7月18日 北上する中央軍との銃撃戦
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/10/23 16:17 投稿番号: [613 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
269〜270p
《 諜報というものは、動的と静的とに大別する事が出来る。
動的諜報というのは、いわゆるスパイ網を張りめぐらし、これを活発に働かせ、
相手の秘密、機密をすッぱ抜いてしまおうというもので、
二十九軍作戦会議の内容が、筒抜けに特務機関に洩れてきたり、また、
宋哲元が自動車の中で話した事が、我々の耳に伝わってきたりするのがそれである。
静的諜報は、無電によって相手の電波をキャッチし、入手した暗号を解読する。
今次事変においても軍直轄の特殊情報班は、よく遠隔地の中国軍の動向を、
実に巧みに掴んでくれたものである。
だから我々は、これによって中央軍が、京漢線や津浦 (しんぽ) 線を北上して来る情況を、
あたかも掌に指すように、知る事が出来た。
ことにさきに梅津・何応欽協定によって、華北を追われた中央直系軍、関麟徴の二十五師が、
協定に違反し、十三日夜、兵一千五百を保定に進めたという傍受電報は、
我々の神経を少なからず刺激したものであった。
この種の情報は、東京参謀本部特情第十八班においても、キャッチしていたのだから、
軍中枢の情勢判断が、これによって常に正しく行なわれていた事は、いうまでもない。
七月十八日午前十時半、我が偵察機が一機、天津の飛行場から西南の空に飛んだ。
これは特情に基く中央軍の北上輸送を確認するため、
京漢線に沿って、河南省境までの空中偵察に向ったものであった。
一望千里、見波す限り坦々として、緑の毛氈を敷きつめたような大平原、
その沃野の真っ唯中に黒く一線を引くもの、これすなわち目ざす京漢鉄路である。
一千五百メートルの高度を保って邯鄲 (かんたん)、磁州、順徳と次第に進み、
午前十一時二十分、ショウ (サンズイ+章) 河の上空にさしかかったころ、
ポッカリ白い煙を吐いて北上する、一ヶの列車を発見した。
機はその内容を確かめようと急角度に降下した。
彼我の距離がグングン接近してくる。
列車は有蓋車と無蓋車とを雑然と連結し、その数四十輌余り。
それに灰色の軍服を着た中国兵がギッシリ一杯、詰まっているのがはっきりわかる。
突如、中国兵は我が機めがけて、小銃、機関銃を乱射し始めた。列車の最後尾からは
高射砲が射撃を始め、ドーナツのような煙の輪が、機をめぐって前に後に開き始めた。
偵察機の機関銃が直ちに火を吹いた。銀線のような細い煙が列車めがけて、
降り注いで行く。百五十発の機関銃弾が、中国兵の上に浴せかけられたのである。
列車はガックーン! 大きく動揺して急停車した。
車上の中国兵は蜘蛛の子を散らしたように、高梁畑の中に逃げ散った。
中国側の公表するところによると、このとき彼は死者二名、
重軽傷者十数名を生じたとのことである。
偵察機は機首を北に向けると、さらに石家荘、保定、タク (サンズイ+薰−石) 州、
琉璃 (るり) 河方面の中央軍配置状況を偵察し、反転、天津に引き返していった。
この戦闘は極めて短時間のものであったが、中央軍と、増加日本軍との初顔合わせ
という意味において、特筆されるべき性質のものだった。
中島顧問をしていわしむれば、 「子供の喧嘩に親が出たキッカケ」
という事にもなるであろう。
北からは関東軍が、また東からは我が朝鮮軍が、一日一日盧溝橋の戦場に近づきつつある。
一方南からは蒋介石の中央軍が、いま、この戦場に向って極めて緩やかではあるが
逐次近迫して来つつあるのだ。》
つづく
269〜270p
《 諜報というものは、動的と静的とに大別する事が出来る。
動的諜報というのは、いわゆるスパイ網を張りめぐらし、これを活発に働かせ、
相手の秘密、機密をすッぱ抜いてしまおうというもので、
二十九軍作戦会議の内容が、筒抜けに特務機関に洩れてきたり、また、
宋哲元が自動車の中で話した事が、我々の耳に伝わってきたりするのがそれである。
静的諜報は、無電によって相手の電波をキャッチし、入手した暗号を解読する。
今次事変においても軍直轄の特殊情報班は、よく遠隔地の中国軍の動向を、
実に巧みに掴んでくれたものである。
だから我々は、これによって中央軍が、京漢線や津浦 (しんぽ) 線を北上して来る情況を、
あたかも掌に指すように、知る事が出来た。
ことにさきに梅津・何応欽協定によって、華北を追われた中央直系軍、関麟徴の二十五師が、
協定に違反し、十三日夜、兵一千五百を保定に進めたという傍受電報は、
我々の神経を少なからず刺激したものであった。
この種の情報は、東京参謀本部特情第十八班においても、キャッチしていたのだから、
軍中枢の情勢判断が、これによって常に正しく行なわれていた事は、いうまでもない。
七月十八日午前十時半、我が偵察機が一機、天津の飛行場から西南の空に飛んだ。
これは特情に基く中央軍の北上輸送を確認するため、
京漢線に沿って、河南省境までの空中偵察に向ったものであった。
一望千里、見波す限り坦々として、緑の毛氈を敷きつめたような大平原、
その沃野の真っ唯中に黒く一線を引くもの、これすなわち目ざす京漢鉄路である。
一千五百メートルの高度を保って邯鄲 (かんたん)、磁州、順徳と次第に進み、
午前十一時二十分、ショウ (サンズイ+章) 河の上空にさしかかったころ、
ポッカリ白い煙を吐いて北上する、一ヶの列車を発見した。
機はその内容を確かめようと急角度に降下した。
彼我の距離がグングン接近してくる。
列車は有蓋車と無蓋車とを雑然と連結し、その数四十輌余り。
それに灰色の軍服を着た中国兵がギッシリ一杯、詰まっているのがはっきりわかる。
突如、中国兵は我が機めがけて、小銃、機関銃を乱射し始めた。列車の最後尾からは
高射砲が射撃を始め、ドーナツのような煙の輪が、機をめぐって前に後に開き始めた。
偵察機の機関銃が直ちに火を吹いた。銀線のような細い煙が列車めがけて、
降り注いで行く。百五十発の機関銃弾が、中国兵の上に浴せかけられたのである。
列車はガックーン! 大きく動揺して急停車した。
車上の中国兵は蜘蛛の子を散らしたように、高梁畑の中に逃げ散った。
中国側の公表するところによると、このとき彼は死者二名、
重軽傷者十数名を生じたとのことである。
偵察機は機首を北に向けると、さらに石家荘、保定、タク (サンズイ+薰−石) 州、
琉璃 (るり) 河方面の中央軍配置状況を偵察し、反転、天津に引き返していった。
この戦闘は極めて短時間のものであったが、中央軍と、増加日本軍との初顔合わせ
という意味において、特筆されるべき性質のものだった。
中島顧問をしていわしむれば、 「子供の喧嘩に親が出たキッカケ」
という事にもなるであろう。
北からは関東軍が、また東からは我が朝鮮軍が、一日一日盧溝橋の戦場に近づきつつある。
一方南からは蒋介石の中央軍が、いま、この戦場に向って極めて緩やかではあるが
逐次近迫して来つつあるのだ。》
つづく
これは メッセージ 612 (kireigotowadame さん)への返信です.