1937年12月16日 幕府山 火災で捕虜逃亡
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/26 18:50 投稿番号: [2006 / 2250]
山田メモより
《 十六日 相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合わせをなさしむ。
捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。》
(鈴木明著 『旧 「南京大虐殺」 のまぼろし』 194p)
両角業作 手記
《 炊事が始まった。某棟が火事になった。
火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、
聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、
もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。
我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、
もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。
私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、
少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、
なんでもなかったような顔をしていた。》
児島襄著 『日中戦争4』 236〜237p
《 この夜、約八千人の捕虜をかかえた幕府山の第六十五連隊では、午後九時すぎ、
夕食の炊事中に火災が発生した。
捕虜を監視していたのは、第一大隊 (田山芳雄少佐) の兵四、五人であったので、
ただちに一個中隊がかけつけたが、なにせ相手は八千人である。
あっという間に、約半数が逃亡してしまった。
が、第百三旅団長山田少将も、第六十五連隊長両角大佐も、内心はホッとした。
少将は、捕虜を 「始末」 せよとの指示をうけていたし、
大佐は、捕虜にたいする給養に苦慮していたからである。》
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 132〜133p
《 ともあれ、幕府山要塞の地下倉庫に備蓄された食糧が発見された。
渡りに舟とばかりに、それがバラック棟に運び込まれる。
やがて、投降兵自ら自給自足するよう、指示が出た。投降兵の炊事が始まった。
ところが、ある一棟から出火した。不注意で出火させれば寒天の下で
眠らなくてはならないから、不注意の出火ではなかった。
意図的な放火であった。両角連隊長は、脱走を狙った放火と判断した。
これが収容三日目 (十二月十六日) のことになる。
この放火事件は、 「第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」 の
筆者十九名中、四人が陣中日記に記す。
・・・・
こうして火災の出た日 (十二月十六日) の夕方、一部の投降兵が銃殺に処せられた。
しかし、揚子江岸の処刑については、両角連隊長の手記は何も記していない。
が、両角部隊兵士の複数の陣中日記 (十二月十六日) には明記されている。
たとえば 「遠藤高明陣中日記」 には次のように書かれている。
〈夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一ヲ江岸ニ引出シⅠニ於テ射殺ス。〉
「Ⅰニ於テ射殺ス」、つまり第一大隊によって投降兵は射殺された。
遠藤少尉 (仮名) の言う軍命令とは、
師団命令を受けた形の旅団命令であったのであろう。》
* 夜9時に失火したのに、その日の夕方に処刑とは、これ如何に?
旅団命令の処刑なら、山田旅団長の態度と矛盾するが?
《 十六日 相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合わせをなさしむ。
捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。》
(鈴木明著 『旧 「南京大虐殺」 のまぼろし』 194p)
両角業作 手記
《 炊事が始まった。某棟が火事になった。
火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、
聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、
もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。
我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、
もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。
私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、
少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、
なんでもなかったような顔をしていた。》
児島襄著 『日中戦争4』 236〜237p
《 この夜、約八千人の捕虜をかかえた幕府山の第六十五連隊では、午後九時すぎ、
夕食の炊事中に火災が発生した。
捕虜を監視していたのは、第一大隊 (田山芳雄少佐) の兵四、五人であったので、
ただちに一個中隊がかけつけたが、なにせ相手は八千人である。
あっという間に、約半数が逃亡してしまった。
が、第百三旅団長山田少将も、第六十五連隊長両角大佐も、内心はホッとした。
少将は、捕虜を 「始末」 せよとの指示をうけていたし、
大佐は、捕虜にたいする給養に苦慮していたからである。》
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 132〜133p
《 ともあれ、幕府山要塞の地下倉庫に備蓄された食糧が発見された。
渡りに舟とばかりに、それがバラック棟に運び込まれる。
やがて、投降兵自ら自給自足するよう、指示が出た。投降兵の炊事が始まった。
ところが、ある一棟から出火した。不注意で出火させれば寒天の下で
眠らなくてはならないから、不注意の出火ではなかった。
意図的な放火であった。両角連隊長は、脱走を狙った放火と判断した。
これが収容三日目 (十二月十六日) のことになる。
この放火事件は、 「第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」 の
筆者十九名中、四人が陣中日記に記す。
・・・・
こうして火災の出た日 (十二月十六日) の夕方、一部の投降兵が銃殺に処せられた。
しかし、揚子江岸の処刑については、両角連隊長の手記は何も記していない。
が、両角部隊兵士の複数の陣中日記 (十二月十六日) には明記されている。
たとえば 「遠藤高明陣中日記」 には次のように書かれている。
〈夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一ヲ江岸ニ引出シⅠニ於テ射殺ス。〉
「Ⅰニ於テ射殺ス」、つまり第一大隊によって投降兵は射殺された。
遠藤少尉 (仮名) の言う軍命令とは、
師団命令を受けた形の旅団命令であったのであろう。》
* 夜9時に失火したのに、その日の夕方に処刑とは、これ如何に?
旅団命令の処刑なら、山田旅団長の態度と矛盾するが?
これは メッセージ 2004 (kir**gotowa**me さん)への返信です.