1939年11月 汪政権と日本の思惑のずれ2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2013/02/02 14:52 投稿番号: [2221 / 2250]
晴気慶胤著
『上海テロ工作76号』
毎日新聞社
130〜131p
《 影佐少将
(進級)
は日本の中央部に意見を具申して、
新中央政府をつくる前に近衛声明を具体化し、
これら見解の相違を調整しなければならないと強調した。
こうして汪兆銘の和平運動は、日本との国交の回復を議する交渉と一転し、
汪側は重慶に対する工作を放置して、
近衛声明を日本にどうして実行させるかだけに没頭し、
日本も意見の交換とその調整に精力を使い減らした。
だが、その頃こそは和平を策する絶好の機会であったのである。
重慶政府は前に述べたごとき危機に臨んでいた。
この機に処してあらゆる努力を事変の処理にだけ集中して、
和平を争い取るべきであったが、日本の当局と一派の首脳は、
和平を求める手段に過ぎない新政府の樹立の手続きにのみ熱中して
本来の目的を忘れ、いたずらに蝸牛角上の理論闘争に終止し、
遂にこの好機を逸したのであった。
すなわち日本政府は近衛声明を具体化すべく、十月ごろまで数十回の会議を重ねた揚句、
双方の意見を折衷した妥協案を作ったが、現地軍にも汪側にも不満が多く、
議論は沸騰して果てなかった。それに会議難航の噂は悪質なデマとなり、
重慶側の逆宣伝と相まって汪工作は失敗したとまで伝えられた。
しかし、影佐少将の隠忍と周仏海の努力によって、さしも難産をきわめたこの交渉も
「新政権に対する具体的協力方案」
となって、十一月に決定した。
「協力方案」
には周仏海も内心不満ではあったが、
戦争がつづいている現状では仕方がないと、そのまま上海に持ち帰った。
高宗武、陶希聖などの理想派は果たして猛烈にこれに反対した。
彼らはとうとう日本にだまされたと怒り、
和平運動の成功はおぼつかないから政府の樹立は中止したがよい、
とまで強硬に主張した。
しかし、汪兆銘はもう一度冷静に検討しようと
高宗武、陶希聖を除外して慎重に研究した結果、
若干の修正を加えて年末になって受諾することにした。
この最後案は日本との国交調整の基礎資料となったが、
日本政府でも昭和十五年四月、 「日華新関係調整方針」
として正式に決定した。》
これは メッセージ 2219 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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