7月26〜27日 通州事件の前段階
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/11 15:00 投稿番号: [663 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
367〜368p
《 七月二十六日未明、郎坊事件が勃発し、夜、また広安門事件がひき起された。
目まぐるしいまでに矢継ぎばやの情勢の激変、ここにおいて通州特務機関は、
急遽対策を講じなければならないいくつかの問題に直面した。
その中、最も急を要するものが、常時通州新南門外宝通寺に駐屯している
二十九軍の一ヶ営、これの処理対策である。
この部隊はもともと、独立第三十九旅長阮玄武 (げんげんぶ) の隷下に属し、
歩兵少校傅鴻恩 (ふこうおん) を営長とする七百十七団の第一営だった。
傅鴻恩は年のころ三十五、六歳、がっちりしたタイプで、識見才能は
あまりない一介の武弁に過ぎなかった。
だから盧溝橋事件勃発直後、まずその身の撮り方について、
心配し始めたのもこの営長だった。
彼は腹心の密使を細木機関長のもとに派し 「万一事態拡大の暁には、
私はこの第一営を提げて、早速日本側に寝返りを打ちます」 と申し出て来た。
細木機関長はその具体的方法の取り決めに関し、わざわざ憲兵を連絡に出したけれど、
傅鴻恩は逃げを打って曖昧な態度を示す。
そして重火器を持ったまま、冀東保安隊に改編して欲しい様子を示した。
これでは、いつ冀察側に寝返るかわからず、
虎を野に放っておくようなものだと判断した機関では、二十六日夜、
傅鴻恩部隊武装解除の対策を討議し、結局、次のような通告文をつくり上げた。
通 告
盧溝橋事件勃発以来、我が軍が終始平和を冀念して行なった数次の折衝も
その効なく二十九軍は常に不信と不義とをもって我に対応し、
本日またまた郎坊方面に、重大な事態を惹起した事は甚だ遺憾とするところである。
我が軍は、現下の情勢に鑑み、貴部隊が停戦協定線上に駐屯せられる事は、
在留邦人の保全と、冀東の安寧に害がある事を認め、ここに貴軍に対し、
二十七日 午前三時までその武装を解除し、北京に向って撤退せられん事を要求する。
もし右の要求が実行に移されない場合、軍は爾後、独自の行動を出ずる事があるで
あろう。この際生ずる一切の責任は、当然貴方において負われるべき性質のものである。
なお、武装解除に応ぜられる場合、将校に限り、
日本武士道の精神に則 (のっと) り、特に刀を帯びる事を許容する。
この通告文は憲兵分駐所長足立喜代に軍曹の手を経て、営長傅鴻恩のもとに
送り届けられた。だが容易に回答なく、機関はついに攻撃の決意を固めた。
その夜深更、通州守備隊の一室で、萱島大佐、細木中佐、小山砲兵隊長、
藤尾守備隊長等による軍事会議が開かれた。
そして新南門外に駐屯する二十九軍に対しては、もはや武力に訴える外、
他に解決の策なしと一決した。萱島連隊長はその場で作戦命令を起案した。
部隊は直ちに攻撃のための部署についた。折りからの闇を縫って品部大隊は
南西城壁一帯の線にまた安岡大隊は旧南門から鉄道線路にわたる間に展開、
小山哲郎中佐の指揮する砲兵隊は、無線電信所付近に陣地進入を終り、命令一下
いつでも、中国軍の頭上に巨弾を浴せかけられるよう、万般の準備が整えられた。》
つづく
367〜368p
《 七月二十六日未明、郎坊事件が勃発し、夜、また広安門事件がひき起された。
目まぐるしいまでに矢継ぎばやの情勢の激変、ここにおいて通州特務機関は、
急遽対策を講じなければならないいくつかの問題に直面した。
その中、最も急を要するものが、常時通州新南門外宝通寺に駐屯している
二十九軍の一ヶ営、これの処理対策である。
この部隊はもともと、独立第三十九旅長阮玄武 (げんげんぶ) の隷下に属し、
歩兵少校傅鴻恩 (ふこうおん) を営長とする七百十七団の第一営だった。
傅鴻恩は年のころ三十五、六歳、がっちりしたタイプで、識見才能は
あまりない一介の武弁に過ぎなかった。
だから盧溝橋事件勃発直後、まずその身の撮り方について、
心配し始めたのもこの営長だった。
彼は腹心の密使を細木機関長のもとに派し 「万一事態拡大の暁には、
私はこの第一営を提げて、早速日本側に寝返りを打ちます」 と申し出て来た。
細木機関長はその具体的方法の取り決めに関し、わざわざ憲兵を連絡に出したけれど、
傅鴻恩は逃げを打って曖昧な態度を示す。
そして重火器を持ったまま、冀東保安隊に改編して欲しい様子を示した。
これでは、いつ冀察側に寝返るかわからず、
虎を野に放っておくようなものだと判断した機関では、二十六日夜、
傅鴻恩部隊武装解除の対策を討議し、結局、次のような通告文をつくり上げた。
通 告
盧溝橋事件勃発以来、我が軍が終始平和を冀念して行なった数次の折衝も
その効なく二十九軍は常に不信と不義とをもって我に対応し、
本日またまた郎坊方面に、重大な事態を惹起した事は甚だ遺憾とするところである。
我が軍は、現下の情勢に鑑み、貴部隊が停戦協定線上に駐屯せられる事は、
在留邦人の保全と、冀東の安寧に害がある事を認め、ここに貴軍に対し、
二十七日 午前三時までその武装を解除し、北京に向って撤退せられん事を要求する。
もし右の要求が実行に移されない場合、軍は爾後、独自の行動を出ずる事があるで
あろう。この際生ずる一切の責任は、当然貴方において負われるべき性質のものである。
なお、武装解除に応ぜられる場合、将校に限り、
日本武士道の精神に則 (のっと) り、特に刀を帯びる事を許容する。
この通告文は憲兵分駐所長足立喜代に軍曹の手を経て、営長傅鴻恩のもとに
送り届けられた。だが容易に回答なく、機関はついに攻撃の決意を固めた。
その夜深更、通州守備隊の一室で、萱島大佐、細木中佐、小山砲兵隊長、
藤尾守備隊長等による軍事会議が開かれた。
そして新南門外に駐屯する二十九軍に対しては、もはや武力に訴える外、
他に解決の策なしと一決した。萱島連隊長はその場で作戦命令を起案した。
部隊は直ちに攻撃のための部署についた。折りからの闇を縫って品部大隊は
南西城壁一帯の線にまた安岡大隊は旧南門から鉄道線路にわたる間に展開、
小山哲郎中佐の指揮する砲兵隊は、無線電信所付近に陣地進入を終り、命令一下
いつでも、中国軍の頭上に巨弾を浴せかけられるよう、万般の準備が整えられた。》
つづく
これは メッセージ 662 (kireigotowadame さん)への返信です.