紫陽花亭日乗
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子夜歌 李莘
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/21 01:24 投稿番号: [680 / 735]
子夜歌
李莘(南唐後主・937〜978)
人生愁恨何能免
人生
愁恨
何ぞよく免れん
銷魂獨我情何限
銷魂
獨り我
情
何ぞ限りあらん
故國夢重歸
故國
夢に重ね歸れども
覺來雙涙垂
覺め來りて
雙涙垂る
高樓誰與上
高樓
誰とともにか上らん
長記秋晴望
とこしなへに記す
秋晴のながめ
往事已成空
往事
已に空と成り
還如一夢中
なほ
一夢の中の如し
人の世に愁い・恨みは
誰しもあるが
わが情(おもい)
かぎりなく
魂(たま)果てるばかり
ふるさとへ
夢路に帰り
めざめては
しとどの涙
あのひとと
のぼった高楼(たかどの)
すぎた日は
むなしく消えて
いまはただ
夢さながらよ
★李莘は唐(618〜907)末五代(907〜960)、南唐の最後の天子で、
一般に「李後主」と呼ばれています。
975年、南唐は宋に滅ぼされ、李莘は囚われの身となり宋の首都
○京(べんけい・現在の河南省開封)におくられ、この地で死にました。
○サンズイ+点+下
李莘の誕生日は七月七日すなわち七夕の日なのですが、
奇しくも、978年の誕生日、七夕の夜の宴会のとき作った
「虞美人」の中の詩の
「故国不堪回首月明中」という句を、太宗が聞いて怒り
毒殺させたという説もあります。
書画・音曲に秀で、詞では唐五代を通じその右に出る者はいないといっても
過言ではないといわれるほど、すばらしい芸術的才能にあふれた人でした。
現存する詞は三十四首あります。
その半数以上が亡国以前の華麗な作であり、
亡国以後は幽囚の悲哀をこめた作が多くあります。
後者の「浪淘沙令」は、失ったすべてのものを取り戻すよすがもない
悲哀をうたい古今の絶唱といわれています。
★「詞」とは、
中唐のころに起こった新しい民間歌謡の歌詞として生まれたものです。
のちに王侯貴族によっても作られ愛誦されるようになり、
宋代に全盛期を迎えます。
★もともとは樂府題ですでに曲がついており、その曲にあわせて歌詞を
つくりました。
ですから、詞のタイトルと歌詞の内容は、かならずしも一致しません。
正式には「曲子詞」といい、省略して「詞」といいます。
.
これは メッセージ 679 (ajisai110701 さん)への返信です.
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浪淘沙令 李莘
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/21 01:09 投稿番号: [679 / 735]
浪淘沙令
李莘(南唐後主・937〜978)
簾外雨潺潺
簾外に雨は潺潺(せんせん)たり
春意闌珊
春意闌珊(らんさん)たり
羅衾不耐五更寒
羅衾(らきん)は耐へず五更の寒きに
夢裏不知身是客
夢の裏(うち)に身は是れ客(かく)なるを知らずして
一餉貪歡
一餉(しばし)歡びを貪り
獨自莫憑欄
獨自(ただひとり)欄に憑ること莫かれ
無限江山
無限の江山
別時容易見時難
別れる時は容易(たやす)きに見(まみ)へる時は難し
流水落花春去也
流水落花
春去りゆきぬ
天上人間
天上人間(じんかん)
簾(すだれ)の外は
雨しとしとと
春の意(こころ)は
深まって
五更(あけがた)は
うすい衾(しとね)に
寒さ耐えがたく
とらわれの
わが身のこと
夢では忘れ
しばらくは
たのしみたるに
やめよ
欄干(おばしま)に
ひとりしずむは
江(かわ)も山も
はてないに
別れるは
たやすくて
逢うは難(かた)しとや
水は流れ
花は散り
春は彼方へと過ぎていく
天(あま)つ空にか
人の世にか
★獨自莫憑欄
莫=暮の意にもとれます。
★浪淘沙
ながくも聲をふるはせて
うたふがごとき旅なりしかな
石川啄木
★参考書
倉石武四郎編『宋代詞集』平凡社・中国古典文学大系20
.
これは メッセージ 678 (ajisai110701 さん)への返信です.
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虞美人 李莘
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/21 00:57 投稿番号: [678 / 735]
虞美人
李莘(南唐後主・937〜978)
春花秋月何時了
春花秋月
何(いず)れの時か了(きわ)まる
往事知多少
往事
知んぬ多少(いくばく)ぞ
小樓昨夜又東風
小樓に昨夜又も東風
故國不堪回首月明中
故國は回首するに堪へず
月明の中(うち)
雕欄玉砌依然在
ちょうらん
ぎょくぜい
依然として在る
只是朱顏改
只だ是れ朱顏のみ改まり
問君能有幾多愁
君に問ふ
能く幾多の愁ひ有りや
恰似一江春水向東流
あたかも似たり一江春水の東に向かって流るるに
春は花
秋は月
おわりなき世に
すぎにしことの
いくそばく
わびずまい
昨夜(よべ)またも
春の風たつ
ふるさとを
ふりさけみれば
胸もはりさく
月照るなかに
玉の欄(てすり)
石だたみ
むかしのままに
わが顔(おもわ)
はや
うつろいて
つもる愁いの
いくそばくと
人問わば
春の江(かわ)
みなぎりたるに
さながらよ
東へ流るる
★恰似一江春水向東流
ここが有名ですね、映画の題名にもなっていたのではなかったですか。
支那では、たいてい、水は西から東に向かって海に流れこみます。
★参考書
倉石武四郎編『宋代詞集』平凡社・中国古典文学大系20
.
これは メッセージ 677 (ajisai110701 さん)への返信です.
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烏夜啼 李莘
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/21 00:42 投稿番号: [677 / 735]
烏夜啼
李莘(南唐後主・937〜978)
無言獨上西樓
言(ことば)も無く獨り西樓に上れば
月如鈎
月は鈎の如し
寂寞梧桐深院
鎖芿秋
寂寞たり梧桐しげる深き院(には)清秋を鎖せる
剪不斷
剪りて斷たれず
理還亂
理(おさ)めて還た亂るるは
是離愁
是ぞ離(わか)れの愁ひ
別是一般滋味
在心頭
別に是れ一般の滋味の心頭に在り
言葉もなく、一人、高殿にのぼれば
三日月はほっそりと鉤のよう
青桐の繁る奥深い院(にわ)は寂しげな秋の気配を閉ざしている
別離の悲しさは断ち切ろうとしてかなわず
整えても、また乱れてしまう
さりながら、言い知れぬ深い味わいが胸をひたすのだ
★詞はこの相見歡という詞牌ですが又の名を烏夜啼ともいいます。
★南唐後主・李莘は、七夕の生まれでした。
宋に滅ぼされ開封に幽閉され、殺されました。
★「江南出才子、山東出大将、咸陽原上埋皇上」
といいます。
李莘は国王としては失格でも、文藝の面で「江南才子」ですね。
.
これは メッセージ 675 (sennin_0630 さん)への返信です.
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Re: 烏夜啼 李莘詞、他
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/21 00:29 投稿番号: [676 / 735]
こんばんわ、
きちんと現代の曲がついて、テレサが歌っていたのですね。
詞は樂府題に、いろいろ歌詞をつけたものですから。
テレサの背景の月が満月で、ちょっと気になりますね。
衣装がとても美しい。
チャイナドレス(旗袍)は、何着か持っていますが、こういう襟のものを
持っていないので、昔はほしいなと思っていたのですが、特殊で
買っても仕立てても、たぶん着ていくところがない。
ずっと以前に「海上花」という映画をみたことがあります。
日本の女優が主演していました。
上海の花魁(おいらん)の恋を描いた映画でしたが、やはりこういう衣装で
豪華絢爛といった印象でした。
この映画の原作は張愛玲(チャン・アイリン)となっていますが、
ストーリイは、清代の韓邦慶『海上花列伝』を下敷きにしていると思いました。
衣装はすばらしい、女優さんも美しい・・・
なのですが、なにかジャンケンばかりして遊んでいて退屈な映画で
途中でいねむりをしたことを覚えています。
.
これは メッセージ 675 (sennin_0630 さん)への返信です.
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烏夜啼 李莘詞、他
投稿者: sennin_0630 投稿日時: 2011/10/20 16:08 投稿番号: [675 / 735]
これは メッセージ 674 (toshiro_1512 さん)への返信です.
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烏夜啼、他
投稿者: toshiro_1512 投稿日時: 2011/10/20 13:03 投稿番号: [674 / 735]
これは メッセージ 1 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/19 21:21 投稿番号: [673 / 735]
秋になり、家の表にも裏にも毛虫が繭を編み、
さまざまに美しい蝶・蛾になった。
幼夫が故意に蕭蕭を苦しめているようなものだった。
数ヶ月前、毛虫に刺され手が傷だらけになったことがいつも思い起こされ、
蕭蕭はつらかった。
だから蕭蕭は毛虫を憎み、見つけしだいその小さな虫を
足で踏みにじりたくなった。
ある日のこと、また幾人かの女学生が通って行ったと耳にした。
そのことをきいた蕭蕭は忽然大悟、一場の夢を見た。
ぼんやりと、何をするでもなく、太陽に向かって長い時間を過ごした。
自分も花狗(ホアゴウ)のように逐電しようと思った。
少しばかりの荷物をまとめ、女学生の通過した道をたどり城内に行こうとした。
しかし、まだ出発しないうちに家人に発覚するところとなった。
このような計画は田舎の人にいわせれば一大事件であったから、
蕭蕭の両手は縛り上げられ、まる一日食物も与えられず台所に放置された。
家中でこの逃走の理由を追及し、ようやく、
今より十年の後、幼夫に与え男の子を産ませ祖先を祀らせるつもりで
あった蕭蕭の腹が、すでに他の男によって横取りされ先に種をまかれて
しまっていたことがわかった。
このことは一家の生活の中でまったくのところ尋常でない大事件だった。
一家の平穏な生活はこの新たなできごとのためにすべてめちゃくちゃになった。
怒るものは怒り、泣くものは泣き、罵るものは罵り、
それぞれがその本分に応じててんやわんやの大騒ぎとなった。
首つりか、溺殺か、毒薬の服用か、
禁足となった蕭蕭には、諸事すべてがはてしなく想像された。
結局のところ、まだ年端がゆかないから死なせるのは惜しい
ということで前例に従わないことになった。
そこで祖父が現実に鑑み、賢明な案を思いついた。
蕭蕭を閉じ込めしっかり見張りをつけたうえで、蕭蕭の実家のものを呼び、
しきたりにのっとって「淵に沈める」か「売りに出す」か
を選択させることにした。
蕭蕭の家人はメンツを重視したし、溺死させるのも惜しいということで、
売りにだすことにした。
蕭蕭にはたったひとりの伯父がおり、近隣の村で作男をしていた。
知らせを受けた伯父は、まず使いが酒でも飲んでいるのかと思った。
この面目次第もない事情をようやく呑み込んだとき、
この実直温厚な家長は周章狼狽、どうしてよいかわからなかった。
大きな腹が動かぬ証拠だ。
言う言葉もなかった。
しきたりに照らしたうえの溺殺のほとんどは「子曰」を学んだ族長が
メンツを慮ってひねりだした馬鹿げた処置である。
伯父は「子曰」を学んだことがなかった。
蕭蕭を犠牲にするに忍びず、蕭蕭を妾にやるというなりゆきになった。
これもまた一種の処罰であり、きわめて自然なことのように思える。
しきたりに照らせば、損失を蒙ったのは幼夫の家だが、しかしながら
蕭蕭を売りまとまった金を得ることは、損失の賠償となるのだ。
伯父はこのことを蕭蕭に告げ、立ち去ろうとした。
蕭蕭は伯父の衣服をつかんで放さず、しくしくとすすり泣くばかりであった。
伯父は一度首を振り、何も言わず、そのまま立ち去った。
それからしばらく、人買い目的の人が蕭蕭を求めてやって来ることもなく、
どこか遠くに遣ろうにも買い手はつかず、という事情で、
蕭蕭はしばらくはそのまま幼夫の家にいた。
こうなることは経験からいってわかりきっていたし、田舎のしきたりに
よってもまた何ら重要案件でもなく、ただ処分を待つのみで、
みなはかえってさっぱりとしたものだった。
★「子曰」
「子の、曰(のたまわ)く」。「子、曰(いわ)く」。
(孔)先生がおっしゃった。
『論語』の記述の多くは、この言葉ではじまっています。
すなわち、中国の庶民と儒教は無関係ということです。
ほとんど文盲でしたから。
つづく
5883
これは メッセージ 672 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/19 21:13 投稿番号: [672 / 735]
その半月後、花狗(ホアゴウ)はなんの挨拶もなくいなくなった。
自分の衣服すべてを持ち去っていた。
祖父は一緒に寝起きしていた作男の唖巴(ヤーバ)に、
花狗がなぜ逃げたのか、どこへ行ったのか知らないかきいてみた。
山中に入って山賊になったのか、それとも薛人貴になりに軍隊に志願したかと。
唖巴は首を横に振るばかり、花狗に貸した二百銭をまだ返してもらっていない、
出立にあたって一言のことわりもなく、良心がないと言った。
唖巴(ヤーバ)は自分のことばかり言い、
決して花狗が出奔した理由を説明しようとはしなかった。
このことにより、この一家はまるまる一日不審の念で、
まるまる一日がこの話題でもちきりだった。
けれどもこの作男は何も盗んでいかなかったばかりか、
誰かをかどわかしたわけでもなかったので、
この事件の後ほどなくして花狗のことは忘れ去られた。
蕭蕭が蕭蕭であることにかわりはない。
蕭蕭が花狗のことを忘れることができたのはなによりだった。
しかしながら腹のほうには些かの変化があった。
腹のなかのものはいつも動いており、それは蕭蕭をして常に焦燥感を抱かせ、
へんてこな夢ばかり見せた。
蕭蕭は少しとげとげしくなった。
その性格の悪さについては、幼夫ひとり知るのみだった。
なぜなら蕭蕭は幼夫に対してかなり厳格苛酷になったようだから。
あいかわらず幼夫とともに過ごす毎日だったが、
蕭蕭の心に浮かぶ方策は、自分でも充分に賢明とは思えなかった。
蕭蕭はいつも思った。
すぐにでも死にたい、もうどうでもよくなった。
しかし、どうして死ななければならないのか。
彼女はそれでもこのまま生きていくことに大きな喜びを感じていた。
このまま生き続けたいと思った。
家中で誰かがなにげなく持ち出す幼夫の弟の話題、幼夫のこと、
花狗の話題はみな、蕭蕭の胸に拳骨で殴られたような
ずしりとした衝撃を与えた。
九月になり、蕭蕭は、更に知る人の多くなることを気に病んだ。
幼夫をつれて廟に行ったとき、人知れず願をかけひとつかみの線香の灰を食べた。
それを幼夫に見られ、なぜそんなことをするのかときかれた蕭蕭は、
おなかが痛いときはこうするのよ、と答えた。
菩薩のご加護を求めても、菩薩は当然のことながら蕭蕭の願いをおききいれ
にはならず、腹の中のものは依然としてゆっくりと成長していた。
蕭蕭はまた、渓に行ったときにはいつも冷水を飲んだ。
幼夫に見られ、尋ねられると、蕭蕭は、のどが渇いたのよ、と答えた。
蕭蕭の思いついた方法のすべてが、
自分の好ましくないものを切り離すには効果がなかった。
大きな腹のことは幼夫のみが知っており、
幼夫は敢えてそのことを父母に告げるることはしなかった。
なぜならば、時の流れとともに、年齢は異なってはいても、
幼夫はときとして蕭蕭へのおそれと愛情は、父母に対するよりも
いっそう深いものを抱いていたからである。
蕭蕭はまだ覚えていた、花狗が誓いをたてたあの日のことを。
覚えているその他のことと同じくらいには。
★薛仁貴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%9B%E4%BB%81%E8%B2%B4薛仁貴(せつじんき。仁貴は字で、名は礼)、中国の唐前期の武将。
618生〜683没。
農家の生まれだったが武の道に生きることを望み、
太宗・李世民の高句麗遠征で歴史の表舞台に登場した。
唐軍が敗走寸前だったところに、白い甲冑をまとい白馬に乗った薛仁貴が
現れて単騎で敵陣に切り込み、高句麗兵を斬り倒して敵将の首まで挙げた。
彼の奮戦もあって、唐軍はこの戦いに勝利した。
つづく
5882
これは メッセージ 671 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/19 20:56 投稿番号: [671 / 735]
花狗が蕭蕭をたぶらかし、悪事をなしたのは麦の熟する四月のこと。
そして六月になると、李(すもも)の実が熟した。
蕭蕭は生の李を好んで食べるようになった。
自分でも、身体にいささかの変化を感じた。
山で花狗と出遭ったときそのことを花狗に告げ、たずねた。
どうしようか。
しばらく話し合ったが、花狗にはなんの名案も浮かばなかった。
以前、みずからあのとき誓いはしたが、依然として対策はたててなかった。
もともと、こやつはなりが大きいばかりで肝は小さい。
身体が大きければ誤りは犯しやすいが、
肝が小さければ、過誤に対して善処する方法は思いつかない。
そうこうしているうちに、蕭蕭はカサンドウ(大蛇)のような大きなおさげを
いじくりながら、城内(まち)のことを思いついた。蕭蕭は言った。
「花狗(ホアゴウ)にいさん、うちら、城内へ行けば自由だわ。
生活はなんとかなるやろ。どうかしら」
「どうやって?
城内へ行ってどうするんだ? 」
「うち、おなかがめだってきたし」
「薬をさがしてこよう。市(いち)に薬を売っている医者がいる」
「はやく、その薬、買ってきて。
うちは・・・・・」
「おまえは、城内に逃げて自由になりたいと思っているが、それはだめだ。
知り合いはいないし、乞食をするにも掟ってもんがある。
好き勝手にはできない ! 」
「あんたってひとにはには良心がないんだ、あんたのせいよ、
うちは、死んでしまいたい ! 」
「誓って責任をとるから」
「責任をとるとか、とらないとか、うちにとって何のたしになるの、
なんとかして。おなかの中の肉をはやくとってよ。うちは、恐い ! 」
花狗は黙りこくってしまい、しばらくするとそのまま行ってしまった。
ほどなく幼夫がよそから大きなサンザシの実を持って戻ってきた。
蕭蕭が目を真っ赤に泣きはらし、草の上にぽつんと座っているのを見て、
幼夫は不審に思い、ちらと蕭蕭を見てたずねた。
「ねえちゃん、なんで哭いてるの ? 」
「なんでもないよ。ゴミが目の中に入って痛いのよ」
「ぼくが吹いてあげる」
「だいじょうぶ」
「みてみて、こんなものとってきたよ」
幼夫は手にしたもの、と渓で拾ってポケットの中にしまってきた
ドブガイや小石のありったけを蕭蕭の前に並べてみせた。
蕭蕭は涙に濡れた目でぐるりと見回し、無理やり笑顔をつくり言った。
「弟弟(ディーディ)、うちら、仲良しだよねえ。
ねえちゃんが哭いていたことを家の人に言っちゃだめよ。
家の人に言ったら、ねえちゃん怒るよ ! 」
その後もこのことは、家人の誰ひとり知るものはなかった。
★城内(まち)
都市国家のなごりで、古代より人の居住するところは城壁でかこまれていました。
農村からみれば、城内は都会であり繁華街です。
★医者
原文は「郎中」。
方言で、漢方医のこと。
つづく
5881
これは メッセージ 670 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/19 00:57 投稿番号: [670 / 735]
★投げた梭の三ヶ月間
原文「抛三个月的梭子了」・・・三ヶ月間梭(ひ)を投げた。
機織り作業で梭(ひ)を動かす動作が抛り投げるようであることから。
★螺螄山・・・ルオスー山
「螺螄」は、ニシ貝、まきがい、のこと。★
花狗は蕭蕭に対しよからぬ下心を抱いていた。
蕭蕭はある程度それを察し、不安でびくびくしていた。
だが花狗は男であり、おおよそ男の美徳悪徳はすべて備えていた。
労働するに力があり、手足の動きはまめで、そのうえ冗談もうまい。
だから一面では、蕭蕭の幼夫と遊んでやってとても喜ばせたが、
一面では、チャンスさえあれば蕭蕭の身辺に纏わりつき、
且ついつも蕭蕭の恐惶を取り除こうと画策していた。
山 大にして人 小なり。
至るところが樹木で蔽われ、かっこうのかくれみのだ。
普通であれば蕭蕭の所在はわからない。
花狗はそこで高処に立って、歌を歌い蕭蕭のそばにいる幼夫の注意をひく。
幼夫が小さな口を開くと、花狗は山を穿ち峰を越え蕭蕭の面前に出現する。
花狗を見て幼児はただ喜ぶだけで他のことはわからない。
幼児は花狗に、草を編んで虫籠を作って、竹笛や呼子を作ってとせがんでいた。
花狗は一計を案じた。幼児に遠くまで材料をさがしに行かせた。
そうしておいてから自分は蕭蕭のそばに来て座り、
聴いたものの心がほぐれ、顔を赤らめるような歌を歌いきかせた。
ときに蕭蕭は恐れ、幼夫が自分のそばを離れることを許さなかった。
ときにまた花狗のそばにいて幼夫が追い払われると少し嬉しく思った。
ある日ついに、
こんなふうにしているうちに、蕭蕭は花狗に心を許し、女になった。
そのとき、幼夫は山の麓までとげいちごをとりに行っていた。
花狗はたくさんの歌を歌い、最後に蕭蕭に向かって歌った。
可愛い娘の門前に
ひとつの丘がある
人がくる
若者がたくさんやってくる
しっかり打った草鞋に
穴があいた
あんたのせい?
誰のせい ?
しまいに蕭蕭に言った。
「俺はあんたのことを思って、夜もねむれんかった」
花狗はまた、このことを人に言わないと誓った。
聞いてはいても歌詞の意味は、依然としてわからない蕭蕭であったが、
眼はただ花狗の太くたくましい腕を注視し、
耳は花狗の最後の一言を注意深くとらえていた。
最後に花狗にいさんは、蕭蕭にまた多くの歌を歌って聞かせた。
蕭蕭の心はちぢに乱れた。
蕭蕭は、花狗が天に誓うことを求め、花狗は誓った。
それで一切が保障されたように思った。
蕭蕭はすべてを花狗に捧げた。
幼夫が戻ってきた。
手は毛虫に刺され傷だらけでひどく腫れあがっていた。
幼夫が蕭蕭のそばに来た。
蕭蕭はそのもみぢのような手に口をあてチュウチュウ吸ってやった。
さきほどのばかげた行為を想い出し、ようやく自分があまり感心できない、
ろくでもない事をしでかしたのだと、おぼろに悟った。
★草鞋
中国では、ふしだらな女性のことを「破鞋」といいます。
「鞋」は靴のことです、ちなみに「靴」はブーツや長靴。
文革では、ふしだらのカドでつるしあげられた女性の首には、
破れた古靴がかけられました。
映画「芙蓉鎭」でも見ました。
つづく
5880
これは メッセージ 666 (ajisai110701 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835412/bbgmdb2vdbffcbeh_1/670.html
謝謝台湾!をもう一つの形に
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/19 00:52 投稿番号: [669 / 735]
謝謝台湾!をもう一つの形に 2011/10/18 23:41 [ No.6638
投稿者 :
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ビックコミックオリジナル(小学館発行)で好評連載中の「釣りバカ日誌」
の作者、やまさき十三、北見けんいちの両氏は13日、
「釣りバカ日誌・台湾編 特設サイト公開のお知らせ」
と題するプレスリリースを報道機関向けに発表した。
「謝謝台湾!をもう一つの形に」、というサブタイトルが付けられている。
それによると9月5日発売号からスタートした釣りバカ日誌・台湾編は、
「東日本大震災のおりに、台湾から日本に多大な義援金やご支援を頂いた
ことに対し、感謝の意を込めて始めた企画」だという。
そして、「誌面だけではなく、ウェブ上でも台湾編にまつわる情報を
発信することで、より多くの方々に台湾の文化・風土、そしてそこに
住む人たちの人柄を知ってもらうことが台湾への恩返しに繋がるもの
と考え、特設サイトを期間限定で立ち上げることといたしました」
とその趣旨を説明している。
サイトは既に10月11日に立ち上げられ、
「この特設サイト内には、ユーザーの皆様が楽しめるつぶやきコーナーなど
もございますので、釣りバカファンだけではなく、より多くの方々に来訪
いただき、台湾についてのあれこれを楽しく語り合えれば幸いです」
などと結んでいる。
これは嬉しいほのぼのとした話題ですね。
やまさき十三氏、北見けんいち氏はGJ!でしょう。フ
ジテレビ抗議デモ参加者に対して、「よく暇があるな」と言った
何処ぞの漫画家とはえらい違いだと思います。
困ったときに手を差し伸べてくれる人こそ真の友人だとはよく言った
もので、これを国に置き換えると、東日本大震災の際の台湾の言動には
感謝の言葉もありません。
大地震発生後、数時間後にはすぐに李登輝元総統が、日本に励ましの
メッセージと首相が取るべき行動についてアドバイスを届けてくれました。
続いて、すぐに台湾の子供達の動画「日本頑張れ」が続々と届けられ、
そして信じられないくらいの多額の、世界一の援助金です。
これに対して、時の菅政権が台湾に取った対応は信じられないくらいの
非礼に終始し、情けないと思うと同時に、「このバカ!」と張り倒したい
衝動に駆られたくらいです。
真っ先に駆けつけてくれた台湾の緊急援助隊の入国を、支那中共に
気兼ねして遅らせたなどというのは論外。
大陸半島の救助隊には政務官が出迎え、台湾にはただの職員と
いうのですから、正直言って頭に血が上りましたよ・・
http://www.tsuribaka-tw.com/~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★台湾のみなさまからいただいた巨額の義捐金は、実に、
あかちゃんまで含めて、人口ひとりあたり一万円以上にものぼります。
台湾のみなさま、ほんとうに有難うございました。
★心ある日本国民はみな、民主党政権の対応を恥ずかしく辛く苦しく
思っております。
あれは、日本人政党ではなく、朝鮮人政党なのです。
マスゴミまで抱き込んだ詐欺で、日本の多くの有権者を騙して政権を
手に入れた朝鮮人政権なのです。支那中共の手先なのです。
あの見苦しい人たちをどうか日本人と誤解しないでください。
★謝謝, 美麗的台湾 ! ★
.
.
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Re: 訒麗君 - 15周年紀念集
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/19 00:29 投稿番号: [668 / 735]
こんばんわ。
テレサ・テン、
すばらしいですね、
周<王施>は、金の鈴をころがしたような・・と形容されましたが、
テレサ・テンは、まるで天使の歌声、そして歌に力があります。
早世されてしまわれて、ほんとうに惜しい、くやしい。
いくつか、歌詞がワードに入れてあります、
そのうちのひとつ、「北国の春」をUPしておきます。
二番を漢語で歌っていますね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
北国之春(我和イ尓・わたしとあなた)
我衷心的謝謝イ尓一番關懐和情意
如果没有イ尓給我愛的滋潤
我的生命將會失去意義
我們在春風裡陶酔飄逸仲夏夜裡綿綿細語
聆聽那秋蟲它輕輕在呢喃迎雪花飄滿地
我的平凡歳月裡有了一個イ尓顯得充滿活力
わたし、心から感謝していてよ、あなたのわたしに対するお心遣いと愛情に
もしも、あなたがわたしにかけてくださった愛の潤いがなかったならば
わたしの生命は、必ずや価値を失ってしまっていたことでしょう
わたしたち、春風の裡に陶酔飄逸し、夏の夜にはいつまでもささめきごとをかわしたわ
秋には虫のすだく音を聞き、そして地に舞い散る雪の花を迎えたわね
わたしの平凡な歳月のなか、あなたがいてくださったからこそ、
生きる力に満ち溢れていたように思えるの
我衷心的謝謝イ尓譲我忘郤煩悩和憂鬱
如果没有イ尓給我鼓動和勇氣
我的生命將會失去意義
我們在春風裡陶酔飄逸仲夏夜裡綿綿細語
聆聽那秋蟲它輕輕在呢喃迎雪花飄滿地
我的平凡歳月裡有了一個イ尓顯得充滿活力
わたし、心から感謝していてよ、あなたが悩みと憂鬱を忘れさせてくださったことを
もしも、あなたがわたしに与えてくださった励ましと勇気がなかったならば
わたしの生命は、必ずや価値を失ってしまっていたことでしょう
わたしたち、春風の裡に陶酔飄逸し、夏の夜にはいつまでもささめきごとをかわしたわ
秋には虫のすだく音を聞き、そして地に舞い散る雪の花を迎えたわね
わたしの平凡な歳月のなか、あなたがいてくださったからこそ、
生きる力に満ち溢れていたように思えるの
北国の春
白樺
青空
南風
こぶし咲く
あの丘
北国の
ああ
北国の春
季節が都会では
分からないだろと
届いたおふくろの小さな包み
あの故郷へ帰ろかな
帰ろかな
雪解け
せせらぎ
丸木橋
落葉松の芽が吹く
北国の
ああ
北国の春
好きだとお互いに
言い出せないまま
別れてもう五年
あのこはどうしてる
あの故郷へ帰ろかな
帰ろかな
山吹
朝霧
水車小屋
わらべ唄聞こえる
北国の
ああ
北国の春
兄貴も親父似で
無口な二人が
たまには酒でも
飲んでるだろか
あの故郷へ帰ろかな
帰ろかな
.
.
これは メッセージ 667 (machiko_0225 さん)への返信です.
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訒麗君 - 15周年紀念集
投稿者: machiko_0225 投稿日時: 2011/10/18 15:43 投稿番号: [667 / 735]
これは メッセージ 1 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/17 00:36 投稿番号: [666 / 735]
蕭蕭が幼夫を抱いていってしまうと、花狗と一緒に南瓜の収穫をしている
唖巴(ヤーバ)と呼ばれているものが、平素は開かない口を開いて言った。
「花狗、あんた、ちょっといかんじゃないの。あの娘は十三の生娘だ。
お床入りにはまだ十年はかかる ! 」
花狗は黙ったまま、唖巴にガッと拳骨をお見舞いし、棗(なつめ)の木の下に
行き地面に落ちていた棗を拾って立ち去った。
瓜の収穫どきの秋がくれば、指折り数えて、
蕭蕭がこの幼夫の家で暮らすようになってから一年半がすぎていた。
何度か霜がおり、雪が降った。数回の清明穀雨があった。
家の人はみな、蕭蕭はおとなになったと言った。
天の助けか、冷水を飲み、粗末な食事をしていても、
四季に病なく、成長ぶりは速かった。
姑は、うまれつきハサミのような切れものであったが、
おおよそ蕭蕭に対しての嫁いびりの機会はいつもはさみで除去していた。
田舎の日々は空気と同じくただ人の成長を助けはするものの、
苦しみの到来を阻止することまではできない。
蕭蕭が少し成長するにつれ、家事もまた少し増えた。
麻の機織り、糸紡ぎ、洗濯、幼夫の守りの他に、豚の飼料にする
青まぐさを刈り、他にもやらなければならないことが少しばかりあった。
加えて、綿糸の糊づけと機織りの仕事もあった。
おおよそを習い、ちょっと習えばすぐに上手にできた。
田舎の習慣でほとんどの場合、仕事をして余力があれば労働の中から
自分の内緒を貯えることができる。
ここ二三年来わずかづつ蕭蕭が自分の分として貯めた粗細麻とつむいだ綿糸
も、蕭蕭が旧来の機(はた)に座って投げた梭(ひ)の三ヶ月間の余力だった。
蕭蕭が十五歳のとき、もう大人と同じだけの背丈はあったが、
心は相変わらず曖昧模糊のままだった。
幼夫はとっくに断乳していた。
姑は次子を生み、この五歳の男の子は蕭蕭が独り占めしたようになった。
何をするにも、どこに行くにも、幼夫は常に蕭蕭のそばにいた。
幼夫はある部分では非常に蕭蕭をおそれてはいたがまた蕭蕭を母とも思い、
わるさをしなくなった。
蕭蕭と幼夫は真実心が通じ合っていた。
こんな田舎でも、わずかに進歩はしている。
祖父のからかいはもっぱら、
「蕭蕭、おさげを切り取るのも自由なんだぞ」
というような話題に転じた。
この話をきいている蕭蕭は、ある夏の日に一度女学生を見たことがあり、
祖父の冗談が真面目なものだとは受け取らなかったが、祖父がこの話をする
たびに、水辺に行くと必ずなんとはなしに手でおさげの先をつまみ、おさげ
のない人がどんな精神状態なのかを想像するのは、少しばかり面白かった。
まぐさを刈りに、幼夫を伴い螺螄山(ルオスーやま)の北に行くのは常のこと。
幼な子はわけもわからず、人の歌っていた歌を歌う。
歌は花狗(ホアゴウ)を引き寄せる。
★唖巴(ヤーバ)
「おし」の意味。無口なのでそういうあだ名がつけられている。
★お床入り
原文「圓房」。
童養<女息>(トンヤンシー)が幼夫と実質上の新婚生活に入ること
★清明・・・清明節。二十四節気のひとつ。
四月四日〜六日ころ。墓参りに行く。
★穀雨・・・二十四節気のひとつ。四月二十日ころ。
つづく
5879
これは メッセージ 665 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/17 00:34 投稿番号: [665 / 735]
歌の含意は、幼夫にはまったくわからない。
歌い終わって蕭蕭に、どうだった ? と尋ねた。
蕭蕭はほめたが、同時に、いったい誰に教わったのかときいた。
蕭蕭は花狗(ホアゴウ)が教えたことを知ってはいたが、わざと幼夫に聞きただした。
「花狗にいちゃんが教えてくれたよ。
にいちゃんはまだまだいっぱい歌を知ってるってさ。
大きくなったらもっと習って歌うんだ」
花狗が歌が上手だと聞いて、蕭蕭は言った。
「花狗にいさん、花狗にいさん、わたしにいい歌、うたってきかせて」
花狗という男は、あまりまっとうには成長しなかった、
人相に性根の卑しさが現れている。
蕭蕭に歌を所望され、蕭蕭がもうじき歌の含意がわかる年齢になるのだと
わかった。そこで「十歳の娘に一歳の夫」という歌を歌って聞かせた。
その歌は、妻が年上で勝手気儘に外で不品行をやってのける。
つまり、夫は幼くただおっぱいを飲むことを知っているだけ、
夫にはおっぱいを飲ませるだけという歌詞だった。
幼夫にはまったく理解不能だが、蕭蕭には少しだけわかった。
歌を聴いてしまってから蕭蕭は「すべて理解した」ふうを装い、
ある種の背伸びをして、怒ったふりをして花狗に言った。
「花狗にいさん、これはよくないよ。人の悪口の歌じゃん! 」
花狗はわけしり顔で言う。
「人の悪口の歌じゃない」
「うち、わかるもん。人の悪口の歌だよ」
花狗は多辯ではなく、歌はすでに歌われてしまっていた。
謝罪しそこない、もう二度と歌うことはしなかった。
花狗は、蕭蕭がもうある程度のことがわかることを見てとった。
蕭蕭が家に戻り祖父に告げ口をし、祖父に口汚くどやしつけられるであろう
ことをおそれ、そこでお茶を濁し、話を「女学生」に持って行った。
花狗は蕭蕭に尋ねた。
女学生が体操をし外国の歌を歌うのを見たことがあるか、と。
もしも花狗が提起しなかったら、蕭蕭はもうほとんどこのことについて
忘れていた。
この時また「女学生」を持ち出され、蕭蕭は花狗に、最近女学生が通ったか
どうかを尋ねた。蕭蕭は女学生を見たいと思ったのだ。
花狗はカボチャをアンペラ小屋のそばから垣根の角まで抱えて運びながら、
蕭蕭に女学生が歌を歌う話をして聞かせた。
この話の由来も出所はやはり蕭蕭の祖父だった。
花狗は蕭蕭に聞かせるのに少しばかり話を拡大した。
かつて公道で女学生を四人見たことがある。
彼女たちはみな手に旗をもっていた。
汗を流し息を切らして長い道のりを歩いていてもずっと歌を歌っていた。
軍人の歌う歌とまったく同じだ。
わざわざ言う必要のない、これはまったくの口からでまかせだ。
けれどもその物語は蕭蕭を非常に楽しくさせた。
なぜなら、花狗は、これが「自由」だといったからだ。
してやったり、と花狗、一石二鳥だ。
口も八丁、手も八丁のやつだ。
蕭蕭が、うらやましそうな口ぶりで言った。
「花狗にいさんってさあ、腕のつけ根がずいぶん太いね」
それを聞いてすぐにきりかえす。
「もっと太くなるさ」
「がたいもでかいよ」
「俺の全身で小さなところはないよ」
蕭蕭には、こういう話の含意はまだあまりよくわからない。
ただ無邪気にへらへらと可笑しがっただけだった。
つづく
5878
これは メッセージ 664 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/16 00:50 投稿番号: [664 / 735]
瓜の取り入れの頃には、秋はもう来ている。
庭の到る処に、家の裏の林の樹木の紅や黄色の大きな葉が、
風に吹かれて飛んでくる。
蕭蕭は瓜のそばにでんと立ち、手にひと束の木の葉をとり、
幼夫のために小さな小さなすげ笠を編んで遊んでやる。
雇い人の中に花狗(ホアゴウ)という名の男がいた。年は二十三歳。
蕭蕭の幼夫を抱いて棗(なつめ)の木の下に行き棗を叩いた。
細い竹ざおで棗の木の樹上をはたくと、落ちた棗が地面をいっぱいにおおった。
「花狗にいさん、やめなよ。多すぎて食べきれないよ」
そう呼ばわっているのが聞こえていても、それでもなお手をやすめない。
それからも、幼夫が棗をほしがっているのだからというふうに、
花狗はどうしても言うことをきかなかった。
そこで蕭蕭はまた幼夫に注意した。
「弟弟、弟弟、おいで。拾っちゃだめ。
ナマモノを食べ過ぎるとお腹が痛くなるよ! 」
幼夫は蕭蕭の言うことをきいた。
棗(なつめ)をわしづかみにし、
蕭蕭のそばにやってきて蕭蕭に食べさせようとする。
「ねえちゃん、これおっきいよ」
「いらない」
「ひとつ食べなよ」
蕭蕭の両手があいているわけがない。
木の葉の帽子がちょうどできあがるところだった。
時間がない。まだこれから人の手伝いをしなければならない。
「弟弟(ディーディ)、棗をねえちゃんのお口に入れて」
幼夫は蕭蕭の言いつけどおりにすると、それが面白くてハハハと大笑いをした。
蕭蕭は、幼夫に棗を下に置かせ、帽子のふちをしっかりと持たせ、
それから新しい木の葉をとりつけた。
幼夫は蕭蕭のいいつけどおりにしてはいても、
いつもいたずらっぽく体を揺すり歌を歌っている。
この子はもともと猫みたなところがあって、嬉しいと大騒ぎをする。
「弟弟、それ、何の歌? 」
「花狗(ホアゴウ)にいちゃんが教えてくれた民謡だよ」
「ちゃんと歌って、ねえちゃんにきかせて」
幼夫は帽子のふちをひっぱるのを手伝いながら、
覚えているとおりに歌を歌った。
空に雲がわきあがる
雲はばらばら
とうもろこし畑に
さやいんげん植えた
さやいんげんが
とうもろこしに巻きつき悪さする
可愛いおぼこは
若衆にだきつき悪さする
空に雲がわきあがる
雲と雲が重なった
地下に塚を埋めたら
塚と塚が重なった
可愛いおぼこは碗を洗う
碗と碗が重なった
可愛いおぼこのお床の上で
人と人が重なった
★旧暦(農暦)の季節
孟・初
中・仲・盛
晩・季
春
一月
二月
三月
夏
四月
五月
六月
秋
七月
八月
九月
冬
十月
十一月
十二月
孟春・初春、
孟夏・初夏、
孟秋・初秋、
孟冬・初冬
仲(中)春、
盛夏、
仲(中)秋、
盛冬
晩春・季春、
晩夏、
晩秋、
晩冬
全部つけてもいいのですが、日本語ではなじみのないものもありますので
ポピュラーな言い方のみ。
仲(中)秋の名月というのは、この表で八月のことだとわかります。
孟冬といったら、冬のはじめ十月のことです。
つづく
5877
これは メッセージ 663 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/16 00:45 投稿番号: [663 / 735]
女学生とはどんなものかという祖父の話を聞いたことにより、
そのあと蕭蕭は長い時間一人笑いをしていた。
思い切り笑った後で、蕭蕭は言った。
「お爺さん、あした女学生が通ったらうちを呼んで。
うち、ちょっと見てみたいから」
「おまえが見とったら、女学生はおまえを捉まえて連れてって奴隷にしちまうど」
「うち、女学生なんかこわくないもん」
「あいつらが洋書を読みお経を唱えてもこわくないか? 」
「観音菩薩消災経を唱え、金箍呪(きんこじゅ)を唱えれば、怖くなんかないもん」
「女学生は人に喰いつくぞ。役人と同じだ。田舎者ばかり喰らうんだ。
人の骨まで平気でバリバリ食らうんだぞ。それでもこわくないか? 」
蕭蕭はがんとして言い張った。
「こわくない」
ところがこの頃、蕭蕭の手に抱かれている幼夫は、
どういうわけか寝つくと夢を見て哭く。
すると妻である蕭蕭は母親のような声音ですかしたり脅したりする。
「弟弟(ディーディ)、弟弟、哭いたらいかん、哭いたらいかん、
女学生が喰いつきにくるよ」
幼夫がそれでも哭きやまないと、
抱きかかえてそこいらを歩きまわることになる。
蕭蕭が幼夫を抱いて行ってしまうと、
祖父は誰かと他のいつもしているような昔話をする。
このときから蕭蕭の胸のうちに「女学生」が住みついた。
夢にまでいつも女学生があらわれた。
夢の中で女学生はいつも並んで道を歩いていた。
まるで自分で走る箱に乗ったことがあるかのように、蕭蕭はまた、
この箱は自分が駆けるほどには、決して速くはないと思った。
夢の中に出てきたその箱の形は穀物倉と大差なく、中には小さな灰色の鼠が
いて、その鼠の目んたまは真っ赤でそこらじゅうを駈けずり回っていた。
ときに入り口の隙間から小さな尻尾を外に出している。
そんなこんながあって祖父はそれから蕭蕭を呼ぶのに
「小Y頭・シァオヤートウ(=小間使い)」とも呼ばず、「蕭蕭」とも呼ばず、
なんと「女学生」と呼ぶようになった。
不注意にも、蕭蕭は非常によい返事をしたものだった。
時の流れは田舎も外の世界も同じだが、ときに異なることもある。
世のなかの人は日一日を粗末にするが、蕭蕭と同じような稼業の家では
日一日を惜しむことは同じである。
各々になすべき仕事があり、各々が分担ししている。
多くの都会に住む文明人は、ひと夏を完全に柔らかな絹の衣服で過ごし、
すてきな飲み物がさまざま楽しい場面に登場する。
蕭蕭の家では、ひと夏の労働として十数斤の細麻と二三十担(一担=100斤)
の瓜を収穫する。
人妻となってからの蕭蕭は、ひと夏のうちに一方では幼夫の養育をしながら、
さらに細麻四斤を織る。
秋八月ともなれば日雇いが瓜の取り入れをするので、瓜の間で遊ぶ。
瓜の大きなものはお盆のようだ。
表面全体にに灰色の粉を吹いた大きなカボチャが地面に並べられ
積み上げられるのは面白い。
★金箍呪(きんこじゅ)
『西遊記』で三蔵法師が孫悟空にいうことをきかせるために唱えた呪文
つづく
5876
これは メッセージ 662 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/16 00:42 投稿番号: [662 / 735]
女学生は、学校で男女一緒に授業を受け勉強をする。
親しくなると勝手気儘にその男子と寝る。仲人はいらないし結納も不要だ。
それを名づけて「自由」という。
女学生も州や県の役人になり眷属を引き連れ赴任する。
男はその女学生に対してやはり、「老爺(ラオイエ)・大旦那さま」と呼び、
子供は「少爺(シァオイエ)・若旦那さま」と呼ぶ。
女学生は自分では牛を飼わないのに牛乳や羊の乳を飲む。
まるで子牛や子羊みたいだ。
乳を買うときには鉄製の缶になみなみと注ぐ。
女学生は用事のないときには歌劇の公演を見に行く。
そこはほとんど大きな廟と同じで、ポケットから銀貨を一枚
(田舎ではその銀貨で雌鶏が五羽買える)
取り出して小さな四角い紙片を一枚買う。
その紙片を持って中に入り座って外人の演じる影絵芝居(映画)を見る。
はめられても誓約しないし、泣きもしない。
女学生は二十四歳になるまで決して嫁にいこうとしないのだ。
三十・四十になってもなんとまあ、恥ずかしげもなく嫁にいく。
女学生は男を恐れない。
男が彼女たちを侮辱することはできない。
もしも不当な扱いを受けたなら役所に訴え出て、役人は男から罰金を徴収する。
そのけっこうな罰金を彼女が独り占めして散財することもあるし
お上と折半にすることもある。
女学生は洗濯も飯炊きもしない。
豚の世話もしないし鶏も飼わない。
赤ん坊を生んでも、ひと月に五元あるいは十元を支払って人を雇い
子供の養育をまかせる。
自分はいつも日がな一日芝居見物に麻雀三昧、
かと思えば役立たずのくだらない本を読む。
要するに、言うなれば、いろんなことがすべて奇妙奇天烈にして
田舎の人間と違っており、まったく道理に合わぬと言う人もいる。
このとき、祖父の説明をひとわたり聴き終わった蕭蕭の心のなかに、
突如として言いようのないもやもやとした願望が湧き上がった。
もしも彼女もまた女学生であったなら、
祖父の語った女学生と同じようなあれこれができるのではないだろうか。
よかれあしかれ女学生とは、決して恐ろしいものではない。
だからひとつには、かえってこの田舎娘にとって
初めての身につまされることがらとなった。
★「老爺」「少爺」という言葉が登場していますが、この「老」は
老人を表現する言葉とはかぎりません。意味は多岐にわたっています。
若くても教師を「老師・ラオシ」といいますし、
日本でも年齢に関係なく、「大老」「老中」という役職がありました。
「少」は、「若い」という意味です。
ついでに言うと、漢語の「若」に「わかい」という意味はありません。
「弱」が「わかい」という意味で、音通の関係にあります。
★誓約しないし
原文は、「不賭呪」。「賭呪」は方言で「誓いをたてる」「詫びをいれる」
という意味。しかし「誓わない」では意味が通じにくい。
「二度と騙されない、と誓うことをしない」という意味かもしれないが、
この三文字だけではわからない。
騙されたときにとなえるおまじないのようなものがあるのだろうか。
つづく
5875
これは メッセージ 661 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/16 00:40 投稿番号: [661 / 735]
蕭蕭はよくわからなかったから笑わなかった。
それで老祖父はまた話を続けた。
「蕭蕭、おまえも大きくなったら女学生になるのじゃよ」
みなはそこで、もっと、どっと大笑いだ。
蕭蕭の人となりはけっして暗愚ではない。
これはきっと自分にとって不利益な話だと思い、あわてて言った。
「お爺さん、うちは女学生にはならん」
「おまえは女学生みたいなのに、ならんというのはいかん」
「うちはならん」
みな、ことさらにからかって異口同音に言う。
「蕭蕭、爺さんの言っていることは正しい。女学生にならいではすまん」
蕭蕭は焦ってなすすべもなく、
「ならんならんのならなるよ。こわくないよ」
その実、女学生になることの何がよくないのか、
蕭蕭にはまったくわからなかった。
女学生というものは、田舎では確かに永遠の珍聞奇談だ。
毎年六月になると「夏季休暇」になる、すると例によって女学生が
三三五々、経験したこともないほど滅茶苦茶暑い処からやって来て、
どこか遠い所へ行くのにこの地を通り過ぎて行く。
田舎の人々の目には、これらの女学生はみな別世界の住人に思える。
装いは奇々怪々、行動はもっと不可思議だ。
女学生が通り過ぎると、村人にとって一日中笑い話のネタになるのだ。
祖父は、ご当地ではなかなかの名士である。
なぜならば、自分の知っている女学生についての街中での生活状況を
思い出しては、蕭蕭をも女学生にしようと笑い話にするから。
こういう話を聞くと一種の冗談として興味を感じるが、
また一方ではそのように言われた蕭蕭にとってある種の恐惶となり、
このての話は無意味ではないのである。
女学生とは、祖父の知識によると、このような種類の人らしい。
女学生は、暑かろうが寒かろうがおかまいなしに洋服を着ている。
空腹だろうが満腹だろうが関係なしに物を食べる。
夜は子の刻(午後11時〜午前1時頃の間)にならないと寝ない。
昼間はまともな仕事はせず、ただ歌を歌い球技をし、洋書を読むだけ。
女学生はみな金遣いが荒く、
彼女たちが一年間に使うお金で十六頭の水牛が買える。
女学生が田舎にしろ都会にしろ、どこかに行きたいと思ったら歩く必要はなく、
でっかい箱の中にもぐりこみさえすれば、
その箱が彼女たちを目的地まで連れて行ってくれる。
都会には各種各様大小とりまぜた箱があり、みな機械で動く。
★土手
原文は、<土貝>。
土手や堤防のことですが、南方方言で平地・平原の意味もあり、
『蕭蕭』の舞台は南方と思われますので、「庭の平なところ」
かなとも思うのですが、土手に囲まれている庭かなとも思います。
風俗が違うので、むつかしい。
★カサンドウ
原文は「烏梢蛇」=烏風蛇。
黒色、無毒、体長2 m 余。薬用になる。
クダを巻いている蚊取り線香を想像すればいいかもしれない。
★蕭蕭のお婿さんは三歳とありましたが、これはかぞえどしです。
すなわち、母親のおなかにいるときが一歳、
生まれてからお正月がきたら二歳です。
ですから、現代の感覚より少し幼い感じです。
★夏季休暇
原文は「水暇」です。
「水暇」という言葉はないのではないかと思うのです。
普通夏休みは「暑暇」といい、「シュージャア」というような発音です。
「水暇」は、「シュェイジャア」、発音が似ています。
★女学生についての講釈はもう少し続きます。
蕭蕭と女学生の境遇についての対比が描かれていると思います。
エピローグで、蕭蕭が抱いている赤ん坊につぶやくひとりごと、
女学生についての話は、その伏線になっていると思います。
つづく
5874
これは メッセージ 660 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/16 00:24 投稿番号: [660 / 735]
夜が明けた。
夢は見なかったけれど無意識に目を閉じたり開けたりする。
目前の空に咲いた変幻無端の黄色い花弁、紫の芯の向日葵の花を
しばらく眺めているのはたとえようもないほどの喜びだ。
蕭蕭がこの家に嫁ぎ、にぎりこぶし大の夫の幼妻となったが、
すべてが決してそれ以前よりも苦痛というわけではなかった。
このことはただ、ここ一年来の蕭蕭の身体の発育を見ても明らかだ。
風の日もあった、雨の日もあった。
畑のすみに植わっている、人の注意をひかないトウゴマが、
葉も大きく枝も大きく、日増しに繁茂するかのようだった。
この小さな女の子はまったく幼夫の立場おかまいなしに、
日一日と成長していった。
夏の夜の光景は、言うなれば夢のようだ。
みな夕食後は庭の真ん中に集まって涼をとる。
シュロのうちわで煽ぎながら、空の星や屋根のすみの蛍を見る。
カボチャ棚のそばで機織り娘がカラカラと紡ぎ車を回す音を聞く。
遠く近く聞こえるその音の繁密さは雨音のようだ。
禾花のにおいを含んだ風がそよそよと顔にあたる。
まさに、それぞれが好き勝手に笑いさざめくくつろぎのひとときである。
蕭蕭は高いところが好きで、いつも一人干し草の山の上に上る。
とっくに熟睡している幼夫を懐に抱き、小声でそっと好き勝手に、
自作の四句リフレインの民謡を歌う。
何度も歌ううちに自分も眠くなってくる。そしてじきに寝てしまう。
庭の土手のなかには、母方、父方両方の祖父母、他に手伝いの男が二人いて、
勝手気儘に小さな木製の丸椅子に座り、よもやま話をし古(いにしえ)に学ぶ。
かわるがわるおしゃべりをして夜中まで過ごす。
祖父の傍には煙草があり、暗闇に光を放っている。
このヨモギで作った煙草はナガアシ蚊の駆逐にききめがあり、
祖父の足もとあたりにとぐろを巻いてあたかも一匹のカサンドウのようだ。
その煙は、途切れ途切れに、或いはまた、
何かを掴むように小テーブルの下をゆらゆらと漂う。
昼間あったことを思い出し、祖父が口を開く。
「わしゃ、三金から聞いたんじゃが、
おとといまた女学生が通り過ぎるのを見たんじゃと」
皆はそこでどっと笑う。
この笑いの意味するところは何か。
みなのイメージするところでは、女学生というものは髪をおさげに編んでおらず、
ウズラの尻尾のような髪型をしていてまるで尼さんみたいにおかしな髪型だ。
着ているものは西洋人みたいでもあり、西洋人でないようでもある。
食べ物、日用品、・・・要するに、いろんな事柄が自分たちとは違っており、
思い出すと非常にへんちくりんで可笑しなものだ。
★>にぎりこぶし大の夫の嫁<
原文は、「拳頭大丈夫的小<女息>婦」。
「丈夫」は、現代漢語では「夫」のことですが、
古語では「一人前の男」「成人男子」のことを言います。
ここでは、わたしは両方の意味を兼ねていると思います。
げんこつの小ささと対象的に「いっちょまえの男」という言葉を配し
「おかしさ」「ユーモア」を表現しているのではないでしょうか。
★禾花
「禾」はイネ科植物。夏なので穀物の花が咲いているのでしょう。
★>自作の四句リフレインの民謡<
原文は、「自編四句頭山歌」。
「蕭蕭」の舞台は江南のほうと思われます。
安徽省の地方劇に「四句推子」というのがあり、
歌は四句を繰り返すだけの単調なものです。
それに、古詩・『詩経』には四言詩が多くあります。
たぶん、そういうことを念頭に置いた素朴な感じの歌ではないかと思います。
つづく
5873
これは メッセージ 659 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/15 02:37 投稿番号: [659 / 735]
本文
蕭蕭が人妻となったのが十二歳のときのこと。
幼い夫はまだ三歳にもなっていなかった。
夫は妻より九歳も若く断乳してまもないころだった。
このあたりのしきたりにより、嫁いで後は夫を弟弟(ディーディ)と呼んだ。
蕭蕭が毎日なすべき仕事は、弟を抱き
村の入り口にある柳の木の下まで遊びに連れて行くことだった。
小川のほとりで遊ばせ、腹をすかせたら食物を食べさせ、泣いたらあやす。
南瓜(カボチヤ)の花やエノコロ草を摘み幼夫の頭の上に載せてやり、
或いは口づけをしながら言った。
「ディーディ(弟弟)や、ばーあ、ほらもいっかい。ばーあ」
そのこぎたない小さな顔になんども頬ずりをしてやると、子供はそこで笑いだす。
子供は喜び興奮すると、行動が粗野になり短いもみぢのような手で
蕭蕭の髪の毛をくしゃくしゃにした。
いつもぼさぼさのままのつやのない黄ばんだ髪の毛だった。
後頭部に垂らしたおさげがひっぱられ続け、
髪を結んでいた赤い毛糸がほどけることもあった。
怒ってその弟を何度かひっぱたくと、弟は当然わっと声をあげて泣き出す。
蕭蕭もそこで泣きまねをしながら弟の顔を指さし言う。
「ほら、ききわけがないからだよ。だめじゃん!
その手足は、いっときもじっとしとらんね。
おとなになったら。人殺しや火つけをするようになっちゃうよ! 」
晴れの日も雨の日もあった。
毎日幼夫の子守りをし、いささかの家事雑事をこなし、
できることは何でもやった。
また時には谷川まで洗濯に行き、おむつを揉み洗いしながらきれいな
模様のタニシをとって自分のかたわらにいる幼夫に与え遊ばせた。
夜がくれば寝る。
そこで夢を見るというのは、蕭蕭くらいの年の子にはありがちなことだ。
裏のすみっこのほうで、或いは違う場所で大量の銅銭を拾ったとか、
美味しいものを食べたとか、木のぼりをしたとか、
魚になって水中を自由自在に泳ぎまくったとか、そんな夢だ。
あるいは時には、自分の体がとても小さく軽くなって、空にまたたく沢山の
星の中まで飛んで行ったが、ひとっこひとりいない、ただひとすじの白光、
ひとすじの金色の光しかない、そこで「かあちゃん! 」と大声をあげる。
家人はびっくりして目を醒ます。
蕭蕭も目を醒まし、ただ心臓がドキドキするばかり。
夜中に騒げば隣の部屋の住人に怒鳴られないわけがない。
「キチガイ !
何考えてやがんだ !
昼間はさんざん遊んでからに、夜は夢まで見るってか! 」
蕭蕭はそれを聞きながら、かえって声を殺してくっくっと笑った。
良い夢、爽快な夢を見ていても、幼夫の泣き声で目を醒ますこともある。
幼夫は、以前は、夜は、自分の母親のそばで寝ていたのだが、
ときに食べすぎたり、或いは他に事情があって真夜中に大泣きをし、
起きだしてシッコ・ウンコのめんどうは毎度のことだった。
幼夫が母親の手には負えないほど泣くと、蕭蕭はそっと寝床から這い出し、
酔眼朦朧として母親のベッドまで行き子供を抱き取り、月を見せ星を見せる。
あるいは互いに目を細め、こどもは威嚇して、
「ほれ、ほれ、猫だぞう」
とこのようになだめたりすかしたりすると、幼夫は笑う。
しばらく遊ぶと厭きてくる。ゆっくりとまぶたを閉じる。
すっかり寝入ってからベッドに置く。
蕭蕭はベッドの傍に立って見ている。
と、遠くの方で一番鳥の鳴く声が聞こえてくる。
もう夜明けまでいくらもない。
そこでいつものように小さなベッドに縮こまって眠りにつく。
つづく
5872
これは メッセージ 658 (ajisai110701 さん)への返信です.
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『蕭蕭』 沈従文
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/15 02:36 投稿番号: [658 / 735]
『蕭蕭』
沈従文(しん・じゅうぶん)
プロローグ
村人がソーナ(チャルメラ)を吹きつつ花嫁を迎える。
十二月になると、終日こんなことがよくある。
ソーナの後ろの一丁の花駕籠を、二人のよか衆が揺らさないように担いでいる。
駕籠の中に閉じこめられている娘は、ふだん身につけたこともないような
きらびやかな衣裳を着てはいるけれど、なんとまあ、
ずっとわんわん泣きじゃくっている。
このような幼い女の子の心中には、花嫁となって母親のそばから引き離され、
且つまた他人の母親となる予定であることから、必然的にこの先多くの
出来事が待ちうけていることへの覚悟はある。
これから、見たこともない男の子と一つ床に眠り、
嫁ぎ先の祖先を祀るようになるなんて、まるで夢のようだ。
こんなことを考え出すと、あたりまえのことだが、少しこわくなってくる。
だから、これまでも花嫁がそうだったように哭きたくもなろうというものだ。
そういうわけで哭いているのだ。
花嫁になっても哭かないものもいる。
蕭蕭は花嫁になっても哭かない。
この幼い女の子に母親はなく、幼いころから百姓をしている伯父の家で養育
され、朝から晩まで小さな竹籠をさげ道端や畔で犬の糞を拾い山菜を摘んだ。
嫁に行くということは、ただこの家からあの家に移動するだけにすぎなかった。
だからこの日になっても、この女の子は笑ってばかりいた。
この女の子は恥ずかしがりもせず、こわがりもしなかった。
この娘は何も知らないまま人の花嫁になったのだ。
★トンヤンシー(童養<女息>・ドウヨウソク)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%97%E3%82%A2★>十二月になると、終日こんなことがよくある。<
>終日<
の原文は「成天」。
「一日中」とか「朝から晩まで」とかの意味です。
しかし、ここでは「連日」のほうが、意味のとおりがいいような気がします。
嫁とりは、農閑期に行います。もちろん旧暦(農暦)です。
つづく
5871
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★原文
:
沈従文『郷土小説』上海文藝出版社, 「蕭蕭」より
翻訳は紫陽花です。
.
これは メッセージ 637 (ajisai110701 さん)への返信です.
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山行 杜牧 / 愛晩亭
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/13 23:29 投稿番号: [657 / 735]
山行
杜牧(晩唐・803〜852)
遠上寒山石径斜
遠く寒山に上れば
石径斜めなり
白雲生處有人家
白雲生ずる処
人家有り
停車坐愛楓林晩
車を停めて坐(そぞろ)に愛す
楓林の晩(くれ)
霜葉紅於二月花
霜葉は二月の花よりも紅なり
晩秋の暮れ方、寒々とした石だたみの山道をどこまでも登っていくと
白雲の湧いているあたりに
なんと人家があった
車を止めてうっとりと薄色に染まった楓の林に見とれる
霜にうたれた楓の葉は
春のさかりの花よりも紅い
★松枝茂夫『中国名詩選』下,岩波文庫
より
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
愛晩亭は、岳麓書院と地続きの低い山の上にある「亭・ちん・あずまや」です。
「あずまや」というのは、天井と柱があって壁がない建物のことをいいます。
「愛晩亭」は、原名「紅葉亭」といい、
上記の杜牧の詩の後半部分の詩意からとられたものです。
杜牧は想像でこの詩を詠んだのであって、
実際にここを訪れていないということです。
愛晩亭の名は、清代の文人・袁枚(えんばい)(清・1716〜1797)の
建議によって改名されました。
亭上に掲げられている「愛晩亭」の三字は毛沢東の手になるものです。
毛沢東は師範学校在学時、友人たちとしばしばここを訪れ、
議論をたたかわせていたそうです。
愛晩亭
http://www.geocities.jp/seppa06/0809/tyosa2.htmlhttp://chtaiken.exblog.jp/i11.
これは メッセージ 654 (ajisai110701 さん)への返信です.
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題加藤清正狩虎圖 佐藤牧山
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/13 23:27 投稿番号: [656 / 735]
題加藤清正狩虎圖
佐藤牧山(1801〜1891)
加藤清正、虎を狩るの圖に題す
誰歟飛渡海茫茫
誰歟(か)飛渡す
海
茫茫
勢如破竹那可當
勢
破竹の如し
那(なん)ぞ當たる可し
破八道
擒兩王
八道を破り
兩王を擒(とら)う
誰買餘勇去狩虎
誰か餘勇を買い
去(ゆ)きて虎を狩る
腥風捲旗旗飄揚
腥風
旗を捲き
旗
飄揚
呀然開口怒負嵎
呀然(がぜん)
口を開きて
怒りて負嵎(ふぐう)
應手血迸八尺槍
手に應じて
血迸る
八尺の槍
吁嗟乎朝鮮有虎
吁嗟乎(ああ)
朝鮮に虎有り
虎是鼠
虎は是れ鼠なり
日本無虎人是虎
日本に虎無し
人は是れ虎なり
いったい誰であろうか、
飛ぶように、あの茫茫と広がる日本海を渡って行った人は
破竹の勢いのこの勇士に、どうして対抗することができようか
朝鮮八道を破り、臨海君と順和君のふたりの朝鮮王子を捕えた
いったい、清正以外の誰が、
あの勇士の残った勇気を買って朝鮮まで行き、虎を狩るであろうか
生臭い獣の匂いを風が運び、清正の旗印を吹き上げ、旗は翩翻とはためく
虎が耳まで裂けんばかりにガッと口を開き、怒りに燃えて
山の片隅に山を背負っているかのように人を待ち構えている
清正の手がさっと動いたかと思うと、グサリと虎をやっつけて血が迸る
清正の持っているのは、八尺の十文字槍
ああ、朝鮮には虎がいるのだな
(日本には虎はいない)
しかし、見よ、その虎も加藤清正のような勇者にかかっては鼠も同然
我が日本には虎はいないが、加藤清正という虎のような豪傑がいるのだ
★加藤清正は本当に虎退治をやったのでしょうか。
加藤清正は、幼名・虎之助。寅年生まれです。
★八道・・・朝鮮半島は八つの行政区域に分かれていました。
★餘勇・・・『春秋左氏傳』「成公二年」の高固
戦闘開始にあたり、敵を挑発しているところです。
「傳」
齊高固入晉師、桀石以投人、禽之而乘其車、繋桑本焉、以徇齊壘、
曰、欲勇者、賈余餘勇、
「読み下し」
齊の高固、晉の師に入り、石を桀(にな)いて以て人に投じ、これを
禽(キン)して其の車に乘り、桑本に繋(つな)ぎて、以て齊の壘に徇(とな)う。
曰く、勇を欲する者は、余が餘勇を賈え、と。
「解釈」
まず齊の高固という武将が、石を戦車にたくさん積みこみ、
その戦車に乗って晉軍に突入し、その石を人にぶつけ、
石があたってへたりこんでいる敵(晋)の兵士をひっつかまえては、
車に乘りこみ、桑の木の根本に繋いで、自軍の駐屯している土塁に戻ると、
雄叫びをあげてこうとなえた。
★鉄砲以前は、石つぶては重要な武器(飛び道具)だったようです。
「勇を欲する者は、わしの勇気のあまりを賈え」と。
★勇気はまだまだ売るほどあるぞと、言っています。
★負嵎・・・山の片隅。『孟子』に出てくる言葉。
★桀・・・もともとは「磔・はりつけ」という字。
磔は、人間を高い所に持ち上げて処刑すること。
高所に持ち上げる意。「注」桀擔也。
ここでは石を高々とふりあげて、ということです。
★桑の木は、剪定しなければ大木になります。
日本の桑の木は、葉を摘むときに手が届くように剪定してあるのです。
★訓読・解釈は、紫陽花です。
.
これは メッセージ 655 (ajisai110701 さん)への返信です.
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中秋賜宴 佐藤牧山
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/13 22:51 投稿番号: [655 / 735]
中秋賜宴
佐藤牧山(1801〜1891)
幾年書劔客
幾年
書劔の客
千里覇王州
千里
覇王の州
豈料今宵月
豈に料らんや
今宵(コンショウ)の月
能逢故園秋
能く故園の秋に逢う
清光溢月闕
清光
貝闕(バイケツ)に溢れ
賜酒滿瓊甌
賜酒(シシュ)
瓊甌(ケイオウ)に滿つ
霑醉陪青佩
霑醉(テンズイ)して
青佩に陪す
叨恩愧白頭
叨恩(トウオン)
白頭を愧ず
わたしは書物を抱え脇差を差した旅人として、
どれほどの時を過ごしただろうか
故郷を離れて千里の彼方、徳川の国(江戸)へ行っていた
なんと思いもよらぬことであった、
五十年ぶりに今宵故郷の月を眺めることになるとは
故郷で五十年ぶりに秋を過ごすことになろうとは
今宵、名月の清らかな光は、みごとな御殿に溢れかえっており
お殿さまから賜った酒は、立派な器に満々と湛えられている
お殿さまのご恩によって酒に酔い、ご家老さまも居られる
この晴れがましい宴に、わたしは陪席している
(牧山は山崎村の百姓の出身)
かたじけなくも分外の恩恵を蒙っているが、
わたくしとしてはこんな白髪頭の老人で、
いっこうに役に立たないであろうことを愧じるばかり
★余在江戸五十年、明治紀元始還国・・・とあります。
明治天皇即位の時はまだ徳川幕府の時代。
明治元年に、佐藤牧山は50年間住み慣れた江戸をあとにして、
尾張藩より招聘されました。
そのときに藩主より歓迎の宴を賜ったときの歌。
牧山は武士の出身ではなく百姓の出。
★覇王・・・武力で天下をとった王。
★貝闕・・・壁に装飾として紫色の貝が嵌めこんであるような立派な屋敷。
★瓊甌・・・玉でできた立派な杯
清酒は江戸時代中期から。
劔菱というお酒は江戸時代からあります。
江戸時代以前は濁り酒でした。
★青佩・・・青い帯玉。中国では家老が身につける。
★訓読・解釈は、紫陽花です。
.
これは メッセージ 654 (ajisai110701 さん)への返信です.
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嶽麓書院 / 楚材晉用
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/13 22:37 投稿番号: [654 / 735]
嶽麓書院
/
楚材晉用
http://japanese.cri.cn/918/2011/02/21/201s170975.htm嶽麓書院は現在の湖南大学の前身です。
毛沢東(1893〜1976)はここで学び(当時は師範大学だったと思います)、
隣接する愛晩亭というあずまやで、友人たちとしばしば議論を闘わせたそうです。
毛沢東の師の楊昌済の娘さんが最初の毛沢東の妻です。
厳密にいえば、毛沢東には十代のときに親のいいつけで結婚した
かたちだけの妻がいますから、二番目の妻ということになりますが。
この人は、国民党によって処刑されています。
「楚材晉用」という言葉があります。
『春秋左氏伝』の襄公26年の項に、晋と楚との比較論があります。
――晋の卿は楚に如かざれども、其れ大夫は則ち賢なり。
皆、卿の材なり。杞梓、皮革の楚より往くが如し。
楚に材有りと雖も、晋は実に之を用いるなり。―――
と。
晋は春秋時代の北方の大国であり春秋の覇者といわれていました。
楚は南方(現在の湖北、湖南)から興った新勢力でいわば超軍事大国でした。
楚には杞梓(柳や梓のような有用植物)や皮革などの物産が豊かあるが、
みな北中国に輸出されて、主として晋で用いられている。
人材もそれと同様、楚の人材をほんとうに用いているのは晋であるというのです。
「楚材」とは、外国で用いられる人材、を意味しています。
岳麓書院の対聯に「惟楚有材, 于斯爲盛」とあります。
先のは『春秋左氏傳』、あとのは『論語』からとっています。
江戸末期から明治にかけて日本一の漢学者と認められていた、
尾張藩藩校明倫堂最後の督学(校長先生)佐藤牧山は、
自分で名を「楚材」とつけました。
字(あざな)は「晋用」。號を「牧山」といいます。
牧山は尾張の田舎の百姓の出身。現在の稲沢市祖父江町です。
尾張を楚にみたて、一生のうち活躍の場はほとんど江戸でしたので、
江戸を「晋」にみたてています。
いつ寝るのか、牧山の寝ている姿を誰も見たことがない、
というので「鰥魚先生」のニックネームがつきました。
表立っての出自による差別というのはないようでしたが、
れきとした武士からはときにあまり好意的にはみられていなかったようです。
この佐藤牧山の著書に『老子講義』がありますが、老子もまた一説に
「或曰。老莱子。亦楚人也」(『史記』「老莊申韓列傳第三」)とあります。
『老子』は、王侯貴族、成功者のテキスト、先ず儒教を学び、しかる後に
『老子』を学ぶのがよいといわれています。。
ほかに、耶律楚材という名の人もいます。字は晋卿だそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B6%E5%BE%8B%E6%A5%9A%E6%9D%90尾張藩は面白い藩で、ほかにも身分の低い人が督学として採用されています。
明倫堂の最初の督学は細井平州、
米沢藩主上杉鷹山の師としても有名です。
この人もまた、現在の東海市の農家の出身です。
ほかにも江戸中期から後期にかけての人で、明倫堂督学となった
塚田大峯もなかなかのやり手でした。
この人の父親は、信濃善光寺の大勧進でした。
==================
★unhoo さん、
いろいろ勉強になりました。
有難うございました。
.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835412/bbgmdb2vdbffcbeh_1/654.html
これで終わり
投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/13 02:59 投稿番号: [653 / 735]
わしが書き続けたのは、紫陽花さんの問いかけにまだ答え終わっていなかったからですが、この先どれだけ書けば終わるのかと、へこたれていたところです。幸い紫陽花さんから中止しようとの建議が出たので、中止します。この投稿へのレスはしないでください。
これは メッセージ 652 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 白髪三千丈
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/12 22:42 投稿番号: [652 / 735]
吉備真備の六代目の子孫が加茂忠行(平安時代)、その子が加茂保憲。
この加茂保憲の弟子が、かの有名な安倍晴明。
その後、加茂家と安倍家の両家で、代々易と暦を司ることになりました。
こひしくばたずねきてみよいずみなるしのだのもりのうらみ葛の葉
は有名です。
超能力があったとされる人には、よく獣祖伝説が見られます。
>台湾人の日常言語を漢字で書く方法は事実上存在せず、<
世界中に文字を持たない民族はゴマンといますから、
無理をすることもないでしょう。
>元の漢文で書いてくれとたのまれたとき、書けないだろうと思う。<
原文で書いてくれと頼まれるような人は、原文くらい覚えているものです。
どうしても訓読したくなければ、漢語で読めばいいでしょう。
>昔、鏡は非常に高価な物であったから、鏡を覗き込む機会は少ない。<
李白が高価な鏡を所有していた、とも、いなかったともいえない。
詩はすべて真実が書いてあるとはいえないから。
李白が、いいとこの娘さんと結婚して生活をしていたころは
鏡くらいあったでしょうし、漂白の旅に鏡持参とも思えない。
>第三句第四句は泣き声である。<
これはいいですね。
驚愕
→
悲哀・苦痛、「泣き声」は秀逸と思います。
★もうこれで終りませんか。
わたし、時間がないし、他にもやりたいことがありますので。
他のトピで何を書かれても、なんでもいいですが、
自分のトピに、これは違うのではないか、と思うことをレスされると
放置できないので、負担になるのです。
unhoo さんは漢学に造詣が深くていらっしゃる。
ご自身でトピをたてられて、思う存分おやりになられたらいかがですか。
漢詩を漢音で読もうがどう読もうが、各自好きなようにしたらいいと思います。
しかし、わたしはやりません、と。
これだけのことです。
.
これは メッセージ 651 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 白髪三千丈
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/12 22:40 投稿番号: [651 / 735]
>支那南部では学問は生まれなかった。<
そんなバカな。乱暴な。
湖南省のあたり、古代楚であったあたりですが、ここには有名な嶽麓書院があります。
朱熹はここの先生でした。
楚の国は、古代、中原諸国とは異なる南方異民族の国でした。
>唐の滅亡によって学問の進歩が終わった。支那の学問に科
学がなかったのは、唐滅亡で学問の進歩が終わったからである。<
惜しいことに科学の発展はストップしてしまいましたが、国学(漢学)の研究は
連綿と続き、清代には古典についての新しい発見など見るべきものがありました。
こういった学問は、注釈の増益という形で成果が残されています。
>漢人は地球を知らず、地球が太陽を公転するという知識もなかったにもかか
わらず、正確な暦を作りあげた。<
はあ・・・。
ちょっと面白いことがあります。
わたしは確認していないのですが、高島俊男先生が、
「沈括(北宋)『夢溪筆談』を読むと、地球が丸くて太陽のまわりをまわっている
ことを、当時の知識人たちは当然のこととして知っていた。
コペルニクスやガリレオより何百年も前のことだ」
と書いておられます。
>日本は支那の学問を輸入したけれども、暦の作りかたがわかった者は一人も
なく、宮廷の暦博士の別名は陰陽師であった。<
吉備真備が717年に遣唐留学生として入唐、このとき23歳。
735年、17年間の留学生活を終えて帰国。
この人が唐で暦の勉強をしてきました。
暦朔を奉ず、という言葉がありますが、他国の暦をそのまま使用することは、
属国となることを意味します。
日本は、吉備真備が勉強してきたことをもととして、まがりなりにも
一応独自の暦を制定、独立国としての面目を保つことができました。
つづく
これは メッセージ 650 (ajisai110701 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835412/bbgmdb2vdbffcbeh_1/651.html
Re: 白髪三千丈
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/12 22:38 投稿番号: [650 / 735]
>国語とされているペキン語にだけ入聲がないのは、ペキン語が中国にオ
リジンを持つ言語でなく、満州民族の言語だった証拠になりそうで、<
これは誤りであると思います。
なぜなら、入声は嘗てたしかに支那に存在したものであることは、
日本語にフ・ク・ツ・チ・キで終る音があることからも明白です。
時代の流れとともに、だんだんと消滅してしまったのです。
ただ何度も言うように、日本語の音は古代漢語の発音を正確にうつしたものでは
ありません。
フ・ク・ツ・チ・キにしたって、fu. ku. tu. ti. ki というように、
日本語の発音では必ず母音で終わりますが、漢語はそうではありません。
英語の発音を思い浮かべてみれば、これがかなりの差異であることは明確です。
清朝は満洲族の征服王朝であり、公用語も漢語・満洲語の両方が使用されて
いましたし、北京語の広い均質性については、地理的事実・歴史的要因・
制度的要因を総合的にとらえてみなければならない。
なによりも人間の移動・移住によるものが大きいと思います。
すべての方言に入声が残っているかどうかは、
方言のすべてを一つ一つ確認したことがないので確たることは言えませんが、
多くの方言に残っていることは事実と思います。
たとえばベトナムに行ったとき、「徳」を「タク」というように発音していたのを
聞いたことがあります。
北京語はたしかに満洲語の影響を大きく受けてはいますが、影響を受けているのは
満洲語だけではなく、ウイグル語やモンゴル語やきっと他にも影響を受けている
ものと考えます。
それから、正確には「満州」ではなく「満洲」です。
いやしくも中国語や中国文学について一家言ある人の使う字ではありません。
明が火徳の王朝であったために、火に勝つためにホンタイジは民族名を満満洲、
国名を清とみなサンズイをつけて水徳の王朝であることを示しました。
日本が満洲と呼び出したのは明治以後で、江戸時代には韃靼といっていました。
つづく
これは メッセージ 649 (unhoo さん)への返信です.
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白髪三千丈
投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/12 19:38 投稿番号: [649 / 735]
白髮三千丈
縁愁似箇長
不知明鏡裏
何處得秋霜
返り点読みで第二句を「愁いによりてかくのごとく長し」と覚えていると、
元の漢文で書いてくれとたのまれたとき、書けないだろうと思う。「えん
しゅうじこちょう」と覚えておけば大丈夫である。
昔、鏡は非常に高価な物であったから、鏡を覗き込む機会は少ない。久しぶ
りに覗き込んで、自分の老けた面相にびっくりした。弱味を見みせまいと
「白髪三千丈」とおどけてみせた。だが第二句では悲しみがかくせない。、
第三句第四句は泣き声である。
これは メッセージ 648 (unhoo さん)への返信です.
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入聲 (続き)
投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/12 16:42 投稿番号: [648 / 735]
民代にイエスズ会士が国へ送った報告書では、(間違い)
明代にイエスズ会士が国へ送った報告書では、(と訂正)
台湾人の日常言語を漢字で書く方法は事実上存在せず、台湾人の熱心者が苦
心研究中です。台湾人が漢字を読むときの発音は日本人が「漢音」で漢字を
棒読みするときにかなり一致します。
これは メッセージ 647 (unhoo さん)への返信です.
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入聲
投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/12 03:53 投稿番号: [647 / 735]
中国各地方言語はおそらくはみな入声ががある。ペキン語だけは入聲がな
い。国語とされているペキン語にだけ入聲がないのは、ペキン語が中国にオ
リジンを持つ言語でなく、満州民族の言語だった証拠になりそうで、現代の
中国人の愛国者は「ペキン語は明代に徐々に形成された」と主張するが無理だ。
台湾語は口語音、文語音ともに入聲がある。台湾語の口語音は支那と呼ばれ
る地域の南部の土語がオリジンである。支那南部では学問は生まれなかった。
学問は黄河流域で、殷、周、漢、唐の異なる民族によって創造され、伝承さ
れ、進歩したが、唐の滅亡によって学問の進歩が終わった。支那の学問に科
学がなかったのは、唐滅亡で学問の進歩が終わったからである。
漢人は地球を知らず、地球が太陽を公転するという知識もなかったにもかか
わらず、正確な暦を作りあげた。驚嘆すべき成功だが、暦学を理論的に叙述
することができなかったので、暦学は難解となり、時代がたつとわかる人が
なくなり、明代にイエスズ会士が地球儀を持ってきて、地動説を教えてか
ら、やっと暦の作り方が支那で蘇生した。
日本は支那の学問を輸入したけれども、暦の作りかたがわかった者は一人も
なく、宮廷の暦博士の別名は陰陽師であった。(続く)
附註;
支那古来の言語と申したのは、黄河流域で伝承された言語のことを
言ったのである。唐が滅亡して、北方民族の遼、金、元が黄河流域を統治下
においたが、この地域の言語は発音、文法ともに大綱を維持したと思う。民
代にイエスズ会士が国へ送った報告書では、北京、南京はPeking、Nankingで
あって、京の字は明代でもまだカ行で読まれいたことがわかる、この事実だ
けでわしは明代の言語はまだ中国の伝統言語だったと断定した。これ以外に
判断の手がかりがばいので。
これは メッセージ 385 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 白髪三千丈
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/11 20:27 投稿番号: [646 / 735]
>日本語漢音の棒読みは、ペキン語読みよりはずっと原音(唐代の音)に近い
はずである。<
だから、声調がともなっていないから無意味と言っています。
日本は、漢字が移入してきたとき、音は採用したけど声調は採用しなかったのです。
だいたい、漢文というものは古代、読む標準語であったのだから、
見てわかればよく、あとは国によって地方によってどんなふうに
読んでも、カラスの勝手だったのです。
だから日本は工夫して日本式に読みました。
>古来の中国語の発音<
>古来の中国語<とは、どこの言語のことをいっているのですか。
厳密に言えば、中国語は中国の方言すべてをふくめた言葉です。
日本人はよく考えずに中国語といっていますが、中国人には違和感があるはず。
>ガギグゲゴの子音が満州族の言語にないためです<
満洲語についてはまったく知りませんが、満洲語子音音節表には確かに
「g」の発音の記載があります。
満洲語で <genggen>
は「弱い」という意味、「強い」は <ganggan> 。
>正岡子規が晩年・・・・<
うたよみはへたこそよけれあめつちの動きいだしてたまるものかは
ってわけですね。
それに賛同するかどうかは、人それぞれ、自由だと思います。
しかし、実際問題、詩は虚構が多い。
虚構だからといって、文学的価値が低いという人は、めずらしい。
実際に、一昨夜のわたしのレスに書いたように充分に評価されています。
しかし、正岡子規の漢文はひどいものだったと・・・・・。笑。
>ところで楓橋夜泊の詩の起句には大嘘があって成功していることに気が付き
ました。「霜満天」という表現です。霜は地上に満ちるものであるが、それ
を「霜が天に満ちた」と大嘘を書いて、厳寒の夜の感じを見事に表現してい
ます。<
古代支那人は、霜は天から降ってくるものだと認識していたのです。
これ、中国文学をやったものなら誰でも知っている定説です。
>李白の白髪三千丈はまさに思い切った大嘘です。<
誰ひとりとして、これがホントのことだとは思っていないでしょう。
わたしは、以下のようにレスをさしあげました。
Re: 楓橋夜泊
張継 2011/10/ 9 21:39 [ No.639
まこれについては、「三千丈」でなければならない理由があるわけではありますが。
以下をご覧になってください。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835412&tid=bbgmdb2vdbffcbeh&sid=1835412&action=m&mid=385.
これは メッセージ 645 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 白髪三千丈
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/11 20:25 投稿番号: [645 / 735]
>台湾人が台湾語の文語音で唐詩を読むときは、唐代の平仄が間違いな
く再現されるそうです。だから台湾人が古文体の詩を作るときには平仄が合
うかどうか心配する必要はないとのことです。<
台湾語というのは、
だいたいにおいて厦門方言でビン(門+虫)語といわれるものですね。
中国南方の福建あたりは、地理的に孤立に近いという理由があって、
北京語やその他の方言のように歴史的な変化は起こらなかった。
ビン南語以外にみられない、極めて古代的ないくつかの特徴が保存されている、
そのことをおっしゃっておられるのでしょう。
平仄ですが、日本人でも明治くらいまでは、あまり意識しなくても自然に
漢詩を作ることができた。
なにしろ、学問といえばまず漢学でしたから。
現代人は、ほとんど漢学を学んでいません。
高校の古典の教科書にわずかに登場するくらいではありませんか。
そういう日本人が、漢詩を作詩しようと思ったら平仄で苦しむのは当然です。
ただし入声に関しては、支那人より日本人のほうが有利です。
ただ上記
><
で囲って引用した部分の前半と後半の因果関係が
よくわかりませんが、入声のことを言っておられるのですか。
支那人であれ、台湾人であれ、日本人であれ、漢詩を作るときは平仄を
無視して「心の欲する所に従って矩を踰えず」とはいかないでしょう。
なぜなら、形式もひとつではなく、それによって平仄の位置も変化する。
「やなぎ」という言葉を使用したいと思うが、ここは平だから「楊」を煎れう、
ここは仄だから「柳」を入れようと、やはり考慮しないわけにはいかない。
>古文体の詩を作って<
平仄や押韻、聯の数など形式のきまりごとのある詩、
絶句や律詩などは近体詩です。
>いったい何のためだとわしは言いたくなります。<
平仄をあわせるためでしょう。
>日本語の漢音で漢詩を棒読みすると・・・多かろう。<
たいして効果はないんじゃないのですか。
音は同じ音で字が異なるものはゴマンとありますから。
訓読、いわゆる書き下し・読み下しというのは、翻訳なのです。
実は、これがわかっていない人が多い。
だから一昔前の日本人なら、訓読にさらに解釈をつけくわえることなど
なかった。
しかし、現代人はその訓読すらなかなかわからなくなってしまっているので
解釈もつけている。
何をいいたいかというと、原文を訓読すればワンステップで意味がわかるのに、
わざわざわけわからんお題目を唱えて手間をふやす必要などないということです。
つづく
これは メッセージ 644 (unhoo さん)への返信です.
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白髪三千丈
投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/11 13:28 投稿番号: [644 / 735]
正岡子規が晩年(と言っても三十二、三歳)短歌改革に乗り出したとき「詩
歌でまことしやかなう嘘を言うな、嘘を言うなら思い切った大嘘でなければ
とならぬ」と言い、万葉集中の大嘘の歌一首と、古今集あたりのまことしや
かな嘘の歌とを並べて見みせたことがあり、わしは子規の卓見に感心しまし
た。子規のころの和歌は、まことしやかな嘘がさかんに出現したので、子規
はそれをけなしたのであります。李白の白髪三千丈はまさに思い切った大嘘
です。
ところで楓橋夜泊の詩の起句には大嘘があって成功していることに気が付き
ました。「霜満天」という表現です。霜は地上に満ちるものであるが、それ
を「霜が天に満ちた」と大嘘を書いて、厳寒の夜の感じを見事に表現してい
ます。
起句の成功と転句の成功とがこの詩を世に残したと言えます。
これは メッセージ 643 (unhoo さん)への返信です.
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Re: 楓橋夜泊 張継
投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/11 05:54 投稿番号: [643 / 735]
>たとえ雲峯さんのおおせのとおり、漢音で声に出して読んだとしても、
漢語には必ず声調がともなっており、ある時代からの漢詩には平仄の
きめごとがあります。
レス:台湾人が台湾語の文語音で唐詩を読むときは、唐代の平仄が間違いな
く再現されるそうです。だから台湾人が古文体の詩を作るときには平仄が合
うかどうか心配する必要はないとのことです。日本各地に俳句や短歌の会が
あるように、わしの若い頃(今から半世紀前以前)には台湾のあちこちにま
だ詩会があって古文体の詩を作って楽しんでいました。そのような詩会の老
人からわしは上記のように平仄に関する話を聞きました。日本人が「漢詩」
を作るときは、平仄を合わせるに辞典を引いて一方ならぬ苦心をするそうで
すが、いったい何のためだとわしは言いたくなります。
日本語の漢音で漢詩を棒読みすると、子音はかなり高い比率で唐代の通りに
なっているとわしは推定します。棒読みで覚えると覚え易い。棒読みで読む
とリズムが生まれて、もとの平仄とは別だが、平板な返り点読みよりも、興
味が出る。返り点読みでは原詩の覚え違い多かろう。
日本語漢音の棒読みは、ペキン語読みよりはずっと原音(唐代の音)に近い
はずである。ペキン語は満州族のなまりが深く侵入していて、古来の中国語
の発音を離れること遠い。台湾の紙幣には圓と印刷されているが、圓の略字
が元である理由は、ガギグゲゴの子音が満州族の言語にないためです。genの
gが無くなってenになったのです。
これは メッセージ 640 (ajisai110701 さん)への返信です.
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Re: 【孫文の志 未だ成らず】辛亥革命100
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/10 23:53 投稿番号: [642 / 735]
孫文の「三民主義」は、一方、蒋介石統治下で独裁体制を強いられてきた
台湾の多くの民衆にとっても、80年代末の李登輝総統の出現によって、
自由・民主・均富という「現代の三民主義」が実現するまでは、
無関係なスローガンであった。
実際、李登輝氏自身、辛亥革命や孫文については、
全くといっていいほど語っていない。
中国と台湾の社会的現実と孫文の位置との大きな乖離(かいり)にも
かかわらず、孫文がなお絶対的な存在として扱われているのは、
政治的に利用するためにほかならない。
私自身、このことに関して貴重な経験をしている。
あれは、66年11月12日に、北京の人民大会堂で
「孫文生誕百周年記念大会」が開かれたときのことだった。
≪生誕百年記念に見た政治利用≫
最近も、東京と長崎で、「孫文と梅屋庄吉」に関する展覧会が開かれていたが、
孫文の革命には、日比谷松本楼の梅屋や九州の宮崎滔天ら日本人が支援を
したというので、私たち日本代表団は最前列に席を与えられていた。
ヒナ壇には周恩来首相や孫文夫人の宋慶齢国家副主席ら錚々(そうそう)
たる要人が並んでいるのに、肝心の劉少奇国家主席とトウ小平総書記の姿がない。
訝(いぶか)っていると、劉、トウの2人が舞台の右手から遅れて登壇した。
しかし、全く拍手が沸き起こらない。
私はその瞬間に、これが実権派打倒を掲げた文化大革命の現実なのだと
悟ったのだが、大会が始まると、孫文生誕百周年記念という本旨は
そっちのけで、周恩来まで「毛主席万歳!
万々歳!」を絶叫していた。
それは孫文の政治利用以外の何物でもなかった。
台湾の総統選挙が来年1月に迫ってきただけに、中国との関係の密接化を
求める国民党の馬英九総統は、再選を目指して、「国父」孫文の功績を
大いに活用するであろうし、民進党主席の蔡英文女史は「国父」との距離を
あえて目立たせるであろう。
この点にこそ、「中華民国百年」の今日的意味があるといえるのかもしれない。
(なかじま
みねお)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★中共は太平洋に自由に出るために、台湾がほしくてしかたがないのだ。
台湾が中共の手におちれば、次は尖閣を含む沖縄がやられる。
★来年一月の台湾総統選挙に再度、馬英九が勝利したら、
そのときは
――台湾終了――だ。
台湾総統は二期まではできる。
はじめの一期は、次の選挙に出ることを考えたら、やみくもに無茶はできなす。
やりすぎると落選するからだ。
しかし・・もう次がないことがわかっている二期めだったら、
やりたいほうだいやるだろう。
馬は台湾人ではなく、中国人だ。
台湾の人たちは、わかっているのだろうか。
★蔡英文女史を応援します。台湾と日本のために。アジアのために。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835412&tid=bbgmdb2vdbffcbeh&sid=1835412&action=m&mid=269http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835412&tid=bbgmdb2vdbffcbeh&sid=1835412&mid=270#under-deli.
これは メッセージ 269 (ajisai110701 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835412/bbgmdb2vdbffcbeh_1/642.html
辛亥革命の今日的な意味は何か
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/10 23:49 投稿番号: [641 / 735]
【正論】
国際教養大学理事長・学長
中嶋嶺雄
辛亥革命の今日的な意味は何か
2011.10.10 02:59 (1/3ページ)[正論]
産経ニュース
今日10月10日は、辛亥革命の発端となった武昌(現在は武漢市に統合)
での蜂起(1911年)から百周年の記念日である。
中華民国の建国に扉を開いた辛亥革命はまさに、
中国近代史の大きな分水嶺となった出来事であった。
辛亥革命の結果、翌12年の元日には、米国から帰国した孫文が
中華民国臨時大総統就任を南京で宣言し、270年余の歴史を
誇った清朝は翌2月に崩壊した。
だが、孫文は北洋軍閥を率いてきた清朝の軍事指導者、袁世凱に
その地位を奪われ、以後、中国は軍閥割拠の混乱を余儀なくされる。
孫文は、「革命未だ成らず」との有名な遺嘱(いしょく)を残して、
25年3月に没するのだが、結局は当時のソ連とコミンテルンに頼るという、
「連ソ容共」政策に向かい、中国を革命と内戦の時代に招じ入れてしまった。
その間には、19年の日本の21カ条要求に抵抗する五四運動や2度に
わたる国共合作とその破綻によって、中国共産党の毛沢東と中国国民党の
蒋介石という2人のリーダーが歴史の前面に登場することになり、
49年の中華人民共和国成立以後も、中国国民党と中国共産党との対立と
違和は存在し続けて、今日に至っている。
≪号「中山」は日本の表札から≫
孫文については多くのことが語り尽くされながら、
その実像については意外に知られていない。
例えば、孫文の号は孫中山で、中国にも台湾にも「中山公園」や「中山路」
など「中山」を冠した場所や建物は数多くあるが、孫文が東京・日比谷の
宿屋に名を秘して泊まった際、通りがかりに見た表札の「中山」を使った
のがそのいわれであることや、広東省香山の客家(ハッカ)(中華文化発祥の地、
古代の中原などをルーツとし、後に戦乱を逃れて南に下った正統な漢民族)
の出身であった孫文が客家語と広東語のどちらが得意であったかも
一般には分かっていない。
晩年は著名な宋家の慶齢を夫人としたのだが、数多くの女性と関係があり、
横浜には2人の日本人女性がいて子供もあったことなども、直木賞作家の
西木正明氏が実に丹念に調べ上げた本、『孫文の女』(文藝春秋)
を出すまで、全く明らかにされていなかった。
≪孫文の位置、中台社会と乖離≫
孫文は中国でも台湾でも、「中国革命の父」として、または「国父」
としての尊称を得て、いずれにも巨大な像が建てられている。
だが、その孫文の言説と現実社会の間には、
中国においても台湾においても、大きな背理がある。
孫文が唱えた三民主義は、民族(漢族独立)・民権(民国創立)・
民生(地権平均)の実現を構想したものである。
また、「五族共和」は漢(漢族)・満(満州族)・蒙(モンゴル族)・
回(イスラム教徒)・蔵(チベット族)の平等な共存を理想とするものであった。
いずれもしかし、共産党の一党独裁と漢民族の優位を実行している
今日の中国には全く馴染まない。
最近のウイグル族(イスラム教徒)やチベット族、内蒙古自治区のモンゴル族
に対する弾圧や、漢族による満州族同化政策が、そのことを雄弁に物語っている。
つづく
これは メッセージ 269 (ajisai110701 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835412/bbgmdb2vdbffcbeh_1/641.html
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