人雪江にも深く頭をたれて辞去したが、
帰邸すると、廬山、南京、北京からの電報が待っていた。



廬山からの蒋介石の急電は、かつて 「上海事変」 のさい、
日本側は 「和解条約」 を結んでから攻撃した、

この 「実際之経験」 に照合して、「勿受其欺」(だまされるな) と強調していた。
南京電の発信者は、軍政部長何応欽である。

軍政部長何応欽も、日本はすでに 「第五、第六、第十、第十二、第十六等
五個師団及朝鮮之第二十師団」 を動員または出動させている、

日本郵船、大阪商船、山下汽船、三井船舶などから 「三十余艘」 の輸送船も
徴用している、と述べ、蒋介石同様に 「上海事変」 を教訓にして

「軍事準備」 をいそぐよう、要求してきた。
北京発の電報は、市長秦徳鈍からのものであった。



その日、朝、第二十九軍軍事顧問中島弟四郎中佐が訪ね、事態解決のため、
十一日の合意の実行の前に次の四項をおこなうことを要求した、という。

  ①第二十九軍にたいし、対日無抵抗を命令する。

  ②北京市の戒厳を緩和する。

  ③逮捕した日本人を釈放する。

  ④北寧鉄道交通の正常化をはかる。

宋哲元は、眼をむいた。

十一日の合意は三項目、支那駐屯軍が示してきたのは、はじめに七項目、
次に四項目、そして、いま北京から新たに四項目……。

相互に関連しているものもあるにせよ、延べ   「十八項目」の要求である。
どれが「真実要求」なのか……。



宋哲元は、和平を決意した。

友誼をかさねてきた故田代皖一郎中将の霊前にゆらぐ香煙につつまれたのが、
その決意をさそう動力になった、という。》


つづく

7月16日 日中双方の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/17 15:24 投稿番号: [607 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
18〜19p

《 蒋介石は、七月十六日、自分が承知した 〝北京の合意〟 の内容を指摘して、
日本側の策謀に乗じられるな、戦備をととのえよ、と打電した。

が、宋哲元からは、なんの返事もこなかった。



東京では、この日   −   陸相杉山大将が、中国側との交渉期限を
[七月十九日」   にしたい、と、五相会議で提案した。

広田外相は、北京または天津での   「現地交渉」   に期限をつけるのはよいが、
南京での国民政府あて外交交渉に期限をつけるのはまずい、と反対した。

海相米内光政大将、蔵相賀屋興宣も外相に同調し、杉山陸相も同意した。
しかし、考えてみれば、広田外相の提案は、意味が不鮮明である。

外相としては、北京または天津での軍の交渉、すなわち   「現地交渉」   がどうあれ、
結局は国民政府との外交交渉以外ではことの決着はつかない、と判断したのであろう。



だが、事態は、戦端がひらかれるかどうかにまですすんでいる。

「現地交渉」   に期限をつけることは、そのまま期限後に 〝現地軍〟 が武力を
発動するのを認めることに、連結するはずである。

そして、「七月十九日」   は、まさに支那駐屯軍が攻勢準備の完了期限とする
「七月二十日」   の前日にほかならない……。

陸軍は、五相会議の成果を知ると、さっそく支那駐屯軍にたいして、中国側に
次の四条件を   「七月十九日」   までに履行させよ、と指示した。

  1、宋哲元ノ正式陳謝

  2、責任者ノ処罰   ト共ニ   第三十七師長馮治安ノ罷免

  3、八宝山ノ部隊撤退

  4、七月十一日ノ解決条件ニ宋哲元ノ調印

支那駐屯軍の七項目要求にくらべれば、だいぶ簡略になっている。
しかし、そのあとに、次のような項目がつけ加えられていた。

「右期間内ニ   我要求ノ実行ヲ   見ザルニ於テハ、我軍ハ   現地交渉ヲ   打切リ、

第二十九軍ヲ   膺懲ス。

之ガ為、期間満了期ニ   所要ノ内地部隊ノ   動員ヲ行ヒ、之ヲ   北支ニ派遣ス」

結局は、〝攻撃をともなう期限付交渉〟 の指示である。


つづく

関東軍の説得6

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/16 15:49 投稿番号: [606 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
256〜258p

《 一応の説明が終った時、鈴木中将は自らロウソグの火を継ぎ足しながら、
「僕はですねえ。今、寺平君のいわれた、北京城を兵火の巷に陥れないという事、

そして百五十万民衆の生命を保全し、一千年の文化を保護するという、
この事に非常に大きな意義を感ずるのです。

ローマは一日にして成らず、北京だって同じ事です。
これに砲弾をブチ込むがごときは、文明国軍隊のなすべき事じゃありません。



同時に私はまた、無意味な戦闘を引き起して、
私の部下から無益の犠牲者を出すこと、これを極力避けたいと思うのです。

乃木将軍の二〇三高地の場合、あれはまた特別の例外ですよ。
要するに今度の作戦は出来る限り慎重にやりましょう。

そして阮玄武の部隊を始め、その他のものでも、
先方から求めて武装解除に応じようというものがあったら、

極力、鉄砲を射つことなく、平和裡に話を進めて行くことを希望します」



旅団長のこの説明を聞いた時、私は心中、
  −   やっぱり古北口までやって来てよかった。

これなら大丈夫北京城を兵火から救う事が出来るぞ。
いよいよ明日は、大手を振って松井機関長の前に復命が出来る。   −

こう考えて、嬉しさが急に胸一杯に込み上げて来た。

事件後、私がベッドの上に、横になって寝たのは、この晩が初めてである。
累積した疲労も、そのため一度に吹ッ飛んでしまった。



翌十六日の朝、私は鈴木中将と食事を共にしながら、連絡事項を補足した。
「閣下!   昨晩大切な事柄を申し上げるのを失念しておりました。

今後の作戦に使用する時間の規正ですが、満州国と北京、天津とでは、
ちょうど一時間の時差があります。そこで協同作戦上、これを統一しておかないと……」

「その点は問題ありません。郷に入っては郷に従えです。
我々関東軍は早速、天津軍の時間に右へならえさせましょう」



「どうぞそういうふうにお願い致します」
「今日帰られるんでしたら、ここから通州まで、兵団配属の飛行機でお送りさせましょう。

小型で大変窮屈ですけれど、十五分か二十分の間ですから、しばらく辛抱して
乗ってって下さい」 旅団長はプリモス機の用意を副官に命じた。

操縦士は民間航空界練達の士、承徳満洲航空会社の飯島飛行士だったが、
飛行機はいざり車みたいで乗り心地は感心出来なかった。

しかし高度三百に舞い上り、脚下に万里の長城を俯瞰した時の気持は素晴しかった。
・・・

時局の中心地、盧溝橋の姿も、永定河の畔 (ほとり)、遥かに眺められた。

小さな通州の飛行場で飯島飛行士に別れた私は、特務機関差回しの自動車にとび乗って、
ふたたび通州機関に向う。機関から電話で北京機関に、関東軍との連絡概況を報告し、

また懐柔に電話して愛沢通訳生に、至急反転して来るよう連絡をとった。
二人は七月十六日の正午近く、一応の任務を終って、無事北京特務機関に帰着した。 》


つづく

関東軍の説得5

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/15 18:34 投稿番号: [605 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
255〜256p

《 私はその晩、鈴木中将や船引正之高級参謀と、簡単な会食を済ました後、
旅団の全幕僚、並びに酒井機械化兵団の参謀達に対して、

盧溝橋事件勃発の経緯から、二十九軍の配置、特性、将帥の人物論等、
微細に説明した。

一同は、自分達の明日の戦場に関する、生々しい資料ばかりなので、
眼を輝かし、息を凝らして、熱心に私の話を聞いた。

そして各々が発する質問も、ことごとく要所要所を衝き、
真剣そのものの研究振りだった。



「以上申し上げましたような訳で、北京城に対する攻撃、
これは旅団長閣下の責任において、絶対回避していただきたいのです。

また、当旅団の行動正面、即ち北京北方、北苑兵営に駐屯している、
阮玄武の独立歩兵第三十九旅は、事変勃発直後から、

すでに日本側に款 (かん) を通じており、情況切迫の場合には、直ちに日本側に
寝返るという意向を、北京武官今井武夫少佐のところまで申し出ています。

油断は禁物ですが、相当の確実性がありますから、
この点あらかじめお含みおきを願います」

「ホホウ!   日本に寝返る軍隊もありますかなあ!」
「無条件降伏を申し出ています。



また、黄寺 (ホワンスー)、滑河鎮、南口に駐留している、冀北辺区保安隊は、
これまた日本軍との戦闘を極力回避したいと、度々申し込んで来ています」

「その方の指揮官はだれですか?」
「石友三将軍です」

「アア、あの有名な石友三将軍ですか。石友三という名は私も前々から聞いて知っております。
旅団も石友三将軍とブツかるなら、敵にとって決して恥かしくないですね」

「それが今、先方から和平の手を差し伸べて来ているんです」
「承知しました。和平提携、大いに結構です」



「最後にもう一つ、一番大切な事を申し上げます。これは情況最悪の場合、
どうしても城内攻撃を決行しなければならない時の事なんですが、

日本居留民は非常時計画に基いて、ことごとく東交民巷 (トンチャオミンシャン)、
つまり公使館区域に集結させ、ここで籠城する事になっております。

したがって攻撃部隊は、真ッ先に北京城の東便門 (トンビェンメン)、これから
哈達門 (ハーターメン) 方向に進出し、ここから公使館区域に連絡して、

真ッ先に居留民を救出するよう努めていただきたいのです。

このコースは北清事変の際、福島安正将軍が選んだ公使館救援隊の進路でして、
皆さんも戦史で、すでにご研究になった事があると思います」



「これは非常に大切な事だ。実際にこんな事態が起ってきちゃ困るけど、
君達よく図上で研究して、最悪の場合の措置を誤らんよう、準備しておき給え。

そしてわからん事は何でも今の中に寺平君に聞いておき給え」
旅団長はそういって幕僚達に指図した。》


つづく

関東軍の説得4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/14 18:36 投稿番号: [604 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
254〜255p

《 こりゃまだ後何百輌続いて来るかわかりやしない。
この調子だと、陽のある中に、古北口まで行けるかどうか、怪しいもんだ。

それにしても関東軍が、これほどまでの大機械化兵団を擁していようとは、
現物を見せつけられる今まで、ちっとも知らなかったが、全く心強い限りである。

これを持って行ってブッつけたら、二十九軍なんか鎧袖一触、
たちまちどこかに吹ッ飛んで行ってしまうだろう。

だが、これだけ勢い込んで、北京平地に乗り込んで来つつある大関東軍に対し、
不拡大!   という言葉が、彼等の耳に入るだろうか?

せっかく古北口まで行ったところで、
結局、麦倉連隊長説得と同じような結果になってしまうんでは……   −



そこへ愛沢通訳生がやって来た。
「今行った兵隊さんに聞いてみたんですが、この先の方にかなり深い川があって、

こんな華奢 (きゃしゃ) な乗用車じゃ、とても古北口まで行けやしないと
いうんです」 だんだん情況が悲観的になってきた。

私は決心した。「よしッ!   俺はいまから一人で歩いて行こう。
この機械化部隊が終ったあたりで、トラックでも拾って乗って行くさ。

君は高と一緒に懐柔に引き返し、今晩麦倉部隊に泊めて貰うんだ。
明日帰りがけに私が電話で連絡するから、それまでそこで待っていてくれ」



自動車を乗り捨てた私は、機械化部隊のほこりを浴びながら古北口さして歩き始めた。
この道は四年ばかり前、一度通った事のある熟地なので、

その時の記憶がいまの私を大いに力付けてくれた。
かれこれ六キロばかり歩いたところで、ようやく機械化兵団最後尾の車輪がやって来た。

丁度その付近で、同じように待避していた麦倉連隊の連絡車が見つかったので、
私はそれにとび乗った。

そして石匣鎮、南天門の険を越え、その日の日没、
ようやく古北口の独立混成第十一旅団司令部に着くことが出来た。



旅団長鈴木重康中将は、アンペラでつくった陽よけの下にテーブルを持ち出し、
幕僚達と一緒になって作戦にふけっていたが、私の姿を見つけると、ツと立ち上って

「ヤア!   寺平君!   しばらくでした。
盧溝橋でのご活躍はかねがねうかがっていましたが、こんどはまた、

私の兵団にまでわざわざ連絡に来て下さって本当に恐縮です。
幕僚達を全員集めますから、今夜は一つ、ゆっくり北京の情況を聞かせて下さい」

鈴木中将はいつに変わらず春風駘蕩 (たいとう)、温情溢れんばかりの、
重厚味ある将軍だった。

陸軍大学校幹事という要職を経て以来、
ますますそれに貫禄がついてきたという感じが深い。》



つづく

戦略的互恵関係を堅持・発展させよう!

投稿者: ghostfarmsumwriter 投稿日時: 2010/10/14 12:34 投稿番号: [603 / 2250]
①中国人の中にも、タカ派、ハト派、中立派がいます。中国のネット投稿者
  にはタカ派が多いようですが、ハト派や中立派がいることを忘れないで
  おきましょう。

②ハト派や中立派はタカ派の日本人が過去の反省を忘れ、侵略戦争による
  中国及び中国人の痛みを逆なですることを残念に思っています。

③「戦略的互恵関係」を堅持・発展させることが日本(人)と中国(人)
  にとって、国益に適うものであると思います。日中間の対立は米国に
  とって国益となるのですから。

関東軍の説得3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/13 18:34 投稿番号: [602 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
252〜254p

《 私が北京方面の軍事情勢を説明すると、連隊長は黙々としてそれに耳を傾けた。
不拡大の精神、特に北京城攻撃回避のことに就いて説明すると、連隊長は

「よくわかりました。それは天津軍の方針なんですね。
関東軍には関東軍としての方針があり立場がありますから、

一にその方針に基いて行動します。
まあ君のご意見も一応の参考として承っておきましょう」



  −   なるほど連隊長は旅団長の命令には絶対服従すべきであり、
勝手な行動をとる事は許されぬかも知れぬ。

しかし私が、千言万語を費して述べた重大方針を、一応の参考くらいに軽視されたのでは、
この忙しい最中、わざわざ懐柔くんだりまでやって来た意味がない。

事によるとこの説得は、秦徳純を説き伏せる以上、骨が折れるかもわからない。
よしっ、それならばそれで考えがある。

これはジワリジワリ、溺手 (からめて) の方から説明を継続し、必ずこの連隊長を
懐柔してやろう。そうしない事には私の任務が達成されやしない。   −



ちょうどその時である。副官が連隊長室に入って来た。
「ただいま北京特務機関の補佐官が、懐柔に来ておられる事を旅団司令部に報告しました。

そしたら旅団長閣下は、補佐官を大変によくご存知だそうで、閣下ご自身電話口に
お出になり、補佐官にすぐ、古北口まで足を伸ばすよう伝えて欲しい。

北京方面の情勢について、直接お話もうかがいたいし、
お尋ねしたい事も沢山あるから、との事でございました」

私は最初、日帰りのつもりでここまでやって来たのであるが、
連隊長に対する説得が停頓している現在、

これは一層のこと、旅団長に説明した方がより以上効果的だと考えた。
ことに鈴木重康中将は、かつて静岡で隊付時代、

目をかけていただいた間柄であり、また最も畏敬している上官でもあった。
将軍なら不拡大の真意も十分わかってもらえるに違いない。



さらに酒井鎬次機械化兵団司令部も、いま、古北口に来合せていると聞いて、
これはもう、日帰り案なんか捨てて足を伸ばさなければいかん、と決心した。

携えて行った沢山の資料は、ことごとく麦倉連隊の副官にことずけ、
旅団長の指示に基いて分配して欲しいと依頼した。

私は午後一時、懐柔を出発、車を古北口に向けて走らせた。密雲を過ぎ穆家峪に
差しかかると、前から戦車と装甲自動車の大集団が、続々南下して来るのに出会った。

シッカリ偽装網をかぶっているが、車体はおびただしい埃を浴び、
兵の大半はその車の上で、他愛もなく睡りこくっていた。

これが公主嶺からやって来たという、酒井機械化兵団、長谷川美代次大佐の部隊だった。
道幅が狭いので車のすれ違いが出来ない。

私は車を道路協に留め、小高い丘の上に立って、よく子供がするように一輌二輌と
装甲自動車を数え始めた。しかし百輌二百輌という数になると、

もう馬鹿らしく、数えきれるものではない。
私は青草の上に、身を投げ出した。》


つづく
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)