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1937年12月9日 中国軍から見た戦い

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/22 18:27 投稿番号: [1847 / 2250]
宋希濂の回想録   『鷹犬将軍』   より


《 十二月九日、南京防衛総司令官   (唐生智)   は、次のような命令を行った。


①   敵軍は既に南京城周辺に迫ってきた。

   現在わが軍が守っている城廓陣地は、最後の砦である。

   各部隊の将兵は、陣地とともに死を覚悟してこれを死守してほしい。

   寸土たりとも、放棄は許されない。もしこの命令に従わず、勝手に後退する者は、

   司令官の厳命によって、連座制をとり、これを厳罰に処する。



②   各部隊が保有しているすべての船は、これを本部運輸司令部に移管し、

   司令部が責任を持って保有する。第七十八軍長宋希濂は、長江沿岸警備を担当し、

   他の部隊、将兵などの勝手な乗船、渡河を厳禁する。

   もしこの命令に背くものがあれば、即時逮捕し、厳罰に処する。

   なお、敢えてその命令に背き、抵抗する者があれば、 (宋希濂部隊に)

    武力を以てその行動を制止させるようにする。



同じ十二月九日、敵の包囲陣はさらに城廓に接近した。

わが七十四軍   (兪済時)   は大勝関と牛首山を結ぶ前線を突破されて次第に後退、

遂に水西門に移って守備につくことを余儀なくされたが、敵はそれに迫ってきた。

そして、水西門外の上河鎮一帯が激戦区となった

(水西門から上河鎮は、現在の   「南京大虐殺記念館」   のある場所の付近に当る)。



棲霞山が敵に占領されると、わが四十八師   (徐源泉 ・ 徐継武の第二軍)   は

和尚橋まで退いて、四十一師と合流した   (長江を数百メートル上流に逃げた)。

浄化鎮にいた敵軍は、高橋門   (門の名があるが、城門ではない)、

七瓮   (シチオン)   橋(現在は七橋瓮と呼ばれている)   を落して、

公路に沿って光華門   (南京城の南東部にあり、日本軍は最初にこの門上を占領した)

に向って進んだ。



別の一隊は通済門   (南京城の南門、中華門と光華門の中間にある)   外の

兵営を占領し、通済門を攻めた。

国道に沿って、湯山   (南京城の真東、紫金山の南の山麓方面)   から

南京に向った敵軍は、

九日、わが教導総隊   (桂永清)   が守っていた老虎洞、体育場、馬群、



孝陵など西南一帯の高地に向って進撃を開始、

わが守備軍は、峰麟閣寺西山の主陣地に移った

(ここにトーチカがあり、九日夕方から十日正午まで、日本軍は

「投降ビラ」   を撒いて唐生智に無血開城を勧告し、戦闘を中止したが、

唐生智はそれに応じなかった)。》


(鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 257〜258p)
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