1939年 晴気氏 丁黙邨らに会いに行く
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/08/27 18:53 投稿番号: [1858 / 2250]
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
38p
《 その翌朝早く、土肥原中将は呉佩孚工作の善後策を講ずるため、
北京へ飛び立っていった。
土肥原中将を雨中の飛行場で見送った私は、そのあと、
車を滬西のゼスフィルド公園に飛ばせた。
土肥原中将の命により、もう一度丁黙邨らに会うためである。
こちらからあらかじめ会見の申し入れをしたのに対して李士群から、
「それでは、ゼスフィルド公園前でお待ちしています」
との電話連絡があったからだ。
上海の西隅にあるゼスフィルド公園へ行くには、共同租界に入り、
南京路から競馬場前を静安寺路へ出て、なおも西へ西へと突っ走らなければならない。
それは当時、相当危険な仕事であるといわれていた。
なぜならば、この租界が重慶側の各種機関を温存して、
抗日テロの策源地となっていたからである。》
40〜41p
《 日華戦争は従来の租界のありかたを一変させた。
戦争のはじめごろ、租界の東部は中国軍の攻撃を受けて一時は危殆に瀕したが、
それ以後そこは日本軍の作戦基地となった。
中国軍の撤退に伴って華中の中国主権はすべて維新政府に引き継がれたが、
蘇州河以西の租界
(以下単に租界と呼ぶ)
には、
重慶側の支配を受ける法院その他各種の機関や団体がたくさん残っていた。
したがって日本は重慶側残存勢力の一掃と、
中国政府機関の引き渡しを租界当局に要求した。
しかし、列国は重慶政府を中国の正統な政府だと認めていたので、
租界当局も重慶機関の活動を許し、
かえって日本勢力の租界進出をさえぎる態度をとった。
こうして厳正中立を主張した租界内では、
その実、重慶勢力が抗日運動に狂奔し、その取り締まりをめぐって
新しい紛争が租界当局と日本側との間に起こっていた。
私は蘇州河を越えて、はじめて重慶テロの巣窟たるその租界内へ
足を踏み入れたのだから、まさに薄氷を踏む思いである。
旧年来の大売り出しで、上海きっての繁華街南京路は雨にもめげぬ人の波だった。
車はもう競馬場のそばを西へ走っていた。
そこでは今日もテロがあったらしく、非常警戒で通行を止められた中国人が、
路上いっぱいに満ち溢れ、ひしめいていた。
静安寺の横から愚園路に出て突き当たったところが
上海名所の一つ、ゼスフィルド公園であった。
青い美しい池の面をたたえたゼスフィルド公園は、
氷雨に寒々とぬれて、人もまばらだった。
その公園の外に大きな楡
(にれ)
の木がただ一つ、灰色の空高くそびえている。
その喩の木の下に背広姿でさりげなくたたずんで静かに煙草をくゆらしていたのは、
私であった。李士群としめしあわせた密会の場所である。》
これは メッセージ 1856 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1858.html