入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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1939年 影佐大佐に丁黙邨の計画を説明

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/07 18:40 投稿番号: [1880 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
60〜62p


《「それよりも君。丁黙邨とは何者だい。それを早く聞かせろよ」



どこまでも親切な大佐にうながされてやっと気をとり直した私は、

彼らのいう国民党の更生運動と特務工作について、くわしく報告した。

だが、たった二日間聞きかじっただけの特工を、

影佐大佐のような中国関係の権威にどうしてうまく説明できよう。

しかし、大佐はたどたどしい私の話を、深く興ありげに眼を輝かしながら聞いていた。



「面白そうじゃないか。やりよう次第ではものになるかもわからないね。

だが君にはやり遂げる覚悟ができてるのかい」

「覚悟があるか」   とは、何をいうのだろう。

私はその意味がよくわからないので、

微笑する大佐をけげんな顔つきで見上げただけだった。



「いや、僕も中国人には随分だまされてこれまではひどい目にあったものだ。

だが、疑うばかりでは何もできない。

目途があったら断行して最善を尽くし、それで駄目だったら天命をまつだけだ。

大切なのは途中で挫折しないことだ。

君の考える特務工作は強引すぎて無理な点もあるが、

筋道が立っとるから僕としては賛成したい。



しかし、たやすくは成功しないだろう。

事情を知らない人々は工作が暴力的だというだけで辛らつに批判をするから、

責任の地位に立つ者はきっと苦境に立つ。

僕も昭和八年に天津で暴力団をちょっと使ったというだけで、

八方から非難されてひどい目にあった。どうだい、君はそれでもやれるかい」



大佐の言葉には私の決意を試すほかに、うっかりと多難な工作に飛び込もうとする

後輩の前途を気づかういつくしみが満ち溢れていた。

「苦労は覚悟の上です。

こうしてお願いにでる前に一晩寝ないでいろいろ考えました。

その点は大丈夫です」



「わかった。では明後日もう一度ここに来たまえ。

それから参謀本部の方には担任の課長、部長にだけ説明したまえ。

どうなるかはっきり決まるまでは、

関係がない人にはあまりしゃべらん方がよかろう」



会心の笑みをもらした先輩はもう電話をとり上げて、

参謀本部と謀略担任の課長と何か相談していた。

かゆいところに手がとどくいきとどいた手配だった。》



つづく

1937年12月12日 第16師団佐々木隊の戦い2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/07 18:32 投稿番号: [1879 / 2250]
佐々木倒一少将の日記
十二月十二日   つづき


《 紫金山北麓の敵野砲も亦盛に撃つてきた。

第一線歩兵の攻撃は幸に着々進捗、遺棄死体等に依つて判断するに

我支隊当面の敵は第七十八師と四十八師の一部であるらしい、

数倍の敵を刻〃圧迫しつゝあるのであるから痛快である。



正午頃我右翼前方に在つた敵を撃退し得たのでこゝに再び左旋回を行ひ

南京城北側地区に進出することに決した。

一時頃堯化門   (地名)   附近の雑樹林に於て転身に関する命令を下した後

行動に就く、然るに該地を去つて五分間も経たぬうちに

敵の迫撃砲弾が予の立つてゐた土饅頭に命中、それをふッ飛ばした。



紫金山北麓を前進して是より先敵既設陣地の攻撃を開始した

歩三三の第一大隊は多数の死傷者を生じつゝも敵を圧迫してゐるので、

これを拠点として我支隊主力は左旋回を為さねばならぬ、

然るにその進路は砲兵の前進に適せずとの砲兵斥候の報告であり

砲兵大隊長も不可能であるとの意見なる故

砲兵を堯化門に残し歩兵のみを以て前進することに決した。



本道から畑の中の間道に入つて間もなく忽ち石橋の落とされてゐるのに会ひ、

工兵小隊に依つて修理を加へる間、

兎も角歩兵の各部隊殊に山砲は苦辛しつゝ畑の中に進入する。

・・・

午後三時頃紫金山北麓岔路口附近の敵撤退す、戦は勝ったとの感がする、

しかし正面の敵はまだ頑張つてなかなか撃退することはできない。

夕刻興街村着、紫金山の裾の寒村。一小隊を直ぐ左の高地に上げて

左翼を警戒、前面からは小銃弾がプスプスやつてくる。 》

1939年 影佐課長に会う晴気氏

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/06 18:43 投稿番号: [1878 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
58〜60p


《 私は久かたぶりにながめる皇居の美に、しばしうっとりとしていた。

土肥原中将の電話命令によって、呉佩孚工作の続行を請願し、

また丁黙邨らの和平運動に対して、どんな   「日本の回答」   を与えてよいか、

中央の意向を聞きに空路上海から東京に飛んできたのである。



うす汚い木造二階建ての陸軍省が、参謀本部の裏手にゴミゴミと建っていた。

「やあ来たのか。久しぶりだったね。さあ、はいりたまえ」

「軍務課長」   としるされた部屋の入り口でばったり出会った

影佐禎昭   (かげささだあき)   大佐は、いつものように気さくにこういいながら

私に微笑みかけ、そして自ら先に立って、私を軍務課長室に導いた。



影佐大佐は、私が最も尊敬し、また恩義にもなった中国関係の先輩だった。

思慮の浅い私が今日までを大過なく過ごせたのは、

いつに影佐大佐の温かいいつくしみと、行きとどいた訓陶のおかげによるものだった。



「その後どうだい。随分苦労したなあ。だが、よい修業になったね」

他人行儀な挨拶がきらいな影佐大佐は、いきなり呉佩孚工作を談じて、

その失敗があたかも自分の責任であるかのように悲しみ、そして同情してくれた。

「それを報告したいと思って上京したのですが……」

「いや、もうすっかりわかっているよ。

一昨日上京した北支軍の参謀からくわしく聞いたが、厄介なことになってしまったね」



「土肥原機関がまずかったのです。ご心配かけてすみませんでした。

しかし、土肥原閣下はまだいろいろと努力をしておられます。

もうしばらくの間、このままつづけさせて下さいませんか」

私の女々しい繰り言を気の毒そうに聞いていた影佐大佐は、しんみりと声を落として、



「それはちょっとむずかしいね。

実は今しがたの会議で呉佩孚工作はやめると、決めたばかりなのだ。

土肥原さんにはお気の毒だが……」

「そうですか。でも、そこを何とかして下さい。お願いします」

意気ごんだ私は、いつの間にか立ち上がってとりすがったが、

軍務課長は慰めるように力なくつぶやいた。



「もうおそいよ、君。それに駄目なものにはあんまりこだわってはいけない。

だが、そんなに心配しなくてよいだろう。

工作が失敗したのは、あんな無理な計画を押しつけた中央部に責任があるのだから」

私は嘆息した。やっぱり、そうだったのか。

北支軍の参謀に一歩先んじられたのだ。万事休す。



一年の努力が水泡に帰した土肥原中将の痛々しい姿が目にしみる。

上海に帰って何といって土肥原中将に報告したらよいだろう。

こうなった上はいさざよく責任を負うよりほかはない。

自責の念に耐えられなくなった私は、もはや言うべき言葉もなく、

ただ歯を食いしばって、打ちひしがれたようにうなだれてしまった。



「それよりも君。丁黙邨とは何者だい。それを早く聞かせろよ」》


つづく

1937年12月12日 第16師団佐々木隊の戦い1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/06 18:32 投稿番号: [1877 / 2250]
《 佐々木倒一少将の日記
十二月十二日


終夜咳が甚しくて睡つては醒   (さ)   めして安眠が取れず、

一個月来の作戦に疲労したからだにはかなりこたへた。

早朝起きて見たが頭が割れるばかりに痛みどうにもならず、

重大時期にと考へて見ても重い頭はやはり重い。

「副官、困つたな。これでは何も考へられん」

「お休みください、ご計画通り吾   (われ)   々でやりますから」

「うむ」



藁   (わら)   の中に寝転んで見たが激しい銃砲声を聞いては寝ては居れない

午前十時頃に至り遂に意を決して飛出し銀孔山に指揮所を進めた。

塹壕やその後方の斜面は実に夥   (おびただ)   しい敵の死体である。

部隊は昨夜命じた部署に就いて曹長から敵の主陣地帯を攻撃してゐる、

今日中に之を攻略しなければ敵の退路を遮断することができない。

そう考へるから病気なんかの為寝てはゐられなかつたのである。



見ると前面近くの高地に三八長が突ッ立つて督戦してゐる、

(やつて居るな)   併   (しか)   し予は直ぐさま電話を以て

「軽挙はするな」   と云つてやつたのである。

指揮官の勇敢なる態度は必要であるが、高い姿勢は敵弾を吸収する、

そして損害を受けるものは周囲にゐる者である。

だがこゝにも高い姿勢が敵陣地を注視してゐ敵の小銃弾が盛んにやつてくる。



鳥竜山砲台から又撃つてくる、高地の稜線後にゐても砲台からは丸見えである。

又この砲台の高射砲は最後迄我軍の飛行機を射撃してゐた、

三門斉発の射弾が丁度吾々の頭上に炸裂するのを凄〃見た。


我十加   (10センチ・キャノン砲か?)   が一万米の射距離で制圧射撃を始めた。

観測所が現在同じ所に在るので砲撃の結果を刻〃知ることができる。

命中弾を得たと云つてゐた。 》


つづく

1939年 計画に煩悶する晴気氏

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/05 18:45 投稿番号: [1876 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
56〜58p


《 思いは果てしもなく駆けめぐって、いつまでたっても寝つかれない。

国民党の全国代表大会とはどんなものか知らないが、丁たちの工作が成功すれば、

少なくも上海のテロ対策だけには役立つような気もする。

汪兆銘が行っている和平運動の発展に備えて、

丁黙邨たちに上海の地ならしをやらせておくのも一案だ。



しかし、問題は李士群がいったように工作を援助するとしても

彼らが信頼できるかどうかということだ。

子供をまさか人質にはとれないが、だまされることが全くないとは誰が断言できよう。



私は日本軍が広東を占領する以前にあった挿話を思い出した。

広東の奥地にいた李福林という匪賊が、独立運動を起こしたいと、

澳門   (マカオ)   の日本特務機関に兵器と資金を借りに来たことがあった。

さっそく参謀本部で調査した結果、よかろうということになって、

要求通りのものを彼に与えた。だがそれはまんまと一杯食わされる結果となった。



李福林は日本軍から兵器と金を奪った功労で中将に任官した。

こうした李福林の場合の日本の失敗は、物質的の損害だけですんだ。

だが、丁黙邨らにだまされたときには、

逆に日本軍が身の毛もよだつ惨害を受けるだろう。



もしやだまされなかったとしても、その指導を適正にするのは容易な業でない。

藍衣社を相手にしたこの特務工作が、わずか六カ月で終わるとも思われないが、

工作をいったんはじめた以上は中途では援助をやめられない。

だがそれでは経費だけでもたいへんな金額となってしまう。

疑えば限りなく、疑うまいとしてもすぐ疑いたくなる。

援助すべきか否か、悶々と一睡もしないうちにとうとう夜が明けた。



窓を開けると久しぶりの快晴で、

森には小鳥が早春のおとずれを嬉々として謳っている。

東の空には太陽が金色の光を放って静かに昇り、

一片の雲もない大空は青く無限に澄みわたっていた。

私は澄みきった李士群の瞳を思い出した。



そして私の心はやっと定まった。あの瞳はうそいつわりのないきれいな瞳だ。

あの瞳の美しきを信じて援助という大事業を断行しよう。

さっそく土肥原中将の許しを受けて東京に急行しよう。

中央で認可されたら、必成を信じて最善を尽くすだけだ。



北京とはすぐ連絡がとれた。

聞き慣れた土肥原中将の声が受話器の奥から、とぎれとぎれに聞こえてきた。

「思い切りの悪い呉佩孚が、依然として匪賊を招撫していたのが

山東省で見つかったらしく、北支軍はすっかり怒ってしまっている。

だが、なんとか円満に解決したいと骨を折っている。

君はなるべく早く上京して大本営に実情を報告してくれ。

丁黙邨たちの運動は、土肥原個人としては援助したいと思う」



呉佩孚工作もいよいよ最後の壁にぶち当たったらしい。

土肥原機関もどうやら空中分解をまぬがれまい。

情勢が急迫しているだけに、何とか早く丁黙邨らの工作援助に乗り出さねばならない。

私は直ちに東京に馳せ向かわねばならなくなった。

・・・

その夜、私は   「急用のため東京に行くが、またすぐ上海に帰ってくる」

と簡単に丁黙邨に通知した。》


つづく

1937年12月12日 南京城攻略戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/05 18:34 投稿番号: [1875 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』
213p


《 第二十三連隊第三大隊も、十五センチ榴弾砲の支援をうけて城壁にせまり、

午後四時四十四分、第九中隊が、工兵が人柱でささえる仮橋をわたって

西南角城壁を占領した。

・・・

第九、第十六師団方面はいぜんとして苦戦がつづき、

第九師団第三十六連隊は催涙ガス弾攻撃をうけた。

・・・


214p

第六十六連隊主力は、中華門突入をこころみたものの、

門扉を破壊できずに攻撃を中止した。

第六師団地区では、第十三連隊が奮起していた。

師団の攻撃主力三個連隊のうち、

第十三連隊だけが城壁に日章旗をたてずに夜をむかえたからである。



第一大隊長十時和彦中佐は、第二中隊長松本正雄中尉に

「正子」(午前零時)   を期して中華門城壁を突破せよ、と命じた。

この夜は陰暦十一月九日。前半夜は月があるので、

月が沈んでからの攻撃を企図したのである。



目標の城壁は、第四十七連隊の右側にあたり、

第二中隊は、吉住義継少尉指揮の突撃隊を先頭にして、

工兵が立ち泳ぎしながらささえる渡橋をわたり、未明に城壁を占領した。

しかし、こうして南京城の南壁は日本軍の軍靴に制圧されたが、

他の囲壁は健在にみえた。



「我ガ砲兵射撃ヲ開始セバ、敵砲兵沈黙シ、我射撃ヲ中止セバ、

彼レ又射撃ヲ開始セリ」

という状況がつづき、南京城攻略には、なお一日の力攻が必要だと判断された。》


*   ここで注目すべきは、中国軍が   「催涙ガス」   を使っていたということです。

   日本軍が、同じ物を使ったら、 「毒ガス」   と、毒々しく宣伝されます。

1939年 工作計画にビビる晴気氏

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/04 18:53 投稿番号: [1874 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
54〜56p


《 歯には歯、テロにはテロ、ピストルにはピストルというのだ。

何という恐ろしい計画だろう。私は紙上に並んだ文字を見ただけで戦慄した。

これは現世に血の池地獄を生もうとするものだ。

暴力の乱用以外の何ものでもないではないか。

党大会以後の資金は、商民からの献金によると謳っているが、それは略奪を意味する。

仁侠の徒は武装すればゴロツキの集団となる。私は思わず強い口調で激しく非難した。



「これは乱暴な計画ですね。恐ろしいことになります」

「こんな殺伐なことは私も嫌いです。

だが、藍衣社はこうしてわれわれを攻めてきています」

計画を頭から否定されたと思って、

あわてた李士群は丁黙邨に遠慮しながら、必死になって所信を述べはじめた。



「悪い所は指摘して頂けば、ご指示通り訂正いたします。

だが問題は計画の内容ではありません。

この計画が誠実なものだと信頼して頂けなければ援助はお願いできません。

そこで昨日お目にかかったばかりの私たちが、

友邦の信頼を得るにはどうすればよいかということになります。



こんな一片の紙上計画をご覧に入れただけで早速助けて下さいとは、

申す方が無理とは重々承知しています。

もちろん私は一命にかけてあなたを裏切らないとお誓いしますが、

それだけでどうなりましょう。

ついてはさっきの子供ですが、わがまま者で困っていますから、

あなたのお手元でしばらく躾け直して頂けないでしょうか。

あつかましいお願いでまことに恐縮ですが、私どもの衷情に免じて是非お願いいたします」



真剣な必死の眼でじっと射るように私を見つめた李士群の顔には、誠意が満ち溢れ、

ついにはその眼には白いものさえ光った。

李士群は目の中に入れても痛くない最愛の子供までを人質に預けるから、

それに免じてどうか信用してくれというのだ。

家族を犠牲にしても、国難を打開しようというのだ。

それほどまでにつきつめた彼らとは思いがけなかったので、

私は彼のそうした気迫に押されてたじたじになってしまった。



そして辛うじて、「可愛い坊っちゃんでしたね。でも困りますよ。

私にはとても子供さんの面倒はみられません」   と力なく微笑みながら、

それとなくやっと人質を拒絶することができた。

日はもうとっぷり暮れて果てて、食堂には夕食の準備ができていた。

だが私は情けの締め木にかけられて決心を強要されるような気がして、

その座にはもうとどまることができなかった。

早く解放されてゆっくり一人で考えてみたかった。

そこで彼らの切なる引き止めを断り、帰路を急いだのであった。



すっかり疲れ果てて、北四川路の宿舎に帰りついた私は、そのままベッドに入って、

めまぐるしかった今日一日の出来事を思い浮かべていた。

特工とはえたいの知れない恐ろしい工作である。

片っぱしから相手を暗殺するような恐ろしいことが

この世の中で行われていいのだろうか。》


つづく

1937年12月12日 外国船爆撃・パネー号沈没

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/04 18:43 投稿番号: [1873 / 2250]
石田勇治   編集・翻訳   『資料ドイツ外交官の見た南京事件』   大月書店

11日の記述からの続き
16〜17p


《 接触はまず一二日の朝、日本軍の奇襲砲撃のさなかにおこなわれた。

この砲撃で英国人水兵一名が命を落とし、オドネル大佐も右手の指一本を失った。

しかし英国人たちは、こうした日本軍の前代未聞の挑発行為にもめげず交渉を続け、

その席で蕪湖の橋本大佐から、

長江上の全船舶にたいして砲撃命令が下っていることを聞き出した。


この告白は、日本側にとってはこのうえなく都合の悪いものとなった。

降臨節の第三日曜日   〔一二月一二日〕   は、光り輝く朝日をあびて穏やかに明けた。



午前中、引き船と平底船に乗った日本軍歩兵たちがわれわれの近くで上陸し、

[いつものように]   岸辺とジャンクで無実の民間人を数名殺害した。

その後、かれらは停泊中のわれわれの船団の周囲を航行したが、

それはわれわれが中立的で平和的な船団であることを確信する絶好の機会となった。



この少し前、パナイ号はスタンダード・オイル社の三隻の米国タンカーとともに

そばを通過し、われわれの視界の及ばない上流の和県付近に停泊した。

日本軍上陸部隊がわれわれの船団を視察した後、

もはやこれ以上の襲来の危険はないと思っていた。



しかし、予想外にも一三時三〇分、突然何の通告もなく、日本軍爆撃機三機が

ハルクにつながれていた大きくて豪華な標的、黄浦号に三回攻撃を加え、

地上約三〇〇メートルまで降下して爆撃した。

九発の爆弾   −   そのうち一発は不発弾   −   が直撃弾とならなかったことは奇跡と

いうほかない。しかし風圧と破片で黄浦号と、とくにハルクに甚大な被害がでた。



この攻撃の後、

クリケット号のアシュビー海軍大尉   −   いまや軍務歴最長の英国将校   −   は

外国人をただちにハルクと黄浦号から砲艦クリケット号とスカラブ号に移し、

集結していた船団を散開するよう命じた。

われわれが小さな引き船に乗って黄浦号からクリケット号に乗り移ったとき、

日本軍の無法きわまりない爆撃機がふたたび飛来し、

〔英国〕アジア石油会社のタンカーの船尾すれすれに六発の爆弾を投下した。



ついにアシュビー海軍大尉は、自らの責任において、二隻の砲艦から砲撃を開始した。

機関銃各二丁、小速射砲各二砲、三インチ砲各二砲による攻撃である。

ただし、六インチ砲は対空防衛には不適なため使用しなかった。

その断固とした責任感あふれる行為によってアシュビー海軍大尉は、

英国船団を恐るべき運命から守った。



だがこのとき、数マイル上流の米国人は

まさにその恐るべき運命に見舞われていたのである。

一六時一〇分の三回目の攻撃で、日本軍は四個の爆弾   −

今回は迎撃されたため目標からだいぶそれた   ―   を投下した。

これでわれわれは総計一九発の爆弾を頂戴した。

日本軍砲兵隊はこの前日には黄浦号に二四発の砲撃を加えていた。》



*   この爆撃機は海軍機です。

   この日   他に、英国砲艦レディバード号が陸軍から砲撃を受け、

   米国砲艦パナイ (パネー) 号は16時過ぎの海軍機空襲の後   沈没しました。

   この事により、外国人の対日感情が悪くなります。

   なお、陸軍が南京虐殺したと証言している奥宮正武はこの爆撃実行犯です。

   まだ、陸軍は南京を落としていません。

   南京事件という話は、これが原因で始まったかも。

1939年 丁黙邨ら計画を見せる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/03 18:38 投稿番号: [1872 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
52〜54p


《 冷静さを失って狂喜した丁黙邨は、

李士群と顔を見合わせて感謝の言葉を発見するのに苦しんでいた。

だが私には、たったそれだけのことで丁たちがなぜ、

こんなに喜ぶのかまだよくわからなかった。



私は丁黙邨の手にある   「上海特工計画書」   を見て、

「立派な計画がありますね。拝見させて下さい」   といった。

丁黙邨はさも大切そうにそれを取り上げて、バラバラ頁を繰りながら、

「これは資金などの援助を日本から受けたと想定して作ったものです。

どうぞご覧下さい」



それは毛筆を常用する中国では、珍しくもペンで書かれた計画書だった。

表紙の上隅には   「呈晴気先生、乞叱正」

また裏面には   「二月五日李士群、葉吉卿写之」   と記されてあった。

私に贈るべく李夫妻が協力して昨夜筆写したものらしかった。


方針、要領、工作の組織、工作拠点の構築、情報、工作の実施、

行動隊の編成と運営、資金の運用、兵器の保管と修理、防牒、

規律の維持などの項目にわけて詳細に記述されていた。



まず方針には、

  「抗戦派を打倒して、国民党を更生改組し、すみやかに和平中国を建設する」とあり、

これがため重慶の特工と闘ってこれに打ち勝ち、更生国民党の基盤を上海租界に建設し、

国民党全国代表大会を招集して党の憲章を修正し、更正国民党を合法化する。

代表大会の招集は工作開始後六カ月目と予定する。

また工作の実施にあたっては、友邦、既成政権と密接に連絡する。



要領には、

「敵の組織を奪取して、我が有とし、

以て敵の活動源を崩壊させると共に我が方の勢力の強化に資する」

「工作の実施には、流血をなるべく避けるが、敵が暴力を行使すれば、

直ちに報復してその蠢   (しゅん)   動を封殺する」

また   「綱紀を確立し規律を厳守する。敵に通じたものは九族を併せ処断する」



行動隊の項には、

「工作の推進力として編成し、威力を併せ用いる工作と報復に使用する」

「行動隊員としては、さしあたり市中の仁侠の徒の中から、

勇敢かつ射撃術に長ずるもの百五十名を選んで軍事訓練を行い、

逐次、精悍な青年党員と交代させる」



また情報の項には、

「情報蒐集の重点は藍衣社、市党部の企図を偵諜することに置くが、

藍衣社の上層部社員、市党部委員の行状を明らかにするため、

さしあたりその日常生活を究明する」

「情報蒐集の手段としては、聞きこみ、敵の文書の奪取などのほか、

敵を拉致して自白を強要する。

その他科学捜査など可能と思われるすべての手段を併用し、

とくに敵の無線通信を盗聴してその企図を未然に把握する」



  資金兵器の欄には、

「党大会までの工作の経常費として毎月二十万円を友邦から借り受ける。

党大会終了後は党員の寄付にまつが、不足分は商民から献金させる」

「行動隊の武装および工作に用いるために大小の拳銃三百挺と

少量の爆薬を友邦から借りうける」》


つづく

1937年12月11日 他の陸軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/03 18:28 投稿番号: [1871 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』


上海派遣軍

424p

《 第十三師団は、十一日、一部をもって図山要塞を奪取し、

主力は同日鎮江に集結し渡河を準備した。》


428p

《 軍司令官は、第十六師団の右翼方面の攻撃を容易にし

かつ敵の東方に向かう退路を遮断するため、

十一日、渡河のため鎮江に待期中であった第十三師団の山田支隊を

南京北側に派遣して烏龍山及び幕府山砲台を攻略するよう部署した。》



《 第三師団は、十一日、軍命令に基づき先遣隊を第九師団の左翼に進出させた。》



第十軍

425p

《 十一日、軍司令官は第十八師団を杭州攻略に参加させるため、

南京に向かう追撃を中止し、主力を太平、蕪湖の間に集結させた。》


《国崎支隊は、十一日、同地北方慈湖鎮付近で揚子江を渡河し左岸に移動した。》

1939年 丁黙邨らとの会談4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/02 14:58 投稿番号: [1870 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
51〜52p


《 そこで日本から援助を受けて工作をつづけたいと思い、

特務機関や海軍、総領事館などと相談しましたが、

国民党の更生運動だという一言だけで、どこへ行っても相手にされませんでした。



土肥原さんには最後の希望をかけてお目にかかったのですが、

それでもどうしても駄目ならば、再び独力によって新しくやり直すつもりでした。

でも将軍は実に熱心に私たちの話を聞いて下さいました。

思いがけなかった私たちの喜びをご想像下さい。

私たちは将軍にお目にかかって、日本人にはじめて親しみと尊敬を感じました」



私の先輩に酒井隆   (終戦時、第二十三軍司令官、戦犯処刑)   という将軍がいた。

彼は参謀本部の支那課長だったときに、私たち若い参謀連に

「日本人は相手の話に惚れやすくて困る。

中国人のたくみな口車には、特に警戒しないと失敗する」

とよく教えたものだった。



丁黙邨のこの話を聞いているうちに、私は酒井課長の戒めも忘れて、

丁黙邨たちと苦楽を共にした同志にでもなったような錯覚に陥り、

彼をなんとか援助してその素志の達成に協力したいと思った。



だが日本の国策は反共滅党と決められていたので、

今の私の力では、どうしてそれを変更できよう。

丁黙邨らの国民党更生による和平運動を直ちに援助することは、

まず不可能のように思われ、厚い壁にぶつかった感じであった。

私は真っ暗な絶望を感じながら、こういった。



「いろいろと有益なお話をうかがい、

われわれとしましても、たいへん参考になりました。

あなた方のご苦心の段、重々お察しします。

土肥原さんもできるなら助けてあげたいといっていました。

しかし出先のわれわれとしては残念ながら、

今のところこれだけしか申し上げられません」



丁黙邨は私の言葉がまだ終わらないうちに立ち上がって、

感謝にふるえる手をさしのべていった。

「いや結構です。ご厚情は感謝に耐えません。親切にそういって頂いただけで満足です。

ありがとう。こんなうれしいことはありません」》



*   「日本人は相手の話に惚れやすくて困る。

   中国人のたくみな口車には、特に警戒しないと失敗する」


   この警告は今でも通用します。

   相手の話に惚れやすく、中国人のたくみな口車に、

   簡単に乗ってしまう日本人のなんと多いことか。



つづく

1937年12月11日 海軍の揚子江啓開

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/02 14:50 投稿番号: [1869 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   465〜466p


十一日の経過

《 鎮江下流右岸は我が陸軍部隊の進出により、

残敵はおおむね掃蕩された模様であった。

「掃一、掃三号」(一掃第三小隊)   は   07:00   泊地発、 「山風、海風」   の

前路を掃海し、大港鎮まで嚮導した後、亀山から裕龍洲立標までの探海を実施した。

また田村一掃司令は第一、第二小隊の掃海艇四隻を率い   09:00   泊地発、

主隊の前路を掃海し、裕龍洲下端付近まで進出した。



14:00   ころ、第二十四駆逐隊及び   「安宅」   からの派遣陸戦隊は

尹公洲及びその対岸に上陸、管制機雷衛所及び電纜を捜索したが、

成果なく、 18:00   ごろ打ち切った。

また右岸に上陸した陸戦隊は、陸軍部隊と協力、焦山を占領した。



「保津、勢多、二見、熱海、比良」   並びに一掃各艇は、 16:25   泊地発、

丹徒水道を探海しつつ遡 (そ) 江し、都天廟狭水道付近に達するや、都天廟砲台

(十二糎 (センチ) 砲四門)   及びその東方陣地から猛烈な射撃を受けた。

これに対し、 16:30   第二十四駆逐隊各艦は掩護射撃を開始し、

神川丸機も協力爆撃を行った。



各艦艇は弾雨の中、掃海を続行し、17:00   ころ都天廟敷設線を掃海突破した。

拘束機雷はなかった。

本戦闘において各艦艇の船体各部に機銃弾が命中したが、

人員その他被害はなかった。



なおこの日   「比良」   は捕虜から焦山方面に機雷は敷設してない旨の情報を得た。

同艦に続き   「勢多、保津」   が焦山南水道を突破して鎮江に突入、

18:00   桟橋に横付けした。

この日、第一水雷隊   (隼、鵯欠)   は第一警戒部隊に編入され、 「栗」   が除かれた。》

1939年 丁黙邨らとの会談3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/01 15:39 投稿番号: [1868 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
49〜51p


《「これはたいへんなことですね。四面まるで敵ではありませんか。

いったい、どうすればこの敵と戦って勝てるのでしょうか」



私の驚きに李士群は微笑して答えなかったが、丁黙邨があとをすぐ引き取っていった。

「私たちはまず市党部と藍衣社をやっつけます。

この二つの始末さえできたら、其の他は自然に霧消して、上海の形勢は一変します。

市党部の委員には私の旧部下が少なくありません。

内部は派閥の争いがはげしく綱紀紊乱   (びんらん)   して統一を欠いています。

これらの弱点を巧みにつけば、案外簡単に党組織を、

そのままそっくり頂戴することができるかも知れません。



何といっても藍衣社は一番の強敵ですが、

その情報員が生活に困って動揺しているのが何よりの弱点です。

藍衣社員といえどもすべてが志操堅固とはいえません。

私たちはわが方に獲得した情報員からその連絡網をたどって、

組織のなるべく上位にいる者に近づいてゆき、これを説得して薬寵中のものにします。

そしてそれらのものを手先にして、彼らが支配していた組織をこちらのものとし、

こうして藍衣社の組織をなし崩しにしてしまいます」



敵の組織をそのまま横取りする。

これが丁黙邨らが計画した特務工作の基本方針だった。

こんな奇想天外のうまい策略はあるまい。

その案が実行できるならば、執拗な上海のテロも根絶できるだろう。

だが、果たしてそんなことができるであろうか。

彼らはいかにも自信ありげに大言を吐くが、

いうべくして果たして行われるだろうか。私はまたしても大きな疑問に襲われた。



そうした私の胸中をいち早く察した丁黙邨は、またもや鞄から分厚な書類を取り出した。

それには   「上海特工計画書」   と銘打ってあった。

彼はその書類を手にしたまま、語りはじめた。

「私たちはこの工作を本年初頭から独力で始め、

まず第一着手として情報網を組織しましたが、

あとの資金がつづかなくなってゆきづまりました。

李君の会社が日華合弁の船会社に強制的に合併されたので、

あてにした収入を失ったからです。



そこで日本から援助を受けて工作をつづけたいと思い、

特務機関や海軍、総領事館などと相談しましたが、

国民党の更生運動だという一言だけで、どこへ行っても相手にされませんでした。》


つづく

1937年12月11日 攻撃される外国船

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/01 15:31 投稿番号: [1867 / 2250]
石田勇治   編集・翻訳   『資料ドイツ外交官の見た南京事件』   15〜16p


《 ハルクは、日本軍にとっくに知られた場所に停泊し、

同じ場所には英米の商船の他、英国砲艦のクリケット号とスカラブ号も集結していた。

他方、米国砲艦のパナイ号はまだ南京付近にとどまっていた。

一二月一一日土曜日の朝、英国の長江航行汽船黄浦号がわれわれの停泊地にやってきた。

われわれは、その船の方が居住環境がよいとのことで、そちらに移動した。



ハルクでは、この間に焼け落ちたブリッジハウス・ホテルの英国人オーナーたちの

手で立派な食事が提供されてはいたが、そこの生活ときたらまるで大きな木賃宿であった。

下層甲板は四、五〇〇人の中国人難民 − 英国系企業の従業員とその家族 − で

満杯のため、ヨーロッパ人に使えるのは小部屋を三つ備えた大きな事務室一つだけであった。



黄浦号で初めての食事をとった直後、

南京の南側一帯で作戦展開中の日本軍砲兵隊にわれわれが狙われていることに気づいた。

かれらは型どおりの態勢で二手に分かれ、

黄浦号と、英国郵政委員が南京の郵政当局のために緊急避難場所として

チャーターした望東号をめがけて砲撃してきた。



全船舶が上流に向けて出航し、

われわれはさらに一時間以上も砲弾の追撃にさらされながら航行を続けた。

何発かの砲弾が船をかすめて作裂し、破片は甲板に飛び散って救命ボートを貫通した。

ハルクの船上に固定されていた   はしけにも砲弾が命中し、三人の中国人が命を落とした。

だが上流に向かっていたのが幸いして、ハルクはそれ以上の砲火を免れた。



黄浦号のマッケンジー船長はきわめて冷静に行動し、

南京上流約一五マイルの地点で停泊することを決めた。

「そこなら、たとえ撃沈されても上部甲板は水面に出たままであろう」

とのかれの言葉は大きな慰めとなった。

オドネル海軍大佐も、砲艦とその他の英国商船を同じ場所に停泊させた。

黄浦号に曳航されたハルクも夜の闇にまぎれてそちらに向かった。



私はこの砲撃事件の後、漢口駐在の   〔ドイツ〕   大使と上海総領事館に電報を送り、

日本に抗議をおこなうことと、今後この種の攻撃や空襲にたいする

われわれの身の安全確保を要請した。

この間、英国海軍少将で長江   〔艦隊〕   提督ホールトは、

参謀将校オドネル大佐に、翌朝蕪湖で自分と落ち合うよう命じた。

かれらの目的は、すでに現地入りしていた日本軍と接触することであった。

私の同僚の英国人書記官と英国大使館付武官が大佐に同行した。

接触はまず一二日の朝、日本軍の奇襲砲撃のさなかにおこなわれた。》



12日に続く



*   日本軍が確認もせずに攻撃してきたのはケシカランと思う人も多いでしょう。

   しかし、なぜ、日本軍がこういう態度をとったのかも考えるべきです。

「1675   ルール無用の中国式戦法」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1675

でも書いたように、中国は外国の旗を悪用していました。

そうすると、船が外国の旗を掲げているからといって信用できません。

また「1679   英国人の中国軍援助」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1679

でも書いたように、英国人は中国軍に援助していました。

そうなると、外国船を信用しなくなっても仕方がないでしょう。

この船の人たちに罪はありませんが、上海における中国のデタラメなやり方が、

日本軍にこういう行動をとらせたのです。

1939年 丁黙邨らとの会談2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/31 18:46 投稿番号: [1866 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
47〜49p


「丁さん、国民党の和平運動を起こすとして、

上海にはいったいどれくらいの敵がいますか」。

丁黙邨は話題が運動の細部の点にだんだん触れてきたので、ひどく嬉しそうだった。

わが意を得たとばかりニコニコした彼は、

書類がギッシリつまった鞄から一枚の大きな図表をとり出した。

それは   「上海抗戦団体一覧表」   と題した大きな図表であった。



「これは李君が調査したものですが、これでご説明しましょう。

まず抗日勢力の骨幹ですが、それは国民党の党組織です。

上海における党組織の正統な元締めは、上海特別市党部です。

その下に十個の正党部と、各学校労働組合、文化団体などの中の特別党部があり、

これを市党部が統轄して党の基本的活動を規制し、

軍統局の指導下に抗日政治活動を展開しています。



抗日運動の別動隊としては、青年抗日会、婦女抗日会、抗日鋤好団と

共産系の抗日救国会、人民戦線などの多数の民間団体がありまして、

それぞれの部門で抗日活動を行っています。



上海周辺の遊撃隊を指揮する統制機関としては江南遊撃隊総司令部があり、

各地の遊撃隊と連絡して情報の交換、兵器弾薬の補給などに任じています。

特工組織の主なものは藍衣社、C・C団、三民主義青年団などで、

いずれも地下工作に狂奔しています。

各団体の組織、責任者、勢力、資金関係はここにくわしく書いてあります。



これらの団体は重慶軍が奥地に引き下がって、上海が孤立状態になったころから、

その活動がだんだん弱化しましたが、昨年   (昭和十三年)   の夏に

軍統局が特工を指導するようになってから、勢力を盛り返しました。

軍統局では第一処と第二処が、市党部と藍衣社の組織を中心として最も活躍しています。

とくに第一処長の戴笠は、上海を重視して工作責任者をそれぞれ独立して

三人も派遣し、互いに功を競わせています。



軍統局の情報網は、ご覧の通りフランス租界を中心に南京、杭州にまでのびて、

維新政府の内部、上海特別市政府、工部局、鉄道、埠頭、電話局、市場、

歓楽場、主要デパートなどに手広く張りめぐらされて、

日華要人の行動、市民の動静を偵知して情勢の推移をいながらに把握しています。



藍衣社の幹部は日本軍憲兵の追跡を逃れるためにホテル、アパートなどを

転々として居所を絶えず変えていますが、情報中枢は第三国系大銀行の楼上とか、

某国領事館の地下室などの安全な場所に常設しています。

この表はご参考までに差し上げましょう」



それは私がこれまで見聞した日本側の調査とは、

とうてい比較にならぬほど素晴らしく精細を極めたものだった。

私は貧弱な日本軍の資料を思って心中ひそかに恥じた。

そうして憲兵隊の林少佐にこれを寄贈したならば、

どんなに喜び感謝されるだろうかと思いながら、

いつまでもひきつけられるようにこの図表に見入っていた。》



つづく

1937年12月11日 船舶攻撃命令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/31 18:37 投稿番号: [1865 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   207〜208p


《   谷中将から情況説明をうけるうち、

後方の砲兵隊観測所から   「敵船逃走中」   の叫びがきこえ、

左手の揚子江を遡航する汽船五隻がみえた。

すかさず砲撃が命令されたが、野砲の射程がみじかく、砲弾は江上にとどかない。



第六師団参謀長下野一霍大佐が、蕪湖に位置する野戦重砲兵第十三連隊

(橋本欣五郎大佐)   による重砲射撃を進言した。

だが、間にあわず、第十軍司令官柳川中将は、午後六時、国崎支隊に次のように下令した。



「南京ノ攻略   目睫   (もくしょう)   間ニ迫リ、敵ノ退路ハ

揚子江   及   浦口方面ノ 二箇所ニ   限定セラル。  

国崎支隊ハ   昼夜兼行、最モ速   (すみやか)   ニ 浦口ニ突進シ、

敵ノ退路ヲ遮断シ   且ツ   揚子江ヲ退却スル   敵汽船ヲ撃滅スベシ」



  ついで、蕪湖地区の第十八師団にも!


「敵ハ……汽船ニ依リ……上流ニ退却中ナリ。

尚 今後引キ続キ   退却スルモノト   判断セラル。

第十八師団ハ、蕪湖付近ヲ 通過スル船ハ   国籍ノ 如何ヲ 問ハズ   撃滅スベシ」



この   「国籍ノ如何ヲ問ハズ」   命令は、乱暴である。

第三国船が中国兵を輸送していることを確認したうえでの攻撃ならともかく、

そうでなければ国際法違反であり、その国にたいする攻撃に通ずる。

現に、これまでも日本側は、 「日中戦争」   における列国の権益

と人命尊重について格別の注意を各部隊に厳達している‥‥‥。



第十軍司令官柳川中将としては、

しかし、汽船の遡航イコール中国軍の退却とみなし、

その命令の語調が告げるように、

ひたすら南京城攻略と中国軍主力繊滅を督励する一念に燃えていたのである。》



*   この汽船は外国人の上流避難船だったのですが、

   この勘違いによる攻撃命令が翌日国際問題を引き起こすことになります。


注:   目睫   (もくしょう)   間    目とまつげの距離ということで、

    非常に近いことを意味します。

1939年 丁黙邨らとの会談1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/30 18:38 投稿番号: [1864 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
45〜47p


《 長い楽しい食事がすんで客間でゆったりとくつろいだ私たちは、

日華間の戦争の将来についていろいろ率直に意見を交換したが、

そのとき、丁黙邨は   「蒋介石を相手にせず」   という国民党を否定した

日本の減党政策を論じて、次のように結論づけた。



「日本側が和平を達成するには、まず中国民衆に協力を求めねばなりません。

ところが民衆は国民党を信頼し、国民党の政府に従っています。

民衆を実際に動かし世論を現実に定めるのは、

彼らに日頃、直接接触して彼らを常時指導している国民党の青年党員です。



だが国民党員は必ずしも抗戦を主張するものばかりではなく、

その中には和平派も少なくありません。

和平派はみんな日本と協力して、一日も早く和平を図りたいとひそかに念願しています。

しかし、抗戦とか和平とか争っていても彼らは等しく党を愛し、

党を滅ぼしたくないと思っています。

蒋介石を相手にしない日本の滅党政策は和平派の党員を絶望させ、

日本側が彼らを敵側に強いて立たせている形になっています」



それはまさに丁黙邨の言葉の通りであった。

私は重慶と日本のいずれにもいれられない丁黙邨たちの苦しい立場に、

深く同情せざるを得なかった。

次に私は日本側がつくった維新政府の将来について、

彼らがどんな考えを持っているかをただしてみた。

「維新政府は国民党に全面的に反対していますから、

国民党の和平派もこれと一緒にはなれないでしょう」



私は丁黙邨らの和平運動、すなわち国民党の更生運動は、

維新政府をどう考えているのか、それが知りたかったのである。

それは彼らの和平運動が敵にどんな大きな打撃を与えるものであっても、

決して味方を傷つけるものであってはならない。

いいかえると、それは建設途上にある維新政府を動揺させるものであってはならない。

華北における呉佩孚工作の失敗は、身にしみている。



それに対して丁黙邨はいった。

「いいえ、それは違います。

国民党も立党精神は今のような排他的なものではありませんし、

維新政府の方でも国民党の和平派までも本心から排撃しているとは思えません。



それにわれわれは維新政府の力の及ばない租界で和平運動を起こして

国民党更生の基礎をつくろうとするだけで、

政権の把握などはまだ考えてもおりません。

もちろん将来はわれわれの手で政府を組織して

和平を全国に推し進めねばならない時がくるでしょうが、

それはわれわれのこの運動が上海で成功して実力を獲得した後のことです。


しかし、そうなったときでも、われわれは維新政府の諸公を

和平運動の先輩として、あくまで尊敬するつもりです」



せっかちな私には、のらりくらりとして捕まえどころのない

北方の中国人との交渉は苦手だったが、南方の丁黙邨は、

こうしてざっくばらんに本心を打ち明けてくれるのでたいへんに助かる。


これで彼らが企図する運動の方向はだいたい了承できた私は、

国民党の更生運動は維新政府に影響を与えずに行うことができると知ったので、

それならばこれを援助しても差し支えがないようにも考えたが、

丁黙邨たちにそれを完遂できる実行力が果たしてあるかどうかには

疑問があると思った。それを知るため、またこんな質問をした。》


つづく

1937年12月11日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/30 18:27 投稿番号: [1863 / 2250]
《   十二月十一日   八時

水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。

ときおり、いくらか静まる。次の攻撃にそなえているのだ。

どうやらこれがうちの   「ペーター」   のお気に召したらしい。

さっきから声を限りに合奏している。

からす   (ラーベ)   よりカナリアのほうが神経が太いようだ!



爆音をものともせず、道には人があふれている。

この私より   「安全区   (セーフティ・ゾーン)」   を信頼しているのだ。

ここはとっくにセーフでもなんでもないのだが。

いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。

いくら追い出そうとしてもむだだった。

これでは、安全区は非武装だと日本軍に知らせたくともできないじゃないか。



九時

ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店   (ヘンペル・ホテル)   の前と後ろだ。

十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。

このホテルを管理しているシュペアリングが、ガラスの破片で軽いけが。

ホテルの前にとまっていた車が二台炎上。さらにもう一発、榴弾   (こんどは中学校)。

死者十三人。軍隊が出て行かないという苦情があとをたたない。



鼓楼病院の前に − ということは安全区側だ − 砦が築かれることになった。

だがこれを命じられた中国軍の将校は、通りの向こう側で作業するのを断ってきた。

事態を丸く収めようと、私はマギー牧師と一緒にその将校に会いに行くことにした。

山西路広場   (バイエルン広場)   を通りかかったとき、

広場の真ん中で兵士たちが穴を掘って隠れているのをみつけた。

角の家は軒並み兵士たちにこじ開けられている。

目の前で次々とガラスや扉が壊されている。なぜそんなことをするのだろう?

だれに聞いても、わからない、という!



けが人がひっきりなしに中山路に運ばれて行く。

砂袋、引き倒した木、有刺鉄線の柵でバリケードを作っているが、

こんなもの、戦車がくればひとたまりもないだろう。

鼓楼病院の前で例の将校に砦を築くように頼んだが、

相手はおだやかな物腰ながら断固拒否した。

病院から龍に電話で報告すると、さっそく唐将軍に問い合わせるとの返事。



十八時

記者会見。出席者は、報道陣のほかは委員会のメンバーのみ。

ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦パナイで発ったのだ。》


つづく

1939年 李士群宅での状況説明

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/29 18:31 投稿番号: [1862 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
42〜44p


《「今日はたいへん失礼しました。どうか気を悪くしないで下さい。

実はあなたがこちらにお出でになることが洩れたらしく、

藍衣社の一派に妙な動きがあったので警戒したのです。



公園前が危険でしたが、もう大したことはありません。

ただ、向こう側の邸の窓から狙われているように思われて気になっています。

どうも昨日の連絡電話がまずいことになったようです。

ここの電話も敵に盗聴されているようです。

ともかくご迷惑をかけまして、申し訳ありません」



李士群のこの言葉には、身を賭して私を守ろうとする誠意と気迫が溢れていた。

うかつな私は、かねがね藍衣社の名は聞いていたが、それがこれほどまで機敏な、

そして周到な情報組織をもった恐るべき敵であるとは知らなかった。

いまさらながら、この見えざる敵のすさまじい戦意に驚いた私は、

まことに恥ずかしいことながら思わず、



「そうでしたか。藍衣社というやつは恐ろしい敵ですね。

おかげで助かりました。ありがとう」   と本心を吐き出してしまった。

いま一秒、楡の木の下に立っていたら、どんなことになったであろうか。

私は物かげに光る不気味な銃口を思って、慄然とした。



こうした敵とこれから取り組まなければならないのか。

好奇心は不安を呼び、不安はやがて恐怖を引き起こした。

しかしながら私を狙った藍衣社の尾行ぶりをあまり聞きただすのは、

ますます臆病者だと思われそうで癪だったので、

強いて無関心を装って急いで話題を変えた。



「結構なお住居ですね。奥さんもご一緒ですか」

丁黙邨は、私が李士群に礼を述べたので、不機嫌そうな様子を見せていたが、

この質問でますます不快な顔を露骨にした。そして、

「いいえ、ここは李君の邸です。風来坊の私は妻と二階に居候をしています」

と投げやりにいって李士群を振り返ったが、

その眼には李士群の豊かな生活をうらやむ色がはっきり浮かんでいた。



「滬西はひどい住宅難で、空き家なんかありませんよ。

何しろ日本軍は敵産と称して、目ぼしい家を使いもせず、

みんな押さえていますからね。まったくひどいものですよ」



かつての下僚の家に、半年以上も居候を決めこんでいることだけで不快な思いを

している見え坊の丁黙邨に、これ以上嫌な気持ちを起こさせまいとしたのだろう。

李士群は丁がまだ一家を構えていないのは家を押収されているからだと、

ことさらに目をむいて大げさに日本軍の横暴を非難した。

だが屈託がなくて朗らかなその仕草は人を思わず笑わせるユーモアが溢れ、

丁黙邨も私もこれにつりこまれて、プッと噴き出してしまった。》



つづく

1937年12月10〜11日 和平案改訂検討作業

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/29 18:22 投稿番号: [1861 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   463p


《 大本営陸軍幕僚部では、十日、参謀次長の下に関係者が集まり、

前記の解決処理方針を基礎として、独大使に交付すべき前文及び条文を研究

作成し、条文は十一日、大本営陸軍部の決定とした。



これより先、政府は、大本営側に連絡することなく、

十日の閣議で、独大使に交付する   「前文」   を決定し、

同日十三時半、外相がこれを内奏したので、

陸軍幕僚部作成の前文は、単に意見開陳にとどまった。》

1939年 尾行をまく李士群

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/28 18:34 投稿番号: [1860 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
41〜42p


《 突然、黒い大型の自動車がどこからともなく私の傍にすべり寄ってきた。

手を振って挨拶した李士群の白い顔がチラリと車窓に見えた途端、

飛び下りてきた屈強な男が、怒鳴りつけるようにかん高く叫んだ。

「危険ですから、急いで下さい」



次の瞬間、何もわからぬままに、私は李士群の車のなかに引っ張りこまれていた。

あっという間もない瞬間の出来事だった。

生まれてはじめて乗せられた防弾自動車だった。

車体はすっかり鋼鉄で包まれていて、

窓の特殊ガラスは厚さ一寸にあまる見るからに堅牢な車である。



「早く、早く……」

李士群はしきりに運転手をせき立てる。心地よい重い震動を立てながら、

私たちの防弾車は、大西路の住宅街を弾丸のようにすっ飛ぶ。

運転台と補助席では、四人の中国の壮漢が前と横とに

監視の眼をいからして警戒をつづけている。



李士群は一言もなく、私にしっかりと寄りそって車窓の外をにらみつけている。

車の中は息づまるような重苦しい緊張がはりつめている。

もののけにつかれたように暴走する車は制止も聞かず、イギリスの歩哨線を突破した。



突如、合図らしい警笛がけたたましく鳴らされる。

李士群は   「ここです」   と大きな邸宅の黒い鉄門を指さしたが、

奇怪にもそのまま防弾車は全速でその門前を走り過ぎた。

それからなお五分間ぐらい狂気のように走りつづけた揚句、

二度目の長い警笛とともに、いかめしい鉄門の中にふっと吸いこまれた。

気をつけてみるとそこは先刻の鉄門であり、邸宅であった。

ここはどうやら滬西の大西路らしい。

察するに追手をまくため、ところかまわず走りまくったらしい。



玄関には丁黙邨が心配そうに出迎えていた。

「早く門を閉めろ」 「外の警戒を怠るな」   と後ろで誰か鋭く叫んでいた。

「さあ早くなかに入りましょう」   李士群は面食らってどぎまぎしている

私をせきたてて、有無をいわさず奥の間に引っ張りこんだ。



見るからにすごい形相をしたたくさんの中国人たちが、

それぞれ棍棒や拳銃で武装して、庭先や部屋で目を光らせて立っていた。

隊長らしい中年の肥満した男が早口で報告にきた。

丁黙邨と李士群は眉をひそめてそれに聞きいった。

鬼気が迫ってくるような異様なざわめきだったので、私もだんだん不安になってきた。



だが、席に落ち着いた丁黙邨は、冷静を取り戻して、

昨日、重光堂で受けたもてなしを厚く謝した。

李士群も、丁黙邨の後ろから控え目ながら口を開いた。》



つづく

1937年12月10日 陸海軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/28 18:28 投稿番号: [1859 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   465p


《 十日の経過   主隊三江営に進出    三江営陣地の敵はほとんど壊滅したが、

亀山砲台はなお厳存し、焦山水道には数線の管制機雷があって

丹徒鎮以北の進出は慎重を要する情勢であった。



田村一掃司令は   「掃六、掃五号」 (第一小隊)   を率い、

09:00   から三江営上流の偵察、残敵掃蕩及び亀山砲台の強行偵察を実施し、

亀山砲台の三粁付近まで進出、同砲台を確認し砲撃した。敵は反撃しなかった。



15:00ごろ、 「比良、勢多」   は三江営付近を制圧、 「江風」   は、

神川丸飛行機と協力して亀山砲台を制圧した。

この日、 13:10   旗艦安宅、山風、海風、掃一、掃三号は

三江営付近に入港して田村隊と合同した。



また陸軍天谷支隊は鎮江を占領した。

南京方面の我が陸軍各部隊は   13:10   総攻撃を開始した。》



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   428〜429p

上海派遣軍

《 第十六師団が、・・・十日から紫金山及びその両側地区を攻撃、・・・

第九師団は、・・・十日、右翼隊をもって南京東郊の敵を攻撃・・・

左翼隊は、十日、光華門及び雨花台東端の敵を攻撃し、

光華門の城門を占領したが、じ後は戦闘が進捗しなかった。》



第十軍

《 第百十四、第六師団を並列して・・・、

十日から雨花台の第三線陣地及び複郭陣地を攻撃、・・・

第六師団は、十日、一部を揚子江河岸から前進させた。》

1939年 晴気氏 丁黙邨らに会いに行く

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/27 18:53 投稿番号: [1858 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
38p


《 その翌朝早く、土肥原中将は呉佩孚工作の善後策を講ずるため、

北京へ飛び立っていった。

土肥原中将を雨中の飛行場で見送った私は、そのあと、

車を滬西のゼスフィルド公園に飛ばせた。

土肥原中将の命により、もう一度丁黙邨らに会うためである。



こちらからあらかじめ会見の申し入れをしたのに対して李士群から、

「それでは、ゼスフィルド公園前でお待ちしています」

  との電話連絡があったからだ。


  上海の西隅にあるゼスフィルド公園へ行くには、共同租界に入り、

南京路から競馬場前を静安寺路へ出て、なおも西へ西へと突っ走らなければならない。

それは当時、相当危険な仕事であるといわれていた。

なぜならば、この租界が重慶側の各種機関を温存して、

抗日テロの策源地となっていたからである。》



40〜41p

《 日華戦争は従来の租界のありかたを一変させた。

戦争のはじめごろ、租界の東部は中国軍の攻撃を受けて一時は危殆に瀕したが、

それ以後そこは日本軍の作戦基地となった。

中国軍の撤退に伴って華中の中国主権はすべて維新政府に引き継がれたが、

蘇州河以西の租界   (以下単に租界と呼ぶ)   には、

重慶側の支配を受ける法院その他各種の機関や団体がたくさん残っていた。



したがって日本は重慶側残存勢力の一掃と、

中国政府機関の引き渡しを租界当局に要求した。

しかし、列国は重慶政府を中国の正統な政府だと認めていたので、

租界当局も重慶機関の活動を許し、

かえって日本勢力の租界進出をさえぎる態度をとった。



こうして厳正中立を主張した租界内では、

その実、重慶勢力が抗日運動に狂奔し、その取り締まりをめぐって

新しい紛争が租界当局と日本側との間に起こっていた。



私は蘇州河を越えて、はじめて重慶テロの巣窟たるその租界内へ

足を踏み入れたのだから、まさに薄氷を踏む思いである。

旧年来の大売り出しで、上海きっての繁華街南京路は雨にもめげぬ人の波だった。

車はもう競馬場のそばを西へ走っていた。


そこでは今日もテロがあったらしく、非常警戒で通行を止められた中国人が、

路上いっぱいに満ち溢れ、ひしめいていた。



静安寺の横から愚園路に出て突き当たったところが

上海名所の一つ、ゼスフィルド公園であった。

青い美しい池の面をたたえたゼスフィルド公園は、

氷雨に寒々とぬれて、人もまばらだった。

その公園の外に大きな楡   (にれ)   の木がただ一つ、灰色の空高くそびえている。

その喩の木の下に背広姿でさりげなくたたずんで静かに煙草をくゆらしていたのは、

私であった。李士群としめしあわせた密会の場所である。》

1937年12月10日 唐生智「開城勧告」を無視

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/27 18:41 投稿番号: [1857 / 2250]
早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   127p


《 武藤章参謀副長と中山寧人情報参謀、公平匡武高級参謀、岡田尚の四人は、

午前三時、一台の車で蘇州の司令部を発った。

南京の中山門外に着いたのは、八時間四十分後の午前十一時四十分。



四人は、十二時五分、十分をすぎても、その場で待ちつづけた。

しかし、待てど暮らせど、軍使は姿を見せなかった。武藤章参謀副長が、

「やっぱり駄目だったか。さあ帰ろう」 と、ため息をついた。

がっかりしたことと、眠っていなかったためか、武藤ら三人の参謀は、

帰りの車の中でぐっすり眠った。


ただ一人岡田は、翻訳のできが悪かったからではないか、と責任を感じ、

眠れぬまま八時間先の蘇州の司令部へ引きかえした。 》



* 中山門外で中国軍軍使を待っていた人に、武藤章参謀副長とあるが、

   これは早瀬氏の間違いで、塚田攻参謀長が本当らしい。

   中山寧人氏の東京裁判証言では塚田攻参謀長となっている。

   (富士信夫著   『「南京大虐殺」   はこうして作られた』   154p)



児島襄著   『日中戦争4』   198p


《 司令官唐生智は、「大日本陸軍総司令官」   松井大将の投降勧告は無視し、

回答期限の正午がきても、軍使を派遣することはなかった。

   −   その正午、

中支那方面軍参謀長塚田攻少将は、南京・中山路東方の前線で

中国側軍使の到来を待っていたが、城門がひらかれる気配はなかった。


  方面軍司令官松井大将は、午後一時、下令した。

「支那軍ハ、我勧告ヲ容レズシテ   依然抵抗ヲ続ケツツアリ。

  上海派遣軍   並 (ならび) ニ第十軍ハ、南京城ノ攻略ヲ続行シ

  城内ヲ掃蕩スベシ」》



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   428p


《 九日、方面軍司令官は、敵軍にたいし開城を勧告し、

十日正午までに軍使をもって回答するよう要求したが、これに応じなかったので、

方面軍司令官は十日十三時、両軍に、攻撃を続行し城内を掃蕩すべしと命じた。》



西岡香織著   『報道戦線から見た 「日中戦争」』   96p


《 唐生智は、この勧告文を無視して頑強な抵抗を続けたので、

十日午後一時から日本軍は総攻撃を開始した。》



*   ラーベは日本が   「開城勧告」   をしている事を知らずに、

   「三日間の停戦と中国軍の撤退」   を日中両方に出した。

   しかし蒋介石は拒否した。

   そうなると、唐生智も   「開城勧告」   を受諾できない。

   彼らは、ラーベの希望とは、逆の事ばかりやっている。

   むしろ、日本の行動の方が、ラーベの希望に近い。

1939年 土肥原中将の回答

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/26 15:00 投稿番号: [1856 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
35〜36p


《 土肥原中将は、それに対してこう答えた。


「いろいろ有益な話を聞かせてもらって、ありがとう。

たいへん参考になりました。

もっとくわしく伺いたいが、あいにく先約があるのが残念です。

昼食もさしあげないで失礼しましたが、どうぞまた遊びにお出かけ下さい。



なお、あなた方の運動を援助してほしいとのお言葉でしたが、

今すぐは私の一存ではなんともご返事できないのが残念です。

しかし、なんとか都合よく取り計らいたいと思いますから、

しばらくお待ち下さい」



丁黙邨は土肥原中将の返事を心配そうに聞いていたが、

清水書記官の通訳がすすむにつれてその顔は明るく輝きはじめた。

李士群も嬉しくてたまらないといった態度でニコニコしていたが、

やがて立ち上がって丁黙邨と並んで丁寧に頭を垂れ、しばらくは上げもしなかった。



そしてそのままの姿勢で、

「アリガト、コサイマス」

とまずい日本語で挨拶したが、足もとの床の上には彼の熱い涙が点々と

滴   (したた)   っていた。

丁黙邨の冷たい眼からも、熱い感涙が流れた。



彼ら二人はこうしてなんとか最大の感謝を現そうと努力した。

それは土肥原中将が   「その工作を援助する」   と確約したとでも

早合点したのではないかと気づかわれたほど大げさな表現だった。

私は将軍の終始変わらなかった温情だけが、

この若い中国人をこんなに感謝させたのだと、簡単にそう思った。


「近日中に旅行するかも知れませんが、帰り次第すぐ連絡させます」》


つづく

1937年12月10日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/26 14:54 投稿番号: [1855 / 2250]
十二月十日


《 不穏な夜だった。きのうの夜八時から明け方の四時ごろまで、

大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。

きのう   (?今日の間違いだろう)   の朝早く、すんでのところで

日本軍に占領されるところだったという話だ。



日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。

交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、

予定通り持ち場を離れてしまったのだ。

この瞬間に日本軍が現れた。あわやというところで交代部隊がたどりつき、

かろうじて敵軍を撃退することができたという。


・・・

それはそうと、日本政府と蒋介石はなんといってくるだろう。

一同、固唾をのんで待っている。

なにしろ、この町の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。

安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。

道路で寝ている人がまだ大ぜいいる。それから   −   軍人もだ。

龍上校、周上校の両人と最終的に次のような取り決めをした。



一、唐司令長官は、安全区の南西の境界線を全面的に承認する。

二、龍上校は、五台山の公営給食所がこれ以上兵隊たちに荒らされない

   よう、責任を持つ。

三、軍司令部の代表三名は、委員会の三人と共に安全区を視察し、

   見つけ次第兵士を追い出す。

   また、唐司令長官の代理として、この指示をその場で命令、

   実行させる権限をもつ。



下関で兵士たちが我々の米を燃やそうとしている、と韓が知らせにきた。

日本軍が身を隠せないようにしようというのだろう。

それを聞いた龍はやめさせると約束した。

私は軍事パスを受け取り、下関に通じる門を通れるようにしてもらった。

東部では、決戦の準備が始まったらしい。大型の大砲の音がする。同時に空襲も。

このままでは、安全区も爆撃されてしまう。

ということは、血の海になるということだ。道路は人であふれかえっているのだから。

ああ、日本からの返事さえ、日本軍の承諾さえあれば!



欧州の記者たちが報道規制されているのが、残念無念だ!

中国軍のやつら、あいつらの首をしめあげてやりたい。

軍隊を立ち退かせるという約束はいったいどうなったんだ?

いまだに果たされてないじゃないか!



ああ、なんということだろう!

たった今、漢口のジョンソン・アメリカ大使から連絡があった。

大使は、蒋介石にあてた我々委員会の電報を転送しただけでなく、

個人的にも同意し、支持した旨伝えてきた。



だが、それとは別に極秘電報がきた。

そこに、外交部で口頭で伝えられたという正式決定が記されていたのだ。

それによると、

三日間の停戦と中国軍の撤退に唐将軍が同意したというのは誤りだとのこと。

しかも蒋介石は   「そのような申し出には応じられない」   といったという。》

1939年 土肥原機関に来た二人の真意

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/25 14:42 投稿番号: [1854 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
34〜35p


《 丁黙邨は蛇のような眼を光らせながら語りつづける。

「藍衣社の特工は、中国の土地で中国流の組織を持って、

その道に熟練した中国人が命がけになって実行している地下組織です。

それを特工には何らの経験も持たぬ日本の軍警が取り締まろうとするのは

喜劇です。   藍衣社に打ち勝つものは、

敵にまさる組織と人材をもった中国人の特工でしかありません」



「丁さん。ちょっと待ってください。中国ではなぜ特工が発達したのでしょう」

私の質問に対して、彼はこう答えた。



「中国では心から法律を尊び、すすんで法律に従うといった政治的な訓練が

不十分なのです。だから政治や経済の指導もうわべからだけでは

今日の中国を治めることはできません。

どうしても裏面から監督指導することが必要なのです。

国民党の政治が民衆に徹底しはじめたのは、

藍衣社やC・C団などの地下組織が活動するようになってからです。



維新政府が発展しないのは、敵の特工から攻撃されるだけで、

それに対抗できる組織を持っていないところによるところが大きいのです。

要するに特工は、当分の間は中国の政治からなくすることはできません。

中国共産党は、現在のところ上海ではまだ大した力を持っていませんが、

その特工は国民党の大敵です。   共産党が中国を支配するようになったら、

中国の民衆は国民党と共産党の二つの特工に挟撃されて、

今日以上のたいへんな苦しみにあうでしょう」



時刻はいつしか午後一時を過ぎていた。

李士群は腕時計を示して丁黙邨に何かささやいた。

丁黙邨はうなずいて、やがて姿勢を正して土肥原中将にいった。



「思わず長座いたしまして、失礼申し上げました。

そろそろおいとまさせて頂きたいと思いますが、最後にお願いがございます。

私たちはさきほど申し上げましたように上海で救国運動を起こしたいと

思っていますが、それにはまず敵の特工と戦わねばなりません。

蛇の道は蛇です。



幸い敵の力も弱点も承知していますから、必ず打ち勝てると思います。

つきましてはこの運動は、決して抗日が目的でないことを

ご了解いただきたいと存じます。

また、できればこの運動にご指導と援助を賜わりたいとお願いします」



やっと長い会談を打ち切った丁黙邨は、ここでようやく重光堂を訪ねた目的を打ち明けた。

その口調は、とかくぎこちなく、よそよそしかったはじめとは打って変わって、

ちょうど先輩に甘えて物をねだる後輩のような

丁重なうちにも親しみが満ち溢れていた。》



つづく

1937年12月10日 光華門城壁上に日章旗

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/25 14:32 投稿番号: [1853 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   196〜198p


《 第九師団は、右翼の第六旅団のうち、第七連隊が

中山門東方的五百メートルの水濠に到達したが、

濠の幅は七十メートルを超え、突破に難渋せざるを得なかった。


同旅団の第三十五連隊は、

右側の紫金山で苦戦する第十六師団第三十三連隊の応援にむかい、

左翼の第十九連隊は雨花台東端を攻撃した。



光華門に肉迫していた第三十六連隊は、工兵隊が城壁を爆破して破孔をひらくと、

すかさず伊藤善光少佐指揮の第一大隊を突入させた。

伊藤少佐は、軍刀ふりかざして先頭に立ち、城壁に日章旗をかかげた。

南京城一番乗り   ―   である。

だが、敵城にかかげた国旗にたいする敬礼も、

バンザイの歓呼をあげる余裕も、第一大隊にはなかった。



城門守備は第七十一軍第八十七師   (沈発藻)   であったが、沈師長は反撃を下令し、

第三十六連隊第一大隊は集中する銃砲弾の渦の中にまきこまれた。

「敵軍小部隊突入城内、但被我殲滅」

中国側の   「抗日戦史」   は、そう記述している。



実際には、第一大隊長伊藤少佐は頭部に銃弾をうけて戦死したが、

大隊は   「城門を死守せよ」   という少佐の遺命にしたがい、そのご三日間、

第三十六連隊主力が光華門を占領するまで、城壁上に滞陣しつづけた。



南京の首都衛戍司令官唐生智は、光華門に第一五五師、その後方に第一五六師、

そして中山門に第一〇三師を増派し、紫金山の教導総隊、

雨花台の第八十八師に現位置の死守を命じ、さらに全軍に布告した。

「核心陣地   為   固守南京   之最後戦線、 各部隊   応以與陣地

  共存亡之決心、尽力固守、決不許軽棄寸土」》



宋希濂の回想録   『鷹犬将軍』   より

《十日、敵軍の一部は光華門外郭に突入したが、教導総隊と

八十七師   (沈発藻黄埔二期生)   の必死の反撃で、やっと失地を回復した。》

(鈴木明著   『「南京大虐殺」   のまぼろし』   258p)

1939年 土肥原中将と丁黙邨のやりとり

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/24 18:42 投稿番号: [1852 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
32〜34p


「では、どうすればよいでしょう……」

  丁黙邨の眼がキラリと光った。そして、



「上海のテロの元凶は、現場の犯人をうしろから指揮しているやつなのです。

それはいうまでもなく重慶の特務工作隊たる藍衣社の地下組織なのです。

日本軍警は現場の犯人は捕えることができますが、

藍衣社の地下組織ばかりはつぶそうとしても、ちょっと手が出ないでしょう。

昨年以来、たくさんのテロ犯人があちらこちらで日本軍警の手で捕まったはずです。

でもその結果、果たしてテロが減ったでしょうか」



テロは少しも減ってはいない。

残念ではあるが丁黙邨のいうところは、否定できない事実であった。

最近数カ月の間だけでも上海で血なまぐさいテロの犠牲となった

日華の要人は、おびただしい数にのぼっている。



唐紹儀をはじめとして、維新政府の軍政部長周鳳岐および外交部長陳録や

上海市長傅筱庵   (ふしょうあん)   などの大物から維新政府の官僚、

日本に好意を持った租界当局の職員、戦争に反対した華商、

日本軍の手先となって活躍した群小の中国側政客、

その他日本軍のために働き、日本に好意をもつといわれる大小多数の要人たちや、

租界を散歩する日本軍将兵など、犠牲者の数はとっくに百人を超えている。



犯人も七、八十人ぐらいは捕えた。

しかしテロは少しも減らず、ますます激しくなるばかりで、

本年   (昭和十四年)   一月だけでも四十件以上のテロ事件が起きた。

その上、これらの凶行は、

今までは日本軍の力が及ばない租界だけにかぎって行われたが、

このごろは日本軍が直接警備する虹口、楊樹浦   (ヤンジッポ)   などの地区でも

頻発しはじめ、ときには罪もない婦女子にまで危害を加えるなど、

戦慄すべき惨害を現してきた。



これらはすべて丁黙邨の言葉を裏書きするものであった。

丁黙邨の嘲笑に対して、一言の抗弁をも許さないものがあった。

丁黙邨の説明は、なおもつづけられる。



「藍衣社の服務大綱には、 『愛国心のない冷血漢、奸商、

売国奴がはびこるのを防ぐためにこれを殺害し、民衆を恐怖に陥れて……』

と藍衣社のテロの目的を述べていますが、

それは要するに特工   (特務工作)   の目的を遂げる手段にすぎません。



特工とは、政府、政党、結社などの政策を組織の力で裏面から推し進める政治工作です。

上海のテロの元凶は敵の特工ですから、このテロを取り締まるのには、

敵の特工組織を打ち砕かねばなりません」



私には丁黙郡の説明がよくわかった。

上海でテロ対策に苦心していた日本側の直接責任者は

上海憲兵隊の特高課長、林秀澄少佐だった。

彼は同期生の私に

「藍衣社を検挙したいが、その正体がわからないからつかみようがない」

といって残念がり、

藍衣社を掃討しなければテロは根絶しないと力説したのを思い出したからだ。》



つづく

1937年12月9日 海軍 雄基丸触雷沈没2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/24 18:32 投稿番号: [1851 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦1   』 464〜465p


《 田村一掃司令の率いる一掃   (掃一、掃三欠)   及び   「勢多、江風、比良」   は

八日同様の隊形で   07:30   天申橋の仮泊地発、両岸の敵を制圧しつつ上江し

11:00   ごろ、三江営下流六粁   (キロメートル)   に到着し一時仮泊した。

田村司令は更に三江営、亀山砲台偵察のため司令艇   (掃六号)   を率い

三江営陣前に進出、交戦しつつ突進して亀山砲台四粁付近まで進出した。



しかし亀山砲台の位置を確認できず、かつ同砲台が沈黙していたので、

まず三江営陣地を攻撃するに決し、仮泊地の指揮下兵力を部署し、

「掃五、掃六号、勢多」   を上流に、 「掃二、掃四号、江風、比良」   を

下流に配して三江営砲撃を開始した。



神川丸機もこれに協力爆撃した。

三江営陣地の敵は野砲一〜二門及び小銃、機銃をもって我を反撃した。

激戦約一時間、 12:30   ほぼ同陣地を制圧したので、 「掃二、掃四号」   をもって

13:00   から同陣地の上下流約六軒にわたる間の清掃を実施した。


この間   「勢多」   は再び亀山砲台の偵察を実施、同砲台の二粁付近に達したとき、

同砲台   (十五糎砲四門)   から突如砲撃を受け、直ちにこれに応戦した。

約九〇発の敵弾を浴び、前檣   (しょう)、煙突などに各一発命中弾を受けたが、

死傷者はなかった。 「勢多」   は一時避退したが

飛弾は   「掃五、掃六号」   付近にも盛んに落下した。



同夜、各艇は三江営の下流六粁付近に警泊、北岸の敵から二回猛射を受けた。

我が方はその都度照射砲撃を加えた。

第三掃海隊   (五日、第二掃海隊と共に第一警戒部隊に編入)   は午後、

江陰に到着した。



二掃及び特別掃海隊は十日   10:00   までに江陰に集合せよと下令されたので、

福姜沙北水道の掃海は一時中止の格好となった。

「安宅」   は   「掃一、掃三号」   の合同待ち及び雄基丸触雷により

上江を中止し、九日は江陰に警泊した。》

1939年 土肥原中将との応答

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/23 18:41 投稿番号: [1850 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
30〜32p


《「お話はよくわかりました。

あなた方が中国の将来を心配される気持ちはまことに尊いと思います。

おっしゃる通り、日本の過去にはたくさんの誤りがありましたが、

こんなことは二度と繰り返したくないものです。

中国共産党に対するご意見もまったく同感です。

日華両国が早く仲直りをしないと、東洋はたいへんなことになりましょう」



じゅんじゅんと訴えるような土肥原中将の感懐に、丁黙邨の顔はやっとほころんだ。

李士群も清水書記官もともにほっとした面持ちだった。

紅茶が新しく運ばれ、果物がすすめられた。

主客は互いに心の武装を解いてくつろいだ。和やかさが再びとり戻された。

薄暗い部屋にはいつしか電燈が輝いて、にぎやかな歓声がしきりに沸く。

話題はいつしかテロに移っていた。

土肥原中将は、紅茶の砂糖をゆっくりかきまわしながらいった。



「丁さん。中国人の暗殺は残忍すぎますね。上海のテロもなんとかしないといけません」

土肥原中将は上海フランス租界の自邸で殺された唐紹儀のむごたらしい死体を思い浮かべた。

ポッカリとわれた額からは、生々しい血にまみれた脳漿   (のうしょう)   が流れ出て、

ゆがんだその顔にはあろうことか青い痰が憎々しげに吐きかけられていた。

玄関の植えこみには刃渡り一尺ばかりの薪割りが捨てられてあった。

犯人は骨董屋に化けた藍衣社員だった。



藍衣社のテロ隊員は警戒きびしい唐家に、

一カ月も前から毎日のように出入りして主人にとり入り、

またとないものと可愛がられたが、家人の油断を見計らって、

とうとう目的をとげたものだった。



唐の死は中央政府の樹立工作を発足直前で挫折させ、

土肥原中将を悲境に陥れるもとになったのだが、

土肥原中将はそれよりも殺される間際までだまされたとも知らないで、

殺人鬼をこよなく愛した老友の哀れな心境を思いつつ、

そうした愛情を裏切った上に、

死体をかくまではずかしめた暗殺者の卑しい心を憎んだのである。

そうした土肥原中将の気持ちがよくわかったらしい。



丁黙邨も悲しげに李士群と顔を見あわせながら、

「唐さんの死もひどいものだったそうですね」

と、それとなく悔やみを述べた。そうして痛々しく眉をひそめながら、彼はいった。



「私も、どちらかといえばテロはきらいですが、

中国のこのごろの政治テロ   たちがたいへん悪くなりました。

昔のテロは残酷のうちにも一殺多生を願う涙と、

犠牲をいたむゆかしさが残されていましたが、

このごろは血の匂いに狂う荒々しい殺人鬼の凶悪犯でしかありません。

思想を争う内乱は、人を気狂いにいたします。



フランス革命やソ連の国内戦では、外国との戦争では思いもよらぬ

気狂いじみた虐殺が平気で行われました。

こんどの戦争がはじまってから、中国では和平か抗戦かをめぐって、

思想の争いにも似た内乱がつづいています。   この戦争が長引けば、

やがては共産主義対資本主義の血で血を洗う本格的な内乱となるでしょう。

最近のテロは思想を争う同胞のいまわしい殺し合いの序幕です。恐ろしいことです」



丁黙邨は、そこで言葉を切ってしばらく考えていたが、やがてつぶやくようにいった。


「でも日本軍の手では、とうてい上海のテロは取り締まれないでしょう」


  テロにも涙がなければならないという丁黙邨の言葉、

このはげしい火のような男にもこんなやさしい思いやりがあるのかと、

私は興味深く聞き入っていたが、

その最後のつぶやきはあまりにも日本軍をバカにした無礼至極な言い草だった。

丁黙邨の微笑は嘲笑のように憎々しげに見えた。



思わずムッとした私をジロリと流し目で制した土肥原中将は、

さすがに年の功とでもいおうか、〝蛙の面に小便〟   といった面持ちで、


「では、どうすればよいでしょう……」》



つづく

1937年12月9日 海軍 雄基丸触雷沈没1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/23 18:30 投稿番号: [1849 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦1』 463〜464p


《 九日の経過   (雄基丸触雷沈没)    陸軍部隊は鎮江、南京に肉迫していたが、

亀山砲台及び三江営陣地はもちろん、周辺一帯はなお敵手に存した。

近藤指揮官は九日の作業について、次のように命令した。



一   第一警戒部隊ハ   速ニ   南京ニ向ヒ   水路ヲ   警戒前進   セントス


二   九日   当隊各艇ハ   次ニヨリ   行動スベシ

   本職   安宅ヲ率ヰ   三江営ニ進出ス

   前路警戒隊   指揮官ハ   第二十四駆逐隊ノ   二隻(山風、海風)、保津、

   及   一掃ノ第三小隊   (掃一、掃三)   ヲ   指揮シテ   嚮導警戒ニ   任ズヘシ

   掃海部隊指揮官   (二掃司令)   ハ   堅田ト協力   速カニ   北水道ノ   清掃ヲ行ヒ

   同水路ヨリ   閉塞線閘門   間ニ至ル   水路ノ啓開ニ   任ズヘシ



   熱海、二見ハ   速カニ   安宅附近ニ   進出命ヲ待テ

   下流警戒隊指揮官ハ   蓮ヲシテ   江陰附近ニ   アリテ   鳥羽艦長ノ   指揮ヲ承ケ

   陸軍トノ   協同作戦ニ   協力セシムベシ

   爾余ノ各隊艦ハ   前日ノ作業ヲ   続行スベシ

   神川丸機ハ   遡江部隊ニ協力   主トシテ   三江営攻撃ニ任ズ



二掃の間宮九、天塩丸、雄基丸の三隻は、八日掃海した北方水面の掃海を

08:30   再開した。

ところが   05:15、雄基丸は巫山の三三〇度四、二〇〇米付近で触雷、

前後部マストを露出して沈没した。



他の二隻は直ちに北岸の敵トーチカを攻撃、かつ   「堅田」   と共に乗員の救助に任じた。

江陰方面で陸軍作戦に協力中であった   「鳥羽、蓮」   及び

ビッグツリー方面の   「栗」   も救援のため現場に急行した。

14:10   特別掃海隊が来着し、クロッシング南水路 − 北口水路間の水路を掃海した。

「堅田、鳥羽、蓮」   は夕刻、北岸の敵陣地を攻撃し、

二掃、特別掃海隊と共にビッグツリー付近に警泊した。



これより先、二掃司令は

「雄基丸沈没位置以東の北水道に浮流機雷らしきもの多数あり、銃撃処分三個」   と報じ、

12:10   近藤指揮官は二掃司令に掃海の一時中止を命じた。》


続く

1939年 土肥原機関 丁黙邨の演説

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/22 18:37 投稿番号: [1848 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
28〜30p


《 清水書記官の話がすむや、彼は跳びかかるように土肥原中将にいった。


「今日はお目にかかることができてたいへん嬉しく思います。

お忙しいだろうとは存じますが、しばらくの間お邪魔させてもらいます。

いろいろお話をうけたまわりたいと思いますが、その前に私たちの立場を、

ちょっと申した方がよいと思いますが、いいでしょうか」



かん高い声が金属的な響きで、抑えがたい焦燥を伝える。

とげとげしい口調は、つきつめた心の狭さをあらわしているようで、

彼が口を切った瞬間、それまで和やかだった一座の空気がぐっと異様に緊張した。


李士群は苦笑しながら横から静かにささやいて、丁黙邨をおだやかになだめたが、

もう興奮し切った丁黙邨は怒ったように振り向きもしない。

まるで喧嘩腰である。さすがの土肥原中将も、いささかあきれ顔であったが、

それでもなお、さりげなく丁黙邨の言葉に合づちを打ちながら、

おもむろに次の言葉を待った。



「では率直にいわせてもらいます。われわれ国民党員は、お国となんとかして

手をつないで、東洋の平和と繁栄を図ろうとつとめてきました。

だがお国は力にまかせて侵略をつづけて、

ついにこんな戦争をひき起こしてしまいました。

私は心から日本を呪い、真っ先になって復讐することを誓い、

死んでも日本の奴隷となるなと叫びました」



目は血走って、興奮し切った顔は真っ赤に輝いている。

単に興奮したからというのではないらしい。どうも病的な頬のほてりかたである。

ときどき力のない咳がしきりに出る。あるいは胸でも悪いのではないだろうか。

清水書記官はあまりにはげしい彼の語調に驚いて、

そのまま通訳するのをためらいがちだったが、土肥原中将は気にもとめずに、

相変わらずにこやかに、あとの言葉をうながしていた。



「しかし、間もなく戦争をつづけるのは今の中国を滅ぼすものだと気がつきました。

中国共産党が戦争を長引かそうと専念していることを知ったからです。

彼らは戦争をできるだけ長びかせて、中国の混乱と窮乏に乗じて力をのばし、

ゆくゆくは国民党を滅ぼして中国を共産化しようとしています。



しかるに日本は以前とは態度をすっかりかえて、

このごろは中国の繁栄をのぞみ、平和を求めているようです。

中国を救うものはもはや抗戦ではなく平和です。


だが、国民党の頑固派は、共産党の口車に乗って勝つ見込みもない戦争を、

無知な国民に強要して中国を亡国に導いています。もう我慢ができません。

私たちは微力だが、国民党の中国を守るために頑固派と戦おうと決心しました」



興奮すればとめどがなくなるたちらしく、いよいよ充血した両眼には涙さえ光っている。

けれども、なんという直情径行な、ズバリとした言い方だろう。

昨日までは憎しみの的だった敵将のふところにいきなりとびこんできて、

短刀直入、信ずるところをズケズケ述べて臆するところもない彼であった。

土肥原中将はひよわい体をしたこの中国人の無躾さにあきれはてていた。



それは土肥原中将の中国生活三十年を通じてはじめての体験だった。

とりとめもない雑談の片言のなかから相手の考えを推測して、

あわてずあせらず、遠まわしに話をするのが一番上手な外交のしかたとした

中国地方の政客たちとはあまりに違う、南方の若い中国人だった。

さすがに李士群も緊張して、吸いさしの煙草を急いでもみ消して、

土肥原中将の表情いかにと見つめていた。》


つづく


*   日本は最初から   「中国の繁栄をのぞみ、平和を求めて」   いたんだけど、

   遅ればせながら、それに、気づいただけでも、えらい。

1937年12月9日 中国軍から見た戦い

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/22 18:27 投稿番号: [1847 / 2250]
宋希濂の回想録   『鷹犬将軍』   より


《 十二月九日、南京防衛総司令官   (唐生智)   は、次のような命令を行った。


①   敵軍は既に南京城周辺に迫ってきた。

   現在わが軍が守っている城廓陣地は、最後の砦である。

   各部隊の将兵は、陣地とともに死を覚悟してこれを死守してほしい。

   寸土たりとも、放棄は許されない。もしこの命令に従わず、勝手に後退する者は、

   司令官の厳命によって、連座制をとり、これを厳罰に処する。



②   各部隊が保有しているすべての船は、これを本部運輸司令部に移管し、

   司令部が責任を持って保有する。第七十八軍長宋希濂は、長江沿岸警備を担当し、

   他の部隊、将兵などの勝手な乗船、渡河を厳禁する。

   もしこの命令に背くものがあれば、即時逮捕し、厳罰に処する。

   なお、敢えてその命令に背き、抵抗する者があれば、 (宋希濂部隊に)

    武力を以てその行動を制止させるようにする。



同じ十二月九日、敵の包囲陣はさらに城廓に接近した。

わが七十四軍   (兪済時)   は大勝関と牛首山を結ぶ前線を突破されて次第に後退、

遂に水西門に移って守備につくことを余儀なくされたが、敵はそれに迫ってきた。

そして、水西門外の上河鎮一帯が激戦区となった

(水西門から上河鎮は、現在の   「南京大虐殺記念館」   のある場所の付近に当る)。



棲霞山が敵に占領されると、わが四十八師   (徐源泉 ・ 徐継武の第二軍)   は

和尚橋まで退いて、四十一師と合流した   (長江を数百メートル上流に逃げた)。

浄化鎮にいた敵軍は、高橋門   (門の名があるが、城門ではない)、

七瓮   (シチオン)   橋(現在は七橋瓮と呼ばれている)   を落して、

公路に沿って光華門   (南京城の南東部にあり、日本軍は最初にこの門上を占領した)

に向って進んだ。



別の一隊は通済門   (南京城の南門、中華門と光華門の中間にある)   外の

兵営を占領し、通済門を攻めた。

国道に沿って、湯山   (南京城の真東、紫金山の南の山麓方面)   から

南京に向った敵軍は、

九日、わが教導総隊   (桂永清)   が守っていた老虎洞、体育場、馬群、



孝陵など西南一帯の高地に向って進撃を開始、

わが守備軍は、峰麟閣寺西山の主陣地に移った

(ここにトーチカがあり、九日夕方から十日正午まで、日本軍は

「投降ビラ」   を撒いて唐生智に無血開城を勧告し、戦闘を中止したが、

唐生智はそれに応じなかった)。》


(鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 257〜258p)

1939年 土肥原機関を訪れた二人の素性

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/21 18:49 投稿番号: [1846 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
26〜28p


《 清水書記官は二人の素性の説明にとりかかった。

それによると、丁黙邨はC・C団系の人物で、

もと中国政府の軍統局の最高幹部として文化工作を受け持っていた。

しかし抗日戦争に反対したため職を追われて昭和十三年の夏、香港に亡命した。

その後、同志李士群に招かれて最近上海に来たものだった。



李士群はウラジオストクの東方大学で地下工作を学んだ元の共産党員だが、

その後国民党に転向し、C・C団を経て同じく軍統局に入り、党の地下工作を受け持った。

彼もまた抗日戦争の前途に失望して、重慶から上海に逃れ、

ささやかな汽船会社を経営して身をひそめながら、

時局の推移を見守ってきたのだった。

このかつての特務工作の同志が、結びついて重光堂訪問となったのである。



全世界に比類のない強力な地下秘密組織だと自らを誇る軍統局の主な仕事は、

反蒋和平運動を弾圧して抗日戦を推進し、

かつ日本の政治工作を破壊して占領地の建設を妨害することだった。

資金は阿片の秘密収入から豊富に支出されたらしく、

丁黙邨は資金が不足で工作に困難を感じたことはなかったといったほどであった。



また彼の説明によると、藍衣社とC・C団の特務工作隊の指揮中枢をあわせて

つくりあげた軍統局の本部には、

軍事機関   (新聞、学校、労働組合、文化団体など)   の工作を

担任する   「処」   があって、局長兼第二処長は陳立夫、

第一処長は戴笠、 第三処長は丁黙邨   という顔ぶれだったこともあった。

また日本の政治工作をテロで妨害する特務工作は、

主として戴笠の受け持ちとされていた。



軍統局の工作は責任者に目的だけを示して、

各処ごとに各地の藍衣社、C・C団の組織を使って行うが、

全国に張りめぐらされた強力な情報網は、中国官民のすべての動向を監視し、

いやしくも和平を口にするものは、ことごとく地下工作によって抹殺されているという。



特務工作員の生活は、後顧の憂いがないように、ゆたかに保障されたが、

祖国愛を強調し規律を厳守することがきびしく要求され、

とくに秘密をもらしたものは容赦なく残酷に私刑された。

このような組織と人材をもった軍統局は、権力と資金にものをいわせて、

抗戦中国の地下を完全に支配したが、

日本の政治工作に対しても活発、執拗に妨害を試み、

その勇敢な直接行動をもって日本軍を悩ましつづけたのである。



土肥原中将は清水書記官の中国語まじりの長々とした説明にも飽きず、

熱心に聞きいっていたが、

ひとり丁黙邨だけは清水書記官の長話にいらいらして、

説明が終わるのを待ちかねているようだった。

清水書記官の話がすむや、彼は跳びかかるように土肥原中将にいった。》


つづく

1937年12月9日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/21 18:40 投稿番号: [1845 / 2250]
《 そうこうしている間に、思い切った手を打ってみようということになった。

といっても私自身はあまり当てにしているわけではないのだが。

つまり、もう一度唐将軍に接触して、防衛を諦めるよう説得しようというのだ。

ところが、なんと唐は承知したのだ。

そちらが蒋介石委員長の許可をとりつけるなら、といって。



(そのためラーベはアメリカ人と中国人をそれぞれ二人つれて

アメリカの砲艦パナイに赴いた。彼らは二通の電報を打った。

一通は漢口の蒋介石に、もう一通は上海の日本の軍当局にあてたものである。


アメリカ大使に仲介を頼んだ蒋介石あての電報で、ラーベはつぎのように記している。

国際委員会は、安全区が設置された城壁内には攻撃をしかけないとの

日本軍当局による確約を望んでいる。

もしこれが得られれば、委員会は、人道的な理由により、

城壁内では軍事行動を起こさないよう中国当局に願いでるつもりである。


委員会は南京近郊のすべての軍隊に対して三日間の休戦を提案する。

その間、日本軍は現地にとどまり、中国軍は城壁内から撤退する   ―

これらの電報には署名がある   「代表   ジョン・ラーベ」)



燃えさかる下関を通り抜けての帰り道はなんともすさまじく、

この世のものとも思われない。

安全区に関する記者会見が終わる直前、夜の七時にたどりつき、

どうにか顔だけは出せた。


・・・

暗闇のなかを負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える。

看護する人はいない。医者も看護士も衛生隊も、もうここにはいないのだ。

鼓楼病院だけが、使命感に燃えるアメリカ人医師たちによって

どうにか持ちこたえている。

安全区の通りは大きな包みを背負った難民であふれかえっている。



旧交通部   (兵器局)   は難民のために開放され、たちまちはちきれそうになった。

われわれは部屋を二つ立ち入り禁止にした。兵器と弾薬を見つけたからだ。

難民の中には脱走兵がいて、軍服と兵器を差し出した。》



*   文中の ( ) 内の文は本にあるもので、たぶん訳者の註でしょう。


*   唐生智が日本の勧告を受け入れて無血開城すれば、

   ラーベの心配など必要なくなるのですが、唐はそうしません。

   自分で責任をとりたくないからラーベに電報させたのかも知れません。


*   難民を収容した兵器と弾薬のある旧交通部   (兵器局)   は、

   12日夜、敗走中国兵によって放火され、地獄絵となります。

1939年 土肥原機関を訪れた二人の中国人

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/20 18:39 投稿番号: [1844 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
24〜26p


《 何の飾りもない寒々とした部屋に、暖炉だけが赤々と燃えていた。

こぢんまりした重光堂の応接間であった。

外務書記官、清水董三氏が、ここへ二人の若い中国人の客を連れこんでいた。

国民党員だというが、何の用かわからない。

それは呉佩孚工作が北支軍の直訴電報で全くゆきづまってしまった翌日のことであった。



土肥原中将は清水書記官が紹介してきた未知の客との会見を

珍しくも承諾したのである。

約束した時刻は、朝の九時ちょうどであった。

重光堂にはじめて客として訪れた二人の中国人が、

清水書記官に体を心持ち寄せながら、端然と腰をおろしている。



一人はねずみ色の背広に派手なネクタイをしめ、年のころ三十四、五、

額は広く理知的だったが、眼は蛇のように冷たく光り、

みるからに陰惨な、かみそりのような感じであった。

その男は丁黙邨   (ていもくそん)   と名乗った。


李士群   (りしぐん)   と呼ぶ、もう一人の中国の礼服姿の男は、

それより少し若かったが、色白のふっくらとした美男子で、瞳は明るく澄み、

一見朗らかそうで、およそ丁黙邨とは対照的であった。



わざと中国服にくつろいだ土肥原中将が、ゆったりと歩を運んで静かに現れた。

つやつやとした童顔には

呉佩孚工作の失敗を心痛したいましがたまでの苦悶はあとかたもない。

中国人の客二人はすぐ立ちあがって威儀を正し、うやうやしくこれを迎えた。

だが、そこには軍使となって敵陣に単騎乗りこんだ古武士のように、

恭謙のうちにも容易にゆずらないといった凛然とした気迫を見せていた。



「私が土肥原です。ようこそいらっしゃいました」

土肥原将軍はなめらかな中国語で愛想よく椅子をすすめ、

中国風にひとりひとりに煙草をすすめて丁寧に火をつける。

天衣無縫とでもいおうか、何の作為もない振る舞いだが、

仕草のはしばしには客をもてなす真心が国境や地位の違いを越えてにじみ出て、

ちょっと気負って見えた無名の若い中国人も、

そのなごやかなふん囲気にいつとはなしに温かくうちとけていた。



土肥原の名は中国では土匪の原と発音されて、

中国の軍閥時代から満州事変の初期にかけて、ものすごい謀略家だと

中国では恐れられたが、その伝説的な悪謀だけを聞いた中国の人々は、

彼を悪鬼のようにのろい、憎んでいた。



今度の二人の客も、さだめし荒々しい将軍の風貌を心に描きながら

重光堂を訪れたのであろうが、実際に会ってみると、

それはとんでもない見当違いであったことがわかったらしい。



李士群は後になって

「土肥原さんがあんなおだやかな人だったとは思いがけなかった」

と当時の印象を私に物語ったことがある。



清水書記官は約束の時間から少し遅れたのを

「今日もテロがあって、非常線で止められましたので……」   とわびてから、

土肥原中将に初対面の二人を紹介して、訪問の目的を述べた。

「両君はわれわれの同志です。日華の将来について閣下の高説を承りたいのだそうです」

それから清水書記官は二人の素性の説明にとりかかった。》


つづく

1937年12月9日 降伏勧告文投下

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/20 18:29 投稿番号: [1843 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   195〜196p


《   ―   午後四時、

南京上空に松本雄幸曹長と粉川宗三伍長が操縦する九七式重爆撃機が

飛来し、大量のビラを投下した。

ビラは、風にのって第六、第百十四師団の前線にも舞い下りた。


「日軍百萬   既ニ   江南ヲ席巻セリ。   南京城ハ既ニ   包囲ノ中ニアリ……」


との冒頭の文言ではじまる投降勧告文であり、

翌日十日正午を回答期限にしていた。

あて名は   「南京防衛司令官唐生智」、

発信者は   「大日本陸軍総司令官松井石根」。



勧告文は、南京城を   「和平裡ニ開放」   することをもとめ、

期限までに回答がないときは   「南京城攻略ヲ開始」   する、と述べていた。》

1939年 土肥原機関 呉佩孚工作崩壊

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/19 15:35 投稿番号: [1842 / 2250]
晴気慶胤著 『上海テロ工作76号』 毎日新聞社
22〜24p


《 これらの意見は、呉佩孚としてはいつわらない本心だし、

北支軍も承知すみだと思っていたので公言して何ら憚らなかった。


ところがおさまらないのは北支軍当局であった。

協定を結んだ口の下ですぐ呉佩孚が協定破りをしたのはけしからぬとカンカンになり、

華北の匪賊を招撫するといった記者団との会見談を取り消すように要求したが、

呉はそんな協定が結ばれているとは知らないといってきかなかった。

彼が協定のことを一切知らないのは当然であった。

みんな張燕卿の打った独り芝居だったからである。



形勢がまたこじれてきたのをみた張燕卿は、さすがにいたたまれず、

風をくらって逃亡してしまった。

この男は、清朝末葉の名臣、張之洞の嗣子で、満州国の実業部大臣、

華北新民会副会長などの前歴をもっていたが、

新中央政府の総理になろうとして呉を手玉にとっていたものだった。

しかし結果は 〝策士策に溺れた〟 かたちで、

彼のとんだ狂言のため土肥原工作は全く行きづまってしまった。



しかし土肥原中将は、この苦境に処してもまだ絶望しなかった。

土肥原中将が正月がすぎるのも忘れてしきりに呉を説いた結果、

頑固な呉もやっと非をさとり、翌年一月末になってようやく協定を守ろうと約束した。

しかるに上海に急用ができて、土肥原中将がちょっと北京を離れたあとで、

またもや新しい決定的の紛争が起きた。



そして今度は   「もう土肥原機関の工作には協力できない」   という

大本営に対する北支軍の直訴電報が、北京から東京に飛んでしまった。

万事休す……土肥原中将の営々たる努力はかくして水泡に帰した。

事変の即決を期して、昭和十三年七月に発足した土肥原機関も

七カ月にわたる苦闘空しく、もはや万策尽き果てたかたちである。



土肥原中将は、氷雨にとざされた重光堂のうす暗い一室で、

私を前に黙念とうす汚い壁をにらんでいた。

だが呉佩孚工作は、たとえ失敗に終わっても、

戦争がつづくかぎり政治工作はやめられない。

そうしてわれわれは、蒋介石の国民党に対して、根本的に認識を改めねばならない。

われわれはこれまで頭から国民党を嫌悪し、排撃し尽くしてきた。

しかし、それは大きな誤りであることが今にしてわかった。



今日の中国を背負うものは呉佩孚などの古い軍閥ではなく、

革命精神にみなぎる中国国民党であらねばならない。

その国民党も、党員のことごとくが抗戦派とは断ぜられない。

現に重慶を脱出し、いまハノイにあって和平運動を展開している汪兆銘のごときは、

国民党の副総統ではないか。

沈黙の底に沈みながら、この根気強い重光堂の主は、定めしこう考えているに

違いあるまいと、私は想像していた。》



注   最初の   「これらの意見」   は、この前の

   1804   「1938年   土肥原機関   呉佩孚工作5」   を参照して下さい

1937年12月9日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/19 15:18 投稿番号: [1841 / 2250]
《十二月九日

いまだに米を運ぶ作業が終わらない。

そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。

苦力がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。


・・・

ドイツ大使館のシャルフェンベルク、ヒュルター、ローゼンら三人も船に乗って

いるが、もし状況が落ち着けば、今晩会議のために上陸するつもりでいる。

・・・



午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、

私、のメンバーで、安全区の境界を見回る。

唐将軍が文句をいってきたからだ。



南西の境の丘から、炎と煙に包まれている町のまわり一帯が見える。

作戦上火をつけたのだ。

町じゅうが煙の帯に取り巻かれている。



安全区の南西側に高射砲台がずらっと並んでいるのに気がついた。

そのとき、日本の爆撃機が三機、姿をあらわし、約十メートル前の砲兵隊に

猛烈に砲撃された。われわれはいっせいに地面に身を伏せた。

そのままの姿勢で顔をあげると、高射砲の弾がはっきりみえた。

残念ながらいつも外れていた。いや、幸運にもいつもそれた、というべきか。

とにかく日本は同盟国なのだから。



今にも爆弾が落ちてくるだろうと覚悟していたが、運よく無事だった。

大佐は安全区を縮小しろといってきかないので、私は辞任するといって脅かし、

唐将軍が約束を破ったために難民区が作れなかったと

ヒトラー総統に電報を打つといってやった。

大佐と龍は考えこみ、家へ帰った。》



*   中国は焦土作戦をやっている。

*   ラーベが見た爆撃機は勧告ビラを撒きに来た飛行機かも知れない。

   時間的に近い。
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