紫陽花亭日乗

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Re: 和文天祥正気歌并序    藤田東湖

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 20:51 投稿番号: [161 / 735]
〔原文〕
夫天祥値宋社傾覆、身囚於胡虜。実臣子之至変。若彪被幽、則特一時之奇禍。
其事与跡、皆大不同。然古人有云、死生亦大矣。今彪之困阨、既已若此
而人猶或不以慊於意、曰、何不遂賜死。曰、何不早自裁。彪之所以出入於死生間、
亦復如此。而頑乎不変、自信愈厚者、未始不与天祥同也。嗚呼、彪之生死、
固不足道。至於公之進退、則正気之屈伸、神州之汚隆繋焉。
豈特一時奇禍之云乎哉。

〔訓読〕
夫(そ)れ天祥は宋社の傾覆に値(あ)い、身は胡虜に囚わる。実に臣子の至変なり。
彪の幽せらるるが若(ごと)きは、則ち特に一時の奇禍なるのみ。
其の事と跡と、皆大いに同じからず。

然れども古人云う有り、死生も亦た大なり、と。

今、彪の困阨(こんやく)、既に已に此(かく)の若し。
而れども人猶お或いは以て意に慊(あきたら)ずして、曰わく、
何ぞ遂に死を賜わらざる、と。曰わく、何ぞ早く自裁せざる、と。

彪の死生の間に出入する所以(ゆえん)も、亦た復(ま)た此の如し。
而(しか)も頑乎(がんこ)として変せず、自ら信ずること愈々(いょいよ)厚き者は、
未だ始めより天祥と同じからずんばあらざるなり。

嗚呼(ああ)、彪の生死は、固(もと)より道(い)うに足らず。
公の進退に至りては、則ち正気の屈伸、神州の汚隆(おりゅう)、
焉(これ)に繋(かか)る。
豈(あ)に特(ただ)に一時の奇禍とのみ之(これ)云わんや。

〔解釈〕
そもそも文天祥は南宋の滅亡に際会し、その身は胡虜に囚われてしまった。
一国の臣下としては、この上なき変事であった。

自分が幽閉されたことなどは、、単に一時の災難であるに過ぎない。
その状況もその行動も、いずれも大違いである。

しかしながら、古人の語にも「死生は人の大事である」と言い、今のところ、
彪の苦難は上に述べた通りであるが、人々の中にはまだ飽きたらぬとして、
「なにゆえ早く切腹を申し付けられぬのか」、「なにゆえ早く自決せぬのか」と、
言う者もある。

私も死生の間を行き来していることになるというのは、
こうした状況にあるからである。
しかも、その中にあって志をかたくなに変えることなく、
信念をますます強めているのは、まったく文天祥と異なるところはない。

ああ、我が生死などは、もとより言うに足りぬ。
だが水戸公の進退ということになると、これは、正気が伸びるか塞がるか、
日本が栄えるか衰えるかに関わっている。
どうして単に一時の災難に過ぎぬなどと言っておられよう。

つづく

4080

Re: 和文天祥正気歌并序    藤田東湖

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 20:43 投稿番号: [160 / 735]
〔原文〕
彪年八九歳、受文天祥正気歌於先君子。先君子毎誦之、引盃撃節、慷慨奮発、
談説正気之所以塞天地、必推本之於忠孝大節、然後止。距今三十餘年。
凡古人詩文、少時所誦、十忘七八。至於天祥歌、則歴歴暗記、不遣一字。
而先君子言容、宛然猶在心目。彪性善病。
去歳従公駕而来也、方患感冒、力疾上途。及公獲罪、彪亦就禁錮。
風窓雨室、湿邪交侵、非衣疏食、飢寒並至。其辛楚艱苦、常人所難堪。
而宿痾頓癒、体気頗佳。睥睨宇宙、叨与古人相期者、蓋資於天祥歌為多。

〔訓読〕
彪、年八九歳、文天祥の正気歌を先君子に受く。

先君子、之を誦する毎に、盃を引き節を撃ち、慷慨奮発し、正気の天地に
塞(み)つる所以を談説して、必ず之を忠孝大節に推本し、然る後止(や)む。
今を距(へだ)つること三十餘年なり。

凡(およ)そ古人の詩文、少時誦する所、十に七八を忘る。
天祥の歌に至りては、則ち歴歴として暗記し、一字を遣(わす)れず。

而して先君子の言容、宛然として猶お心目に在り。

彪、性善く病む。
去る歳(とし)、公の駕に従いて来たるや、
方に感冒を患うも、疾(やまい)を力(つと)めて途(みち)に上る。

公の罪を獲(う)るに及びて、彪も亦た禁錮に就く。
風窓雨室、湿邪交々(こもごも)侵し、非衣疏食、飢寒並び至る。
其の辛楚艱苦、常人の堪え難しとする所なり。

而るに宿痾頓(とみ)に癒え、体気頗る佳なり。
宇宙を睥睨して、叨(みだ)りに古人と相期する者は、
蓋し天祥の歌に資(と)るを多しと為す。

〔解釈〕
私は八九歳の時、文天祥の「正気の歌」を亡き父上から教えられた。
父上がこの詩を吟ずるおりには、いつも酒杯を手にして、
一方で拍子を取り、悲憤慷慨していたものだ。

そして、正気が大地の間に充満するわけを説き、
その正気の源は忠孝の大節に由来することに及んで、話が終わるのであった。

今から三十数年も前のことになる。
だいたい、子供のころに読んでいた古人の詩文は、十のうち七八を忘れてしまって
いるが、文天祥の「正気の歌」だけははっきりと覚えていて、一字も忘れていない。
しかも当時の父上の言葉や容貌までが、そのままに今も胸に留まり目に浮かぶ。

自分は生来病気がちで、去年、水戸公(斉昭)のお供をして江戸へ上る時にも、
ちょうど感冒にかかっていたが、病む身をつとめて旅立ったのである。

やがて水戸公が幕府のお咎めを受けることになってしまい、
私もまた閉門蟄居の身となった。
風が吹きこみ雨が降りこむ居室は、じめじめとして澱んだ空気が入りこんで、
粗衣粗食で過ごす身には飢えと寒さが迫り来る。
その艱難辛苦は、常人の耐えがたいところである。

ところが、年来の病はにわかに癒え。体調はすこぶる佳い。
古今東西を昂然と睨み据えて、我が輩は古えの人傑にも
匹敵するのではないかと愚かにうぬぼれたりするのは、
思えば文天祥の歌を吟唱していたお蔭であるのかもしれない。


つづく

4062

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和文天祥正気歌并序     藤田東湖

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 20:35 投稿番号: [159 / 735]
和文天祥正気歌并序       藤田東湖(1806〜1855)

弘化二年(1845)の作。四十歳。
江戸小梅村(東京都墨田区)の水戸藩下屋敷で幽閉生活を送る中での詩で、
東湖の代表作とされる。

和とは、通常は別人の詩に韻をあわせて(同じ韻字もしくは同じ韻目に
属する字を用いて)詩を作ることをいい、詩人間で詩を贈答するおりに
行われる他、敬愛する古人の作品に和することもある。

ただし、この藤田東湖の和詩は、詩全体の構成において文天祥「正気の歌」
を踏襲することはしているものの、押韻では文天祥の押韻とは全く関係なく
独自な展開をし、したがって一詩の句数も、文天祥の作は六十句であるのに
対して、本詩は七十四句となっている。
もっとも広い意味での唱和の詩ということになる。

文天祥は南宋末の宰相。
二十歳で科挙に第一位の成績で合格。
その後の官僚としての生活は南下する蒙古軍(元)との抗戦に費やされた。

次々と南宋の拠点が陥落してゆく中、勤皇の兵を募って各地に転戦したが、
1278年、蒙古軍に捕えられた。

元では南宋との最後の会戦をひかえた崖山(広東省新会県の南)へ連行して
南宋軍に降伏を勧める文章を書くことを要求したが、堅く拒否した。

南宋滅亡後、元に仕えることも拒み、大都(北京)で獄中に囚えられること
三年、ついに死刑となった(1283年、47歳)。

「正気の歌」は、その獄中での作。

この文天祥は、岳飛とともに南宋滅亡時に節義を全うした殉国の英雄
として、中国では今日に至るまで慕われ続けており、
その詩文は『文文山集』としてまとめられている。

日本でとりわけ広くその事跡が知られるようになるのは、
幕末の志士にもよく読まれていた浅見絅斎『靖献遺言』の巻五に
取り上げられていることによる影響が大きいであろう。

詩の構成は文天祥の「正気の歌」をほぼ踏襲して、
中間には日本の歴史を通じて正気発現の事例を列挙する形を取る。

はじめに添えられた長文の序とともに数節に分かって訳注する。

つづく

4055

士爲知己者死、女爲説己者容

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 20:27 投稿番号: [158 / 735]
『史記』刺客列伝第二十六
第三話「豫譲」(よじょう)    前五世紀

豫譲はもと晉の卿である范氏と中行氏に仕えていたが、認められなかった
ので同じ晉の卿である智伯に仕えた。智伯は豫譲を尊敬し厚遇した。

智伯はやがて趙襄子・韓氏・魏氏に滅ぼされ子孫も絶滅せられ領土もなくした。

智伯の頭蓋骨は漆塗りの飲器にされた。
豫譲は山中に隠れた。ここに豫譲のセリフがある。

「嗟乎、士爲知己者死、女爲説己者容」
(ああ、士は己を知る者のために死し、
女は己をよろこぶ者のためにかたちづくる)

豫譲は姓名を変え刑罰を受けた人になりすまし、
趙襄子の屋敷の厠の壁塗りになった。

匕首(ひしゅ)を隠し持ちそこで趙襄子を刺そうというのだ。

趙襄子は厠に行き「心動」(胸騒ぎ)を覚えた。そこで壁塗りを詰問すると
それは豫譲だった。趙襄子は豫譲を義人として許し放した。

しばらくして豫譲は癩病患者を装い、炭を飲んで声をつぶし
誰だかわからないようにして乞食となった。
妻も見てそれと気づかなかった。

趙襄子の外出にあたり、豫譲は沿道の橋の下にひそんだ。
趙襄子がその橋までくると馬が驚きそれと気づいた。
趙襄子ももはや豫譲を許すことができなかった。

豫譲は趙襄子に請うてその衣服をもらい、
剣を抜いて三たびこれを斬り主君・智伯の仇討ちの代わりとし、
その後、剣の上にわれとわが身を伏して死んだ。

その後四十餘年を経て、聶政(じょうせい)の事件があった。


★匕首・・・短剣。「匕」は食物をすくう杓子で、
剣の柄頭(つかがしら)がこれに似ているので「匕首」というそうです。

日本では「あいくち」にこの字をあてますが、それと同じものかどうかは、
どちらも実物を見たことがないのでわかりません。

★「飲器」については、二つの意味があります。「酒器」と「便器」と。
この場合、「酒器」でいいと思います。

織田信長と明智光秀の頭蓋骨の故事を彷彿とさせます。
織田信長は、もしかしたら、この故事にならったのでしょうか。

615

人固有一死、死有重於泰山,、或輕於鴻毛

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 20:25 投稿番号: [157 / 735]
首相の「脱原発」は鴻毛より軽い   海江田経産相が批判関連トピックス
菅直人原子力発電所参議院選挙.参院予算委で答弁のため挙手する
海江田万里経産相。手のひらに「忍」の文字が書かれていた
=21日午前11時41分、国会内、仙波理撮影
asahi com


  「羽毛」より軽い首相の言葉を「忍」の一字でじっと耐える――。
海江田万里経済産業相は21日の参院予算委員会で、こんな心境をのぞかせた。

  「内閣で一致した言葉でないなら一私人の言葉だ。
それは『鴻毛(こうもう)』より軽い」。

海江田氏は自民党議員への答弁で中国の歴史家・司馬遷の言葉を引いた。
鴻毛は鴻(おおとり)の羽毛の意で極めて軽いことの例え。
菅直人首相が会見で「脱原発」を表明しながら、
後で「個人的な考え」としたのを批判したものだ。

海江田氏はさらに司馬遷の言葉を用い
「総理の言葉は、内閣が一致しての発言なら『泰山(たいざん)』
(中国・山東省にある山)より重い。総理発言は泰山より重くあって欲しい」。

  また首相の対応に不満を募らせ、辞意も固めた海江田氏は左手に
「忍」と書いて質疑に臨んだ。
「国会に平常心で臨むよう自分に言い聞かせるため」という。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★上記のことばは、司馬遷の有名な言です。
「報任少卿書」の半ばより少しあとのほうに記述があります。

人固有一死, 死有重於泰山, 或輕於鴻毛,
人 固(もと)より一死有り、 死は泰山より重く、或いは鴻毛より輕きに有り、

ひとはもとより死ぬるものではあるが、
或いは、その死は泰山よりも重い場合もあるし、
或いはまた、その死は鳥の羽毛より軽い場合もある。


★また、「報任少卿書」のすぐ最初のほうに、

士爲知己用, 女爲説己容。
士は己を知るものの爲に用い、
女は己を説(よろこば)すものの爲に容(かたち)づくる。

とあります。(認知・不認知)

「報仁少卿書」は、衛皇太子による巫蠱の乱に連座して死刑の判決を
受けた仁安からの、とりなし依頼の手紙へのことわりの返信です。

司馬遷が腐刑という、男として最大の屈辱を忍んでまで、
なぜ『史記』を完成させたかったのか、
これらの記述は『史記』を通して流れる二大テーマではないかと思います。


★原文は、『漢書』九, 傳〔三〕, 中華書局,
漢書巻六十二, 司馬遷傳第三十二    より転載。
『文選』に収録されているものと、文章に少し異同があるようです。


つづく

「台湾 中国領のよう」 中学地図帳、

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/22 00:54 投稿番号: [156 / 735]
「台湾   中国領のよう」   中学地図帳、交流団体が質問書
産経新聞 7月21日(木)7時55分配信

  今年3月に文部科学省の検定を受けた中学社会の地図帳で、台湾が中国領の
ように表記されているのは問題だとして、日台交流を進める民間団体「日本
李登輝友の会」(小田村四郎会長)は20日、表記に至った経緯や見解を求める
質問書を、文科省と発行した東京書籍、帝国書院に提出したことを明らかにした。

  両社の地図帳では、台湾と中国の間に国境線などを示す破線などがなく、
中国領のように受け取れる表記になっている。
さらに、東京書籍の地図帳では、日本が昭和20年に台湾を中国に
返還したと記載。世界の大都市人口の表でも都市名の後に「(台湾)」
と付記しながらも、中国の都市として台北と高雄を表記した。
同会では「領土に関する解釈の違いではなく、事実として間違っている。
近隣諸国への配慮から表記しているのであれば、事実を歪曲(わいきょく)
する深刻な事態だ」と話している。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

わたしの学生時代の教科書もその多くが「中国・台湾省」と表記されており
複雑な思いを持っておりましたが、なにぶん学生ですから確固たる議論が
できるほどの知識もなく、何も言えませんでした。

蒋介石ひきいる国民党が台湾に逃げましたが、日本は敗戦で台湾を放棄した
けれど、どこに所属させるとかの明言や記述はないそうですね。
つまり、台湾は台湾人のものだったのを、蒋介石がやってきて占領した。
その蒋介石はあくまでも大陸奪還を目的として、台湾は仮住まいだとして
いた。当時の台湾のあちらこちらには『春秋左氏傳』の記述にある
「キョ(くさかんむりの下に呂)にあるを忘れるな」=「勿忘在キョ=ju3」
というスローガンが貼ってあったそうです。

現在、現実的にそれはもうかないませんが、
李登輝元総統をはじめとする有志は「台湾国」として独立を願っています。

人の心も土地柄も、麗しの国・台湾が、悪辣な中共に飲みこまれないよう
切に切に願っております。

台湾の運命は、日本のあり方にも大きな影響を与えます。
台湾の危機はとりもなおさず日本の危機でもあります。

日本は、台湾はじめ東南アジア各国と蜜に連携しスクラムを組んで
中共の横暴に対抗すべきではありませんか。

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Re: 志士の先蹤     坂田新

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 23:05 投稿番号: [155 / 735]
  林子平らが三奇士と呼ばれたことは、奇士は奇特の人士の意味で決して
貶めた言い方ではないが、少なくとも多くの人々にとってはその行動は奇矯
であり、誰もが彼らに倣って動くまでにはいたっていないことを示している。

しかし、たとえば高山赤城(1747〜93)は、北は蝦夷地から南は薩摩にいたる
まで、ともに談ずるに足る人物を求めて全国に足跡を残しているが、
幕府の忌諱を逃れきれず、ついには久留米で切腹することにはなるものの、
その死後、頼山陽(1780〜1832)は赤城の伝を作り、水戸藩の藤田幽谷
(1774〜1826)は祭文を作り、津藩の斎藤拙堂(1797〜1865)は墓誌銘を書いた。

三奇士の思想と行動とが、
次第に諸藩の人々の共感を得ていったことが知られよう。

  藤田幽谷は、高山赤城と格別の交誼があったばかりか、
やはり水戸を訪れた蒲生君平とも親しく辺防を語りあっている。

もともと水戸藩には藩祖徳川光圀にはじまる『大日本史』編纂の事業が
続けられていて、大義名分論から尊王論へと展開する、
いわゆる水戸学の気分が濃厚に藩内を覆っていた。

これに辺防の議論が加わり、藤田幽谷がその主唱者と目されるようになった。

幽谷の家塾青藍舎からは、会沢正志斎(1782〜1863)、豊田天功(1805〜64)、
そして次子の藤田東湖など、幕末の尊皇攘夷派の中心人物を輩出することに
なり、藩主徳川斉昭(1800〜60)を戴いて諸藩に先駆けて攘夷を鼓吹し始めた。
国事を痛憤する全国の志士たちにとって、一時期、
水戸こそが攘夷論の総本山であった。


★坂田新『志士』江戸漢詩選4, 岩波書店

4054

================================ =

★ついでに・・・・・
文中に、斎藤拙堂は「墓誌銘」を書いた、とあります。
「墓誌」と「墓碑」とはどう違うのでしょうか。
そして「銘」とは何でしょうか。

お墓参りに行って、墓地の中をクルマで通り抜けたとき、道路側に向けて
「墓誌」と書いた真新しい御影石が立てられているのを見たことがあります。
実はこれ、ちょっとおかしいのです。「墓碑」でなければならない。

お墓の横、地面の上にあるのが墓碑で、
棺桶と一緒に地中に埋めるのが墓誌です。

これも昔の中国から伝わってきたものです。
地面の上にあるものはいつかはなくなる。
遺骸が誰のものかわかるように一緒に埋めておくのが確かなのです。

故人の生涯の事績を記したものが「誌」、
最後にまとめの短い韻文をつけたのが「銘」。
「誌」と「銘」がそろったのが「墓誌銘」です。
同じく、墓碑に銘がついていたら「墓碑銘」。

http://www.karitsu.org/news/kentoshi.htm

★井真成の墓誌銘の銘は、韻文になっていないようです。

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Re: 志士の先蹤  /  文天祥

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 22:59 投稿番号: [154 / 735]
  このように状元が世間にもてはやされるようになると、
状元の責任もまた重くなってきた。

そもそも、天子が進士に空前の栄誉を与えるのは、
いざという時に朝廷のために柱石となって働いてもらいたいためである。
特に状元は他の進士と異なる破格の恩典を賜る以上、状元もまたこの知己の
恩に感激して、惜しからぬ命を天子の馬前に投げ捨てる覚悟がなければならぬ。

南宋がモンゴル族の元のために都を攻め落とされて亡びた時、すでに大勢は
挽回不可能なことがだれの目にもはっきり映っていたにもかかわらず、
状元出身の宰相、文天祥はわずかの手勢をひきつれて各地に転戦し、
漢民族のため、いな宋の天子のために万丈の気をはいたものである。
彼が敗戦中に歌った零丁洋の詩は、よく状元の立場を物語っている。


★宮崎市定『科挙』中公新書


4038

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★>知己<

恩徳で結ばれるのが「知己」
肝胆相照らすのが   「知心」
意気投合するのが   「知音」

であると『今古奇観』では説明しています。

「知音」には、有名な故事がありますが、またそのうちに UP したいと
思います。

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Re: 志士の先蹤  /  文天祥

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 22:36 投稿番号: [153 / 735]
◆文天祥(南宋・1236〜1283)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%A5%A5

  文天祥は、科挙の最終試験を一位でパスした大秀才だった。
一位合格者を状元とよび、天子から種々の栄誉と殊遇を受ける。
このため、天子のためには命を投げ出しても、という熱い忠誠が生まれた。
文天祥が最後まで節を曲げなかったのは、
ひとつには状元に合格したというプライドにあったようだ。

  蒙古軍の総司令官は、名将バヤンである。
彼は、南宋の降將に命じて右翼を衝かせ、南宋軍を牽制しておいて、
アジュを大将とする前鋒軍に中央を突破させて進撃、
揚子江中流最大の要衝、鄂州城(武昌)を占領した。

  ここには南宋の多数の軍船が集結していたが、すべて蒙古軍に接収され、
すでに保持していた艦隊とあわせた蒙古水軍は、両岸を進む世界最強の
騎兵隊と呼応して、一路南宋の首都臨安へと向かう。南宋危うし。


  江西の州知事をしていた文天祥は、朝廷から勤皇の檄が飛ばされたので、
一万数千の義勇軍を率いて臨安へと救援に赴く途中、蒙古軍と衝突、
たちまち全滅する。

  数十騎とともに悄然と都へ着くと、
宰相という栄位が文天祥を待ち受けていた。
高官がみな逃亡したため、
若手の政治家を抜粋せざるをえなくなったからである。

  蒙古軍が臨安に迫った時、文天祥はみずから使者を買って出、
バヤンの陣営に赴く。
文天祥の態度は強硬で、バヤンと激論になった。
バヤンは舌を巻いて驚き、かつこんな過激な男を臨安にもどしたら、
面倒な事態になるわい、と腹の中で考え、文天祥を軟禁して帰さない。
間もなく南宋は滅亡した。

  文天祥は、南宋の有力者とともに、大都(北京)のフビライ汗のもとへと
護送されていく途中、監視の目をぬすみ数人の部下とともに脱走した。
揚子江北岸のまだ元に陥落していない町を、筆舌につくせぬ苦労を
なめながら転々とし、やがて揚子江口から海路を福建に流れる。

  これよりさき、張世傑らの軍人に護られた宋の二人の皇子が、
福建で勢力を固めつつあった。
文天祥もこれに加わろうとしたが、この地を守ることにきゅうきゅうと
している戦略に反発し、江西(本籍)で宋の再興をはかろうとした。

しかし、1278年の末、広東省の北で元軍に捕えられ、数ヵ月後、
宋朝最後の勢力も広東南西の突山で鎮圧されてしまう。

  その翌年、文天祥は元の張弘範將軍の手のものに捕えられた際、
服毒自殺をはかったが死ねなかった。

  元のフビライ汗は、大都に護送されてきた、南宋人士の期待を一身に
集める宰相で愛国者の文天祥を、それゆえ統治しにくい江南支配に利用
したいと考えて、しきりに帰順を勧誘したが、彼はガンとして聞きいれない。

そのたびに「問答無用だ、早く斬れ」と叫ぶばかり。

  三年間の入獄の末、どうしても文天祥の決意をひるがえせないと知った
フビライ汗は、ついに処刑する決意を固める。

文天祥は1282年、12月9日、大都の薬子口刑場の露と消えた。
享年四十九歳。
彼の熱烈な愛国の志を悲しみかつ称えて、後人が刑場址に廟を建てた。

  獄中で文天祥が綴った長編の詩「正気の歌」は、亡き祖国を思う
悲憤慷慨にあふれ、人々の心をも激しく打つものがある。


★駒田信二監修・林亮著『中国人物史100話』立風書房

★享年の西暦がわたしの表示したものと一年ずれていますが、これは
一年360日の暦と、一年365日の暦と、ぴったり重なり合うわけがないからです。
おおよそで計算しているか、日にちまで厳格に計算するかでずれが生じます。


4036

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Re: 志士の先蹤     坂田新

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 22:29 投稿番号: [152 / 735]
  こうして、嘉永六年癸丑の歳が、
十五年後の明治維新へと続く志士の活動の画期となる時点ではあるが、
そうした志士活動の原型となる姿は、もう少し早くから見ることができる。
たとえば、後年の志士たちが幕藩体制の枠を越えて、同士を求めて全国に
周遊し、嗟(なげ)きをともにし憂いをともにする有様は、
早く寛政(1789―1801)の三奇士と呼ばれた林子平・高山赤城(彦九郎)・
蒲生君平の行動がそれであり、しかも三奇士がその感懐を詩歌に託した
時には、すでに幕末の詩と共通する多くのものを含んでいた。

『海国兵談』を著して辺防論の先覚者となる
林子平(1738―93)の「無題」詩にいう。


海外萬国布如星       海外萬国   布(し)いて星の如く
覬覦切奪他刑政       切(しき)りに他(他国)の刑政を奪わんと覬覦(キユ)す
廟堂曾無防辺策       廟堂(政府)曾(かつ)て防辺の策無し
爲説海防済生霊       爲に海防を説いて生霊(万民)を済(すく)わんとす


  また、天皇陵を巡拝して『山陵志』を著し、幕末尊王論の一源流ともなる
蒲生君平(1768―1813)は、やはり古詩「無題」その二にいう。


祭政維非二       祭政(祭祀と政治)は維(こ)れ二なるに非ず
安民在敬神       民を安んずるは敬神に在り
先王廟陵癈       先王   廟陵は癈れ
後世淫祠新       後世   淫祠(仏寺)新たなり
恐擧天孫國       恐らくは天孫の國を擧げて
終爲夷狄人       終に夷狄の人と爲らんかと
我慕清麻呂       我は慕う   清麻呂(和気清麻呂)の
忠肝不顧身       忠肝(忠義の心)   身を顧みざりしを


  同じ君平の「無題」その一に、
「義勇には楠河内(楠木正茂)、英勇には柴筑前(豊臣秀吉)、
二公誰か學可けん、劔に仗って蒼天に問う」
と詠ずるのとあわせて、すでに後年の藤田東湖「文天祥の正氣の歌に和す」
と共通する史観と感慨を見ることができよう。


4024


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★林子平の有名なことば

親も無し   妻無し子無し版木無し   金も無けれど死にたくも無し


命と同じくらい大切な著書の版木すらとりあげられてしまった嘆きです。

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Re: 志士の先蹤     坂田新

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 21:03 投稿番号: [151 / 735]
  ここに、すでに志士は常に安んじて死を受け入れる者、
志士はすなわち死士と言いかえることができるような意味合いがある。
そうした志士の語を受けて、『孟子』滕文公篇下には「志士は溝壑に在るを忘れず」
とあり、漢の趙岐注に
「志士は義を守る者なり。君子固より窮す、故に死して棺椁(カンカク)無く、
溝壑に棄てられて恨みざるを念う」
といい、朱子の『孟子集注』もほぼ趙岐注を踏襲する。

  こうしてみると、志士の語は少なくとも春秋戦国の時代からすでに存在
しており、身命を賭して何事かをなそうと志すものをいうのであった。
そうした志士と呼ばれる人々は、むろんその後いつの世にも存在していた
はずだが、やがて日本での我々の用語としては、もっぱら幕末期に国事に
奔走した志士だけをさす、もっとも意味を狭めた使い方が行われるようになった。
本書でも、おおむねその意に用いている。

  それならば、いわゆる志士、すなわち幕末の志士とは、
いつごろからの人たちを数え上げることができようか。
実際に幕末に志士活動をおこなった人々の閲歴のなかで、
「癸丑以来」ということがしばしば語られている。
みずのとうし、嘉永六年(1853)というのは、この年の六月にアメリカの
ペリー提督が軍艦四隻をひきいて浦賀に来航し、開国を求める大統領親書を
受理せよと幕府に迫り、それのみか戦闘態勢で江戸湾に侵入して、
八百八町の人々に大きな動揺を与えた。
それまでにもオランダ国王の開国勧告の国書が長崎奉行を通じて幕府に
届けられていたり、弘化三年(1846)閏五月にはアメリカのビッドル提督が浦賀に
来航、嘉永二年(1849)閏四月にはイギリス艦マリーナ号が同じく浦賀で湾内の
測量をするなど、西欧諸国の外圧をある程度は感ぜざるをえなかったものの、
ペリー一行の態度はそれまでの来航者に比して著しく威嚇的であって、
朝野をあげての黒船騒ぎになってしまった。

  それまでは一部の先覚者を除いて、時の流行りことばで攘夷と叫ぶことは
あっても、実際にはさほどの切実さもないまま、多くはのんびりと太平の夢を
むさぼっていたものが、いよいよ夷狄が日本へ踏みこんでくるかもしれぬと、
全国一様に身近な危機と感ずるようになったこの癸丑の年から、急きたてられる
ような憂国の思いにかられて、にわかに志士活動に入っていった者は少なくない。
ちょうどこの年、土佐から江戸へ剣術修行に出てきた坂本龍馬が、
九月二十三日付けで父直足に宛てた手紙に、
「異国船処処に来航由なれば、いくさも近き内と存じ候。
その節は異国の首を打取り帰国仕るべく」
云々と書いているのは、当時の青年たちの素朴な覚醒の姿である。
やがて目覚めた青年たちは、志士となって幕藩体制の垣を乗り越え、
全国に同憂の士を求め、互いに所信を語り合うようになった。

==================================================== =

★坂本龍馬も訪れて剣術の試合をしたという、山口県萩市明倫小学校内にある
有備館道場。明倫小学校は、もと毛利藩藩校明倫館。

http://www.city.hagi.lg.jp/portal/bunrui/detail.html?lif_id=10248


つづく

4020

志士の先蹤     坂田新

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 21:00 投稿番号: [150 / 735]
志士の先蹤       坂田新(1949〜2009)

  志士という語は、古く『論語』のなかに見ることができる。
『論語』衛霊公篇に孔子のことばとして、
「子曰く、志士仁人は生を求めて以て仁を害うこと無く、
身を殺して以て仁を成す有り」、と。

魏の何晏『論語集解』では、漢の孔安国の注を引いて、
「生を求めて以て仁を害う無く、死して後に仁を成すは、
則ち志士仁人、其の身を愛しまざればなり」、と説明している。

さらに宋の朱子『論語集注』によれば、
「志士は、志有るの士なり」とまずいい、ついで、
「理として当に死すべくして而も生を求むれば、則ち其の心に於いて安んぜず。
是れ其の心の徳を害うなり。当に死すべくして而も死すれば、
則ち心安んじて徳全し」、と。

つまり、死すべき時には安んじて死につき、その当然の死によって徳が全う
できると考えている人々、それが志士だというのである。

つづく

★坂田新『江戸漢詩選』4 「志士」, 岩波書店

★余談ですが、ウィキに坂田新の著書として『白雲悠々』とあるのは、
同姓同名の別人の著作です。

================================================== =

>『論語』衛霊公篇に孔子のことばとして、<

『論語』「巻第八   衛霊公第十五」

〔原文〕
子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁、

〔訓読〕
子の曰わく、志士仁人は、、生を求めて以て仁を害すること無し。
身を殺して以て仁を成すこと有り。

〔解釈〕
先生がいわれた、
「志ある人や仁の人は、命惜しさに仁徳を害するようなことはしない。
時には命をすてても仁徳を成しとげる。」

★金谷治訳注『論語』岩波文庫より

==========================================

『論語』「巻第七   憲問第十四」
〔原文〕
或曰、以徳報怨何如、子曰、何以報徳、以直報怨、以徳報徳、

〔訓読〕
或るひと曰く、「徳を以て怨みに報いば何如(いかん)。」
子曰く、「何を以てか徳に報いん。直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ。」

★ふと思い出したので、ついでに UP しました。
どうですか、キリストや老子とは全然違います。人間的、常識的でしょう。

〔解説〕
怨みをもった人の加害に対しては正しく真っ直ぐに毅然とした態度で報いよという。
相手の親切や恩義に対しては同じく親切に報いるのである。
悪に対して毅然たる態度をとるというのは、決して容易ではない。
弱い者は泣き寝入りをしながら、神の名を借りて自己の弱さの弁明とするのが
通常よくみられるところである。

★この項は、山下龍二『孔子を語る』上, NHK 出版より

4013

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泊天草洋     頼山陽

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 20:33 投稿番号: [149 / 735]
泊天草洋           頼山陽(1780〜1832)
天草洋(あまくさなだ)に泊す

雲耶山耶呉耶越       雲か山か呉か越か
水天髣髴青一髪       水天髣髴(ほうふつ)青(せい)一髪(いっぱつ)
万里泊舟天草洋       万里 舟を泊す天草の洋(なだ)
煙横篷窓日漸没       煙は篷窓(ほうそう)に横たはりて日 漸く没す
瞥見大魚跳波間       瞥見(べっけん)す大魚の波間に跳ねるを
太白当船明似月       太白 船に当たって明(めい)月(つき)に似たり

遥かに遠く見えるのは雲か、山か、呉か、越か
水と空とが一筋の青い髪の毛を引いたようにぼんやりと連なっている
今宵、はるばる京都より万里も離れたこの天草洋にきて舟どまりをしていると
夕もやが静かに小舟の窓をつつみ、太陽もしだいに海に沈んで行く
大きな魚が波間に跳びはねたのをちらりと見た
見上げる空には宵の明星が舟ばたの向こうで輝き、まるで月のように明るかった


★青一髪
水平線が青く真っ直ぐに、一筋の髪の毛のように続いているようす

蘇東坡の「澄邁駅通潮閣」(澄邁駅の通潮閣)という詩に
「青山一髪是中原   (青山一髪これ中原)」という一句があります。

★太白・・・金星。宵の明星

★篷窓・・・竹などで編んだ「とま」をかけた舟の窓


★渡部英喜『漢詩歳時記』新潮選書より。


★タイトルをかえるのを忘れましたので削除してやりなおしました。

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澄邁駅通潮閣     蘇軾

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 20:03 投稿番号: [147 / 735]
澄邁駅通潮閣        蘇軾(北宋・1036〜1101)
澄邁駅(ちょうまいえき)の通潮閣


余生欲老海南村       余生 老いんと欲す 海南の村
帝遺巫陽招我魂       帝 巫陽をしてわが魂を招かしむ
杳杳天低鶻没処       ようようとして天低(た)れ鶻(こつ)没する処
青山一髪是中原       青山一髪これ中原

残り少ない我が命が海南の村で尽きようとしていたとき
天帝は巫(みこ)を遣わしてわたしの魂を呼び戻してくれたのか、
わたしは海を越えて帰れることになった
(流刑地から還る途中、島の北まで来たが、ここ澄邁駅の通潮閣に登ってみると)
はるかかなた、大空が水平線まで下りてきて、そこに隼の影が消えていくあのあたり
そこに髪の毛ひとすじほどに見える青い山並みこそ我が中原


★四年間流されていた海南島より許されて帰る途上の船中で詠んだ詩です。

★このとき、66年の波乱の生涯を旅に閉じる。1100年6月の作、望郷の詩。


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★左遷されても、いっこうに懲りない蘇軾はさらに海南島まで流されます。

先の詩の関連で、ついでに蘇軾の詩をもう一首あげておきます。


★わたしのPS ワードには、現在 A4 860頁の漢詩が入れてあります。
長短があるので、何首あるのかわかりませんが、蘇軾の詩は37首
あります。そのうちにまた順次 UP したいと思います。

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Re: 八月七日初入●過惶恐灘     蘇軾

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 19:53 投稿番号: [146 / 735]
こんばんわ。

現代の日本ではもうほとんど漢文教育がおこなわれていないと思います。
それで興味をお持ちの方も少なく、見ていただけていないのではないか、
という一抹の不安がありました。

今の日本では、文天祥などといっても知らない人がほとんどでしょう。
終戦前くらいまでは逆に、殆どの日本人は知っていたのではないでしょうか。

ですので、ロムしていただけて本当に嬉しく思います。
有難うございます。

台湾の教育では、台湾の歴史よりもむしろ大陸の歴史や文学について
詳細に教えているのではないでしょうか。
日本人としてハタから見ていてなんとなく釈然としない感じはあります、
がいきがかりじょうしかたのないことなのでしょう。


日本のPSでも今はかなりの漢字は変換できるようになりました。
ただワードで変換はできても、この掲示板上では記号が出てきて
UPされないのです。
掲示板ばかりでなく、ネットで検索する場合もそういうことが度々あります。

漢字の正統性、美しさは、台湾にこそ正しく受け継がれております。
日本もかなりでたらめになり、それ以上に中国ではおはなしになりません。


また、いろいろご教示くださいませ。

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Re: 八月七日初入●過惶恐灘     蘇軾

投稿者: nagai538jp 投稿日時: 2011/07/21 08:38 投稿番号: [145 / 735]
文天祥、蘇東波の詩文は台湾の高校、国文の課程で必ずとりあげます。今、再読して感慨無量。
   日本の<ps>では思うように漢字が出ないでしょう、私も度々悩むのです。

八月七日初入●過惶恐灘     蘇軾

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/20 21:55 投稿番号: [144 / 735]
八月七日初入●過惶恐灘       蘇軾(北宋・1036〜1101)
八月七日   初めて●(カン)に入り惶恐灘を過ぐ

●・・・「章」+「久」、その下に「貢」   カン。   江西省の別名。


七千里外二毛人       七千里外   二毛の人
十八灘頭一葉身       十八灘頭   一葉の身
山憶喜歡勞遠夢       山は喜歡を憶うて   遠夢を勞し
地名惶恐泣孤臣       地は惶恐と名づけて   孤臣を泣かしむ
長風送客添帆腹       長風   客を送って帆腹を添え
積雨浮舟減石鱗       積雨   舟を浮かべて石鱗を減ず
便合與官充水手       便ち合(まさ)に官の與(ため)に水手に充(あ)つべし
此生何止略知津       此の生   何ぞ止(た)だに
             略(ほぼ)   津を知るのみならんや


都を離れること七千里、老いて白髪まじりの私は
十八か所の早瀬を行き、頼りない小舟に身を任す
山の姿に蜀の地の錯喜歡鋪を思い出して、夢ははるかな故郷へ飛ぶが
この場所の名は惶恐灘(おそれの早瀬)、よるべなき身は涙するばかり
しかし、万里を吹き渡る風が舟の帆をふくらませて旅人を送り
雨に水かさが増し、危険な浅瀬の波も立たなくなった
ここではお上のために水夫の役目を果たすとしようか
あちこち流謫された経験のおかげで、
私はただ単に渡し場を知っている程度ではないのだから


★蘇軾五十九歳のときの作。

★南の果ての恵州(広東省)に飛ばされることになった。
その南下の途上での作。

★詩の前半では、遠く辺境に流され行く悲しみと旅の苦しさとが
切々と語られ、作者の憂愁が読者の胸に迫ってくる。
後半は、気を取り直したように、現状を甘受し、
むしろ居直りにも似た心境を詠む。


★石川忠久『蘇東坡100選』NHKライブラリー

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★ついでに「惶恐灘」の出てくる蘇軾の有名な詩をUP しました。

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過零丁洋     文天祥

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/20 21:49 投稿番号: [143 / 735]
過零丁洋          文天祥(宋・1236〜1283)

辛苦遭逢起一經      辛苦に遭逢するは一経より起る
干戈落落四周星      干戈落落として四周の星
山河破砕水飄絮      山河は破砕して水は絮(わた)を飄わし
身世浮沈風打萍      身世は浮沈して風は萍(うきくさ)を打つ
惶恐灘頭説惶恐      惶恐灘頭(こうきょうたんとう)に惶恐を説き
零丁洋裏歎零丁      零丁洋裏に零丁を歎く
人生自古誰無死      人生古(いにしえ)より誰か死無からん
留取丹心照汗青      丹心を留取して汗青を照らさん

辛苦に遭遇するのは経学に志した時からの宿命だ
干戈を動かして幾多の戦いに従事すること四周年
山河は破れ砕けて、風に吹き飛ぶ水上の柳絮のごとく
わが身も浮沈して定めなく、風のなすがままの浮草同様
先に故郷の惶恐灘へさしかかれば、首都が危ないという惶恐すべきしらせ
今、この零丁洋へくれば、文字通り零丁(ひとりぼっち)のうらぶれの身
だが、人は昔から死なぬ者はない定め
この真心を失わず、後世の歴史に名を残そう


★生き恥をさらすよりは、死んで節義を歴史にとどめようとする
心意気をうたっています。

★文天祥は、20歳で科挙に主席合格。漢民族のため、天子のため、
勝算のない戦いにわずかの手勢を率いて各地に転戦し万丈の気を吐きました。
元軍の捕虜となり北京で刑死しました。

★「汗青」・・・   歴史の意。
昔、書籍をいう。紙のない昔、竹をあぶって汗を出させ油を抜いて
それを紙にかえて字を記したということです。

★奥平卓先生と宮崎市定先生の訳を参考にし、ミックスいたしました。

★「山河破砕水飄絮      山河は破砕して水は絮(わた)を飄わし」

たとえば、上記の訳は奥平先生のもの。
宮崎先生は、
「山河は破れ砕けて、水には破れた衣が漂い」と訳しておられます。

★「人生自古誰無死      人生古(いにしえ)より誰か死無からん」

北京郊外の万里の長城近くの墓地に、この「人生自古誰無死」と書いた碑が
たっていると聞いたことがあります。

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Re: 正氣歌     文天祥

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/20 21:44 投稿番号: [142 / 735]
【自分の身と、その処し方を述べる】

嗟予遘陽九       嗟(ああ)   予   陽九に遘(あ)い
隸也實不力       隸(われ)なるや   實(まこと)に   力(つと)めず。
楚囚纓其冠       楚囚   其の冠を纓(むす)び
傳車送窮北       傳車にて   窮北に送らる
鼎①甘如飴       鼎①(ていかく)   甘きこと飴の如く
求之不可得       之を求むれど   得可からず
陰房闃鬼火       陰房   闃(しづか)にして   鬼火ありて,
春院②天鄢       春院   ②(とざ)して   天   鄢(くら)し
牛驥同一蔞       牛   驥   同(とも)に一つの蔞(をけ)
鷄棲鳳凰食       鷄棲に   鳳凰食す
一朝蒙霧露       一朝   霧露を蒙むらば,
分作溝中瘠       分かる   溝中の瘠(むくろ)と作るを
如此再寒暑       此(かく)の如く   再びの寒暑
百③自闢易       百③(ひゃくれい)   自ら闢(さ)け易(やす)し
哀哉沮洳場       哀しい哉   沮洳(そじょ)の場は
爲我安樂國       我が爲に   安樂の國たらん
豈有他繆巧       豈に他の繆巧(びゅうこう)有らんや
陰陽不能賊       陰陽   賊(そこな)ふ能はず
顧此耿耿在       此の耿耿たるの在るを顧みて
仰視浮雲白       浮雲の白きを仰ぎ視る
悠悠我心悲       悠悠たる   我が心の悲(いた)み
蒼天曷有極       蒼天   曷(なん)ぞ   極り有らんや
哲人日已遠       哲人の日   已に遠のけど
典型在夙昔       典型は   夙昔に在り
風檐展書讀       風檐(ふうえん)に   書を展(ひら)きて讀めば
古道照顏色       古道   顏色を照らす

①「金」+「護」のごんべんをとったもの
②「門」のなかに「必」
③さんずい   に   「珍」のたまへんをとったもの

ああ、わたしは国の滅亡にともなう多く(九つ)の災厄に遭遇して
臣下たる身が、自己の責務にまことに力不足であった
春秋時代、晉の囚われの身となったが、常に楚の冠をかぶって祖国を
忘れなかった楚の鐘儀は
伝車にて、北の果てまで連れてこられた
釜茹での刑具である鼎①(ていかく)でさえも、甘美でまるで飴のようである
これは、求めてもなかなか得られるものではない(願ってもないことだ)
牢の中はひっそりと静寂に包まれ、鬼火も出て
春の庭は閉ざされ、空も真っ暗である
牛も駿馬も同じ飼葉桶、味噌も糞も一緒の扱い
鶏小屋で鳳凰が飼われているようなものだ
ひとたび、毒気や天気の急変による露を被って体を壊し病気になってしまえば
どぶに打ち捨てられる屍体となることはわかっている
このようにして、更にもう一年(二年目)となるので
多くの妖気や病魔から、自然と身を避けることがたやすくなった
お気の毒なことだが、この湿気の多い牢獄も
(ブログ主さんは、「哀哉」を相手の立場で謂っている。意気軒昂としている
表現、としておられますが、また別の解釈があるようにも思います)
わたしの手にかかると楽園となってしまった
(わたしを篭絡しようとしても)
どうして巧緻な計略というものがあるだろうか(そんなものはない)
根本の原理(ここでは忠義)をそこなうことはできない
この光り輝く忠義の精神の存在を顧みて
さらに空に漂う浮雲を仰ぎ見る(古来より浮雲は不吉の象徴)
深い憂え、心の傷み
あの蒼天に究極の涯はあるだろうか(いや、ない)(しかし国運も人の命もいつか終わる)
聖哲の出現した日々は、とうに遠いものとなってしまったが
人間のあるべき姿の模範は古昔にある
窓辺に聖賢の書をひろげて読めば
昔人の説いた、あるべき人の道がわたしの顔を照らしてくれる


4152

Re: 正氣歌     文天祥

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/20 21:39 投稿番号: [141 / 735]
【人倫、道義の根幹としての正気をいう】

是氣所磅●       是れ氣の磅●(ほうはく)たる所
凜烈萬古存       凜烈として   萬古に存す
當其貫日月       其の日月を貫くに當りては
生死安足論       生死   安(いずく)んぞ論ずるに足らん
地維褚以立       地維   褚りて以て立ち
天柱褚以尊       天柱   褚りて以て尊ぶ
三綱實繋命       三綱   實(まこと)に命を繋ぎ
道義爲之根       道義   之(こ)の根と爲る

●・・・<石簿>    ハク


今挙げたこれら歴史上の事例は、正気の意気の広くいきわたるところである

それは凛として激しく、太古から現在まで存在している

正義の気概が日月を貫こうとするときにあたっては

個人的な生死の問題など、どうして論ずるに足りようか

大地の支えである地緯は、正気のおかげで存立でき

天の支えである天柱は、正気のおかげで重んじられる

君臣の道、父子の道、夫婦の道という社会の根本となる三綱の人倫は、
まことにこの正気によって命脈を保ち

道義は、この正気をもって根本としている


★大義と一個人の問題とを対比させ、そこから、
悠久の大義に生きるということを導き出している。

★地緯・・・世界の四隅を繋ぐ大綱。
この世の中、世界を構成するもの、秩序の意。天柱も同様。


つづく

4145


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Re: 正氣歌     文天祥

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/20 21:33 投稿番号: [140 / 735]
蜀の張飛に生け捕りにされた巴郡の太守厳頭は
「頭を断たれる将軍はいるが、降伏する将軍はいない」
と言って降伏を拒絶した。そのために頭を切り落とされた。

晉の永興の初め、叛乱があり、帝は落ちのびるや、①紹(ケイショウ)
(官職は侍中)は行在所に駆けつけ、儼然と帝を衛って賊を防いだ。
しかし飛箭雨集し、①紹(ケイショウ)は帝の側に倒れた。
その血が帝の御衣に濯いだ。
平定後、家来は帝に衣の血を洗うことを請うたが、
帝は「此れは①(ケイ)侍中の血、去る勿れ」と言った。

①「禾」の右横に「尤」、   その下に「山」    ケイ

唐代の人、張巡は、安録山の乱のとき、②陽(スイヨウ)を護って戦った忠臣。
張巡は戦の折り、歯をかみしめて戦ったので、歯をだめにした。
また最期のとき、敵を罵って死んだ。

②「目」+   ふるとり    スイ

唐代、忠烈無比といわれた常山の太守である顔杲卿(がんこうけい)は、
安録山の乱のとき、抗戦したが、矢尽き、安録山に臣従を迫られた。
顔杲卿は、逆に忘恩負義を責めたので、舌を抜かれ、切り刻まれて殺された。
常山は地名でもあり官職でもある。

黄巾の乱を避けて遼東に移った管寧は有能で驕ることのない清官だった。
身分の低い者がかぶる黒い粗末な帽子で、質素な白い木綿の衣服であった。
清らかな節操は、はげしくきびしいこと雪や氷の如くである。

あるいは、蜀の諸葛亮孔明が後主劉禅に奉った、忠誠心溢れた
『出師の表』となりその出師の表に吐露された諸葛亮の忠誠心は、
鬼神も泣くほど壮烈であったという

あるいは、南渡したときに、川の流れをかいで撃って、祖国中原の恢復を
誓ったときの心意気の昂ぶりは、北方の異民族を圧倒してしまうほどだった

あるいは、唐の徳宗のときに謀反をたくらんだ朱③(シュセイ)を、
段秀実が笏で打ち据えて反逆者の頭が割れてしまった故実もあった

③さんずい   +   「比」    セイ


つづく

4141

Re: 正氣歌     文天祥

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/20 21:17 投稿番号: [139 / 735]
【歴史上の気節が顕現した実例を列挙する】

在齊太史簡       齊に在りては   太史の簡
在晉董狐筆       晉に在りては   董狐の筆
在秦張良椎       秦に在りては   張良の椎
在漢蘇武節       漢に在りては   蘇武の節
爲嚴將軍頭       嚴將軍の頭と爲り
爲①侍中血       侍中の血と爲る
爲張②陽齒       張陽(すゐよう)の齒と爲り
爲顏常山舌       顏常山の舌と爲る
或爲遼東帽       或は   遼東の帽と爲り
芿操窅冰雪       芿操は    冰雪よりも窅し
或爲出師表       或は   出師の表と爲り
鬼藭泣壯烈       鬼藭   壯烈たるに泣く
或爲渡江楫       或は   渡江の楫と爲り
慷慨呑胡羯       慷慨   胡羯を呑む
或爲撃賊笏       或は   賊を撃つ笏と爲り
逆豎頭破裂       逆豎(ぎゃくじゅ)   頭は破裂す


①「禾」の右に「尤」、その下に「山」   ケイ
②「目」+ふるとり    スイ

春秋時代、齊の崔杼(さいちょ)が君主を弑したとき、
太史は「崔杼弑其君」と簡に記録した。
そのため太史が殺されると、跡を継いだ弟がまたも書した。
弟が殺されるとそのまた弟が死を怖れずにまたも記録した。

晉の霊公の無法を趙盾が諌めたが、かえって殺されそうになり亡命した。
まだ国境を越えないうちに趙穿が霊公を弑した。
趙盾は亡命をとりやめ復帰して政務に就いた。
大史董狐は「趙盾弑其君」と記録した。
趙盾が抗議をすると、董狐はこう言った。
「子爲正卿、亡不越境、反不討賊、非子而誰」。
(「あなたは正卿である。
亡命しようとしたが、まだ国境を越えてはおられなかった。
その後、戻って来られたが反逆者を討伐されない。
あなたでなくて誰に責任があるというのか」)

秦においては、張良が東海に力士を得、重さ百二十斤の鉄椎を作り
秦の始皇帝を狙撃した。
張良の父・平は韓の宰相であった。韓は秦に滅ぼされたからである。
鉄椎は始皇帝をそれた。

漢の武帝のとき、蘇武は匈奴に使いして囚われたが匈奴の臣となることを
拒否、艱難辛苦の末十九年の歳月を経て漢への帰国を果たした。


つづく

4140

Re: 正氣歌     文天祥

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/20 21:09 投稿番号: [138 / 735]
正気歌         文天祥(宋・1236〜1283)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/p20.htm

正氣歌:正気の歌。「正気」(せいき)とは、万物に宿る根本の精気。
大きく正しい天地の元気(万物の根本の精気)の歌。
この作品では、天・地・人に宿る根本の気・正義と人倫を貫き、
忠君愛国の信念と道義でもって、身を殺して悠久の大義に生きることの
気概を高らかにうたいあげている。
日本や中国で、これに基づいたいくつか異なった正気の歌が派生している。
謝枋得も、文天祥と同様に元朝に仕えることを求められ、拒絶して自尽したが、
二人の境遇が同じなため、この『正氣歌』は謝枋得の『初到建寧賦詩』
「雪中松柏愈青青」に構成や主張が似ている。
日本では、幕末の水戸学の儒者藤田東湖の『和文天祥正氣歌・有序』
「天地正大氣,粹然鍾藭州。秀爲不二嶽,巍巍聳千秋。
注爲大瀛水,洋洋環八洲。發爲萬朶櫻,衆芳難與儔。…」がある。


序はこちら。↓   ↓   ↓
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/p20xu.htm

原文・訓読は、上記のHP からいただき、
解釈は上記のHPの説明を参考にトピ主がつけました。

【正気の存在について論を起こす】

天地有正氣       天地   正氣   有り
雜然賦流形       雜然として   流形に賦す
下則爲河嶽       下れば則(すなわ)ち   河嶽と爲り
上則爲日星       上れば則ち   日星と爲る
於人曰浩然       人に於いては   浩然と曰い
沛乎塞蒼冥       沛乎として   蒼冥に塞(み)つ
皇路當芿夷       皇路   芿夷に當れば
含和吐明庭       和を含み   明庭に吐く
時窮節乃見       時   窮らば   節   乃ち見(あらわ)れ
一一垂丹逭       一一    丹逭に垂る

この天地の間には「正気」という真理・精気が存在している
雑然として、世界の森羅万象にその正気を与えている
重く濁ったものは沈殿し、河や山となり
軽く清らかなものは浮上し、日星となり天を形成した
人の場合においては、それを浩然といい
その浩然の気が勢いよく天地にみちあふれる
政治の大道名が清く治まっていれば
和やかさが増進して、その結果が朝廷のまつりごとにも現れる
困難な状況の時こそ、節操ある者が出現する
そのことはひとつひとつ、史書に記録されている、その例を挙げれば

4135



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Re: 正氣歌     文天祥

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/20 20:47 投稿番号: [137 / 735]
正気の歌

  南宋滅亡にさいして、最後まで節を守って元軍に抵抗した文天祥は、江西の
出身で、二十一歳のとき進士の試験に応募し、その答案が、試験官の一代の学者
王応麟をして「忠肝は鉄石の如し」といって驚かせ、主席で合格した。

元の軍が江を下って杭州に近づくと、
賈似道が度宗をして天下に勤皇の師をつのる勅を下させた。文天祥は形勢は
すでに定っているのを知っていたが、あえてこれに応じ義軍をあげた。

度宗の元への投降の直前、全権を委任された杭州城下の元軍の元帥伯顔に会して、
元軍を引上げさそうと説いて、元軍に捕えられた。

中途から脱走して、二帝を奉じ、南走して最後まで戦ったが、
再び元軍に捕えられて北京に送られた。
世祖もその毅然たる態度に感じて三年も獄中にとどめておいたが、南方で、
文天祥を救国の英雄と仰ぎ、兵をあげるものが出るので、ついに死刑に処した。

かれが獄中で作った「天地に正気あり、雑然として流形を賦す、下は河獄となり、
上は日星となる、人においては浩然の気となり、沛乎として蒼冥にみつ」
という文句に始まる「正気の歌」をつくった。

この「正気」があふれて諸葛孔明を始め歴代の忠節の士を生んだとするこの雄篇は、
宋の士大夫の責任観と宋学の形而上学とが渾然として融合してできた中国の
ナショナリズム思想を代表する名詩で、後世に大きな影響をあたえた。

幕末水戸の勤皇の志士藤田東湖の正気の歌はこれを模したものである。



★貝塚茂樹『中国の歴史』中, 岩波新書

4044

※※※※※※※※※※※※※※※

★滅亡寸前の南宋は、今の日本と似ているような気がします。

★文天祥「正気の歌」を挙げているのは、
大江敬香「白虎隊『双影遊記』」に、

>或は文天祥正気の歌を吟じ、<

とありましたので。

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正氣歌     文天祥

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/20 20:41 投稿番号: [136 / 735]
◆正氣歌     文天祥(南宋・1236〜1283)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/p20.htm

  1282年、文天祥は長期にわたる獄中生活で体こそ弱っていたものの、
浩然の気を奮って、世に名高い「正気歌」を書き上げました。
その序には
「幽暗の獄中には七つの悪気があるが、
孟子のいうところの浩然の気によって、これらを克服できる。
浩然の気はすなわち天地の正気である」
と述べられています。

  この歌のあらましは次のとおりです。

「天地に正気有りて千変万化す。
地に有りて山河となり、天に有りて日星となる。
人においては浩然の気となり、発揚すれば天地に充つる。
国家太平の時は祥瑞を現し、時局危難の時は忠節を現す。
故事にその例多し。
斉の太史、蓁の董狐、漢の張良、蘇武、厳將軍、張巡、
顔巣卿、管軍と遼東の民、諸葛亮、祖荻、殷秀実らは皆、
正気の発揚により、日月のごとく、千万年も人々の遵(したが)うところとなる。

正気は天を支え、地を安んずる。人間の倫理、人生の道義の基となる。

我、艱難の時、能力微弱にして国の衣冠に値せず、
囚犯として最北の幽燕に到る。
粉身砕骨、吃糖して戻るを得ず。何ぞ埋恩か有る。
陰暗の囚房、鬼火、鎖門の庭、春無き長夜、犯者と共に同食同飲し、
鳳凰と鶏と同臥し、潮湿受け、尸の如く両年の災害避けるを得ず。

潮湿泥糖は我が安楽の郷、邪気も我を害する能わず。
低頭すれば心霊の光明、抬頭すれば白雲の浮動、祖国の憂い無辺無岸なり。
蒼天は何時開けるや、古代の聖賢すでに遠しといえども我忘れず。
房窓の下、古書を開き、英賢我と同歌同哭するを看る。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★文天祥処刑の折り衣帯の布に書かれていた絶筆

孔曰成仁   孟曰取義       孔子曰く仁を成す   孟子曰く義を取る
惟其義盡   所以仁至       惟だその義を盡くせば   仁の至る所以なり
讀聖賢書   所學何事       聖賢の書を讀みて   何事をか學ぶ
而今而後   庶幾無愧       而るに今   而して後   幾ばくも愧無し

★「正気歌」は、屈原の「離騒」、岳飛の「滿天紅」、
諸葛孔明の「前出師表」とともに、中国の四大名文の一つとされています。


★鐘 清漢『人物50人で読む中国の思想』PHP 文庫

4043


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72億円を踏み倒した? 中国大富豪

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/20 20:12 投稿番号: [135 / 735]
72億円を踏み倒した?   中国大富豪
まだ代金未払いだった?   72億円の壺
ゆかしメディアより


これは政府の指示か?   昨年、イギリス・ロンドン郊外で開催された
オークションで清代の乾隆帝時代に作られた壺を5300万ポンド
(約71億9000万円)で落札した中国人富豪が、落札後5カ月が経過した今も、
代金を支払っていないことが明らかになった。

  実は中国では、政府の指示で買い手がオークションを破棄にしたとの
見方が広がっている。
目的は欧州諸国がかつて中国から奪った古美術品を売って
“金儲け”することを阻止するためだという。

  こうした憶測が広がったのは、今回の買い手が、大連万達集団社長で、
中国不動産界の巨頭・王健林(おう   けんりん)氏と分かったからだ。

昨年の中国富豪ランキング10位にランクインした彼は全国人民代表大会の
代表で、全国政治協商会議のメンバーでもある。
若い頃には軍隊に属するなど政府とのつながりも強い人物だ。


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★もとが強奪品ですから。

第三者では、なんともいえません。

しかし、中国は、日本にとばっちりがかかってこないかぎりにおいては
非情におもしろい国ではあると思います。

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Re: 奨学金を台湾の私費学部留学生にも適用

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/20 20:03 投稿番号: [134 / 735]
こんばんわ。

いつもロムしてくださいまして有難うございます。
お声をかけていただきますことで、とてもばみになります。


奨学金の件では、
台湾留学生のかたには本当に申しわけありませんでしたね。

日本の政治家や役所や大学の誠意のなさに、暗澹たる思いをしています。

ほとんどの日本人は、台湾が大好きなのです。


今はかなり失くしてしまった古きよき時代の日本人の美点は、
現在、台湾にこそ残されていると思います。


またひき続き、よろしくお願いいたします。

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Re: 奨学金を台湾の私費学部留学生にも適用

投稿者: nipponndaisuki003 投稿日時: 2011/07/19 22:22 投稿番号: [133 / 735]
筆耕勤奮、脱帽表敬。

奨学金を台湾の私費学部留学生にも適用

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/19 21:58 投稿番号: [132 / 735]
【東日本大震災】
奨学金の「緊急援助採用」を台湾の私費学部留学生にも適用   交流協会
2011.7.19 17:32     産経新聞


  日本の対台湾交流窓口機関、財団法人交流協会台北事務所は19日、
東日本大震災の災害救助法適用地域1都7県のうち東京を除く
7県20大学で学ぶ台湾からの私費留学生に対して、対象外だった
学部留学生を含め緊急奨学金の支給対象の追加募集を決定、
各大学への要項の送付作業に入った。

給付は今年4月分で、学部生は1人12万5000円。
今月下旬まで受け付ける予定。

  文部科学省は震災直後、被災した私費留学生の支援のため
平成23年3月の1カ月だけ、日本政府から奨学金を受ける国費留学生
として扱う「緊急援助採用」の措置を決定。
成績なども条件に東北大や筑波大など対象大学から募集した。

  交流協会でも同様に募集し、被災した台湾からの私費大学院留学生25人
を対象に奨学金を支給した。
しかし、同協会では従来の公費支給規定にしたがって学部生を対象外とした
ため、栃木県の私立大では台湾の留学生が大学側に抗議。

台湾から170億円以上もの巨額の義援金が寄せられる中、
不公平が指摘されていた。(台北   吉村剛史)


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★最初から、そういうふうにすればいいんですよ。
なんという恩知らずで無能な人たちだろうか。

ハナからもっと最新の注意をはらってきめ細かくやるべきでしょう。

問題となった大学は、作新大学という学校だそうですね。
学校も、もっと差別された台湾人学生の身になって交渉すべきだった
んじゃないですか。

一日本人として、ほんとうに恥ずかしく申し訳ないですよ。

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Re: 垓下曲(垓下歌)     項羽

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/19 21:08 投稿番号: [131 / 735]
虞美人(?〜前202)前漢代――死して花に名を止める千古の美女

死ぬべきときに死ぬ、潔ぎよく、美しく死ぬ、その覚悟の気高さ。
今、自分がどうすべきかわきまえ、そのとおりに立派に演ずる力量。
これだからこそ、なお千古の美女と称えられ、
極めつきの悲劇のヒロインとされてきたのである。

「虞や、虞や、なんじを奈何せん」とは、

お前をわが手にかけなくてはならないのか、という通哭の思いと同時に、

「虞よ、お前をどうしても連れて行きたい。
一度だってお前を離したことはなかったのだから。どうしたらよいのか」

という心のゆれも込められていたに相違ない。


項羽は名詩をつくろうと考えていたはずはない。
それだけに、その詩は自分の気持ちを正直に吐露したものとみてよい。

虞美人に、お前を連れて行きたいが、名馬の騅すらも、騅ですらも、
もはや重囲を突破することができないかもしれぬ、
だから、だからあきらめてもらいたい、と告げようとしている。


一方、虞美人も「一緒に死んでほしい」などと、役柄をわきまえぬ最低の
セリフなど、一つとして吐いていない。この覚悟の清冽さ。健気さ。


やがて廻ってきた春、虞美人の血が滴った土の上に、
端麗清楚な花が咲いた。
人々はこの花を、虞美人の生まれ代わりだと考え、
虞美人草(ひなげし)と呼んだのである。



★以上、駒田信二監修・林亮著『中国人物史100話』立風書房、より抜粋

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Re: 垓下曲(垓下歌)     項羽

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/19 21:06 投稿番号: [130 / 735]
★「時不利兮騅不逝       時利あらず騅逝かず」

「時」というのは「時運」のことで、「時不利」というのは、
「天が自分に味方してくれない」「運命の神に見放された」
ということです。

「逝」は、本来「進んで行く」というだけの意味で、
死の婉曲表現ではありませんでした。
「逝去」というのは、「どこかへ行ってしまわれた」という意味です。

なお、この第二句について、
「時利あらずして威勢廃(おとろ)え、威勢廃えて騅逝かず」
と、二つの句に分解するテキストが、かつてこの日本に存在していた
ということです。 桃源瑞仙『史記鈔』


★項羽の歌ったこの歌は「垓下の歌」というタイトルです。
この歌で項羽は、まず自分の能力を誇示し、
次に時運が自分に味方しないと嘆きます。
愛馬は一歩も前に進みません。
これも天が自分に味方してくれないということです。
天が味方してくれないのだから、もう自分に残された道は死あるのみです。
しかし項羽には二つの未練がありました。
ひとつは「虞美人」、いまひとつは「騅」。
このふたつを解決しなければ死ぬわけにはいかないのです。

このあと虞美人はどうしたでしょうか。項羽本紀には記載がありませんが
『漢書』には虞美人の死の記載があります。

虞が死に、馬を人に与えることで、やっと項羽は死ぬことができたと
考えられますが、それがすべてでしょうか。

項羽は垓下で自刎してもよかったのではないでしょうか。
なぜ項羽はさらに生き延びる道を選択したのでしょうか。
一度考えてみてください。

時に項羽三十一歳、人生を駆けぬけた速度の速さが哀れを誘います。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『史記』には、「美人和之」(美人これに和す)、とありました。

『史記』本文にはありませんが、
『史記會注考證』の割注にその歌が出ています。

〔正義〕和、音胡臥反、楚漢春秋云、歌曰、漢兵巳(ママ)略地、
四方楚歌聲、大王意氣盡、賤妾何聊生、

『楚漢春秋』という本は今は残っていません。
また、この歌は偽作説が有力ですが、そんなことを言うと興醒めですが。


漢兵巳略地       漢兵   巳に地を略し
四方楚歌聲       四方   楚歌の聲
大王意氣盡       大王   意氣盡きぬ
賤妾何聊生       賤妾   何ぞ生に聊(やすん)ぜん

漢軍はすでに天下を征服した
四方から聞こえてくるのは楚歌の声
あれほど盛んだった大王の意気も尽きてしまわれた
なんでわたしがおめおめと生きておられましょう    


★解釈はあじさいです。

垓下曲(垓下歌)     項羽

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/19 20:59 投稿番号: [129 / 735]
項王軍は垓下に塁壁を築き立てこもった。兵は少なく食料も底を盡いた。
漢軍と諸侯の連合軍は項羽軍の陣を幾重にも取り囲んだ。

夜になって漢軍の四方から楚歌が聞こえてきた。
それを聞いて項王は非常に驚き言った。

「漢はもうすでに楚のすべてを手に入れたのか。
なんと楚人(そひと)の多いことか」

項王はそこで夜起きて帳(とばり)の中で酒宴をはった。

美人(官職名)がいた。名は虞(ぐ)。
項羽の寵愛を受け常に項羽に従い項羽とともにあった。

駿馬(しゅんめ)がいた。名は騅(すい)。項羽は常にこの馬に騎乗していた。
ここにいたって項王は悲歌慷慨して自(みずか)ら詩を作ってうたった。


力抜山兮気蓋世       力山を抜き気世を蓋ふ
時不利兮騅不逝       時利あらず騅逝かず
騅不逝兮可奈何       騅逝かざるを奈何す可き
虞兮虞兮奈若何       虞や虞や若を奈何せん

俺の力は山をも引き抜き   俺の意気は天下をも蓋うほどだった
時運はかなく騅は行こうとしない
騅の行かぬをなんとしよう
虞よ虞よ   そなたをなんとしよう

★現代語訳はトピ主です


歌ふこと數回に及び、美人もこれに唱和した。

項王は涙を數行流した。左右に侍っていた者も皆うつむいて泣き、
顔を上げて仰ぎみることのできる者はいなかった。


つづく

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★白虎隊『双影遊記』に、

>或は項羽垓下の曲を詠じ、<

とありましたので、UP しました。


いずれまた折りをみて『史記』「項羽本紀」も全文ご紹介したいと
思っています。

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敕勒歌     無名氏(北朝)

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/19 20:35 投稿番号: [128 / 735]
敕勒歌            無名氏(北朝)
敕勒(チョクロク)の歌

敕勒川            敕勒(チョクロク)の川
陰山下            陰山の下(もと)
天似穹盧          天は穹盧(キュウロ)に似て
籠蓋四野          四野(シヤ)を籠蓋(ロウガイ)す
天蒼蒼            天は蒼蒼たり
野茫茫            野は茫茫たり
風吹草低見牛羊      風吹き草低(た)れて牛羊を見る

敕勒族の住む草原
陰山山脈の麓
天は円形の包(パオ)のように    
四方の曠野の上に覆いかぶさっている
天は青々と            
曠野は涯知れず
風が吹くと   草はさっとなびいて   牛や羊の姿が見える


★北斉の神武帝が北周の玉璧城を攻めたとき、
戦況は不利で帝自身も病気になった。
それを矢を受けて倒れたと宣伝されたため、帝は病を押して起き上がり、
士卒を激励するため敕勒族の猛将斛律金に命じてこの歌を唄わせ、
自らも唱和して部下の士気奮い立たせたという。

★もとは鮮卑語であったのを北斉語に翻訳したものという。

★トルコの語源はこの敕勒・チュルク。

参考 :
★松枝茂夫『中国名詩選』中, 岩波文庫
★奥平卓『漢詩名句集』PHP

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~^

★前頁の戎碰の詩に「陰山」とありましたので、これもUP しておきます。

「敕勒川」、川と書いてあるのに、意味は平原であり、
「陰山」でも山脈です。

日本人にとっては一般的ではありませんが、
「川」にはもともと「川」のほかに「はら」という意味があります。

「川原」にも「川の流域の原野」、
或いは「広々とした平原」の意味があります。
「敕勒歌」の歌詞はそのひとつの用例だと思います。


それから、日本では「山」というと、富士山とか磐梯山とか、
ひとつの山をいいますが、中国では
「山」というのは、いくつも連なった山脈・連峰をいいます。
「山」という字を見ていただけばわかるように、山が三つ連なっています。


ですから、「敕勒歌」では、
陰山山脈のふもとに広々と広がった平原のことをいっているのです。


http://www.youtube.com/watch?v=jIeYxLFmyzc

http://www.youtube.com/watch?v=p3CQlzmLPY8

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塞下曲其一     戎碰

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/19 20:14 投稿番号: [127 / 735]
塞下曲其一       戎碰(ジュウイク)(中唐・744〜800)


惨惨寒日没       惨惨として   寒日没し
北風巻蓬根       北風   蓬根を巻く
将軍領疲兵       将軍   疲兵を領(ひき)い
却入古塞門       却(しりぞ)きて入る   古塞の門
回頭指陰山       頭を回(めぐ)らして陰山を指させば
殺気成黄雲       殺気   黄雲と成る

寒むざむとした太陽は沈みゆき、あたりは薄暗い
北風は吹き荒れて、枯れた蓬の根を巻き上げる
将軍は、疲れはてた兵隊たちを引き連れ
古びた要塞の門をくぐって帰ってきた
ふり返って陰山の方を指さすと
戦の殺伐とした空気が、黄色い雲となって山脈をおおっていた


★この詩に詠われたのは、第五句「陰山」とあるように、
北方、現在の内蒙古のあたりの情景である。
その陰惨な戦場の雰囲気を、さながら一幅の絵画のように描写している。
北風が蓬を転がす荒涼たる原野、夕闇に包まれた寂寞たる砦、
生気を失った兵士の帰還、山ぎわにただよう殺伐たる黄雲。
「陰山」という名が効果的である。


★石川忠久『冬の詩100選』NHK ライブラリー


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

>白虎隊             佐原豐山

殺氣惨澹白日晦       殺氣   惨澹   白日晦(くら)し
殺気天に漲って物凄く、昼なお暗い有様である<


とありました。

上記、戎碰の詩の以下の部分と通じるものがあります。
敵陣をおおう雲が、敵兵のかもしだす殺気で黄色くなっているのが
見えるのです。

殺気成黄雲       殺気   黄雲と成る
戦の殺伐とした空気が、黄色い雲となって山脈をおおっていた


★このように、中国の西方・北方などの防衛の任務についていた
兵士の苦労をうたった詩を「辺塞詩」といいます。

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Re: 白虎隊『双影遊記』より  大江敬香

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/18 22:41 投稿番号: [126 / 735]
白虎隊亦死傷多く、餘す所は纔に廿人、退きて一丘を保し、謀りて曰はく、
今や百計既に尽く。一たび君公の安否を問ひ、以て最後の方法を採らんと。

乃ち間道より滝沢村の坂下に至り、更に西軍の射撃を避けて、
戸の口堰洞門に達し、深洞の水を乱して、辨天の祠の前に出で、
飯盛山に登り、遥かに瞰下すれば、西軍は城下に四面を填め、
炎焔天に漲り、砲声地に震ふ。纔に城櫓を煙雲断続の間に隠見するのみ。

於是乎、白虎二番隊教導役篠田儀三郎、第一に従容義に就くべきの
議を唱え、以て衆に謀る。
隊士の一人、井深茂太郎、之を駁して曰はく、吾が家を出るの時、
慈母懇ろに吾を誡め、仮令ひ敵兵城下に攻寄来るも、鶴城は堅固にして、
決して落城するの虞なし。汝、戦、利あらずして退く時は、
滝沢村より南に出で、城の南門より入るべしと謂ひ給へり。
因て今より南に出で、背面より西軍を追撃し、以て入城の計を決せんと。

然れども望中無数の西軍、城に向て進行し、衆寡固より敵すべからず。
且つ時機已に後れ、到底其の目的を達する能はざるものと、衆意一致
したれば、此の駁説行はれずして、殉死以て本分を尽すに一決せり。

然るに永瀬雄次は、腰部に銃丸を受け、歩行自由ならず。
衆相扶けて飯盛山に来りたる者なれば、切に同人の介錯を求め、
野村駒四郎、之が介錯を為したり。

於是乎、或は楠公七生の言を唱え、或は張巡戦死の章を誦し、
或は文天祥正気の歌を吟じ、或は項羽垓下の曲を詠じ、
或は慈母の与へし和歌を拈り出して吟し、
以て君公と父母とに告別するや、咽喉を貫く者あり、割腹する者あり、
<耒禺>刺する者あり、
碧血空しく秋草を染むるの悲劇を演ず。

抑衆意一致死を決せし所以のものは、鶴城は既に落城し、君公を初め、
父母共に国難に殉ぜしと信じ、且つ平素学校及び家庭に於て、
君辱めらるれば臣死すの教育主義に薫陶せられたるの結果に外ならず、
屍を馬革に裹まずして骨を風雨に淋す。

吁、何ぞ夫れ惨なるや、会津人士の典型は此れに在りて存するなり。

(飯沼貞吉は自刃したるも、藩士印出新造の妻に看護せられて蘇生し、
後政府に仕えて逓信技師となり、仙台に老せりと云ふ。)


★教導役・・・今の軍曹の如きもの。

★張巡(709〜757)・・・唐の玄宗の忠臣。安禄山の乱のときに<目隹>陽城を
死守したが、落城して捕虜となるも、賊を罵りながら死んだ。

★屍を馬革に裹(つつ)む・・・馬の革で屍を包む。
兵士が戦場で討ち死にすること。勇士が戦死を本懐とすること。

.

白虎隊『双影遊記』より     大江敬香

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/18 22:30 投稿番号: [125 / 735]
■白虎隊『双影遊記』より       大江敬香

  飯盛山の形勝は幽邃を以て勝る。
・・・車を下り・・・山門に入る。
辨天祠あり、祠前に清流あり、祠側に深洞あり、水は祠を穿ち滾々として流る。
六石君曰はく、戊辰の役、八月二十三日、白虎隊の少年、戦敗るるや、
戸の口堰洞門に路を取り、此の深洞の水を乱りて茲に出でたる遺跡なりと。
水声依然旧を語るものに似たり。
石径を上り、栄螺塔を見、其の奇構宛も栄螺に摸したるに驚き、
歩して其の内部に入れば、段階あり、旋転上下するの工夫を凝らせしものに
して、挂くる所の額面は、皆孝子の善行を表彰せし絵画に非ざるは莫し。

余は一経過の間に於て、其意を用ふるの周到なるに応ず。
転じて宇賀神堂を過ぐ。
中に白虎隊十九人の肖像を蔵す。少年の豊姿、写して真に逼り、
温然且威風ある処は、自ら人を動かすものあり。
更に石階を上り、左顧すれば十九人の墳墓あり。
明治廿三年、其の廿三回忌辰に値ひ、建設する所に係る。
伊呂波順を以て序次す。

★少年の豊姿、の「豊」は、UP されませんので字を代えてあります。
もとの字は、|四画   フウ・ホウ   です。

曰はく、井深茂太郎十六歳、曰はく、石山虎之助十六歳、
曰はく、伊藤俊彦十六歳、   曰はく、石田和助十六歳、
曰はく、池上新太郎十六歳、曰はく、伊藤悌二郎十七歳、
曰はく、林八十次十六歳、   曰はく、西川勝太郎十六歳、
曰はく、津川喜代美十六歳、曰はく、津田捨蔵十六歳、
曰はく、野村駒四郎十六歳、曰はく、梁瀬勝三郎十七歳、
曰はく、梁瀬武次十六歳、   曰はく、間瀬源七郎十七歳、
曰はく、有賀織之助十六歳、曰はく、安達藤三郎十七歳、
曰はく、篠田儀三郎十七歳、曰はく、鈴木源吉十六歳、

皆自刃の二字を名字年齢と与に石に刻し、以て千秋に朽ちざらしむ。
余・・・墓前に拝跪し、一杯の水を薦め、一爐の香を焚き、
瞑目数刻、以て忠魂を弔す。

★六石君・・・佐藤六石。大正三年、大江は六石の案内でこの地に遊んだ。


  戊辰八月廿二日、西軍猪苗代を発し、破竹の勢に乗じ猛進するの
報あるや、会津城兵少なく、壮者は出で四境を守り、老者は運輸に困弊す。
城中の議、白虎二番隊を隊長日向内記に属し、出発せしむ。
一隊踴躍して出で、戸の口に至れば、西軍大小の砲弾雨の如く落下す。
然れども互に叫んで曰はく、一死国に殉ずるは此の時に在りと。
進んで藩の諸隊と合し、奮闘し、殺傷相当る。
夜半乃ち歇む。

翌廿三日、暁霧深くして咫尺を辨ぜず。
秋雲暗澹たり。既にして風起り、雨益々繁し。
白虎隊少年、此の機に乗じ、死を決して西軍に薄り、進撃二丁餘に至るや、
西軍大挙来り攻む。砲声恰も百雷の一時に落下する如し。
会兵死力を尽し防禦に労すと雖も、衆寡敵する能はず。
時に風益々大に、雨益々急なり。
西軍之に乗じて勢を加ふ。会兵終に支ふるに道なく全軍殆ど覆滅の状あり。


つづく

白虎隊     佐原豐山(盛純)

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/18 21:54 投稿番号: [124 / 735]
白虎隊             佐原豐山(盛純)(1825〜1908)


少年團結白虎隊       少年團結す白虎隊
國歩艱難戍堡塞       國歩艱難   堡塞(ほうさい)を戍(まも)る
大軍突如風雨來       大軍   突如   風雨のごとく來(きた)る
殺氣惨澹白日晦       殺氣   惨澹   白日晦(くら)し

明治戊辰の役に、会津藩の少年は、
団結して白虎隊を編成し、官軍を邀え撃った
一国の危殆艱難に当たって、健気にも堡塁を守ったのである
数千の大軍が突如、嵐の如く颯到すれば
殺気天に漲って物凄く、昼なお暗い有様である

①鼓喧②百雷震       ①鼓(へいこ)喧②(けんてん)百雷震ふ
巨砲連發僵死堆       巨砲   連發   僵死堆(うづたか)し
殊死突陣怒髪立       殊死   陣を突いて怒髪立つ
縱横奮撃一面開       縱横   奮撃   一面開く

①「鼓」の下に「卑」
②モンガマエの中に「眞」

両軍の陣太鼓の音はかまびすしく鳴りわたり、百雷の一時に震うが如く
うち出す大砲は小やみもなく雨霰とふりそそぎ、
戦死者の尸骸は重なりうづ高くなったが
少年隊士はものともせず、決死の勇を奮って敵陣に突入し、
怒髪天を衝くの勢いで縦横に奮戦し、やっと一方の血路を開いた

時不利兮戰且退       時利あらず   戰ひ且つ退(しりぞ)く
身裏瘡痍口含藥       身には瘡痍を裏(つつ)み   口には藥を含む
腹背皆敵將何行       腹背皆敵   將(はた)何(いづ)くにか行かん
杖劔輭行攀丘嶽       劔に杖(よ)り輭行して丘嶽を攀(よ)づ

いかんせん、多勢に無勢、心はやたけにはやれども、時は我に不利となり、
じりじりと押されて、戦闘を交えつつも退いた
いずれも数箇所の傷口を繃帶につつみ、口には気つけ薬を含んで
さて、いずこに行こうかと見廻せば、前も後も屈強の敵軍である
よろける身を剣にもたせつつ、間道づたいに飯盛山に攀(よ)じのぼった

南望鶴城砲煙●       南   鶴が城を望めば砲煙●(あが)る
痛哭飲涙且彷徨       痛哭   涙を飲んで且(しばら)く彷徨す
宗社亡兮我事畢       宗社亡びぬ   我が事畢(をは)る
十有九人屠腹僵       十有九人   屠腹して僵(たふ)る

お城はどんな様子かと、南の方鶴ヶ城を望めば、砲火につつまれ、
黒煙が濛々と立ちのぼっている
さては落城、君公にも御自刃なされたかと、一同声を放って哭きながら、
しばらくやきつもどりつした後
「ああ、これでわが藩も亡びた、われら臣子のつとめもこれまでぞ」と、
衆議一決、十九人の少年は一斉に腹かき切って僵(たお)れたのである

俯仰此十有七年       俯仰   此に十有七年
畫之文之世輭傳       之(これ)を畫(ゑが)き之を文にして世輭に傳ふ
忠烈赫赫如前日       忠烈   赫赫   前日の如し
壓倒田横麾下賢       壓倒す   田横麾下(きか)の賢

歴史は移り世は変わったが、ここに十七年の歳月を経て、
今なお俯仰感慨に堪えないものがある
そこで、或いはこれを画にし、或いはこれを文にして、
盛んに世間に伝えている
大人も及ばぬ彼らの忠烈な精神は赫々とかがやき、
あたかも昨日のことのように思われる
漢に屈せず、斉の田横に殉死した五百の賢士に劣らぬばかりか、
壮絶寧ろこれを圧倒するものがあるのである


★猪口篤志『日本漢詩』下, 明治書院, 新釈漢文大系 46

.

至純のこころ  都議会議員土屋たかゆき

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/18 21:51 投稿番号: [123 / 735]
■至純のこころ
http://www2u.biglobe.ne.jp/~t-tutiya/cgi-bin/sf2_diary/sf2_diary/

私は、選挙前、226・動乱・そして、会津白虎隊を描いた映画を見る。

共通するものは、至純のこころだ。

堀内孝夫の「愛しき日々」でも有名だが、
その歌詞の先頭に次のようなものがある。

【風の流れの 激しさに告げる想いも 揺れ惑うかたくなまでの
ひとすじの道愚か者だと 笑いますか   もう少し時が ゆるやかであったなら
雲の切れ間に 輝いて空しい願い また浮ぶひたすら夜...】

http://www.youtube.com/watch?v=abdoobSe3kg
   歌
http://www.evesta.jp/lyric/artists/a1179/lyrics/l26527.html
   歌詞

今の政治。
この至純な気持ちがないと思いませんか。

生真面目すぎたまっすぐな愛   不器用者と笑いますか・・・
と歌詞は終わる。

徳川に最後まで忠節を貫き、「賊軍」の汚名をかぶってまで、
最後まで至純な気持ちを捨てなかった。

それは、226の将校も、特攻で散華した先輩たちも同じだ。

もう、これ以上、書く気にならない。

※会津藩の子供は毎日、当番の家に集まります。
そして最年長の什長の指示に
したがって「什」の誓ひ(掟)」というのを大声で復唱します
その中で、着目すべきは「ならぬものはならぬのです」とあります。

※会津が陥落した後、ある少年が、
「西軍」(会津では官軍を、こう表現します)
の藩士の子供からばかにされました。
少年は、これは藩に対する侮辱を受けたと自害します。
今風に言えば、プライドを守ったのです。

2010年7月19日(月) No.539

======================================================

カラオケに行くと、わたしはしばしば、この   ↓   歌をうたいます。
みな、まじめな顔になってじっと聞いてくれます。日本人の心です。

http://www.youtube.com/watch?v=xtLdpciuyaQ&feature=related

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新島八重

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/18 21:32 投稿番号: [122 / 735]
7月18日付   編集手帳
  1868年、熾烈(しれつ)を極めた戊辰戦争の会津・鶴ヶ城攻防戦で、
24歳の女性がいた。戦死した弟の服を身に着け、髪を切り、
自ら銃を取って砲煙の中を駆け抜けた

◆<幕末のジャンヌ・ダルク>は、維新後、同志社大を創設した新島襄の
妻となる。2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、
新島八重である

◆地元の会津若松市は、これまでも数多くの歴史物の舞台になってきた。
だが、今回の「大河効果」に寄せる期待はかつてなく大きい。
震災と原発事故で自慢の観光業が壊滅状態だからだ

◆福島原発から100キロ離れていても「放射能が怖い」と観光客の足は
遠のく。春の修学旅行客は昨年より9割も減った。
市内の温泉宿は原発周辺から避難した大勢の被災者を受け入れ、
通常営業どころではないという

◆鹿児島県や山口県が観光支援に乗り出したというのがいい。
かつての宿敵、薩摩・長州も会津の窮状を見かねてということだろう。
どんな苦境でもくじけない。あきらめない。そして未来を信じる。
激動の時代を生き抜いた八重の生涯にこそ<会津復活>へのヒントが
隠されているかもしれない。

(2011年7月18日01時19分 読売新聞)

.

Re: 仏説観無量寿経  王舎城の悲劇

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/18 21:30 投稿番号: [121 / 735]
★現在起こっていることは因果応報によるものだから、
前世において自分の撒いた種は自分で刈りとらねばならない。
釈迦が現れたからすぐ解き放たれるというものではないのです。

★このあと、

時、韋提希、見佛世尊、自絶瓔珞、擧身投地、號泣向佛、白言、
世尊、我宿何罪、生此惡子。世尊復有何等因縁、與提婆達多、共爲眷屬。
唯願世尊、爲我廣説無憂惱處。我當往生。

というふうに続きます。

そのとき韋提希は、世尊のお姿をご覧になると、
身を飾っていた宝飾類をひきちぎり、その身を地面に投げ出し
号泣して世尊に向かって申し上げます。

「世尊よ、
わたくしに何の罪があって、このような悪い子が生まれたのでしょうか。
世尊もまたどのような因縁があって、提婆達多(ダイバダッタ)のような
ものとご親戚なのでしょうか。

今、わたくしが世尊にお願いすることはただひとつ、
わたくしのために佛国土(極楽・ユートピア)について説法をして
いただきたいということです。
わたくしは、そこに往生したいと思います。」


というように続きます。

そこで釈迦は、韋提希夫人とそこにいあわせたものたちのために
佛国土とはどのようなところか、詳しく説明されます。
また観相、観法について教授されます。


佛國土についての内容は、「佛説阿彌陀經」とも重なります。
いずれまた折りをみて、「佛説阿彌陀經」もUO したいと思っています。
まあ、たいして面白いものではありませんが。


★ここからあとは物語性がなく、ばちあたりなトピ主にとって
特に面白いとは思えないので、以後は割愛し、「仏説観無量寿経」は
ここまでといたします。


3179

           ――   了   ――

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