紫陽花亭日乗

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Re: 志士の先蹤     坂田新

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/21 21:03 投稿番号: [151 / 735]
  ここに、すでに志士は常に安んじて死を受け入れる者、
志士はすなわち死士と言いかえることができるような意味合いがある。
そうした志士の語を受けて、『孟子』滕文公篇下には「志士は溝壑に在るを忘れず」
とあり、漢の趙岐注に
「志士は義を守る者なり。君子固より窮す、故に死して棺椁(カンカク)無く、
溝壑に棄てられて恨みざるを念う」
といい、朱子の『孟子集注』もほぼ趙岐注を踏襲する。

  こうしてみると、志士の語は少なくとも春秋戦国の時代からすでに存在
しており、身命を賭して何事かをなそうと志すものをいうのであった。
そうした志士と呼ばれる人々は、むろんその後いつの世にも存在していた
はずだが、やがて日本での我々の用語としては、もっぱら幕末期に国事に
奔走した志士だけをさす、もっとも意味を狭めた使い方が行われるようになった。
本書でも、おおむねその意に用いている。

  それならば、いわゆる志士、すなわち幕末の志士とは、
いつごろからの人たちを数え上げることができようか。
実際に幕末に志士活動をおこなった人々の閲歴のなかで、
「癸丑以来」ということがしばしば語られている。
みずのとうし、嘉永六年(1853)というのは、この年の六月にアメリカの
ペリー提督が軍艦四隻をひきいて浦賀に来航し、開国を求める大統領親書を
受理せよと幕府に迫り、それのみか戦闘態勢で江戸湾に侵入して、
八百八町の人々に大きな動揺を与えた。
それまでにもオランダ国王の開国勧告の国書が長崎奉行を通じて幕府に
届けられていたり、弘化三年(1846)閏五月にはアメリカのビッドル提督が浦賀に
来航、嘉永二年(1849)閏四月にはイギリス艦マリーナ号が同じく浦賀で湾内の
測量をするなど、西欧諸国の外圧をある程度は感ぜざるをえなかったものの、
ペリー一行の態度はそれまでの来航者に比して著しく威嚇的であって、
朝野をあげての黒船騒ぎになってしまった。

  それまでは一部の先覚者を除いて、時の流行りことばで攘夷と叫ぶことは
あっても、実際にはさほどの切実さもないまま、多くはのんびりと太平の夢を
むさぼっていたものが、いよいよ夷狄が日本へ踏みこんでくるかもしれぬと、
全国一様に身近な危機と感ずるようになったこの癸丑の年から、急きたてられる
ような憂国の思いにかられて、にわかに志士活動に入っていった者は少なくない。
ちょうどこの年、土佐から江戸へ剣術修行に出てきた坂本龍馬が、
九月二十三日付けで父直足に宛てた手紙に、
「異国船処処に来航由なれば、いくさも近き内と存じ候。
その節は異国の首を打取り帰国仕るべく」
云々と書いているのは、当時の青年たちの素朴な覚醒の姿である。
やがて目覚めた青年たちは、志士となって幕藩体制の垣を乗り越え、
全国に同憂の士を求め、互いに所信を語り合うようになった。

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★坂本龍馬も訪れて剣術の試合をしたという、山口県萩市明倫小学校内にある
有備館道場。明倫小学校は、もと毛利藩藩校明倫館。

http://www.city.hagi.lg.jp/portal/bunrui/detail.html?lif_id=10248


つづく

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