3月 樋口季一郎ユダヤ人救出に動く
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/18 15:16 投稿番号: [1527 / 2250]
1938年
(昭和13年)
3月8日、ハルビン特務機関長であった樋口季一郎のところに、
満洲里駅対岸に位置するソ連領オトポール駅に、ユダヤ人難民が姿を現したという、
報告が入った。
ラビ・M・トケイヤー著 『ユダヤ製国家日本』 加瀬英明訳
39p
《 満州にあったユダヤ人居留民組織であった、極東ハルビン・ユダヤ人協会の
幹部たちが、ハルビンにあった関東軍の特務機関の機関長であった樋口季一郎
少将 (当時) と会って、オトポールのユダヤ難民を救うように、懇請した。
当時、ハルビン特務機関には将校や、下士官を始め一千人近い機関員がいた。
満州は日本の国防の第一線だった。》
40〜42p
《 日本人の大多数が、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を、快く思っていなかった。
満鉄調査部が 『猶太 (ユダヤ) 問題時事報』 を定期的に発行して、
関係者に配布していたが、記事は一貫して、ユダヤ人に同情的なものだった。
一例をあげれば、 「独逸国民六千五百万ノ 一割ニモ満タヌ 在独逸猶太人
六十五万人ガ、優秀民族トシテ内外共ニ許ス 独逸民族ヲ、
圧倒デキル筈ガナイデハナイカ」 という、鋭い批判が行われている。
このように書いた満鉄の社員は、ナチスを見事に嘲 (あざけ) っていた。
ドイツにおけるユダヤ人の人口は、百分の一にすぎなかった。
樋口は一九三七 (昭和十二) 年八月に、ハルビン特務機関長に任命されると、
満州に住むユダヤ人を助けて、翌年一月にハルビンの商工クラブで
第一回極東ユダヤ人大会を開かせた。
この大会には、満州だけではなく、香港や天津、上海などの中国大陸の各地や、
日本からも、ユダヤ人の代表が参集した。 安江大佐は樋口と陸軍士官学校の
同期生だったが、陸軍きってのユダヤ問題専門家だった。
安江は樋口を機関長とする特務機関にあって、樋口の同志として、ユダヤ人を援けた。
樋口はこの極東ユダヤ人大会に来賓として出席して祝辞を述べ、
「ユダヤ民族の祖国を建設しようとする熱意を、よく理解することができる」
といって、盛んな拍手を浴びた。
今日でも残っている写真を見ると、演壇に日満両国の国旗が飾られ、
背広の私服を着た樋口がユダヤ人指導者たちと並んでいる。
満州国を事実上、支配していた関東軍は、ユダヤ人難民の入境を拒むこともできた。
しかし、樋口はオトポールのユダヤ人難民を救う、決断を行った。
そして、樋口は軍人として当然のことだったが、
新京 (現在の長春) に司令部を置いていた関東軍の参謀長だった東條英機中将に、
ユダヤ人難民の入国を許可するように求めた。
日本軍ではこのような案件は、軍司令官ではなく、参謀長が決裁した。
樋口は東條の同意を得て、満州国外交部(外務省)と折衝したうえで、
ユダヤ人難民を入境させる措置をとった。》
* 別の本やネットでは、樋口が独断でユダヤ人救出に動いた、
ともありますが、東條英機が承認したのは事実ですから、
先に許可を得たか、事後承認かは、問わない事にします。
満洲里駅対岸に位置するソ連領オトポール駅に、ユダヤ人難民が姿を現したという、
報告が入った。
ラビ・M・トケイヤー著 『ユダヤ製国家日本』 加瀬英明訳
39p
《 満州にあったユダヤ人居留民組織であった、極東ハルビン・ユダヤ人協会の
幹部たちが、ハルビンにあった関東軍の特務機関の機関長であった樋口季一郎
少将 (当時) と会って、オトポールのユダヤ難民を救うように、懇請した。
当時、ハルビン特務機関には将校や、下士官を始め一千人近い機関員がいた。
満州は日本の国防の第一線だった。》
40〜42p
《 日本人の大多数が、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を、快く思っていなかった。
満鉄調査部が 『猶太 (ユダヤ) 問題時事報』 を定期的に発行して、
関係者に配布していたが、記事は一貫して、ユダヤ人に同情的なものだった。
一例をあげれば、 「独逸国民六千五百万ノ 一割ニモ満タヌ 在独逸猶太人
六十五万人ガ、優秀民族トシテ内外共ニ許ス 独逸民族ヲ、
圧倒デキル筈ガナイデハナイカ」 という、鋭い批判が行われている。
このように書いた満鉄の社員は、ナチスを見事に嘲 (あざけ) っていた。
ドイツにおけるユダヤ人の人口は、百分の一にすぎなかった。
樋口は一九三七 (昭和十二) 年八月に、ハルビン特務機関長に任命されると、
満州に住むユダヤ人を助けて、翌年一月にハルビンの商工クラブで
第一回極東ユダヤ人大会を開かせた。
この大会には、満州だけではなく、香港や天津、上海などの中国大陸の各地や、
日本からも、ユダヤ人の代表が参集した。 安江大佐は樋口と陸軍士官学校の
同期生だったが、陸軍きってのユダヤ問題専門家だった。
安江は樋口を機関長とする特務機関にあって、樋口の同志として、ユダヤ人を援けた。
樋口はこの極東ユダヤ人大会に来賓として出席して祝辞を述べ、
「ユダヤ民族の祖国を建設しようとする熱意を、よく理解することができる」
といって、盛んな拍手を浴びた。
今日でも残っている写真を見ると、演壇に日満両国の国旗が飾られ、
背広の私服を着た樋口がユダヤ人指導者たちと並んでいる。
満州国を事実上、支配していた関東軍は、ユダヤ人難民の入境を拒むこともできた。
しかし、樋口はオトポールのユダヤ人難民を救う、決断を行った。
そして、樋口は軍人として当然のことだったが、
新京 (現在の長春) に司令部を置いていた関東軍の参謀長だった東條英機中将に、
ユダヤ人難民の入国を許可するように求めた。
日本軍ではこのような案件は、軍司令官ではなく、参謀長が決裁した。
樋口は東條の同意を得て、満州国外交部(外務省)と折衝したうえで、
ユダヤ人難民を入境させる措置をとった。》
* 別の本やネットでは、樋口が独断でユダヤ人救出に動いた、
ともありますが、東條英機が承認したのは事実ですから、
先に許可を得たか、事後承認かは、問わない事にします。
これは メッセージ 1513 (kir**gotowa**me さん)への返信です.