Re: 『史記』「管晏列傳第二」
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/30 21:30 投稿番号: [225 / 735]
◆晏嬰のエピソード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8F%E5%AC%B0
① >社稷のために [編集]
次代の荘公の時の紀元前551年、晋の卿(大臣格の貴族)の欒盈(らんえい)が
士●(范●)との権力争いに敗れて、斉へ亡命してきた。
●・・・ツツミガマエ のなかに 「亡」
荘公はこれを歓迎して復讐に手を貸そうとし、
晏嬰はこれに大反対するが、受け入れられなかった。
荘公は度々の晏嬰の諫言を疎ましく思うようになり、それを感じとった
晏嬰は職を辞して農民となり、畑を耕すようになった。
荘公は宰相・崔杼の妻と密通していた。
この事に怒った崔杼は紀元前548年5月、自分の家に荘公をおびき寄せ、
兵をもって殺した。
これを聞いた晏嬰は急いで駆けつけた。
もし荘公を悼む様子を見せれば崔杼によって殺され、
崔杼におもねれば不忠の臣としての悪名を受けることになる。
これに対して晏嬰は「君主が社稷のために死んだのならば私も死のう。
君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。
しかし君主の私事のためならば近臣(直臣)以外はお供する理由はない。」
と言って、型通りの哭礼だけを行って帰っていった。
崔杼の家臣が晏嬰を殺そうとしたが、崔杼はこれを止めた。<
★「君主が社稷のために死んだのならば私も死のう。
君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。
しかし君主の私事のためならば近臣(直臣)以外はお供する理由はない。」
と言って、型通りの哭礼だけを行って帰っていった。
これこそが、真の官僚といえる、官僚としてのあるべき態度。
当時の臣下の常識と比較して新鮮。
たぶん、ここで官僚という新しい概念ができたものと思われます。
それまでは、「主君のために働く」というのが当然の考え、
ところが晏子は「社稷のため」に働くと宣言しています。
★社稷・・・「社」は土地の神。「稷」は穀物の神。
天子・諸侯は必ずこの二神を祀ったところから、
転じて「国家」のことを「社稷」という。
========================================================== =
◆ついでに「官吏」という言葉の説明を・・・・・。
「官」とは、原則として科挙に及第することを要し、その後は勤務成績
しだいで昇進して宰相の地位にのぼることも可能。
「官」に転任があり、その官庁の実務には疎いことが少なくない。
「吏」とは、昇進がなく生涯その職場で終る。
多くはその土地のもの。
地位は世襲であり、株を譲渡することもできる。
実務をとるのは「吏」。
3007
========================================
「紫陽花亭日乗」No.185 再掲
梁甫吟 無名氏
歩出斉城門 歩して斉の城門を出で
遥望蕩陰里 遥に望む 蕩陰(とういん)の里
里中有三墳 里中に三墳有り
塁塁正相似 塁塁として正に相い似たり
問是誰家墓 問う是れ誰が家の墓ぞ
田疆古冶子 田疆古冶子(でんきょうこやし)
力能排南山 力能く南山を排し
文能絶地紀 文能く地紀を絶つ
一朝被讒言 一朝 讒言を被り
二桃殺三士 二桃 三士を殺す
誰能為此謀 誰か能く此の謀(はかりごと)を為せる
国相斉晏子 国相斉の晏子なり
二桃三士
奇策によって人を自滅させること。
春秋時代、斉(せい)の景公の宰相・晏子(あんし)が用いた奇策で、
三人の粗暴な勇士(公孫接・田開疆(かいきょう)・古冶子(やし))に
二つの桃を贈って、最も功績のあった者が食べるようにしむけて三人に
争わせたところ、ついには三人とも自殺してしまったという故事に基づく。
己れの勲功を述べ立てて、いち早く桃を取った公孫接と田開疆は、
古冶子の反論にあって恥じ入って自害した。
残った古冶子は一人生きるのは不義であるとして果てた。
『晏子春秋・諫下』に見える。
★諸葛孔明はこの詩を好んで口ずさんでいたそうです。
★墳墓の主として、詩のなかに公孫接の名がないのが、少し気になります。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8F%E5%AC%B0
① >社稷のために [編集]
次代の荘公の時の紀元前551年、晋の卿(大臣格の貴族)の欒盈(らんえい)が
士●(范●)との権力争いに敗れて、斉へ亡命してきた。
●・・・ツツミガマエ のなかに 「亡」
荘公はこれを歓迎して復讐に手を貸そうとし、
晏嬰はこれに大反対するが、受け入れられなかった。
荘公は度々の晏嬰の諫言を疎ましく思うようになり、それを感じとった
晏嬰は職を辞して農民となり、畑を耕すようになった。
荘公は宰相・崔杼の妻と密通していた。
この事に怒った崔杼は紀元前548年5月、自分の家に荘公をおびき寄せ、
兵をもって殺した。
これを聞いた晏嬰は急いで駆けつけた。
もし荘公を悼む様子を見せれば崔杼によって殺され、
崔杼におもねれば不忠の臣としての悪名を受けることになる。
これに対して晏嬰は「君主が社稷のために死んだのならば私も死のう。
君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。
しかし君主の私事のためならば近臣(直臣)以外はお供する理由はない。」
と言って、型通りの哭礼だけを行って帰っていった。
崔杼の家臣が晏嬰を殺そうとしたが、崔杼はこれを止めた。<
★「君主が社稷のために死んだのならば私も死のう。
君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。
しかし君主の私事のためならば近臣(直臣)以外はお供する理由はない。」
と言って、型通りの哭礼だけを行って帰っていった。
これこそが、真の官僚といえる、官僚としてのあるべき態度。
当時の臣下の常識と比較して新鮮。
たぶん、ここで官僚という新しい概念ができたものと思われます。
それまでは、「主君のために働く」というのが当然の考え、
ところが晏子は「社稷のため」に働くと宣言しています。
★社稷・・・「社」は土地の神。「稷」は穀物の神。
天子・諸侯は必ずこの二神を祀ったところから、
転じて「国家」のことを「社稷」という。
========================================================== =
◆ついでに「官吏」という言葉の説明を・・・・・。
「官」とは、原則として科挙に及第することを要し、その後は勤務成績
しだいで昇進して宰相の地位にのぼることも可能。
「官」に転任があり、その官庁の実務には疎いことが少なくない。
「吏」とは、昇進がなく生涯その職場で終る。
多くはその土地のもの。
地位は世襲であり、株を譲渡することもできる。
実務をとるのは「吏」。
3007
========================================
「紫陽花亭日乗」No.185 再掲
梁甫吟 無名氏
歩出斉城門 歩して斉の城門を出で
遥望蕩陰里 遥に望む 蕩陰(とういん)の里
里中有三墳 里中に三墳有り
塁塁正相似 塁塁として正に相い似たり
問是誰家墓 問う是れ誰が家の墓ぞ
田疆古冶子 田疆古冶子(でんきょうこやし)
力能排南山 力能く南山を排し
文能絶地紀 文能く地紀を絶つ
一朝被讒言 一朝 讒言を被り
二桃殺三士 二桃 三士を殺す
誰能為此謀 誰か能く此の謀(はかりごと)を為せる
国相斉晏子 国相斉の晏子なり
二桃三士
奇策によって人を自滅させること。
春秋時代、斉(せい)の景公の宰相・晏子(あんし)が用いた奇策で、
三人の粗暴な勇士(公孫接・田開疆(かいきょう)・古冶子(やし))に
二つの桃を贈って、最も功績のあった者が食べるようにしむけて三人に
争わせたところ、ついには三人とも自殺してしまったという故事に基づく。
己れの勲功を述べ立てて、いち早く桃を取った公孫接と田開疆は、
古冶子の反論にあって恥じ入って自害した。
残った古冶子は一人生きるのは不義であるとして果てた。
『晏子春秋・諫下』に見える。
★諸葛孔明はこの詩を好んで口ずさんでいたそうです。
★墳墓の主として、詩のなかに公孫接の名がないのが、少し気になります。
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これは メッセージ 224 (ajisai110701 さん)への返信です.
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