入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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1937年12月18日 慰霊祭と訓示

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/11 15:15 投稿番号: [2042 / 2250]
早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   140〜142p


《 翌十八日の慰霊祭では、松井は方面軍の参謀たちに、

「中国軍の戦没者もあわせて祈り慰霊するようにせよ。これが日支和平の基調である」

と伝達した。

しかし、日時の余裕がなく、翌十八日の日中合同慰霊は行なわれず、

日本軍だけの慰霊祭に終わった。

この日は寒く、全員寒さに震えている。



松井の、中国人への思いは、十八日の慰霊祭で、祭文を読んでいるうちに声が詰まり、

涕泣したことや、また、十八日の朝の参謀長会で、

軍紀風紀の振粛、中国人軽侮思想の排除、

国際関係について話したことにもうかがえる。



派遣軍の飯沼守参謀長は、この朝の松井訓辞を、日記にこう記している。


「今後、奥地に敵を窮迫すべきか否かは大本営の指示によるものにて不明なるも、

我個人の考えにては現在の命令範囲にては不十分。

江北、浙江省方面にも軍の地歩を広く獲得するは、

支那人に新しき決心を催すに必要なりと考えありゆえに意見を具申したく思いあり。

ゆえに一時後方に移駐する師団も、さらに前進する機会あると考えあるを要す。



要は武威に懼服   (くふく)   せしむると共に、皇軍に心服親和せしめ、

日支一体の必要を感ぜしむる以外、出征の目的達成の途なし。

これがため、二、三注意を倍シ   (数倍)   したい。

軍紀風紀の粛正、支那人に対する軽侮の念多し。



これが禍いをなし、今日の事変を生起したるとも言い得、

かつ軍人は満州の、または北支の支那人に対したる観念をもって

この地方の漢民族を同一視するはまぬかれざるところなり。

漢民族、とくに南方の支那人を個人的に観 (み) るときは、

気力、経済力共に侮るべからざる実質を有す。

国民性の欠陥は統制と団結なかりしにあり。



ゆえにこれを加うれば恐るべき力をなす。

しかして現今これが実を結びつつあり。軽侮するは誤りなるを銘心せよ。



国際関係に対する自分の信念としては、支那人にはあまねく親切に、

英米その他諸外国に対しては正しく強く、言うあり。

外国人に対し日本が恐れずと認めしむるか、

支那人を反省せしむる途 (みち) なりと考えあり。

ただし感情的に諸外国に不快の観念をあたゆるは不可なり。



英米政府は極東における日本の勢力を認識しあり。

したがって、彼らは日本と協調的方針を採るべしと見透しあるも、

彼らの国民に対する政策上その通り実行し得ざる点あり。

ことに英国政府しかり。大国の襟度をもって裕々迫らざる態度にて接するを可とす」



このことを、松井は全将校に伝えるように参謀長会議で強調した。》




児島襄著   『日中戦争4』   250〜251p


《 松井大将も次のように述懐している。

「慰霊祭の直後、私は皆を集めて泣いて怒った。・・・

ところが、このあとで、みなが笑った。

甚だしいのはある師団長の如きは   『当り前ですよ』   とさえ、いった」》



注    懼   :   ク    「おそれる」

    懼服とは、「おそれ、ふくす」   という意味。

1939年6月10日 汪精衛 日本で会談3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/10 15:53 投稿番号: [2041 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』
212〜213p


《 汪兆銘は、六月十日、首相平沼麒一郎と会談した。

そのご、陸相板垣征四郎中将、海相米内光政大将、外相有田八郎、

枢密院議長近衛文麿をたずねている。

これらの要人との会見は、しかし、ほぼ表敬訪問に終った。



じつは、日本側は六月六日の五相会議で、汪兆銘政府を実現するための

「中国新中央政府樹立方針」   を決定していた。

その内容は、前年の十一月の   「日支新関係調整方針」   に規定された

分治主義にもとづき、北支、蒙疆、揚子江下流、南支沿岸特定島嶼を

日本側の管理下におき、新政権は、汪兆銘、呉佩孚、臨時・維新政府と

「翻意改善ノ重慶政府」   を   「構成分子」   にする − というものであった。



汪兆銘が出馬の根拠にした   「日華協議記録」   とは、似ても似つかぬ方向といえよう。

もっとも、日本側にしてみれば、すでに汪兆銘自身が変心し、

いわば日本の   「庇護」   をもとめている形である以上、

これまでの既成政権以上の処遇をする根拠はない、とも判断されるわけである。

だが、日本側はこの   「方針」   はこんごの討議対象にすることにして示さず、

汪兆銘は、七月から毎月三百万元の資金援助をうける約束を得て、

六月十八日、離日した。



*   児島氏による   『日中戦争』   での会談の印象は、塚本氏と違って厳しい。

   晴気氏はその中韓のようだ。

   それぞれの受け取り方が多少違う。

1937年12月18日 南京慰霊祭

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/10 15:44 投稿番号: [2040 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   243〜244p


《 午後二時から故宮飛行場で陸海軍の合同慰霊祭がおこなわれた。

上海から南京まで、日本軍の損害は戦死 「二万千三百余人」、

傷病者 「約五万人」 をかぞえている。



正面にたてられた高さ八メートルの白木の墓標には、

「中支那方面陸海軍戦病没将士の霊標」と書かれ、

白布をかけた祭壇には、上海からはこんだ供物がならんでいた。

各部隊の代表将兵が整列するころには、白雪が南京を白く化粧し、

式場にも雪片が舞った。



あらためて上官、戦友、部下の死をいたむ一同は、

吹く風も降る雪も、ともに天が示す哀悼の悲風、悲雪に想え、

愁然かつ粛然として佇立していた。》

1939年6月10日 汪精衛 日本で会談2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/09 18:54 投稿番号: [2039 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
122〜123p


《 陸相との会見およびそれにつづいて行われた周仏海と

日本当路との協議では、大要次のことが決定された。



一、国民党の独裁をやめて、新中央政府には国民党以外の人も参加させる。

二、臨時政府   (華北)   は華北政務委員会と改称する。

   維新政府   (華中)   は新中央政府に吸収する。

三、新政府の政綱には、日華は提携して善隣となり、

   また共産主義には反対するという意味をはっきりさせる。

四、中国の国旗には青天白日旗を用いる。

   臨時・維新政府が用いている五色旗はやめる。



五、新政府は満州国の独立を認める。

六、日本は中国の内政には干渉しない。

七、日華合弁事業を検討して、日華の権利を平等にする。

八、日本が管理している海関、塩税などの国家収入を新中央政府に引き渡す。

九、日本軍が管理している工場、鉱山、家屋は作戦に直接必要なものを除き中国に返還する。



以上の中で、国旗を青天白日旗とすることは、

戦場で重慶軍と汪派の和平軍との区別がつかなくなるので困るという

現地軍の強硬な反対が長くつづいたが、

その後協議の末、 「反共和平建国」   と墨書した黄色の布片を

旗の上部に必ずつけるということになって、やっと妥協ができた。




塚本誠著   『ある情報将校の記録』
279p


《 国旗問題は陸軍側特に現地軍に反対が強かったが、

重慶側の青天白日旗と見分けるために、旗ざおの上部に、

「和平、反共、建国」   と書いた黄色三角布片を添付するということで話は折れ合った。

汪氏の強く主張する   「改組還都」   方式を日本側は全面的にのんだ。

汪側は一応成功感にひたったに違いない。



日本側は、新政権の実体が従前の国民政府ということになれば、

満州国を否認されるかも知れぬという不安をいだいた。

これについて陸相が汪氏の意見をただしたところ、

「満州については孫文先生の大正十三年神戸における演説に徴しても、

これが独立を承認することは、孫文主義に反するものではない。

また満州国の生成発展せる現況に照しても独立国としてこれを認むるのほかあるまい。

なお日本と和平を志す以上満州国は承認のほかはないと深く覚悟している」

と汪氏は答えた。



青天白日旗の上部に   「和平、反共、建国」   の三角布片をつけることは、

汪氏の提案したものであるが、

後日これを最も嘆いた人は皮肉にも汪夫人陳壁君女史であった。



旗ざおの上部に三角布をつければ、

竿頭よりその幅だけ下がった所に青天白日旗をつけることになる。

国旗を竿頭より下がった所につけるのは、弔旗の場合である。

年中わが国旗が弔旗の形になっていることは凶相ではないか、と騒ぎだした。

そのため青天白日旗は竿頭につけ、「和平、反共、建国」旗は別の小ざおにつけて、

これを国旗の竿頭の上に突き出るように旗ざおにしぼっているところもあった。》

1937年12月 幕府山捕虜射殺状況と証言

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/09 18:44 投稿番号: [2038 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   243p


《・・・
捕虜たちも、また、日本側が自分たちを江上で処刑するのだ、と誤解したのである。

いっせいに喚声をあげて第一大隊におそいかかり、たちまち七人があるいは殴殺され、

あるいは銃をうばわれて射殺された。

大隊長田山少佐は射撃を下令し、包囲した機銃がうなり、

解放のはずが銃殺による   「始末」   になってしまった。



それでも、〝闇夜の鉄砲〟   の俗諺どおりに、夜間射撃の命中率は悪かったとみえ、

夜が明けると、江岸にのこる捕虜の死体は   「千人を上回った程度」   で、

その他の約三千人は逃亡した、と判定された。》




鈴木明著   『 旧   「南京大虐殺」   のまぼろし』
196〜197p


《 朝、すべてが明るみに出た時、千あまり   (数千ともいう)   の捕虜の死体に交って、

日本兵八名と日本軍将校一名の死体があった。

その人の名を書くのは失礼だから、ここには記さない。



六十五連隊将校名簿をみると、戦死者はすべて

「上海劉家行西方にて戦死」   になっているが

(その数は、ナント全将校の半分以上にも上るが)   たった一人だけ、

戦闘が行なわれなかったはずの   「南京北方地区で戦死」   している人がいる。

この事件が、単に 「捕虜への一方的虐殺」   ではなかったことを、

この一人の将校の戦死の記録が、充分に物語っている。》



199p    平林氏の証言


《 江岸に集結したのは夜でした。

その時、私はふと怖しくなってきたのを今でも憶えています。

向うは素手といえども十倍以上の人数です。

そのまま向って来られたら、こちらが全滅です。



とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの

人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。

捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。

日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。

それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。



一挙に、われわれに向ってワッと押しよせて来た感じでした。

殺された者、逃げた者、水にとび込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。

なにしろ、真暗闇です。機銃は気狂いのようにウナリ続けました。

次の日、全員で、死体の始末をしました。



ずい分戦場を長く往来しましたが、生涯で、あんなにむごたらしく、

悲痛な思いをしたことはありません。

我が軍の戦死者が少なかったのは、彼等の目的が、日本軍を 〝殺す〟   ことではなく、

〝逃げる〟   ことだったからでしょうね。

向うの死体の数ですか?   さあ……千なんてものじゃなかったでしょうね。

三千ぐらいあったんじゃないでしょうか……」》



200p    鈴木氏の証言


《「兵隊は、本当に一生懸命メシを作ったんですよ。

本当に殺   (や)   るつもりなら、何であんなに、こっちが犠牲になってやるもんですか。

それに、本当に殺るつもりなら、こちらが殺られるはずがない。



月日は入城式の夜です。私が入城式から帰ると、ちょうどいいところに帰ってきた。

今から護送しろといわれたので憶えているんです。

捕虜は対岸に逃がすといっていました。しかし、舟が来ないんです。

捕虜は、だまされたといって、騒ぎはじめたんじゃないでしょうか」》



山田メモ


《 十八日   捕虜の件で精一杯。江岸に視察す。》

(鈴木明著   『「南京大虐殺」のまぼろし』旧   195p)

1939年6月10日 汪精衛 日本で会談1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/08 18:47 投稿番号: [2037 / 2250]
塚本誠著   『ある情報将校の記録』
278p


《 東京に着いた汪精衛   (兆銘)   氏は六月十日、平沼首相と会談したのを手初めに、

板垣陸相、米内海相、有田外相、石渡蔵相、近衛枢密院議長らとも会談した。

陸相は首相の委任を受けて、再度にわたり新政権の細部について討議した。

平沼首相の日中道義提携論と近衛枢密院議長の激励は、

汪氏にはとくに感銘深かった模様である。



東京会談における汪氏の主張は、新中央政権を傀儡政権にしないことに必死だった。

そのためには、中華民国の法統を中断しないという基本的観点に立ち、

現在重慶にいる国民政府が改組されて和平政府となり、それが南京に

帰って来るという指導理念で新中央政権を発足させるということを主張した。

したがって新政府といってもその名称は国民政府、

国旗は青天白日旗、指導理念は三民主義というのである。》




晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
121〜122p


《 平沼首相と汪の会談は、極めてスムーズに行われた。

汪兆銘はまず和平運動の新しい方針を述べて、

「日本政府が同意するならば、同志を集めて中央政府をつくり、

世論を動かして重慶政府を和平に転向させたい」

と決意を述べた。



平沼首相は、

「日華間の戦争は、お互いに協力して早く片づけたい。

日本政府は近衛声明の精神を堅持して新中央政府の樹立に同意する。

また、協力と援助を惜しまない」

と答えたが、その結果、汪兆銘は

日本政府が彼の運動方針を完全に承認したものと過信してしまった。



汪兆銘はついで、外務、海軍、大蔵の各大臣にも同様な意見を述べたのに対し、

各大臣はいずれも中央政府の新樹立に協力すると確言した。

また、板垣征四郎陸相との会見では、さらに具体的な協議が行われて

日本政府の意向がますますはっきりとしたように思われたので、

新政府をつくろうとする汪兆銘の決心は、ここでいよいよ不動のものとなった。》



つづく

1937年12月 幕府山捕虜逃がし失敗射殺2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/08 18:41 投稿番号: [2036 / 2250]
両角業作   手記
続き

《 もどったら、田山大隊長より

「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」   の報告を受けた。

火事で半数以上が減っていたので大助かり。

日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、

解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。



ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。

さては・・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。

そのいきさつは次の通りである。



軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、

前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、

舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、

次第に押し流されるという状況。



ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、

日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、

静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。



二千人ほどのものが一時に猛り立ち、

死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、

我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、

大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、

我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。



すべて、これで終わりである。

あっけないといえばあっけないが、これが真実である。

表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。

処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、

少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも 「我が意を得たり」 の顔をしていた。



解放した兵は再び銃をとるかもしれない。

しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。


自分の本心は、如何ようにあったにせよ、

俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは

<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが> ・・・

なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。

当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。》


つづく

1939年6月8日 蒋介石 汪を売国漢奸と規定

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/07 18:52 投稿番号: [2035 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』
211p


《 蒋介石が、汪一行の渡日を知ったのは、六月二日である。

「長日、汪逆兆銘竟率同周仏海、梅思平諸逆、飛抵日本東京、進行売国勾当」

これまでに述べたように、蒋介石は、くり返して汪兆銘の訪日を阻止しようとした。

中国内、あるいは日本および日本占領地外にいる限り、

なお国家を捨てた形にはならず、

一般国民にたいする影響も格別に大きくはないと判断されるからである。



だが、国民党副総裁が敵国日本に走ったとなれば、事態は一変する。

汪兆銘を   「裏切り者」   とみなすのが一般的であろうが、

それほどの要人が日本に味方するのはそれだけの理由があるはずだ、

国民政府に誤りがあるのではないか、との観測も誘発されかねない……。

蒋介石は、六月八日、汪兆銘を   「売国漢奸」   と規定し、

その逮捕を   「全国軍政各機関」   に下令した。




晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
123〜124p


《 重慶政府では、敵国日本に媚を売った汪兆銘の処分について硬軟の意見が対立していた。

国民党の元老や穏健派は、処分を急げば重慶から汪を完全に絶縁することになると反対し、

しばらく処分を保留するよう蒋介石に嘆願する一方、

汪には和平運動をやめてこれ以上日本に接近しないように勧告した。



抗戦強硬派と共産党は汪を厳罰に処せよと主張したが、

汪の東京訪問を知っていよいよ激昂し、その即時処分を強硬に要求してやまなかった。

その結果、六月八日、汪兆銘およびその一党に対し、遂に逮捕令が公布された。

しかし、新中央政府をつくろうと決心した汪兆銘は、逮捕令を一笑に付した。》

1937年12月 幕府山捕虜逃がし失敗射殺1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/07 18:46 投稿番号: [2034 / 2250]
両角業作   手記より


《 十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入場式である。

万一の失態があってはいけないとういうわけで、

軍からは   「俘虜のものどもを“処置”するよう」   ・・・

山田少将に頻繁に督促がくる。



山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。

私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、

大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。



しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。

ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。



しかし私にはどうしてもできない。 いろいろ考えたあげく

「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、

ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」

田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。



「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、

夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。

これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」

もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。



十二月十七日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入場式に参加した。

馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。

信長、秀吉の入城もかくやありならんと往昔を追憶し、

この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。



新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖寿の万歳を唱し、

次いで戦勝を祝する乾杯があった。

この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。》



つづく

1939年6月6日 英租界、犯人引き渡しを拒否

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/06 18:55 投稿番号: [2033 / 2250]
〔昭和14年6月7日   東京朝日〕   英、犯人引き渡し拒否の回答


〔天津特電六日発〕   程連銀支店長狙撃犯人引き渡しを繞   (めぐ)   る

対英租界問題は、我が方より七日正午までに回答を求める最後通牒を発するに及んで、

ついに重大局面に到達し、遷延、糊塗をよくする英租界当局も

問題の解決を回避し得ない破目となったが、

ジャミーソン在天津英総領事は六日、田代総領事を日本総領事館に訪れ、

ロンドンよりの回訓に基づくものなりとして、左のごとき回答を正式に行った。



回答の内容は四項に分かれているが、我が方が租界問題解決の当面の問題として

要求せる程連銀支店長狙撃犯人の引き渡しはこれを拒否し、

第九路軍参謀長と称する者の引き渡しを以って

問題の重点を巧みに回避せんとする老獪、不誠意極まるもので、

全体として見る場合は我が方の要求を全面的に拒否せるものであることは否み得ない。

回答の内容、次のごとし。



一、日本側は程氏狙撃犯人たる藍外三名の支那側引き渡しを主張するも、

   彼等の犯行に付いては単なる自供あるのみで、

   他になんら物的その他の有力な証拠の提示がない故、

   目下の所引き渡し要求には応じ兼ねる。



二、今回の事件発生前、英租界内で爆弾携帯等の廉で英租界側で逮捕、

   監禁している第九路軍参謀島外一名は支那側に引き渡す。

   この引き渡しは、彼等が前記藍外三名の上官故、その取調べの結果、

   藍等に関する更に有力なる証拠を発見し得る可能性ありと見られる。



三、英租界工部局には他に十数名の抗日分子を逮捕、監禁中だが、

   これらの者に付いては   この機会に情状により英租界外に追放その他、

   適当の措置を講ずる。


四、将来の英租界内抗日分子取り締まりに対しては、

   近く厳重なる布告を発するとともに、英租界内の警備を厳重にし、

   これら不穏分子の策動を徹底的に弾圧する意向である。

1937年12月17日 松本重治氏の南京行

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/06 18:42 投稿番号: [2032 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   245〜246p


《 私は、スウェター二枚の上に、 「同盟」   本社が送ってよこした冬用の

従軍服を着用し、リュックに身廻り道具をぶち込み、

ジョン・ケジックが贈ってくれたホワイト・ホースの小壜も

忘れずに持って、約束の時間に北停車場に行った。



探堀報導部長は、この夏ごろ着任して以来、幾度か私ら記者たちと語り合ったり、

いっしょに前線の視察に行ったりした、気の置けぬ人柄であった。

彼は九州の殿様の末裔とのことで、小さな深堀城址が

まだ熊本か長崎の附近にあると聞いたが、

何となくおっとりしており、親切な、かつユーモアたっぷりの人物でもあった。



車中で、隣席にいた若い軍医が   「上仲軍医中尉です」   と自己紹介する。

友人捕松佐美大郎の夫人のふきさんの弟で、

聖路加病院勤務中であったのを徴用されたという人であった。

名前を聞けば、以前にも、東京で、一、二度だけ会ったことのある人だが、

戦地では、友人知人と会うと、とくに人懐こく感ぜられるのは、

私ばかりではないだろうと思った。



深堀中佐が、私のため、缶詰類や、その他の食料品を車中に持ち込んでくれたので、

私もホワイト・ホースを出して、お互いに飲みながら、

四方山   (よもやま)   の雑談で愉しく時を過した。

夜になると車中はひどく寒いので、毛布を六枚ももらって寝た。

汽車はときどき停車したり、またゆっくりと走り出したりするわけで、

翌十八日朝、南京に着いた。



「同盟」   の従軍記者が、あらゆる苦労をしてきたのに、私らの場合は、

当時の情況からみれば全くの大名旅行であって、相済まんと思った。

着く前に、今日は陸海軍の合同慰霊祭があると探堀中佐が知らせてくれたので、

「ぜひ特別に参列させてもらいたい」   と申し込んだ。

松井最高司令官の顔も見たかったからであった。》



*   松本氏は汽車で行ったと言うが、この時期汽車でいくのは無理だった。

   汽車の開通は鎮江のトンネルが不通のため12月22日からで、

   入城式、慰霊祭参列の人々は、海軍艦艇に便乗して下関から上陸している。

    (板倉由明著   『本当はこうだった南京事件』   303pより)


   だから、この話は2月のできごとの記憶違いとなる。

1939年5月31日 汪兆銘来日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/05 18:58 投稿番号: [2031 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』
210〜211p


《 五月三十一日

汪兆銘一行は、上海、佐世保経由の日本海軍機で、来日した。



一行の受入れは、参謀本部第八課   (臼井茂樹大佐)   が担任し、

宿舎は、肺病をわずらう元亜州司長高宗武に向島の大谷米次郎別邸、

残りの一同には滝野川の古河虎之助男爵邸が用意されていた。

警備は、参謀本部付の丸山孝雄准尉が担当し、

食事と身のまわりの世話は、「帝国ホテル」   支配人犬丸徹三がひきうけた。



犬丸支配人は、とくに要請されなかったが、コック、ボーイ、理容師たちを

宿舎におくりこみ、一行の離日まで外出を禁止させた。

汪兆銘と日本政府首脳との会談は、

六月十日に予定されそれまでは一行は宿舎で休養した。》



塚本誠著   『ある情報将校の記録』
277p


《 汪氏一行滞在中、古河夫人不二子さんは、毎日各室の花を、

人の気づかぬ間に生け替えておられた。

夫人は西郷従道大将の次女であった。

帝国ホテルの犬丸氏は、一行入居の直前、コック、ボーイ、理容師を古河邸に送りこみ、

一行離日の日まで、これを邸内に詰め切らせた。

所要の食料品は、毎日トラックで搬入された。

格別要請もしないのに、秘密保持の配慮が、私には身にしみてありがたかった。



一行離日の前夜、一行および関係者は古河邸に参集、会食することになった。

樋口は、その席にシャンパンを   −   と思い、犬丸氏に申し出たところ、

「この仕事には、担当の支配人ひとりしか関係させていない。

また名目は、ある篤志家の傷痍軍人慰安会ということにしてある。

シャンパンなどとはもってのほかです」   という返事だった。



当時の政・財界知名士の国事に対する無言の協力、その心がまえ、

意気ごみは、今思い出しても頭がさがる。》

1937年12月17日ラーベの日記3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/05 18:52 投稿番号: [2030 / 2250]
《 軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている。

きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。

日本兵たちは町をかたづけはじめた。

山西路広場から軍政部までは道はすっかりきれいになっている。

死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。



午後六時、庭にいる難民たちに莚   (むしろ)   を六十枚持っていった。

みな大喜びだった。日本兵が四人、またしても塀をよじ登って入ってきた。

三人はすぐにとっつかまえて追い返した。

四人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、

丁重に出口までお送りした。やつらは外へでたとたん、駆け出した。

ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。



アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは、

「ドイツ人だぞ!」   あるいは   「ヒトラー!」   と叫ぶだけでよかった。

すると日本兵はおとなしくなるからだ。


きょう、日本大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳   (きよし)

書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。

いずれにせよ福井氏はさっそくこの書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。


私、スマイス、福井氏の三人が日本大使館で話し合っていると、

リッグズが呼びに来て、すぐ本部に戻るようにとのこと。

行ってみると、福田氏が待っていた。発電所の復旧について話したいという。

私は上海に電報を打った。   (後略)   》



*   公用以外は日本兵の外出が禁止されているのに、なぜラーベの家に出没できる。


   第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏は


   「私達は十二月十五日、南京に入城し、支那軍の兵営に分宿し、

   各隊は衛兵を立て兵の外出を禁止したので、

   公用の将校以外は、各個に外出した兵はない。」

   (富士信夫著   『「南京大虐殺」はこうして作られた』   210p)


   と証言している。



   それに停電しているから、夜は真っ暗、南京に不案内な日本兵は、

   ウロウロしたら道が判らなくなって帰れなくなるだろう。

   そんな事になったら、便衣兵に虐殺される。危なくてウロつけない。



   それに、翌日は慰霊祭、その次の日より、南京を去らなければならないのだ。

   その準備があるのに、悪さをしている暇はない筈だが。


   こういう事が出来るのは、南京を知り尽している者では?

   例えば、中国人とか。

1939年 汪兆銘訪日の為の準備

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/04 15:15 投稿番号: [2029 / 2250]
塚本誠著   『ある情報将校の記録』
275〜277p


《 上海上陸後、汪氏は直ちにチョ民誼、周仏海、梅思平、高宗武らの同志と

意見を交換した結果、日本訪問を決意し、日本政府もまたこれを承認した。

私は、上海における任務を終了したので、汪氏一行の日本訪問について、

影佐大佐の希望、指示を聞き、東京に引きあげた。



汪氏一行の滞日中の世話は、すべて参謀本部第八課の担任となり、

岡田、樋口、私の同期生三人が、直接これに当たることになった。

まず、一行の宿舎選定に手を着けた。私の頭に駿河台の西園寺邸が浮かんだ。

当主公一氏は、松本重治さんらとともに梅工作の草分け的存在である。



私は樋口といっしょに万平ホテルで西園寺氏と会った。

氏は、滝野川の古河虎之助男爵邸を提案され、氏の斡旋で古河男爵も快諾、

汪精衛一行の大部分の人の宿舎が決定した。



高宗武の宿舎については、岡田から大谷重工業社長大谷米太郎氏に

お願いしたところ、向島の邸宅を快く提供された。



一行の食事については、樋口が帝国ホテルの犬丸徹三氏を訪ねてお願いしたが、

これまた快諾された。

古河、大谷、犬九三氏とも使用目的について詮索がましい質問は一言半句もなかった。

ある日、西園寺氏、樋口、私の三人で、滝野川区役所前にある古河邸へ下検分に行った。



構内は広く、邸宅は洋館、その内部は和洋折衷。

庭内には花壇、温室があり、表門から裏門へ自動車道が整備されており、

まったく間然するところがなかった。

私が、日本間の畳の堅さに驚いて、 「ここの畳は堅いネ」   というと、

「畳は堅いほどよいのだよ」   と、西園寺氏から笑われた。

畳は翌日には表替えがすんでいた。》

1937年12月17日ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/04 15:09 投稿番号: [2028 / 2250]
《 きのう、岡崎総領事から、難民はできるだけ早く安全区を出て家へ戻り、

店を開くように、との指示があった。

店?   店なんかとっくに開いてるじゃないか。

こじ開けられ、ものをとられていない店なんかないんだからな。

驚いたことに、ドイツ大使トラウトマンの家は無事だった。



クレーガーといっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。

なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。

きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。

クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。

ついに、中に乗っていた日本兵は、

“ We friend … you go !” (俺たち友達ね……さあ行けよ!)   と言って

返してよこしたのだった。



このときの日本兵は午後にまたやって来て、私の留守をいいことに、

今度はローレンツの車を持っていってしまった。   私は韓に言った。

「『お客』   を追っ払えないときには、せめて受け取りをもらっておくように」

すると、韓は本当にもらっておいたのだ。

“ I thank your present! Nippon army K.Sato.”

(プレゼントどうも!   日本軍、K・サトウ)

  ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!



*   韓は受け取りをもらっているが、彼は日本語ができたのか?

   学のない日本人は英語ができない。かつ日本人は英語を文法から習う。

   しかしてこの英語は文法通りではない。

   学校で習った英語なら、We friendでなく、We   are   friends となる筈。

   また、車を返すときは、「さあ行けよ」   ではなく

   「さあ、持って行けよ」   に相当する英語を使うはず。



   それでいて、受け取りの日付だけは、完璧な欧米スタイルになっている。

    17/12/37

   と。学のない日本人には、思いつかない、日付の表記法。

   こういうのは、学のある日本人にしかできないが、

   そういう者は、こんな雑な英語を使わない。


   この、英語は、普段、英語を使う外国人に接していて、

   耳で聞いて覚えた人の使う英語にみえる。

   上海や南京で、外国人と常に接している、中国人のような。



   かつ、日本兵で車を運転できる者はほとんどいない。

   今のように、猫も杓子も車を転がす時代ではない。

   日本で、商店で車を運転していたとしても、将校の運転手か、

   輜重隊に採用されるので、こんなところで悪さしている暇はない。



   この男は、本当に、日本人なのか?

1939年5月31日 犯人引渡しを英当局に要求

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/03 15:41 投稿番号: [2027 / 2250]
〔昭和14年6月1日   東京朝日〕   犯人引き渡しで英当局に期限付き回答要求


〔天津特電三十一日発〕

天津に於ける外国租界問題の解決は上海、厦門   (アモイ)   のそれとともに

今や緊急の問題化し、

さきにイギリス租界で抗日不逞分子の手に倒れた程連銀支店長の狙撃犯人引き渡し

その他について、イギリス租界当局に厳重な申し入れをなした。



我が現地当局では租界問題解決の第一歩として、イギリス側の誠意ある回答を期待して来たが、

イギリス側は本国よりの回訓に接しながら、

カー大使の具体的指示を含む回訓がないことを理由に約三週間近くも回答をなさず、

問題を殊更に将来に延ばして、租界問題の解決を回避せんとする

遷延策に出ていることが多分に看取されるので、我が現地当局はついに決意を固め、

三十一日、田中領事よりジャミーソン・イギリス総領事に対し、

犯人引き渡しに関する我が方の要求に対する回答は六月七日正午までに

これをなすよう、一週間の期限附きで最後的要求をなすに至った。



在天津イギリス人の輿論はこの際犯人を速やかに引き渡すべしとしているが、

一週間後に於いても我が要求を容れず、または回答なき場合は、

我が方としては自主的に断乎たる処置に出でざるを得ず。

しかも現地当局としては、たとい犯人引き渡し問題が解決しても、

根本的解決のない限り将来同様問題の発生ごとに紛糾を繰り返すは必然で、

原則的に根本問題の解決を必要とする見解を持しているので、

沸騰点に達した天津の租界問題解決のためには、

いよいよ断乎不動の徹底的処置を取られることが期待され、

現地当局の緊張にその用意が窺われている。

1937年12月17日ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/03 15:14 投稿番号: [2025 / 2250]
《 二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。   私が出ていくと

「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」   とかなんとか言い訳した。

ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。



塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。

このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。

運良く救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。

・・・


アメリカ人のだれかがこんなふうに言った。

「安全区は日本兵用の売春宿になった」

当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。

金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。

いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。

夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。

見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。



仲間のハッツがひとりの日本兵と争いになった。その日本兵は銃剣を抜いたが、

アッパーカットを食らい、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。

そして完全武装した二人の仲間といっしょに逃げていった。



*   《 私が出ていくと   「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」

   とかなんとか言い訳した。》


   はて、ラーベはその “日本兵” と何語で会話したのか?

   普通の日本兵は学がなく、英語もドイツ語も話せない。もちろん中国語も。


*   ハッツにアッパーカットを食らって逃げ出す、情けない連中と、

   伝聞の   「残忍・非道」   とが合わない事に気が付かないのかなー。



*   実に不思議な話だ。本日は入場式。

   松井大将や朝香宮殿下・長谷川中将などが参列して、式典が行われている最中に、

   式典から外れた区域で悪行三昧をやらかす日本兵がいるとは。

   最近は式典をぶち壊す、不埒な日本人が増えているが、

   昭和45年頃までは、まだ、いなかった。

   これらの“日本兵”は本当に日本人なのだろうか?



児島襄著   『日中戦争4』   240p

  《 第十軍、上海派遣軍の主力は、その   (慰霊祭)   直後に次期作戦のために

   南京退去が指示されているので、その用意にも繁忙であった。》


*   兵隊は、式典の参加・警備だけでなく、移動の準備もしなければならないので、

   悪さなどしている暇はないのだが。

真のユダヤ史(ユースタス・マリンズ)2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2012/11/03 09:30 投稿番号: [2023 / 2250]
戦後、ダグラス・マッカーサー将軍が日本占領連合軍最高司令官となったとき、新たな経済の絶対支配者としてウィリアム・ドレイパー将軍を帯同しました。ドレイパーはウォール街の銀行ディロン・リード社の共同経営者であり、同社は1924年に1億2000万ドルの債券を発行することによりドイツを再軍備へと踏み出させ、第二次世界大戦への道を避けられないものとしました。
ドレイパーの会社ディロン・リードを率いていたのはクラレンス・ラポウスキーでしたが、彼は自分の名前をディロンと改名したのです。ディロンはテキサス出身のユダヤ人で、その息子、C・ダグラス・ディロンはケネディ大統領の財務長官となりました。C・ダグラス・ディロンの娘は結婚してヨーロッパの貴族となっています。
第二次世界大戦後、ドレイパー将軍の指揮のもとで日本経済は、ドレイパーのほんとうの主人ロスチャイルド家が策定した路線に沿って再編されました。
当時、イギリスのジャーナリストのコンプトン・ペイカナムは「ニューズウィーク誌」の通信員をしていました。ペイカナムはまた天皇ヒロヒトの親友の一人でもありました。私はペイカナムを訪ねたことがあります。彼が私に語ってくれたのは、「天皇はユダヤ陰謀家たちの悪辣さを絶対に理解できない。なぜなら天皇は即位以来まったく信義というもの持たない人間と接触したことが一度もないからだ」ということでした。
日本民族は、ユダヤ人の持つ血への欲望ゆえに、第二次世界大戦中、信じがたいほどの残虐非道、すなわち東京大規模爆撃、広島・長崎への原爆攻撃などを耐え忍びました。これらの大量殺人は軍事的には何らの影響もともなわず、ただただ、あらゆる歴史においてもっともおぞましい大量惨殺にすぎなかったのです。

真のユダヤ史(ユースタス・マリンズ)1

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2012/11/03 09:27 投稿番号: [2022 / 2250]
日本の読者の皆さまへ[序文]   (訳・太田龍・天童竺丸)

本書を日本の皆さまに読んでいただくことは、私の大きな名誉であります。大日本帝国が第二次世界大戦へと巻きこまれていく背後にあった事実を、日本民族は本書で初めて知ることになるでしょう。

フランクリン・デラノ・ルーズベルト政権は貿易等の経済制裁をもちいた日本に対する一連の挑発行為を通じて、むりやり日本に太平洋地域のアメリカの保有財産を攻撃させようと謀りました。ルーズベルトが日本軍の暗号を解読ずみであったため、ホワイトハウスには敵対行為がいよいよ勃発するのに先立って日本側の交信をすべて秘密裡に明かされていました。
1941年12月6日夜、サンヘドリン、すなわちユダヤ最高法院のホワイトハウス駐在員バーナード・バルークは、合衆国陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル将軍およびルーズベルト大統領と同席していました。何時間か経つうちに、三人はパニックにおちいりました。暗号解読された通信によって、日本海軍の機動部隊がパールハーバーに接近中であることが判明しましたが、同時に、攻撃前にアメリカ側に探知されたら攻撃を中止して日本に引き返せとの厳しい命令を、連合艦隊の作戦司令官は受けていたからです。
日本軍は果たして攻撃するだろうか?もし日本軍の暗号電文がホワイトハウスによって解読追跡されていることが知れたら、攻撃は取り止めになり、日本と合衆国を第二次世界大戦へ巻き込むという世界ユダヤの計画は水泡に帰すことになります。しかし日本軍は、監視下に置かれていることに気づくことなく、全力でハワイに向かって近づき、奇襲攻撃を開始しました。
ルーズベルト、バルーク、マーシャルは、近づきつつある攻撃に関するすべての情報を米国太平洋方面軍指揮官に漏れないよう入念な措置を講じました。
はっきりしていることは、もし彼らがパールハーバーの艦隊に警告を発していたら、日本は攻撃しなかったということです。沈黙をつづけることにより、ルーズベルトは日本のパールハーバー攻撃を推励したのです。そしてこのことが、大統領自身の国の何千人という若い兵士船員たちが、警告も受けず死んでゆく運命を決したのです。まさにレオン・トロツキーが口ぐせにしていた通り、「卵を二、三個割らなければ、オムレツは作れない」であったのです。
それからなんと、ルーズベルトはパールハーバーの司令官だったキンメルとショートとを、攻撃に対する準備ができていなかったという「重過失」の嫌疑で軍法会議にかけたのです。後日、キンメルの息子は、任期切れ寸前のジョージ・ブッシュ大統領に父親の特赦を嘆願しました。ブッシュは、「私には歴史を書き換えることはできかねる」と言って、そっけなく断わりました。

1939年5月31日 ノモンハン事件10 引き揚げ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/02 18:50 投稿番号: [2021 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
121〜123p


《 山縣支隊は二十九日朝、ようやく東支隊の戦場を整理し、原位置に待機していたが、

ハルハ河左岸より撃ち出す敵の砲兵は、目に増して猛威をふるい始めた。

前面の敵は、戦線を整理し、さらに兵力を増してハルハ河右岸に

橋頭堡   (きょうとうほ)   を確保している。

我が砲兵は、僅かに連隊砲   (山砲)   四門だけで、到底太刀打ちできるものではない。



師団長は、さらに山砲二中隊と、速射砲一中隊を増加し、

三十一日払暁からハルハ河左岸の敵砲兵に対し、火蓋を切った。

しかし、地形的に見て、利は敵にある。

ハルハ河左岸の外蒙領は、右岸の満領を見下ろすことができる。

根本的にはこの自然条件を考えねばならぬ。

焦れば焦るほど敵に好餌   (こうじ)   を与えることになる。



師団長は、以上のようなことを考え合わせ、

山縣支隊を一時カンヂュル廟付近に引き揚げることに決し、

三十一日の夜、戦場を離脱して転進についた。

僅かに数日の緒戦であったが、それを通じて見られることは、

第二十三師団の左右の団結が薄弱であることと、対戦車戦闘の未熟な点であろう。



山縣連隊長が東支隊を見殺しにし、隊長以下全員玉砕させたという一事は、

師団長として堪え難い苦痛であっただろう。

僅かに生き残った東支隊の負傷者が、口を揃えて山縣連隊を呪った。

新設師団の最大弱点は上下の団結と、左右の友情が足りないことである。



外蒙騎兵がこんなに多くの戦車を持っていようとは、誰しも考え及ばなかった。

もちろんその操縦者の過半はソ連兵ではあるが、

脚を鎖で戦車内に縛りつけられている外蒙操縦士も少なくはなかった。

戦場に遺棄された外蒙兵の屍体には、食糧もなく、煙草もないが、

手榴弾と小銃弾はふんだんに持たされていた。

異民族を駆り立てて巧みに第一線の犠牲を分担させるソ連の戦略は、

ここばかりではない。》


つづく

1937年12月17日 松井大将と柳川中将の喧嘩

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/02 18:43 投稿番号: [2020 / 2250]
早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   139〜140p


《 この入城式典直後のことである。

首都飯店の方面軍司令官室で、松井と柳川との大喧嘩が起きた。

柳川平助は参謀長の田辺と二人だった。

松井司令官室で二人だけの話となると、田辺はとなりの角良晴副官室でようすをうかがっている。

そのとき、となりの松井の部屋で、突然、松井にしては珍しく大声で怒鳴る声が聞こえた。



二人のようすが変なので、田辺は角副官に、 「なんとかしてくれ」   と心配そうに言う。

角は、日ごろから、柳川平助の、方面軍司令官を無視した行動といい、

直接東京の下村定第一部長と連絡して南京攻撃に出たことといい、

腹にすえかねていたことも多く、松井の気持ちがよく分かっていた。



田辺の慌てぶりに、女房役の角は、 「弱い参謀長殿だな」   と思いながら、

「大将と中将です。二人が取っ組み合いのケンカをするはずもないし、

軍政の根本問題ですから、しばらくやらしておきましょう」

と言って、ほっとくことにした。



このとき角が耳にした松井の声とは、

「支那のことは支那人にまかせ、日本軍はオブザーバーになれ」   だった。

これに対し柳川平助は、

「皇軍が血を流して取ったところである。日本みずから、軍政を敷いてやるのが当然である」

と反論した。



この二人の激論から、占領後の南京をめぐり、軍政を敷くという柳川と、

中国人の自治体づくりによる政権、国際的視野を広げることとする松井との、

対立だったことが推測できる。

大激論がひとまずおさまった頃合いを見て、角はコーヒーを持って入った。

すると、二人とも黙り込んでいた。

角はそのとき、 「話し合いは決裂だな」   と直感した。



このときの会談は、柳川の方から申告されていて、

それに対して松井方面軍司令官が持論を曲げずに、柳川を説き伏せた形である。

頭ごしの   「軍政」   と   「中国人の自治政権」   との意見の相違だった。》



*   この激論、ちょっと引っかかるところがある。

   第十軍が南京を去る事は既に決まっているのに、

   何で、柳川中将が南京の管理について、くちばしを入れる必要があるのか?

   南京に残らない柳川中将にとっては、関係の無いことなのに?

   この激論、本当なのか?

   もしかして、別人との喧嘩の記憶ちがいとか?

1939年5月 ノモンハン事件9 全滅の東支隊

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/01 18:54 投稿番号: [2019 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
118〜121p


《 午前三時頃になった。もう東の空が明るみかかる時刻である。

夜が明けたらハルハ河の左岸の敵砲兵からひどい目に遭いそうだ。



断念して、帰りかけた。と、そのとき鼻を衝く腐臭があった。

連隊長も、参謀も戦場経験はない。

この特別の臭いに気がつくはずもなかった。

「あッ、この辺にちがいない、臭いがするッ」

手分けして辺りを探すうちに、偶然軍馬の屍体を見つけた。



砂丘の凹みに、四肢を空中に向かって硬直させている屍体である。

蒙古馬ではない。確かに日本の大きな軍馬である。

それを手がかりに探すと、間もなく、 「見つかったッ」   という叫びが起こる。

懐中電燈で照らすと、おびただしい敵戦車の轍痕   (てっこん)   があり、

小松の蔭に、砂丘の上に点在蹂躪された屍体が、

何者かを取り囲むように円陣型に横たわっている。



全員玉砕だ。東支隊長の黒焦げになった屍体を取り巻くようにして枕を並べている。

半数以上が焼かれている。火焔放射の戦車か。

それとも死傷者にガソリンをかけて焼いたのだろう。

生まれて初めて戦場に出た山縣支隊の将兵は、

この惨虐   眼も当てられない屍体に手を触れることさえ恐ろしいらしい。

屍体を数えてみると、二百に近い数だ。



山縣連隊長以下約七百名である。

出しゃばるように思ったが躊躇することは許されない。

「三人で一人の屍   (しかばね)   を担げ、手ぶらの者は帰ってはならぬ。

一つの屍体を残しても皇軍の恥だぞ」

と、大きな声で叫んだ。最初は如何にも気味悪そうな様子であったが、

三人に一人ずつ割り当てられると、どうしても担がぬ訳にはいかない。



約一時間の捜索で、一名も残さないように収容した。

あるいは頭と脚とを担ぎ、あるいは脚をロープで縛って引き摺りながら、

長蛇の列をなして、帰路を急いだ。

途中、一台のトラックが焼かれている。その上に飛び乗ってみると、

約二十名の屍が半ば白骨化し、半ば黒焦げのままである。

恐らく負傷者を後送の途中敵にやられ、

ガソリンをかけて、生きながら焼かれた屍体であろう。

長い戦場体験でもこのような残虐な場面は初めてである。



悲憤の涙を拭いも敢えず、骨をかき集めて天幕に包み、

それを担いで最後尾を帰路についた。

出発位置に帰り着いたのは朝の五時であり、真っ赤な太陽が砂漠の地平線を覗いた。

二百数柱の戦友の屍を集め、合掌黙祷しているとき数発の敵砲弾が

その付近に炸裂した。

敵の砲弾を御供にした野辺   (のべ)   の送りである。・・・。



地上に残された轍痕だけを見ても少なくも

三、四十輌の敵の戦車が縦横無尽に暴れ回ったらしい。

せめて一台でも残っていたら肉迫攻撃で、

東中佐以下の弔い合戦をやったであろうに−。



二日間の戦闘で敵に与えた損害は、人員約百名死傷、

軽装甲単五輌炎上、軽戦車約十輌破壊炎上。

我が受けた損害は、東中佐以下約二百名戦死、軽装甲車約十輌損失。

一勝一敗であった。》


つづく

1937年12月17日 南京入城式

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/11/01 18:43 投稿番号: [2018 / 2250]
早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   137〜139p


《 方面軍司令官と幕僚たちは、午後十二時半に自動車が

湯水鎮の臨時方面軍司令部を発った。

一時二十五分、つまり五分前には中山門の外に到着。

派遣軍、第十軍司令官及び幕僚たちに出迎えられる。

一時半きっかりに、用意されていた馬に乗馬した。



中山門は戦禍で崩れかかっている。

その門をくぐると、中山東路の右側 (北) に上海派遣軍、

左側 (南) に第十軍の各師団の兵が整列している。

上海派遣の兵は背嚢   (はいのう)   を負った完全重装備。

第十軍の兵たちは外套を左肩から右脇に斜めにかけ、背嚢に水筒という略式の軽武装。

この中山門から国民政府庁舎近くまで約三キロに及ぶ。



上空には海軍の荒鷲六十機が編隊を組み、紫金山の山頂をかすめて

式場の上空を旋回しながら警戒した。陸上ではラッパが鳴り渡る。

先頭に松井石根、その後方の右に上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王殿下、

後方左に第十軍司令官柳川平助中将。

各司令官のあとにそれぞれの師団長、幕僚がつづいた。



同じ時刻、ユウ江門からは海軍の入城が始まる。

海軍は長谷川清支那方面艦隊司令長官を先頭に、

大川内伝七上海海軍特別陸戦隊司令官、近藤英次郎第十一戦隊司令官がつづいた。

そして中央広場から国民政府にいたる中山路に堵列した陸戦隊を閲兵のあと、

国民政府内の陸軍と相会する。



元毎日新聞写真記者の佐藤振寿は上海戦から南京戦まで従軍し、

十二月十七日の入城式も写真にとり、文章で書き残した。

彼は陸・海両軍が国民政府内で合流したあとの模様を、つぎのように記している。



「やがて、君が代のラッパ吹奏のうちに、国民政府正門上に大きな日章旗が

掲げられた。 (後略)」

・・・

松井が   (東方)   遥拝のあと、万歳三唱を発声した。最初の万歳は声に出た。

しかし、二度目はこみ上げるものがあり、声に出なかった。やっと三度めが声になった。

第三十旅団長の佐々木到一少将は、会場の国民政府の中庭に集合した一人で、

松井司令官のすぐ前に立っていた。

彼は、万歳三唱のあとの松井の挨拶を、眼の前で聞いている。



「大元帥陛下の御稜威   (みいつ)   によりまして、

わが派遣軍は赫々   (かっかく)   の戦果を収めここに……」   と

挨拶したとき、松井の声がつまったのを見た。松井は、泣いていたのである。

佐々木はこう記している。



「このとき、軍司令官の痩せた頻に、一すじの糸を引いたのを見た。

予は正面列中にいたので、老大将の胸中の動きを、

明らかにその顔面神経に看取することができたのである。

だれがこの無限の感慨に心を動かさぬ者があろう。

(中略)

冷酒乾盃。吾らの軍司令官殿下も、この日とくに御機嫌麗   (うるわ)   かに

あらせらるるのを見上げた」

この遥拝式が終わると、師団長以上の撮影。

その後、各隊長以上を一室に集めて、角良晴が運ばせた冷酒で乾盃する。

最後は長谷川長官の   「大元帥陛下万歳」   の三唱で、入城式典を終わる。》

1939年 ノモンハン事件8 鉄鎖の外蒙兵

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/31 18:40 投稿番号: [2017 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
117〜118p


《 赤い太陽が一望千里の地平線に沈もうとしているとき、

砂丘の蔭の山縣支隊本部に着いた。   砂地に浅い壕が掘ってある。

連隊長も、旗手も、両参謀も手持無沙汰の体で、

第一線からの報告を待っているのだろう。

本部のすぐ直前には、両脚を大きく開いた外蒙兵の屍体が二、三横たわっている。

どれもこれも、大きな図体ばかり。



焼けた軽装甲車の内には、運転手らしい者の黒焦げ屍体が見える。

「どうして飛び出さなかったのだろうか」   と、恐いもの見たさに覗いてみると、

屍体の両足首に太い鉄鎖を巻きつけて車体に縛られている。

なるほど、これなら逃げ出す余裕はない。



外蒙兵が、ソ連戦車に鉄鎖で縛りつけられながら民族解放のかけ声の下に、

こうして日本との戦争に駆り立てられているのである。

この縮図を見たとき、横たわっている外蒙兵の屍体に

言い知れぬ憐憫   (れんびん)   の情を抑え得なかった。



連隊長に東部隊の戦況を聞いたが何もわかっていない。

斥候を出して本夜連絡させようとの返事である。

「私が途中出会った数名の将兵から聞いたところによると、

今日正午前後、橋梁付近に突進してひどくやられたらしいのですが、

斥候だけで果たして連絡できるでしょうか」   と示唆を与えながら、

傍にいた二人の参謀を連隊長から離れたところに呼び出し、

何とかして本夜中に山縣支隊の主力で、東支隊を救出するようにと促した。



村田、伊藤参謀と、連隊長でしばらく相談した結果、

連隊本部と、軍旗と、砲を、現在の位置に残し、

歩兵の全力   (一大隊)   を山縣大佐が直接指揮して、

橋梁方向に夜襲することに定まった。



砂丘の間を縫いながら進む足は遅々として捗   (はかど)   らない。

ハルハ河の左岸とおぼしき方向に、

敵の懐中電燈らしきものがしきりに明滅している。

銃砲声は夜に入ると共に静かになった。



一つの砂丘を迂回している間に、いつしか部隊の方向を失いそうである。

僅かに星座を基準として西方に進んだが、

ハルハ河を間近に見る地点まで出てきたのに、

どうした訳か東支隊の姿は皆目見当がつかなかった。

一発の銃声もしないところを見ると、もはや戦いは終わっているらしい。

それにしても一人の屍体だけでも見つけたいものだ。》


つづく

1937年12月 松本重治氏南京行へ誘われる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/31 18:33 投稿番号: [2016 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   245p


《 南京は昭和十二年   (一九三七年)   十二月十三日夕刻完全に陥落し、

十七日   「中支那方面軍」   は、松井最高指揮官を先頭に、

各部隊長幕僚らや選抜部隊が正式の入城式を行った。



その前日、軍報導部長深堀   (游亀)   中佐が、私を電話で呼び出し、

「十七日から、上海−南京間の鉄道は、途中でトラックに乗り換える必要も

あるかも知れぬが、とにかく曲りなりに修復されたので、

一度、占領後の南京をいっしょに見に行かないか」   との招待があった。



十七日午後から汽車に乗り込み、十八日朝南京到着の予定も知らされてきた。

それで、私は、前線に従軍した   「同盟」   の同僚たちにも会えるので、

「いっしょに行きましょう」   と、即座に承知した。》



*   ここの記述は、松本氏が時期を記憶違いして、書いているようですが、

   ある事の否定のためには、この記述が必要ですので、本の通りに書きます。

   実際に松本氏が南京に行ったのは2月のようです。

1939年5月28日 ノモンハン7 東支隊を救え

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/30 18:47 投稿番号: [2015 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
115〜117p


《 二十八日の朝、各部隊の手綱を放して三方面から攻撃させた。

橋梁に向かって包囲鐶を緊   (し)   める心算であったが、

連絡は一向に取れないまま山縣大佐は、歩兵だけを指揮して、

ノモンハン正面から敵陣地を攻撃し、

二十八日正午頃、第一線陣地を奪い、橋梁方面に進出を図ったが、

ハルハ河左岸の敵砲兵に阻止されて、戦況は一向に進まない。


東支隊長は、第一次の経験で敵を軽視したためか歩兵と分離して、

二十八日昼間、深く橋梁方面に突進し、敵主力の退路に迫ったまま消息を絶った。



二十八日の戦況を視察するため、再びハイラルに出張したのは二十七日の夕刻であった。

師団長も今度こそ獲物があろうと、心待ちに待っている。

ハイラルの官舎で夫   (*師団長)   を送る妻の顔にも、父を見送る子供たちの顔にも、

何らの不安もなさそうであった。それほどまでに軽視し切っていた。



二十八日早朝ハイラルを出発し、自動車を飛ばせて前線に急いだ。

ノモンハン付近に着いたのは午後五時頃である。

ホルステン河の凹   (くぼ)   地に、一個の屋型   (やかた)   天幕が設けられてあった。

中に入ると共に、血なまぐさい臭いがする。四、五人の重、軽傷者であった。



「東支隊主力は今日正午頃、橋梁の近くで敵の重囲を受け、

戦車に蹂躪されて東中佐以下全滅した」   との話である。

「全滅とは何事か、君たち四人が生き残っているじゃないか」

と叱り飛ばして、意気の阻喪を防ごうと思った。

傷ついた将校は主計であり、兵三人と共に囲みを破って、

ノモンハン集落まで退却してきたのである。



一刻も早く山縣支隊長に会い、東支隊の危急を救わねばならぬ。

しかし、その位置はさっぱりわからなかった。

たまたま後方に弾薬を取りに来た山縣部隊のトラック一輌を押さえた。

素早くそれに便乗して、第一線に急ぐ途中、ここかしこに戦いの跡が残り、

また焼けた敵の戦車二輌から黒煙が上がっている。



突然左前方の砂丘の間にうごめく一点が現われた。

何者だろう。敵か味方かと運転手と共に眼を皿にしていると、

「敵だ、戦車だ!」

叫ぶ声に応じて、運転手は反対方向にハンドルを切り、砂丘の蔭に逃げ込んだ。

車を小松の蔭に匿   (かく)   し、下車して地上に身を伏せて見ると、

まさしく砲戦車である。



砂地のためスピードは出ないらしい。

灰白色に塗り潰された巨体が、不恰好なほど釣り合いのとれぬ長い砲身を、

こちらに向けながらノソリノソリと近づいてくる。見つけられたら最後だ。

手に汗を握りながら待っているとき、天祐か、方向を変えてノモンハンの集落の方に

進んだ。ホーッと胸を撫で下ろしながら、またトラックに乗って急いだ。》


つづく

1937年12月 松井大将 赤子を拾う

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/30 18:39 投稿番号: [2014 / 2250]
早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   134〜136p


《 松井石根方面軍司令官は、十五日午後一時、蘇州を発った。

蘇州飛行場から句容飛行場に飛び、そこから自動車で

湯水鎮の方面軍司令部に移動した。着いたのは夕方の四時だった。



南京攻撃の日から十四日まで、松井は肺炎を併発する寸前の重態だった。

高熱と悪寒に苦しんでいる。作戦命令は病床から冷静に命令、伝達した。

当初、湯水鎮への移動は十四日を予定していたが、

軍医に止められて一日延期となった。



蘇州にいる間、司令部には、天皇より参謀総長を経て、

南京攻略に関しての御語が届けられた。


「中支那方面軍の陸海軍の諸部隊が上海付近の作戦に引き続き、

勇猛果敢なる追撃を行ない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う、

この旨将兵に申し伝えよ」


松井は読み終えると、塚田攻参謀長に手渡した。

松井も幕僚たち全員も、感あまって、ついにうれし泣きした。

天皇の御語はただちに塚田から全軍に伝達された。

派遣軍司令部から各師団へ、師団から旅団へ、旅団から連隊。

その間、松井はただちに天皇への奉答の辞を書き、電送させた。



湯水鎮への移動はそのあとのことで、松井は、ひとつの区切りもあり、

いくらか気分も回復していた。

この湯水鎮は温泉が湧くので有名である。

蒋介石はここに別荘をもっていたが、行ってみると戦災で焼失して跡かたもない。

松井は、久しぶりに、幕僚たちといっしょに入浴した。

「一同、久しぶりに入浴して気分を好くす」   と、松井は十六日の日記に書いている。

いくらか、この日は体力をもち直していた。



宿舎に戻ったころである。松井や副官の角良晴、それに通訳の岡田尚らは、

深夜、外で赤子の泣き声を聞いて眼をさました。

岡田が外に出て見ると、焼け跡に女の赤子があった。

岡田と当番兵の二人が拾い上げ、温泉で赤子を洗った。

そのあと毛布にくるみ、松井のところに見せに行く。松井も赤子を抱き上げた。



「なんと、むざんなことを」   と思った。思わず涙がぽろぽろと落ちた。

岡田がふと、

「松井閣下の松をとって、松子と名づけたい」   というと、

「よし、岡田、この子を連れて、南京に行くぞ。お前、面倒見てやれ」

松井が岡田に命じた。南京近くまでは松井が赤子を背負って行ったともいわれる。



のちに、松子は東亜倶楽部の職員、鳥井氏の養女として育てられたが、

幼稚園に行くころ病没した。》

1939年5月 ノモンハン6 山縣連隊の出陣

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/29 18:50 投稿番号: [2013 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
112〜115p


《 敵機の越境偵察はいよいよ激しくなった。明らかにソ連空軍である。

外蒙領タムスクには有力なソ連空軍が展開したとの情報に接して、

この局地的事件がソ連の意志によって拡大される最悪の場合を考え、

次のように飛行隊の兵力を増強した。



第十二飛行団司令部

飛行第十一戦隊   (戦闘二中隊)

第二十二飛行場大隊の主力

第二航空情報隊の一部



先に増加した飛行隊と合わせると、この頃ハイラル周辺に集まった飛行機の合計は、

軽爆撃機九機、戦闘機四十八機、偵察機九機である。

山縣武光大佐は、歩兵第六十四連隊長であった。

再度越境の敵を撃滅しようと勇んでハイラルを出た。その指揮した兵力は、



歩兵第六十四連隊本部

  歩兵一大隊

連隊砲中隊   (山砲四門)

東騎兵連隊   (乗馬一中隊、軽装甲一中隊)

連絡のため、村田、伊藤参謀随行す。



自動車輸送によってまずカンヂュル廟に兵力を集結し、二部をノモンハンに

出して同地守備の満軍と連絡させ、かつ敵状を捜索した。

その結果によると、敵はハルハ河、ホルステン河合流点付近に新たに架橋し、

ノモンハン西方約千メートルの砂丘に陣地を占領しているのを知った。



山縣支隊長もまた、鎧袖一触敵を駆逐できるものと考えたのであろう。

東騎兵連隊をして、橋梁方面より突進して敵の退路を遮断させ、

歩兵大隊を以て、ノモンハン方面から敵陣地を攻撃させて

連隊砲をそれに協力するように部署した。


満軍騎兵は、ホルステン河南岸から敵の退路を遮断するようにした。

五月二十七日の夕刻、カンヂュル廟を発した部隊は、自動車のライトも消して、

敵に企図を秘匿しつつ、ノモンハン方面に転進した。》


つづく

1937年12月16日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/29 18:45 投稿番号: [2012 / 2250]
《 たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、

安全区から連れ出され、銃殺されたという。

そのうち、五十人は安全区の警察官だった。

兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという。



下関へいく道は一面の死体置き場と化し、

そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。

交通部は中国人の手で焼きはらわれていた。ユウ江門は銃弾で粉々になっている。

あたり一帯は文字どおり死屍累々   (ししるいるい)   だ。

日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片づかない。



安全区の管轄下にある紅卍字会   (民間の宗教的慈善団体)   が

手を出すことは禁止されている。

銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。

我々外国人はショックで体がこわばってしまう。

いたるところで処刑が行われている。

一部は軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された。



晩に岡崎勝男上海総領事が訪ねてきた。

彼の話では、銃殺された兵士が何人かいたのはたしかだが、

残りは揚子江にある島の強制収容所に送られたという。

以前うちの学校で働いていた中国人が撃たれて鼓楼病院に入っていた。



強制労働にかり出されたのだ。

仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、家に帰る途中、

なんの理由もなくいきなり後ろから二発の銃弾を受けたという。

かつて彼がドイツ大使館からもらった身分証明書が、

血で真っ赤に染まっていま私の目の前にある。



いま、これを書いている間も、日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。

ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。

小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。

正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。

その側溝にも、この三日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。

ぞっとする。(以下略)



*   「下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が

   散らばっていた。   交通部は中国人の手で焼きはらわれていた。」


   これは、明らかに、12日夜の中国兵脱出劇の混乱によるもの。

   知らない人が読むと、日本兵のしわざと思い込むまされる。



*   「強制労働にかり出されたのだ。仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、

   家に帰る途中、なんの理由もなくいきなり後ろから二発の銃弾を受けた」


   これも話が変、証明書を渡した日本軍がなぜ撃つ必要がある?

   「日本に協力してけしからん」   と、便衣兵が撃つなら解るが。



*   「日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。

   ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。

   小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。」


   これも日本兵の行為とすれば意味不明。 便衣兵の行為なら、

   ラーベをして日本軍に不快感を抱かせるのに意味あるが。


第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏は

《 私達は十二月十五日、南京に入城し、支那軍の兵営に分宿し、

  各隊は衛兵を立て兵の外出を禁止したので、

  公用の将校以外は、各個に外出した兵はない。》

(富士信夫著   『「南京大虐殺」   はこうして作られた』   210p)


と証言している。中隊長でも勝手にウロウロ出来ない。   では、この“日本兵”は?

1939年 ノモンハン事件5 師団長への電報

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/28 16:06 投稿番号: [2011 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
110〜111p


《 たまたま小松原師団の参謀長大内大佐は、参謀長会同に出席のため、

新京に来ていた。

師団長からの電報に対する軍司令官の意見を、

率直に大内大佐に伝えたところ、



「私がハイラルを出発するとき、作戦主任参謀に注意してきましたのも、

関東軍のお考えと全く同一のものでした。

私の出発後に、この方針を変えて、山縣支隊を出すように決心されたらしいです。

私からも重ねて軍の意図を電報しましょう」

と、素直に打電した。その電報は次のような意味であった。



  小松原師団長宛                大内参謀長

  事件処理について、軍司令部と打ち合わせた所を具申す。


一、事件処理に関する軍の意図を具体的に述べると、

   ノモンハン付近の外蒙軍に対しては当分満軍をして之を監視しつつ

   寧   (むし)   ろ満領内に誘致し、日本軍はハイラルに在って悠々情勢を観察し、

   外蒙騎兵主力が越境した事を確認した後、

   急に出動して、国境内に捕捉殲滅するにある。

   そのためには稍々   (やや)   長時間国境を敵に委したる観を呈しても

   大局上に於ては差支えない。



二、若   (も)   し山縣部隊が既に出発した後ならば、

   成るべく速く目的を達してハイラルに帰還させるのを適当と考えられる。

三、空中戦については、我が飛行隊の勇猛果敢な行動に敬意を表するも、

   在ハイラル飛行隊将兵の心理状態を洞察すると、

   状況によっては大局上、飛行隊の行動に、某程度の掣肘   (せいちゅう)   を

   加える必要があるものと考えられる。



以上は閣下の御決心に反するが如き意見具申で恐縮なるも、

軍司令部に於て、十分打合せたる結果につき、不悪   (あしからず)。》



つづく

1937年12月16日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/28 15:58 投稿番号: [2010 / 2250]
十二月十六日


《 朝、八時四十五分、菊池氏から手紙。菊池氏は控え目で感じの良い通訳だ。

今日の九時から、 「安全区」   で中国兵の捜索が行われると伝えてきた。

いまここで味わっている恐怖に比べれば、いままでの爆弾投下や大砲連射など、

ものの数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。



いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんできている。

外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとく

こじ開けられ、荒らされた。

福田氏にあてた次の手紙から、そのときの状況がおおよそうかがえる。

ただし、この手紙に記されているのは、無数の事件のうち、

我々が知ったごくわずかな例にすぎない。



在南京日本大使館   福田篤泰様

拝啓

安全区における昨日の日本軍の不法行為は、難民の間にパニックを引き起こし、

その恐怖感はいまだに募る一方です。

多くの難民は、宿泊所から離れるのを恐れるあまり、

米飯の支給を受けたくとも、近くの給食所にさえ行けないありさまです。



そのため宿泊所まで運ばなければならなくなり、大ぜいの人々に

食料をいきわたらせることは、大変むずかしくなっています。

給食所に米と石炭を運びこむ苦力を十分集めることすらできませんでした。

その結果、何千人もの避難民は今朝、何も口にしていません。



国際委員会の仲間が数人、なんとかして難民に食事を与えようと、今朝がた

トラックを手配しようとしましたが、日本軍のパトロール隊に阻止されました。

昨日は委員会のメンバー数人が、私用の乗用車を日本軍兵士に奪われました。

ここに日本兵の不法行為リストを同封します。

(ただし、ここにはリストは掲載されていない)



この状況が改善されない限り、いかなる通常の業務も不可能です。

電話や電気、水道などの修復、店舗の修繕をする作業員はおろか、

通りの清掃をする労働者を調達することすらできません。

……私たちは昨日は苦情を申し立てませんでした。

日本軍最高司令官が到着すれば、

街はふたたび落ちつきと秩序を取り戻すと考えていたからです。



ところが昨晩は、残念ながらさらにひどい状況になりました。

このままではもうどうにも耐えられません。

よって日本帝国軍に実情をお伝えすることにした次第です。

この不法行為が、よもや軍最高司令部によって是認されているはずはないと

信じているからです。         敬具

                  代表   ジョン・ラーベ

                  事務局長   ルイス・S・C・スマイス》



*   「いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力が

   この安全区の中にも及んできている。」


   これは本当に日本兵の仕業なのだろうか?

   上海派遣軍第九師団第三十六聯隊長だった脇坂次郎氏は東京裁判の宣誓供述書で


《 私は十二月十五日、南京城内巡視の際、難民区の実情を視察したいと考えたが、

憲兵が厳重に警備していて、部隊長と雖   (いえど)   も特に許可がなければ

立入りは禁じられていると言って拒絶され、

遂に内部を視察することは出来なかった。》



と証言しています。

将校ですら許可なく入れない安全区に、どうやって兵隊が悪さに入れる?

おまけに17日は入城式。その準備で忙しく、悪さをしている暇はない筈だが。

1939年 ノモンハン4 撃退後の執拗な進出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/27 15:36 投稿番号: [2009 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
108〜110p


《 東中佐は第二十三師団の騎兵連隊長で、

多くの部隊長の中でも傑出した人物であった。

積極果敢、如何にも騎兵的性格のはっきりした武人で、部下からの信望も深かった。

外蒙騎兵数百名の越境を駆逐するには勿体   (もったい)   ないくらいである。



十三日夜、連隊主力   (軽装甲一中隊と乗馬一中隊)   を率いて

勇躍ノモンハンに馳せつけたとき、その勢いに脅えたか十四日の夜、

外蒙騎兵は大部の兵力をハルハ河左岸   (*モンゴル領)   に退げ、

残った一部も十五日正午頃、退却の兆   (きざ)   しを認めた。



東中佐はこの機を看破して、攻撃前進に移り、敵をハルハ河左岸に撃退した。

ハイラルに腕を撫でて機を待っていた飛行隊が、この獲物を見逃すはずはない。

直ちに出動して、軽爆一中隊で退却する外蒙騎兵をハルハ河渡河に乗じ爆撃し、

三、四十名を粉砕したらしい。

この戦場に飛行機が出動したのは、これが初めてであった。



小松原師団長は、東支隊出動の目的を達したものと認め、

満軍一団   (一連隊)   でノモンハン集落付近を守備して敵を監視させ、

十六日の夜、東支隊をハイラルに引き揚げさせた。



これで、ノモンハン事件は、終わったものと思い込んでいた。

「手際よく片づけた。思い知ったであろう」   と、

軍司令官も幕僚も一安心していたところ、その翌日、小松原師団長から、

「東支隊の撤退に追尾する如く敵兵は再びハルハ河を越えて右岸に進出せり」

との報告に接した。



ダニのように執拗に、ハエのように五月蝿いことだ。

「何とかして、根本的に膺   (こ)   らさにゃなるまい」   と

考えている矢先、師団長から、山縣支隊

(山縣歩兵連隊長の指揮する歩兵一大隊、連隊砲一中隊及び騎兵連隊の主力)

をカンヂュル廟付近に急派させたとの報告が来た。



「待てよ、こんな方法を蒸し返したら際限がない。

何とか新しいやり方を考えねばならぬ」   との意見に各幕僚とも一致した。

軍司令官も参謀長も全く同感である。次のような電報が師団長に発せられた。



一、敵が一歩国境を越えたとて、不用意に出撃するは急襲成功の道ではない。

   殊にノモンハンのように同一地点に屡々   (しばしば)   越境する敵に

   対しては、ピストン式では反   (かえ)   って敵に致され易い。

二、ハルハ河右岸に外蒙騎兵の一部が進出滞留するようなことは、

   大局的に見て大なる問題ではない。

   暫く静観し、機を見て一挙に急襲しては如何。



いやしくも師団長に対し、

このような幼稚な指導をすることが適当ではないのは明瞭である。

しかし、この師団は新編匆々   (そうそう)   の新世帯で、

上下左右の団結と、訓練とが在満師団中最下位にあった。

人を見て法を説くことが実際の統帥であり、師団長の善良な人柄は、

軍のこのような電報に対しても何ら悪意を抱かれなかったのである。》


つづく

1937年12月16日 南京城内清掃

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/27 15:27 投稿番号: [2008 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   238〜239p


《 十二月十六日、

日本軍は掃蕩と清掃をいそいだ。

翌日、十七日に入城式、

次いで十八日に陸海合同慰霊式をおこなうことがきまったからである。

とくに、市内に散乱する中国側の死体の片づけが、急務とみなされた。

入城式行進のルートは、中山門から国民政府大礼堂までの

目ぬき通りがえらばれている。



「安全区」   委員会に協力がもとめられ、委員会は、紅卍会   (楊登瀛)   と

慈善団体   「崇善堂」(周一通)   委託した。

紅卍会は急には人夫が集められない旨を回答し、 「崇善堂」   だけが、

「安全区」   の難民を   「一体四角」   の処理賃金で動員した。

だが、それでもわずか四十人をあつめ得たにすぎず、

おかげで死体処理といっても、中山路と中正路が交差する鼓楼付近の死体を、

双龍巷、石婆巷などの露地の側面につみあげるか、

いくつかの池に投棄するだけで埋葬は後日に待つほかはなかった。



死体の壁ができた露地には、たちまち野犬、野良猫、ネズミがむらがり、

凍った死体の腹をかみやぶり、その中で眠るものもいた。

捕虜の処置もいそがれ、前述した   「安全区」   の法務部から

連行された中国兵約二千三百人の大半が処刑された。》



*   「死体を、・・・、いくつかの池に投棄するだけで・・・」


    なるほど、 「崇善堂」   に雇われた者が放り込んだわけか。

    それを、外国人は、日本軍が殺して放り込んだと解釈したわけか。

    この路上の死体の殆どは、12日夜の中国軍の脱走混乱でできたもの。

    こうやって、誤まった歴史がつづられる。

1939年5月16日 テレビ電波放送試験

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/26 18:55 投稿番号: [2007 / 2250]
〔昭和14年5月16日   東京日日(夕刊)〕


ついに待望のテレヴィ試験放送は成功した。

既報の通り建設中の世田谷鎌田町放送協会技術研究所の

百米自立式テレヴィ用大鉄塔も、去る十三日、A・K新館移転の日に完成、

指向性アンテナの取り付けも終わり、いよいよ公式試験放送のテストに、

十五日正午   「はるばる世田谷から輝くテレヴィ日本の処女電波を送った。



瞬間、声の殿堂の六階屋上に設けた三組の仮テレヴィ用水平アンテナから、

にっこり笑う同研究所の給仕君の顔、フィルム式テレヴィ等が、

軽快なレコード放送とともに四十五メガサイクルの水平電波に乗って、

四台の受像機に面白いように吸い込まれて来る。

日本最初の長距離テレヴィ放送だ。



成績は去月行った近距離室内テスト同様でまず上乗、

輝かしいテレヴィのスタートに凱歌は挙がった。

近く逓信省の正式認可を待って公式放送を開始する。

1937年12月16日 幕府山 火災で捕虜逃亡

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/26 18:50 投稿番号: [2006 / 2250]
山田メモより

《 十六日   相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合わせをなさしむ。

捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。》

(鈴木明著   『旧 「南京大虐殺」 のまぼろし』   194p)



両角業作   手記


《 炊事が始まった。某棟が火事になった。

火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、

聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、

もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。



我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、

もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。

私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、

少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、

なんでもなかったような顔をしていた。》



児島襄著   『日中戦争4』   236〜237p


《 この夜、約八千人の捕虜をかかえた幕府山の第六十五連隊では、午後九時すぎ、

夕食の炊事中に火災が発生した。

捕虜を監視していたのは、第一大隊 (田山芳雄少佐) の兵四、五人であったので、

ただちに一個中隊がかけつけたが、なにせ相手は八千人である。



あっという間に、約半数が逃亡してしまった。

が、第百三旅団長山田少将も、第六十五連隊長両角大佐も、内心はホッとした。

少将は、捕虜を 「始末」 せよとの指示をうけていたし、

大佐は、捕虜にたいする給養に苦慮していたからである。》



東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   132〜133p


《 ともあれ、幕府山要塞の地下倉庫に備蓄された食糧が発見された。

渡りに舟とばかりに、それがバラック棟に運び込まれる。

やがて、投降兵自ら自給自足するよう、指示が出た。投降兵の炊事が始まった。

ところが、ある一棟から出火した。不注意で出火させれば寒天の下で

眠らなくてはならないから、不注意の出火ではなかった。



意図的な放火であった。両角連隊長は、脱走を狙った放火と判断した。

これが収容三日目   (十二月十六日)   のことになる。

この放火事件は、 「第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」   の

筆者十九名中、四人が陣中日記に記す。

・・・・



こうして火災の出た日   (十二月十六日)   の夕方、一部の投降兵が銃殺に処せられた。

しかし、揚子江岸の処刑については、両角連隊長の手記は何も記していない。

が、両角部隊兵士の複数の陣中日記   (十二月十六日)   には明記されている。

たとえば   「遠藤高明陣中日記」   には次のように書かれている。

   〈夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一ヲ江岸ニ引出シⅠニ於テ射殺ス。〉

「Ⅰニ於テ射殺ス」、つまり第一大隊によって投降兵は射殺された。

遠藤少尉   (仮名)   の言う軍命令とは、

師団命令を受けた形の旅団命令であったのであろう。》



*   夜9時に失火したのに、その日の夕方に処刑とは、これ如何に?

   旅団命令の処刑なら、山田旅団長の態度と矛盾するが?

1939年5月14日 親日中国人射殺される

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/25 18:46 投稿番号: [2005 / 2250]
〔昭和14年5月16日   大阪毎日〕

〔天津本社特電十五日発〕   天津英国租界工部局の援蒋反日的態度は

いよいよ露骨化している折柄、


十四日午後四時ごろ、英租界に隣接した特一区志連中学校内で、

明らかに抗日分子のテロと目される親日華人中学生射殺事件が発生、

犯人逮捕はおろか、かえって犯人を擁護、

その租界への逃走を黙過するといった有様である。



すなわち同時刻、英租界内から年齢二十歳と推定される青年が

三名の暗殺団員に拳銃弾をうけて射殺され、加害者等は悠々租界に逃走、

事件発生に同校門衛が筋向かいの馬廠道路上に立っていた巡捕に報告せるも、

関知せずとなんらの処置を講ぜず、



しかも同校出入口は英租界のみにあって、

犯人逮捕は容易であるにも拘わらず犯人逃走を黙認、

さらに事件発生後一日を経過するも、日本側および支那側警察になんらの通告なく、

わが方の調査を妨害する態度に出ているなどたび重なる不信、非協調的態度に、

わが方でもついにある種の自衛手段を講ずるのやむなきに至り、

対租界問題はいよいよ尖鋭化するに至った。

1937年12月15日 幕府山捕虜の扱い問合せ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/25 18:38 投稿番号: [2004 / 2250]
山田旅団長メモ


《 十五日   捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ

『始末せよ』   との命を受く。


各隊食糧なく困窮せり。

捕虜将校のうち幕府山に食糧ありときき運ぶ。

捕虜に食わせることは大変なり。


(鈴木明著   『旧 「南京大虐殺」 のまぼろし』   193p)



*   普通   『始末せよ』   と言われたら、 「殺せ」   と言われたと解釈する。

   しかし、その後、

  「各隊食糧なく困窮せり・・・捕虜に食わせることは大変なり。」   と

   続くと、意味不明になる。

   「殺せ」   の命令を実行すれば、 「捕虜に食わせる」   必要はなくなるから、

   その後の   「捕虜に食わせることは大変」   では、意味が通らない。

   ???

1939年 ノモンハン事件3 飛行中撃たれた

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/24 18:55 投稿番号: [2003 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
103〜105p


《 地上から追及する前に、まず飛行機で現場を偵察しよう。

飛行隊に交渉し、司令部偵察機に便乗をお願いした。

たまたま師団長からの要求で、

いまから偵察に出るところだとのことで快く承諾された。



ちょうど一年前の今日は秋山少尉に操縦されて、

初めてこの敵地上空飛行を決行した思い出が深い。

飛行機もまた同型である。

曹長に操縦されて、ハイラルを後にまずカンヂュル廟に、

次いでハルハ河を辿りながら目指すノモンハンを探した。



砂丘の間に点在する小松の蔭に、何物が潜むかさっぱりわからない。

馬一頭でも求めようと低空で数回上空を往復したとき、

ホルステン河とハルハ河との合流点に近い草原に、

軍馬らしい約二十頭の姿を捉えた。



それを端緒として、せめて一人の蒙古兵でも見つけたく、

超低空で数回旋回したが、ついに何物をも掴み得なかった。

三百や五百の兵を隠す小松の蔭は至る所にある。

軍馬を発見しただけで、どうにか証拠を見出したように自ら慰めて、

ハイラルに引き揚げた。



飛行場に着陸して機体を点検すると、油槽に弾を受けている。

小銃の弾痕であった。

道理で帰り着いたときは、油がほとんど尽きていた。

危ないところだ、もう少しで人間が受ける弾痕であり、もし機関にでも

受けたらいま頃はノモンハンの砂漠に残骸を曝していることだろう。



師団長と幕僚に、直接この眼で確認した敵情を知らせてやろうと思ったのに、

「敵は見えませんでした。ただ馬が約二十頭ばかり、合流点に草を食っています。

飛行機に一発孔   (あな)   があきましたから、たぶん敵兵が越境しているのでしょう」

と、ありのままを申し上げた。



子供騙しのような幼稚な報告に、自ずから冷汗をかく思いがする。

戦場でも、演習でも、偵察将校や参謀の敵情報告をたびたび耳にしたが、

どれもこれもまるで敵から内幕を見せてもらったかと思われるほど

詳細的確なものが多い中に、

自分は拙   (つたな)   いのか、卑怯なのか、十数回低空で旋回したが、

ついにこれだけしか自信を持って報告し得なかった。



弾痕だけが最も正直に、敵兵の所在を説明してくれる。

出発前に速成的に研究した兵要地誌の幾つかが、この偵察で確認された。

砂丘の程度、河の実況、道路の状態等々、印画紙に収めるように頭に刻みつけて帰った。

不思議にも肝心要のノモンハン村落は、どこにも見当たらない。



幾つかの古びた蒙古包が三々五々点在しているが、

そのいずれか一つがノモンハンなのであろう。

世界を驚かしたノモンハンの正体は、

数個の破れかかった蒙古包の一小村であろうとは。



新京に、その日のうちに帰った。

幼稚な偵察成果を、そのまま植田将軍以下に報告し、

大事件ではあるまいと付け加えた。


外蒙騎兵の悪戯に過ぎないこの火遊びが、意外にも屋根に燃え移り、

強風に煽られて、ついに全満に火花を散らす劫火   (ごうか)   となったのである。

これが戦争の持つ一つの性格であろう。》

1937年12月15日 スミス氏の講演

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/24 18:41 投稿番号: [2002 / 2250]
ラーベの日記の12月15日より


《 私は十二月十五日に南京を後にしましたが、

それまでに私をはじめ、ほかのヨーロッパ人の見たところによれば、

中国人の家はすべて、ヨーロッパ人の家はその大部分が、

日本兵によって略奪しつくされていました。



屋根にはためくヨーロッパの国旗も引きずりおろされました。

日本兵の一団が家財道具を取っていく姿も見られました。

とくに好まれたのは壁掛け時計だったようです。

まだ南京に残っていた外国の車は、徴発される前に国旗を引き裂かれました。

安全区国際委員会からも、乗用車二台とトラック数台が押収されました。



カフェ・キースリングの前で、私はたまたまラーベ氏に出会いました。

氏は店主と力をあわせ、日本兵を次から次へと追い払っていました。

かれらは店のドイツ国旗を外して食べ物を奪おうとしたのです。



下関では、四、五百人の中国人が連れ去られました。

ヨーロッパ人が後を追おうとしたのですが、

日本軍におしとどめられて果たせませんでした。



十二月十五日、外国の記者団が、

南京から上海に向かう日本の軍艦に乗せてもらうことになりました。

ところがそのあとで、イギリスの軍艦でいけることになり、

桟橋に集合するよう指示がありました。



出発までに予想以上に時間がかかったので、偵察をかねて、

あたりを少し歩くことにしました。そこでわれわれが見たものは、

広場で日本軍が中国人を縛り上げ、立たせている光景でした。

順次、引きたてられ、銃殺されました。

ひざまずいて、後頭部から銃弾を撃ちこまれるのです。

このような処刑を百例ほど見たとき、指揮をとっていた日本人将校に気づかれ、

すぐに立ち去るように命じられました。

ほかの中国人がどうなったのかはわかりません。》



*   「日本兵の一団が家財道具を取っていく姿も見られました。

   とくに好まれたのは壁掛け時計だったようです」


   兵隊が壁掛け時計なんか盗んでどうするのでしょう?

   彼らには移動命令が出ています。   行軍の邪魔になるだけですが。

   家財道具と言っても、本部詰所の必需品がそろえば、それ以上は必要ない筈。

   彼ら外国人は、そういう事が解らないのでしょうか?



*   「四、五百人の中国人が連れ去られ・・・日本軍が中国人を・・・銃殺」


   こういう言い方によって、スミス氏は米国市民に誤解を与えています。

   中国人と言えば中国人ですが、無辜の市民ではなく、

   軍服を脱いで便衣兵となった中国兵です。

   兵士が降伏せずに平服に着替えて市民の中に潜ったら、

   スパイ・ゲリラと見なされます。



   処刑されても仕方ありません。

   また、処刑された人の中に、市民が混じっていたとしても、

   それは日本軍の罪ではありません。

   間違うように仕向けた、中国式戦法に問題があるのです。



   後、米軍もベトナムで、農民に化けたゲリラに悩まされ、同じ行動をとりました。

   そして虐殺と非難されました。

1939年5月13日 ノモンハン2 ハイラルへ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/23 18:46 投稿番号: [2001 / 2250]
辻正信著   「ノモンハン秘史」   毎日ワンズ
96〜97p


《 ともあれ第二十三師団長の積極迅速な処置によって、

間もなく鎧袖一触されるであろう。だが待てよ −

昭和十年の夏、ハルハ廟付近で同じような衝突が惹起されたことがある。

あのときは、外蒙側は戦車さえ持ち出して日本軍の騎兵を散々悩ました

ことがあったはずだ。

「余りに楽観してはならぬ」   という警戒的な態度の幕僚もいた。



しかし、このような砂漠の中で何ら戦略的意義を持たぬ草原の一小集落に

何の意味があるだろう。補給の点から考えてみても、

お互いに鉄道端末から数百キロメートルも遠隔した土地であり、

大兵を動かすことは並大抵ではない。

「まあ、ハルハ廟事件当時のような規模で終わるのだろう」

との空気が支配的であった。


いずれにせよ第二十三師団長に対しては、

所望してきた兵力と資材を至急送らねばならぬ。



その日の夕方、次のような兵力を増加する命令が発せられた。

飛行第十戦隊(一中隊欠)   −   軽爆一中隊

飛行第二十四戦隊   −   戦闘二中隊

第四十八、第五十一飛行場大隊

自動車二中隊

必要にして十分の兵力であろう。



「ついでに兵要地誌を勉強しておこう。

いつどんな関係で拡大するかも知れない」   と、

分厚い書類から戦いの地となるべきホロンバイル平原、

とくに外蒙との国境地帯の特性を覗くことにした。》


(中略)


103p
《 以上のような予備知識を超速成的に会得したが、

直接この眼でさらに確かめるべく、ハイラルに飛んだ。

久しぶりに見るハイラルの街は活気を呈している。

それは、自動車徴発によって戦争気構えを煽   (あお)   られた興奮であろう。

師団司令部に着いて、軍命令を伝達した。

東支隊   (騎兵主体)   は、昨夜すでに南進を開始した由   (よし)。》



つづく
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