入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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7月29日 通州虐殺事件2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/28 18:42 投稿番号: [681 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
381〜383p
《 一通り掠奪が終ると、保安隊は私に、「起てッ!」
と荒々しい怒声。
私はほとんど追いまくられるようにして北門内の銃殺場、女子師範学堂に
引っ張られて行きました。そこにはすでに、
私より先に捕まえられた二十人あまりの内、鮮人が来ておりました。
みんな蒼ざめた、そして髪ふり乱した顔に、沈痛の色を漂わしております。
まだうら若い朝鮮の女性が、荒縄でグルグル巻きに縛られたまま、
保安隊から銃の台尻で、骨も砕けんばかりにヒドくたたかれ、
ヒーヒー叫び声をあげている姿を目撃しました。
いったいあの女性に何の罪咎 (つみとが) があるというのでしょう。
いや、これは決して他人事ではない、やがては間もなく私の身にも降りかかって
来るのだと思った時、もうジッと正視している事が出来ないで、
下を向いたまま目をつぶってしまいました。
私の脳裏にはまず洋子の姿が映じて参りました。満洲夫の叫び声が聞えて参りました。
−
そうだ。私は早く帰って、満洲夫を助け出してやらなければならない
−。
私は眼を開きました。そしてあたりを見回しますと、監視兵の姿が見えません。
私は立ち上りました。そしてまっしぐらに町の方にとび出しました。
もう傷の痛さも仕返しの怖ろしさも、何も考えませんでした。
土塀の間を縫って、グネグネした小路をたどって、どこをどう走ったかも、
全然記憶に残っておりません。
やがて私が目ぬき通りを横切ろうとした時、保安隊の幹部が三人、馬に乗って
走って来るのに出会いました。私はもうこれで、お終いだと観念しました。
ところが彼等は、別に馬の速度を落すような様子もなく、
それでも何度も何度も振り返り、私の方を眺めながら行き過ぎました。
恐らく頭から一杯浴びた洋子の血汐と肉片を見て、大変な重傷だ、
放っておいても間もなく死ぬだろうぐらいに思ったのかも知れません。
私が家にたどりつくと、主人は家の前で敵弾に当って、すでにこと切れておりました。
満洲夫は私が曳 (ひ) かれた後を慕って、追いかけたのでしょう。
その方向に腹這い寄ったまま、出血多量でなくなっておりました。
家の中に入って見ると、もう床板一枚無いまでにひどい掠奪をうけているのです。
この掠奪は、保安隊だけがやったのではなく、近所の住民がこのドサグサに便乗し、
何から何まで運び去っていった事は明瞭でした。
彼等はそれから後も、まだ何か残ってやしないかと入れ代り立ち代りやって
来ますので、私はその都度、今度こそは今度こそはと覚悟を決めておりました。
・・・
お昼ごろ、どこからともなく飛行機の爆音が聞えて参りました。日本軍の飛行機です。
私はこの時程嬉しい思いをした事はありませんでした。
覚えず庭にとび出して、今まで大事に大事に懐に納めておりました
日の丸の旗を取り出しまして、力一杯振り回しました。
−
日本人がここにおりますよ!
−
叫びたい気持で一杯でした。
でも付近には保安隊がまだまだ沢山います。
見つかったが最後、一たまりもなく殺されてしまいますので、
振っては家の中に駆け込み、またとび出しては振る
そうした努力は致しましたけれど、飛行機にはそれが通じたのか通じなかったのか、
やがて北の方へ飛び去って行ってしまいました。
・・・
ともかくここを脱出しよう。・・・
と思いつきました。
その手段として中国人のようにスッカリ断髪してしまい、
汚れた中国服を身にまといまして、脱出の機会をうかがいました。
我が爆撃のお陰で保安隊もスッカリ退散してしまい、三十日には日本の兵隊さんが
私達を救い出しに来て下さいましたので、どうやら命だけは助かる事が出来ました。》
つづく
これは メッセージ 680 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州虐殺事件1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/27 18:43 投稿番号: [680 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
379〜380p
浜田巡査部長一家の惨劇
《 反乱保安隊は、日本守備隊を包囲し、日本特務機関を襲ったばかりでなく、
更に日本居留民の家を一軒残らず襲撃した。
そして破壊、掠奪、暴行、殺戮、およそ残虐の限りをつくしたのである。
通州邦人大虐殺の報が伝わると、日本国民の血は、にわかに逆流し始めた。
−
中国をたたけ!
蒋政権を倒せ、通州殉難二百の仇を報ずるまでは、
断じて戦の矛 (ほこ) を収めるべからず
−
世諭はごうごうとして、日本全土を風靡 (ふうび) した。
彼等保安隊の残忍さについて守備隊に避難して来た数名の人々から、
当時の実情を聴いてみよう。
領事館警察巡査部長、浜田末喜氏夫人静江さんは、その日の惨禍におびえながら語った。
二十八日の晩、主人は当直勤務でしたので、私は五歳の満洲夫 (ますお) と
二歳の洋子を抱いて家で寝ておりました。
すると夜中の三時すぎ、表の方で火事が起ったのか、
ガラス戸がパーッと明るくなって参りました。
私はとび起きて外をみると、冀東保安隊が前の家を毀し、火を放っていました。
銃剣や抜身の大刀が、ギラギラその火に光っていました。
「大変だ!」
私はとっさに子供二人を両腕にかかえ、
押し入れの中にかくれて頭から蒲団をかぶりました。
ところが今度は裏口の方から、急にバリバリ音が聞え出しました。
二、三十名の保安隊が塀をたたき壊して私の家にとび込んで来たのです。
時計がちょうど四時を打っていました。
私はあまりの怖ろしさに、シッカリ両腕の子供を抱きしめました。
満洲夫の方はそれでももう、いくから恐怖心があると見えまして、
ジーッと息を殺して私にしがみついていましたが、洋子はまだ何の判別も
ありませんので窮屈なあまり、とうとう目を覚して泣き出してしまいました。
で、これを黙らせようと思いまして、私は乳房を含ませましたが、
この時はすでに、敵にさとられた後だったのです。
ドカーン、たちまち一発、手榴弾がたたきつけられ、左手に抱いていた洋子を粉砕、
その生温い血潮と肉片とは、私の頭から顔一面にベットリかかってしまいました。
一方満洲夫はこの手榴弾のために、股の肉をゴッソリそぎ取られ、
苦しさのあまりヒーヒー泣き叫んでおります。
保安隊の一人はツカツカ私のそばに進んで来まして、いきなり銃剣でもってグサリ!
私の右腋 (わき) の下を突き刺しました。
私がよろめくところをさらに靴で蹴り上げ、私の髪を鷲掴 (わしづか) みにすると、
ズルズル引きずって表の方に引っ張り出しました。
「お母ちゃん!痛いよう!
お母ちゃん」
満洲夫の声が、彼の方から聞えて来ます。
しかしその時の私は、一目その満洲夫を振り返ってやる事さえも出来なかったのです。
保安隊は手当り次第掠奪を働き、倒れている私から、血のついた帯まで
外して持って行く始末です。やがて夜は次第に明け放れて来ました。
平常顔見知りの近所の中国人がだんだん集って来て、このありさまをジーッと
冷たい眼で眺めているのが、本当に口惜しゅうございました。》
つづく
これは メッセージ 679 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州守備隊襲撃される5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/26 15:36 投稿番号: [679 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
51〜53p
《 襲撃は、まず特務機関、警察分署、旅館、出張所、食堂、民家、
次いで守備隊など、日本人の所在地にたいして、いっせいにおこなわれた。
特務機関には、軍人は機関長細木繁中佐と補佐官甲斐厚少佐の二人だけで、
ほかに機関員九人、給仕二人がいた。
この夜は、機関長細木中佐は官舎で就寝し、武道場には
『恵通航空公司』
連絡員緒方一策が宿泊していた。
攻撃してきた保安隊は、小銃、機銃を乱射し、青竜刀をふりかざし、
あっという間に建物を包囲した。
特務機関の武器は拳銃、小銃、軽機関銃、手榴弾である。
甲斐少佐は、自鉢巻をし、ワイシャツの袖をまくりあげ、拳銃と軍刀をもって
応戦の指揮をとり、軍人でない機関員たちも思い思いに武器をとって戦った。
だが、保安隊は四方から射弾を集中するだけでなく、
屋根にのぼり、瓦をはがして内部を射つ。
甲斐少佐と機関員四人は応接室に追いこまれ少佐が六発の弾丸をうけて
斃 (たお) れると、他の四人も次々に死傷した。
残る六人と〝宿泊人〟緒方一策は、情報室にたてこもって応戦した。
機関長細木中佐は、異変を知ると、さっそく自動車で
「冀東防共自治政府」
に
むかったが、門前で約一個中隊の保安隊に阻止された。
じつは、政府庁舎はすでに保安隊におそわれ、日本人顧問三人と経済調査員として
赴任したばかりの柘植大学二年生亀井実が惨殺されていた。
ただし、襲撃はこの日本人四人だけに限られ、
政府主席殷汝耕の部屋には一兵もはいらなかった。
細木中佐は、知らない。
車をおり、指揮官らしい保安隊員に近づいたが、とたんに銃声がひびき、
胸部に拳銃弾をうけてよろめく中佐の頭上に、青竜刀がふりおろされた。
グシッーという異音とともに、中佐の頭部が断裁され、噴出する血をさけて
飛びのく保安隊の前に、即死した中佐の身体が棒倒しにたおれた。
特務機関では、情報室での攻防がつづいていたが、一人が頭部を射たれて
斃れたあと、片隅のガソリン罐が被弾して火災が発生した。
情報室には暗号書その他の機密書類があるので、
危急の場合の焼却用にガソリンが常備されていたのである。
火災発生は、書類焼却という緊急措置にかなったわけだが、
機関員たちはそれと気づく余裕もなく、また一人が斃されながら、
隣接する風呂場に退避したのち、脱出した。》
つづく
これは メッセージ 678 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州守備隊襲撃される4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/25 15:42 投稿番号: [678 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
376〜377p
《 深更一時半、敵襲に備え、まんじりともせず待機の姿勢を保ち続けていたとき、
あわただしく、辻村中佐の部屋の扉をたたいた。
「司令官殿、電報が参りました。河辺旅団司令部からであります」
中佐は懐中電燈の光を頼りに電文を拾い読んだ。
「救援のため、萱島部隊主力を、直ちに貴地に派遣す。守備隊はあくまで、
現位置を固守しあるべし」
二十何通目かの無電が、ようやく通じたのだった。
救援隊が来る
−
の報は、たちまちの中に全兵員に伝えられた。
守備隊、自動車隊のつわもの達は、前途の曙光を見出して元気百倍した。
闇の中から自動車のエンジンの音が聞えてくる。いよいよ敵襲か。
兵は沈黙して耳をそばだてた。二、三の兵が銃を片手に、入口の方にとび出して行った。
まさしくトラックが一台、ヘッドライトをギラギラさせて、
しきりに兵舎の入り口を捜し求めている。
監視兵が
「止れッ、だれかッ」
と叫んだ。
「日本軍だあ、熱河から来た機械化兵団だあ」
そう言いながら自動車からとび降りた日本兵三名、
将校が先頭に立って入り口の方に歩き始めた。
この将校は関東軍の酒井機械化兵団司令部付の大島修理輜重兵大尉だった。
大尉は右腕を負傷しているとみえて、軍服には血潮が点々、滴 (したた) っていた。
大尉は辻村中佐に答えた。それによると順義に駐屯し、
酒井兵団の残置物件を監視していたが、昨日、突然反乱保安隊が襲撃して来た。
直ちにこれに応戦し、辛うじてこの方面に血路を切り開いてきた。
したがって通州でも保安隊が反乱を起した事は知らなかったという。
「ここに来られる途中、保安隊にはぶつかりませんでしたか」
と辻村中佐が聞くと
「今さき、この通州に入りがけ、あれは多分北門でしょうか、
城外で大勢の保安隊にぶつかったんです。
暗闇の中で制止を食いまして、こりゃあいかんと思ったもんですから、
遮二無二スピードを出して突破しちゃったんです。後の方から射撃してましたけれど」
「敵の兵力は」
「そう百名か二百くらい、道路脇に固まって休んでいました。
何しろ暗かったのと急いでおったのとで、はっきりした事はわかりませんでした。
それから城門の外に、野砲四門と弾薬が多数、放ったらかしたままになっていました」
「時に順義の戦闘で死傷者は出ませんでしたか」
「一緒にこちらに運んで来ていますが、戦死十一名、負傷は私の他に兵一名、
それから無傷の者がこの萩原曹長をふくめて十名です」
辻村中佐は明け方近く、ペンを走らせて河辺旅団長に宛て、電報報告をしたためた。
「冀東保安隊は二十九日夜は攻撃し来らず。目下なお城北、教導総隊付近に集結しあり。
兵力砲兵一中隊、歩騎工合計二千を下らず、萱島部隊は未だ到着しあらず。
我が方の損害、戦死将校二、兵十八、負傷将校一、下士官一、兵十一、
計三十三名、軍医及び衛生材料至急手配せられたし
辻村部隊長」
外には七月三十日の陽光が、鈍い光を営庭一杯に投げかけているところだった。》
つづく
これは メッセージ 677 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州守備隊襲撃される3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/24 18:39 投稿番号: [677 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
374〜376p
《 通信兵は今朝から、無電のキーをたたき続けた。だが午後になっても、
どこからも応答がない。辻村中佐は、最後の肚を決めなければならなかった。
中佐は弾雨の中で、香月軍司令官に宛てた二通の報告書を認ためた。
そして守備隊雇傭の中国人通訳を呼んで俺が戦死したらお前はここを脱出し、
この報告書を、たとい幾日かかっても構わない。どんな方法をとっても差し支えない。
必ず軍司令官閣下にお届けしてくれと分厚い封筒を手渡した。
−
細木中佐の特務機関は街中に孤立していたが、今ごろいったいどんな風になって
いるだろう?
それにもまして、三百の居留民は果してみんな無事でいるだろうか
−。
だが守備隊は千数百名の敵を相手に、自分達を守っていくだけで精一杯なのである。
陽はまだ高かった。大陸の灼熱が、頭の真上からジリジリ照りつけていた。
今朝から息つく暇もない十時間余の激戦に、兵は疲れ切っていた。
気力だけが戦闘を持ちこたえているのだ。
銃眼に噛りついたまま、うつろな眼で、失神せんばかりの初年兵さえいる。
今日はまだ、朝飯も昼飯も水一滴も咽喉 (のど) を通していなかったのだ。
危険をおかして倉庫に弾薬を取りに行った二年兵が帰って来た。
彼は乾麺包とサイダーを両脇に抱え込み、敵弾を冒して戻って来た。
兵たちは小さな一包の乾麺包と、生ぬるいサイダー一本に喜色満面、
全員射撃の合い間合い間に乾麺包を貪り食い、
サイダーを喇叭 (ラッパ) 飲みして、空腹と渇とをいやすのだった。
弾薬の爆発は四時間の間、ひっきりなしに打ち続いた。
そして十七輛全部が爆発し終ると、午後の四時ごろ、ようやく下火になってきた。
だがまだ、そのあたりの材木や莚 (むしろ) などがブスブス音を立てていぶっていた。
−
戦場に静けさが帰った。
どこからともなく爆音が聞えて来る。
白い入道雲の右上に一機、二機、三機、四機……十機。この編隊は、
熱河承徳の飛行場に在る、中富秀夫大佐の隷下の、戦爆連合の三編隊だった。
飯島飛行士から詳細な報告を聞いて、通州事件の勃発を知った大佐は、
独断十機に対して出動を命じたのである。
機影は見る見る中に大きくなり、爆音も高らかに通州上空を遊弋し始めた。
先頭を行く指揮官機からパッと白い煙が流れた。
信号拳銃だ。
−
敵の位置を示せ
−
敵は遮蔽物の下に影をひそめ、
息を殺しているのだから、上空からは全くその姿が見えないらしい。
辻村中佐は兵に命じ、兵器手入れ用の長い晒布(さらし)を持って来させ、屋上に布いた。
そして弾薬箱や雨樋などでにわか造りの矢印を形造し、
帽子を振って敵主力のいる東北方を指し示した。
−
了解
−、機は両翼を大きく.ハングした。機はぐんぐん下降した。
爆撃の嵐、逃げ惑う保安隊の頭上には爆弾が雨と降りそそいだ。
一瞬にして主客顛倒し敵は、蒼惶囲みを解いて遠く城外に敗退して行った。
地上救援部隊の到着は依然予期できないが、
しかし守備隊はこの時漸 (ようや) く生気を取り戻したのだった。
辻村中佐はこの機会を利用し、各隊長を集め、夜間配備に関する要旨命令を下達した。
倉庫に貯蔵されてあった米俵、麦俵、兵室の藁(わら)蒲団までが
土嚢代りに兵舎の入り口に積み上げられた。
兵全員が急造のバリケートづくりに努力している折り、営庭の彼方から
五名の朝鮮婦人が柵を乗り越え、髪振り乱し、駆け込んで来た。
「助けて、助けて」
やっとそれだけいうと、あたりはばからず泣き崩れてしまった。
この五人を通じ、初めて通州邦人大虐殺の概貌 (がいぼう) が、
守備隊に伝えられたのである。》
つづく
これは メッセージ 676 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州守備隊襲撃される2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/23 15:56 投稿番号: [676 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
373〜374p
《 敵は午前九時、守備隊東北方二、三百メートル、満州電電会社の高い建物を占領し、
脚下の広場に野砲四門を据えつけ始めた。
命中精度は次第によくなって、弾は守備隊中央の煙突を吹き飛ばし、
また本部東面、煉瓦造りの兵舎の一角を粉砕した。
当時守備隊の装備は、軽機関銃と小銃、それに手榴弾があるだけで、重火器は何も
持っていない。遥かに装備優秀な保安隊に対して、もう手も足も出せない実情であった。
山田自動車隊の木造兵舎は、二十発の流弾をたたき込まれ、全壊に近い状態だった。
山田中隊長のすぐ眼の前で、軽機関銃を操作中だった堀尾英一上等兵に、
野砲の弾丸が命中して、一瞬に影も形もなくなった。あおりを食って、
中隊長は横の壁にたたきつけられたが、幸い擦 (かす) り傷一つ負わなかった。
営庭の東南角に二千五百缶のガソリンが、うず高く積み重ねられてあった。
午前十一時、敵の砲弾が一発、その真っただ中で炸裂した。
物凄い爆発音もろ共、火焔は天に沖 (ちゅう) して巻き上り、黒煙は地上数百メートルの
高さに立ちこめて、城内一帯夕暮のような薄闇の中に包まれてしまった。
敵も味方も暫らくの間、視界が完全に閉ざされてしまった。敵はこの爆発が
余りにも凄まじかったため、それに気をとられて砲撃を止めてしまった。
このとき、日本軍の飛行機一機が、にわかに立ち登ったこのおびただしい黒煙を
いぶかって、東南の空から通州の街に近づいて来た。
将兵は飛行隊の救援だと雀躍乱舞した。
この飛行機は、
鈴木混成旅団に配属されたプスモス機で、操縦は満州航空の飯島飛行士。
つまり七月十六日朝、私を古北口から通州まで運んでくれたあの飛行機だったのである。
機は下げ舵をとって高度五、六百メートルまで舞い降りて来た。
そして通州の上空を数回、輪を描いて偵察していたが、やがてアッサリ機首を
北に向け、熱河の空指して飛び去って行ってしまった。
一時間ばかり沈黙していた敵の砲は、思い出したように再び砲撃を始めだした。
いったい、砲撃というのは、遠距離からする場合は、ヒュルヒュルヒュルドカーン、
という音がして、勇ましい戦場気分を盛り立てるが、今、保安隊が射ってくる
ゼロ距離射撃とは、発射音と炸裂音とが全く同時である。
ダダーン、と射ったが最後、建物が活発に三センチばかりも水平動を起し、
鼓膜は突き貫かれたようにキーンとして、
呼吸が一時、吸い込んだままで止まってしまう。そこへ煉瓦の破片、土くれや
木片が、頭の上からバラバラッと覆いかぶさるように降ってくるのだ。
その近距離射撃がこんどは弾薬を満載したトラックの一台に命中して火災を起した。
銃砲弾はつぎからつぎへと自爆を起して、万雷の一時に落ちるような大音響である。
砲弾の破片がうなりを生じて四周に飛散する。》
つづく
これは メッセージ 675 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州守備隊襲撃される1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/22 18:39 投稿番号: [675 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
372〜373p
《 二十九日、あけ方四時、銃声が響いた。辻村中佐は夢をさまされた。
続いて五、六発の銃声。南の方、営庭のかなたからである。
−
新南門には六名の我が監視兵と、保安隊の一部が警戒のため出ていたはずだ。
何か間違いでも起したのかも知れぬ
−
中佐は軍服に身づくろいした。部屋の扉が激しくたたかれた。
中国兵の襲撃を知らせる守備隊長藤尾心一中尉の緊張した声だ。
営舎の廊下をあわただしく、靴音が乱れとんでいる。
中佐は、一昨日萱島部隊によって潰走させられた傅鴻恩部隊の反撃に違いない
と判断し、守備隊長と屋上に駆け上り、闇をすかして見ると、
営庭の周囲はすでに、蟻の這い出る隙もないまでに包囲されている。
敵兵は怪しい叫び声をあげて右往左往する。兵力は千名を下らず、とても傅鴻恩の
一ケ営くらいのものではない。二十九軍の増援部隊か、敵の実体が一向に掴めなかった。
中佐はこの時、守備地区高級先任者として、藤尾、山田の両隊を統轄指揮し、
直ちに戦闘部署を下命した。そして南半部を藤尾小隊、北半部を山田中隊に割り当てた。
営舎の屋上と営庭とには、我が防禦陣が布かれ、戦闘員たると非戦闘員たるとを問わず、
日本人と名のつく者は、一人残らず銃を執って起ち上り、
彼等の猛射に対して捨て身の応戦を試みる事となった。
二十六日の夜以来、この守備隊の北側兵舎に泊っていた山田自動車中隊の五十名は、
これから弾薬輸送に出発しようと脚絆を巻いている、
ちょうどその時銃声が始まったのである。
中隊長山田正大尉はさらに矢継ぎ早に、郡司准尉は西正面の故に、
望月少尉は東正面、望楼と衛兵所北側の突角は大塚上等兵が分隊を率いて
守備せよと命令した。
杉山分隊と堀尾分隊は予備隊として大尉のそばに置いたが、銃声はいよいよ激しくなり、
西正面からは敵兵突撃の「殺 (シャー)!」という喊声 (かんせい) さえも聞えてくる。
この時郡司准尉から山田大尉へ敵は二十九軍ではなくて、
冀東の保安隊であると最初の敵情がもたらされてきた。
南正面の敵は、続々守備隊営庭に入り込んで来た。
本部屋上の軽機関銃は、これに対して猛然火を吐いた。
敵はすでに本部兵舎の三、四十メートルの近距離に攻め寄せて来ている。
敵味方は兵舎の上と下で激しく射ち合った。戦闘はすでに完全な肉迫戦となって、
手榴弾の爆声が、兵舎の彼方でも此方でも盛んに起っていた。
辻村司令官と藤尾守備隊長とは、本部屋上で戦闘を指揮していた。
硝煙のにおいが鼻を衝いて流れてくる。
守備隊長は拳銃に弾丸を込めると、辻村中佐の方を振り返っていった。
「今、通信所に行って見て来たんですが、有線はスッカリ切られて全く使えません。
全力を挙げて無線に連絡をとらせているんですが、まだどこからも応答はありません」
味方に負傷者が出はじめた。
藤尾中尉は、その時兵営の外側に沿って、駈け歩で移動中の新しい敵部隊を発見した。
一歩乗り出し双眼鏡を眼にあてた瞬間、一弾が、中尉の胸板を射ち貫いた。
屋上、屋外の銃声、爆声は一しきり激しさを加えてきた。
辻村隊長の傍らにあった指揮班の兵が中尉の遺骸を隊長室に運んだ。
そして訣 (わか) れの敬礼を行なうと銃をとりあげ、
一散に元の持場に走り去って行った。》
つづく
これは メッセージ 673 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南京大嘘記念館
投稿者: miumumin 投稿日時: 2010/12/22 14:37 投稿番号: [674 / 2250]
議論も何も・・・中共のプロパガンダってだけ。シナ人が嘘をつくのはシナ人だから。南京虐殺なんて信じるバカは少数派。
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7月28〜29日 宋哲元の撤退と蜂起指令
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/21 18:44 投稿番号: [673 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
48〜51p
《 宋哲元は、緊急幹部会議をひらき、 「堅守北京」
か、それとも
「退守保定」
かの選択を協議した。
蒋介石の命令を守って北京で戦いぬくべきだとの意見と、北京の
「文化」
と
「古城」 を灰燼にすべきではないとの主張が対立したが、宋哲元は
「退却」
を決断した。
宋哲元は、自身の第二十九軍長以外の職務である冀察政務委員会委員長、
冀察綏靖公署主任、また副軍長秦徳純の兼職の北京市長を
第三十八師長張自忠に代理させることにし、午後十時すぎ、
乗用車で北京・西直門から保定にむかい南下した。
退去は日本側にも事前通告していたが、それにしても、蒋介石に
「固守」
を誓言してから、わずか二十四時間余の北京放棄である。
「歴代古都、竟淪犬豕矣!
悲痛何如!」
(歴代の古都がついに犬、ブタの徒に汚されるのか、なんと悲しいことか)
蒋介石は、宋哲元の退去を知ると、そう日誌に記述して嘆息したが、
同時に、軍費
「五十万元」
をおくる旨を宋哲元に打電した。
南苑での敗戦と照合すれば、北京の固守はすでに非現実的であり、このさいは、
むしろ、宋哲元を鼓舞して戦意を強化させるのが得策と判断されたからである。
だが、
宋哲元も、戦意を失っていたわけではなかった。
退却を決断したあと、宋哲元は、なお日本軍の北京占領を牽制する手段として、
通州と天津に分駐する冀東保安隊と第三十八師の一部に 〝蜂起〟 を指令していたのである。
指令は、実行された。
七月二十九日午前二時すぎ、天津の第三十八師副師長李文田は、
天津市府秘書長馬彦○(羽+中) とともに約五千人の兵力で天津車站(駅)、
東機器局、飛行場、日本租界、支那駐屯軍司令部などを襲撃した。
しかし、保安隊が参加しなかったこともあって、いずれも撃退された。
通州の場合は、しかし、事情が相違していた。
通州には、中国軍部隊として、独立第三十九旅第七一七団第一営 (傅鴻恩) が、
郊外に駐屯していたが、二十七日、支那駐屯軍歩兵第二連隊主力の攻撃をうけて、退却した。
第二連隊は、前述したように南苑攻撃に参加するが、その前に通州の安全を
確保するために中国側の武装解除をもとめ、拒否されたので
「撃攘」
したのである。
これで、通州は
「無事の街」
になったとみなされた。
通州は、親日政権
「冀東防共自治政府」
の所在地であり、
四個総隊と教導総隊から成る冀東保安隊のうち、
第一、第二総隊および教導総隊約三千人が駐留している。
第三、第四総隊は天津に分駐していたが、宋哲元の 〝蜂起〟 指令に背をむけた。
通州の保安隊も同様に親日心に富むものとみなされ、しかも、野砲を持つ強力な
存在なので、第二連隊が南苑にむかったあとも、警備能力は十分だと考えられたからである。
ところが、実際には、第一総隊長兼教導総隊長張慶餘、第二総隊長張硯田は、
既述したように、ひそかに宋哲元に服従している。
しかも、保安隊員のほとんどは血気にはやる十八〜二十歳の青年であり、南苑
戦闘にかんしては、中国側が勝ったとのラジオ、新聞の逆宣伝を信じて興奮していた。
それだけに、宋哲元の 〝蜂起〟 指令をうけると、文字どおりに
「武者ぶるい」
して蹶起 (けっき) した。》
つづく
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7月29日 城門に日章旗を掲げる中国人
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/20 18:48 投稿番号: [672 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
361〜362p
《 二十九日午前四時、北京市政府秘書鄭文軒から特務機関に電話がかかってきた。
「北京城内に在った二十九軍は、百三十二師の一部を除いて全部の撤退を完了しました。
・・・・
街中の土嚢は、この前一度、宋哲元が撤去させた事があったけれど、
いつの間にかまた元通り、積み上げられていた。それも午前中には
ことごとく取り除かれて、北京の街や胡同が、急に広々した明るい感じに変ってきた。
兵営の近くに行って見ると、真新しい灰色の軍衣が、あちらにもこちらにも、
点々脱ぎ捨てられてある。あたりの民衆にそのわけを聞いてみると、
彼等は服を脱ぐ真似、走る真似を身振りおかしくやって
「他們換了衣服都 (ターメンホヮンライフートー) 併命的パオ了(ピンミンデパオラ)」
彼等は皆服を脱ぎ捨て、命がけで逃げ出してしまったというのである。
路傍には、安全栓を抜いたままの手榴弾がまだゴロゴロところがっていた。
物騒な事おびただしい。民衆の感想を聞いてみると
「これで戦争は終ったんだ。
また今まで通り、あの懐かしい京劇が見られるのが一番うれしい」
と実に天真爛渡である。
宋哲元と一緒に都落ちした要人の家々には、この日から戸毎に英、米、独、伊、
あるいはフランスの国旗がへんぽんとひるがえるようになった。
いうまでもなく、これは自分の財産が、敵産として差し押えられぬよう、
にわかづくりのカモフラージュである事がうなずかれた。
午前九時半、突然、大使館から電話がかかってきた。
「今、哈達門 (ハーターメン) に大日章旗が翻っているんですよ。
あんな所を占領すると、外交団から文句をいってきやしないかと思って、
警備隊に連絡してみたんです。そしたら警備隊からは一兵も出していない
というご返事なんです。特務機関の方で何かお心当りはございませんか」
「サア、全然知りませんね」
「すると憲兵隊の方でしょうか知ら」
「とにかくまずい事をやったもんですね。私早速赤藤分隊長に聞いてみて上げましょう」
憲兵隊に連絡すると、分隊長もまったく知らなかった。
「今からすぐ、現場に兵をやって調べさせてみましょう」
との事だった。
憲兵が二人、哈達門 (ハーターメン) 吟噴門に駆け上って行って見ると、
楼門には敷布ほどもある大きな日の丸が掲げられ、その下に中国人が
二人しゃがんで満面の笑みをたたえている。
国旗はこの二人が掲げたものと判明した。
彼等の真意はわからないが、表面的には日本軍歓迎の意を表わそうと、
白布に赤インクで、にわかづくりにこしらえたもので、
その日の丸の形たるや丸だか六角だかわかりやしない。憲兵は、ともかくも
「謝々 (シェーシェー)、辛苦辛苦 (シンクーシンクー)」
と銅子児 (トンズル) 若干を
与えその旗を引きおろし、参考のため大使館に送り届けた。万一外交団から
文句が出たら、実物を見せて説明するのが一番の早わかりだと思ったからである。》
つづく
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7月28日 宋哲元の北京脱出
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/19 16:13 投稿番号: [671 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
359〜360p
《「桜井は殺しても死なんような頑丈な体格だから、まあ大丈夫だとは思うが、
僕も一遍見舞に行ってやろう」
と機関長がいった。
その時、中島顧問と笠井顧問とが、ドヤドヤ大応接室にとび込んで来た。
今、進徳社から電話がかかって来て武田嘱託が聞いているが、
二十九軍の撤退に関する事らしいという。
そこへ武田嘱託が入って来た。
「ただいま進徳社から電話がありました。宋哲元は決心を変更し、
北京城内には百三十二師の二ヶ団だけを留め、
宋軍長、秦徳純副軍長以下二十九軍全部、今夜十一時阜城門経由、
門頭溝を追って永定河右岸に撤退することになりました……」
「宋哲元自身も撤退する?」
「ついてはその時刻に、阜城門のところで顧問かだれか、日本側から人を派遣して
いただいて、二十九軍の撤退情況を確認していただきたい、というんです」
「そういう事になったのか。すぐ今井武官に電話して、
ご苦労だがもう一遍機関まで来てもらうよう、連絡してくれ」
武官は五分もたたないうちにやって来た。
一同は二十九軍の撤退をめぐっての対策あれこれを討議した。
その結果、撤退は、今日の総攻撃に驚いたもので突発的に計画されたもの。
撤退情況視察は、明朝市内をドライブの形で行なうことなどが決った。
二十八日夕刻における、進徳社の空気はあわただしかった。
南苑三十八師の潰滅という悲報は、首脳者達の胸に、大きな衝撃を与えた。
百三十二師長趙登禹中将戦死の報道は、彼等の心に驚愕を与えずにはおかなかった。
僅かに一縷 (る) の望みを嘱していた、特務機関斡旋の手蔓 (づる) も、
親日分子の張璧を使っての工作が日本側の峻拒 (しゅんきょ) によって
今や完全に断ち切られてしまった。ぐずぐずしていたら、自分達も
やがては趙登禹の二の舞を踏むようにならないとも限らない。
「撤退しよう。日本軍の手がまだ四周に伸びてしまわないうちに、
この北京城を脱出するんだ。今やこれ以外、我々の生きる道は見当らない」
決議がそう決まった時、二十八日の夕陽は、あたかも冀察の運命を
示唆するかのように、ようやく西山の端に傾きかけていた。
要人達はすぐさま北京脱出の支度にとりかかった。宋哲元はこの時、張自忠を
自分の部屋に呼び寄せて、いとも沈痛な態度で、冀察の後事を委嘱した。
―
張自忠は親日家である。日本側の覚えも格別目出度い方である。
だから、これを自分の代理として北京に留め、日本側との善後交渉に当らせたなら、
この間の空気をいくらかなりとも柔らげる事が出来るのではなかろうか。
―
というのが、この時の宋哲元の気持だった。
斉燮元や張允栄、張璧などの長老はじめ、たとえそれが若手であっても、
一応知日派と目されるような連中は、一律に残留組のメンバーに加えられた。
こうして華北の重鎮、宋哲元の都落ちは、急遽、かつ極秘裏に行なわれ、
憲兵司令、邵文凱 (しょうぶんがい) 中将に対してさえ、
何等それが知らされていないような有様だった。
二十八日午後十時すぎ、三台の乗用車がカーテンを深くおろしたまま、
静かに北京城西直門をすべり出た。》
つづく
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7月28日 趙登禹将軍を手厚く葬る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/18 15:32 投稿番号: [670 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
347p
《 南苑柳営に在って緊急措置を指令していた趙登禹は、日本軍の攻撃がますます
熾烈になってくるにつれ、やがて自らの身の危険を感ずるようになった。
そこで正午過ぎ、脱出すべく決心した。これから北京に引き返そう。
もし俺がここで斃 (たお) れてしまったら冷酷な秦徳純のことだ。
今後百三十二師はいったいどうなってしまうだろう。・・・
二十九軍の副軍長○(ニンベン+冬) 凌閣と、北京城内に潜行するための計画を立てた。》
348〜349p
《 自動車は八十キロのスピードで猛進して来る。
我が散兵壕はこれを前方三百メートルに近づけた後、一斉猛射を浴せかけた。
こんどは重機関銃までがこれに加わっているのだからたまらない。
トラックと乗用車は、三差路の南、わずか五十メートルのところで馬の死体に
乗り上げてしまった。二つの自動車間の距離は精々二十メートルあるかなしかだ。
我が兵は止めの射撃を浴せた。トラックからは一兵も降りて来ない。
乗用車から一人、便衣を纏った男がよろよろとはい出して来て、
道路西側の溝の中に、身体半分をのめり込ませたが、
それもそのまま動かなくなってしまった。
銃声は止んだ。あたりは元の静けさに戻った。
我が兵四、五名が.ハラバラッと壕をとび出して自動車に走り寄った。
先頭のトラックはエンジン部に蜂の巣のような弾痕を留め、
乗っていた兵は折り重なって即死していた。
二、三その中で死んだ真似をしていた者もあったが、
哀れを催したのでそのまま見逃す事にする。
兵はその後方の乗用車に近づいて行った。
自動車の扉は、蜂の巣そっくり、何百と云う弾痕が印されている。
運転手は大腿部に数発の銃創をうけ、ようやく車からはい出して来たが、
ひどい出血のため、間もなくその場でこと切れてしまった。
後部の座席には、痩身便衣の紳士が、掌を膝に置いたまま、
眠るがごとくクッションにもたれて息絶えている。
頭から足の先までにかなり銃弾を受けていた。
その脇の副官らしい男は、横窓に頭をもたせかけたままで動かなかった。
副官のポケットを探ると、第百三十二師中将師長趙登禹という名刺が沢山現れた。
背広一揃と重要信書、すなわち蒋介石主席から宋哲元に宛てた電報、
宋哲元が趙登禹に与えた命令、書簡、その他百三十二師将校の勤惰表なども
一括してクッションの上に置かれてある。
便衣の紳士が趙登禹師長であった事は、明かだった。
はるか後方に停まった後続のトラックも、兵は全員戦死、さきほど溝にのめり込んだ
便衣の男からは、二十九軍副軍長○(ニンベン+冬) 凌閣という名刺が何枚か入手された。
「趙登禹将軍陣没す」
この報は、当時不眠不休の激務に追われ通していた私に、
霹靂一声の衝動を与えた。
ただもう何とはなしに、もっとも身近な人がなくなったような
愕 (おどろ) きに私の胸は一杯だった。
趙登禹の遺骸は、中島軍事顧問の手によって丁重に収容され、戦局小康を得た
八月の初旬、北京外城先農壇の片ほとり、牡丹の名所として有名な古刹、
竜潭寺 (りゅうたんじ) に手厚く葬られる事となった。特務機関や武官室、
軍事顧問部からは幾多麗わしい生花を贈って、趙師長生前の功をたたえた。
彼の口からはもう、永遠に東亜の和平を聞く事は出来なくなってしまった。
−
しかし将軍よ、乞う意を安んじて瞑目 (めいもく) せよ。
君をもっとも苦しめた秦徳純、馮治安等はすでに北京から追い退けられ、
君は永遠にこの憧 (あこが) れの森の都、北京に骨を埋める事となったのである−
私が独語しながら、彼の墓前に注いだウイスキーの一瓶、それは和平が達成された暁、
心おきなく飲み明かそうと語った彼とのかねての約束を果すべく、
そして真の日華提携を祈念する意味である事を知る者は、
恐らく彼の霊以外、何者もなかったであろう。》
つづく
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7月28日 日本側の実力行使開始
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/17 18:44 投稿番号: [669 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
47〜48p
《
−
北京と南京、
この二つの都市は、それぞれ日本の京都と東京に対比できるであろう。
だが、北京と京都では、ともに首都の座を南京と東京にゆずって古都の地位を
たもっているとはいえ、北京は、〝遷都〟された期間がより短いだけに、
なお中国のシンボル的存在とみなされていた。
そして、いまや日中両軍の直接の衝突の場は、その北京を中心にする北支である。
蒋介石は、両国の対決気構えが明らかになった七月二十七日夕、あらためて
第二十九軍長宋哲元にたいして、 「加深壕溝、固守勿退」
と北京保持を電令した。
宋哲元も、決意のほどを強調して返電した。
「北京為華北重鎮、人心所繋……己決心固守北京……決不敢棺有畏避」
このあと、宋哲元は、翌日の夜明けに
「全面進攻」
をする旨を各部隊に指示し、
かねて
「秘密連絡」
していた親日政権である
「冀東防共自治政府」(殿汝耕)
保安隊にたいしても、 「奇襲敵後方」
せよと密令した。
−
だが、
日本側のほうが、動きはす早かった。
支那駐屯軍司令官香月清司中将は、七月二十八日午前零時、
「独自ノ行動ヲ執ル」
旨の宋哲元あて 〝開戦通告〟 を北京特務機関につたえ、
機関長松井太久郎大佐は、午前二時、北京市政府秘書朱毓真に電話で伝達した。
日本軍の攻撃目標は、中国側の第三十八師 (張自忠)、
第百三十二師 (趙登禹) の主力が駐屯する南苑にさだめられ、
事前の空襲につづいて、午前八時、攻撃前進が開始された。
第二十師団 (川岸文三郎中将) の主力である第四十旅団 (山下奉文少将) が
南方から、支那駐屯軍歩兵第二連隊 (萱島高大佐) が東の通州方向から、
第一連隊 (牟田口廉也大佐) は北西から南苑をめざした。
中国軍は圧倒され、午前十一時には、第一連隊第三大隊 (一木清直少佐) は
南苑北方約一キロに移動して、中国軍の北京への退路遮断の態勢をとる余裕ができている。
正午すぎ、第二十九軍副軍長○(ニンベン+冬) 凌閣と第百三十二師長趙登禹は、
便衣に着かえ、乗用車にかぶせた網に楊柳の枝をさしこんで偽装し、北京にむかった。
が、午後零時五十分ごろ、第一連隊第三大隊が待つ天羅荘部落で阻止され、
二人は機銃弾をあびて戦死した。》
つづく
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7月27日 通州事件の前 南京デマ放送
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/16 18:38 投稿番号: [668 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
369〜371p
《 南京の放送局といえば、満州事変以来、すぐにもう、
「ああ
あのデマ放送か」
とうなずかれるほど有名になっていたが、
これが盧溝橋事件以後、活発な宣伝を始めていた。
もっともこれも、蒋介石がこれによって自国民の志気を鼓舞し、
世論を統一し、敗戦中国を崩壊の淵に追い込まなかった効果、
それは極めて大きく評価されて然るべきであろう。
確か七月二十七日ごろと記憶するが、
北京特務機関がキャッチした南京放送ニュースは次のようにいっていた。
「日本軍は盧溝橋の戦場において、我が優勢な二十九軍と交戦の結果、
支離滅裂の敗戦に陥り、豊台と郎坊とは完全に我が手に奪還してしまった。
北京及び天津方面に在る日本居留民は、家財をまとめ、
目下陸続、満州、朝鮮乃至 (ないし)本国に向って引き揚げを急いでいるが、
今日の情勢をもって推移すれば、日本軍が我が華北一帯から、
完全に姿を消してしまうのもここ旬日を出ないであろう。
現に我が中央軍は、津浦、京漢両鉄道によって、陸続華北の戦野に兵を進めつつあり。
また蒋委員長も、今すでに河南省鄭州に達し、
一両日中には保定に赴いて自ら戦線を督励するはずである」
そして最後に
「なお、最近北京における軍事会議の結果、蒋委員長は、
近く二十九軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州を屠 (ほふ) り、
逆賊殷汝耕を血祭りにして、満州失地快復の第一声を挙げる事を決議した」
と叫んでいる。
事実、通州のような田舎に引込んでいると、
日本軍でさえとかく全般の情勢にうといのが通例である。
いわんや冀東の保安隊など、戦争はいったいどちらが勝っているのか敗けているのか、
皆目わからず、半信半疑でいたところへこうしたラジオ放送である。
彼等には放送の一言一句が、非常な魅力と迫力とをもって泌み込んで行ったのも、
うなずけないことはない。
日本軍を撃破した宋哲元がこの冀東に攻め込んで来た場合、我々の運命は
いったいどうなるのか、いつまでも殷汝耕なんかに付いているのは危険千万だ。
機先を制し、進んで殷長官を生どりにし、これを北京に持って行って宋委員長に
献上したら、きっと重賞にあずかれるに違いない。
通州に在る日本軍の兵力は、今が一番少ない時だ。事を起すなら今の中に限る。
−
こうした気持に駆り立てられた冀東の保安隊総隊長張硯田 (ちょうけんでん) 、
張慶余の両名は、それから寄り寄り反乱計画を立て始めたらしい。
かねがね冀東転覆の策士として入り込んでいた、郭鉄夫 (かくてつぶ) あたりが
この虚につけ込んで総隊長連中をたきつけたのは事実だし、
共産学生の一味がこれに合流していた事も確実である。
七月二十七日、新たに兵站司令官として通州に着任した辻村中佐は、
とりあえず事務所を通州守備隊の中に開設した。
そして二十八日、通州特務機関、冀東政府、
保安隊幹部等への挨拶回りにあわただしい一日を過し・・・。》
つづく
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7月27日 通州保安隊への誤爆事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/15 18:49 投稿番号: [667 / 2250]
これは 「663
7月26〜27日
通州事件の前段階」 のつづき
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
368〜369p
《 午前三時、中国軍からはついに回答がなく、さらに密偵の報告によると、
彼等の兵営には抗戦の気勢が横溢しており、
この夜中、兵馬のざわめきひとしおだとの事である。
すさまじい砲銃声が天地を鳴動した。膺懲戦の幕が切って落されたのである。
城壁の上から火を吐く機関銃、楊柳の木立から起る軍馬のいななき。
七月二十七日黎明四時の冷たい空気を揺り動かして、
日本軍の砲撃は四発宛、整然として撃ち続けられた。
傅鴻恩部隊抗戦の弾丸は、それこそしどろもどろ、
右の方にとんだかと思うと今度は左の方にとび散って来る。
低伸した弾丸が道路の真ん中で土くれをハネとばす。
今度は高い高い弾丸が城壁を越えて、通州城の遥か北の方まで飛んで行った。
夜はほのぼのとあけ離れ、ニブ色の陽の光が城壁を照らし始めた。
この時、戦闘に協力すべき友軍爆撃編隊が通州上空に浮び出て来た。
浮足立った中国軍の頭上に猛烈な爆弾の雨を注ぎ始めた。
兵はクモの子を散らしたように、兵営の外へとび出して行く。
それが新南門を固めていた我が軍からの、横なぐりの銃火を浴びる。
この戦闘において、我が軍は将校以下六名の戦死者と、二十六名の負傷者を生じたが、
新設連隊初陣の殊勲に、将兵の士気はあがった。
二十七日午前十一時ごろまでに、付近一帯の残敵掃蕩を完全に終り、宝通寺の
中国兵営にはもはや一兵の姿も見受けられず、戦闘目的は、完全に達成する事が出来た。
ところがこの戦闘に関連して、厄介な問題が起った。
宝通寺の兵営と境を接している冀東保安隊幹部訓練所では、
爆撃隊が対地戦闘を開始したと知るや、好奇心から隊員一同、
広い校庭にとび出して、この戦闘を見物し始めたのである。
華北の戦場に到着したのは数日前であり、通州の戦闘参加の命令をうけたのが
今日の明け方だという飛行隊は、冀東と冀察の境界線がどのようになっているのか、
保安隊訓練所がどこにあるのか、そのような細かい点はわからない。
だから今、脚下にとび出して騒いでいる冀東保安隊の姿を見た時、
二十九軍の一味に違いない、と即断したのも無理はなかった。
爆撃の雨は、この保安隊の頭上にも、浴せかけられたのである。
たちまち保安隊員の数名が重傷を負い、数名はその場に爆死した。
細木機関長はこの報を聞くと直ちに自動車をとばして、冀東政府に殷長官を訪ね、
陳謝するとともに爆死者の遺族に対しては、日本軍として、最善の方法を尽し、
負傷者に対しても同様、十二分に療養と慰藉 (いしゃ) の方法を講ずる旨を申し出た。
そして二十七日、機関長自ら現場の視察、遺族の弔慰に奔走した。
さらに翌二十八日、教導総隊幹部一同を冀東政府に招集し、
機関長は誤爆に関して説明を加え、彼等の慰撫に努めた。
そのかいあってか、保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、
表面立って爆発させる事はしなかったのである。》
つづく
これは メッセージ 663 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月27日 内地三箇師団の動員発令
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/14 18:42 投稿番号: [666 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 中公新書
163〜164p
《 廊坊現地で対峙した彼我の勢力は、中国側が圧倒的に優勢なので、
日本側は天津より増援部隊を急派するとともに、二十六日早朝七時、
空軍を動員して、廊坊の中国軍兵営を目指して爆弾を投下した。
それにひきつづいて午前十時過ぎ、再度の爆撃をも行ったため、
中国軍部隊は廊坊附近から西北方に向け逃走した。
この事件を起した中国軍隊は、かねて日本側が友軍と考えていた張自忠の
第三十八師の百十三旅二百二十六団の部隊であったので、
香月司令官は、第二十九軍全体の統制につきいよいよ不信を感じ、
二十六日午後三時、事前措置として、日本側において抗日の悪評高い馮治安の
第三十七師の部隊が、撤退を約しながら履行しない事実に鑑み、
この第三十七師の紛争多発諸区域からの撤退を強要する旨を、
第二十九軍長宋哲元に通告した。その通告の要旨は、左のとおりであった。
「……貴軍において依然事態の不拡大の意思を有するにおいては、
まず速やかに盧溝橋および八宝山附近に配置する第三十七師を明二十七日正午
までに長辛店に後退せしめ、また北平城内にある第三十七師は北平城内より撤退し、
西苑にある第三十七師の部隊とともに、まず平漢線以北の地区を経て
七月二十八日正午までに永定河以西の地区に移し、
爾後ひきつづきこれら軍隊の保定方面への輸送を開始せらるべし。
右実行を見ざるにおいては貴軍に誠意なきものと認め、
遺憾ながらわが軍は独自の行動をとるの己むなきに至るべし。」
右通告発表とともに、北平では、命により松井特務機関長は大木参謀、
寺平補佐官を伴い進徳社に赴き、宋哲元に会見を求めたが、
彼は病気と称して会見を忌避した。三時半、松井氏は宋の代表秦徳純と会見し
通告文を手交した。 泰は通告の内容を見て、その強硬さに一驚し、
一時は受理を拒んだが、結局これを受理し、同夜にいたり、
代理を松井氏のもとに急派し、日本側の要求全部を納れ、
翌二十七日朝から撤退を実行に移す旨を回答した。その回答がなされたころ、
同じ北平でほとんど同時に、広安門事件が突発したのであった。
事件は、廊坊事件と日本側の強硬通告とによって、一触即発の事態になりつつあったので、
駐屯軍では北平居留民保護に任じてきた牟田口連隊長に命じ、豊台にあった
その麾下の二箇中隊を北平兵営に帰還、増員せしめようとしたところ、二十六日午後八時、
城壁上にある中国部隊によって、やにわに小銃、機関銃の乱射を受けた事件である。》
166p
《 二十六日の深夜、香月司令官は、不拡大主義一擲 (いってき) の決意を
陸軍中央に電報したが、東京では翌二十七日午前に閣議があり、
内地三箇師団の動員案が上程され、たいした議論もなく閣議決定となり、
同夕、動員令が発令された。日本は回帰不能地点に到達してしまったのである。
駐屯軍では、同夜、深更、朝鮮軍よりの一箇師団、関東軍よりの二箇旅団をも
協力せしめるような、第二十九軍に対する総攻撃の作戦計画を決定し、
二十八日午前零時、左のごとき宋哲元軍に対する最後通牒と
北平城内からの撤退を勧告する旨の公式発表があった。》
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7月27日 桜井顧問の救出
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/13 19:37 投稿番号: [665 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
341〜343p
《 午前二時二十分、広部大隊は全員警備隊兵営に到着した。 真ッ暗な営庭の中央、
降る雨の中に立って、広部大隊長が粛然、岡村警備隊長に対して行なった申告は、
万感胸に迫って時々杜絶えた。 新聞記者連は一ケ所に寄り集って、おたがいに
「おめでとう。よく助かったな」 「いや、俺はもうあの時、とても駄目だと思ったよ」
と感激の握手を交していた。
やがて記者団が軍使一行を取り囲んだ。
毎日新聞社の本田親男特派員が私のところへ来て
「大変お世話になりました。
全く、あなた方のお陰で私達、ようやく命拾いが出来ました」
「いや、あれは決して私達の力じゃない。
みんな周参謀の努力ですよ。
弾の中へでも青竜刀の下へでも、平気でとび込んで行って、
実に手際よく日華両軍の間を調停してくれた。
今時の中国には、全くめずらしい人物ですね。
オイ、周参謀はそこらにいないかな」
「たった今までここにおりましたが、さあ今度は桜井顧問を見つけ出しに
行かなくっちゃといって、自動車の方へ歩いて行きました」
軍使一行はこうして無事、部隊救出の任務を達成した。
しかし軍事顧問桜井徳太郎少佐をはじめとして、川村、吉富、斉藤等各機関員の
姿は、依然、どこからも見出されない。
これを思うと、暗い気持に引ずり込まれて行くのだった。
「桜井さんは、私が責任をもって捜し出して来ます。たとい私は殺されても、
顧問だけは必ず助け出して日本側の手にお返し致します。
どうか一切を私にお委せ下さい」
そういって再び広安門に引き返して行った周参謀だった。
その彼は、広安門大街外四区の警察分所に到着すると、
直ぐ巡警に命じ、全員を手分けして広安門内外の捜索を始めさせた。
暁闇煙る雨の中、城門のあたりから
「桜井顧問 (インジンクーウェン)!」
「桜井顧問 (インジンクーウェン)!」
と巡警等の叫びが沈痛に響いてくる。
午前四時少し前、かねて顔見知りの巡警の一人が、
ようやく顧問の所在を広安門の真下、物置小屋で発見した。
身に数創をうけた桜井顧問は、取りあえず警察分所に担 (かつ) ぎ込まれ、
周参謀から応急の手当をうけると、そのまま自動車に運ばれて、
午前四時半、安全に特務機関に送り込まれた。脚腰立たない顧問ではあったが、
己が身の痛みは一言半句訴える事なく、厳粛な態度で
「機関長殿、川村芳男を広安門で、とうとう殺してしまいました。
まことに申し訳ございません」
ここに初めて顧問の口から、川村機関員の壮烈極まる最期の模様が報告されたのである。
機関員一同は暗然首を垂れて顧問の話に耳を傾けた。
川村の死体は殺された直後、城壁上から城外に放り落され、
城門南側、小屋の裏手に埋められてあったのを、数日の後、
和田嘱託が現場に赴いて掘り起し、丁重に荼毘に付した後、
北京本願寺で盛大に葬儀を営んだ。
張自忠、張璧、斉燮元をはじめ、日華各界の要人から贈られた花輪は堂を埋め、
香煙縷々として立ち昇る仏壇の前で、機関員連は、そぞろ凄壮を極めた広安門の
一夜に想いをめぐらし、懇 (ねんご) ろに彼の霊を弔ったのである。
部隊入城の際、城門の傍に立って開扉の責を果した吉富、斉藤両機関員は、
いよいよ交戦状態に陥ると同時に、銃火の間断を利用して城外に脱出し、
翌朝未明、苦力に変装して高梁畑の中を進み、
無事豊台の旅団司令部にたどりつく事が出来たのであった。》
つづく
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7月27日 広部大隊救出行動6
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/12 15:24 投稿番号: [664 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
339〜341p
《 その時周参謀一行が、宣武門から西単牌楼 (シータンパイロウ) の方までも
情況偵察に行って、ようやく引き返して来たところだった。
自動車からとび降りるなり、
「大丈夫です。今大通りには人ッ子一人出ていません。
今のうちに行ったら成功疑いなしです。どうか急いで出発させて下さい。
そして何ですか。桜井顧問が見えないというんですか、こりゃあ困りましたねえ。
しかし中島顧問殿、部隊の誘導は急ぎます。桜井さんの事は私に委せて下さい。
そして部隊を一刻も早く公使館区城に入れて下さい」
人情の極致、戦友を救わんがために身を危地に乗り入れようとする、
中島顧問の友情も壮であるが、一方、任務の前に決然その翻意をうながした、
笠井顧問の態度もまた、立派だった。 中島顧問はついにその決心を翻した。
そして笠井顧問等と共に、集合位置の方に歩き始めた。
午前一時、白旗を翻した軍使の自動車を先頭に、十数台の車輌部隊は、
東交民巷 (トンチャオミンシャン) の北京警備隊目ざして前進を起した。
しかしこの事輌部隊の行進は、まるで葬送行進と思われるまでに、遅々として
進まなかった。さきほどの戦闘で、車輌がさんざん痛めつけられたからである。
菜市口付近、中国側団本部のまん前あたりで
「第四号事故障!」
と後方から
どなられるたびに、一番ヒヤリとさせられるのは、誘導に任じている我々軍使の一行だった。
一台故障車が出ると、全部の部隊を停止させ、兵を他の車に分乗させ、
牽引準備が終ってから再び行進を起すのだから、
その都度、十分ぐらいは空費してしまうのだった。
しかも故障車続出なのだからたまらない。
だが、もっともおそれられた中国軍の出撃をこうむることもなく、
どうにかこうにかようやく宣武門までたどりつく事が出来た。
時計は午前一時五十分を指している。
そうだ、城外部隊の広安門攻撃を、何とか早く食い止めなくてはならぬ。
私は宣武門内の警察局派出所にとび込んで、電話で
「東局二九八」
北京
特務機関に呼びかけた。ところが、例によって
「お話中」「応答なし」
である。
私は、とっさに
「俺は二十九軍の周参謀だ。今、広安門で重大事件が勃発している。
大至急日本特務機関に交渉しなければならぬから、
応答がなかったら出るまでジャンジャン、ベルを鳴らせ」
となかば命令的に交換手に対してどなりつけた。
すると直ちに特務機関が出た。私は機関長に報告した。
「寺平です。ただいま宣武門の交番におります。
城内に入った広部大隊は全部収容して、先頭はもう宣武門まで前途し、
後尾のトラックは故障のため大分遅れておりますが、
もう間もなくここへやって来ることと思います。
ついては早速ですが城外部隊の広安門攻撃ですねえ。
あれを至急中止するよう、豊台に連絡して下さい」
「そうか。それは大成功だった。ご苦労ご苦労。では河辺旅団に対しては、
今からすぐ電話する事にしよう」
と機関長は答えた。》
つづく
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7月26〜27日 通州事件の前段階
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/11 15:00 投稿番号: [663 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
367〜368p
《 七月二十六日未明、郎坊事件が勃発し、夜、また広安門事件がひき起された。
目まぐるしいまでに矢継ぎばやの情勢の激変、ここにおいて通州特務機関は、
急遽対策を講じなければならないいくつかの問題に直面した。
その中、最も急を要するものが、常時通州新南門外宝通寺に駐屯している
二十九軍の一ヶ営、これの処理対策である。
この部隊はもともと、独立第三十九旅長阮玄武 (げんげんぶ) の隷下に属し、
歩兵少校傅鴻恩 (ふこうおん) を営長とする七百十七団の第一営だった。
傅鴻恩は年のころ三十五、六歳、がっちりしたタイプで、識見才能は
あまりない一介の武弁に過ぎなかった。
だから盧溝橋事件勃発直後、まずその身の撮り方について、
心配し始めたのもこの営長だった。
彼は腹心の密使を細木機関長のもとに派し
「万一事態拡大の暁には、
私はこの第一営を提げて、早速日本側に寝返りを打ちます」
と申し出て来た。
細木機関長はその具体的方法の取り決めに関し、わざわざ憲兵を連絡に出したけれど、
傅鴻恩は逃げを打って曖昧な態度を示す。
そして重火器を持ったまま、冀東保安隊に改編して欲しい様子を示した。
これでは、いつ冀察側に寝返るかわからず、
虎を野に放っておくようなものだと判断した機関では、二十六日夜、
傅鴻恩部隊武装解除の対策を討議し、結局、次のような通告文をつくり上げた。
通
告
盧溝橋事件勃発以来、我が軍が終始平和を冀念して行なった数次の折衝も
その効なく二十九軍は常に不信と不義とをもって我に対応し、
本日またまた郎坊方面に、重大な事態を惹起した事は甚だ遺憾とするところである。
我が軍は、現下の情勢に鑑み、貴部隊が停戦協定線上に駐屯せられる事は、
在留邦人の保全と、冀東の安寧に害がある事を認め、ここに貴軍に対し、
二十七日
午前三時までその武装を解除し、北京に向って撤退せられん事を要求する。
もし右の要求が実行に移されない場合、軍は爾後、独自の行動を出ずる事があるで
あろう。この際生ずる一切の責任は、当然貴方において負われるべき性質のものである。
なお、武装解除に応ぜられる場合、将校に限り、
日本武士道の精神に則 (のっと) り、特に刀を帯びる事を許容する。
この通告文は憲兵分駐所長足立喜代に軍曹の手を経て、営長傅鴻恩のもとに
送り届けられた。だが容易に回答なく、機関はついに攻撃の決意を固めた。
その夜深更、通州守備隊の一室で、萱島大佐、細木中佐、小山砲兵隊長、
藤尾守備隊長等による軍事会議が開かれた。
そして新南門外に駐屯する二十九軍に対しては、もはや武力に訴える外、
他に解決の策なしと一決した。萱島連隊長はその場で作戦命令を起案した。
部隊は直ちに攻撃のための部署についた。折りからの闇を縫って品部大隊は
南西城壁一帯の線にまた安岡大隊は旧南門から鉄道線路にわたる間に展開、
小山哲郎中佐の指揮する砲兵隊は、無線電信所付近に陣地進入を終り、命令一下
いつでも、中国軍の頭上に巨弾を浴せかけられるよう、万般の準備が整えられた。》
つづく
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7月26〜27日 広部大隊救出行動5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/10 18:42 投稿番号: [662 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
338〜339p
《 大隊長は各隊長を集めて、大隊の集結命令を下達した。
集合場所は自動車隊の位置。時間は即刻。そして最後に大隊長は
「幹部は兵の頭から、大隊はまだ、敵の重囲の中に在るんだという観念を、
絶対失わせてはいかんぞ」
と特に力強く付け加えた。
トラックの上からは負傷兵の呻 (うめ) きが、とぎれとぎれに聞えて来る。
上島成人軍医と丹羽一郎軍医とが、全身血沫を浴びながら、
懐中電燈の光を頼りにそれ等に応急の手当を施している。笠井顧問と私とは
傷兵の一人一人に 「しっかりしろ、元気を出せよ」 と激励して歩いた。
その時、真ッ白い中国服を着た男が、ヌーッと私のそばに近寄って来た。
私はだれだとどなった。
「 寺平大尉、まさかこんなところに君が来ていようとは思わなかったよ」
これが今日、広部大隊を誘導して来た軍事顧問、中島弟四郎中佐である。
もう午前零時半である。部隊は次第次第に集まって来た。
暗がりの中からゴロゴロ人力車を引いて来る兵がある。
車の上には白い敷布がかけてあった。
「一体全体、あの兵隊は何しとるんだ?
この戦争の真ッ最中に洋車 (ヤンチョ)
引きの
真似なんかして……」
かたわらの軍曹がそれに答えた。
「ハ、あれは戦友向俊暁 (むかいとしあき) の死体を運んで来るんであります」
私はその車に近づいていった。そしてその覆いの一端を外してみた。
頭部盲管銃創の壮烈な最期である。朱のような鮮血がベトベトと敷布を濡らしている。
タッタ今さき、護国の神と化し去ったばかりの英霊に対し、
私は敬虔な態度で、感謝と哀悼の真心を捧げた。
続いてまた一台、今度は前原初年兵の遺骸が運ばれて来る。
同盟通信の三木雅之助特派員もまた、その大きな身体に数発の敵弾をうけ、
僚友二人に支えられながら、この集合位置にやって来た。
「第四中隊がまだ集って参りません」
さきほどの軍曹の声だ。
「そうか。もうやがてやって来るだろう。ちょっとその辺まで連絡に行ってみろ」
と
大隊副官が命令した。ちょうどその時、第四中隊十数名が広安門の方から、
足音も静かに集合位置にやって来た。
静かなのも道理、この中隊は全員跣足 (はだし)、そして各々靴を片手にブラ下げている。
夜襲のため、城壁によじ登る準備を整えていたものらしい。
その時遠くの方で
「桜井、桜井顧問はおらぬか」
しきりに桜井顧問を呼ぶ声がする。
中島軍事顧問の声だ。
「桜井!
桜井少佐!」
狂おしいまでに疳 (かん) 高い叫び声は本道の方から聞えて来る。
広安門の敵が鳴りをひそめているのは、周参謀が説得したからとはいえ、
決してそれで戦闘意欲がなくなってしまったというわけではない
いや、彼等こそ、今の今まで日本軍を敵に回して戦っていたのだから、
その敵愾心 (てきがいしん) は極めて旺盛なはずである。
その敵の真近まで、身に寸鉄も帯びない中島顧問が、
桜井顧問の安否を尋ねて探しに行こうというのだ。》
つづく
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7月26日 広部大隊救出行動4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/09 18:41 投稿番号: [661 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
337〜338p
《「しかしどう考えてみても残念ですなあ、
夜襲の準備はもうスッカリ出来上っているんですから。
ことにさきほど来の戦闘で、私は数名の部下を殺し、
十数名の負傷者をつくってしまいました。
この仇だけは何としてでも、とってやらなければなりません」
「ごもっもです。大隊長殿のお気持はよくわかります。
ただ、それについて簡単に申し上げますが、実は今日午後三時から、三時間にわたって、
私は松井特務機関長のお伴をして、宋哲元の所に行き、日本軍としての最後の通牒を
たたきつけてきました。それで二十八日の正午から、軍はいよいよ全面的に、
二十九軍剿滅のための攻撃行動を起すことに肚が決まったのです。
ですのにそういうふうに方針が決まった以上、戦死者の仇討ちをするチャンスは、
これからいくらだって出来て来ます。
この広安門という一小局部で、抜き差しならぬ戦闘をひき起し、
これ以上損害を拡大されるより、むしろ大乗的な立場に立って、
今日のところは一応これを断念していただきたいと思います。ことに軍司令官閣下は、
概要、私が今、申し上げましたと同じようなお考えを持っておられまして、
広安門事件は、現地限りで解決せよとの趣旨を、
さきほど天津から電話で連絡して参りました」
「そうですか。よくわかりました。しかしただ一つ、私として考えます事は、
現在我々を包囲している中国軍についてです。我々の任務からいったら、
一刻も早くこの位置を撤して、公使館区域に入るのがいいかも知れませんが、
その移動途中、包囲中の中国軍と衝突する事、これはどうしても避けられません。
いずれにせよ一戦交えなければならないというのなら、むしろ勝算の確実な、
広安門を攻撃した方が賢明の策だと考えるのです」
「それはご心配には及びません。私達は今ここへ来る途中、
包囲中の中国軍をことごとく本道上から撤退させて参りました。
ここから公使館区域までの通路は、完全に清掃が出来ています」
と今までの経過をかいつまんで説明した。
最後に
「そういうわけですから、この方面の中国軍の行動に関しては、全責任を私が負います。
一切は私達がよく心得ておりますから、どうぞご安心なさって下さい」
「今あなた方が来られる時には、一応いう事を聞いて道をあけてくれたかも
知れませんが、相手は何といっても中国軍です。
後の心境の変化という事も考えなければなりません。
その辺の見透しは、いったいどんなものでしょうか」
「もちろん心境の変化という事に関しては、十分考慮しなければなりません。
しかしそのためには、ただ今も気心の知れた中国軍の参謀に、
私の方の通訳生一名をつけて、今来た経路をもう一遍引き返させ、
中国軍の撤退情況を再点検させております」
「有り難う。それほどまでにやっていて下さるのならば
ご意見に従って直ちに撤退を開始する事に致しましょう。
高須大尉に高杉大尉、それから山本副官、他に何か意見はないか」
「自動車が大半損傷をうけているようですが、果して運転出来ますかどうか……」
「すぐ調べさせてみい、動く事だけは動くだろうと思うんだが」
「それからもし、中国軍が途中で不法射撃でも始めたような場合の措置は」
「たたき破るんだ、徹底的にたたき破って目的地に前進するんだ!」
「わかりました。兵にも、よく徹底させます」》
つづく
これは メッセージ 660 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広部大隊救出行動3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/08 18:32 投稿番号: [660 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
335〜337p
《 笠井顧問と私は伝令の兵に案内されて、埃のボコボコした北綫閣の通りを、
北に向って歩き始めた。 銃剣が至るところの闇にギラリギラリ光っている。
やがて伝令が
「この土塀の中が大隊本部です」
と左側の大きな家を指差した。
あたりは木立に囲まれて、その木の根方でも歩哨が厳めしく警戒していた。
奥の方から、ザワザワ人の出て来る気配がする。
「大隊長殿はおられませんか」
と
伝令がたずねた。
「ここにおられるぞ」
「今、軍使の方が見えて、大隊長殿を探しておられます」 「何?
軍使?」
そういって長身の広部大隊長が一歩前へのり出した。
天から降ったか地から湧いたか、この敵軍重囲の真ッ唯中に、突然現われた背広姿の
軍使の一行。広部大隊長にはそれが極めて奇怪な存在として映じたに違いない。
まるで狐につままれたような感じだったと想像される。懐中電燈を照らして、
私の頭の上から足の先までジロリジロリ眺めながらいった。
「大隊を公使館区域まで誘導して下さるというんですか?
いったいあなた方は、大隊の現在の情況がおわかりになっているんですか?」
「概略は承知しています」
「大隊は今、腹背に敵をうけているのです。
そして城外部隊は今夜二時半、城門に向って攻撃の火蓋を切る事が、
先程電話でわかってきました。
それで大隊は、城外部隊の攻撃に先立って広安門を夜襲するため、
今から出かけるところなんです」
「それはこのさい、是非思い止まっていただかなければなりません」
「イヤ、私の大隊としては、友軍が広安門を攻撃するという以上、
事前に城壁の一角を占領して、友軍の攻撃を容易ならしめる事が、
戦術上当然採るべき手段だと考えます。今晩は辛いにしてこのひどい風、
さきほどもここにいる高須大尉から意見具申がありまして、
この〝神風〟を利用して広安門内側の民家に火を放ったら、確実にあの城内に燃え上って、
夜襲成功の可能性は多分にあるというんです。これをいまさら中止するという事は……」
「それについて申し上げますが、城外部隊が広安門を攻撃する理由はいったい何です。
大隊が城内と城外とに分断され、城内部隊が敵中に孤立しているから、
これを救出するというのがその目的なんじゃありませんか。
だから大隊が公使館区域に入るという、最初の目的が達成されたら、
城外部隊は何も苦しんで城門攻撃なんかしなくたって済む訳です。
これについては、さきほど特務機関長からも電話があって、城外部隊の攻撃を阻止
する事は、責任をもって豊台の旅団司令部に連絡をとるから、との事でございました。
それに北京城内では、居留民の引き揚げもまだ終っていない状態なんです。
今、ここで戦闘をひき起したら、二千の居留民は城内到るところで虐殺されて
しまうでしょう。もともとが居留民保護という任務を持っておられる大隊です。
その大隊の行動に端を発し、かえって居留民虐殺の動機がつくられたとしたら、
それこそ本末転倒、逆効果です。むしろ最初から入城しない方がまだよかった、
という事になりはしませんか?
何といってもこのさい、任務が第一です。
この点、よくよくお考えになっていただきたいと思います」》
つづく
これは メッセージ 659 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広部大隊救出行動2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/07 18:21 投稿番号: [659 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
334〜335p
《 途中、機関へ電話連絡すると、
豊台を出発した福田部隊は明午前二時半、広安門攻撃を開始するという。
とすれば我々の和平交渉に必要な時間は四時間足らずである。
ところが我々の車は数百メートルごとに中国兵によって誰何され
ストップを命じられ、これではいつになったら現場に到着できるかわからない。
ままよ、自動車のまま強行突破しようとなった。
徐行しながら一行の後からついて来た顧問用の自動車は、この時ヘッドライトを、
こうこうと照らし始めた。五人は寿司詰めになって、その一台の自動車に乗り込んだ。
広瀬秘書は運転台の傍らに在って、ヘッドライトの前に白旗を振りかざしながら進んだ。
中国軍の最前線は、そのころ東北大学運動場の付近にあった。
最後にこのあたりの部隊を道路の奥に追い込んでしまって、
そこの連長に別れを告げようとしたら、連長は親切に
「この前方には、中国兵はもう一兵も出ていませんよ。これから先は全部日本軍です。
気をつけて行かぬとこの少し先で、機関銃が猛烈に射ち出しますよ」
と注意してくれた。
自動車が出発したとたん、ダダダ‥…・と真ッ正面から機関銃弾が、
自動車の屋根の上をかすめて飛んだ。
広安門上の中国軍が、ヘッドライトを目標に射ったものらしい。
「かまわぬ。弾道は高い。ドンドン素ッ飛ばせ」追風をうけて、
漠々たる砂ほこりの中を、まっしぐらに広安門目ざして突き進んだ。
・・・
広安門に近づいて行くと、街路上には一輪車、人力車、樽や屋台やが
自動車の前進を邪魔するかのように、点々取り散らかされていた。
これは七時十五分、広安門の銃声一発と共に、このあたりの住民がその大切な
商売道具を放ったらかして、逃げ散って行ってしまった姿である。
道路の右側で銃剣がピカリと光った。同時に日本語で
「だれかッ!」
力強い歩哨の問査。
自動車はピタリ、その前で停まった。
まず私が白旗を携えて車からとび降りた。続いて笠井顧問、周参謀!。
「北京特務機関補佐官寺平大尉だ。大隊本部の位置はどこか」
「この狭い通りをまっすぐ北の方へ進んで行った奥であります」
ここは広安門大街と北綫閣 (ほくせんかく) との交差点、二挺の重機関銃が、
我々の今来た菜市口方向に向って、いつでも火蓋を切る事が出来るように据えつけてある。
「小隊長はおらぬか」
「すぐそこにおられます。お呼び致しましょう。小隊長殿、小隊長殿」
声に応じてはせつけたのは、今日の城門突破の戦闘に、
トラック上自ら重機関銃の引鉄を引いて、
さんざん中国軍を悩ました機関銃小隊長市川貞一中尉である。
大隊本部の位置を聞くと、市川中尉は伝令をつけてくれた。中尉は桜井顧問は
どこにいるか知らないが、中島顧問は確か大隊本部にいたと思うと教えてくれた。
二ヶ分隊ばかりの兵が道路の東側に折り敷けしていた。
いつどこから敵がとび出して来るかもわからない情況下において、
非常な緊張ぶりで四周に対して警戒していた。
「周さん、私は大隊長のところに行って連絡をとってくるから、
あなたは広安門に行って、日本軍の移動に際し、城門上の中国軍が絶対射撃しないよう、
厳重注意を与えて来てくれ給え。このさい、一発でも射ったら、それこそ日本軍は
即座に反転して、また広安門を攻撃するからね」
血なまぐさい広安門の下で、
今日の任務を最も完全に果すため、一行は、それぞれ新しい持場について行った。》
つづく
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7月26日 広部大隊救出行動1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/06 18:39 投稿番号: [658 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
333〜334p
《 さればとて秦徳純、どうせこれ以上気の利いたやつを出しっこないでしょうから、
我々はもう広安門に出かけましょう。そして独力でやってしまうんだ。
幸い周参謀が一緒に来ているから、周君を間に立てて中国軍を説得したら、
その方がかえって手ッ取り早いですよ。
まあ百十一旅の副旅長と云う肩書だけが、何かの場合役に立つかもわからないから、
連れてくだけは連れてってみましょう」
総勢六人、二本の白旗を準備し、二台の自動車に分乗、進徳社を出発して、
広安門の戦場に乗り込む事になった。
酷熱百度 (華氏)、焼けつくような今日の暑さも、日没と共に吹ッとんでしまって、
夕刻ごろから烈風に変ってしまった。
吹きつける砂塵を横なぐりに受けて、軍使一行の車は走る。
鉄獅子胡同 (ティェシーズホートン) から北池子大街 (ペイチーズターチェー) へ、
そして中山公園の所からさらに、西長安街へ進路をとった一行は、
やがて西単 (シータン) 牌楼から左折して、宣武門の下に到着した。
電燈の光にすかして見ると、城門は完全に閉鎖され、
しかもそれに土嚢が一杯積み重ねられている。
周参謀が開扉を交渉する。
一同は土嚢で通路を狭められた宣武門を、徐行しながら通り抜けた。
京漢鉄道の踏切を越える。そして宣武門外大街を三、四百メートルも来たころ、
そこにまた二十九軍の兵が、道路一杯にウヨウヨしているのが眼にとまった。
これでは今晩中にとても広安門まで行かれはしない。再び周参謀が通過交渉に出た。
その時、広安門の方向に当って、ひときわ激しい銃声が起った。
手榴弾の爆声があたかも砲声か何ぞのように、ドカンドカン響いて来る。
−
これは後に、情況を綜合して見てわかった事であるが、この時、
早川自動車部隊が、あの激しい襲撃をうけていたのである。
−
風の唸(うな)り、砂のとぶ音、銃声、爆声、それらが交錯して、凄壮な戦場風景が
かもし出されて来る。かたわらに立つ中国兵の青竜刀がギラリと光った。
交渉が成功し、周参謀が自動車のドア一に手をかけた。
「周さん。我々、ここを通って行ってしまっただけじゃ何にもならん。
日本軍を重囲の中から引ッ張り出したら、それを誘導してもう一遍、
ここを通らなければならんのだが、こんなに大勢の中国兵が道を塞いでおったんでは、
きっと衝突を引き起してしまう。この部隊をどこかその辺の路次奥へでも、
引っ込ませてしまいたいんだ。
そして、お前達、決して日本軍に手出してはいけないぞという事を、
君の口からこの部隊の連長にいってくれ給え」
周参謀は一語一語に力をこめて、趣旨を連長に伝えた。
連長は二つ返事で承諾すると共に、いままでついていた警戒配備を撤し、
部隊をことごとく大通りの側方、胡同の奥へ引っ込めさせてしまった。
一行は自動車に乗って出発した。》
つづく
これは メッセージ 657 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広部大隊救出工作2 交渉2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/05 15:29 投稿番号: [657 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
331〜332p
《 陳覚生が帰って間もなく、周参謀が自動車をとばせて特務機関にとび込んで来た。
彼は
「今日の事件を円満に解決させるためには、入城部隊は公使館区域へ、
そして城外部隊は豊台に引き返さす。 これが一番安全でもありまた常識論ですよ。
いまごろ小細工をしていたら、 まとまるものまでまとまらなくなってしまう。
いくら私が二十九軍だって、 今日の二十九軍案だけは絶対賛成出来ませんね。
それに三十八師の張自忠師長なんか、 まったく私と同じ考えなんですよ。
今も会って、 意見を交換してきたばかりなんです」
という。
松井機関長が私と笠井顧問を呼んだ。
「広安門の情況は君達の知っておる通りだ。 北京城の一角に火がついたというわけで、
これは何としてももみ消してしまわんければいかん。
中国側も局部的に解決には同意のようだが、 手段方法の点で、
我々の考え方との間に、 まだ相当の開きがある。
だが、 我々はあくまでこちらの考えで押していこう。
広部大隊を公使館区域に誘導するんだ。
交戦状態に陥っている広部大隊を中国軍から引き離す事は、
すこぶる厄介な仕事だがこの一番むずかしい仕事を、 君達二人にやってもらいたい。
今からすぐ、 広安門に行って両軍を説得し、 これを引き離しさらに第二段の工作として、
中国軍の間を濾過 (ろか) して、 大隊を公使館区域まで誘導して来てもらわねばならぬ。
この軍使は日本側だけでやろうとしても、 巧くはいかぬ。
一応進徳社に行って、 秦徳純を説得し、
二十九軍からも高級幹部を一人出してもらうんだ。
現在の危局を収拾するためには、 これ以外見当らない」
我々は、 機関から愛沢通訳生、 顧問部から広瀬秘書、 この二人を伴って、
死地に乗り込むべく決心を固めた。
「オイ!
もう遺言書いてる暇はないぜ」
「ウム、 遺言は何も書く事はないが、 死恥をさらさないよう、
せめて肌着だけでも新しいのと取かえていこう」
十分間ばかりの間に新しい肌着に着換えた一行は、
機関員一同に見送られて特務機関を出発した。
一行が進徳社に着いた時、 冀察の要人達は重要会議を開いている最中らしく、
二十分余りも我々を待たせておいて、 一向出て来そうな気配がない。
機関を出る時、 むりやり連れて来た周参謀までが、
催促してこよう、
と奥の方へ消えて行った。 やがて背後に灰色の軍服を着て、 短剣を吊った将校一名を
伴って周参謀が戻ってきた。 「ご紹介します。 百十一旅の副旅長軒上校です。
二十九軍を代表して、 我我と一緒に現地に行く任務を受けてきた人です」
私は軒上校に尋ねた。 「宋委員長、 秦市長は広安門の事件を不拡大に解決する事に、
賛意を表しておられるんでしょうな」 「賛成しておられます」
「広安門の事態は、 容易ならぬ事になっています。
問題解決のため、 貴官は中国側代表として、 師長あるいは旅長に代り、
当面の部隊を指揮命令する権限は持っておられますね」
「持っています」
「では、 事態収拾のための具体的処理方法は」
「処理方法と言いますと?」
笠井顧問が吹き出してしまった。 「こんな無能な旅長、 連れて行ったって
足手まといになるばかりですよ。」》
つづく
これは メッセージ 656 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広部大隊救出工作2 交渉1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/04 15:06 投稿番号: [656 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
330〜331p
《 橋本参謀長は全面的に同意を表した。そして
「……以上のような趣旨に基き、広安門の事件は極力これを現地限りに
解決させ、戦火を全城域に及ぼさないよう努力する。
そして二十九軍潰滅のための作戦は、居留民の引き揚げ完了を見届けた上で、
改めてこれを決行することと致します」
参謀長は以上の判決を述べた。
この時、池田参謀が発言した。 「北京城を兵火の巷 (ちまた) に陥れない事は、
軍としても重視すべき問題だと思います。
ただ、作戦遂行という事になりますと、目的のためには手段を選ばず、
個々の兵団中には往々にして、こういった方針を無視する者が無いとはいえません。
そこでこの際、北京城や万寿山、そういった名勝を傷けないため、
これに対して絶対砲爆撃を加えない事、またこれらの場所に陣地を占めている敵は、
側背脅威その他の方法によって、戦を交える事なく退却させてしまうよう、
この件を作戦命令の末項にでも、一筆書き加えておきたいと思います」
軍司令官香月中将は会心の肯 (うなず) きを見せてこの意見を採択し、
ここに天津軍駐屯最後の肚が決まったのである。
これより先、機関が出した密偵の報告は、刻々広部大隊の危機を伝え
「大隊はすでに中国軍のため、十重二十重に包囲され、辛うじて城壁下の
一角に余喘 (よぜん) を保っている」
とも言い、
「中国軍の増援隊は目下続々、トラックで広安門に向って輸送中」
とも報じている。
さらに新聞社側からの情報によると
「入城部隊が内門と外門との中間に差しかかった際、突然、中国側が故意に
両方の城門を閉鎖したので、部隊は二つの門扉の間に閉じ込められ、
その上、城門の上からは、手榴弾をドンドンたたきつけられるという始末、
目下大隊は、惨澹たる状態に陥っている」
と極めて誇張的な虚報まで伝えてきていた。
西の方、広安門と覚しい方向から、引っ切りなしに響いてくるゴーッ、ゴーッという
銃声は、特務機関の人たちの焦燥の念と不安感とを、いやが上にもかき立てるのだった。
午後八時少し過ぎ、冀察側の代表として、交通委員長陳覚生が特務機関にやって来た。
彼は広安門事件の善後措置に関して、次のような案をもたらして来た。
「中国軍は広安門の城壁及びその東側地区に位置し、広部大隊は城門外、
西側地区に兵力を集結させる。そうする事によって両軍衝突の危険性を除去したい。
これがため、現在城内に進入している広部大隊主力は、
一応全員、広安門外に撤退させていただきたい」
これに対し、特務機関の意向としては
―
すでに城内に入った日本軍は、
ことごとくこれを公使館区域の我が警備隊内に収容したい。
その代り、城外に残っている部隊は全部、豊台に向って引揚げさせる
―
というのである。
陳覚生が持ってきた中国側の案は、機関側によって一蹴され、
逆に、我が方の意見を持って宋哲元の元に帰って行かなければならない
破目に陥ってしまった。》
つづく
これは メッセージ 655 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広部大隊救出工作1 軍の自重要請
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/03 18:42 投稿番号: [655 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
329〜330p
《 その夜、天津海光寺の軍司令部では、急遽幕僚会議を開き、当面の緊急対策を協議した。
参謀たちの大勢の意見は
「軍は今日まで、馬鹿正直なまで不拡大主義に徹底し、
中国側との和平交渉を続けてきたが、中国側は我が方の意のある所を解せず、
昨夜は郎坊において、今日また広安門で依然不信行為を繰り返している。
これ以上の温情は最早無益で、軍は最後通牒の二十八日の正午を待つことなく、
広安門事件を切ッかけとして、明朝早々にでも、全面攻撃の火蓋を切って落したらどうか」
というのだった。ただ池田参謀のみが積極的には同調しなかった。
参謀長橋本少将は、現地の意向を確めるべく松井機関長を電話口に呼び出した。
「幕僚会議ではこの広安門事件をきっかけとして、二十八日の正午を待つことなく、
二十七日早朝からでもすぐ、全面攻撃を開始しようという意見が圧倒的だが、
あなた方現地の意見はいかがですか」
すると機関長は、すぐさま全面攻撃案に不賛成を主張し
「恐らく今井武官も
私と同様の意見を持っていると思います」
とその理由を述べた。
第一、広安門を中心とする地域で起った戦闘をこのまま放っておいたら、
それこそのっぴきならぬ市街戦に移行してしまい、戦術的にも拙劣である。
だから機関では今、全力を挙げてこのもみ消し運動に奔走している最中である。
第二、北京城内二千の居留民、これがまだ市内各所に散らばっていて、
全然収容されていない。ひとたび広安門を中心として、
日華両軍が本格的戦闘を惹起したら、中国兵は随所でこれら邦人に対し、
掠奪、殺戮、それこそ残虐の限りをつくすだろう事は、
火を見るよりも瞭 (あきら) かである。
さらに第三は、北京城の一角にすでに火がついてしまった今、これが拡大されたら、
百五十万民衆を兵火にさらす結果となり、これは人道上の見地からいっても、
絶対許さるべき事ではない。ことに古都、一千年の文化を破壊するという事になれば、
世界の侮蔑を、軍が、いや日本が背負い込むことになってしまう。
これは大国の襟度 (きんど) として大いに慎しまなけりゃならないと思う。
事態がすでに今日のようにもつれてしまった以上、全面攻撃を断行するは、
もう避け得られないかも知れない。ただ、広安門の事件に関する限り、
これだけは、どうでも局地限りに解決する事が絶対肝要である。
そして居留民の引き揚げ完了を見た上で、改めて全面的に発動する。
しかもその戦場はこれを北京の城外に選び、決して城内に戦火を波及させない
という着意を持つことが、日本軍として、また日本人として、
大切な心構えじゃないかと考える。
−
というのだった。》
つづく
これは メッセージ 654 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広安門事件6 天津軍怒る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/02 18:33 投稿番号: [654 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
45p
《 城壁上では、中国兵は素手の桜井少佐と川村機関員をおそい、
川村機関員は機銃弾をうけて戦死し、
少佐は、左股 (もも) に貫通銃創をうけながら城壁をとびおり、
露地の物置小屋にひそんだ。
顧問中島中佐は旅団長河辺正三少将に急報し、少将は天津の支那駐屯軍司令部に
連絡するとともに、戦車隊長福田峯雄大佐に、広部大隊救出のための出動を命じた。
支那駐屯軍司令官香月中将は、憤怒し、東京に急電した。
「郎坊事件ハ
尚
隠忍ノ限度内ト
為シ得可キモ、 新ニ
許ス可カラザル
広安門事件ノ
暴挙ヲミル……今ヤ
断ズ可キ時ナリ。
宜シク
明二十七日行動ヲ起シ、平津一帯ノ支那軍ヲ
断乎
膺懲ス可キナリ」
郎坊事件にかんしての兵力使用の要請にたいしては、正式には許可がとどいていない。
その催促をふくめての具申電である。
東京でも、こうなっては異存はない。
すかさず、次の
「臨命第四百十八号」
が打電されてきた。
「刻下ノ情勢ニ鑑ミ、 支那駐屯軍司令官ハ
臨命第四百号 (註、八日付の兵力不行使の指示) ヲ廃シ、
所要ニ応ジ、 武力行使ヲ為スコトヲ得」
香月中将は、宋哲元にたいして前述の第三十七師撤退要求を撤回して
「独自行動」
をとる旨を通告させ、
各部隊には、 翌日正午を期して
「攻撃前進」
するよう、下令した。
この命令は、特務機関長松井大佐から、北京の日本人居留民の避難がまにあわぬこと、
北京という文化的古都の破壊をさけるべきであること、 などの進言がよせられ、
二十八日正午まで延期された。》
つづく
これは メッセージ 653 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広安門事件5 桜井顧問転落
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/01 18:37 投稿番号: [653 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
326〜328p
《 さんざん連長をいためつけたあげく、最後に背負投げではね飛ばし、
わずかの隙に身を跳らせて、丈余の城壁をその内側に跳びおりた。
地上四メートルの所に、コンクリートの屋根があった。
その屋根の上に墜ちて右足首を捻挫骨折し、バウンドした体はさらに
電線にひっかかり、もんどりうって家と家との間、狭い空地に肩から
先に転落した。 傷ついた顧問に射撃と手榴弾が執ように追いかけてきた。
不死身の顧問は近くに物置小屋をみつけ
そこに身を横たえ
あたりから棒切れや煉瓦をかき集め、敵がここまで追いかけて来たら、
これをたたきつけて最後の格闘を試みるつもりだった。左股の銃創にうずく身を、
小屋の中に横たえると、別にまた胸の痛みを感じ始めてきた。
さきほど連長と格闘したさい、連長が拳銃の銃口を強く胸に突込んで来た
その痛みである。
身動きならぬ身体に耳をすますと、城壁の内と外、銃声はますます激しさを加え、
戦闘の熾烈 (しれつ) さが手にとるようだ。
第一線両中隊は城壁下五、六十メートルに肉迫し、城壁上の敵に果敢な攻撃を反律した。
しかし城壁には、突撃路となるような登り口が見当らない。
攀登 (はんと) 材料の梯子も手に入らないので、
第一回の攻撃は一応断念しなければならない。
大隊は取りあえず北綫閣 (ほくせんかく) の北側、土塀で囲まれた家屋に兵力を集結し、
おもむろに再挙を計る事となった。時計はもう、十時を回っている。
その時、後方、自動車隊の方角に当って、けたたましい銃声がわき起った。
背面からの敵襲だ。
これより先、自動車隊の早川大尉は運転手や第一線の負傷兵、新聞記者たち
非戦闘員までもかき集めて、至厳な警戒配置についていた。
ところが広安門の急を知った北京城内の中国軍は、続々増援隊を繰り出して来て、
一ヶ団を下らない優勢な敵が徐々に広部大隊を包囲し始めた。
まず菜市口 (ツァイシーコ−ル) から真西、広安門街道をまっすぐ突き進んで来た
中国軍の一隊は、関帝廟の近くで我が自動車隊にぶつかった。
これはあるいは敵の威力偵察だったのかもわからない。
敵は我が兵力が極めて少ないことを知るや、猛然と襲いかかって来た。
暗夜、彼我の距離、十数メートルという近迫戦である。
早川大尉はわずか十数挺しかない小銃を柵のように並べさせ、
矢つぎ早に撃って撃って撃ちまくった。
新聞記者も手榴弾をとりあげて、敵兵目がけて投げつけた。
果敢な応戦ぶりに、敵は我が兵力をかなり大きなものと誤算したらしく、
次第に後退し始め、やがて暗闘の中に消えていった。
トラック上の負傷兵や非戦闘員は、ようやく胸を撫で下したのも束の間、
新手の勢を加えた敵は、路次を伝わって今度は真東、自動車隊の側面に現われて来た。
それとは別に、もう一つの新しい敵が真北から現われ、
ほとんど三面包囲された形になってしまった。
早川大尉は
−
もうこうなっては四面皆敵だ。しかし俺達は自動車隊だ。
本道を失ってしまったら隊としての生命はない。
断乎本道方面に血路を切り開いてやろう
−
と考えた。
大尉は率先血刀を提げ、二、三の兵を率い、本道方面、敵の真っ唯中に斬り込んで行った。
その時、敵の投じた手榴弾が大尉の直前で炸裂した。
大尉の下半身には大小の破片が無数に突き刺さっていった。
鮮血にまみれ、起ち上る事も出来ない重傷を負いながら、
大尉はなお励声叱咤、部下を鼓舞激励して、一意応戦に努めた。
敵は、我が底知れぬ抗戦力におそれを抱いたらしく、それ以上の強襲をする事なく、
次第に囲みを解いて東の方に後退して行ってしまったのである。
自動車隊は、最後までその位置を確保し得ると共に車輌の援護をも
完 (まっと)う する事が出来たのだ。》
つづく
これは メッセージ 652 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広安門事件4 機関員殺される
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/30 18:33 投稿番号: [652 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
325〜326p
《 中国側の欺瞞行動に、極度に憤激した広部大隊長は、断乎反転して
広安門の敵を攻撃すべく決心した。そして中小隊長を集め、命令を下した。
「命令。敵情はすでに承知の通り、大隊は今から広安門の敵を攻撃し、
あの城門を奪取する。第五中隊は右第一線。本道の北側地区を前進、
第四中隊は左第一線。本道南側地区を広安門に向って前進すべし。
機関銃小隊には本道上を配当する。この正面から両中隊の攻撃に協力せよ。
早川大尉は自動車隊を指揮し、現在地付近で特に後方に対して厳重に警戒。
それから上島軍医はとりあえず自動車隊の位置に隊繃帯 (ほうたい) 所を開設せよ。
大隊長は今から、第五中隊の後方を広安門に向って前進する。直ちに出発!」
ゴミゴミした胡同を縫って進んだ第一線の両中隊は、二、三十分の後には、
早くも城壁間近に迫っていた。午後八時、大隊は城の内側から広安門の敵に向って、
一斉に火蓋を切って落した。中国軍はもちろん応戦した。
そしてふたたび、城門通過の時以上、壮烈な戦闘がまき起ったのである。
第五中隊の位置から見上げると、城壁上の中国兵は新たな部署につくべく、続々
北方に移動中であり、その姿が薄闇の中に、まるで墨絵のように描き出されている。
早くも我が軍の弾丸によって、負傷者二、三を生じた百三十二師の兵は、
激昂 (げきこう) し
「日本人を殺せ」 「顧問を斃 (たお) せ!」
と口々に叫び始めた。一人が、十メートルの至近距離から顧問めがけて小銃を発射し、
また、大刀振りかざし、銃剣を構えた数名が
「殺 (シャー) !」
の喚声と
共に顧問めがけて殺到して来た。
顧問は連長によって、彼等を阻止しようとしたが、こうなっては連長の威令はない。
怒気満面の顧問は、間近に迫って来た中国兵の一人を殴り倒し、
続いて二人目の敵にかかろうとした。
そのとたん顧問と同じように健闘これ努めていた、川村芳男機関員が大声を挙げた。
ついさきほどまで、城外に向って射撃を続けていた軽機関銃が、
銃口を桜井顧問に向けかえたのだ。
「何をするかッ!」
川村は破れ鐘のような怒声と共に、身を躍らせて軽機関銃に
近づき、大手を広げて銃口に立ち塞 (ふさ) がった。軽機関銃は火蓋を切った。
至近距離射撃の数弾を胸に受けて川村はのけぞった。
壮烈な戦死だった。桜井顧問の身代りとなったのだ。
血に狂った敵は、大刀と拳銃を擬して、一人とり残された桜井顧問に迫った。
東楼と西楼、両面からするはさみ撃ちである。顧問の身体がフラッとよろめいた。
狙い撃ちの拳銃群が一発顧問の左内股から外股へ貫通したのである。
近距離射撃だっただけに傷口も大きく、茶碗大の肉片が吹き飛ばされて、
白い大腿骨が外からハッキリ見えていた。
顧問はとっさに、その場にまごついていた王連長に組みついた。
突く、蹴る、撲る。
かつては陸軍戸山学校教官として、鍛えた桜井少佐である。
格闘にかけては自信があった。》
つづく
これは メッセージ 651 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広安門事件3 射撃される
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/29 18:58 投稿番号: [651 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
323〜325p
《 やがて先頭車が吸い込まれるように城門を入って行った。二番が入った。
続いて先兵が乗っている三車輌が、城門に入ろうとした刹那 (せつな)、
東楼門の南側、五十メートルと覚しき城壁上から、激しい銃声が湧き起った。
緊張していた静寂な空気は破れ、間髪をいれず、
城壁上、彼方 (あち) 此方 (こち) の小銃、軽機関銃が一斉に
火蓋を切って、車上の日本軍めがけて弾丸の雨を浴せかけた。
城壁上の桜井顧問は
「やったなっ」
と叫ぶなり、まず身近に据えつけられてあった
軽機関銃に躍りかかり射撃操作に移ろうとしている中国兵を押し飛ばし、
銃身を蹴倒して
「連長、射撃をやめさせろッ」
とどなりつけると共に
「別放槍 (ビェファンチャン)!
別放槍!」
(射撃するなッ!)
と中国兵に大声で叫んだ。川村も白旗を翻し、大声で射撃中止を命じたが、
中国兵はもう半狂乱の態で耳を藉 (か) す余裕はない。
それどころか制止する足の下から乱射乱撃を続けている。
東楼百三十二師の兵は、その真下を通るトラック目掛けて、手榴弾を投じ始めた。
爆声と銃声が、城壁にこだましてすさまじい音響をつくり、
広安門一帯は硝煙渦巻く修羅場と化してしまった。
広部大隊長はフルスピードを命じた。
青白い火花がすぐ眼の前で、電光のように閃めく。その手榴弾の雨をくぐって、
トラックの一隊は車上から応戦しつつ、一台、また一台、広安門を突破して行った。
城内に躍り込んだ指揮官車は、城門から東、三百五十メートルも突き進んで
関帝廟の前で停車した。
振り返ると城門付近は、硝煙がもうもうと立ちこめ、後続のトラック隊がその煙の中を、
苦戦しながら突破して来るのが、手にとるように見える。
城門を突破し、関帝廟に集結した入城車輌は合計十二台、十四車輌から以後は
不法火力のため、城外に阻止され、大隊は城内と城外とに分断されてしまった。
大隊長の命令に応じ、道路の北側に集結した部隊は、大隊本部、第五中隊、
および長以下十八名だけの第四中隊、それに市川中尉の機関銃一ケ小隊、
合計兵力は百四十名だった。
自動車隊長早川大尉は、車輌を本道北側の胡同内に収容したが、トラックは、
いずれも損傷をこうむり、ひどい車は二十七発もの弾痕を車体に留めていた。
一方、城壁上の桜井顧問は、日華双方の弾雨の中、危険を冒して説得を続けたが、
二人の捨て身の努力が功を奏し、銃声は次第に下火になって来た。
「大分静まったようだな。
この機会に中国側に、もう一遍喧ましく交渉しとかにゃいかん。
張祖徳は居らんか!
おい、張祖徳はどこへ行った?」
生れて初めて弾丸の洗礼をうけた宋哲元の秘書の張祖徳は、
オドオドしてしまって心も全く上の空である。
城壁の一角で小さくなっていたが、それでもやがて桜井顧問の呼び声に顔を出した。
「今の情況はお前の見ていた通りだ。すぐ宋委員長の所に報告しろ。
そしてこれから後、絶対射撃させないよう宋委員長に命令を下させるんだ」
王連長も部下に対して
「宋軍長の命令だ。いかなる事態が起っても決して
射撃してはいかんぞ」
と声を枯らして伝達した。
事態は漸
(ようや)
く平静をとり戻した。
遥かに蝉の声まで聞え始めるようになって来た。》
つづく
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7月26日 広安門事件2 開門
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/28 15:23 投稿番号: [650 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
322〜323p
《 灰色の中国服を着た彼は朴訥 (ぼくとつ) な日本語で
林耕宇がどこへ行ってしまったか見当らないので、
宋委員長の代表として、開門の立会いにやって来たむねを伝えた。
そして、城門が開いていることを確認した。
「うん、特務機関員をやって今開けさせたところだ。
城門一つ開けるのに、俺達にこんなに世話を焼かせるようじゃだめじゃないか。
オオ、王連長、部隊をこんな姿勢で配置しといちゃいかん。
日本軍が入って来た場合、命令なしで勝手に射撃を始めてしまうぞ。
鉄砲はみんな下に置かせろ。そして兵は城壁の下をのぞかせないよう全員遮蔽だ。
直ちに実行させろ」
と顧問がいった。
連長は幹部を呼び集め、その通り命令を伝えた。
兵は皆、銃を地に置いて、それぞれの持ち場に腰をおろした。
百三十二師の方にもこの命令が伝わって行ったと見え、
同じように銃を手から離して遮蔽し始めた。入城準備は完了した。
吉富機関員はこの時、片側開きにされた門扉のところで城門の監視。
桜井顧問と川村機関員とは城壁上、楼門北側で中国軍の行動を監視することにした。
やがて西楼門の北側、街道に面した城壁上から上半身を乗り出した桜井顧問は、
広安門外、橋のたもとに立っていた巡警を呼び寄せ
「オイ、この名刺をあっちの踏切の所にいる、日本軍に持って行って、
中島という軍事顧問に届けて来い。急いで行け」
と、城門の上から名刺を落した。それを拾った巡警は一散に走った。
広部大隊は広安門の西方一千メートル、接待寺付近に到着した時、
広安門が閉鎖されているという報告を聞いた。
そこで一応全部隊を下車させ、警戒を厳にして中島顧問の
開門交渉の結果を、待ちわびていた。
午後七時、中島顧問が自動車をとばして帰り、大隊長にいった。
「桜井顧問が城門のところに来ています。
この名刺を巡警に持たせて寄こし、すぐ入城するよういってきました」
鉄兜をつけた広部大隊長は、大隊幹部にどのような情況にも
対応できるよう訓示を与え、出発を命じた。
長い夏の陽ざしは、まだあかあかと照りつけている。
しかし暑さはいく分衰えて、天寧寺の木立からは、蜩(ひぐらし)の声が流れて来ていた。
広安門街道を、一隊二十六輌の自動車が、動き始めた。
トラックの上の銃剣の穂先、夕陽に映える鉄兜。本田特派員の乗用車が、
トップを切って走っている。次が広部少佐、中島顧問の指揮官車である。
桜井顧問と川村とは、西楼城壁上から白旗を打ち振り入城部隊に合図を続けた。》
つづく
これは メッセージ 649 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広安門事件1 開門交渉
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/27 15:06 投稿番号: [649 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
321〜322p
《 桜井顧問は特務機関に戻り、進徳社に連絡して、私を電話口に呼び出した。
そして語気鋭く城門閉門のいきさつと交渉方を伝えた。
ちょうど最後通牒を手交し終って、一同が席を立ったばかりだったので、
私は秦徳純と陳覚生に広安門開扉の件を要求した。
彼等は言を左右にして、容易に即答しようとしない。
私はいった。 「この間題に関する限り、あなたがたが即刻善処なさらないと、
両軍衝突は必至です。最大の不祥事が惹起される事になります。
特務機関は軍事折衝機関です。
部隊に対しては指揮権もなければ命令権も持っていません。
だから衝突してしまったが最後、私の方としては一切責任は負えない。
部隊の入城目的はすでに連絡した通りです。
この際両軍の衝突を回避し得る道はただ一つ、あなたの誠意ある実行、
これあるのみです。どうか即刻、決心して下さい」
機関側の実行督促、要求に、秦徳純にはどのような計算があったのか
「では直ちに開門させる事に致しましょう」
と約諾した。
電話命令だけでは誤解を生じやすいので、機関の要求によって中国側から
外交委員会の林耕宇が開門処理に立ち合うことになった。
桜井顧問はこれを聞くと、城門監視のため、川村、吉富両機関員を伴って、
ふたたび広安門に車を走らせた。
一行が広安門に着いた時には開門の命令はすでに宋軍長の名をもって、
電話されてきていた。
まだ林耕宇は来ていなかったが、ともかく全般の態勢を見届けようと
王連長を先に立て、一行は広安門の城壁上に登って行った。
見下すと、西の楼門の扉は、閂こそかかっていないがまだ開けられてはいない。
桜井顧問が
「あいつらに開けさせるんでは信用が出来ん。こっちで開けてやろう。
おい吉富、君は行ってすぐあの城門を開けて来い。唯開けただけじゃだめだ。
部隊が通り終るまでずっと城門のところで監視しておれ」
という。
桜井顧問が城壁上を見渡すと、東西二つの楼門と城壁とには、
土嚢が一杯積み重ねられ、銃眼には小銃、機関銃が城外に向けて、配置されている。
西の楼門には三十七師の武装兵が六、七十名、東の楼門とその一帯の城壁上には、
百三十二師の兵が同じく武装して六、七十名、守備についていて、
異様な興奮の中に語気荒く喚めき立てていた。
三十七師の兵は前々から北京付近に駐屯していたので、顧問の顔は皆よく知っていた。
が、百三十二師の方は、つい数日前、河北省南部の田舎から出て来たので
北京の様子もわからず、まして顧問の顔は知らない。今日は警備交代の日で、
両師の部隊がちょうど現地で警備の引き継ぎをやっているところだった。
顧問の腹は、これら兵士に絶対無抵抗を要求し、
なにがあれ、広部大隊を無事通過させることにしていた。
この時、宋哲元の秘書、張祖徳が城壁を登って来た。》
つづく
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7月26日 最後通牒の手交 5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/26 18:41 投稿番号: [648 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
312〜313p
《「持ち帰れとはいったい何事ですッ。この通告書の伝達それ自体が物をいう
のであって、この通告書は決して我等一片のメモではない。
今日の交渉をそれほどまでに簡単に考えておられるようでは、折角の事ながら貴官が
伝達するというその言さえも、我々は疑いを挿 (さ) しはさまざるを得なくなって来た。
あなたがた二人は、責任をもってこれを宋委員長に伝達すると、
今、私の目の前で一札お書きなさい」
「そういわれれば仕方ありません。一応相談して参りますから……」
またもや二人は何事か密議をこらしに出て行ってしまった。
五分、十五分…。
「冗談じゃない。もう五時二十分ですよ。
たったこればっかりの交渉に丸半日も棒に携ってしまった」
「しかも通告書はまだ先方の手に渡っていないんだぜ」
「交渉している時間より、こうして待たされてる時間の方がよッぽど長いみたいだね」
秦徳純、張維藩、二人が再び戻って来た。
さきほどとは打って変って、ニコニコ微笑んでいる。
「松井さん、あなたはどうして今日はそんな怖い顔ばかりしているんですか、
もうちょっと朗らかな顔におなりなさいよ」
「問題はどうなったんです」
「ハハハ……致し方ありません。ご要求通り伝達します。領収証も書きましょう」
彼はそう言いながら呼鈴を押した。
戸口に現われたボーイに命じ、筆と墨と便箋を取り寄せた秦徳純は、我々の
目の前でスラスラと一枚の領収書を書き上げ、張維藩と二人でそれに署名捺印した。
「これでよろしゅうございますか」
機関長の前に差し出された領収書には、
「日本軍司令官香月中将より、二十九軍軍長宋哲元に提出せられたる通告書は、
我等両名においてこれを領収し、責任をもって宋哲元に手交す」
という意味が記されてあった。
私は横合いから嘴 (くちばし) をいれた。
「機関長殿、これでは単に手交するというだけであって、
いつ渡すとも書いてありません。時期を失したら意味をなさない事に
なってしまいます。即刻という二字を入れさせて下さい」
秦徳純はまた筆をとって、その側に即刻の二字を書き加えた。
「アハハハ……」
期せずして同時に起る双方の爆笑。
この日百三十度の炎熱下に、進徳社の客庁は蒸されるように暑かった。
そうした中で、二時間にわたる重苦しい雰囲気のうちに行なわれた折衝では
あったけれど、今、こうして通告書を中国側に手渡してしまうと、
ホッとして、これでようやく重荷をおろしたという感じだった。
しかし次に来たるべき問題は、彼等が果してこの通告文を、忠実に実行に移すか
どうかである。二十八日の正午までといえば、もうあとわずか四十時間しかない。
機関長と秦徳純とは握手を交わし、
随員の大木参謀以下も朗らかな談笑の中に数分を過ごした。
その時
「寺平補佐官、特務機関から電話がかかってきています」
とボーイがいった。私は立ち上って隣室の電話にかかった。
桜井軍事顧問が破れ鐘のような声を張り上げて、広安門の急を告げてきていた。》
つづく
これは メッセージ 647 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 最後通牒の手交 4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/25 18:39 投稿番号: [647 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
311〜312p
《「軍の方のご要求はタッタこれっきりなんですか」
突然、秦徳純がこうたずねた。
意想外な言葉である。九分九厘、激しい反駁だと思っていた私は、
いささか拍子抜けがして、禅問答でも始まったんじゃないかといった感に打たれた。
秦徳純は付け加えるように
「他には何もご要求はないのですね」
と念を押した。
「要件は通告書にあるだけです」
機関長は荘重に答えた。
もう一遍改めて通告書に目を通した秦徳純は、やがて話し始めた。
「この通告書で拝見しますと、日本側のご要求というのは、
単にこの間お約束した協定事項の期日が、若干早まったに過ぎないようです。
が今の場合すぐそうしろといわれても、実際問題としては到底困難な事
ですから、どうか今しばらく期日を延期するようにして頂きたいのです」
「現在の問題は、ただこの通告書を、宋委員長に伝達する事だけをしていただきたい。
伝達しないでおいて延期とか何とかいわれても、
私の方としてはご返事すべき筋合いじゃないのです」
「しかし実際問題として、実行不可能な通告書を、黙って受け取れといわれても、
それは私の方として、すこぶる苦しい立場にあるのです」
小手先外交にかけて梅干山千の秦徳純は、
こういった弁舌を弄して妨害をしかけて来るのだった。
機関長は声を励まし、断乎として言い放った。 「私の任務は通告書の伝達である。
任務以外には一切開く耳をもたぬ」
すると秦徳純がいった。
「あなたの任務は軍司令官の代理として、この通告書を伝達する事、
私共の任務は宋委員長の代理として外部と折衝する事、これは全く同じ立場です。
まあ同病相憐れむとでもいうところでしょうか」
何という人を食った言葉だろう。彼の面に、薄い笑いが漂っていた。
機関長はなかば怒気を含んで
「そんな事はどうでもよろしい。
いったい貴官はこの通告書を受取るというのか受取らぬというのか。
最初は責任をもってお伝えしますとキッパリ言明しておきながら、
今また立場がどうのこうのといっておられるが、
私には一向貴官の真意が捕捉出来ない。
貴官がどうしても伝達を拒まれるというのなら、この交渉は所詮決裂の他はない。
ことに宋委員長に伝達せぬというに至っては、
これ一に貴官の不誠意を暴露するものであって、
さきにお約束した部隊の移動、あの約束不履行に輪をかけた以上の不誠意だ。
冀察と日本との衝突の動機を作る者は実に貴官であり、今後日本軍が
いかなる行動に出ようとも、私は最早関知すべきすべを知らない」
秦徳純はややあわて気味に
「イヤ、伝達しないという意味じゃ決してないのです。
ただ、問題が極めて重大ですから、平素ご懇意なあなたに対して、
特に一応のご了解を願ってみた次第なんです。
ご趣旨はよくわかりました。私から確実に宋委員長に伝達いたします。
この書類はそうするともう、有っても無くても同じようなものですから、
どうぞお持ち帰りを願います」
機関長は眉を逆立てた。》
つづく
これは メッセージ 646 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 最後通牒の手交 3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/24 18:35 投稿番号: [646 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
309〜311p
《 突然、扉が開いてさきほどの二人が戻って来た。
機関長は吸いさしの煙草を灰皿の中にねじ込んだ。
秦徳純は愛想よく笑いながら
「本当に松井さん、お願い致します。どうか私達を信頼して下さい。
宋委員長には責任をもってお伝え致しますから……。
してその通告内容というのは、いったいどういう条件でございますか」
私は奉書の紙に青かれた
「第二十九軍に与うるの書」
を紫の帛紗 (ふくさ) から
取り出し、機関長に手渡した。機関長は無造作にそれを開いて、
しばらく黙読していたが、秦徳純の前に差し出して
「ご覧の通りです」
といった。
怖ろしいものにでも触れるような格好の秦徳純と張維藩とは、
緊張した顔付きで、二人寄りそうようにして日本文の通告書に眺め入った。
通告書の全文は次の通りである。
第二十九軍に与うる通告書
昨二十五日夜、郎坊において、通信交通の援護のため、派遣せる一部我が軍に対し、
貴軍の不法射撃に起因し、遂に両軍の衝突を見るに至りしは遺憾に堪えず。
かくのごとき事態を惹起 (じゃっき) するに至れるは、貴軍が我が軍との間に
協定せる事項の実行に誠意を欠き、依然挑戦的態度の緩和せざるに起因す。
貴軍において、依然事態不拡大の意志を有するにおいては、まず速かに盧溝橋、
八宝山付近に配置せる第三十七師を、明日正午までに長辛店に後退せしめ、
また北京城内にある第三十七師は、北京城内より撤退し、
西苑に在る第三十七師の部隊と共に京漢線以北の地区を経て、
本月二十八日正午までに永定河以西の地区に移し、
爾後引続きこれ等軍隊の保東方面への輸送を開始せらるべく、
右実施を見ざるにおいては貴軍に誠意無きものと認め、
遺憾ながら我が軍は独自の行動を執るのやむなきに至る。
これの場合起るべき一切の責任は、当然貴軍において負わるべきものなり。
昭和十二年七月二十六日
日本軍司令官
香
月
中
将
第二十九軍長
宋
哲
元
殿
一通り読み終った秦徳純は、フ,と吐息して張維藩に渡した。
そして脇の方を向いたまま、黙々と考え込んでしまった。
私は判断した。−
今、彼の頭の中では、通告書の内容、特に、
「二十八日正午までに」 「実施を見ざるにおいては」 「我が軍は独自の行動を執る」
「責任は当然貴軍において負わるべきものなり」
といった言葉が渦を巻いているに違いない。
決裂だ、戦争だ、そしていよいよ冀察政権最後の日来たる!
−
。》
つづく
これは メッセージ 644 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 広部大隊広安門へ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/23 15:05 投稿番号: [645 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
39〜40p
《 この日、午前十一時三十分、北京特務機関は、支那駐屯軍司令部から、
香月中将の宋哲元あて親書
『第二十九軍ニ与フルノ書』
の電送をうけ、
広部大隊が豊台に到着した三十分後、午後二時三十分、
ただちに宋哲元に手交せよ、との指示電をうけた。
そこで、広部大隊の入城は顧問桜井少佐が担任することになり、
機関長松井大佐と参謀大木少佐、補佐官寺平大尉は、
宋哲元側と連絡したのち、午後三時三十分、特務機関を出発した。
・・・
(ここの内容は
最後通牒の手交1、2に書いているので省略、)
・・・》
41〜42p
《 −
そのころ、広安門で 〝異変〟 が発生していた。
顧問桜井少佐は、午後三時五十分、特務機関を出発して広安門にむかった。
出発前に得た情報では、広安門付近は
「真夏の昼下り」
そのままのだるい静けさが
みなぎり、守備の中国兵も城門の周辺に寝そべっている、とのことであった。
だが、桜井少佐が現場に到着する前に、広部大隊の進出を偵知したためか、
中国兵は配備につき、城門も閉じられた。
桜井少佐は、城門守備を担任する連長王某にたいして、
「今しばらくすると、日本軍がトラックでこの城門を入ってくる。城内の (日本人)
居留民を保護するために来たのだから、通してほしい」
と述べ、開門をもとめた。
中国側の記録によると、やがて広部大隊が来着して、
「日本総領事館衛兵自野外演習帰来」と
「偽称」
したというが、その事実はない。
王連長は、北京の戒厳司令部に電話したのち、 「ハオ (好)」
と
桜井少佐に微笑し、城門をひらいた。
ところが、王連長が電話をきると、横にいた白色長衫姿の青年がその電話で
どこかと話していたが、秦市長から電話です、と告げ、
王連長が受話器をとっている間に、姿を消した。
王連長は、受話器を耳にあて、不動の姿勢を維持していたが、
やがて桜井少佐の前にもどると、顔色と形相を変えて、言明した。
「桜井顧問、秦市長から閉門せよとの厳命です」
「なに」
おどろく桜井少佐の耳には、はやくも鉄の門扉が閉ざされる重い音がひびき、
城壁では、中国兵たちが土嚢 (どのう) を積んで戦闘準備をはじめていた。
いや、そればかりではない。城門付近の民家はいっせいに戸をしめ、あたふたと
避難するらしい市民の姿もみえ、街角の巡警も棍棒をふりまわしてわめいている……。
桜井少佐は、王連長を相手にしてもだめだと考え、・・・さらに上級者
・・・と交渉すべく、現場をはなれた。》
つづく
これは メッセージ 644 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 最後通牒の手交 2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/22 18:37 投稿番号: [644 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
307〜309p
《 やがて無表情なボーイが出て来て、無言のまま我々を大客庁に案内した。
満面に笑みを湛えながら入口に出迎えたのは、京綏鉄路局長兼冀察の総参議、
張維藩である。
機関長が今日の来訪の趣旨を通ずると、張維藩は
「非常に暑いところを大変ご苦労様でした。どうぞお掛け下さい」
と言い、
煙草をすすめたうえ、言葉を継いで
「実は今日、宋委員長はあいにく頭痛で
休んでおられるのです。それで私が委員長の代理としてお目にかかり、
何のお話に限らず一切責任をもって、間違いなくお伝えする事に致しましょう」
と劈頭 (へきとう) から逃げを張って来た。
そこで機関長
「実は、今日、私は日本軍司令官の代理という資格でお伺いしたのです。
だからどうしても宋委員長にお会いしたい。
もしご病気というのならば、病室までお伺いしても構わない」
と強くいった。
それに敗けた張維藩は、都合を伺ってくると奥に去った。
ガランと広い大客庁、天井の扇風機の音だけがやけに耳に響く。大木参謀が
「宋哲元先生、もうすっかり参っちゃってるんだよ。
ここに顔を出せば機関長から例の懸案について突っ込まれるし、
そういつまでも放ってはおけないからなんとか即答しなけりゃならない。
頭も少しは痛くなるだろうさ」
といった。
張維藩はなかなか戻って来ない。庭先では油蝉がやかましく鳴き続けている
十五分ばかり経ってようやく張維藩が戻って来た。秦徳純も一緒にやって来た。
張維藩は座につくなり
「委員長は何とも高熱のためお会い出来ませんので
どうぞ悪しからず。その代り秦市長に来て頂くことにしました」
秦徳純は何となく浮かない顔に薄い笑みを浮べながら、小声で
「私と張局長と、二人で委員長の代理としてお話を承る事に致します。
今日は大事なお話があると承りましたが」
機関長は秦徳純の方に向き
「今日は私達、特別の任務をもってやって来ているんです。
委員長が病気というのなら長い時間はとらせません。一分でも三十秒でも結構です。
病室に通していただけませんか」
「その……今も申し上げたような次第でして……」
この押し問答がかれこれ十分以上も続けられた。
たいていの者ならシビレを切らしてしまうころだ。
我等が今、突き付けようとするのは最後の通告書一枚だけだ。
ただ一枚の通告書を宋哲元に手渡しさえすれば、それで機関側の任務は達成出来るのだ。
この土壇場に臨んで物を聞く必要もなければ、意見を述べる事も要しない。
温厚な機関長もいささかいら立って来た。
「通告書の手渡しさえいかぬといわれるからにはやむを得ない。
貴方のお考えは極めて明瞭だ。
全面的衝突を覚悟の上でこの通告書を撤回しろといわれるんですな」
仮病にせよ重態にせよ、我々のこれほどまでの懇望がきき入れられないのは、
彼に一片の誠意がないからだ。それだけはハッキリしている。
否、宋哲元が我々に会わないというのは、恐らく宋哲元の本意ではあるまい。
今や宋哲元に代ってこの冀察を牛耳っている秦徳純と馮冶安の二人が
中間に介在して妨げているに違いないのだ。
張、秦二人が
「それじゃあもう一回、伺って参りますから」
といって座を外した。
冀察の心臓部進徳社では、こうして日華双方の代表が虚々実々、
拡大か不拡大かの大きな疑問符をめぐって、お互いが画策する。》
つづく
これは メッセージ 643 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 最後通牒の手交 1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/21 15:20 投稿番号: [643 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
306〜307p
《 枚挙にいとまない二十九軍の不信行為、さすがに隠忍を重ねた天津軍司令部も
業を煮やした。 ことに郎坊事件の勃発によってその憤激は極度に達した。
ここにおいて軍は遂に、自衛権発動の見地上、軍本然の任務に還元し、
断乎席懲の師を起すことを決意したのである。
七月二十六日午前十一時半、天津軍司令部から北京特務機関長宛
「第二十九軍に与うるの書」
という、最後通牒的文書が発せられてきた。
一方、東京三宅坂の軍中枢にも、その最後の決意が報告された。
参謀本部作戦部長石原莞爾少将は、由来北進論の急先鋒だった。
ソ連をたたくためには中国など顧みている余裕はない、というのがその持論であった。
だから盧溝橋事件に対しては、徹頭徹尾不拡大方針を堅持し続け、
中央の空気を引ずり回した迫力はさすがであった。
「中国と事を構えるくらいなら、いっその事、天津軍司令官以下一兵に至るまで、
ことごとく満州国境まで引き退げてしまえ」
この一語は有名であり、彼の主張がいかに強硬だったかが窺われる。
だが、その作戦部長すらも、郎坊以後はついにさじを投げた形だった。
ここにおいて最高統帥は、天津軍司令官に対しその要請を認可した。
二十六日午後二時三十分、軍司令官香月清司中将は松井機関長あて
「貴官は直ちに宋哲元と会見し、前電 第二十九軍に与うるの書を手交すべし」
との電報を発してきた。
この日、北京の空は心地よく晴れていた。 百何十度の炎熱は頭の真上から
ジリジリ照りつけて、拭っても拭っても玉の汗が頼を伝って滴り落ちた。
それでも機関員達は、元気に充ち溢れていた。 いつの間に集ったのか新聞通信員達が、
機関の玄関前にカメラの包囲陣を布き、機関長一行の出馬を待ち構えている。
この歴史的通告の場面には、松井特務機関長の随員として、駐屯軍参謀大木良枝少佐、
私、そして武田嘱託が通訳として進徳社に同行する事となった。
紫の帛紗 (ふくさ) に包んだ通告書を、大切に抱え込んだ私は、午後三時三十分、
機関長に続いて北機第一号車に乗り込んだ。一行はこの日皆、背広を着ていた。
車は目ぬきの大通り王府井 (ワンフーチン) 大街へとさしかかった。
プラタナスの街路樹の木陰では、露天商人が鐘を鳴らし、
酸梅湯 (ソンメイタン) のはかり売りをやっている。大道理髪師はビーンという
音叉の音を響かせながら、理髪道具を荷って歩いていた。
最後の通牒とはおよそ縁の遠い、平和な風景がそこここにあった。
車は鉄獅子胡同、その名もいかめしい冀察の心臓部にかかっていた。
王者の邸宅を偲ばせて、丹青の美を凝らした豪華麗な純中国風の大建築、
これが宋哲元の弁公庁であり、また今日の会見場となる進徳社だった。
衛隊の兵数名が厳重にその入口を固めていた。我々の車がその大玄関に横付けにされると、
接待係の背の高い中尉が一行を内に誘導した。
金碧燦爛 (きんペきさんらん)、 色彩りもケバケバしい柱や欄間、
天井、進徳社の内部は日光の廟宇のそれにもまして美しかった。
我々は入って右側の控え室で、十分ばかりも待たされた。私はつぶやいた。
「正式会見の代表を、こんな控え室に十分以上も待たせるなんて
−
時間はあれほど念を入れて打ち合せしといたのに」》
つづく
これは メッセージ 642 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月26日 新たに軍用電線切断
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/20 15:03 投稿番号: [642 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
305〜306p
《 軍司令部からはこれより先、広部大隊の北京救援を電話で伝えてきていた。
その電話はまた
「部隊入城の経路方法については、現地機関において慎重
討議研究の上、最善の案を決定し、これを直接当該部隊に連絡せられたし」
という言葉が付け加えられていた。
そこでこの日、二十六日午前八時からの定例会議は、
特にその参集者を軍関係者だけに限定し、
議題として広部大隊北京入城の方法、並びに郎坊事件発生に伴う情勢判断について
討議研究し、十時前後には会議も一通り終了した。
私は小別当海軍武官と談笑していると檜垣機関員が
通信所長の高橋中尉から電話がかかっていると伝えた。
高橋猛中尉の電話によると今朝ほど豊台と北京の中間で軍用電線が切断されたらしく、
豊台へも天津へも全然通話が出来なくなってしまったとの事である。
「無線で連絡をとる以外、全然他に方法がありません。
断線の部分はそんなに遠いところじゃありませんから、汽車さえ出してもらえたら、
私自身、修理に行って来ようと思います。
特務機関から鉄道の方に、交渉していただけませんでしょうか」
「おあつらえ向きに、北寧鉄路局長が私のところに来ていて、
話をしている最中なんだ。早速連絡をとって上げよう」
私は、すぐその事を私の部屋に顔を出していた陳覚生と林耕宇に話した。
そして列車の準備を要求した。
その日午後一時半、高橋中尉の電線修理班には、機関側から笠井顧問と広瀬秘書、
二十九軍側から周思靖参謀が参加して、ガソリンカーに搭乗し、
北京正陽門東站の駅を出発した。徐行する車の中から、一々線路に沿う軍用線の
切断個所を点検して行くのだから、時間のかかる事おびただしい。
一行は南欠口の城門を出て、西約百メートルの地点で電柱が三本、
根元から伐り倒されて高梁畑の中に捨てられているのを発見した。
「ひどい事をしたもんだなあ。このくらいハッキリしていれば抗日の輩が
計画的にやった事は、だれが見たって極めて明瞭だ」
周参謀までが、 「こいつはヒドイですなあ」
を連発するありさま。
一隊は直ちに材料をおろして修理にかかった。
修理はなかなか思うようにはかどらない。埃にまみれ、汗ダクになりながら、
夕方六時までかかってようやく電柱四間隔の接続を完了した。
南欠口警備の中国兵はこれより先、周参謀から厳重な注意をうけていたので、
妨害行動には出なかったが、一行が応急修理を完了し、帰途につこうという間際になって、
急に不穏な態度に転じてきた。ガソリンカーが城門近くにさしかかると、
彼等は手に手に銃を携え、片手に柄付き手榴弾をふり上げて、
今にも投げつけようという気配を見せ始めた。
周参謀は運転台から半身を乗り出して城壁上の中国兵に向い
「誤解しちゃいかん、誤解しちゃいかん、これは二十九軍の専用車だ。
電線は全部の修理が完成しなかったから明日の朝もう一遍やって来る」
とどなった。機宜に適した措置によってあやうく引き起されようとした不祥事件も
未然に防ぐ事が出来、一行は七時半、無事正陽門駅に帰りついた。》
つづく
これは メッセージ 641 (kireigotowadame さん)への返信です.
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