紫陽花亭日乗

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二二八紀念碑碑文

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/08/01 19:56 投稿番号: [235 / 735]
二二八紀念碑碑文

一九四五年。日本は敗戦、投降した。
そのニュースが伝わるや万民は喜びに沸き立ち、
不当不正義の殖民統治よりの脱離を慶祝した。

しかるに台湾省行政長官陳儀は、接収和合の重責を双肩に担いながらも、
民情に暗く、施政偏頗にして、台民を差別排除し、加うるに官紀の腐敗を
以って、産銷は均衡を失い、物価は暴騰、失業は深刻となり、
民衆の不満嫌気は沸点にまで達した。

一九四七年二月二十七日。
専売局役人が台北市延平北路におけるヤミ煙草の取締りに際し、
女性の売り子を殴打負傷させ、たまたま居合わせた民衆の一人を誤殺、
民衆の憤激を惹起するに至った。
翌日、台北の群衆はデモ行進を行い、専売局長官公署に凶暴役人の懲罰を
求めたが、予想外の銃撃に遭遇、死傷者数人を出した。
かくして火に油を注ぐ結果となり怒りの炎燃え滾る全面抗争となった。

争端の解決及び積怨の解消をはかり、各地の士紳は事件処理委員会を結成、
協議の調停、並びに政治改革に対する要求を提出する。
しかるに陳儀は、暗愚頑迷にして、一方では協議をなすも、また一方にては
士紳を以って不忠謀反の輩となし、ただちに南京に対し兵を請う。

国民政府主席蒋中正は一報を聞くや、ただちに兵を台湾に派遣した。
三月八日、二十一師団は師団長劉雨卿が指揮の下基隆に上陸した。

十日、台湾全土に戒厳令が発令され、警備総司令部参謀長柯遠芬、
基隆要塞司令史宏熹、高雄要塞司令彭孟緝及び憲兵団長張慕陶らは
農村を攻撃、鎮圧するに際し、無辜の民を巻き添えとなし、
数月の間に、死傷者、行方不明者の数は万を以って数え、中でも基隆、
台北、嘉義、高雄が最も悲惨であり、世にこれを二二八事件と称した。

その後半世紀になんなんとするも、台湾は長期にわたり戒厳令下にあり、
政府民間ともに口を噤むこと寒蝉のごとく、
敢えてこの一の禁忌に触及することはなかった。

然るに冤憤の鬱積するは、結局のところあまねく洩れ伝わるところとなり、
外省内省の籍の猜疑と統一独立の議論が行なわれ、属をとがめ憂を隠した。

一九八七年、戒厳令解除後も各界の深々たる重病感は和らぐことなく、
安寧和合の困難な時期が続いた。
そこで二二八事件の調査研究を行なうこととなり、国家元首の歉意を表明、
受難者とその家属への補償、さらには記念碑建立へと及ぶ。

社会の巨創の療治は、全国民ともに心力を尽くすのいかんにかかる。

石碑の鐫刻碑文は、亡者にそのことあるを告知慰撫し天の霊たらしめ、
受難者及びその家属の悲憤の情を鎮撫し、併せて国人に警示し、
引いて殷鑑と為さしむを旨とする。

今より後、彼我を分かつことなく一体となり、互いに協力するに愛を
以ってし、ともに恃むに誠を以ってし、仇恨を形無きものと化し、
和平を永遠恒久にはからんとするものである。

天佑の宝島(フォルモサ)は、万古長青なり。

財団法人二二八事件紀念基金会   謹立
中華民国八十六年二月二十八日


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