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7月26日 最後通牒の手交 1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/11/21 15:20 投稿番号: [643 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
306〜307p

《 枚挙にいとまない二十九軍の不信行為、さすがに隠忍を重ねた天津軍司令部も
業を煮やした。 ことに郎坊事件の勃発によってその憤激は極度に達した。

ここにおいて軍は遂に、自衛権発動の見地上、軍本然の任務に還元し、
断乎席懲の師を起すことを決意したのである。

七月二十六日午前十一時半、天津軍司令部から北京特務機関長宛
「第二十九軍に与うるの書」   という、最後通牒的文書が発せられてきた。



一方、東京三宅坂の軍中枢にも、その最後の決意が報告された。
参謀本部作戦部長石原莞爾少将は、由来北進論の急先鋒だった。

ソ連をたたくためには中国など顧みている余裕はない、というのがその持論であった。

だから盧溝橋事件に対しては、徹頭徹尾不拡大方針を堅持し続け、
中央の空気を引ずり回した迫力はさすがであった。

「中国と事を構えるくらいなら、いっその事、天津軍司令官以下一兵に至るまで、
ことごとく満州国境まで引き退げてしまえ」

この一語は有名であり、彼の主張がいかに強硬だったかが窺われる。
だが、その作戦部長すらも、郎坊以後はついにさじを投げた形だった。



ここにおいて最高統帥は、天津軍司令官に対しその要請を認可した。
二十六日午後二時三十分、軍司令官香月清司中将は松井機関長あて

「貴官は直ちに宋哲元と会見し、前電 第二十九軍に与うるの書を手交すべし」
との電報を発してきた。

この日、北京の空は心地よく晴れていた。 百何十度の炎熱は頭の真上から
ジリジリ照りつけて、拭っても拭っても玉の汗が頼を伝って滴り落ちた。

それでも機関員達は、元気に充ち溢れていた。 いつの間に集ったのか新聞通信員達が、
機関の玄関前にカメラの包囲陣を布き、機関長一行の出馬を待ち構えている。



この歴史的通告の場面には、松井特務機関長の随員として、駐屯軍参謀大木良枝少佐、
私、そして武田嘱託が通訳として進徳社に同行する事となった。

紫の帛紗 (ふくさ) に包んだ通告書を、大切に抱え込んだ私は、午後三時三十分、
機関長に続いて北機第一号車に乗り込んだ。一行はこの日皆、背広を着ていた。

車は目ぬきの大通り王府井 (ワンフーチン) 大街へとさしかかった。
プラタナスの街路樹の木陰では、露天商人が鐘を鳴らし、

酸梅湯 (ソンメイタン) のはかり売りをやっている。大道理髪師はビーンという
音叉の音を響かせながら、理髪道具を荷って歩いていた。

最後の通牒とはおよそ縁の遠い、平和な風景がそこここにあった。



車は鉄獅子胡同、その名もいかめしい冀察の心臓部にかかっていた。

王者の邸宅を偲ばせて、丹青の美を凝らした豪華麗な純中国風の大建築、
これが宋哲元の弁公庁であり、また今日の会見場となる進徳社だった。

衛隊の兵数名が厳重にその入口を固めていた。我々の車がその大玄関に横付けにされると、
接待係の背の高い中尉が一行を内に誘導した。

金碧燦爛 (きんペきさんらん)、 色彩りもケバケバしい柱や欄間、
天井、進徳社の内部は日光の廟宇のそれにもまして美しかった。

我々は入って右側の控え室で、十分ばかりも待たされた。私はつぶやいた。

「正式会見の代表を、こんな控え室に十分以上も待たせるなんて   −
時間はあれほど念を入れて打ち合せしといたのに」》


つづく
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