入って中国人に南京事件真相議論しましょう

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

7月26日 広部大隊北京居留民護衛決まる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/18 18:30 投稿番号: [640 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
314〜315p

《 事変勃発以来刻々迫って来る北京の危機、日本大使館はとうとう、居留民に
対して内地引き揚げの勧告まで、発しなければならぬようになってきた。

そこで居留民の多くは、内地へ、朝鮮へと引き揚げて行き、七月の下旬ごろ、
北京に留っている邦人の数は、事件前の約半分、およそ二千人に減っていた。



ところが城内に在って、この二千人を保護すべき日本軍兵力は、
歩兵わずか二ヶ中隊である。

これに対し、北京城内に充満している中国兵は、
実に三ヶ旅というおびただしい数だった。

北京の留守警備隊長岡村勝実中佐に与えられた居留民保護の責務はいかなる
戦術判断をもってしても、まったく不可能に近い問題だといわなければならなかった。

単身特務機関を訪れて来て、情報を交換していく岡村中佐の立場こそ、
悲壮そのものというべきだった。

松井機関長や今井武官は、岡村中佐の姿を見る毎に、留守隊長の心情に同情していた。



もちろん、天津の軍司令部も北京のこの情勢は十分わかっている。
しかし北京増援の兵力を他から捻出する事は、不可能に近い状態だった。

郎坊事件が勃発したとき、朝鮮から駆けつけた鯉登連隊を、
郎坊の戦線に注ぎ込まねばならぬ実情だったのである。

だが、事態がこれほどまで悪化した以上、北京城内にいつ飛び火しないとも限らない。

ひとたび城内の中国軍が蹶起したら、尼港 (にこう) 事件の残虐が
再現されるだろう事は必至だった。

七月二十六日、午前一時過ぎ、香月軍司令官はこうした事態に対処すべく
軍の総予備としていた、天津駐屯歩兵第二連隊第二大隊に対して、

次の要旨の命令を下した。 「貴大隊は直ちに天津を出発、一路北京に急進し、
北京警備隊長岡村中佐の指揮下に入り、居留民の保護に任ずべし」



二十六日の黎明五時三十分、天津海光寺の兵営を出発した
広部広少佐の大隊は、東站停車場から乗車した。

この報に北京二千の居留民達は、 「救援隊来たる」   と手の舞い足の踏むところ知らなかった。

二十六日午前八時、北京特務機関の応接室では、松井機関長を中心として、
岡村中佐、今井武官、桜井、笠井両軍事顧問、赤藤憲兵少佐、大木良枝参謀、

小別当海軍武官、補佐官の私の合計九名が額を集め、
広部大隊北京入城の具体的方法について協議した。



当時の情勢下における、城外部隊の北京入城法、といえば、その経路が二つあった。
一つは豊台から列車に乗ったまま、北京前門 (チェンメン) 駅に乗りつける方法、

一つは豊台から自動車に乗り換えて、広安門経由、公使館区域に入る方法である。

ところが列車による経路を考えてみると、まず北京城外永定門駅に、
中国軍の歩兵一ヶ連が常時頑張っている。

事変以来、ここを往き来する日本人が、列車の中で銃剣と青竜刀で威嚇され、
ほとんど裸体にされるほどの峻烈な取調べをうけた事は一再ではない。

列車がさらに城内に進むと、南欠口、東辺門、あるいは哈達門 (ハーターメン)、
前門という要所要所に、それぞれ一ヶ連宛の兵が同じように頑張っていて、

城壁上からは絶えず列車をにらみ下している。



それに比べると広安門の方は、同じように一ヶ連の中国兵がいるとはいうものの、
難関といっては、ただこの一ヶ所だけである。

交渉の仕方によっては、それほど困難という情況ではない。
盧溝橋事件勃発以来、一、二ヶ分隊くらいの日本兵は、連絡だとか何だとかの名目で、

ちょくちょくここを出入りしている。現に二十二日には、軍旗さえここを脱出する
ことに成功しているではないか。会議の結論は、広安門経由入城だった。》


つづく
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)