入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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暴支膺懲声明

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/10 18:57 投稿番号: [1575 / 2250]
中国の上海攻撃の非道さに、日本政府は声明を出しました。


〔昭和12年8月15日   大阪毎日〕より


    声明書

《 帝国つとに東亜永遠の平和を冀念   (きねん)   し、

日支   両国の親善、提携に力を効せること久しきにおよべり。



しかるに南京政府は   排日抗日をもって   国論昂揚   (こうよう)   と

政権強化の具に供し、自国国論の過信と帝国の実力軽視の風潮と相待ち、

さらに赤化勢力と苟合   (こうごう)   して反日侮日いよいよはなはだしく、

もって帝国に敵対せんとするの機運を醸成せり。



近年幾度か惹起せる不祥事件、いずれもこれに因由せざるなし。

今次の事変の発端もまた、かくのごとき気勢がその爆発点を

たまたま永定河畔に選びたるに過ぎず、

通州における神人ともに許さざる残虐事件の因由またここに発す。



さらに中南支においては支那側の挑戦的行動に起因し、

帝国臣民の生命財産すでに危殆   (きたい)   に瀕し、

我が居留民は多年営々として建設せる安住の地を、

涙をのんでついに一時撤退するのやむなきにいたれり。



顧みれば事変発生以来しばしば声明したるごとく、

帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、

努めて平和的かつ局地的に処理せんことを企図し、

平津地方における支那軍屡次の挑戦および不法行為に対しても、

我が支那駐屯軍は交通線の確保および我が居留民保護のため、

真にやむを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。



しかも帝国政府はつとに南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と

現地解決を阻害せざるよう注意を喚起したるにも拘わらず、

南京政府は我が勧告を肯   (がえ)   んぜざるのみならず、

かえってますます我が方に対して戦備を整え、

厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、

また漢口、上海においては兵を集めていよいよ挑戦的態度を露骨にし、

上海においてはついに我が方に向かって砲火を開き、

帝国軍艦に対して爆撃を加うるに至れり。



かくのごとく支那側が帝国を軽侮し不法、暴虐至らざるなく、

全支にわたり我が居留民の生命財産危殆に陥るに於いては、

帝国としてはもはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、

もって南京政府の反省を促すため、今や断乎たる措置をとるのやむなきに至れり。

かくのごときは東洋平和を念願し、日支の共存共栄を翹望   (ぎょうぼう)   する

帝国として衷心   (ちゅうしん)   より遺憾とするところなり。



しかれども帝国の庶幾   (しょき)   するところは日支の提携にあり、

これがため支那における排外抗日運動を根絶し、

今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除   (さんじょ)   するとともに、

日、満、支三国間の融和、提携の実を挙げんとするのほか他意なく、

もとより毫末   (ごうまつ)   も領土的意図を有するものにあらず。



また支那国民をして抗日に躍らしめつつある南京政府および国民党の覚醒を

促さんとするも、無辜の一般大衆に対してはなんら敵意を有するものにあらず。

かつ列国権益の尊重には最善の努力を惜しまざるべきは言をまたざるところなり。》



注   冀念   キネン      いのり、こいねがう。

   苟合   コウゴウ     私通する。

   平津   ヘイシン     北平 (北京) 、天津地域の略

   翹望   ギョウボウ    首を長くのばして待ち望む。

   庶幾   ショキ       こいねがう、のぞむ。

   衷心   チュウシン    心の底

   芟除   サンジョ     草を刈り除く、刈り取る。

   毫末   ゴウマツ     ごく小さいこと、少し、わずか。


つづく

4月1日 抗議すると変わる命令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/10 18:43 投稿番号: [1574 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
318〜320p


《 またまた   「回れ右」   命令であり、

赤柴大佐は、ただ唖然かつ憮然とするばかりであった。「ご苦労だが……」

と、それでもやむなく、大佐は、四月一日午前零時、大隊長たちを集めて

再度の転進命令を示達していると、野砲兵第十連長谷口春治中佐がやってきた。

「困ります。こんな支隊命令は困ります」



中佐は、憤然とした表情と語調で、強調した。

砲兵部隊は、すでに北方の敵にたいして布陣し、砲撃準備をととのえている。

急に   「回れ右」   といわれても、歩兵のように身軽には動けない。

いまから方向転換しても、朝の攻撃には準備が間にあいそうにもない。

このまま予定どおりの作戦を実行したほうが有効だから、

一緒に意見具申してほしい、と、谷口中佐は主張した。


・・・・・


大佐の様子をみた谷口中佐は、では、という形に肩をはると、

机上の電話で支隊長瀬谷少将、ついで野戦重砲兵第二旅団長西村琢磨少将に

「真剣な調子」   で命令撤回をもとめる意見具申をした。

その結果は、午前二時、次の支隊命令で明示された。



「歩兵第十連隊ハ、四月一日北方ノ敵ニ対シ   之ヲ東北方ニ圧迫スル

如ク   攻撃シ、以テ支隊ノ左側背ヲ   安全ナラシムベシ……。

停車場付近ニ対スル   攻撃ノ時機ハ、別命アル迄中止ス」


わずかに三時間たらずでの命令変更である。

では、その前の台児荘攻撃命令は、なんのための下令なのか……。

なんとも不鮮明な統帥といわざるを得ないが、首をひねったのは、

台児荘の第六十三連隊長福栄真平大佐も、同様であった。



大佐の場合、台児荘にたいする主力攻撃命令を、午前一時三十分に受理した。

第十連隊が右翼になって停車場付近を攻める、第六十三連隊は左翼で攻撃せよ、

というので、大佐は勇躍して必要な命令を準備しているところに、

攻撃延期の支隊命令がとどいたのである。



福栄大佐は、支隊の   〝猫眼的姿勢〟   に不満を感ずるよりも、心配した。

がっちりと台児荘城に取り組んでいる関係上、後方や左右の戦況を詳細に知る余裕はなく、

なにが原因で支隊命令が変更されたか、知るすべもなかったからである。

「支隊全般の作戦遂行の上に、大きな変化が起ったのかも知れない」

福栄大佐は、そんな感想を得ただけに、ますます台児荘の攻略は

「連隊独力」   で成就せねばならぬ、と覚悟した。



この日、中国側の砲撃は強化されたが、

城の西北角に孤立していた第三大隊第十一中隊は、無事に救出された。》


つづく

中国の嘘に呼応する日本人

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/09 18:53 投稿番号: [1573 / 2250]
中国は8月14日の上海爆撃を日本軍機がやったと報じましたが、

日本人の中には、今もこの嘘を信じて、これに呼応している人達がいます。



『写真記録   日中戦争3.拡大する日中戦争   1937〜1941』

ぽるぷ出版   鈴木亭・笠原十九司   編


という本の26頁のAに死体が転がっている写真がありますが、その前の頁に

“日本軍が連日上海市内を爆撃して、市民を酷い目にあわせている”   と

言う趣旨の記事を書いています。

次に   この写真ですから、当然、加害者は日本軍と取られます。



ところが、この写真は、中国軍機が上海南京路を爆撃した時の惨状写真なのです。

これと同じ写真が   毎日新聞社刊   『不許可写真1 』   の7ページと、

毎日新聞社刊   『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』   11ページに載っています。

ここではハッキリ、中国空軍が爆撃したと、書いてあります。

つまり、中国軍の爆撃の惨状を、まるで日本軍がやったかのように、

この人達は、読者に言っているわけです。



また、彼らは、パレスホテル前の爆撃のあとの惨状写真

(但しこれを先施公司デパートと言っている)   も日本軍の犯行として載せています。

ここで彼らは二重の間違いをしています。

先施公司   (シンシアコーズ)   デパートを爆撃したのは中国軍です。

  ( 毎日新聞社刊   『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』   の13ページにある )

パレスホテルの爆撃も中国軍ですが、この写真も毎日新聞社刊

『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』   の13ページにあります。



このように、中国軍の犯行を日本軍の犯行にすりかえて本に書く、

困った日本人がいるのです。

ちなみに、日本の新聞は、南京路で中国人の死体の転がっている写真は

掲載不許可にされました。

別に、日本が犯人ではないのですが、軍は、人道上、

掲載すべきではないと判断したようです。



西岡香織著 『報道戦線から見た 「日中戦争」 』 芙蓉書房出版
83p


《日本軍第一線の幕僚には、軍の機密保持や、戦争の悲惨さを

国民に知らせたくないという心理から、従軍記者を敬遠する風潮が強かった。

このため報道部が間に立って苦労するが…》 (馬淵少佐の言)



要するに、軍の検閲は、機密保持だけではなく、

「悲惨な状況をお茶の間に見せたくない」   ということでもあったようです。

だから、敵の爆撃で殺された、中国人の死体写真でも、不許可にしたわけです。



それに比べて、自分で自国民を殺しておきながら、

平然と日本軍のせいにする、中国の図々しさ、

これはナイーブな日本人には、とてもマネができません。



この中国の酷いやり方に、日本政府は、8月15日   「暴支膺懲」   声明を出します。


つづく

3月31日 またまたまた猫の目指令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/09 18:44 投稿番号: [1572 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
317〜318p


《 沂州の手前で反転した第二十一連隊は、

三月三十日、はやくも先発した第一大隊が向城を経て南進し、

第十連隊も、その第一大隊は台児荘西方の大運河に近い李家荘にすすんだ。


瀬谷支隊長である第十師団第三十三旅団長瀬谷啓少将は、午後九時四十五分、下令した。

「支隊ハ、大運河以上デ   僅カニ范口、南グ   (土+具)   子ニ残存スル敵ニ対シ

殲滅的打撃ヲ与フルト   共ニ、台児荘付近ノ敵ニ対シ   攻撃ヲ続行セントス」



第十連隊は前進をはやめ、三月三十一日の夜明けには、

第二大隊も第一大隊の西方の頓庄間にすすみ、大運河の流れを前にした。

すると、午前五時三十分   −

十連隊長赤柴八重蔵大佐は、意外な瀬谷支隊命令をうけた。

「沂州方向ヨリ退却セル張自忠ノ約二個師ハ、昨三十日夕、

其ノ一部ヲ以テ王庄、官庄、馮家湖、大庄、黄庄付近ニ達シ、停止セリ」



ここに指摘された地域は、ちょうど坂本支隊の進撃路の西側、

そして瀬谷支隊の後方にあたる。そこで、

「支隊ハ、台児荘攻略部隊ヲ以テ   依然攻撃ヲ続行セシメ、其ノ他ノ主力ヲ以テ

北方ニ移動シ、ショウ山付近ヨリ   官庄方向ニ対スル攻撃ヲ   準備セントス」

第十連隊はショウ山、すなわち台棗鉄道の北洛駅の北西に集結せよ、という内容である。



つまりは「回れ右」命令であり、第十連隊長赤柴大佐は、

「また〝猫眼命令〟   か……」

と、舌うちする想いであった。

第十連隊は、すばやく反転して午後二時、北洛に到着すると、

ショウ山にたいする警戒を強化しながら、瀬谷支隊長からの次の命令を待った。



ところが、午後十一時二十五分、赤柴大佐は伝達された支隊命令に眼をむいた。

「支隊ハ、四月一日主力ヲ以テ   台児荘付近ノ敵陣地ヲ攻略セントス」

攻撃の重点を台児荘停車場付近およびその西側地区に指向する。

第十連隊がその攻撃を担任せよ、というのである。》


つづく

8月15日 日本海軍機の渡洋爆撃

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/08 15:18 投稿番号: [1571 / 2250]
8月14日   中国軍機が上海を爆撃しました。

そのころ、東シナ海には、日本の空母がいましたが、

台風が来ていたため艦載機は発艦も着艦も出来ませんでした。

動けたのは、黄浦江にいる「出雲」と「川内」の艦載機のみです。

これらはフロートつきの水上機です。

これら二機の水上機が攻撃してきた中国軍機に反撃出来ただけです。



これでは埒があきません。

日本海軍は、15日、日本本土   (長崎県・大村)   と台湾から直接飛行機

(九六式陸攻)   を飛ばせて、南京・広徳・南昌・杭州などの飛行場を攻撃させました。

これが有名な渡洋爆撃です。



しかし、台風が来ていたため、高空からは目標が見えません。

攻撃できずに引返したり、低空で攻撃しようとして撃ち落とされたりで、

成果が上がらず、何度も、同じ所を攻撃に行かなければならなくなりました。


仕方がありません。陸軍は当分来れませんし、たった4千の陸戦隊員で

何万という中国軍を相手にしているのですから。

せめて、飛行機で中国軍の飛行場を叩いて、空襲だけでも抑え、

日本人居留民の生命を永らえさせなければならないのです。



尚、大村から飛び立った、木更津航空隊は

南京攻撃の後、そのまま済州島に移動しました。

元々、済州島に移動する予定だったのですが、

基地が出来ていなくて待機していたのです。

今回、渡洋爆撃で発進したついでに移動したわけです。

以後、済州島から敵飛行場への攻撃に行く事になります。



しかし、渡洋爆撃の標的は、あくまで遠方の敵飛行場であって、

上海の市街ではありません。


つづく

3月28日 またまた猫の目指令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/08 15:12 投稿番号: [1570 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
314〜316p


《 郭里集では、支隊長瀬谷少将の激励をうけた赤柴大佐が、

左から右に、第六十三連隊第二大隊、第十連隊第二大隊、

同第一大隊を配置して、攻撃をすすめていた。

砲撃と突撃をおこなうたびに、中国軍部隊は潰乱状態になって退却し、

瀬谷支隊は、中国軍が逃げこむ部落をひとつずつ掃蕩しながら急進し、

第十連隊第一大隊の退路遮断によって、典型的な殲滅戦にうつった。



支隊長瀬谷少将は、 「ほぼ敵一個師を潰滅」   して背後の安全が確保できたと判定し、

午後六時すぎ、第六十三連隊長福栄大佐に電報した。

支隊主力は明二十九日、台児荘にむかって前進する、主力の攻撃開始は

「三十日の正午以後」   になる予定だ   ―   との趣意である。

瀬谷少将は、その一時間後、転進準備のために、とりあえず第六十三連隊

第一大隊は棗荘、第十連隊は郭里集、砲兵隊はエキ県に集合するよう、命令した

・・・


台児荘の攻防は、いまや日中両軍の不安の対象になってきた。

蒋介石は、その失陥を懸念し、全軍に通電した。

「……即有一兵一卒、亦須本犠牲精神、努力死ベン、如果失守、

不特全体官兵応加重懲、即李長官、白副参謀総長亦有処分」

この場合の   「処分」   は、銃殺刑をいう。

・・・



第十師団長磯谷中将が、再び瀬谷少将にたいして、支隊主力による攻撃を命令すれば、

第二軍司令官西尾寿造中将も、第五師団長板垣征四郎中将に瀬谷支隊救援を命じ、

板垣中将は、坂本支隊長に沂州攻撃の一時中止と瀬谷支隊支援を下令した。

午前十時、坂本少将は支隊主力を転進させる意図を第十一、第二十一連隊に連絡した。



また   「猫眼作戦」   か   ―   と、激怒したのは、第二十一連隊長片野定見大佐である。

第二十一連隊と第十一連隊は、途中の部落の掃蕩に手間どったが、

沂州城の間近までせまっていた。

「一つの任務を完成しない間に、また次の作戦に移る。

こんなことで実効ある作戦ができるとでも思っているのか」・・・

沂州攻略は、坂本支隊の本来の任務であるし、瀬谷支隊への支援としてなら、

沂州の占領とそれにともなう中国軍兵力の撃破のほうが、

台児荘の側面攻撃よりははるかに有効のはずである。



片野大佐は、坂本少将あてに意見を具申した。

「沂州城眼前ニ在リ。 敵ノ戦意モ大ナルモノ無シ。 一挙之ヲ奪取シタル後、

向城ニ転進スルハ、 将来ノ作戦上有利ニシテ   兵及ビ敵ノ士気ニ   及ボス影響

大ナルモノアリ……」

だが、坂本少将は、正午、瀬谷支隊の戦況が急進していることを指摘して、

正式に転進命令を示達した。



意図の内報にたいしては、意見具申もこころみたが、

命令とあっては、異議は無用である。

第二十一連隊長片野大佐は、ただちに攻撃を中止して反転準備をいそいだ。



つづく

中国は 「日本が爆撃」 と嘘報道

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/07 16:20 投稿番号: [1569 / 2250]
中国は8月14日に上海市街を爆撃しましたが、

なんと、これを日本機がやったと報じたのです。



K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相』


255p

《 8月15   (?14の間違いでは)   日   に中国軍の飛行機が国際租界のキャセイホテルと

パレスホテルを爆撃した時、中国政府の宣伝広報局は、

この爆撃機は日本軍のものである、というニュースを流した。


ワシントンポストの上海特派員であるマーク・J・ジンスボーグ氏は、

「二四時間以内にこの宣伝広報局は重大な訂正を発表し、

我々特派員スタッフの完璧なる調査によって問題爆撃機は日本軍のものではなく

中国軍ののものであることが判明した、ということを内外に通報した」   と書いている。》



256p

《 ニューヨークタイムス上海特派員は中国側の検閲を避けて真実を伝えるため、

この爆撃   (23日)   に関する特電を上海ではなく香港から発信した。

・・・

「上海の国際租界及びフランス特権区域に居住する無力な一般市民を、

中国軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、

武力手段または他の抑止策をとることについて何らかの国際的な合意が

必要であるということは、上海在住の外国の領事館員や陸海軍スタッフたちの

一致した見解となっている」



この特電は中国の検閲に不満を漏らして次のように述べている。

「中国の検閲官は発信された外電やラジオ通信から前述の事実や意見を削除した。

そして場合によっては外電のニュースそのものを変えてしまいさえもした。

その目的は、現地の外国人たちが、あたかも心の中で、

この爆弾はおそらく日本の飛行機から投下されたかも知れないと、

疑っているかのように見せかけるためだったのである。

だがしかしこれは明らかに真実ではない」》



松本重治著   『上海時代・下』   中公新書197p


《 十二日夜から   「同盟」   無線室の電源が切れた。   各社のものもそうであった。

幸い、 「同盟」   だけは、バンドの正金銀行ビルの一室に五百キロの送信機を

隠しておいたので、そのいちばん小さいもの一つだけが動いた。

青田君が、さっそく東京と連絡をとるのに成功、刻々のニューズを東京に送った。

十三日と十四日は   「同盟」   の独壇場であり、各紙は本紙も号外も、

上海発同盟電を多量に掲載した。》



*   「無線室の電源が切れた。   各社のものもそうであった。」

   これは、今だったら、不都合なインターネットやTVを遮断する

   ようなものでしょう。

   当時の中国は、通信社の無線電源を別電源で管理していたようですね。


*   中国は日本機がやったと言いましたが、常識で考えてみましょう。

   上海は日本人がいる所です。何で味方を攻撃しなければならないのでしょう?

   尤も、中国は、故意に同胞を殺して、日本がやったと平然と宣伝しますけど。

   昭和13年6月にも   黄河の堤防を切って90万人を殺し、

   日本がやったと宣伝しましたし。

ティンパーレーは国民党の宣伝工作員

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/07 16:11 投稿番号: [1568 / 2250]
実はティンパーレーは、国民党の宣伝工作員だったのです。


鈴木明著   『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』   291〜292p


《 何回目の中国旅行のときであったか、A君はある日、七百頁ぐらいの

『近代来華外国人名辞典』 (中国社会科学出版社、一九八一年十二月出版)

の奥付がある本を持って来て、 「多分、これじゃないか」   と、

なにげなくこの、やや手あかによごれた一冊の本を渡してくれた。



彼の友人が以前買って、結構便利に使っている、という人名辞典であった。

そして、そこに遂に   「田伯烈(ティンパーレー)」   の名前が出ていたのである。

たまたまコピーもなかったので、これはそっくり手書きで書き写した。

念のため、はじめに原文通りを、中国文のままご紹介する。



「田伯烈   (一八九八〜   )   廷珀利・哈羅徳・約翰

澳大利亜人、第一次世界大戦後来華、任路透社駐北京記者、後又任

《 曼徹斯特、衛報 》   (Manchester Guardian)   及美国聯合報   (即美聯社)

駐北京記者、一九三七年盧溝橋事変後、国民党政府派他前往英美做宣伝工作、

嗣任国民党中央宣伝部顧問、編有   《日人在華的恐怖》

(The Japanese Terror in China   一九三八)   一書」 (原文は簡略字体である)。



「(訳文)   ティエンパレー、   ハロルド・ジョン・ティエンパレー、

一八九八年生れ。オーストラリア人、第一次大戦後中国に来る。

ロイター通信の北京記者となる。

その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者を兼ねる。

一九三七年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向けて派遣し、

宣伝工作に当らせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。

編著に   『中国に於ける日本人の恐怖』 (一九三八年)一書がある」》



北村稔著   『「南京事件」   の探求』   文春新書   43p


《 曽虚白は、ティンパーリーとの接近について次のように言う。

「ティンパーリーは都合のよいことに、

我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の   『抗戦委員会』   に

参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。

・・・

漢口   〔南京陥落直後の国民政府所在地〕   に来てもらい、直接に会って全てを相談した。

我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。

我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、

我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して

我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。



ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使って

ティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、

日本軍の南京人虐殺の目撃記録として二冊の本書いてもらい、

印刷して発行することを決定した。

〔中略〕このあとティンパーリーはそのとおりにやり、〔中略〕

一つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した」。(曽虚白『自伝』より)》



*   というわけで彼は国民党の宣伝工作員だったわけです。

   前回出の   『「南京虐殺」   への大疑問』   205pの中で、松村俊夫氏が、

  「ティンパレーは、ここでおかしいと考えつかねばならなかった。」   と

   書いていましたが、工作員だから、気にする必要もなかったわけでしょう。

中国軍の上海爆撃3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/06 18:47 投稿番号: [1567 / 2250]
松本重治氏著   『上海時代(下)』   中公新書   195〜196p


《 十四日午後四時少し過ぎ、私が   「同盟」   支社にいると、

中国空軍の編隊が上手から黄浦江上空に進んで来て、

旗艦   「出雲」   の高射砲や機関銃が反撃しているようだと、

記者の一人が急いで駈けよって、知らせてくれた。



すぐ窓側に行き、黄浦江の上空を眺めると、マルチン爆撃機の五機編隊で、

「出雲」   めがけて進んでいるではないか。

私の肉眼では、編隊の高度はだいたい七、八百メートルとみた。

「出雲」   その他の高射砲がパーン、パパーンと鳴り響いている。

ふと見ると、五機のうち一機の急所に高射砲の弾が命中したらしい。

その一機が隊伍を乱すかと見ると、中国空軍の射手らしいものが、

其っ逆さまに降ってきて黄浦江にじゃぶん。



すると、編隊は   「出雲」   の方向からやや左旋回し始めたと思うと、

一つ、二つ、三つと大型の爆弾を落しつつ、租界上空を通って飛び去った。

一つは愛多亜路の十字街の舗装道路上で炸裂した。

その十字街の一角には大衆歓楽センターである   「大世界」   と言う

四・五階のビルが有り、十字街上と   「大世界」   内にいた千人余りが、

爆風と破片とで死亡した。



第二弾は南京路カセイホテルの玄関先で炸裂し数百枚の窓ガラスが破壊された。

その為、通行中の中国人約二百名、外人八名が死んだ。

その外人のうちには、ライシャワー元大使の兄に当るロバート・ライシャワー

(有名な日本古代史の学者)   も含まれていた。



第三弾は、南京路を隔ててカセイホテルの向かい側のパレスホテルの屋根を

貫いて地階に達し、数十人の死傷者を出した。・・・



「同盟」   支社の中国人使傭人は、急に動揺の色を見せ、同僚記者たちも、

期せずして私の顔を見た。

私は、窓口から編集デスクに戻って、大声でみんなに

「僕たちは新聞記者だ。死場所はこのデスクだよ。冷静に落ちついて、ジタバタするな」

と命令した。



すると、みんな、 「そうだ、そうだ」   といって、各自デスクに戻り、

仕事を続けてくれた 》



*   この爆撃による死傷者は

   キャセイホテルとパレスホテルの間で死者729名、負傷者861名、

   エドワード七世通りとドモンティグニイ通りの交差点にて

   死者1012名、負傷者1007名

   この時の死傷者の大半は中国人でした。

3月28日 原稿を書くティンパレー2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/06 18:39 投稿番号: [1566 / 2250]
原稿をベイツらにチェックしてもらうティンパレー


松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』
204〜205p


《 三月二十八日、ティンパレーからベイツへの最後の手紙に、次のような一節がある。


   〈なぜ私が上海、松江、嘉興を放っておくのかとのお尋ねですが、

   七章を読んでいただければ分かるかと思います。

   この点を調べていくと、上海付近の民衆に対する日本軍の暴行については、

   確実な証拠がほとんど見つかりません。〉(①374頁)



北支から中支、杭州から南京に至るあらゆるところでの日本軍暴行の証言を

集めたにもかかわらず、自分がいる上海、しかも難民区第一号が設定された

上海地区では、日本軍暴行の証拠をまったく見つけ出せなかったのである。

結局、ティンパレーは、上海については暴行の代わりに空爆の記事をもって

埋めたのだった。しかし、その空爆に比すべくもない規模の日本に対する

無差別爆撃があったのは、それからわずか七年後のことである。



本当ならばティンパレーは、ここでおかしいと考えつかねばならなかった。

なぜ自分のいる上海には見出せず、自分が見ていない他のすべての地区で

日本軍の暴行が起きているのか、そのカラクリに気づくべきだったのである。



華北その他について、アメリカ人の牧師や神父に話を伝えたのは支那側の

人物だったと思うが、彼らはその話をストレートに信じてティンパレーに伝え、

ティンパレーもそれをそのまま検証もせず本にしたことがよくわかる。

上海地区だけに特別な日本軍がいた訳ではない。南京に特別な西洋人がいたのである。》



*   というわけで、ティンパレーは、南京のベイツ・スマイス・ミルズや

   華北の神父たちから情報を得、また書きかけの原稿を送って

   チェックしてもらっていたわけです。

   上海に来たフィッチもまた、原稿の材料を与えた事でしょう。

中国軍の上海爆撃2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/05 18:51 投稿番号: [1565 / 2250]
新聞のつづき

〔昭和12年8月15日   中外商業〕


《〔上海十四日発同盟至急報〕   午後四時四十二分、我が方の高射砲弾を浴び

西南方に退却中のマーチン重爆撃機は、爆弾二個を避難民二千余の密集する

新世界附近に投下せるため、支那民衆に多数の死傷者を出し、安全地帯と

絶対に信ぜられていたフランス租界、共同租界など所嫌わず爆撃を加えている。



その爆弾投下振りは全く狂気沙汰で、フランス租界、共同租界の随所に

投弾、無辜   (むこ)   の外人を多数死傷せしめつつある。

浦東のスタンダード・オイルの貯油タンクも爆弾命中せるもののごとく、

同附近は黒煙に包まれている。



なお呉淞においてはアメリカ東洋艦隊旗艦オーグスタス号の傍らにも落下し、

果たして照準を定めて爆撃しつつありや否やすこぶる疑問で、

上海在留外人は支那軍の無軌道振りに今更のごとく驚き、非常な憤激に燃えている。



かくて敵飛行機の虹口上空爆撃はますます猛烈を極め、

陸戦隊の周囲は目下盛んに火焔が揚がっている。

東部においては上海紡績、公大紡績などが敵機の目標となり、

市内は盛んに火災を起こし、また西部東洋紡、内外綿などの邦人工場に

於いても敵の空爆のため火災が起こっている。



時に午後五時。それより敵は空爆と呼応して虹口目がけて野砲を打ち込み、

ダラッチ路の我が海軍武官室、狄思威路、有恒路などの工部局警察署附近に落下、

敵軍の虹口総攻撃はいよいよ確実となり、共同租界は今や収拾すべからざる混乱に陥った。



屍の山、鮮血の海   〔上海十四日発同盟至急報〕

午後四時半、支那側の連続的空爆でほとんどバンド北京路先の碼頭に落下した爆弾は、

折柄午前中の空爆で虹口楊樹浦方面から殺到した数万の避難民の真中に落下し、

死傷者無数、上海随一の華麗街、南京路上は死傷者の鮮血で真赤になり、

或いは片手を奪われ、或いは頭をやられた瀕死の重傷者が血の雨の中を這い廻り、


上海一の国際社交場カセー、パレス両ホテルに宿泊中の外国婦人等が、

滅茶滅茶に粉砕された窓硝子に傷ついて狂気のように泣きわめいて、

道路いっぱい身動きのならぬような混乱の中から逃れようとして

踏み殺された小児等、思わず眼を蔽わす惨状で、その悲惨語るに絶するものあり。

目下各国の救護班出動、死傷者を収容中である。



〔上海十四日発同盟至急報〕   支那軍の飛行機は西蔵路、大世界直前にも

爆弾を投下し、付近に避難していた支那人二百余が惨死した。

アメリカ人宣教師フランク・ディ・ローリンソン氏も爆死したといわれる。



北四川路一帯、大火災〔上海十四日発同盟至急報〕

敵の爆弾で北四川路一帯は火災を起こし、日本人経営百貨店、購買組合、

内山書店附近は目下延焼中である。

敵弾は更に我が西部小学校の東南部百米のところに落下、同小学校に避難、

集結している我が居留民は今や恐怖のどん底に怯えている。》



* なお、キャセイホテルには、セオドア・ルーズベト ( 元大統領 ) 夫人も

   逗留していた。


つづく

リパルスベイ・ホテルの会合3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/05 18:43 投稿番号: [1564 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
281〜283p


《 ディルクセン、トラウトマンという二人の大使や、ドイツ政府が、

日中両国の間に立って、日本側からの新条件をそのまま中国側に伝えたのか、

または別にどういう手を打ったかは、いまだに判らない。

とにかく、東京の情勢は、中国側の回答を誠意なき遷延策とのみ解釈し、

「爾後国民政府を対手にせず」   との日本政府声明となってしまった。



その声明に対しては、陸軍の不拡大派すなわち和平派ともいうべき多田参謀次長、

影佐大佐、今井中佐、堀場   (一雄)   少佐が、この声明発出に最後まで猛反対をやり、

ついには帷幄上奏権までを行使したが、結局、拡大派によって押し切られてしまったのだ。


われわれは遺憾だと思っているが、董君が東京で、中国側には条件如何によって

まだ和平の意思があることを伝えたので、それを知った多田、影佐らは、

ますます和平の意思を固めているということは、絶対に明らかである。

影佐の   「敵将」   に対する二通の書簡は、統帥部の現役の影佐としては、

いわば背水の陣を布いたような決意の証拠だと、真剣に考えてもらいたい、と語った。



そこで、日中両国の和平意思が相互に通ずれば、両国における和平派が、

交互作用によってますます強化される可能性は充分にある

ということには、みんなが同じ見解をもった。


高君は、南京から漢口への船中で、

周仏海   (蒋介石の第二侍従室長兼国民党宣伝部長)   と和平のことを談じ合って、

意気投合したこと、汪兆銘が南京陥落以前から、蒋介石に対し、

早期の和平がほんとうは中国の国益に合するという意見を、

独自に、あるいは直接開陳したり、あるいは書簡をもって蒋に書き送ったり

していること、


周仏海は、胡適や、汪派の陶季聖や、梅思平らとグループ

(後日、周がこのグループを   「低調クラブ」   と名づけていたことが私らにも判った)

を作り、和平を論議し合っていたことなどを、私たちに話し、

漢口の国民政府内部にも和平派が漸次有力化しつつある可能性を示唆した。



私ら三人は、高君の話に少なからざる興味をもち、和平運動の前途に曙光を認めて、

大いに喜んだが、董君は、終始ことば少なく、うなずいていただけであった。

伊藤君が   「総論は解ったが、各論の具体化には、まず影佐書簡を漢口の何応欽と

張群とに届けることが、さしづめの懸案を断行することになるのではないか」  

と叫んだので、その実現方法をいろいろ論議することになった。



董君は単刀直入型であるから、書簡を何応鉄と張群とに手渡ししたら、

自分の責任を果したことになると主張したが、

深謀遠慮の高君は、この書簡を和平運動のために如何に有効的に使用するかのほうが

より大切だといって、譲らない。

董君は、何応鉄や張群は必ず蒋介石に見せるだろうといったが、



高君は、それでは、蒋介石にまでは届かない危険がある。

むしろ周仏海と相談して最善のアプローチを考えるべきだといって、董君に反対した。

二人の間が、いささか険悪になったので、西君は私の発言を促した。私は、

「高君は、蒋介石ら首脳に直言できるのだから、影佐書簡を活用して、

蒋介石を直接に口説くのが上策だと思う。董君も高君も、よく相談して欲しい」

というと、董も、しぶしぶ諒承した。



それで、だいたい会議の結論は出たことになった。

ホテルを出たのは、高君と私との二人であったので、タクシーに相乗りしながら、

「この次は、君が東京に行く番だよ」といって、別れた。》

中国軍の上海爆撃1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/04 18:45 投稿番号: [1563 / 2250]
中国は、昭和12年8月13日、上海攻撃を開始すると、

翌14日には、上海爆撃を行いました。

午前中は日本人居留区への爆撃が主ですから、基本的に蘇州河の北側です。

新聞によると



昭和12年8月15日   東京朝日(夕刊)


《〔上海特電十四日発〕   敵飛行機一機は十四日朝九時五十分頃、

陸戦隊の上空に現れたので、我が方の高射砲は一斉に砲撃を開始し、

敵機はいったん北方に逃げ去ったが、更に午前十時二十分、

敵機三機は新公園方面より現れて、陸戦隊本部目がけ盛んに爆弾を投下中、

これに対し我が黄浦江上の艦船は高射砲を以って応戦しつつあり。



英汽船会社碼頭   (マトウ)   に命中   〔上海十四日発同盟〕

支那爆撃機の投下した爆弾二個は英国人経営ジャーデン・マゼソン会社の

上海碼頭に命中、同会社の倉庫を粉砕し、同社勤務英人シー・ゼー・ヘッド氏は

負傷、支那人二名死亡、その他支那人の重軽傷者多数に上った。



邦人紡績工場も爆撃さる   〔上海十四日発同盟〕

敵機四台は十四日午前十時過ぎ、更に楊樹浦   (ヤンジッポ)   紡績工場地帯上空に現れ、

河岸にある日清汽船繋留船三隻の附近に爆弾を投下し、黄浦江上に盛んに水煙を立てている。



〔上海十四日発同盟〕   十時頃の支那爆撃機襲来により、楊樹浦にある公大紡   (鐘紡)、

裕豊紡   (東洋紡)   は数弾の爆弾を見舞われ、相当損害を受けた模様。



邦船の乗組員四名死傷す   〔上海十四日発同盟〕

呉淞   (ウースン)   河岸碇泊中の逓信   (ていしん)   省海底電線修理船

沖縄丸   (船員全部邦人)   よりの無電によれば、

午前十一時過ぎ、敵機四機襲来し、内一機は同船に向かって爆弾を投下し、

左舷の河岸で炸裂し、破片のため同船の水夫一名即死、

水夫一名、火夫一名、油差し一名、計三名負傷した。

同船は午前十一時抜錨、呉淞沖合に仮泊することとなった。》



とあります、しかし午後には、蘇州河南の白人が多い市街地も爆撃しました。

と言っても、北側の日本人地区への攻撃も続いていますけど。



注   碼頭   マトウ    埠頭に同じ


つづく

リパルスベイ・ホテルの会合2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/04 18:38 投稿番号: [1562 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
279〜281p


《 西君と私とは、こもごも   「それからの日本側の失敗は、僕らが話そう」   と

語り始めた。 その要点は次のとおりであった。


トラウトマンからの電報でディルクセンは、

十二月七日、広田外相の往訪を受け、外相に対し、

中国側は日本の条件を基礎として交渉に応ずる用意があるとのことを告げるとともに、

大使は錬達の外交官として、大事をとって、外相に対し、

「さきにお示しになった条件のままで話を進めてよいかどうかを、

いま一度はっきりうかがいたい」   といった。


蒋介石が交渉の前提条件としての停戦というものについてのヒットラーの介入を

希望した点については、大使は外相に対しとくに言及しなかったようであった。



広田外相はすぐ、四相会議において、首相、陸相、海相に、その話を伝えたところ、

いずれも異議なしということだった。   しかし、翌日、陸相は、外相を訪問して、

「ドイツの仲介を断りたい」   と、前言を翻して申し入れた。

これには外相も唖然としたが、反対もできなかった。

そのころから、南京の総攻撃が始まり、蒋介石もその直前八日に南京を飛行機で脱出して

漢口に逃げた、というニューズが入り、南京占領も数日中という時間の問題となり、

陸軍内部では和平反対の声が猛然として起ったためであった

(上村伸一著 『日本外交史』 第二十巻、一七九−一八七ページ参照)。



しかし、まだ和平交渉には脈があるとの見通しから、

十二月十四日の大本営・政府連絡会議では、

十一月二日に外相がディルクセンに提示したものにきわめて些細な

(青島紡績工場焼払いの損害を賠償せしめんとする) 損害賠償のみを附加した

大乗的な原案が提出され、石射東亜局長がその説明に当った。



ところが、末次・杉山・賀屋三大臣からは異論が続出し、

しかも、 「世を挙げて支那撃つべしの声」   に押されたのか、

近衛首相は、終始沈黙を続けた。


そのため、会議の結論としては、非常に苛重な条件となり、

中国側が容認できないものとなってしまった

(改悪された条件の詳細は、石射猪太郎著   『外交官の一生』

二六二−二六三ページおよび上村氏同上、一八七−一八九ページ参照)。



二十二日、ディルクセン大使は、外相からこの新条件を提示されて、

「これでは、まとまる見込みはない」   と嘆息したが、 「乗りかかった舟だから、

中国側に伝えよう。年内に回答を要求することは無理だから、

一月五、六日までに延してはどうか」   といったので、

外相はこれに応じたという話である。



つまり、日本政府や陸軍は、国民一般とともに、見栄ばかりの戦勝に酔って、

ドイツの日中調停を事実上蹴り、

あれだけ苛重な条件を中国側が受諾するものと誤って期待した。

また、すぐ受諾がないとしても、この戦争を押し切れば、また機会がある、

との期待があったようだ。

しかし、これは、あまりに中国のナショナリズムを無視したものであった。



*   ここでも悪いのは日本という前提で話が進められている。

   中国側の態度は不問にふされている。

   「否認将派代表赴南京與日方講和」

   (日本側との和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)

   という、中国側の和平拒否は、無視されている。



   条件の原文を見る限り、荷重でもなんでもない。

   中国側の意見は日本の条件が漠然として判らないというものだった。

   それは、詳細が明示されていなかったからだが。



つづく

シェノールト上海爆撃をさせる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/03 18:50 投稿番号: [1561 / 2250]
アラン・アームストロング著   『幻の日本爆撃計画』   日本経済新聞出版社
33〜34p


《 盧溝橋で日中両軍が戦闘を開始したことを知ると、シェノールトは直ちに

中国航空問題委員会に電報を送って軍務に就くことを申し出たが、

もはや中国空軍を視察する軍事顧問に留まるつもりはなかった。

もし許されるなら、日中間に正式な宣戦布告がないために〝満州事変〟 と呼ばれる

状況発生の後、日本に対する航空作戦の指揮を執りたいと伝えたのだった。



そこで新しい役割が与えられ、シェノールトは江西省の省都、

南昌にある高等飛行訓練学校で戦闘訓練を担当するよう命じられた。

当時この訓練学校を指揮していた毛邦初は、その二年前に、シェノールトに

中国空軍の飛行教官として支援してほしいと要請した人物だった。

しかし、その時点では大佐にすぎなかった毛は、いまでは将軍に昇進しており、

中国空軍に対する彼の権力と影響力は、責任と共に増しつつあった。



一九三七年七月二三日、シェノールトと毛は中国空軍の臨戦態勢の現状について、

蒋介石総統に対して報告を行なった。内容は、日本の攻撃に抵抗するために

戦闘可能な航空機は二〇〇機足らずしかない、というものだった。

それを聞いた総統は激怒し、毛を銃殺刑にすると語気を荒らげた。

それらの航空機は、アメリカ、ドイツ、イタリアから調達したものの寄せ集めだったが、

ボーイングP−26戦闘機一〇機、ドイツ製ハインケル機六機、マーチンB−10爆撃機九機、

さらにサボイアーマルケッティ三発爆撃機六機などが含まれていた。



幸い、中国はウィリアム・ポーリーのCAMCO社から、カーティスP−36ホーク

戦闘機を多数購入していた。これらホーク2型機と3型機は、戦闘機としても

爆撃機としても使える頑丈な航空機だった。

そしてこれらの機が、中国東部上空で日本機を相手に展開される空中戦で

中国側が使用する、主たる兵器となるはずだった。



日本の攻撃が上海に及ぶと、シェノールトとビリー・マクドナルドは

八月一三日金曜日に、日本軍旗艦出雲に対する攻撃計画の立案を開始した。

中国空軍による空襲は、翌日敢行された。

だが、結果は惨憺たるものだった。

中国人パイロットは、自国の市民たちを爆撃する結果になってしまったが、

これは重く垂れ込めた雲の下まで降下することを余儀なくされ、

その事態が爆弾の軌跡に及ぼす影響を読めなかったために起こった惨事だった。



シェノールトはと言えば、爆撃現場の上空を飛んでいたが、

ユニオン・ジャックを掲げたイギリスの軍艦の砲撃を受ける始末だった。

だが、状況はほどなく改善した。

一二機の日本軍爆撃機が空母加賀から発進したときには、

編隊は、シェノールトが選んだ最も腕利きの中国人パイロットの集団によって

甚大な損害を蒙り、一二機中一一機が大破した。》



*   この本では、 「日本の攻撃が上海に及ぶと」   と書いてあるが、

   これは、著者が事実を知らず、日本が侵略したという、嘘に騙されている。

   実際は、中国軍が13日に、上海を攻撃し、租界警備の為に常駐していた、

   日本海軍陸戦隊が防戦しているにすぎない。

   日本陸軍の上陸はまだ先の事。


*   なお、この日は台風が来ていて、空母から艦載機の発・着艦はできなかった。

リパルスベイ・ホテルの会合1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/03 18:40 投稿番号: [1560 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
277〜279p


《 翌朝   (27日)、・・・お互いのひと通りの挨拶が済むと、すぐ本論に入り、

まず高君が漢口での中枢の考え方を、左のとおり説明した。


「十一月上旬、広田外相から日本の和平条件七項目をディルクセン

駐日ドイツ大使が接受し、ベルリンのヒットラーの諒承を得て、

トラウトマン駐華ドイツ大使が、王   (寵恵)   外交部長に日本の意向を伝えたが、

王部長は、蒋介石の意見として、


『中国は国際連盟に提訴してあり、九カ国条約の関係国がブリュッセルで会議中なので、

その結果を見るまでは、日本の条件を考出すべきではない』   との返事をした。

ところがブリュッセル会議の結果は、蒋介石にとっては少なからざる失望となった。



一カ月の時間を空費したことによって、

中国側は、戦況が交渉のためますます不利になったことに気づいた。

トラウトマンは、漢口にて、十一月二十八日孔   (祥煕)   行政院長を、

翌二十九日には王外交部長を訪問し、日本の和平条件を中心に、会談を遂げた。

しかし、蒋介石は当時なお南京に防戦の指揮をとっていたので、トラウトマンは

徐   (謨)   外交部次長を伴って南京に行き、十二月二日に蒋介石と会見した。



それに先だち、徐外交部次長は、ドイツ大使の話を蒋介石に説明したところ、

蒋介石は、すぐ在京の将領たち、顧祝同、白崇禧、唐生智、徐永昌を召集し、

徐次長からドイツを仲介とする日本の和平提案を説明させたが、

白は、 『これだけの条件だとすれば、何のため戦争をしているのか』   とさえいった。

顧は、受諾すべしと述べ、唐も、各人が賛成ならば、異議なしと答えた。



その将領会議が済むと、すぐ午後五時、蒋介石・トラウトマンの会談になった。

蒋は、 『日本は信用できない。しかし、ドイツが終始調停者であるとの条件ならば、

日本の七条件を談判の基礎とすることはよい。

だが、華北の行政主権はどこまでも維持されねばならない。

それで、戦争がこのように激しく行われている最中に、

調停などは成功するはずがないから、ドイツが日本に向って、

まず停戦を行うよう慫慂   (しょうよう)   することを希望する』   と述べた。



ト大使は、 『蒋委員長の意向はドイツ政府に伝達することをお約束するが、

もしドイツが日中調停を諒承し、かつ日本も欲するならば、ヒットラー総統から、

中日双方に対しまず停戦すべきことを提唱することもできる』   と答えた。

なお将委員長は、 『もしも日本が日本を戦勝国と考えたり、

日本の条件を中国側がすでに承認したなどと宣伝したりすれば、

談判はできなくなりますよ』   と釘を刺した。

しかしト大使は徐次長に対し、

『今日の会見には希望がもてる』   ともらしたとのことであった。



ついで、汪兆銘は蒋の指示に基き、十二月六日、漢口の中央銀行において、

国防最高会議第五十四次常務委員会を開いた。

会議は徐次長の詳細な報告を聞いたのち、いろいろ意見は出たが、

蒋委員長が提出した条件を附けたうえ、徐次長の報告を承認、議決した。

この会議を主宰したのは、

汪最高国防委員会副主席が蒋主席に代ってやったものであった。



このように諸君に報告するのは、中国側では、トラウトマン大使が取り次いだ

広田外相の和平条件を、だいたいにおいて、受諾するという

和平的方向にあったことを同志諸君に解ってもらいたいためであった。

もう少し日本が忍耐してくれれば、両国は、和平の門口にまで行ったのであった。》



*   『これだけの条件だとすれば、何のため戦争か』   と言うほどの好条件を蹴って

   戦争を続けていながら、 「もう少し日本が忍耐してくれれば」   とは

   何たる言いぐさだろうか。

   中国は何しても許されるのか?

   日本は、何しても悪く言われるのか?


つづく

シェノールト中国に雇われる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/02 18:54 投稿番号: [1559 / 2250]
アラン・アームストロング著   『幻の日本爆撃計画』   日本経済新聞出版社


25p

《 一九三六年七月二〇日、中国航空問題委員会はシェノールトに、

さらに興味をそそる機会を提供した。

中国空軍の高度追撃訓練を完全に取り仕切る権限を与えたい、と申し出たのだ。

中国空軍がどのような機種の戦闘機を購入すべきかを、

シェノールトの意思で決定できるというのだ。



また、中国空軍の運営に関して、訓練マニュアルや戦術面での指令も

起草することになるという話だった。

さらに、航空機警報システムを開発するに当たっては、中国政府の協力が約束される。

米中間を旅する際の旅費は支払われ、中国航空問題委員会の防空顧問として

年額一万二〇〇〇ドルの報酬が支給される。

要するに中国は、シェノールトに対して新しい申し出を行なうことによって

〝掛け金〟 を増やしたわけである。



中国に仕えれば、陸軍航空隊がシェノールトに対して拒んできたまさにそのもの、

つまり空中戦に関する彼の理論の正当性を立証する環境が拓かれる可能性は十分にあった。

アメリカの中立法に抵触するあらゆる可能性を排除するため、

シェノールトの雇用主は、名目上、バンク・オブ・チャイナ   (中国銀行)   に

なる手はずだった。》


27p

《 一九三六年から三七年にかけての冬に、彼は、過労と、

今日ならたぶんノイローゼと称される症状で、数回の入退院を繰り返すことになる。

ついに、陸軍航空隊退職勧告委員会は一九三七年二月二五日に会合を開き、

シェノールトに航空隊から身を引くよう勧告した。》


28 p

《 一九三七年四月三〇日、シェノールトはアメリカ陸軍航空隊から退役した。》



*   彼は中国へ旅立ち、途中日本でスパイ活動をしました。


29 p

《 シェノールトの日記の一九三七年五月八日付の記載には、こうある。

「プレジデント・ガーフィールド号に乗船、午後二時、大いなる冒険への航海が始まる」。

サンフランシスコを出港すると、シェノールトは日本の神戸に向かった。

そこで彼を待っていたのは、以前、陸軍航空隊のアクロバット・チームで

彼のウィングマンを務めたビリー・マクドナルドだった。

もう一人の元ウィングマンのウィリアムソンは、そのころ中国本土にいて、

中国人のパイロットに操縦術を教えていた。



神戸で下船したシェノールトはマクドナルドと共に、アマチュア・スパイさながらに

関西の主要都市周辺を旅し、各地の産業・軍需施設を密かにカメラに収めた。

今日われわれに言えるのは、これら二人のパイロットによるこの行為は

中国人上官から命じられたものではなく、

どうやらあくまでも自然発生的なものだったようだということだ。

シェノールトは直ちに日本の家屋や工場の脆弱な構造に注目し、

焼夷爆弾を上空から投下すれば日本国内の建物に壊滅的な打撃を

与えることができると確信した。》



*   このシェノールトという男、盧溝橋事件も始まっていない時から、

   日本の民家を焼夷弾で焼き払う事を考えていた、とんでもない奴です。

   日本の軍人で、戦争も始まってない内から、中国の民家を焼き払う事を

   考えてたりしたら、戦後どんな悪人にされたか。

3月27日 またもや猫の目命令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/02 18:43 投稿番号: [1558 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
310〜312p


《 郭里集では、第十連隊長赤柴大佐が、

北方高地の中国軍部隊にたいする攻撃を開始しようとしている。

前夜、午後十一時五十分、所要の支隊命令を受理したからである。

大佐は、第二大隊長加付少佐に直接指示をあたえ、自身も望楼にのぼって敵情を観察した。

  すると、午前九時   −

突然、旅団書記が支隊命令を持参した。



「支隊ハ、一部ヲ以テ ○ (エキ)   県及ビ棗荘ヲ確保シ、

主力ヲ以テ台児荘ヲ攻略セントス」

第十連隊主力は、ただちに台児荘西北約十キロの南田営と泥溝の間に進出する準備をせよ、

という。

連隊長赤柴大佐は、すかさず指示を発出し、午前十時三十分、南進命令を下令した。



ところが、出発直前の午前十一時四十五分、また支隊命令がとどいた。

「目下ノ態勢ニテ後命ヲ待ツベシ」

「なんだ、これは……」

「まさに   〝猫眼命令〟 だ」

・・・・・



連隊長赤柴大佐は、 「後命」   を待つ間にこの敵を一撃すべきだ、

それは士気の振作にも役立つし、台児荘に転進するさいの背後の安全を

確保するためにも有効だ、と考えた。

「北方山地ノ敵ヲ   連隊独力ニテ撃滅シタシ」

大佐が意見具申をすると、午後六時、支隊長瀬谷少将の返電が来着した。



「独力攻撃全然同意、成功ヲ祈ル」

しかし、少将は、棗荘北方八キロの梁荘付近にも   「約一個師」   の中国軍が

「充満」   しているので、第六十三連隊第一大隊にも参加させる、といい、

その旨の命令を下達した。



次いで、少将は、台児荘に進出した第六十三連隊長福栄大佐に電報し、

前出の支隊主力による台児荘攻略計画は中止する、

支隊主力は郭里集北方の敵を攻撃する、と通報した。



独力攻撃を主唱した第十連隊が、支隊主力攻撃にくみこまれ、

主力の協力が予定された第六十三連隊が、逆に   「独力攻撃」   になった形である。

第六十三連隊長福栄大佐は、しかし、決意をこめて言明した。

「台児荘の攻略は、わが連隊の宿命的な使命である」

独力で攻略してこそ、その使命達成の意義もある、と強調した大佐は、

翌朝の総攻撃を下令した。》



つづく

8月14日 岳陽丸追い返しの理由判明

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/01 15:12 投稿番号: [1557 / 2250]
引揚げ領事館員たちを乗せた岳陽丸は13日、

江陰という所で中国海軍に停められ、南京に戻るよう指示されました。

その時は、理由は判りませんでしたが、14日になってハッキリしました。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』
303p


《 一四日得た情報では、江陰水路は軍艦五隻   (通済、大同、自強、徳勝ほか一生)

及びかねて南京に集結碇泊中の二、〇〇〇屯ないし五、〇〇〇屯商船一八隻を

十二日夜、同所に沈没させ閉塞させたとのことであり、

一三日午前国民政府外交部は各国大使館あて、

自衛上暫時揚子江水路を閉塞し南京−上海間の鉄路交通を禁止し

外圧除去せば直ちに解除する旨、通告した。》



*   要するに、中国は、12日に黄浦江だけでなく、

   揚子江の江陰にも船を沈めて、川を封鎖していたわけです。



   領事館員たちは、中国の言葉を信用し過ぎていたために、脱出し損ないました。

   中国は、甘い言葉で日本人を安心させながら、着々と戦争準備を進めていたのです。

   日本人はお人好しだから、中国を信用しようと努力して、逆に上海を攻撃されました。

   これだけ、明々白々であっても、中国の嘘宣伝に騙されて、

   日本が上海戦を起こしたと信じ、

   教科書にそう書かせるバカもいるのですから、始末が悪いです。

3月25日 松本氏 香港へ行く船中にて

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/04/01 15:05 投稿番号: [1556 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書


273p

《 三月二十四日夕刻、エンプレス・オヴ・ロシア号に投じた。 「次郎」 「三郎」 「四郎」も、

それぞれ一両日前に上海をあとにして香港に向ったらしい。》



274〜276p

《 翌朝、食堂でジョンに出会った。・・・・

午睡を終えてから、フォン・ウィーガンのケビンに電話をかけ、

「松岡洋右さんからあなたのことはよく聞いている。一度お目にかかりたい」

といってアポイントメントをつくった。

約のごとくに、四時半、同氏の船室をノックすると、 「お入り」   という声がかかり、

対面したのは容貌魁偉な老人であった。 年のころ七十歳にも近く、背中も少し

曲った姿勢だが、さすが千軍万馬の老記者で、まなざしはいかにも鋭い。



「松岡さんとはもう二十年もの友人だ。

彼ほどの国際感覚をもつ政治家が、もっと多くあれば、日本はより幸福なのだが、

軍部は、猪突猛進型で、日本のためにはならない。

パネイ号撃沈事件など、自分は完全に誤爆だとは知っているが、

アメリカの世論は一時はひどく昂奮したものだったことは、君も知っているとおり。

松岡さんの友情にも酬いるために、私もアメリカ世論の沈静には、

微力を尽したつもりだ。ちょっとこれを見てくれ給え」   といいながら、



フォン・ウィーガンは鞄の中から、アメリカの新聞の全ページ大の広告で、

フォン・ウィーガンと署名のあるアッピールが載っているのを見せてくれた。

手にとってみると、パネイ号事件発生数日後の日附のもので、

「アメリカ国民よ、立ち止って考えよ」 (“Americans, Stop and Think”)

という題名で書かれたアッピールだ。

私の記憶に間違いなければ、フォン・ウィーガンは、



「軍艦パネイ号は戦争の渦中に捲き込まれた不幸の誤爆に過ぎない。

日本海軍機の不注意は責むべきであるが、

第一次世界大戦でアメリカの参加を決した原因、すなわちドイツ潜水艦による

客船ルシタニア号に対する故意の撃沈とは、ケースが全然違う。

米国民よ、冷静をとり戻して、考え直せ。日米戦争などを夢にも考えるべからず」

云々の意味のものを、率直端的に書いたものであった。



「松本君、このアッピールをスクリップス・ハワード系の各紙に掲載したので、

アメリカ輿論の沈静に何らかの貢献をし得たものと信じている。

こんな事件を、日本がまた二度とやれば、僕はもう知らんよ」   と、

先生が生徒を叱るような口調であった。

私はペンの威力に今さらのごとくに感心したが、昂奪する輿論に立ち向って、

正しいことのために、平和のために、筆を執った老記者の勇気に、

衷心から敬意を表せざるを得なかった。



数十年にわたり、ジャーナリストとしてかち得た彼の世界的名声を賭けての

この行動には、自然と頭が下った。「お目にかかり、光栄に存じます。

また日米関係のためにも、果断な行動に、敬意と感謝とを捧げます」   と述べて、

ケビンを出た。全ページ大のアッピールは、近来では、ときどき見られるが、

当時は、ごくまれで、フォン・ウィーガンのものは私にとって最初に見たものであった。

私は、ひどく感銘して、ケビンに戻っても、しばらく、このことで、頭が一杯であった。》



*   このフォン・ウィーガンという記者は松岡洋右を高く評価している。

   戦後の日本人は、歪んだ歴史認識で、理解できなくなっているが。


*   ルシタニア号事件とは、第一次大戦中、ドイツの潜水艦が商船を無差別に

   撃沈したもので、敵国だけでなく、中立国の船も沈めた。

   当時米国は中立国だったが、米国船ルシタニア号も沈められた。

   敵国である、日本の商船はもっと沢山   沈められた。

8月14日 日本側の上海防衛人数

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/31 15:28 投稿番号: [1555 / 2250]
14日午前の閣議で杉山陸相が上海に二個師団を出すことを提案し、決定されました。

陸軍の派遣準備はこれから、なされるわけですから、

当分は海軍陸戦隊だけでふんばるしかありません。



当面の兵力は

上海陸戦隊           2300名

引揚げてきた漢口陸戦隊    300名

追加陸戦隊       呉      539名

           佐世保      539名

軍艦から揚げた陸戦隊     400名

    合計             4078名

    (この数字は児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫   69pより引用)



つまり、たったの4千名で、何万ともいう中国軍と対峙しなければならないのです。

ところが、この数字すらも、現地にいた人には多すぎるようです。

当時、上海の陸戦隊本部通信隊にいた、小川貞二さんによると



  《 陸戦隊の兵力は実戦兵力四個大隊約千人足らず、

   あと非戦闘員の通信隊、主計隊、医務隊などです。

   漢口より引き揚げて予備軍として上海高等女学校に一個大隊、

   重火器として山砲、十五ミリ榴弾砲各四門、戦車二輌、装甲車二輌などで、

   二十万の敵を迎え撃つには如何にも貧弱な集団です。

   敵方は陸戦隊を占領するのに一週間はかからぬと豪語していたといいます。》

       (正論2001年6月号   編集者へ   編集者から386〜388p)



小川さんが千人足らずと言っているのは、多分、常駐の上海陸戦隊だけのことで、

他の追加の分は数に入っていないと思われます。

が、総数が四千ですから、少ないことに変わりはありません。



戦史叢書を見ていると、殆ど、寝る間もなく、防戦に追われています。

そして、この日14日、米軍人シェノールトの指揮する中国軍機が上海を爆撃しました。


つづく

3月24日 石井小隊全滅

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/31 15:18 投稿番号: [1554 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
307〜309p


《 支隊長瀬谷少将は、とりあえず   「密電」   情報に適応する処置をとった。

湯恩伯軍の進出が予想される臨城、韓荘間に第十連隊主力をおき、

台児荘には第六十三連隊第二大隊を派遣し、

第十連隊第二大隊を沂州にむかわせて坂本支隊を支援させ、

残りは支隊長がひきいて、やはり湯軍が目標にするとみられる

臨城東方の棗荘に位置するよう、下令した。



  −だが、

台児荘には、第二集団軍第三十軍第三十一師が、強力な火砲をそろえて布陣していた。

南は運河に接着しているので、台児荘の城壁は東、北、西の三面だけだが、

周囲は水濠でとりまかれている。

・・・・


三月二十四日

・・・

中国軍は城壁上から機銃を乱射し、手榴弾を乱投する。

死傷者が続出し、後続する兵も阻止され、大隊長安永少佐は後退を命じざるを得なかった。

沂州方面にむかった第十連隊第二大隊も、予想外の苦戦をあじわわねばならなかった。

この日、午後六時ごろ、第二大隊のうち大隊長加村旭少佐が直率する主力は、

トラックで棗荘東方の郭里集に到着した。



東南約二キロの紀官集に派遣した将校斥候石井直好少尉は、

中国軍砲兵将校を捕虜にして帰ってきたが、

捕虜は、紀官集部落にはやがて 湯恩伯軍の第五十二軍第二十五師の

砲兵一団が進出する予定だ、告白した。

「よし、たたいてやろう」

大隊長加村少佐は、第五中隊第三小隊長である石井少尉に夜襲を命令した。



石井小隊四十人は、三月二十五日午前三時、郭里集を出発したが、

その直後に郭里集は約五千人の中国軍部隊に包囲され、

石井小隊も紀官集で少尉をはじめ三十四人を失い、ほぼ全滅した。》


つづく

8月13日 中国軍の上海攻撃開始

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/30 18:51 投稿番号: [1553 / 2250]
長谷川長官は再度、陸軍の派遣を要請します。

この状態に至って、やっと四相会議が開かれました。

しかし、難航します。

参謀本部の石原第一部長が   「ウン」   と言いません。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』    316p


《 8月12日夜、四相会議が開かれ、米内海相が陸軍の上海派兵の方針決定を要求、

各大臣とも異存なく、翌日の閣議に上程することとなった。

ところが散会後、杉山陸相から米内海相あて   「当初の計画時とは著しく

変わった状況となったので、出兵については最も慎重に考慮すべきだ」

という意見を参謀本部は述べている旨、通知があった。


そして、13日   早朝   参謀本部第一部長石原莞爾少将が、

近藤軍令部第一部長に   「出兵不同意」   を表明してきた。》



近藤軍令部第一部長は、何とか石原莞爾参謀本部第一部長を説得して、

やっと、この議題を閣議に上程することができました。



そのころ、上海では、

317p
《 午前   10:30   ごろ商務印書館付近にいた中国軍が日本側陣地に対し

突如機銃射撃を浴びせてきた。 我が方は応戦したが、

不拡大方針に基づき極力当面の交戦を避けるように努めた。》



一方、日本では、閣議でやっと陸軍の派兵を決定しました。

そこで軍令部は長谷川司令長官に電報します。



316p

《・・・同方面ニ於ケル   作戦上ノ地歩ヲ   獲得スル迄

(概ネ   陸軍主力上陸迄ニテ   動員下令後   二十日間)   ハ

爾他ノ各地ニアリテハ   ナルベク   武力発動ニ至ラザルヲ   有利トス・・・》



陸軍は下令してから到着まで20日は掛るので、それまではなるべく動くなという事です。

向こうはとんでもない大軍、こちらはたったの4千人   うかつに動けないのは当然です。

そうは言っても相手のあることですから、そうも行きません。

敵は、租界の周囲のどこからでも、攻めて来れるのです。



中国側の資料   ( 8.13淞滬抗戦 劉勁持)   には


《12日   営長の一人が

『租界への出入りは簡単だ。ピストルを持って日本の司令部の回りを見てきたが、

一度もチェックを受けなかった。今夜あたり進撃をかけてもいいのでないか』

といって、夜が過ぎるのを待った。

13日   正午   88師と租界線をこえて宝山路・四川路などに展開していた、

日本陸戦隊との間で小競り合いが始まり “8.13抗戦” が始まった。》

( 鈴木明著   『 新   「南京大虐殺」   のまぼろし』   195pより )

とあります。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』   316p〜317p   より要約


《 16:54   八字橋方面の中国軍が攻撃を開始した。》



*   ここから、夜とも昼ともない中国側からの攻撃が続き、

   少人数の陸戦隊は不眠不休の防戦を強いられます。


つづく

3月22日 台児荘戦の決定

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/30 18:41 投稿番号: [1552 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
303〜304p


《 副参謀総長白崇禧は、日本軍が徐州にくることが明らかであれば、

その前に撃滅すべきだ、と主張した。

策があるか、との蒋介石の諮問にたいして、副参謀総長白崇禧は、

これまでの日本軍のやり方を逆用すればよい、と、こたえた。


「擬以第二集団軍控置   於徐州西北九里山   至微山湖中間地区、

以第二十軍団   重点移   至韓荘東南、誘敵深入由   東西両面夾撃之」



つまり、徐州と微山湖の間と韓荘東南にそれぞれ孫連仲の第二集団軍、

湯恩伯の第二十軍団、いいかえれば第五戦区の最精鋭部隊を配置し、

日本軍をその中にさそいこんで、東西から挟撃して殲滅しよう、というのである。

蒋介石は、その作戦の積極性にうなずいたが、

では日本軍を殲滅する予想戦場はどこか、と質問した。

「ここです。ここしか、ありません」

言下にこたえた副参謀総長白崇禧は、机上の地図に右手をのばして、

人さし指で一点をおさえた。   台児荘   −   である。



中国軍第五戦区司令長官李宗仁は、三月二十二日、 「第五号作戦命令」   を下達した。

「……第二十軍団、応集結於エキ県東側   及棗荘西北焦山頭付近一帯山地、

三月二十四日払暁、 全線開始攻撃、 務先撃破エキ棗之敵、 向臨城沙溝付近側撃、

圧迫敵於徴山湖東岸   而機滅之……」

また、第二集団軍にたいしても、第二十軍団と呼応して

南下する日本軍をはさみうちにせよ、と下令した。》


345〜306p

《 第五戦区司令長官の   「第五号作戦命令」   は、

しかし、日本軍によって傍受解読された。

はやくもその翌日、三月二十三日午後七時、第三十三旅団長瀬谷啓少将が

示達した瀬谷支隊命令の冒頭に、次のように特記されている。

「密電ニ依レバ、 李宗仁ハ湯恩伯軍ニ対シ、

エキ県東北方高地及   ビ其ノ北方高地ニ集結、二十四日攻撃前進ヲ開始シテ、

日本軍ヲ韓荘、臨城間デ微山湖ニ圧迫   殲滅スベク命ジタルモノノ如シ」



そして、この解読電報は、とりわけて東京に衝撃をあたえていた。

「これはえらいことになった……湯恩伯軍の出現は、

蒋介石主力が決戦を求めてきたことを意味するからである」

参謀本部作戦課長稲田正純中佐は、そのときの感想を、そう述べている。》

揚子江流域領事館員の引揚げ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/29 18:55 投稿番号: [1551 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』
302〜304p


《 漢口上流各地領事及び館署員を中心とする少数の我が官民は、

八月七日の居留民総引揚げ後、なお岳陽丸と共に漢口に残留した。

やがて食糧の供給が途絶したため、総員総領事館内に籠城したところ、

租界内発電所閉鎖のため館内は無燈となった。



ここにおいて松平総領事代理は総引揚げ断行を決意した。

岳陽丸の収容力不十分のため、まず一部が八月十日夜漢口発の英国船隆和で下江し、

次いで松平総領事代理以下五二名が、十一日 16:00 漢口発の岳陽丸で下江した。

「隆和」   乗船者は十二日夕南京で下船し岳陽丸に移乗した。



南京では八日洛陽丸による引揚げ後、残留者は総計五五名となっていた。

十日午後、日高参事官は外相あて、南京市内の状況を次のように報告した。


ソノ後   当地市内ノ情況   目立チタル変化ナキモ   各機関ノ建物   及

民家ハ殆ド全部   防空保護色ニ   塗リ替ヘラレ、 防空   及 防火訓練モ

随時行ハレツツアリ。

市民ノ南京立退ハ   多少緩和シタルモ   猶 続々行ハレツツアリ。



中華民国海軍部顧問として、中国海軍軍人の直接指導に当たってきた

寺岡謹平海軍大佐は、身辺の危険を感ずるに至り、

十日正午をもって指導を打ち切り、十一日中国海軍部を訪問して、その自重を促し、

十二日大兵丸に乗船、更に   17:00   漢口から下江して来た岳陽丸に、

漢口上流各地領事らと共に移乗した。



岳陽丸は同日 19:00 上海に向け南京発、

翌十三日 03:00 江陰にさしかかったところ、中国軍艦海容に停船を命ぜられ、

江陰要塞付近の水路危険につき通航を禁止する旨宣告された。

06:00 海容艦長欧陽勣が来船し、江陰付近水路及び江陰−上海間の航行危険につき、

南京に引き返されたい旨勧告したので、 07:00 出港、 19:00 南京に到着した。》



*   「中国が   『安全を保証する』   と言っている以上、これを信頼すべきだ。」   とか

   「海軍がいるから、戦争になるのだ」   とか言って、

   引揚げに抵抗していた人達の愚かさが判ります。

   結局、租界への交通及び電話を遮断され、食料と電気まで止められ、

   引揚げざるを得なくなりました。



   この人達は、身は中国にあっても、頭はヴァーチャル・リアリティの世界に

   居るので、現実の中国が見えないのです。

   そして、彼らの感覚は、今の平和主義者と全く同じです。


*   また、岳陽丸が江陰で追い返されたのは、この数時間前に船を沈めて、

   揚子江を封鎖したからでした。

   それは14日に、判ります。



つづく

3月16日 台児荘戦の前段階2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/29 18:45 投稿番号: [1550 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
299〜300p


《 第二十一連隊長片野大佐は、十五日、中国軍はなみなみならぬ決意で

「決戦」   をいどんできている、と判断し、支隊長坂本少将にたいして、

第十一連隊の投入による敵撃滅を意見具申した。


ところが、支隊司令部からは、第十一連隊との連結を指示してきただけで、

支隊長も参謀も   「実情把握」   のための第一線視察をこころみない。



中国軍の攻撃は激化し、十六日になると、南からの第三軍団の一部が東にまわり、

北側の第五十九軍と呼応して第二十一連隊を包囲する勢いを示した。

正午ごろには、彼我の前線は約三十メートルにまで接近し、第二十一連隊長

片野大佐は、しきりに側背からの援護攻撃を支隊司令部にもとめた。


すると、午後零時三十分、支隊長坂本少将は第二十一連隊に後退を命令してきた。

いったん第十一連隊とともに湯頭鏡に集合して、攻撃を再開する、という。



第二十一連隊長片野大佐は、包囲された形のまま退却するのでは敵に勝利感を

いだかせてしまう。撃破すべきだ、との意見をつたえたが、

支隊長坂本少将はなおも後退を指示し、大佐は、後退準備を部下に下令した。


ところが、つづいて支隊命令がとどき、こんどは第十一連隊に南下攻撃をさせるので、

「現位置ヲ撤スルコトナク (敵を) 攻撃スベシ」   という。

「当然だ。敵をつけあがらせる必要はない」

第二十一連隊長片野大佐は、満足して、各隊に勇戦を指令した。


しかし、午後二時になると、また支隊命令が受信された。

「前電命取り消シ。片野部隊ハ万難ヲ排シ現地ヲ撤退スベシ」



まさに   「猫眼」   なみに転変する作戦指導である。片野大佐は、憤然として返電した。

「連隊ハ現位置ヲ確保シ、敵撃滅ニ邁進ス」

大佐は、敵は撃退できる、と確信していた。

弾薬節約の意味もこめて、各隊は中国軍をひきつけては斉射する戦法を

くり返していたが、相手はそのたびに潰走し、

次第に突撃兵力が減少する傾向をみせはじめていたからである。


だが、支隊司令部は撤退指示をかさね、

午後十一時には、司令部に連絡に出かけた副官三浦忠義少尉が帰り、

軍旗だけでも帰還せよ、という支隊長坂本少将の言葉をつたえた。



片野大佐は、致しかたなし、と後退を決意し、十七日午前二時、陣地を撤収した。

第十一連隊も、翌日、攻撃を中止して湯頭鎮付近にひきあげたが、

片野大佐の予想どおりに、中国側は戦勝を呼号した。》


つづく

8月11日 包囲される上海

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/28 18:53 投稿番号: [1549 / 2250]
陸軍の応援が認められないため、仕方なく、第三艦隊司令長官は、

呉と佐世保に待機させていた陸戦隊を上海に派遣します。

しかしながら、上海の日本人居留区は、既に中国保安隊に包囲されていました。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』   311p


《 長谷川司令長官は、十日   13:25   発電をもって

「佐世保方面で待機中の第八戦隊、第一水雷戦隊、呉鎮守府第二特別陸戦隊

及び佐世保鎮守府第一特別陸戦隊は直ちに上海に向け発進すべし」   と下命した。

これら諸隊は同日   14:30   佐世保発、十一日上海に到着し、特別陸戦隊は

同日   23:00   揚陸完了、上海特別陸戦隊司令官の指揮下に入った。

十一日、京滬及び滬杭再両鉄道は旅客の乗車を禁止し、軍隊輸送を開始するに至った。》



松本重治著   『上海時代・下』 193p

《 船津さんの日誌から、左に抜粋する (同上 『船津辰一郎』 194〜196ページ)。

八月十一日   …閘北 (ザホク) 方面における中国側保安隊ないし正規兵ますます増加し、

あたかもわが陸戦隊およびわが居留民の多数居住する虹口一帯を包囲する形勢を取り 》



北博昭著   『日中開戦』   15p

《 8月11日   銭大鈞の指揮する第13軍下の第88師が保安隊と合流し、

共同租界の境界線に接した非武装緩衝地帯にまで進出する事態になった 》



児島襄著   『日中戦争4』   68p

《 8月11日、蒋介石は第9集団   ( 張治中 )   に呉淞口の閉鎖と

上海包囲体勢をとる様下令した。

その夜、上海に出入りする鉄道はいずれも旅客の輸送を中止し、

軍隊輸送に切り換えられた。》



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』   312p

《 88師とおぼしき中国正規兵及び武装保安隊は12日朝来続々と上海付近に集中し

呉淞から江湾鎮に至り配備につき、租界と閘北との境界付近各所に戦備を整えて、

まさに一触即発の情勢に立ち至った。》


313p

《 8月12日   朝来、保安隊は北停車場付近から河南路及びハスケル路いったいの

中国街に侵入し中山路一帯及び江湾路付近は警戒厳重を極め、非常警戒網が張られ》



塚本誠著   『ある情報将校の記録』   197p〜より要約

この日、北站駅に中国兵が続々降りているという情報で憲兵隊の大前軍曹と

熊野通訳が偵察に行ったら捕まり、後でわかったのですが、殺されていました。



中国側の資料   ( 8.13淞滬抗戦 劉勁持)

《「虹橋での大山事件が起ると、88師   (孫元良)、 36師   (宋希濂)、

87師   (王敬久)、に進軍命令が出た。鉄道はすべて軍事に使われ、

8月12日朝、88、 87の二師は上海に到着、88師は北駅近くに駐留し、

87師は北四川路東から楊樹浦一帯に陣を構えた。・・・王敬久や孫元良の

営長や連長なども便衣を着て、住民たちと一緒に租界に入っていく。》

( 鈴木明著   『 新「南京大虐殺」のまぼろし』   194〜195pより )



児島襄著   『日中戦争4』   69p

《 8月12日   中国側は夕闇迫るころ黄浦江に三千t級の汽船「三興」号、「福興」号

さらに大石塊を満載した大型ジャンク二十隻を自沈させ、水路閉鎖をこころみた。 》


中国は、この日、揚子江の江陰にも船を沈めて河を封鎖した。

3月16日、ホテルでの和平工作会合

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/28 18:45 投稿番号: [1548 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
270〜272p


《 翌十六日午後、カセイ・ホテルの一室で、高・董・伊藤と私の四人での会合があった。

高君は、董君の東京での話を一語も漏きず聴き入っていた。

高君は、一言をも吐かず、董君の話の高君なりの評価に耽っていて、黙ってばかりいた。


伊藤君が、少し栄気をつけないといけないと思ったのか、

「董君と西君と私の三人連れで東京から大連へ、松岡総裁に会いに行った。

そのウスリー号の船中で、西君を   『太郎』、 董君を   『次郎』、

私を   『三郎』   と称び合う約束をした。

日中和平運動のための盟友の誓いを表現するためでもあるが、

暗号電報にも利用すれば便利だと思って」   と話し出した。



私は   「宗武   (ツンウー)、君に反対がなければ、

君を   『四郎』   とし、 僕を   『五郎』としたらどうだい」   というと、

高君も引きずり込まれて、笑いながら、

「『四郎』   でいいよ。 君が   『五郎』   ならね」   と私にいう。



伊藤君が、「初めの三人は和平運動に登場した順序に因んでの命名だったのだから、

『四郎』 『五郎』   と称ぶことを高さんと松本さんとが承知してくれれば、

『太郎』   に異論があるはずはない」   というので、私が   「じゃあ、そう定めよう。

さしづめ影佐大佐は   『六郎』   と定めちゃおうや。 欠席裁判でいいよ。

それは僕が引き受けるよ。松岡さんのほか近衛さんとも話をしなければならないが、

当分は、日中双方で十名ぐらいに限ろうや」   と提案すると、みんなが賛成した。



高君は、しかし、あくまで冷静であり、まず質問を始め、伊藤君に対し、

「影佐さんや今井さんは、今、どういう地位にいるのかね」   と尋ねた。

すると、伊藤君は、 「影佐大佐は、昨年十一月から参謀本部に新設の謀略課長、

今井中佐は、ごく最近、同じく参謀本部の   『支那』   班長になったよ」   と答える。



「謀略課長」   ということばを聞くと、高君の顔つきが険悪になった。

私が、 「謀略課長という影佐大佐の肩書には、僕自身も恐れ入ったが、

ある意味では、土肥原と連想される   『特務機関』   の謀略とは全然違うのだろう。

新しい謀略課長の任務は、省部を合せて戦争の拡大傾向に対し、

これを克服するという謀略が、参謀本部にも必要なのであろう」   と茶々を入れると、

伊藤君が、「 それは、そうだ。うがった話だ」   といって、一同大笑いになった。



次に、董君が、 「影佐大佐から、何応欽・張群両氏それぞれに宛てた

二通の手紙を届けるため、漢口に行かなければならない」   といい出すと、

高君は、二度びっくりで、


「下手なことをやったら、董君も僕もやられてしまうよ。

これは、絶対慎重に取り扱わなければだめだよ」   と、

董君をたしなめるような口調でいった。

一本気の董君は、自然、少なからざる不興の面持で、

「私は漢口に行って、手紙を手渡ししてくる決心だ」   という。

それで、私がとっさにいった。



「僕が、四人のうち、いちばん年長者らしいから、

ちょっと私の意見をいわせてもらいたい。この大切な日中和平運動の門出に

あたって、同志のものが、喧嘩することなどは、絶対にけしからんことだ。

高君も、董君も、冷静に考え直してくれ給え。


西君は、月末に香港に直行するというから、香港での五人の会合で、

この問題の処理を話し合って決定しよう。この提案に、誰か異存があるかい?」   と。

高君が、真っ先に   「異議なし」   といいきったので、董君も、しぶしぶながら、

「僕も賛成だ」   といわないわけにいかなかった。》


つづく

上海への陸軍派兵を拒む米内海相

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/27 18:37 投稿番号: [1547 / 2250]
揚子江上流が不穏になって来たことや、

中国が急速に上海包囲網を展開していることから、

第三艦隊司令長官は、海軍中央部に陸軍の派兵を依頼していました。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』


311p

《 長谷川長官の八月七日発電の具申

此   (この)   数日   更   (さら)   ニ   キュウ江碼頭   (マトウ:埠頭に同じ)

附近一帯ノ地ニ   江岸ニ面スル   防禦工事ヲ   施シツツアリ。

右ノ工事ハ軈   (やが)   テ   呉淞ニ延長セラルベク   黄浦江岸ヨリハ

陸兵ノ上陸困難   トナルベキ場合ヲ顧慮シ   第一段作戦ノ   派遣陸軍ハ

揚子江本流ノ   上陸作戦ニモ適スル兵団ヲ   充当スルヲ要スル   モノト認ム。



八月九日発電の具申   (第三艦隊機密第四八四番電)

上海附近   支那側軍備急速強化   ノ実情ハ   累次電報ノ通ナルガ、

右ハ殆ド   我ガ方ノ   予想セザリシ所   ニシテ、

今ヤ漢口ニ於ケル   居留民引揚時ノ   情況ヲ髣髴   (ほうふつ) セシムルモノアリテ、

現在ノ   上海特別陸戦隊   及   艦船陸戦隊ノ   全力ヲ以テスルモ   租界警備上

兵力不足ヲ   感ズルニ至レル   ヲ以テ、 約五箇大隊ノ   兵力増援必要   ナリト認ム。



  仍   (よ)   ツテ此ノ際

一   佐世保待機中ノ   特別陸戦隊ヲ   至急   上海ニ派遣シ

二   先遣陸軍部隊ヲ   速   (すみやか)   ニ   上海ニ派遣スルカ、 又ハ

   少クトモ之ヲ   乗船地ニ   待機セシムル   要アリ。》



この日にちより前から具申はあったのですが、それに対して海軍中央部は

「当時進行中の機微な外交交渉を考慮し、事態を急速破局に導かないよう要望」   し、

かつ 軍令部は、海軍省に対し、陸軍兵力   (上海二コ師団、青島一コ師団)   を

必要に応じ派遣する件を、海軍からの要請として閣議に提案するよう要求したのですが、


314p

《 米内海相は、多分に当時進行中の機微な外交措置に望みをかけ、

今明日中にその成果が期待できると思われるので、

閣議において今後の情勢に応じ直ちに要求貫徹を容易ならしめるよう措置しておくが、

今日直ちに陸軍派兵を決定するのはしばらく待ちたい、との態度であった。

・・・

十一日   10:30 、伏見宮軍令部総長は米内海相と会談した。

海相は、外交交渉の成否は予想はできないが、これを促進させることは大切であり、

今打つべき手があるにもかかわらず直ちに攻撃するは大義名分が立たず、

今しばらく模様を見ることとし、我が居留民に危害が及ぶような事態になれば

直ちに出兵する旨の意見を述べた。》



*   ということで、米内海相は、なおかつ、中国を信じ、

   和平が話し合いで出来ると思っていたようです。

   戦前は、軍部が戦争をしたがっていたというのが通説になっていますが、

   米内海相の考えは、まったく逆ですね。

   むしろ、今の平和主義者に近いようです。


つづく

3月15日 董道寧 日本より上海に戻る

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/27 18:26 投稿番号: [1546 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
270p


《 三月十五日、董君は伊藤君といっしょに上海に帰ってきた。

伊藤君の話によれば、董君は、影佐大佐、今井中佐らに厚く待遇され、

董・影佐の会談も上々の首尾で、多田参謀次長にもゆっくり会えた。

そして董君は、一月十六日の声明にかかわらず、

多田参謀次長や影佐大佐から、軍の中枢部には、なるべく早く

「和平を招来したい真意」   があることを確認した。》

海軍中央の大山事件対処方針

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/26 18:55 投稿番号: [1545 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』
310p


《 軍令部は直ちに次の対処方針を決定した。

     要   旨

大山事件ノ解決ハ   将来コノ種事件ノ   根絶ヲ期スルヲ   方針トシ、

左記要求事項ノ   充足ヲ目途トシテ   交渉スルヲ要ス。

而シテ   支那側当事者ニ於テ   之ガ解決実行ニ対シ   誠意ヲ示サザルニ於テハ、

実力ヲ以テ   之ヲ強制スルモ   敢テ辞セザル   決意アルヲ要ス。


    要求事項

  一   事件責任者ノ陳謝及処刑

  二   将来ニ対スル保障

   (1)   停戦協定地区内   ニ於ケル   保安隊員数、 装備、 駐屯地ノ制限

   (2)   右地区内ニ於ケル   陣地ノ防禦施設ノ撤去

   (3)   右ノ実行ヲ   監視スベキ   日支兵団委員会   ノ設置

   (4)   排抗日ノ   取締励行



海軍中央部は八月十日、第三艦隊司令長官あて次のように申進した。

  官房機密第六八一番電   (十日一二〇〇発電)

   目下   外交交渉   進行中ニシテ   最モ慎重ヲ要スル   時機ニテアリ、

   旁   (かたわら)   事態ノ解決ハ   究極ハ   武力ニ依ル   ノ外ナキニ至ル   トスルモ、

   陸軍ノ派兵ニハ   相当ノ時日ヲ   要スルノミナラズ、



   我ガ方ヨリ   攻撃ヲ開始セザル限リ   支那側ヨリ攻撃セザル

   中央政府ノ意向   ナル旨ノ特情報モ   アル次第ナルヲ   考慮シ、

   大山中尉射殺事件ニ   対スル当面ノ処置ハ   先ヅ真相ヲ糾明スル等

   必要ナル外交的措置ヲ   執ルコトトシ、

   可及的   事態ヲ急速破局ニ   導カシメザル様   致シ度。》
・・・・


311p

《 八月九日発長谷川司令長官の具申   (第三艦隊機密第四八四番電)

  上海附近   支那側軍備   急速強化ノ実情ハ   累次電報ノ通ナルガ、

  右ハ殆ド   我ガ方ノ予想セザリシ   所ニシテ、

  今ヤ漢口ニ於ケル   居留民引揚時ノ情況ヲ   髣髴セシムルモノアリテ、

  現在ノ上海特別陸戦隊   及   艦船陸戦隊ノ   全力ヲ以テスルモ    租界警備上

  兵力不足ヲ感ズルニ   至レルヲ以テ、 約五箇大隊ノ兵力増援必要ナリト認ム。


  仍   (よ)   ツテ此ノ際

  一   佐世保待機中ノ特別陸戦隊ヲ   至急上海ニ派遣シ

  二   先遣陸軍部隊ヲ   速   (すみやか)   ニ上海ニ派遣スルカ、

    又ハ少クトモ   之ヲ   乗船地ニ   待機セシムル   要アリ。》



*   ここでも海軍の甘さが見られます。

   「我ガ方ヨリ   攻撃ヲ開始セザル限リ   支那側ヨリ攻撃セザル   中央政府ノ意向」

   と言っていますが、そもそも盧溝橋事件は   「我ガ方ヨリ攻撃ヲ開始セザル」

   にも関らず   「支那側ヨリ攻撃」   したものです。

   大山中尉もこちらから、攻撃していないのに攻撃されました。

   日本側に   「可及的   事態ヲ急速破局ニ   導カシメザル様」   と言ったところで、

   中国側が逆の考えならどうしようもないでしょう。

3月14日 原稿を書くティンパレー1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/26 18:43 投稿番号: [1544 / 2250]
大虐殺の原稿をベイツらにチェックしてもらうティンパレー

松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』


203p

《 三月十四日付の手紙でベイツは、ティンパレーから送られてきた原稿を

スマイスとミルズの三人で検討した結果を返答している。

この件はあわてるべきではなく、誰かが上海まで出かけていって一緒に作業を

した方がよいとし、もし内容に間違いでもあると   「日本側に反駁の機会を

与えるものであり、全体の効果を弱める結果になる」   (①360頁) とある。


・・・

203〜205p

同じ三月十四日付で、上海のティンパレーからタイプされた原稿の一部が

ベイツに送られてきた。   それによれば、第一章はまだできていないが、

第二章から第十章の結論までの構想が示されている (①365頁)。

その構成を見ると、ここで参考としている

『外国人の見た日本軍の暴行』   とは若干異なっているが、



第六・七章に南京以外の事件を扱うこと、   第八章に

「今日にいたるまでの南京空襲に関する新聞報道と目撃談を厳選するつもり」   とある。

この記事が、完成した本の   「第五章   華北の恐怖」   のなかにある

石炭を知らぬ日本兵の話   (同書57頁)、

「第六章   暗黒に鎖された城市」   (同書69頁)   のなかの、略奪品を持って

上海に引き揚げる日本兵の話などとしてそれぞれ入っているのである。




その他もこれに似て、およそ日本人なら想像もつかない目撃談というものが続く。

日本軍は前掲の各都市を始め、いつでもどこでも虐殺、略奪、強姦を働く集団として、

目撃者や体験者の話が文字通り腐るほどある。》



*   「石炭を知らぬ日本兵」   とは、妄想もはなはだしい。

   では、日本の軍艦はどういう燃料で動いていたのか?

   当時は石油に代わった船もあったかも知れないが、

   揚子江を行き来する軍艦は石炭を積んでいた筈だが?

   撫順の炭鉱は誰が動かしていた?


   今の日本の若者は石炭など見た事ないだろうが、

   昭和40年頃までは、石炭は日本の国産燃料だったのだ。

   日本から炭鉱が消えだすのは、昭和40年以降。


つづく

8月9日 大山中尉虐殺事件4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/25 14:37 投稿番号: [1543 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』
309〜310p


《 心配されていた揚子江流域の我が居留民引揚げは八月九日無事終了したが、

同日夕刻大山大尉   (殺された時は中尉だが、海軍は後で昇進させた)   事件が突発し、

戦局は一転して中支に波及するに至った。



八月九日   18:30   ごろ、上海特別陸戦隊西部派遣隊長   (第一中隊長)

大山勇夫中尉   (八月九日付大尉)   は、一等水兵斎藤與蔵   (八月九日付三曹)   の

運転する陸戦隊自動車で付近地区の視察及び陸戦隊本部へ連絡の途中、

上海西部虹橋飛行場南東隅西門の北約一〇〇米、越界路たる碑坊路上において

中国保安隊のため射撃を被り殺害され、また斎藤一等水兵は引致され殺害された。



同日夕、上海市長愈鴻釣は事件処理協議のため、

自ら総領事館に来り我が総領事岡本季正及び帝国大使館附武官本田海軍少将と会見し、

大山中尉が飛行場に入ろうとして保安隊の制止を聞かず、

かえって拳銃で保安隊一名を銃殺したことに端を発した、との趣旨を説明した。

これに対し我が方は、最近保安隊の武装強化及び対敵行動は露骨であり、

本事件については今後の要求を保留する、と警告した。



長谷川司令長官は、九日   21:30 、佐世保で待機中の第八戦隊、第一水雷戦隊、

第一航空戦隊、 「鶴見」、 佐世保鎮守府第一特別陸戦隊、

呉鎮守府第二特別陸戦隊に即時待機を下命した。



翌十日早朝、長谷川司令長官は我が外務官憲と協力し両名の死体を収容した。

そして同日午後、上海駐在武官田尻穣海軍中佐、上海特別陸戦隊参謀山内英一少佐、

領事寺岡範武、領事福井淳、工部局督察長、上海市政府秘書長、

呉淞警備司令部副官ら粒より実地検証の結果、次のとおり判明した。



  一   両名とも機銃弾が頭部を貫通して致命的打撃を受け、その他の弾こん

    及び外傷は中国側が苛虐   (かぎゃく)   的に行ったものである。

  二   保安隊一名の死亡は機銃弾によること、及び当時大山中尉は拳銃を携帯せず、

    斎藤水兵もまた拳銃を肩に掛けたまま自動車を運転していたことに照らし、

    中国側同志の味方打ちの結果であることは明白である。

  三   したがって中国側の主張するように、日本側から先に射撃した事実なく、

    中国側が遠近から乱射し、あまつさえ軍装の両死体に対し

    残虐な侮辱を加えたこと明白である。



しかし、中国側は直ちに右の事実を容認する態度を示さなかった。》

3月14日 台児荘戦の前段階1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/25 14:30 投稿番号: [1542 / 2250]
当面の敵の掃蕩作戦という名目で滕県占領に派遣された瀬谷支隊は、

三月十四日、はやくも滕県にせまった。



児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫   298〜299p


《 −   そのころ、

沂州北東の湯頭鎮では、坂本支隊の第二十一連隊が意外な苦境におちいっていた。

第二十一連隊は湯頭槙の南の西水湖崖付近に集結し、

その北方の砂嶺に第十一連隊が位置していた。



対峙する中国軍は、第三軍団長兼第四十軍長ホウ炳勲が指揮する第三十九師

(馬法五)   であったが、所属する第五戦区司令長官李宗仁は、

沂州の   「絶対不能放棄」   を命じ、第五十九軍   (張自忠)   の二個師

(第三十八師、第百八十師)   を増強していた。



そして、三月十四日、中国軍は攻撃を開始し、

第五十九軍は沂河をわたって第十一、第二十一連隊の中間に進入し、

第三軍団は第二十一連隊を南から攻めた。》


つづく

8月9日 大山中尉虐殺事件 3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/24 14:16 投稿番号: [1541 / 2250]
東中野修道著 「南京虐殺」 の徹底検証   展転社
24〜25p


〈 東亜同文会編   『新支那現勢要覧』 (昭和十三年)   に、

日本海軍陸戦隊の実地検証結果が出ている。

それによれば、大山中尉は後頭部貫通の致命傷を受けて即死したあと、

「頭部は二つに切り割られ、顔面半分は全く潰され、内臓を露出し、

心臓部に拳   (こぶし)   大の穴をあける」   などの暴行を支那の保安隊から受けていた。

支那側の計画的な虐殺であったのである。



パリの   「   グラン・ゴアール」   紙特派員エドアール・エルセイの

「支那事変観たまま」が、 『国際パンフレット通信』   一九三八年 (昭和十三年)

八月一日号に翻訳転載されているので、あわせて紹介しておきたい。



《 八月九日には日本の海軍士官が、虹橋飛行場の支那番兵に殺害された不幸な事件が起った。

日本の士官も注意すればよかったと言へない事もないが、

併   (しか)   し支那側の計画的だった事はなんとしても否定出来ない。

南京政府が少なくも十五日前から上海に戦火を挙げる決意のあつた事は疑ふべくもない。》



《 其の目的は、日本の一部を南支に引裂くことばかりにあったのではなく、

日本軍を中立地帯の近くに引寄せて、いや応無しに国際間題を頻発させようといふ

腹だった。かくして頻々   (ひんぴん)   たる事件の発生と誤解に依り、

西洋の與論   (よろん)   を誘発しようといふ奸策なのだ。》



《 これは蒋介石自身が同意したことで、いささか得意でもあったことだ。

十月末   (昭和十二年)   に南京で会った時、僕は蒋に向ってこんなことを言ってみた。

   あの手は実にうまい、上海は日本の足に刺さった刺(とげ) みたいなものですからね、

   抜いてしまはない中   (うち)   は動きがとれないわけでせう。》

《通訳があって、

   さうだらう、まあうまくいった積りだがな、といふ彼の答へだった。

   当初は日本の政府も軍部も交戦を回避してゐた。上海攻略を危険視してゐたのだ。》



上海で支那側が   攻勢に出た狙いの一つは、エルセイ特派員も言うように、

上海で紛争を引き起こして、世界に日支紛争を印象づけることにあった。

それには、上海のど真ん中に位置するフランス租界と共同租界こそ、恰好の舞台であった。

上海で戦闘ともなれば、日支紛争は否応なく外国人の耳目に入って来る。

租界の外国人、とりわけ特派員は、スタンドの上から試合を見物するように

戦闘を観察できる。その計算が蒋介石に働いていたというのである。〉



つづく

東條英機 ドイツの抗議を一蹴

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/24 14:05 投稿番号: [1540 / 2250]
ラビ・M・トケイヤー著   『ユダヤ製国家日本』   加瀬英明訳
46p


《 ドイツ外務省が日本政府に対して、

大量のユダヤ人難民を満州国へ入れたことに対して、強硬な抗議を行った。

この抗議は、東京から新京の関東軍司令部へ、すぐに伝えられた。

すると、東條参謀長は難民を受け入れたのは、

「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」   として、一蹴した。

この時、東條参謀長が樋口に許可を与えなかったとすれば、

ユダヤ人難民が救われることはなかった。》



関東軍はユダヤ人を差別しないことを決めていた。


ラビ・M・トケイヤー著   『ユダヤ製国家日本』   加瀬英明訳
44p


《 関東軍司令部は一九三八   (昭和十三)   年一月に、

「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」   を定めていた。

これは、東條参謀長が決裁したものであった。

要領は日本がユダヤ人を差別しないことについて、

「独逸其ノ他ノ   列国ニ対シテハ   我民族協和、八紘一宇ノ精神並ニ

  防共ノ大義ニ   遵由   (じゅんゆう)   スルヲ諒解セシメ   誤解ナカラム」

(第四項)   と、述べていた。》



*   ちなみに松岡洋右は、後に   「私はドイツと同盟は結んだが、

   ユダヤ人を殺す約束まではしていない」   と言いますが、


   彼は、第一次大戦の講和会議のとき、外務省の新聞班としてパリにいました。

   そして、日本が持ち出した   「人種差別撤廃」   を、

  「民族自決」   を唱えたウイルソン米大統領が強硬に反対して、

   潰すのを見ています。

   英国もまた、白豪主義を唱える属領オーストラリアに反対を言わせていました。

   松岡は、こうした白人の人種差別に、不快感をもっていたでしょう。

8月9日 大山中尉虐殺事件 2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/23 18:37 投稿番号: [1538 / 2250]
東中野修道著 「南京虐殺」 の徹底検証   展転社

22p

〈 一連の事件をめぐる和平交渉が八月九日、上海で予定されていた。

ところが、この日、上海で、大山勇夫海軍中尉 (のち大尉) と

斎藤與蔵一等水兵が支那の保安隊により虐殺された。

そのため、会談は自然流会となった。

と言うより、それを狙って、事件が仕組まれたと言った方がよいであろう。〉


23p

〈《 たとえば、東亜同文会の   『支那』   昭和十三年九月号に、

クロード・ファレールの   「支那紀行」   が翻訳転載されているが、

そのなかでファレールは、大山中尉が

「あるべからざる所に巧みに設置された支那軍の機関銃によって暗殺せられた」   ことを、

次のようにフランスの読者に紹介した。



《 日本軍は驚嘆すべき冷静さを持してゐた。

彼等は最も優秀なローマの警官の教へる所を実行したのである。

彼等は自動車にも死骸にも決して手を触れなかった。

彼等は大上海の支那人の市長及び英仏米の官憲を招致した。

待つ間もなく人々はやって来た。》


                              
《 人々は事件の検証を行った。

一支那兵が虐殺されて、百歩以上の距離の所に横ってゐた。

然   (しか)   し、その実地検証は、何等の異議も挿   (さしはさ)   まれることなく、

次のやうな事実を確認した。》



《 即ち、この男は可愛さうにその同僚によって自動拳銃のために、

背後から、射撃されたのであって、

その後、その日本人暗殺に対して争闘のやうな色彩を与へる位置に

曳   (ひ)   いて行かれたのであった。》



支那兵は前方の大山中尉によってではなく、 「背後」   から

(即ち味方から)   撃たれていたというのである。

その事実を、検証者全員が異議なく   「確認」   したのであった。

それは日本側の記録とも一致する。



こうして、大山中尉が支那兵を撃ったから、支那兵の方でも止むなく反撃したのだ

という支那側の主張は崩れ去った。〉


つづく

3月13日、ドイツ、オーストリアを併合

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/23 18:30 投稿番号: [1537 / 2250]
ドイツは国民投票の動きを封じるため、

3月11日に事実上の最後通告を発し、

翌日3月12日午前8時、急ぎオーストリアへ軍事侵攻した。

オーストリアは抵抗せず、無血のうちに成功した。


シュシニクは亡命し、代わりに首相となった親独派の内相ザイス=インクヴァルトは、

この軍事進駐を要請の形で容認した。

1938年3月13日に、

「ドイツ帝国とオーストリア共和国の再統合に関す法律」   の署名により、

正式にオーストリアはドイツによって併合された。



井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
305p


《 ヒットラーの活動は逐年目ざましい進展を示し、

この年二月始め頃から対墺交渉を開始して、三月十三日には独墺合併を宣言した。

ソ連外相リトヴィノフは、すかさずナチの侵略阻止のため列国会議を提案したが、

英国は平和維持の施策において意見を異にし、

これを拒否し、他の列国も同調せず、この提案は不発に終った。》



注    墺とはオーストリアのこと。

8月9日 大山中尉虐殺事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/22 18:47 投稿番号: [1536 / 2250]
揚子江上流から引き揚げ者が上海に到着したその日に大山中尉虐殺事件が発生しました。

この日は和平会談が設定されていた日でもあります。



児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
66〜68p


《 その日、上海で、上海陸戦隊第一中隊長大山勇夫中尉と一等水兵斎藤與蔵が

殺害される事件が発生した。

大山中尉は、斎藤一水が運転する乗用車にのって、

虹橋飛行場南東隅の西門の北約百メートルの碑坊路を通行中、

上海市保安総団の一部に襲撃され、二人とも殺されたのである。


翌日   有島軍医少佐と中国側の法医学者孫達方が作成した屍体検案書には

次のように記録されている。



「一、死亡者ノ氏名    大山勇夫

  一、死亡ノ原因     他殺

   ( 頭蓋粉砕骨折、左前胸部刺殺傷、左前胸部射傷、右腰部射傷、

   左腰部盲貫銃創、左腹壁ニ鉛弾ヲ蔵ス )   以上各傷。

  一、死後経過時間    九時間」



「一、死亡者ノ氏名    斎藤與蔵

  一、死亡ノ原因     他殺

   ( 顔面挫傷、右頭頂部複雑骨折、後頭部貫通射傷、肋骨骨折 )

  一、死後経過時間    十時間」



大山中尉は拳銃をもたず、斎藤一水は肩にかけるホルスターにいれていたが、

発砲のひまもなく射殺されたものとみられた。

二人の死体には、検案書に記載されたもの以外にも傷があり、

大山中尉の場合は、腰部の盲管銃創をうけて車外に倒れたところを、

銃剣で胸を刺し、大刀で頭部を斬り割ったらしい。

「脳漿は全部出てしまい、心臓部にこぶし大の穴があいていた」

と、有馬軍医少佐は、記者会見で語っている。



斎藤一水の頭部貫通銃創は、即死をもたらしたとみられ、

したがって、顔面、頭部の挫傷と骨折は、死体をひきずりだし

銃床をたたきつけたものと、推定された。



「通州事件」   にひきつづいての惨殺事件である。日本国民は、文字どおりに憤激した。

報告をうけた軍令部は、しかし、事態を局地に解決すべく、

責任者の陳謝と処刑、将来の保障その他を中国側に要求することにした。》



* 「心臓部にこぶし大の穴があいていた」   とありますが、

   これは、心臓をとって食べたという事かも知れません。


   義和団事件のとき、書記官の杉山彬は董福祥甘軍に捕まり

   四肢を断ち、その身体を割くという残虐な殺され方をされています。


   張徳成は、群衆に対して

  「かれ   (杉山書記官)   の鼻、耳、口、指を切り落し、身体をめった切りにし、

   背の皮をはいで腰帯にし、その心臓をくりぬいた。・・・

   まだあたたかく動いている日本人の心臓を前方に放りなげた。・・・

   われわれは敵の心臓を切りきざんで食ってしまった。」


   と威張って言いました。

  「心臓部にこぶし大の穴」   なら、多分、そういうことになるでしょう。



つづく

3月12日 ユダヤ人難民ハルピンへ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/22 18:34 投稿番号: [1535 / 2250]
樋口は   「人道上の問題」   としてユダヤ難民の受け入れを決め

満州鉄道総裁の松岡洋右に特別列車の要請をし、

現場では樋口の部下である安江仙弘が奔走した。



ラビ・M・トケイヤー著   『ユダヤ製国家日本』   加瀬英明訳
42p


《 樋口は東條の同意を得て、満州国外交部(外務省)と折衝したうえで、

ユダヤ人難民を入境させる措置をとった。

この結果、満鉄が何本もの救援列車を、満州里駅まで派遣して、

国境を歩いて渡った難民を収容した。》



3月12日、ハルビン駅にユダヤの人々が到着。

ユダヤ難民たちは地元の商工クラブや学校へと収容され、

そこで炊き出しを受けた。



M・トケイヤー著   『ユダヤ製国家日本』   加瀬英明訳
46p


《 オトポールに集結したユダヤ人難民の大多数が、ドイツ旅券を持っていた。

旅券には赤い字で大きく、ユダヤ人の 〝J〟 を示すゴム印が、押されていた。

ドイツ政府はユダヤ人は子供にいたるまで、衣服にユダヤの象徴である、

黄色の 〝ダビデの星〟 の縫い取りをつけることを、義務づけていた。

難民たちはドイツから出国した時に、

この屈辱的な縫い取りをいっせいにはぎ取って、捨てていた。》
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