入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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1937年12月13日 脱出軍と佐々木隊との激突

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/25 18:38 投稿番号: [1920 / 2250]
前日、司令官唐生智より、敵中突破で脱出しろと、中国軍に命令があっていた。

兵隊たちは、下関へ脱出路を求めたが、船が無いため、

戻り、或る者は安全区に隠れた。

しかし、それを潔しとしない者は、命令どおり、敵中突破の挙にでた。

そこに、佐々木倒一少将の部隊がいた。



佐々木倒一少将私記

十二月十三日


《 十二日の夜は至る処に激烈なる銃声を聞き、後半夜には砲声さへも聞えた、

併   (しか)   し一般の情勢から判断すれば落城は刻一刻近づきつつあるので、

予備隊の直ぐ左に在る高地に敵が出てくれば忽   (たちま)   ち

苦境に陥らなければならず、

而かもこゝに僅   (わず)   か一中隊の兵力を割   (さ)   くことができるばかりの

手薄だつたに拘   (かかわ)   らず極めて安易な気持になつた。



併しやつと断続して取れるやうになつてゐる師団司令部との無線連絡に依   (よ)   つて

師団命令や情報を聴く為に終夜を費し、

追撃命令を下達したのは午後六時に近かつたのである。

而かも此   (この)   間銃声が近距離に起り、銃弾が盛んに壁に命中してくるのであつた。



満州の旧部下が苦辛   (くしん)   して持つてきて呉れたするめや魚の干物を分配、

そして久し振りにクレーヴンの芳香に接した。

此人達から東宮中佐が去十一月十三日杭州湾上陸作戦の花と散つたことを

聴いたのである。去八月の中頃大連で別れたのが最後で、

此人は満洲移民の生みの親と云はれ、

もつと生きてゐて貰ひ度かつた惜しい武人だつた。万感胸に迫る。


焚火   (たきび)   を掻   (か)   き立てゝ煤   (すす)   けた寝台に横になり忽ち熟睡。



午前八時頃ふと目を醒   (さま)   せば至近の距離に激烈な銃声がしてゐて、

通信手や行李   (こうり)   の輜重   (しちょう)   兵までが銃を執   (と)   つて

ばたばたやつてゐる。

「何事だ?」

屋外を走りかけた副官に尋ねる。



「今撃退したところです、紫金山から真つ黒になつて降りてきました」

「敗残兵か?」

「チェックを腰だめで撃つてくるのです、それが何回も何回も五六百一所になつて」

「鉄砲を取り上げろ」

「降伏なんかするもんですか、皆殺しです」



くるわ、くるわ、あつちにもこつちにも実に夥   (おびただ)   しい敵兵である、

彼らは紫金山頂に在つた教導師の兵で血路を我支隊の間隙に求めて

戦線を逆に討つてでたものであつた。銃声の間に怒号罵声すら聞えてゐる。》



《 家屋に立て籠っていつまでも抵抗するもの、いち早く便衣に替えて逃走を計るもの、

そして三々五々降伏する者は必ず池の中に投じ或いは家の中に投げ込んで

放火していた。この点は実に徹底していた。

当面の敵は蒋介石が虎の子のようにしていた師団だけあって

最後迄最も勇敢に戦ったようである》


つづく

第二次世界大戦の真相

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2012/09/25 13:20 投稿番号: [1919 / 2250]
★ユダヤ米国が世界に誇る「三大日本人虐殺」

第1位   広島原爆投下(当時の死者数14万人)

第2位   東京大空襲(当時の死者数10万人)

第3位   長崎原爆投下(当時の死者数7万人)

★日本人大虐殺を計画して実行した三大「ユダヤ人」

第1位   フランクリン・デラノ・ルーズベルト
    「マンハッタン計画」を推進した。

第2位   カーチス・ルメイ
    「日本本土空襲」を計画して実行した張本人。

第3位   ハリー・ソロモン・トルーマン
    広島・長崎への原爆投下を命令した。

http://www.youtube.com/watch?v=kUCD2daordk&feature=BFa&list=PLDB1B5614857BF088

1939年3月21日ドイツ・メーメル地方併合

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/24 18:43 投稿番号: [1918 / 2250]
ドイツ軍、進駐始める〔昭和14年3月23日   東京朝日〕


〔ベルリン二十二日発同盟〕   ドイツ政府官辺は二十二日、リスアニア政府が

メーメル地方の返還を正式に通告して来た結果、

ドイツ国防軍は二十二日夜を期して一斉にメーメル進駐を開始する旨言明した。


ダンチッヒも興奮〔ダンチッヒ二十二日発同盟〕   メーメル地方返還決定の報道に、

二十二日、ダンチッヒのドイツ人はいずれもダンチッヒのドイツ復帰の日近し

とばかり、既に異常な興奮振りである。

数日前まではダンチッヒのドイツ人も、

ドイツへの復帰が実現するまでは相当の日時を必要とするとの観測に一致して

いたが、今や彼等は口々にドイツ復帰を呼号し、当局の制止もほとんど無益の状態である。

(以下略)



ドイツ・リトアニア不可侵協定調印〔昭和14年3月24日   東京日日(夕刊)〕


〔ベルリン二十二日発同盟〕

メーメル地方返還に関するドイツとリスアニア間の正式協定は二十二日午後、

ベルリンに来着したリスアニア外相ウルプシス氏と

リッベントロップ独外相との間に調印されたが、その内容は次の通り。


一、メーメル地方をドイツに併合する。

一、メーメル地方よりリスアニア軍及び警察を即時撤退する。

一、メーメル港を自由港とし、リスアニアの経済的便宜を図る。

一、ドイツ、リスアニア両国は相互に不侵略を誓約する。

1937年12月12日 訒竜光と広東軍の敵中突破

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/24 18:38 投稿番号: [1917 / 2250]
《 『南京保衛戦』・・・   劉紹武は書いている。


「十二日午後二時頃、唐生智から電話が入り、訒竜光に会議に来い、といわれる。

訒竜光は側近の陳文を連れて出かけると、五時頃、訒竜光から、

〝広東軍はすべて葉肇の下に入って、前線を突破して撤退する。

その第一として、広東軍はすべて太平門に集結せよ〟と命令が入った。

このとき誰かが、大きな声で 〝逃げるんだ〟 と叫んだ。

この声で、多くの官兵は大混乱となった。



私   (筆者である劉紹武)   はとりあえず五百万分の一の地図を持ち、

車で太平門に行こうとしたが、道は人の山で身動きも出来ない。

歩行で、暗くなった頃、やっと中央党部に着き、軍長の訒竜光とは会えたが、

師長の李江はいなかった。そして太平門に着いたのが午後八時である。



しかし、太平門は敵の進撃を封じるためにコンクリートで閉められていたので、

内側から外に出ることが出来なかった。

葉肇の軍隊が、その障害物を爆破し、とり除くのに懸命になっていた。

太平門に大挙集合した広東軍はいら立ち、

逆に外部からは日本軍がこの辺りに攻めてくるという情報もあって、

焦りは頂点に達する寸前だった。



午後九時を過ぎた頃、突然大声が起り、通路が開かれ、人が流れはじめた。

周辺は闇に包まれ、その中で人びとは先を争って城外に飛び出した。

弱者は倒れてふみつけられ、命を落し、強者はその上を通って、命を長らえた。

あとで私がきいたところによると、ある男は踏みつけられて下敷になり、

身につけていた手榴弾を投げつけて、周囲の者とともに自爆した、という。

惨劇のほどがうかがわれるであろう。



私は訒竜光とともに城外に出て、先頭部隊のあとを迫って公路を南下した。

しかし先頭部隊はたまたま日本軍との遭遇戦になり、葉肇軍の羅策群副師長は、

「几(幾)大就几大、唔好做哀仔呀」 (これは、広東語特有の表現で、

「広東人の誇りを失わず、人に後ろ指をさされるようなことはするな」   と

いうような場合に使われるらしい)   と叫びながら戦死した。》

(鈴木明著   『新「南京大虐殺」   のまぼろし』   265〜266p)



児島襄著   『日中戦争4』   218p

《 第六十六軍長葉肇と第八十三軍長訒竜光は、脱出方法について協議

・・・太平門を出て紫金山の南をかすめ、

ちょうど日本軍第十六師団と第九師団の中間をすりぬける……。

第百六十師が太平門内側の土嚢を撤去して脱出を開始したが、

たちまち城外に敷設した自軍の地雷原で損害をうけ後続する部隊の足をすくませた。》

ネトウヨに質問します

投稿者: kouei34 投稿日時: 2012/09/23 21:01 投稿番号: [1916 / 2250]
右翼・保守・極右・正論読者・産経新聞読者・サピオ読者・愛国者・
国粋主義者・独裁主義者・復古主義者・歴史修正主義者・軍国主義者・
民族主義者・武士気取り・国士気取り・通り魔予備軍・文学的変態・
言論チンピラ・ネットチンピラ・台湾系右翼たちに質問します。

論破開始
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#41】
南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。

1939年3月 リトアニア、メーメル割譲を受諾

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/23 15:25 投稿番号: [1915 / 2250]
〔昭和14年3月23日   東京朝日(夕刊)〕

〔ロンドン特電二十一日発〕

リスアニア政府は二十一日夜、メーメルをドイツに割譲することに決定した。

同時にドイツはその代償としてリスアニアに対してメーメル港使用に関し、

或る種の特権を許容する事となった。



右決定は二十一日夕刻、スメトナ大統領司会の下に行われる閣議で

決定せられたものであるが、割譲がかくも早く決定したのは、

二十一日、ドイツよりリスアニア政府に対し正式にその要求を提示したことに基づく。

すなわちドイツ公使は二十一日朝、リスアニア外相ウルプシス氏を訪ね、

メーメルのドイツ合併要求を提出し、右によって生ずる経済問題については

ドイツは好意ある措置をとる旨を約したといわれる。

その結果、事態はかく急速に進展したものである。



〔メーメル二十一日発同盟〕   メーメル独立に関するドイツ政府の

対リスアニア最後通牒説がしきりに伝えられる折柄、

メーメル知事ヴィクトル・ガイリウス氏は二十一日、

ドイツ政府がリスアニアに対しメーメル返還の強硬要求を提示した事実を肯定し、

次のごとく言明した。



ドイツ政府はリスアニア政府に対し、メーメルをドイツに割譲するよう

強硬要求を提示して来た。

リスアニア政府は目下これが回答につき慎重に検討を重ねているが、

恐らく明二十二日にはドイツ政府に対し正式回答の運びとなろう。

1937年12月12日 中国第2軍団の脱出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/23 15:19 投稿番号: [1914 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   218〜219p


第二軍団の脱出成功

《 軍団長徐源泉は、首都衛戍   (えいじゅ)   司令との連絡がとれぬままに

退却命令も知らずにいたが、深夜、敗兵が陣内にまいこんできて報告した.

「南京己   於本日午後   失陥、下関江辺   無船可渡」

軍団長徐源泉は、日本軍   (第十三師団)   が烏龍山にせまっているが、



なお、同山と幕府山、南京の間は無事であり、

遡江している日本海軍部隊も烏龍山付近の揚子江閉塞線でストップしている事情を

考え、 「保存戦力」   のために退却を決意した。

周家沙、黄泥湯の渡船場から渡河をはじめ、

夜明けには、主力は対岸にわたることができた。



日本海軍の遡江部隊である砲艦七隻、駆逐艦三隻を基幹とする第十一戦隊

(近藤英次郎少将)   は、おりから烏龍山沖の閉塞線の除去作業をおこなっており、

中国軍第二軍団の脱出渡河は、その 〝鼻先き〟   を密行する形であった。》

中国人です

投稿者: keikokennjiro 投稿日時: 2012/09/22 16:31 投稿番号: [1913 / 2250]
この女は中国人です
http://www.youtube.com/watch?v=uoYuK5WmVLE&feature=related
これが中国人です
http://www.youtube.com/watch?v=cLscIchuZEo&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=VN3t6V9US-Q&NR=1&feature=fvwp

1939年3月15日 ドイツ・チェコを併合2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/22 14:36 投稿番号: [1912 / 2250]
〔昭和14年3月16日   東京朝日〕   記事のつづき


(ドイツ軍進駐記事   略)


ヒ総統も自ら乗り込む〔ベルリン十五日発同盟〕   ヒトラー総統は十五日午前、

ベルリンを出発、チェコのボヘミア及びモラヴィア地方の視察に上った。

総統はまずモラヴスカ、オストラヴァに向かう予定で、

同地には十四日夜、既に総統親衛隊が到着、総統の来着を待っているといわれる。



独逸全国民へ合併の布告〔ベルリン十五日発同盟〕

ヒトラー、ハーハ独、チェ両国元首の会見により、

チェコはついに十五日を以ってドイツの保護下に置かれることとなったが、

ヒトラー総統は同日、ドイツ国民に対する布告を以って、

右決定に至るまでの経緯を次のごとく発表した。



最近数週間に亘りチェコのテロリストによって惹起された事態は、

あたかも昨年秋におけると同様、誠に堪えがたき状態を馴致し、

旧チェコスロヴァキア国の各民族は既にそれぞれその独立を宣言した。

かくてチェコスロヴァキア国は既に解消したのである。

最近チェコ人によって行われた残虐行為は枚挙に遑(いとま) なきほどであるが、

かかる状態の継続は、千余年のながきに亘ってドイツ領たりし地域に残された

秩序の最後の残骸をも破壊せずにはおかないであろう。



かかる状態に鑑み、ドイツはテロリスト並びにこれらテロリストの保護者たる

チェコ軍隊を武装解除するため、

更にまた脅威に曝されつつあるすべての民衆の生命を擁護するため、

ボヘミア、モラヴィアの両地方にドイツ軍隊を進駐するに決定し、

ここに数千年に亘る歴史の根本を確立すべき基礎を創造し、

ドイツ並びにチェコ両国民の具体的要求に副うこととしたのである。

1937年12月12日 安全区にかくれる中国兵

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/22 14:26 投稿番号: [1911 / 2250]
宋希濂の回想録 『鷹犬将軍』 より


《 孫元良の、あのように卑劣な行為

(原註=孫元良は、十二日午後五時に長官邸に行き、会議が散会されたあと、

部隊には帰らないで、軍服を脱いで平服に着変え、難民区に行った。

そのまま一カ月潜んだあと、日本軍が難民を地方に疎開させたとき、

その中に紛れ込んで抜け出した)

は幹部にふさわしくない、恥ずかしいことだった。》

(鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 262〜263p)



郭岐の証言   (『南京大虐殺の現場へ』   の笠原十九司が集めた証言集105頁)


〈十二日深夜になっても鼓楼病院   (城内を南北に走る道路のほぼ真ん中に位置する)

から先へ進めなかった。ユウ江門まではまだ約四キロ余あったが、

中山北路は立錐の余地なく人垣で埋まり、少しも動かなかった。

郭岐は下関   (シャーカン)   脱出を断念して五台山に部隊を待機させ、


翌十三日午後に部下五〇〇余人を便衣   (民間人の平服)   に着替えさせ、

各自逃亡するよう命令して部隊を解散し、本人はイタリア大使館に避難した。〉

(松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』 55pより)



児島襄著   『日中戦争4』   217〜218p


《 将兵の一部は、渡江をあきらめ、

再び城壁にのれんなみにたれ下った綱にすがり、城内にもどる者もいた。

多数は〝暴徒〟化して放火をはじめ、深夜には交通部にも放火された。

火は外のゴミ、遺棄された弾薬にものびて大火災となり、

まきこまれて焼死する人馬の悲鳴が夜空にひびきつづけた。》



松村俊夫著   『「南京虐殺」への大疑問』   55pより


《 翌年二月二日の南京アメリカ大使館エスピーからの報告書も紹介されている。

〈中国軍自身が略奪行為を犯したこともまぎれもない事実なのです。

中国兵は気も狂わんばかりに軍服を脱ぎ捨て、

そして民間服を得ようとして市民の服欲しさに殺しまでやったのです。〉

(同書   (たぶん   『南京大虐殺の現場へ』   と思われる)   106頁)》



スミス氏   講演

《十二月十二日の夜、支那軍と市民が略奪を始めた。・・・

このとき特徴的であったのは、城内南部の支那人洋服品店で起きた騒ぎであった。

数百人の兵士がこの商店に殺到した。

市民服であれば、既製服という既製服が、飛ぶように売れた。

なけなしのお金をはたいて、全兵士が服を買い求めた。

そして路上で着替え、軍服を投げ捨て、市民となって消えた。

あとになって、この数百人の市民は、軍官学校と励志社に集合した》


(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』198p)
  (ラーベの日記12月15日にも同じ記事あり)



*   城内南部は激戦地のそば、安全区に避難もせず、店を開いていたのか?

   光華門(東南門)から、掃蕩戦に入った第九師団の

   歩兵第十九連隊第四中隊長土屋正治中尉は、『南京戦史』 に


   《ただ不気味な静寂、・・・市街に深く進入すればするほど、

   まさに 「死の街」 という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、

   人影一つ見えず、粛然とした軒並みのみが果てしなく続いていた。》

   (東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   178〜179p)


   と証言しているが。場所によって違うのか。

   それとも、スミス氏の中国人弁護か?

1939年3月15日 ドイツ・チェコを併合1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/21 18:56 投稿番号: [1910 / 2250]
〔昭和14年3月16日   東京朝日〕   両国首脳、合併協定に調印


〔ベルリン特電十五日発〕

ヒトラー総統とチェコ大統領ハーハ氏との会談の結果、

チェコ、すなわちボヘミア、モラヴィアをドイツへ合併するに決定し、

十五日附合併の協定に調印した。


コンミュニケ発表   〔ベルリン十五日発同盟〕

ヒトラー総統並びに   チェコ大統領ハーハ博士は

リッベントロップ、フヴァルコウスキー独、チェ両外相を交え、

十五日午前一時十分から三時間余に亘り歴史的会談を遂げたが、

会談後、次の共同コンミュニケが発表された。



  チェコ大統領ハーハ博士並びにフヴァルコウスキー外相の要請に応じ、

ヒトラー総統はリッベントロップ外相とともに十五日、

ベルリンに於いてチェコ首脳と会談を遂げた。

右会談に於いてはチェコスロヴァキアの領土内で最近起こった諸事件によって

醸成された重大事態につき徹底的検討を行った。両国首脳はいっさいの努力を傾けて、

中欧のこの地方に平和秩序並びに安寧を維持せねばならぬというに意見一致した。



ハーハ大統領は右の目的を達するため、かつはまた決定的鎮静を齎   (もたら)   す

ためには、チェコ国民並びにチェコ国の運命を

ドイツ総統の手中に委ねるを可とする旨を宣言した。

ヒトラー総統はこの宣言を受諾し、

「総統はチェコ国民をドイツの保護下に置き、かつその特殊性に応じ、

チェコの民族生活の自治的発展を保障するに決した」   旨を発表した。


   署名   ドイツ総統   アドルフ・ヒトラー、

      チェコ大統領   エミール・ハーハ、

      ドイツ外相   ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、

      チェコ外相   フランチセック・フヴァルコウスキー



*   次回の記述で明らかとなるが、先にチェコ人によるテロ行為があって、

   ハーハ大統領が、併合を申し出たらしい。

   これって、日韓併合と似たパターンではないだろうか?

南京・実際にあった攪乱工作4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/21 18:47 投稿番号: [1909 / 2250]
外国人も、最初は日本軍の犯罪と考えていましたが、

徐々にそうではないことが判ってきます。



松村俊夫著   『「南京虐殺」への大疑問』   140〜141pを見てみましょう。


《 憲兵も毎日 日暮れ以後はあまり活動せず、

七時、八時にはまったく影も形もなくなった。

それで強奪などの事件は後を断つことがなかった。



最初、新街口で難民収容所が一つ襲われた。・・・

その次は孫軍需官で、彼は教導総隊第一連隊の軍需主任である。

出発直前まで私は彼と一緒にいたが、その後、連絡が途絶えた。・・・

軍需という目標はとくに大きいので、普通は軽々しくは外出しなかった。

彼が用事で五台山付近へ出かけたとき、二人の盗賊に金をゆすられた。

彼は   「私は藁をしき、藁をかけて寝ているのに、どうして金など持っていようか」

と言ったが、彼らはいたるところを探した。



中国人の強盗は日本人よりもずっと芸が細かい。

彼らは全身裸にして靴下さえも脱がし足の指に金の指輪をはめていないかまで調べ、

衣服のいたるところをさわって縫い目の中に紙幣を隠していないかどうかまで調べた。

(②234頁〜235頁)

・・・

これは『資料集②』に載っている郭岐の手記の一部である。》



*   ここに   「軍需という目標」   という言葉がありますが、

   これが単なる市民の言葉でない事は確かでしょう。



次はローゼンがコヴィルに言った言葉
151p


〈 日本人はいかなる文明も持っていない。 (中略)

日本は負ける (中略) ゲリラがゴリラに対抗しているのだから、

ゴリラが敗退するのは必定だ。〉 (①116頁)



*   この中で 「ゲリラ」 とは便衣隊の事ですね。



151〜152p

《 三月三十一日、 「南京から、見せかけの経済についてのノート」   という

宛先不明の文書がベイツによって書かれている(①194〜197頁)。

・・・

〈 日本軍の統制の不安定さについての根拠のない噂が出回っている。

その原因は、全体的に信頼できるニュース源をまったく欠いていること、

および   「国民政府軍の便衣隊」   という快適なタイトルに

多少なりとも値する彷捏 (さまよ) える中国軍部隊の活動がある

ことに求められる。)(①196頁)》



*   南京陥落から三カ月半も過ぎたころになって、ベイツも、

   ようやく混乱の原因が便衣隊にあると、わかってきたようです。

*   つまり、便衣隊の攪乱工作は実際に行われていたのです。

   従って、龍と周が命により残留させられたのなら、

   攪乱工作の密命を帯びていると疑うのは当然でしょう。



次からは通常のルートに戻ります。

1939年2月27日 維新政府の探偵三人殺さる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/20 18:54 投稿番号: [1908 / 2250]
〔昭和14年2月28日   東京日日〕


〔上海本社特電二十七日発〕   上海租界に根を張る抗日テロ団の跳梁は

一時姿をひそめたかの観があったが、二十七日、再び兇手を揮い

維新政府探偵三名を殺害し曝し首にするなど、暴虐の限りを尽くしている。



二十七日午前零時ごろ、滬西地区周家鎮白利南路一七七九界三三号に居住の

同政府警察部女探偵陳桂英邸にピストル所持の十数名のテロ団一味が忍び入り、

同邸にいた探偵、河北省生まれ大鵬祥(四三)、同李錦秀(三一)、

漸江省生まれ徐河伊(二三)と陳探偵の女児(五つ)の四名を拉致、

逃亡、同日午前七時頃、ブレナン路横道路上に

大、李、徐三名の曝し首が捨ててあるのを同政府巡警が発見、

死体および陳探偵の女児の行方は未だ不明である。



なお同現場は長さ八十五インチ、幅四十五インチの白布に、

「漢奸なるため殺害す。三民主義青年団」   の意味が書き残され、

右三氏の首を運んだらしい血塗られた麻袋一個が捨てられ、残虐を物語っていた。

わが憲兵隊では時を移さず急行、

同地方の警戒に当ると同時に死体及び犯人捜査中である。

南京・実際にあった攪乱工作3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/20 18:49 投稿番号: [1907 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   276〜277p


  馬中将は安全地帯で反日撹乱行為を煽動

また、上海でアメリカ人の発行する   『チャイナ・プレス』

(一九三八年一月二十五日号)   も、同じことを報じている。

それによれば、十二月二十八日現在で、外国大使館や建物から、

支那軍の将校二十三名と、下士官五十四名、兵卒一四九八名が摘発された。



これは、十二月二十四日からの住民登録の結果でもあった。

つづけて   『チャイナ・プレス』   一月二十五日号は、

その前日公表された南京日本軍憲兵隊の報告書を引用する。

                            
《 その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには

南京平和防衛軍司令官王信労   (ワンシンロウ:音訳)   がいた。

彼は陳弥   (チェンミイ:音訳)   と名乗って、

国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。

また、前第八十八師の副師長マーポーシャン中将や、

南京警察の高官密信喜   (ミシンシ:音訳)   もいると言われている。

馬中将は安全地帯内で反日撹乱行為の煽動を続けていた、と言われる。



また、安全地帯には黄安   (ファンアン:音訳)   大尉のほか十七人が、

機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、

王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携わったという。》

・・・

注意すべきは、安全地帯の支那軍将兵たちは

強姦の話を撒   (ま)   き散らしただけではなかった。

それを証明すべく、自ら   「強姦に携わった」   か、強姦未遂に携わったことである。



そのような舞台裏を知っていたのであろう、支那人の中から、

強姦は支那軍がやったのだと証言する者が現れる。

東京裁判に提出されたマッカラムの一九三八年一月の日記は、

「支那人ノ或ル者ハ   容易ニ掠奪・強姦及ビ焼打等ハ   支那軍ガヤツタノデ、

日本軍ガヤツタノデハ無イ   ト立証スラ致シマス」



つづく

1939年2月25日 防共協定に満・洪国調印

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/19 18:39 投稿番号: [1906 / 2250]
〔昭和14年2月25日   東京朝日   (夕刊)〕   満州国の加盟調印式終わる


〔新京特電二十四日発〕   世界平和の樹立と文化の進展に寄与する防共枢軸に、

ハンガリーと時を同じうして参加した

満洲国の日独伊防共協定加盟議定書調印式は、

二十四日、新京において張満洲国務総理と

日、独、伊三国全権代表との間に厳粛裡に執り行われた。



〔昭和14年2月25日   東京朝日〕   ハンガリーも調印


〔ブダペスト二十四日発同盟〕   ハンガリー政府の防共正式参加の議定書調印式は

二十四日午前十一時、ブダペストのハンガリー外商省において行われた。

調印式にはハンガリー・チャーキー外相、

ドイツ・オットー・フォン・エルドマンスドルフ駐洪   (ハンガリー)   公使、

日本・松宮駐洪公使、

イタリー・フォルメンティーニ駐洪代理公使が出席、

それぞれ自国を代表して議定書に滞りなく調印を了した。



〔ブダペスト二十四日発同盟〕   ハンガリー外相チャーキー伯は

防共参加調印の後、左のごとく語った。


  ハンガリーの防共協定は単に二十年に亘るポルシェヴィズム排撃の

闘争に対する解答のみではなく、日、独、伊三国に対する友好関係の現れでもある。

実にハンガリーはコミンテルンの国内策動絶滅には辛い経験を有する。

かかる傾向は世界のすべての箇所に起こるところであり、

従ってハンガリーとしては率先、防共のため国際提携確立に努むるの要がある。

だが防共協定はいかなる国をも目標にせず、

ただポルシェヴィズムの国際的非合法干渉に対する防衛を意味するに過ぎない。

南京・実際にあった攪乱工作2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/19 18:32 投稿番号: [1905 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   275p

『ニューヨーク・タイムズ』   (1938年1月4日号)


「元支那軍将校が避難民のなかに   ―

    大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」

と題する記事は、次のように言う。以下は全訳である。



《 南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として

残留しているアメリカ人教授たちは、

逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名を匿   (かくま)   っていたことを発見し、

心底から当惑した。   実のところ教授たちは、この大佐を

避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。



この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、

それから女子大の建物に住んでいて発見された。

彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、

砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、

それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。



この元将校たちは、南京で掠奪したことと、

ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、

その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、

アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した。


この元将校たちは逮捕された。戒厳令に照らして罰せられ、

恐らく処刑されるであろう。》


つづく

1939年2月22日 三カ所でテロ、巡捕殺される

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/18 18:40 投稿番号: [1904 / 2250]
〔昭和14年2月23日   東京朝日(夕刊)〕

〔上海特電二十二日発〕

引き続くテロ事件発生に無警察状態を暴露せる上海において、

またもや抗日テロ事件が勃発した。



二十二日午前九時二十分、新嘉坡   (シンガポール)   路公大   (鐘紡)

第四廠正門前の茶館において休憩中の新政府偵揖隊員李洪濤   (三〇)   に対し、

突如三名の支那人暴漢がピストルを発射、即死せしめ、犯人は逃走せんとしたが、

その物音に附近を警備中の工部局警察日本隊深田巡査が、

折り好く同所附近に居合わせた日本憲兵一名とともに犯人を追跡中、

兇漢よりピストルを乱射されたが、幸いにも被害はなかった。



また同九時四十分ごろ、成都路警察署の犯人護送自動車がロビンソン路に

差し掛かった際、支那人暴漢は該自動車を目がけてピストルを発射、

自動車上の支那人巡警二名負傷、附近に居た上海特別市政府巡警一名は即死した。



なお公大第三廠附近にも計画的テロの一団が、警戒中の工部局巡査及び

維新政府の警官を襲撃し、その中の一人は負傷、折柄通行中の支那人婦人一名重傷し、

あくなき抗日テロの横行に人心は極度に不安にかられて居る。



〔上海二十二日発同盟〕   二十二日午前九時半頃、上海西部越界地区

シンガポール路の我が公大   (鐘紡)   第四工場に

モーゼル銃を擬せる多数支那人暴漢闖入 (ちんにゅう)、

同所警備中の上海特別市政府巡捕を狙撃、

更に同所に待機中の我が憲兵隊橋本軍曹及び工部局日本人巡査に対して

攻撃的姿勢に出たので、柴田巡査はピストルを以って応戦、

逃走せんとする暴漢一名を捕縛した。



租界の徹底的改組要求を訓電   上海の抗日テロ続発事件に関しては

陸、海、外の出先当局が慎重協議の結果により、

二十一日深更、訓令を求めて来たので、二十二日午前九時から外務省に於いて

陸、海、外の関係当局間に於いて熟議を重ねた上、

上海共同租界工部局に対する要求の根本方針を決定、

有田外相は首相官邸に平沼首相を訪問、訓電内容を報告の上、

同日正午、三浦上海総領事に宛て右重要訓電を発した。



しかして我が政府当局の根本方針としては、

共同租界当局が飽くまでその不誠意を改めざる限りは断乎有効、

適切なる手段を講ずるのやむなしとの決意を持ちながら、

まず第一段としては現地解決主義により、

二十二日の訓電に基づく交渉経緯を厳重監視するの態度に出でているが、



右訓電の内容は、

(一)狙撃犯人の即時逮捕、(一)市参事会に対する邦人会員の増加、

(一)共同租界の徹底的改組等にあるものと見られている。

よって三浦総領事は直ちに共同租界当局に厳重なる正式交渉を開始するものと

見られるが、租界当局に誠意なく、その徹底的改組が肯んぜられない場合は、

我が方独自の見解に立脚する有効なる措置に出ずるものと見られる。》

南京・実際にあった攪乱工作1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/18 18:31 投稿番号: [1903 / 2250]
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   154p


《 『資料集②』   の郭岐の手記
・・・

〈 日本の獣兵は南京市を占領していたが、周辺のデマで日夜不安であり、

まるで針の延に座っているかのようだった。

あるとき、中央   〔国民政府〕   の便衣隊約五、六人が入城し、

中華路付近の地下室内に潜んでいた。


ちょうど五人の獣兵が三、四人の人夫をともなって北から南へやって来ていて、

わが便衣隊の近くに来た。彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺しにし、

四人の人夫に   「中央軍はすでに入城した」   と言って、人夫たちを安心させた。


この四人の人夫は常態を失して狂気乱舞した。

彼らは大あわてで道をかけ、途中、日本人・中国人を問わず、人に会うごとに

「中央軍が来た!」「中央軍が入城した!」   と大声で叫んだ。

中華路からずっと難民区内まで叫び続けたので、町中にうわさが広がり、

みな疑心暗鬼になった。・・・〉》



*   これと符合する話がラーベの日記の一月八日の所にあります。


〈 今日、中国人の間で、中国兵たちが南京を奪いかえそうとしているという噂が、

またもやひろまった。それどころか、市内で中国兵の姿をみかけた、という話まで出ている。

まず、安全区の家々に飾られていた小さな日の丸がそっくり姿を消した。

日本の腕章も。中国人のほぼ全員がつけていたのだが。

そしてつい今し方、ミルズが教えてくれたところによると、

相当数の難民が日本大使館を襲おうと考えていたという。

このときのささやかな暴動に加わった人たちは死刑になった。〉



もう一度   松村俊夫氏の   『「南京虐殺」   への大疑問』   に戻りましょう。
136p


《 ウィルソンの一月八日付の手紙にも次のような話がある。


〈 南京市は絶えずでたらめの噂で一杯だが、

私たちはこうした噂をラジオでチェックしている。きょう面白い事件があった。

中国人の噂によると、中国軍が城門のところまで来ていて、

再び市を奪還しようとしているというのだ。

日本大使館に行って衣類の洗濯をしていた女性が数人、

手に大きな包みを抱えて家に帰ってきた。

彼女たちが大学に近づくと、日本人が大使館を出ていったので、

この女性たちが略奪品を持って帰ってきたというニュースが野火のように広まった。



たちまち一群の女性たちが略奪の分け前にあずかろうと、

有刺鉄線のある柵を乗り越えて入って行った。

由々しい事態が発生しないうちに彼女たちは大使館の建物の裏から、

中国人使用人に押し出されたという。〉   (①297頁)》



注:松村俊夫氏の言う資料集とは、青木書店刊   『南京事件資料集』   の事

   ①はアメリカ関係資料編

   ②は中国関係資料編

Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし

投稿者: watasiwakatyou 投稿日時: 2012/09/18 09:13 投稿番号: [1902 / 2250]
戦争でしょ?中国人も日本人殺した。

1939年2月下旬 汪兆銘 ハノイ脱出の意向

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/17 15:27 投稿番号: [1901 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
202p


《 汪兆銘は、二月下旬、元亜州司長高宗武と情報司日蘇科長周隆庠を

東京に派遣し、ハノイからの移動の意向を伝達してきていた。

  本格的な活動にはいる準備と、刺客をさける意味をこめてのことだった、

という。》

1937年12月12日 ラーベの日記 2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/17 15:22 投稿番号: [1900 / 2250]
  十八時半

《 紫金山の大砲はひっきりなしに轟いている。

あたりいちめん、閃光と轟音。突然、山がすっぽり炎につつまれた。

どこだかわからないが、家や火薬庫が火事になったのだ。

紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。

南部から逃げてくる人たちが、安全区を通って家へ急ぐのが見える。



その後から中国軍部隊がぞろぞろつづいている。

日本軍に追われているといっているが、そんなはずはない。

いちばんうしろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのをみればわかる。

この部隊は中華門、あるいは光華門で手ひどくやられ、

パニック状態で逃げてきたことがわかった。

しだいに落ち着き、最初は気が狂ったように逃げていたのが、

いつしかのんびりとした行進にかわっていた。



それはともかくとして、日本軍がもう城門の前まで攻めてきていること、

したがって最終戦が目前に迫っていることは、もはや疑いようがない。

・・・

夜の八時少し前、龍と周がやってきた。

ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した。

韓と一緒に本部から家に帰るまえに、この二人は、本部の金庫に三万ドル預けていた。


  二十時

南の空が真っ赤だ。・・・。ふたつある門の両方でノックの音がする。

なかにいれてもらおうと、女の人や子どもたちがひしめいている。

ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げこんできた男たちもいる。

これいじょう聞いていられなくなって、私は門をふたつとも開けた。

防空壕はすでにいっぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。

ほとんどの人はふとんを持ってきている。

庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で寝ようというちゃっかりした連中もいる。

ここが、一番安全だと思っているのだ。


・・・

十二時ちょっとまえ、門のところでドシンというすごい音がした。

行ってみると友人のクリスティアン・クレーガーだった。

・・・

クリスティアンの話だと、メインストリートには、軍服や手榴弾、

そのほかありとあらゆる兵隊の持ち物がばらまかれているという。

中国軍が逃走中に投げ捨てたものだ。

・・・

真夜中になってようやくいくらか静かになった。私はベッドに横たわった。

北部では、交通部のりっぱな建物が燃えている。

・・・

夜の九時に龍が内密で教えてくれたところによると、唐将軍の命により、

中国軍は今夜九時から十時の間に撤退することになっているという。

後から聞いたのだが、唐将軍は八時には自分の部隊を置いて船で浦口に逃げたという。

それから、龍はいった。   「私と周の二人が負傷者の面倒をみるために残されました。

ぜひ力を貸していただきたいんです」   本部の金庫に預けた三万ドルは、

このための資金だという。

私はこれをありがたく受け取り、協力を約束した。》



*   この二人は、便衣隊による攪乱工作の密命を受けているかもしれない。

   次回は、そう疑う根拠を示します。そして、その後で本来のルートに戻ります。

1939年2月21日 李国杰氏租界で暗殺される

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/16 16:20 投稿番号: [1899 / 2250]
〔昭和14年2月22日   東京朝日〕   また親日要人が共同租界で暗殺される


〔上海特電二十一日発〕   相次ぐ血腥   (ちなまぐさ)   き抗日テロ事件に対し、

断乎たる粛清処置を要望する輿論   (よろん)   喧   (やかま)   しい上海共同租界内に、

二十一日、またまた親日要人を街頭に遊撃、即死せしめた血の兇変が勃発した。



同日午後四時、かねて維新政府側の某要職に擬せられつつあった

李国杰氏   (六〇)   が共同租界弋登   (ゴルドン)   路新閘路街頭を通行中、

突如二名の壮漢がピストルを翳   (かざ)   して李氏の身辺に迫り、

たちまち五発を乱射してその場に李氏を殪   (たおす)   すや、

犯人は直ちに混雑に紛れて逃走、その姿を晦   (くらま)   して了   (しま)   った。



朱に染まった李氏の体は直ちに海格路の赤十字病院へ担ぎ込まれたが、

その途中、同十五分絶命した。

この附近には日本紡績会社内外綿本部及び同第八工場等あり、

在留邦人も多数居住して居る場所とて、この兇事を繞   (めぐ)   って

騒然たる空気に満ちて居る。



〔上海特電二十一日発〕   兇手に集れた李国杰氏は二十一日午後四時、

新閘路二三〇号の自宅を出て弋登路の友人の宅を訪問する途中、

この兇変に遭ったもので、弋登路角に差し掛かった際、

藍色の職工服を着た二名の支那人と出会い頭にピストル五弾を受け、

弾丸は頭部、腹部、右大腿部などに命中、即死を遂げたものである。



〔上海特電二十一日発〕   李国杰氏は安徽省の人で李鴻章の孫。

かつてベルギー大使たりしこともあり、

一九一四年、参政院参政員に任ぜられ、一九一六年以来政界を引退して

実業界に入り、上海輪船招商局の董事長をして居たこともある。

目下維新政府関係の某要職に擬せられて居たもので、享年六十。

なお同氏の次男李家嗣氏   (三二)   は維新政府実業部技術室に技師をして居る。

1937年12月12日 下関での悲劇2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/16 16:13 投稿番号: [1898 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   217p


《 敗兵たちは、ロープ、ゲートル、ベルト、さらには軍服をひきさいて

急造した綱で城壁外におりたが、夢中で飛びおりて死ぬ者もいた。

ようやく下関にたどりつくと、

埠頭は渡船をもとめる市民 (?) と将兵の争乱場である。



「江面雖   (いえども)   有少数船舶、因統制無人、多被争奪士兵撃沈、

亦有装載過重沈没者、状至悽惨」



と、中国側 「抗日戦史」 も記録しているように、乗れぬと思った兵は

船に発砲し、乗れたとしても定員過剰で沈没し、

つめかける群集におされて水中に転落する者もあり、

江上と江岸は阿鼻と叫喚につつまれた。》



*   児島氏は、ここで   「埠頭は渡船をもとめる市民と」   と書いているが、

   これは正しいのか?


   市民は安全区に避難している筈なのに、何で危険な城外にいる?

   船で逃げられる者は、何日も前にとっくに逃げ出している。

   南京にいる者は金がなく、逃げ出せなかった者ばかり。

   しかも兵隊が門を塞ぎ、邪魔しているから出られない。

   ラーベですら、許可なしでは出られないのだ。

   この市民とは、平服に着替えた兵士ではないのか?



   それは、ともかく、このようにして、ユウ江門と下関周辺には大量の死体ができ、

   揚子江には大量の漂流死体が浮かび、流れた。

   これを、後から来た、善人心の日本人が、日本軍が殺したと勝手に思いこむ。

1939年2月19日 維新政府要人暗殺さる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/15 15:31 投稿番号: [1897 / 2250]
〔昭和14年2月20日   東京朝日〕


〔上海特電十九日発〕   去る一月下旬より上海共同租界においては

維新政府関係者に対するテロが頻々として行われ、

しかも犯人は一名も逮捕されざる状態であるが、



去る十六日には我が宍戸陸戦隊司令官より工部局当局に対して

治安維持方につき抗議的申し入れを行った矢先、

旧正月に当る十九日午後七時十五分、

維新政府外交部長陳ロク (竹+録)   氏が暗殺された事件が突発し、

雨に鎖されて不気味な殺気漲   (みなぎ)   る上海の旧正月を血に彩ってしまった。



すなわち陳外交部長は共同租界エキステンション愚園路の私邸におい

て家人と卓を囲んで夕食中、突如壮漢十五、六名が雪崩   (なだれ)   込み、

ピストルを乱射して陳外交部長を倒し、

混乱する家人を尻目にかけて疾風のように遁走した。

陳氏は胸部その他に数発を受け、朱に染まって倒れ即死を遂げた。

工部局警察本部および静安寺署より係り警官が急行し

現場を取調べ中であるが、犯人の姿は既にない。



〔上海十九日発同盟〕   遭難せる陳ロク (竹+録)   氏は直ちに海格路の病院に運ばれ

検視を行った結果、弾丸は頸動脈部に左右各一発、銃弾貫通して即死していた。

遭難当時、陳ロク (竹+録)   氏夫妻は羅忠詒氏夫妻と同席していたが、

犯人は裏門から潜入し、直ちに応接室を襲い、

陳ロク (竹+録)   氏にピストルを突き付け乱射し、即死するを見届けた後、

「 蒋政権万歳、抵抗必勝」   と書いた伝単   (ビラ)   を室内に撒布し

悠々正門から出で、護衛の拳銃を奪取してその武装を解除した後、

護衛二名をいずこへか拉致した。

1937年12月12日 下関での悲劇1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/15 15:21 投稿番号: [1896 / 2250]
宋希濂の回顧録   『鷹犬将軍』   より


《 わが方は第八十三軍 (広東軍、訒竜光) が命令通り、

棲霞山付近にいた敵軍の前を迂回して脱出に成功しただけで、

他はすべて下関   (シャーカン)   に押し寄せ、勝手放題に船を求めて殺到した。

このことが、十二日夜、ユウ江門、下関一帯に極度の混乱を招き、

戦史の上でも稀にみる、一大悲劇を招いた原因になった。



長江両岸を連絡する下関と浦口との間には、もともと二隻のフェリーが就航していた。

このフェリーは一回に七、八百人を乗船させることが可能で、

一往復するのに、四、五十分かかる。

午後五時には暗くなるので、夜明けまでに十四時間航行することが出来

(昼間は空襲があるので航行出来ない=原註)、

もし防衛長官がこのフェリーを確保していれば、

少なくとも三万人の渡河が可能だったであろう。



しかし、彼等   (唐生智司令部)   は、この二隻のフェリーを

既に漢口に行かせてしまっていた。

下関の船着き場に残っていたのは数隻のランチ

(せいぜい、百馬力ほどのもの=原註)   と、二、三百隻の民船だけであった。

これだけ多くの人員が渡ろうとしていることと、船がこれだけしかないことが、

また悲惨な事件への導火線となった。

唐生智はすぐに渡河をはじめたが、各部隊は指示通り前方突破には向わなかった。



教導総隊   (桂永清)、 八十七師   (王敬久)、 八十八師   (孫元良)、

七十四軍   (兪済時)、 六十六軍   (葉肇・広東軍)、

それに南京警察などは、中山路に沿ってユウ江門を抜けて下関にゆこうと

先を争って、誰も譲らなかった。

ユウ江門を守っていた三十六師   (宋希濂)   と激しい衝突となり、

混乱は頂点に達した。



下関はさらに混乱、船は少なくなった。

それでも人びとは船を奪い合い、勝手に発砲した。

船は重量に耐えられず、長江の半ばで転覆するものや、

河に漕ぎ出した船を撃って、民船を沈没させる者もいた。

まさに、地獄絵そのものだった。



多くの将兵は、商店の扉や門の板を外して、速成の筏   (いかだ)   を作ったりしたが、

長江の流水を制御することが出来ず、転覆する者、溺死する者も、

千百人   (百人が千ある。   つまり   「沢山」   の意味)   を越えた。

悲しみの声と救いを求める声は南北両岸に響き、嘆きの感情は

鬼哭   (きこく)   に充ちて、人の世の惨劇を呪っているようだった。》


(鈴木明著   『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』   261〜262p)


つづく

1939年 丁黙邨らに資金武器を貸与

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/14 18:48 投稿番号: [1895 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
72〜74p


《 貸与される工作費が彼らが申し出た金額より十万円も多かったのは、

日本の陸軍がいかに特工に期待したかを示すもので、

それには丁も李も驚きの色を見せた。

「かしこまりました。ついては、それはいつから頂けるのでしょうか。

また、いつまでつづけて下さいますか」



「そうですね。あなた方の準備ができ次第、明日にでも中国の紙幣で差しあげます。

期間は一応党大会が終わるまでと考えて下さい。

その後のことは七月にでもなったら、もう一度相談しましょう。

それから兵器類もご要求通りに、二月中にお貸しします。



爆薬は日本の火薬庫に保管させますから必要なときに申し出て下さい。

なお日本軍は兵器の管理がたいへんやかましいので、面倒でしょうが、

銃の番号とその所有者の氏名が、はっきりわかるような台帳をつくって下さい」



拳銃は先方の要求通り、さしあたり三百挺だけを渡すにとどめ、

渡す銃はすべて試験射撃をして発射した弾丸のライフル・マークを写真に記録した。

それは銃の指紋というべきもので、

仮に渡した銃が日本人に対するテロに使われたとしても、

弾丸さえ回収できれば、拳銃が彼らに渡したものか、どうかわかるはずだった。



彼らは日本の援助が思いのほか大きかったので、

感激し切ってもう感謝の言葉も全く出なかったが、

やがて   「命を賭して工作に邁進して、知遇に報いたい」   と赤誠を吐露して誓った。



ところで、特工本部の場所であるが、これは特工の成否を決める重大な問題である。

私はそれを尋ねた。

「李さん、昨日お願いした家は見つかりましたか」

「陳調元の家はどうでしょう」

すかさず丁黙邨が答えた。



それは重慶の軍事参議院長、陳調元大将の邸で、宅地二千坪あまりの広大な屋敷だった。

ところは共同租界外の滬西で、ゼスフィルド路の七十六号にある。

すなわち静安寺の前をちょっと西へ入りこんだところで、

そのあたり一帯はイタリア軍の警備区域であった。

当時、イタリア軍は日本側に対して一番好意を持っていた。

そこに本拠を置くことは万事都合がよい。



実は私もあらかじめそこに目をつけて、

その邸を管理している特務機関と交渉して譲り受ける内約をとってあった。

ここに目をつけたとは丁黙邨もさすがである。

私はわが意を得たりとばかり賛意を表した。

「ゼスフィルド路の七十六号ですね。いいでしょう。ではそれに決めます。

二、三日中にお引き渡しします」

トントン拍子の進行に、丁黙邨は心から嬉しそうにいう。》



*   「渡す銃はすべて試験射撃をして

   発射した弾丸のライフル・マークを写真に記録した。」

   日本軍は、73年前に、

   既に、今の鑑識とかCSIのような事をしていたんですね。

   すごい。

1937年12月12日 地獄絵の南京城内2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/14 18:38 投稿番号: [1894 / 2250]
石田勇治   編集・翻訳   『資料ドイツ外交官の見た南京事件』   31〜32p


《 数人の将校が退却する大群の行く手に立ちはだかり、制止した。

怒声が響き、ピストルの銃声が鳴った。

兵士はいやいや向きを変え、重い足取りでふたたび前線に向かい始めた。

だが、長くは続かなかった。

三〇分もしないうちに、中国軍の士気が衰え、全軍の潰走が明らかとなった。



もはやかれらを止めるものは何もなかった。

何万もの兵士が、かれらに開かれた唯一の退却路である

市の北西隅のユウ江門に向かって、通りを移動した。

門の先半マイルに長江が流れており、

そこでは先に到着する者を一群の艦船が待ち受けていた。



崩壊の始まりは午後四時三〇分ごろで、

当初はかなり秩序だった退却が、夕暮れには潰走と化した。

逃走する軍隊は、日本軍の猛追撃を考えて余分な荷物を投げ捨て始めた。

まもなく通りには、打ち捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。



主な退却路となった中山路からほんの数ヤード隔った百万ドルの

交通部庁舎に兵士が火を放つと、地獄絵図は激しく幕を開けた。

そこは臨時の弾薬庫として使用されていたが、

炎がその砲弾・爆薬庫に達すると、恐ろしい爆音が夜空に鳴り響いた。



銃弾と砲弾の破片は鋭い音をたてて頭上を飛び交い、

河岸へ向かう道をひしめき合いながら進む群集の恐怖と混乱を煽った。

燃えさかる庁舎は巨大な炎を噴き上げ、物凄い熱を放った。

パニックに陥った群集の行列は遅々として進まず、交通は渋滞した。

大砲、トラック、オートバイ、荷馬車がひどい混乱のなかで

玉突き衝突を起こし、うしろからは前へ前へと押し寄せてくるのだった。



兵隊は死に物狂いで道を空けようとしていたが、徒労であった。

路上の集積物に火が燃え移り、幹線道路をふさぐ炎の障壁をつくった。

退却中の軍隊に残っていたわずかの秩序は完全に崩壊した。

いまや誰も我が身だけを頼りにした。

燃え盛る障害物を迂回し命からがら下関門に辿りついた者が見た光景は、

ただ残骸と死体で塞がれた門の姿であった。》



*   交通部には、ラーベたちが大量の難民を収容していた。

   炎と大爆発では助からないだろう。

   もし、日本軍が、大量の難民を収容していた所に火をつけて、

   大爆発を起こさせたなら、大虐殺と叩かれただろう。

   しかし、中国兵のやることは問われない。

1939年 工作に日本人は関与しない

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/13 18:39 投稿番号: [1893 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
71〜72p


《 だが彼らには、この条件は思いがけないほど寛大で都合がよいものだった。


丁黙邨たちは拍子抜けがしたように、呆然とその意外な言葉にむしろ驚いていた。

ただし汪兆銘の和平運動に合流することについては、

丁黙邨はあくまで別個にやりたいといい、

李は一緒でもかまわぬと主張してしばらく論争したが、

やがて丁黙邨も折れて出た。



「結構です。おっしゃる通りにお約束します。

しかし、特工を中国人だけに任せられるのは困ります。

なぜ、日本人は工作の実行に関係しないというのですか」



「それはわれわれ日本側が特工を傍観しようというのでなく、

先般、土肥原さんにおっしゃったあなた方の意見をそのまま尊重した結果ですよ。

私たち一知半解な日本人が、なまじ口出しをしない方が

特工を成功させる途だと思うからです」



私はそう説明した。しかし、李士群は収まらなかった。

「それは困ります。工作の実行部門もぜひ指揮してもらわないと困ります。

それは、日本軍と連絡して仕事をうまく運ぶためにも必要ですが、

根本的にはわれわれの工作にいつわりがないことを

実地の工作でお目にかけたいからです。

晴気さん、どうか、もう一度考え直して下さい」



「李さん、それは違うでしょう。私はお互いの魂がじかに触れあって、

少しも疑わない信頼の上にこの工作を築きあげて、

日華提携の模範としたいと思っています。

あなた方を疑う気持ちは毛頭ありません。

少しでも疑う心があれば、この工作は成功しないと思います。

いかがでしょう、丁さん……」



しかし、李士群はいつになく積極的で、しつこかった。

「そういわれるとその通りですが、野放しにされても困ります。

丁さん、どうすればよいでしょう」

丁黙邨は私と李士群の間に挟まってしきりに考えていたが、やがて膝をたたいて、



「それではこうしたらどうでしょう。

将来困ったときは改めてお願いするとして、当分はわれわれだけで工作をはじめます。

そのかわり、私たちはできるだけあなたとよく連絡し、

別に工作予定と成果を書類で毎週報告いたしましょう」



私としては、それはこちらからいい出したいところで、しめたと思った。

しかし、わざと無関心をよそおって、さりげなく次の問題に転じてしまった。

「よいでしょう。それはそのくらいにして、経費は毎月三十万円お貸ししますから、

民衆からの献金はあてにしないで下さい。

また行動隊に十分な給料を与えて

悪いことをしないように厳重に取り締まって下さい」》



つづく

1937年12月12日 地獄絵の南京城内1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/13 18:31 投稿番号: [1892 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   216〜217p


《 首都衛戍司令官唐生智が、首都放棄命令をだす前から、

城内には城外からの敗兵の流入がめだち、

逃散にそなえて食糧を確保すべく食料品店をおそう中国兵がふえていた。

揚子江を背にして包囲された南京では、容易に想いうかぶ脱出点は

下関   (シャーカン)   埠頭である。



退却命令が発出される数時間前から、

すでに隊伍をくんで下関にむかう中国兵の姿がみられた。

中山路にはいると次々に武器をすて、街路は小銃、手榴弾、銃剣、背嚢、

さらには機銃、火砲、乗用車、トラック、荷馬車でおおわれた。



後続する兵は、それら兵器を路の両側に蹴り寄せ、

その上に自分の武器をほうり投げ、動かぬ車輌には放火した。

ほとんどの兵が軍服をぬいで便衣に着がえ、便衣を持たぬ者は、

避難をいそぐ市民の衣服をはぎとり、中にはハダカのまま走りだす兵もいた。》



程奎朗参謀の回想、 『南京戦史資料集Ⅱ』   から。


《 中山北路の海軍部の前に行くと、

第三六師の部隊がいて道路上に機関銃を置いて交通を封鎖し、

南から来る部隊の通過を許さない。(略)

中山北路上に、車輌や部隊が一杯になって潮のようにユウ江門に殺到し、

城を出る人たちは先を争い、前に押し後に引き、ある者は踏み倒され、

おじいさん、おばあさんと叫ぶ。



第三六師の歩哨は城門の胸墻   (きょうしょう)   上に機関銃を置き、

大声で 〝押すな、押すと射つぞ!〟 と叫ぶが、人々は依然押し合っていた。》

(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』81p)



東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   82p


《 ダーディンは昭和六十二年に、・・・語った。

『南京事件資料集①アメリカ関係資料編』   によれば、

脱出せんとする支那兵がユウ江門で衝突し合った。

そして   「踏みつけ」   あって、死骸の山ができた。


同じくスティールも、大勢の兵士がユウ江門から脱出しようとして

「圧死」   したと、昭和六十一年に初めて真相を語った。》


つづく

1939年 晴気氏 日本側条件を提示

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/12 18:46 投稿番号: [1891 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
69〜71p


《 翌日も暖かい、よい天気だった。

知らぬうちに大陸の風景もすっかり春めいて、

路傍の楊柳は淡い緑の糸を長々と垂らし、

市場に青々とした野菜をはだしで運ぶ農夫の足どりも軽々とはずんで、

いかにも楽しそうであった。

私は起きぬけに新公園の上海神社に参拝して特工の成功を祈願した。



そうして宿舎に帰り、朝食をすませたところへ、丁黙邨と李士群がもう訪ねてきた。

丁黙邨はすっかり元気を回復して   「病は気からだ」   と笑い、

「妻からのお礼です」   といいながら中国風のうまそうな菓子を差し出した。

「昨日はありがとう。もう大丈夫です。ご心配かけてすみません」

彼は姿勢をあらため、丁寧にこう礼をいって、

しばらくうつむいていたが、やがてやせ衰えた青い手を静かに差し出した。



「東京から南京までも、遠い所をひきつづきご苦労をかけました。

いろいろのご尽力をありがたくお礼申し上げます。

おかげさまで私たちも素志を遂げることができます。

こんな嬉しいことはありません。感謝感激の至りです」



理性の人、丁黙邨は冷厳というか、

ある程度以上は腹の中を決して人に見せない男だった。

だが特工を日本が援助すると知ったときは、さすがの彼も自制を失ったらしかった。

彼は嬉しさにこぼれる涙をそのままに、私の両手を握ったまま声をあげて泣いた。



「ハルケサン、カンシャシマス。アリガト」

李士群はひどく感激すると、まずい日本語を思わずとび出させるのが癖らしかった。

彼もまた涙を浮かべて手を差しのべた。

こうして六本の手はしっかりと堅く握り合って、

永久に離れまいと久遠の友情を誓ったのだった。



丁黙邨の健康が意外に早く回復したことは私の心を楽しませたが、

望蜀の念やみ難く、今日中に工作の輪郭を決めたいと思った。

そこで私はうわべはおもむろに、心はせっかちに話を進めた。

「昨日もちょっと報告しましたが、東京でも南京でも好都合に相談できました。

ついては、まず次の条件を承諾してもらいたいと思います。



第一は特工は工部局と摩擦しないように、まず租界で中国人だけで行うことです。

日本人は工作の実行には干与しません。

上海のテロが収まったら工作を租界外にのばすことも考えましょう。

つぎは、

日本と関係がある中国人に工作するときは、その前に私まで通知してもらうこと、

それからまた汪先生が上海で和平運動をはじめたら、

それに合流することを約束して頂きたい」



私は彼らがこれらの希望を受け入れてくれるように願いながら、

表面は冷然として、さりげなくこういい放った。》



つづく

1937年12月12日 唐生智 南京脱出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/12 18:38 投稿番号: [1890 / 2250]
宋希濂の回顧録   『鷹犬将軍』   より


《 十二日午後二時、防衛司令長官部   (唐生智)   からわが師   (三十六師)   に

対して、次のような指示があった。



①   下関から   (長江を渡って、対岸の)   浦口   (ほこう)   ヘのルートは、

   わが軍の唯一の交通路であり、あらゆる手段で秩序を維持しなければならない。

   従って三十六師以外の部隊将兵や逃亡兵などが勝手に集まることを厳禁する。


②   第七十四軍   (兪済時)   は上河鎮で敵と戦っているが、城内との連絡は

   漢西門   (鈴木氏注:漢中門、の間違いではないか)   を通じて行い、

   七十四軍は、三サ   (サンズイ+叉)   河を渡って、下関に行くことを禁止する。


③   宋希濂部隊はユウ江門から下関に到る一帯に即時戒厳令を実施、

   一切の   (他部隊の)活動を禁止せよ。



四時頃になると、七十四軍は三サ河に浮き橋をかけ、下関に渡ろうとしたが、

唐生智の命令によって、止められた。

(五行略)

午後五時、唐生智はもはや戦局が逆転出来ないことを認め、

師長以上の将領を集めて、分散して包囲を前面突破する計画を提出し、

参会者にも異議はなく、命令書が各人に配られて、会議は二十分で終った。

この命令によると、



①   ユウ江門から下関の線を守っていた三十六師   (宋希濂)   は、

   唐生智の長官公署の直属部隊の渡河掩護を行い、

   その実行完了後に、 (三十六)   師が続いて渡河する。


②   他の部隊は、一切渡河することを許さず、すべて長官部の指定した方向、

   即ち、広徳   (十一月三十日、四川軍が放棄した地点)、

   宜   (ぎ)   城   (十二月七日、陳誠軍が放棄した地点)、

   蕪湖   (十二月十日、日本軍国崎支隊はこの地で長江上流を越え、ほとんど

   戦うことなく十二月十三日には、下関の対岸、浦口の近くまで迫っていた)

   の方向に向って日本軍の間を抜けて強行突破せよ、という内容であった。



ところが、わが方は第八十三軍   (広東軍、訒竜光)   がこの命令通り、

棲霞山付近にいた敵軍の前を迂回して脱出に成功しただけで、

他はすべて下関に押し寄せ、勝手放題に船を求めて殺到した。


このことが、十二日夜、ユウ江門、下関一帯に極度の混乱を招き、

戦史の上でも稀にみる、一大悲劇を招いた原因になった。》


(鈴木明著   『新   「南京大虐殺」   のまぼろし』   260〜261p)

八王子スーパー3人射殺事件

投稿者: cyonmakakagyoeee 投稿日時: 2012/09/11 21:17 投稿番号: [1889 / 2250]
1995年、東京八王子市のスーパーでアルバイトの女子高生とパートの女店員2人が手足を縛られて無抵抗状態で頭をピストルで撃ち抜かれた、驚愕の残忍な事件があった。
この頃から、今迄日本に無かった様な残忍な事件が起こり始めた。
ATMの根こそぎかっぱらい、福岡の家族一家子供を含め、殺害後重りをつけて海に沈めた、奥さんは強姦されていた。
ビルの壁ぶち壊し宝石店の宝石をぬすんだ。
神戸では青龍刀を振り回して強盗に及んだ。
中国人が増え出した、この頃から日本人には出来ない残虐な事件が頻発に起き始める。
今朝の新聞では、冒頭の八王子スーパー3人射殺事件に関与した人物を中国人が知っている可能性があるらしい。

1939年 晴気氏 丁黙邨を見舞う

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/11 18:47 投稿番号: [1888 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
66〜68p


《 上海では、丁黙邨は大西路の李士群の邸を出て、

日本憲兵隊本部のそばの新亜ホテルに泊まっていた。

持病の胸の病が悪化して喀血したそうで、

二、三日前からここに療養にきていたのだった。・・・



丁黙邨は寝床の中で、駅から駆けつけた旅行姿の私を見出して、

物もいわずに飛び起きた。そして   「失礼」   といいながら、

ゆったりとした中国服をパジャマの上から急いで羽織ったが、

足もとがよろめいて痛々しく、熱は三十八度を超していた。

それでも無理につくった笑顔で   「もう大丈夫です」   と微笑んでみせた。



「ご苦労さまでした。いつ東京からお帰りでした。例の話はどうなりました?」

はげしい気性をむき出しにした丁黙邨の矢つぎ早やの質問だった。



彼は十日近くも私から音信がないので、

東京での折衝もきっと不首尾だったと独りで決めてイライラした揚句、

病をこじらせたのだった。

林少佐から病状をあらかじめ聞いて油断できないと思った私は、

工作を急いで彼の病を重くしたくはなかったが、

それほどまでに吉左右を待ち焦がれてくれたか、とあわれにも思われたので、

彼を慰めがてらこういった。



「いや、いったん南京に立ち寄ってきたのです。 例の件は万事うまくゆきましたよ。

それより病気はどうです。よい専門の医者をさっそく呼びましょう」

丁黙邨とはまだそれほど深いつき合いもなく、ただ二、三度話をしただけだったのに、

どうしてそんな純な気持ちになれたのか自分ながらわからないが、

そのときはともかくも工作を忘れて彼の健康だけをひたすら気づかっていた。



簡単な言葉だったが   「うまくいった」   と聞かされて丁黙邨も、

さぞや安心しただろう。

しかし、私は病苦と喜びでゆがんだ彼の表情を

なんとはなしに見るに忍びないような気がして、

彼にはわざと目をくれないで懇意な医者へダイヤルを回した。

そして回しながら早口でいった。



「それから李さん。日本軍管理の家屋のなかで、

特工の根城に都合のよい家を探して下さい。

え、え、そうです。イタリア軍警備区域がよいでしょう、至急ですよ」

先ほどの報告では、

短すぎて丁黙邨を十分安心させるにはまだ足りなかったような気がして、

日本側では特工用の家を準備するまでにもう進行していると、

それとなくにおわせて、彼を喜ばせたいだけの、

いわずもがなの蛇足をこうつけ足したのである。



電話では医者はすぐに伺うといった。

電話の後ろでは、狂喜した丁黙邨と李士群が抱き合って喜びに泣きぬれていた。

私は二人をかきわけて、丁黙邨をそのまま、わざと邪険に寝台に押しこんだ。

けれど彼の瞳は、先ほどまではあんなにもトゲトゲとして冷たかったのに、

今では涙にうるんで感謝にあたたかく輝いていた。

医者は大して心配することもないといった。

私もやっと安心して、工作については追ってくわしく相談しようと

明日を約束して、ひとまず宿舎に帰った。



宿舎には二つの電報が待っていた。

一つは土肥原中将から、すぐ北京に来るようにいってきたもので、

もう一通には 「三月分の特工援助費は本日電送した。兵器は近く空輸する。

切に成功を祈る。軍務局長」   という文字が躍っていた。

中央部の手厚い処置にも驚くが、影佐大佐が示してくれた好意には

感激し奮起しないではおられない。

この上は特工を必ず成功させるために、丁黙邨たちと命がけで取り組むほかに途はない。

しかし、土肥原機関の痛ましい最後を思えば、

特工に挺身しようと意気込むのもおもはゆくて、

せっかくの決心も、たちまち衰えしぼむような気がしてならなかった。》


つづく

1937年12月12日 ラーベの日記 1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/11 18:35 投稿番号: [1887 / 2250]
十二月十二日

《 日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。

黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。

ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。

警官も、規則を破ってライフル銃をもっている。



軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。

これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。

朝の八時に、再び砲撃が始まった。



十一時に唐将軍の代理だといって龍上校と周上校がやってきた。

三日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。

休戦協定の内容は   ―   この三日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。



われわれは、まずアメリカ大使あての電報、つぎに調停を依頼する唐将軍の手紙

(大使に電報を打つ前に、唐がこれをわれわれに出さなければならない)、

最後に軍使に関するとりきめを、まとめあげた。

軍使は、白旗に守られて、

前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。

シュペアリングが、軍使をつとめようと申し出た。



龍と周が唐将軍の手紙をもって戻ってくるのを、

昼の間じゅういまかいまかと待っていた。

夕方六時近くになってようやく龍が姿を見せた。龍は言った。

「残念ながら、せっかくの努力が水の泡でした。

すでに日本軍は城門の前まで攻めてきているため、時すでに遅し、とのことです」



だが私はショックを受けなかった。

こうなったのを悲しいという気持ちさえわかない。

はじめから気にくわなかったからだ。唐の魂胆はわかっている。

蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。



だから、日本軍あての公式書状で、

「降伏」   という言葉を使われては具合が悪いのだろう。

なにがなんでも、休戦願いはわれわれ国際委員会の一存だと

見せかけなければならないというわけだ。



要するに、われわれの陰に隠れたかったんだ。蒋介石や外交部がこわいからな。

だから国際委員会、ないしはその代表であるこの私、

ラーベに全責任をおしつけようとしたんだ。汚いぞ!》



続きは順番の都合   あとで。

1939年2月15日 中支軍にわたりをつける

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/10 18:41 投稿番号: [1886 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
64〜66p


《 そのころ、中支那派遣軍の司令部は南京に置かれていた。

特工をやるためには、まず中支軍の協力と援助を求めなければならない。

うまく中支軍にわたりをつけなければ、呉佩孚工作の二の舞いを演じることになる。

そこで私は南京に着くなり、まず中支軍司令部を訪ねた。

たしか二月十五日ごろであった。



そして特工の目的を説明して軍の援助を頼んだが、幕僚の大部分は懐疑的で、

とくに維新政府を直接指導していた連中は呉佩孚工作の例をあげて、

華中に国民党の更生運動を起こすことに強く反対した。

しかし、謀略関係の課長だった高橋坦大佐   (終戦時、北支那方面軍参謀長)   だけは

こういってくれた。



「今の場合、出先の中支軍が特工の可否を、いまさらとやかくいってはならない。

大本営はすでに特工を援助すると決心した。

大本営から特工と連絡するよう命ぜられた晴気君は、軍に挨拶に来ただけです。

この工作がこれからどう推移するかわかりませんが、私は是非成功させたいと思います。

中支軍としては、租界の抗日分子を粛清するためだけでも、特工を援助すべきです」


私は高橋大佐の言葉が涙が出るほどうれしかった。

階級が低いために、私がいいたくても口に出せなかったことを

代わって述べてくれたからである。



そのとき、   「ちょっとうかがいますが、

丁黙邨がもしも敵だったときは、どういうことになりましょう」

陸大を出てすぐ政治に首を突っ込んだ一人の若い幕僚だった。

私はこの小生意気な大尉参謀の無礼な言葉をなじる前に、

中央部の決定を口先だけで批判して、

その実行を阻害してはばからない生意気、半可通な幕僚が中支軍にもいると知って、

日本のためにも残念に思った。



「責任のない第三者が無躾けにそんなことを口にするとはもっての外だ。

失敬千万なやつだ」

怒気をふくんだ高橋大佐の声が、たちまちそうした反対論を叩きつぶした。

一座は白けきって発言するものはもうだれもいない。

やがて軍司令官、山田乙三中将が決裁を下した。



「高橋君、上海の憲兵隊と特務機関に特務工作に協力するよう、すぐに命令したまえ」

鶴の一声であった。これで中支軍の意向もこちらの希望通りに決定したのだ。

厚く礼をいって部屋を出かかった私は、山田司令官に後ろから呼びとめられた。



「君、たいへん難儀なことを考え出したものだね。

責任は重いよ。途中でへこたれないようにしっかりやりたまえ。

決して短気を起こしてはいけないよ」

激励と同情をたたえた山田軍司令官のこの言葉に、私は思わずまぶたを熱くした。》


つづく

1937年12月12日 海軍の揚子江啓開

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/10 18:32 投稿番号: [1885 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   466〜467p


《 十二日の経過   烏龍山下流まで進撃

烏龍山付近下流まで右岸は陸軍天谷支隊の一部が進出して残敵掃蕩中であるが、

左岸一帯は敵陣地であり、遡江部隊の進撃を極力阻止せんとする模様であった。



近藤指揮官は前衛部隊   (二見、熱海、掃六、掃一、掃三.掃四号)、

主力部隊   (山風、海風、江風、安宅、掃二、掃五号)   の順に

08:30   進撃を開始、鎮江から下江して来た   「保津、比良、勢多」   と共に、

都天廟砲台及び付近の残敵の猛射を反撃、

かつ途中左岸一帯の敵陣地密集部隊と交戦、

これを撃破制圧しつつ全軍一丸となって砲台下を強行通過した。



この間、神川丸機及び陸軍天谷支隊の有効な協力があり、

猛烈な機銃の反撃はあったが、砲台は沈黙を守っていた。



10:10   ころ、令により   「掃六、掃三号」   は掃海具を揚収して分離し、

先頭部隊の   「保津、勢多」   に合同、烏龍山水道に急速進出し、

閉塞線の偵察及び同付近下流の泊地掃海を実施することとなった。

陸岸の敵陣地を砲撃しつつ前進し   12:30   ころ烏龍山閉塞線付近に到着し

予定作業に移ったが、北岸の劉子口付近から

野砲、機銃、小銃の猛射を受け、これと交戦した。



この際   「保津」   は命中弾を受け左舷機故障、

「掃六、掃三号」   も敵弾の集中砲火を受け、掃海不能となり

12:30   ころ掃海索を一時投棄した。

更に掃六号は後部艦橋に、掃三号は艇長室水線付近に、

それぞれ被弾し負傷者発生、一時避退し応急修理を行った。

15:30   ころ、主隊は閉塞線付近に到着した。



第二十四駆逐隊並びに神川丸機及び二聯空機は、

烏龍山砲台及び北岸陣地の砲爆撃を実施した。



同夜、   23:00   ころから諸岡少佐指揮の工作隊は安宅の高速艇に乗り、

「勢多」   掩護の下に閉塞線に接近し、

閉塞船をつなぎとめていたワイヤーを切断し、箱舟やジャンクを取り除き、

約三時間後幅三〇〇米の可航水路を啓開した。》

1939年2月10日 晴気氏に正式訓令下る。

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/09 15:17 投稿番号: [1884 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
62〜64p


《 だが、土肥原機関の悲劇に引きかえ、

特務工作は影佐大佐の口ぞえもあって意外の好評だった。

私は次のような思いがけない命令をもらった。

参謀総長からの命令   (昭和十四年二月十日付)   は次の通りであった。



     晴気少佐ニ与ヘル訓令

  一、大本営ハ   上海テロ対策ノ一環トシテ、丁黙邨一派ノ特務工作ヲ

    援助セントス

  二、貴官ハ上海ニアッテ   丁黙邨ト連絡シ、 特務工作ヲ援助シ   中支軍ノ

    行フ租界対策ニ   協力スル傍ラ   土肥原機関ノ残務ヲ整理スベシ

      塚本誠憲兵大尉   及ビ   中島信一少尉ヲ配属ス



  三、特務工作ノ援助ニ当ッテハ   左ノ件ヲ適宜   丁黙邨ニ連絡スベシ

   1、租界ニ於テ行ハレル   反日策動ノ封殺ニ専念シ

     特ニ   工部局トナルベク   摩擦ヲ起サザルコト

   2、日本側ニ関係ヲ有スル中国人ヲ   逮捕セザルコト

   3、汪兆銘ノ和平運動ニ合流スルコト

   4、三月以降、月額三十万円ヲ、マタ拳銃五百挺、弾薬五万発

     及ビ   爆薬五百瓩ヲ貸与ス



私はこの命令書を熟読しながらそのうらの意味を考えた。

やっぱり中央部は、汪兆銘の和平運動に望みをかけているらしい。

こんなにあっさりと土肥原工作を中止したのも、

汪工作の方が害が少なく、成功の見込みも多いと思ったからだろう。

汪工作が発展すれば、その舞台は上海だ。

それを思うと上海名物のテロは、なるべくはやく掃除しておかなければなるまい。



中央部は特務工作を汪工作の一部と考えて、

ぜひとも成功させたいとこいねがっているのだ。


だが、よもや私が特工の責任者になろうとは、全く思いもかけなかった。

特務工作を土肥原中将の代わりに報告しただけだったのに、

その私が丁黙邨との連絡を命ぜられてしまった。これほど意外なことはない。



私のもとに配属された塚本大尉は上海の事情に明るい有能の士である。

また中島少尉は召集将校で目下華南で作戦中だが、

これまた中国の事情にくわしい旧友である。

影佐大佐の心づかいがありがたかった。



丁黙邨らに   「連絡せよ」   というのは私にあまり彼らに干渉をするなという意味だろう。

特工を成功させるには特工の経験がないわれわれが、なまじ口出してはいけない。

だが特工に対する日本の希望を彼らに実行させるにはどうすればよいか。



また、丁黙邨たちが敵のまわし者だったときは、

どうすれば後れをとらないですむだろうか。

だが、それに対する判決は、いつまでたってもつかなかった。

責任感の重圧と、浅い思案が決まりかけた考えをすぐグラグラさせるからだ。

でも、その日の午後遅く飛行機が南京に着くころになると、

混迷をつづけた思慮は曲がりなりではあるが、一応まとまった。



万一、だまされたときは思い切った荒療治をするが、

さしあたり工作を発展、成功させることだけを考える。

互いに疑わない信頼の上に、中国人だけで中国風に特工を築き上げ、

彼らの便宜を図ってその障害をとりのけてやり、そのほかは積極的には手を出さない。

かくして感激して工作に専念できる環境を丁黙邨たちにつくってやるのが、

特工を成功させる唯一の途だと思った。



注   晴気氏の部下となる塚本誠憲兵大尉とは、

   上海戦の所で出てきた塚本誠憲兵大尉の事だが、この時は台湾に赴任していた。

   この件で呼び戻される。

1937年12月12日 他の陸軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/09 15:03 投稿番号: [1883 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   428〜429p


上海派遣軍においては、

《 第十六師団が、・・・十二日紫金山頂を南北に連ぬる線を占領した。

山田支隊は、十二日鎮江出発、烏龍山方向に向かう。

第九師団右翼隊は、・・・十二日城壁に近迫したが、幅の広い水濠

(この付近の水幅は約二〇〇米)   に出会ったので、この渡河準備を実施した。

左翼隊の、雨花台東端を攻撃した部隊は頑強に抵抗する敵を逐次撃破したが、

十二日朝、態勢整理のため、旅団命令により攻撃を一時中止した。》



第十軍においては、

《 第百十四、第六師団を並列して雨花台方向に攻撃・・・

十二日、両師団は城壁の一部を占領した。》

1939年 土肥原機関終了

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/08 16:00 投稿番号: [1882 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
62p


《 それから三日ののち、私は一路南京へ飛んでいた。

鈴鹿、大阪をまたたく間にすぎて、

目の下には緑や黄にいろどられた淡路島が美しく浮いていた。

鏡のような紺青の水に白くあとをひいた汽船のかたまりが、

黒い煙をたなびかせて西へ向かって急いでいる。

行く先は天津か、上海だろう。



しかし、呉佩孚や丁黙邨のことだけにこだわっている私には、

この素晴らしい景観を賞でたたえるゆとりもなかった。

大本営が呉佩孚工作は中止と決めたので、

土肥原中将と大迫少将はとうとう内地に呼び返されることになった。



土肥原機関はかくして龍頭蛇尾、いたずらに世間の耳目を騒がせ、

たくさんの費用を使っただけで、あえない最後を遂げてしまった。

土肥原将軍は現職を退いて、責任を明らかにするつもりじゃないだろうか。

しかし、土肥原中将は満州東部の軍司令官に、また大迫少将は内地の旅団長に、

三月の異動で任命されるそうだ。

事変の前途はまだ遠い。私は土肥原中将の膝下に駆けつけて、

今後とも自重されるように是非ともお願いしなければならない。》



つづく

1937年12月12日 百人斬り記事 第4号

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/08 15:55 投稿番号: [1881 / 2250]
〔昭和12年12月13日   東京日々新聞朝刊〕

百人斬り〝超記録〟向井 106−105 野田/両少尉さらに延長戦


《 [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発]

南京入りまで 〝百人斬り競争〟 といふ珍競争を始めた例の

片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌   (ママ)   両少尉は

十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、

十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した



野田   「おいおれは百五だが貴様は?」

向井   「おれは百六だ!」……


両少尉は

〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、

結局   「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」

と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、

十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が  

「百人斬ドロンゲーム」   の顛末を語つてのち



知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、

俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、

戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ  

十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて

弾雨の中を   「えいまゝよ」   と刀をかついで棒立ちになってゐたが

一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ

と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。》



*   11日はおろか12日も、まだ紫金山は陥落していない。

   従って、敗残兵狩りなどありようがない。

   しかも向井少尉は、まるで、スーパーマンのように描かれているが、

   当人は丹陽で負傷し入院している。

   弾に当たらないどころか、とっくに当たってしまっている。

   しかも、まだ入院中だから、この場にいない。

   全ては作り話。
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