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1939年 土肥原機関 呉佩孚工作崩壊

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/19 15:35 投稿番号: [1842 / 2250]
晴気慶胤著 『上海テロ工作76号』 毎日新聞社
22〜24p


《 これらの意見は、呉佩孚としてはいつわらない本心だし、

北支軍も承知すみだと思っていたので公言して何ら憚らなかった。


ところがおさまらないのは北支軍当局であった。

協定を結んだ口の下ですぐ呉佩孚が協定破りをしたのはけしからぬとカンカンになり、

華北の匪賊を招撫するといった記者団との会見談を取り消すように要求したが、

呉はそんな協定が結ばれているとは知らないといってきかなかった。

彼が協定のことを一切知らないのは当然であった。

みんな張燕卿の打った独り芝居だったからである。



形勢がまたこじれてきたのをみた張燕卿は、さすがにいたたまれず、

風をくらって逃亡してしまった。

この男は、清朝末葉の名臣、張之洞の嗣子で、満州国の実業部大臣、

華北新民会副会長などの前歴をもっていたが、

新中央政府の総理になろうとして呉を手玉にとっていたものだった。

しかし結果は 〝策士策に溺れた〟 かたちで、

彼のとんだ狂言のため土肥原工作は全く行きづまってしまった。



しかし土肥原中将は、この苦境に処してもまだ絶望しなかった。

土肥原中将が正月がすぎるのも忘れてしきりに呉を説いた結果、

頑固な呉もやっと非をさとり、翌年一月末になってようやく協定を守ろうと約束した。

しかるに上海に急用ができて、土肥原中将がちょっと北京を離れたあとで、

またもや新しい決定的の紛争が起きた。



そして今度は   「もう土肥原機関の工作には協力できない」   という

大本営に対する北支軍の直訴電報が、北京から東京に飛んでしまった。

万事休す……土肥原中将の営々たる努力はかくして水泡に帰した。

事変の即決を期して、昭和十三年七月に発足した土肥原機関も

七カ月にわたる苦闘空しく、もはや万策尽き果てたかたちである。



土肥原中将は、氷雨にとざされた重光堂のうす暗い一室で、

私を前に黙念とうす汚い壁をにらんでいた。

だが呉佩孚工作は、たとえ失敗に終わっても、

戦争がつづくかぎり政治工作はやめられない。

そうしてわれわれは、蒋介石の国民党に対して、根本的に認識を改めねばならない。

われわれはこれまで頭から国民党を嫌悪し、排撃し尽くしてきた。

しかし、それは大きな誤りであることが今にしてわかった。



今日の中国を背負うものは呉佩孚などの古い軍閥ではなく、

革命精神にみなぎる中国国民党であらねばならない。

その国民党も、党員のことごとくが抗戦派とは断ぜられない。

現に重慶を脱出し、いまハノイにあって和平運動を展開している汪兆銘のごときは、

国民党の副総統ではないか。

沈黙の底に沈みながら、この根気強い重光堂の主は、定めしこう考えているに

違いあるまいと、私は想像していた。》



注   最初の   「これらの意見」   は、この前の

   1804   「1938年   土肥原機関   呉佩孚工作5」   を参照して下さい
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