7月28〜29日 宋哲元の撤退と蜂起指令
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/21 18:44 投稿番号: [673 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
48〜51p
《 宋哲元は、緊急幹部会議をひらき、 「堅守北京」 か、それとも
「退守保定」 かの選択を協議した。
蒋介石の命令を守って北京で戦いぬくべきだとの意見と、北京の 「文化」 と
「古城」 を灰燼にすべきではないとの主張が対立したが、宋哲元は 「退却」 を決断した。
宋哲元は、自身の第二十九軍長以外の職務である冀察政務委員会委員長、
冀察綏靖公署主任、また副軍長秦徳純の兼職の北京市長を
第三十八師長張自忠に代理させることにし、午後十時すぎ、
乗用車で北京・西直門から保定にむかい南下した。
退去は日本側にも事前通告していたが、それにしても、蒋介石に
「固守」 を誓言してから、わずか二十四時間余の北京放棄である。
「歴代古都、竟淪犬豕矣! 悲痛何如!」
(歴代の古都がついに犬、ブタの徒に汚されるのか、なんと悲しいことか)
蒋介石は、宋哲元の退去を知ると、そう日誌に記述して嘆息したが、
同時に、軍費 「五十万元」 をおくる旨を宋哲元に打電した。
南苑での敗戦と照合すれば、北京の固守はすでに非現実的であり、このさいは、
むしろ、宋哲元を鼓舞して戦意を強化させるのが得策と判断されたからである。
だが、
宋哲元も、戦意を失っていたわけではなかった。
退却を決断したあと、宋哲元は、なお日本軍の北京占領を牽制する手段として、
通州と天津に分駐する冀東保安隊と第三十八師の一部に 〝蜂起〟 を指令していたのである。
指令は、実行された。
七月二十九日午前二時すぎ、天津の第三十八師副師長李文田は、
天津市府秘書長馬彦○(羽+中) とともに約五千人の兵力で天津車站(駅)、
東機器局、飛行場、日本租界、支那駐屯軍司令部などを襲撃した。
しかし、保安隊が参加しなかったこともあって、いずれも撃退された。
通州の場合は、しかし、事情が相違していた。
通州には、中国軍部隊として、独立第三十九旅第七一七団第一営 (傅鴻恩) が、
郊外に駐屯していたが、二十七日、支那駐屯軍歩兵第二連隊主力の攻撃をうけて、退却した。
第二連隊は、前述したように南苑攻撃に参加するが、その前に通州の安全を
確保するために中国側の武装解除をもとめ、拒否されたので 「撃攘」 したのである。
これで、通州は 「無事の街」 になったとみなされた。
通州は、親日政権 「冀東防共自治政府」 の所在地であり、
四個総隊と教導総隊から成る冀東保安隊のうち、
第一、第二総隊および教導総隊約三千人が駐留している。
第三、第四総隊は天津に分駐していたが、宋哲元の 〝蜂起〟 指令に背をむけた。
通州の保安隊も同様に親日心に富むものとみなされ、しかも、野砲を持つ強力な
存在なので、第二連隊が南苑にむかったあとも、警備能力は十分だと考えられたからである。
ところが、実際には、第一総隊長兼教導総隊長張慶餘、第二総隊長張硯田は、
既述したように、ひそかに宋哲元に服従している。
しかも、保安隊員のほとんどは血気にはやる十八〜二十歳の青年であり、南苑
戦闘にかんしては、中国側が勝ったとのラジオ、新聞の逆宣伝を信じて興奮していた。
それだけに、宋哲元の 〝蜂起〟 指令をうけると、文字どおりに
「武者ぶるい」 して蹶起 (けっき) した。》
つづく
48〜51p
《 宋哲元は、緊急幹部会議をひらき、 「堅守北京」 か、それとも
「退守保定」 かの選択を協議した。
蒋介石の命令を守って北京で戦いぬくべきだとの意見と、北京の 「文化」 と
「古城」 を灰燼にすべきではないとの主張が対立したが、宋哲元は 「退却」 を決断した。
宋哲元は、自身の第二十九軍長以外の職務である冀察政務委員会委員長、
冀察綏靖公署主任、また副軍長秦徳純の兼職の北京市長を
第三十八師長張自忠に代理させることにし、午後十時すぎ、
乗用車で北京・西直門から保定にむかい南下した。
退去は日本側にも事前通告していたが、それにしても、蒋介石に
「固守」 を誓言してから、わずか二十四時間余の北京放棄である。
「歴代古都、竟淪犬豕矣! 悲痛何如!」
(歴代の古都がついに犬、ブタの徒に汚されるのか、なんと悲しいことか)
蒋介石は、宋哲元の退去を知ると、そう日誌に記述して嘆息したが、
同時に、軍費 「五十万元」 をおくる旨を宋哲元に打電した。
南苑での敗戦と照合すれば、北京の固守はすでに非現実的であり、このさいは、
むしろ、宋哲元を鼓舞して戦意を強化させるのが得策と判断されたからである。
だが、
宋哲元も、戦意を失っていたわけではなかった。
退却を決断したあと、宋哲元は、なお日本軍の北京占領を牽制する手段として、
通州と天津に分駐する冀東保安隊と第三十八師の一部に 〝蜂起〟 を指令していたのである。
指令は、実行された。
七月二十九日午前二時すぎ、天津の第三十八師副師長李文田は、
天津市府秘書長馬彦○(羽+中) とともに約五千人の兵力で天津車站(駅)、
東機器局、飛行場、日本租界、支那駐屯軍司令部などを襲撃した。
しかし、保安隊が参加しなかったこともあって、いずれも撃退された。
通州の場合は、しかし、事情が相違していた。
通州には、中国軍部隊として、独立第三十九旅第七一七団第一営 (傅鴻恩) が、
郊外に駐屯していたが、二十七日、支那駐屯軍歩兵第二連隊主力の攻撃をうけて、退却した。
第二連隊は、前述したように南苑攻撃に参加するが、その前に通州の安全を
確保するために中国側の武装解除をもとめ、拒否されたので 「撃攘」 したのである。
これで、通州は 「無事の街」 になったとみなされた。
通州は、親日政権 「冀東防共自治政府」 の所在地であり、
四個総隊と教導総隊から成る冀東保安隊のうち、
第一、第二総隊および教導総隊約三千人が駐留している。
第三、第四総隊は天津に分駐していたが、宋哲元の 〝蜂起〟 指令に背をむけた。
通州の保安隊も同様に親日心に富むものとみなされ、しかも、野砲を持つ強力な
存在なので、第二連隊が南苑にむかったあとも、警備能力は十分だと考えられたからである。
ところが、実際には、第一総隊長兼教導総隊長張慶餘、第二総隊長張硯田は、
既述したように、ひそかに宋哲元に服従している。
しかも、保安隊員のほとんどは血気にはやる十八〜二十歳の青年であり、南苑
戦闘にかんしては、中国側が勝ったとのラジオ、新聞の逆宣伝を信じて興奮していた。
それだけに、宋哲元の 〝蜂起〟 指令をうけると、文字どおりに
「武者ぶるい」 して蹶起 (けっき) した。》
つづく
これは メッセージ 671 (kireigotowadame さん)への返信です.